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≪ 西郷軍団 メンバー紹介 ≫ ファイル2
篠原国幹 (しのはらくにもと 薩摩藩士出身 1837~1877年 西南戦争 吉次越で死亡)
篠原は、桐野利秋と来歴も格(陸軍少将)も同等ですが、
桐野に比べるとかなり地味ですね。
無口な人だったそうなので、そのせいでしょうか。
明治6年の陸軍大演習で、篠原の見事な指揮ぶりを見た明治天皇が、
「篠原に見習うように」と、その演習地を「習志野(ならしの)」と
名付けたという説もあるが、説があるだけで史料などは一切無い。
明治10年2月、西南戦争の大評議では、挙兵は無謀ではないかとの慎重論も多く出たのだが、
篠原の次の言葉で全軍出兵が強行採決されたという。
それは、「議を言うな」という薩摩特有の同調圧力であった。
2月7日、西郷隆盛が大山綱良鹿児島県県令に
「自分は大将の職権で、軍隊を率いて行くことができる。鎮台兵も服属させる」
と職権と地位を混同したことを言って、大山を驚かせた。
大山が反論しようとすると、西郷に付き添っていた篠原が、
「鎮台が刃向ったら踏み潰すだけだ」と言ったので、口をつぐんだという。