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■西郷隆盛に関する典型的な勘違い例■その5
< 西郷さんは、西南戦争が勝ち目の無い戦であることをはじめから分かっていた > 後篇
かつて西郷の同僚であった市来四郎は、西郷が出陣する4日前の、
1877年2月11日のこととして、日記に次のように記している。
「 明治10年2月11日、晴れ後雨、寒冷。
西郷が言うには、川村(純義、海軍大輔)は十に四、五はこの西郷に助力するはずだ
これを一人取り込めば海軍は全てわしのものになる。
熊本には樺山資紀(鎮台参謀長)がいる。熊本県境に我が軍が進めば、一、二大隊の
鎮台兵はわしに帰順する 」
(鹿児島県維新史料編さん所編『鹿児島県史料・西南戦争』)
つまり当初西郷は負けるなどとは思っておらず、それどころか戦わずして勝てると
自信すら持っていたのです。
西郷軍のあまりに無計画な全軍出兵も、戦わずして勝てるという前提があっての
ものであれば納得はいきます。
ところが、熊本に進出した西郷を待っていたのは、あまりにも厳しい現実でした。
政府軍のなかから、西郷のもとに駆けつけた将は1人もいなかったのです。
さらに、桐野利秋がバカにしていた百姓兵が頑強に抵抗し、西郷軍の損耗は増すばかりでした。
そんな中で大山県令に送ったのが、先に紹介した、辻褄の合わない不思議な手紙でした。
これは、歯車が大きく狂いだした西郷の、現実逃避だったのでしょうか。
西郷先生と桐野どんは仲たがいしていると、薩軍内で噂が立ったのもこの頃だったそうです。