12/11/13 12:57:49.70
テスト
594:165
12/11/13 22:29:36.59
トリップか つけてみるかな
595:赤城本命
12/11/14 13:33:01.22 Jwnx76B1
ひつじさん
583の写真、ありがとうございました。はじめて見ました。
また、お願いします。
596:名無しの愉しみ
12/11/14 18:09:23.77
165も支離滅裂だね。
597:名無しの愉しみ
12/11/14 19:28:11.81
>>596
日向かw
598:ひつじ
12/11/15 20:03:55.66
ヤフーで2chに写真upって検索したらココでてた。なんかダウンロード
ってするのは確かに怖いですね。まあ、2回目以後はアドレスが連続してる
ので幾分いいけど。で、ボツのupします。
畑の中。近くに家康黄金像出土もあったけど、写真がない、
URLリンク(ux.getuploader.com)
村人が炊き出しで武士にわたしたところで横みたら馬頭観音があった
URLリンク(ux.getuploader.com)
馬頭観音
URLリンク(ux.getuploader.com)
599:165
12/11/15 21:35:42.62
5年ほど前の書き込みを読んでいました。私も進歩していないなーって思いましたねw
それと、5年ほど前から話がループしていました。
過疎化がすすんでるーーー!って悲痛な書き込みを懐かしく思いました。
水野家の詐欺たっだのか否かが、焦点だったんですね。
今読み直してみると、この焦点ですが、水野さん以外にも盛られている気がしました。
例えば、埋蔵を画策したといわれる柴田監物(幕府甲府城代)これは間違いです。
柴田監物は甲府勤番組頭であって城代じゃありません。当時の城代は大河内右京亮輝照 上州高崎城主8万2千石です。
地位は、城代>甲府勤番支配>甲府勤番組頭>勤番士 まぁ今でいう支店課長クラスですね。
板垣退助日誌では、代官となっています。慶応3年の代官は中山誠一郎ですね。
八門遁甲を仕掛けたといわれる 林鶴梁(幕府代官・学者)
遠州中泉の代官でしたが、ペリー来航の1849年(嘉永2年)に強弁に鎖港論を唱え、後日クビになってます。
井伊直弼は開国論でしたから、真逆の事を言ってたんですね。わざとかしら?
1858年(安政5年)6月に日米修好通商条約を集結しています。
定説では「金の国外流失を心配した井伊直弼は」となっていますが、1860年(安政7年)12月桜田門外の変で露と消えました。
このわずか2年半で悔い改めたのでしょうか?
600:165
12/11/15 22:22:11.03
赤城に埋蔵金が埋められたとしているのは、多くの書物で1868年(慶応4年)1月~4月になっています。
まぁ埋蔵を画策したのが井伊直助で、林鶴梁、小栗上野介らであり、柴田監物らは実行部隊みたいなもんですかね?
そのほかの参加者として
林 国太郎(林鶴梁の長男)、羽倉鋼三郎(林鶴梁の次男)、雲井龍雄(元米沢藩士)、屋代昇平(元前橋藩士)
大忍坊温海(だいしんぼううんかい、僧侶)、桜正坊(おうしんぼう、僧侶) ・・・ふむふむ
1868年(慶応4年)8月 埋蔵金のもう一つの候補地で有名な片品村で
屋代由平、羽倉鋼三郎、桜正坊隆邦が新政府軍と戦って戦死しています。南無~ お墓もありますよ~
おや?桜正坊隆邦?
桜正坊って坊主が埋蔵金に加担していますよね?もしかして、戦死した桜正坊隆邦=桜正坊?
もしかして「坊」って付くから坊主かと思ったのかよおいwww 坊主じゃなくて武士じゃないか!もうちょっと調べてから本を書けやwww
まてまて、僧兵かも知れんな。。あせるな
この時の戦いのときに雲井龍雄もいました。幸いにも難を逃れて後に集議院(衆議院とは違うよ)となっています。
その雲井龍雄も政府転覆の疑いをかけられ、1871年(明治4年)小伝馬町で斬首されました。
そのとき一緒に斬首されたメンバーが、原一鉄、三木勝、大忍坊、梁瀬勝吉、浄月坊です。
おや?大忍坊? 大忍坊温海のことかな?
あれれ?
