12/05/05 07:02:18.33 eEvQww0L0
>>149
ああ、確かに、「戦前の米騒動以降、」の話だったね。
朝鮮米の流入で日本の農家が打撃をこうむり、朝鮮の独立運動・暴動発生を防ぐという
政治的な目的のために犠牲にされたのは間違いない。
実際、政府レベルで朝鮮米の流入を防ぐべきかどうかで議論起きて対立が続いていた事実は>>145で
片山杜秀が書いている通りだ。他にも↓
大正一四年から昭和六年にかけ、内地の米の価格は約四〇%に暴落した。これでは農村はたまった
ものではない。農村部では、役場の吏員や学校の先生の給料が払えず、娘の身売りが続出した。
内地では価格の暴落は、朝鮮、台湾からの安価な米が無制限に入ることが原因であると言われ、
農林省では内地農民の保護のため、朝鮮、台湾からの移入制限を主張した。これに対し米の移出の
自由を求める朝鮮総督府が鋭く対立した。
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昭和初期は昭和恐慌として名高い時期である。1925年(大正14年)から1931年(昭和6年)にかけ
米の価格は3分の1に暴落した。内地では価格の暴落は、朝鮮、台湾からの安価な米が無制限に入る
ことが原因であると言われ、農林省では内地農民の保護のため、朝鮮、台湾からの移入制限を主張した。
それに対し朝鮮総督府は朝鮮農家の保護を要求し、陸軍の応援を得て、移入制限を拒否し通したのである。
これに怒った石黒忠篤農林次官は辞表を出している。
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もう一つ付け加えねばならぬことは、朝鮮米の輸入を、短期間の一時期を除き日本政府は望んでいなかった
という事実である。1918年の米騷動を契期に日本内地において米の不足が痛感され、総督府は1920年から
15年間に135万トンの増産計画にとりかかったのだが、世界大戦後の不景気により、米価は下落の一途を
たどった。日本政府は米穀法を制定して価格維持に努力したのだが、その効果は空しかった。このような
状況にもかかわらず、朝鮮で増産された米は日本内地に流入し、ことに1927年の内地朝鮮を通ずる大豊作は
米価をさらに下落させ、内地の農民の窮迫化を招き、一大政治間題にまで発展した。1931年には、米の価格
は1919年の実に40%に崩落した。このため昭和初年、朝鮮米の内地移入を制限しようとする農林省と、
これに猛反対する朝鮮総督府との間に激烈な論争がくり返されることになる。このことは昭和農政史における
著名な事件なのである。
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