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■朝鮮の王子を捕らえ、秀吉軍に献上した朝鮮民衆…秀吉軍は朝鮮民衆から大歓迎された■
明への道案内を拒否した朝鮮に対し、英雄豊臣秀吉公は朝鮮征伐の為に出兵、行く先々で
朝鮮民衆は日本側に寝返り、土地の有力な両班や地方長官をなぶり殺しにし、朝鮮の王子二人を
捕らえて日本軍に引き渡した。日本軍行くところ朝鮮民衆は大歓迎した。
しかし、その朝鮮の王子を捕らえた 加藤清正は 二人の王子を厚く待遇し、二人の王子に
激しい憎悪を向ける、朝鮮民衆からこれらの王子を保護し、無事 朝鮮王へ送り届けた。
▲これは、そのときの二人の王子から 加藤清正 に送られた感謝の手紙です。
朝鮮民衆に捕らえられた後、加藤清正に保護礼遇され無事帰国した二人の朝鮮王子から加藤清正
に送られた感謝状
◆「壬辰元年、七月二十四日に捕らられてから礼遇され、厚い保護を受け、衣服糧食を与えられ、
至れり尽せりの待遇を受けた。このたび関白殿下に上申して釜石から京城に送り還された。
その慈悲は仏のごとくである。もし一行の者がこの恩を忘れ、後日、日本及び清正公に対し、
僅かでも背く者ようなことがあったら、人情を弁えぬ者であって、天智の神々もこれを知っている
であろう」◆
紀州徳川家蔵
■だれも朝鮮に帰りたがらない朝鮮人捕虜■
●平成14年10月31日木曜日朝日新聞文芸時評…「歴史と他者」関川夏央より抜粋
荒山徹「故郷忘じたく候」(オール読物11月号)
元和三(一六一七)年朝鮮使節が十年ぶりに訪日した。目的のひとつは秀吉による朝鮮の役に
おける朝鮮被虜の「刷還」、つまり取り戻しであった。
しかし問題が生じた。★誰も故国に帰りたがらないのである。前回慶長一二年の使節もそれを
求めたが、帰国者は千二百人「九牛の一毛を抜くが如し」であった。
帰国を厭うのは、宋学的空論を重ねて相争う両班を頂点とした、徹底した身分差別を喜ばないから
である。陶工や伎生など技芸の民のみならず、常民もみな日本にとどまりたがった。
清正没して衰運する肥後加藤家は、尊大な使節の意を迎えるべく領内定住朝鮮民衆の「説得」を
行ってようやく五十人をそろえた。