大忍坊温海、桜正坊って、埋蔵金を埋めた時に呪術で埋蔵金を守るってことで、生きながら埋められたのでは?話が違うじゃないか
川口素生さんの著書「徳川埋蔵金検証辞典」には、
「大忍坊温海、桜正坊らが呪術で御用金を津久田原に封じつつ息絶えた、などの話もフィクションである可能性が高い。」と、書いてある。
んー川口素生さんももう少し調べてくれればよかったのに・・・一緒に埋まってないじゃん。
601:165
12/11/15 23:10:17.09
さて、一人だけ行方不明がいます。林 国太郎(林鶴梁の長男)です。
弟の羽倉鋼三郎は、1840年(天保11年)~1868年(慶応4年)8月18日没です。
1859年(安政5年)3月、兄、国太郎と共に林大学頭の塾に入門する。とありました。鋼三郎19歳の時ですね。
兄というのだから、私の兄弟も5歳の年の差があるので、強引に5歳差としましょう。1835年(天保6年)生まれになります。
1882年(明治16年)に水野家初代 水野智義が発掘に着手します。
それから何年後かわかりませんが、謎の武士、児玉拡平(惣兵衛)と出会っています。
1851年(嘉永4年)~1926年(大正15年)に初代 水野智義が死去しています。
そうすると、林 国太郎を1835年(天保6年)生まれで、智義が1851年(嘉永4年)なので、年の差14歳。
智義31歳の時に赤城に入りっているときには、林国太郎は45歳。
智義は75歳で死んでいるので、44年掘ってたわけ?
発掘30年目で出会ったとして、智義61歳、林国太郎75歳 謎の老人と呼んでもいいのかな?
林国太郎も剣豪と言われていますが、以前にもご紹介した、赤城深山にいた剣豪 須田平八らとバッティングしてしまうため、
道教は考えられず、これまた空想の世界でしょうか。
602:165
12/11/15 23:41:13.50
子供の面倒を見ながら合間合間で書いているので、書き込み遅くなってます。
埋蔵金に関係したといわれている人たちは、井伊直助・柴田監物を除き当時全員群馬県にいたことになります。
偶然の一致なのでしょうか?
それとも、このことを知っていた人が、事実とは違うが埋蔵金の関係者として名前を出したのでしょうか?
それとも本当に関係していたのでしょうか?
埋蔵金と坊主が一緒に埋まっているということはなくなりましたが、すべてウソのお話だったとは言い切れません。
新政府軍に追いやられた幕府軍は、新選組も含めて会津に向かいました。
柴田監物は甲府城を新政府軍に開け渡していますが、徹底抗戦派でした。(後に捕縛 処刑)
※柴田監物は甲府勤番組頭なので、城代とは違い城を開け渡す権限がありません。
甲府城を板垣退助に包囲されたとき、籠城していた徹底抗戦派だった柴田監物ですら降参したということです。←テストに出しますよ。
徹底抗戦だった柴田監物が、甲府が落ちた後の次の戦線である沼田(交通の要所と同時に会津に行く道)周辺に軍費を隠匿した可能性。
会津からの援軍のための軍費を隠匿した可能性はあります。
みなさんゲームのやりすぎで、攻められたら籠城すると思っているでしょ? 現代では間違いですよ。
籠城を選択するときは、援軍が来る可能性があるときだけです。
城の外から来る援軍に合わせて城から撃って出て、相手を挟み撃ちにできるときにしか籠城しません。
援軍が望めないときは、すぐに降伏するか、殿様が腹を切って家臣を助けるかだったのです。むしろ戦国時代のルールでした。
織田信長が諸侯に恐れられたのは、このルールを無視して皆殺しをしたためですね。 いまや定説です。
603:165
12/11/16 00:18:48.03
籠城なんかして無駄な兵力を失うよりは、やばくなったらとっとと城や砦を引き払って、次の城の兵力を増強する方がいいのです。
柴田監物が籠城したということは、籠城時には援軍を望めたということです。
もしくは、籠城をやめて「逃げる先(会津)」があれば、中継地点に軍費を置いておいたかもしれません。
新政府軍の宇都宮侵攻が早く会津もやばくなり、会津から援軍が望めなくなった、撤退戦ができなくなったなどの理由により無血開城に応じたのではないでしょうか?
