【三十一谷人】福沢諭吉について(其の8)at HISTORY2
【三十一谷人】福沢諭吉について(其の8) - 暇つぶし2ch687:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 17:32:56.39 Zl+bA1My0
あと、>>672については、以下引用

また国府津での避暑から戻った九二年秋以降の書簡を虚心坦懐に読み返しても、
福沢が毎日の社説に細かく差配していた気配を感じ取ることはできない。
確かに自らが立案した社説についての指示は残されている。九二年九月から倒れた
九八年九月までの六年間に社説に言及している書簡は一九通確認でき、
そのうち一二通は石河のもとに保存されていたものである。
それらの中で扱われている社説の総数は約二五編である。
同じ期間について大正版「時事論集」には五九編、
昭和版ではそれに加えて六五六編もの社説が収録されている。
二五編にかかわっていたのだから残余の七百編近くにも関与していたであろう
というのが従来までの解釈であった。

とはいえ、もし関与があったと仮定すると、非常に奇妙なことになるのである
。石河が伝記で述べているように、『時事新報』には福沢の生涯にわたる指導があり、
社説の論調は一貫して福沢が決定していたのだとしたら、
同じ時期に発表された社説の相互に大きな矛盾が生じることはない。
そこに変化があるとしても、それは福沢が考えを改めるに応じた、
非常にゆっくりしたものになるはずである。
最初は民権の獲得を重要視していたのに、
二〇年を経てみるといつしか国権の拡大ばかりを言うようになっていた、
というような、気づかれにくい変更となろう。

ところが、現行版の「時事新報論集」における論調の変化はそのようになっていない。
石河が主導権を握った一八九二年頃から一挙に清国人・朝鮮人蔑視の傾向と
領土獲得の要求が強まる一方で、ごく稀に、
『学問のすゝめ』や『文明論之概略』の頃とほとんど同じ調子の真筆社説が
掲載されるようになっていくのである。「支那人親しむ可し」もその一つであるが、
もしも石河がその時期に至っても完全に福沢の言いなりだったとしたら、
その論旨と相対立する民族偏見論説は発表できなかったはずである。
ところが安川によれば、実際には、「支那人親しむ可し」(九八・三・二二)の後にも
「支那に対して更らに要求す可きものあり」(九八・四・二七)や「対韓の方針」(九八・四・二八)
のような恥ずべき社説が掲載されている。
これは、もうこの時期には、福沢の言うことに石河は聞く耳をもたなかった、ということを意味している。

『福沢諭吉の真実』177~178ページ

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