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私学校は当初自由で大らかな空気であったと言われる。
生徒らに、東京遊学を認めることはもちろん毎年優秀な者にフランス留学もさせている。
福沢諭吉の著書なども副読本としていたようだ。
しかし西郷はそれで満足してしまったのか、>>628で書かれているとおり、何もしなくなる。
やがて私学校は強制加入となり、拒否する者は制裁されるまでにいたった。
明治8年には、私学校は生徒の県外遊学を禁止する。私学校のタリバン化である。
そのため、加治木分校の生徒70名が抗議の退学届を出す騒ぎが生じた。
そこで裁断を求められた西郷は「勝手に退学するなどもってのほか」と怒ったという。
しかも第七分校で同様の事件が起きると、西郷は今度は
「私学校の幹部が外遊を不可と言うはずがない」などとトンチンカンなことを言い、
人望を得るためか何か知らないが、反抗生徒らのために新校舎を作ってやったりしている。