と、考えると、徳川埋蔵金とは、400万両ではなく、柴田監物が関与していたといわれる甲府からの24万両なのではないでしょうか?
戊辰戦争での鳥羽伏見の戦いが1868年(慶応4年)1月3日ですから、開戦と同時に上に書いた理由から後方へ軍費を移送した可能性は高いです。
ほらほら、徳川埋蔵金が存在するっぽく思えるでしょ?
そうそうルールを無視した戦をした人がもう一人います。牛若丸と飛ばれた源義経です。
源義経といえば、百戦百勝のイメージがありますよね。
そりゃそうですよ。ルールを無視してるんですから勝てますよ。
平安時代の戦いは、「やぁやぁ我こそわ!」で、ほぼ一騎打ちがルールで、負けた方はやれやれ・・・と引き上げていったそうです。
その一騎打ちをしなくて、ルールを無視して大勢で攻めちゃったのが牛若丸こと源義経。
おまけに当時は無かった夜間攻撃をしたのも源義経。
平家は高貴なのでルール道りです。
おいおいルールと違うじゃん。 うちらそんなやり方しらないよ!となり、総崩れで壇ノ浦で終わりました。
そりゃーいくら勝っても、ルールを無視した戦い方をした弟をそのままにしておけば、汚い手を使って勝った源氏ってなります。
おにーちゃんの源頼朝が政権を握るには邪魔になりますね。なので、対立するようになり、難癖つけて義経を討伐します。享年31歳
源平合戦が始まったときは25歳ごろ そりゃーやんちゃ坊主ですわww
勝てばいいんだろ?とばかりにルールを無視したのもうなづけますね。
604:165
12/11/16 00:39:09.35
まぁなんだかんだで徳川埋蔵金の話ですが、いかがだったでしょうか?
まさに事実は小説より奇なりですね。
どこに埋められてるの?もうわかってるんでしょ?と言われそうですが、、本当にまったくわかりません。
言えるのは「あるかもしれない」
さて、おやすみ
605:名無しの愉しみ
12/11/16 20:38:12.72
日向さ~ん
出てきておくれよ~w
606:983
12/11/18 14:29:35.64
なんだ、TV番組と随分違う内容ですねぇ。
当時はVHSに毎週撮ってた自分には衝撃です。
607:165
12/11/18 23:26:36.73
赤城に関しても、八重野氏を初めとする著名な人の本も畠山氏の後追いになっています。
当時、今のように情報が発達していない時代でしたので、調べきれなかったかもしれません。
あえて書かなかった可能性もあるのと、水野氏、畠山氏の否定から入っているので、詳細よりも否定だけで終わらせています。
TV番組(ユーチューブ)を見た方でもわかる通り「土木番組」でしたので、埋蔵金の有無よりは「穴を掘って探す過程」だけでよかったかもしれません。
また、お茶の間の素人を引き付けるには、簡単な説明の方が受け入れられやすかったものと思います。
608:165
12/11/19 00:27:31.56
じゃどこにある!?
全くわからないが、「甲府からの分」のルートとして
甲府~佐久~軽井沢~長野原~中之条~渋川~沼田を通らず片品~日光だな。
当時はこれしかないと思う。
よく徳川埋蔵金で出てくる、山梨県南巨摩郡富士川町舂米(舂米)、群馬県太田市世良田町(世良田東照宮)は、甲府とは別物だと思う。
別物というのは新政府軍の進行が速く、それ以上進めなかったので隠したなどの者だと思う。だからと言って有るとは限らない。
じゃ、埋蔵金に関連した人物である屋代由平、羽倉鋼三郎、桜正坊隆邦が新政府軍と戦って戦死している片品村かといえばわからない。
たぶん水野氏は、この甲府からの分を追っていたと思う。
もちろん、中島蔵人が「甲府からの分」と言っているので、間違いではないだろう。
609:ひつじ
12/11/19 16:06:20.82
>>587
会社の方の商品は送料無料は、もちろんokですよ。
カキコしてない人とか名無しさんとかどうするかな?
会社で発行した本はすべて電子書籍化してます。
内容ならあわてて高い本買わないでも。手元に置きたい人は
少し待ってもらえば刷りますよ。時期未定ですが。
さて、徳川の埋蔵金難しいですね。
世良田の○石の下にはないそうです。
掘った人の話では。
610:165
12/11/19 20:30:01.04
掘った人の話ではってwwwwwwwww まぁあえて突っ込みはこのぐらいでww
幕末当時のあのあたりの話もちょっとしましょう。
沼田藩は早くから新政府側でした。譜代なのにひどいよね。
前橋藩は親藩なので佐幕でしたが、新政府側に付きました。
高崎藩は慶応4年3月に新政府側についています。ここも譜代。
甲州からの分があったとすれば、高崎・前橋の間をどうにか通れ高と思います。
ちなみに伊勢崎藩は新政府側だったので、通り抜けは難しかったと思います。
江戸からの軍用金を日光か会津に運ぶと仮定します。
宇都宮藩・館林藩は譜代ですが新政府側なんで、通り抜けできません。
通り抜けできるのは、江戸~岩槻藩(川越藩もOK)~忍藩(熊谷)~高崎藩~前橋藩
川越街道か中山道を利用すれば、赤城の麓まで行けます。
しかし、中山道の場合は、伊勢崎藩が新政府側なので伊勢崎の手前でストップすることになります。そこには世良田があります。
またしかし、高崎藩の左には、吉井藩・小幡藩・安中藩があり、新政府側なので藩内を避けるとそこには倉賀野があります。
倉賀野から伊勢崎藩を避け、赤城に行くことになります。
611:165
12/11/19 20:58:08.83
伊勢崎でストップした中山道は、高崎藩内に入ってきます。
高崎から中山道を利用したとしても、沼田藩内を通るわけにもいきません。
沼田藩内を避けるためには、赤城山に深く分け入り行くことになります。
沼田街道は難しいでしょうから、かなり山の上ですね。七曲り七坂あたりを上がっていったのかもしれません。
で、どこでどうかはわかりませんが、沼田藩内を通れないなら水野氏家のあたりでストップか
現ロマンチック街道をいけるのなら、そこには片品村があります。
上で紹介した雲井龍雄らが、片品村まで行けたということは通れたかと思います。
大忍坊温海や桜正坊隆邦は日光の僧侶なので、道に精通していたのかもしれません。
よく埋蔵金で登場する世良田や倉賀野は、当てずっぽうではない気がします。
では、甲府からの分について
高崎藩の左にあった、吉井藩・小幡藩・安中藩は新政府側と書きました。
甲府から~佐久、安中藩内を避け北上し、長野原~沼田藩内を避け、榛名山の北面を通り渋川まで
よく猿ヶ京とか言いますが、沼田藩内なのでまずありえないと思います。
また、小栗上野介の権田村へは大戸の関所もあるし、これもあり得ないとおもいます。
ここでよく、榛名神社の説もありますが、榛名山の南面なのでこれもあり得ないかと思います。(八重野氏の話だと、聞いたこともないと書かれている)
まぁいずれにせよ。水野さんの家あたりを「通らないと」日光~会津には行けなかったものと思えます。
かといって、あのあたりにあるとは限りません。
612:165
12/11/19 21:20:46.85
日光から宇都宮藩内を避け、喜連川藩は慶応4年5月に新政府側についていますので、一発勝負で会津まで行けたかもしれませんね。
まぁどこまで行けたのか、どこであきらめたのかは謎です。
埋蔵金が運ばれたかもしれないといわれている土地も玉石混合ですが、まんざらでもありません。
ちなみに高崎藩は新政府軍に1万両献金していますからね。さすが8万2千石
誰ですか?幕末の諸藩は貧乏だって言ったのは?
甲府は15万石なんで、単純に倍の2万両は払えたのかな?
そもそも直轄地なのと、武田信玄よりの蓄えや江戸の要(かなめ)の意味合いからも結構もっていたのかもね。
ほらほらー 埋蔵金があるんじゃないかと思えてきたでしょ?
どこを掘るかはあなた次第ですが、世良田の○石の下を掘った人が無いって言っていたのを思い出しましたので、そこには無いと思いますよw
613:165
12/11/23 11:52:36.74
寒くなりましたね。
資料を掘る季節です。図書館に行くもよし、博物館にいくもよし
来年に向けてがんばりましょう。