12/06/19 09:56:52.12 dVDllQhd0
小川原正道の『福澤諭吉の政治思想』読んだ。
第1部政治構想に含まれる、議会論(第1章)・憲法論(第2章)・天皇論(第3章)・外交論(第4章)
のできはなかなか。このまま大学の教科書として使えると思う。
第2部人間観に含まれる華士族論(第5・第6章)・宗教論(第7章)・明治政府との確執(補章)
は悪いわけではないが、『官との闘い』や、それに付随する具体的トピックで、
読み物としては面白いが、学術著作としての密度は平均水準。
全体の点数は5点満点中の4くらい。
650:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 12:15:21.55 DnNAt3H60
>>649
安川や平山の扱いはどうなっている? 3、4章あたりで。
651:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 12:43:58.89 jue5pLYt0
>>649
>第1部政治構想に含まれる、議会論(第1章)・憲法論(第2章)・天皇論(第3章)・外交論(第4章)
>のできはなかなか
目新しい福沢分析として何か書いてあった?
652:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 14:15:38.64 dVDllQhd0
>>650
安川も平山も索引には出ていない。註からは採っていないようなので、
そちらは直接見ないと。本文中では大きくは取り上げられてはいなかったと思う。
>>651
議会については、幕末期は国会論、それから県会優先論となり、明治11年ころ
また国会論(憲法草案とからめて)、そして14年政変後はやや距離をおくようになった
とのこと。なぜ優勢順位が変わったかについては、はっきりとは書いてなかった。
憲法論についての新たな見解は、政変のトラウマをより強く言っているところかな。
天皇論は「帝室論」重視で、戦前は重要視されていなかったのに、戦後にわかに重要となった
という部分が興味深い。安川に触れていないので、反論もない。
外交論についても丸山の意見にそったもので、従来の正統派政治学者の見解をなぞっている。
いや、「パワ・イズ・ライト」の側面は最初からあった、というところからは、
むしろ安川にも近いのか。ただしそれはリアリズムということで、むしろ弁護している。
全体としてよく調べてあって、結論も正統派として妥当。だから教科書向きといえるが、
刺激的というところは少ない。
653:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 16:42:07.88 jue5pLYt0
ありがとう
気になるのは尊王論がどう扱われているか、だな
URLリンク(project.lib.keio.ac.jp)
平山は尊王論執筆者を石河だと言っていたが
帝室論と尊王論の読み分けについて書いているんだろうか
実際に取り寄せて読んでみるよ
654:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 17:03:08.04 gpjN9dtv0
>>653
「尊王論」を出版した集成社というのは聞いたことの無い出版社だと思って検索したら、
同時期に「三酔人」を出したところのようだ。福沢との関係は?
655:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 17:59:26.07 dVDllQhd0
>>653
巻末に書名索引があって、『尊王論』は9箇所にでてくると分かる。で、
執筆者問題には触れていない。つまり100パーセント福沢作の立場。
ただ、立脚点の置き所が、皇室の「政治社外性」から
「神聖性」に移っていることについては、64ページに指摘がある。
よくよく調べてみると、安川については註や参考文献も含めてまったく
触れられていないのに対し、平山については「脱亜論」に言及している
第4章の註(123ページ)で、『福沢諭吉の真実』の題名が記載されている。
あとは参考文献に、それと『福沢諭吉』があげられている(270ページ)。
656:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 18:31:22.44 1YqRtqig0
URLリンク(rocketnews24.com)
657:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 19:47:26.37 rQxhtSKYO
なんだ
658: 忍法帖【Lv=26,xxxPT】
12/06/19 21:47:03.61 099w3rxB0
危機の時代のリーダーとは… 交詢社オープンフォーラム
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
「危機の時代のリーダーを育てる」をテーマにした「第4回交詢社オープンフォーラム」(産経新聞社後援)が17日、
東京都千代田区の大手町サンケイプラザで開かれ、安倍晋三元首相の基調講演やパネルディスカッションが行われた。
交詢社は明治13(1880)年に福沢諭吉が提唱し、「知識を交換し、世務を諮詢する」をスローガンに創設された日本最古の社交機関。
約500人の聴衆を前に安倍元首相は「リーダーに必要なものは責任感と判断力、情熱」と指摘し、
「リーダーは国を愛し、守るべきものは何かを自覚した者」と結んだ。
このあと、山内昌之・明治大学特任教授▽猪瀬直樹・東京都副知事▽大竹美喜・アフラック最高顧問
▽谷内正太郎・元外務事務次官の4氏がリーダー像について議論を交わした。
659:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 22:04:24.21 r6k4XLc10
>>655
読みました。
「第三章 天皇論」は、『福沢諭吉 「官」との闘い』にも、
収録されていましたね。デジャヴュかと思ってしまいました。
付録の資料「時事新報社説(福澤諭吉自筆原稿確認分)」には
5編の社説が収録されていました。
①1884年(明治17年)2月26日・27日 「仏法ノ運命如何」
②1884年(明治17年)4月1日 「不景気ニ狼狽スル勿レ」
③1892年(明治25年)6月3日 「海軍省所管」
④1893年(明治26年)8月9日 「株式市場の変動」
⑤1896年(明治29年)3月17日 「日本銀行課税」
これらは小川原さんが自ら現物を見て確認したそうです。
つまり執筆者問題は既に前提とされている訳ですね。
あと、つまらないミスですが、晩年の『福澤全集緒言』から
「学問のすすめの評」の一部が引用されていて、晩年の
文章と説明されていたようですが、「学問のすすめの評」自体は
明治7年11月7日付けで新聞に掲載されたものなので、晩年の
文章とは言えないですね。
660:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/20 00:09:38.72 A5LtdqqHO
書き込みの質が高いねここは
661:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/20 07:15:59.43 dUK9gn9B0
>>659
この5編の全集の収録状況は、どうなの?
662:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/20 08:48:48.37 lXeZjrHu0
小川原本を読んだ住人はもう一人いるんじゃ? >>515
何か意見はある?
663:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/20 16:02:52.21 vGTMME4X0
>>659
小川原本で無署名社説の扱いがどうなっているのかと気になって、調べてみた。
本文中には福沢が関与していない社説があるとはかかれていない。
注意深く見てみると、第4章外交論の註45(126ページ)に、
「以下、本章で扱う『時事新報』社説に対する福澤の関与について概観しておこう。」
とあって、石河の例の言明が引用され、さらに関与の証拠として明治20年から
26年までの手紙が紹介されている。
草稿残存社説については付記があるが、ないものも使用されていて、
それはどうなのかはっきりしないように感じられる。
巻末の「書名・論考名」をざっと見てみたが、
安川が問題視している日清戦争期以降の社説はほとんど非言及だ。
となると、安川からは、「逃げた」と批判されるのは避けられない。
664:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/20 18:57:06.72 ot8TfODH0
>>663
GJ
665:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/21 05:56:51.26 Zze+XL810
>>646
井田メソッドを信頼できないとしていた杉田聡の証明が、じつは信頼できることの証明になっていたとはね
666:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/21 15:22:25.89 PpgVodHK0
>>663
それを読む限りでは都倉氏と同じスタンスの気がする
福沢が時事新報の論調に多かれ少なかれ影響したのだから
福沢存命時の論説は一応福沢が目をとしたものとして論じているんじゃないかな
667:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/21 15:44:14.34 KZezHd5Q0
>>666
そうだとすると、都倉氏や小川原氏は、安川氏が批判する諸社説について、
どう弁解するんだろう? 台湾の蜂起民を殲滅せよ、と福沢が主張したことを認める?
668:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 06:09:41.76 RW7s9G+TO
そうするしかないだろうな
669:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 07:59:32.44 Nzbjdi5P0
>>666
でも、目を通した、という証言は石河のものだけしかないわけでしょう
670:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 11:52:22.51 uzolyCN80
>>669
それって本当?
福沢が話したことは一度もないのかな
671:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 13:02:32.77 Nzbjdi5P0
>>670
積極的に新聞社説に関わっている、という内容の手紙は
明治26年(1893)8月24日付日原昌造宛書簡が最後(小川原本127ページ)。
つまり日清戦争以後の紙面を統括していた福沢側の証拠は、ない!
672:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 13:22:15.92 HjzdgHsy0
>積極的に新聞社説に関わっている、という内容の手紙は
じゃあ消極的ながら関与していた、という手紙はどれくらいあるんだろうか
673:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 22:00:33.51 RW7s9G+TO
たしか福沢の真実に書いてあったはず
674:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 23:48:55.60 cD4/a0ku0
>>673
『真実』にはこう書いてあります。
文中の「この四年」というのは1887年、1889-1891年のことです。
↓
----
渡辺退社直後の日原昌造宛
書簡に、「唯今は社説に老生一名の外に(石河・菊池の)二少年あるのみ。随分忙しき次第に
御座候」(八九・二・二)とある。このような状況に鑑みて、この四年について八割以上の社
説に福沢が無関与であった、とは到底思われないのである。
----
『福沢諭吉の真実』、123頁
675:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/23 06:13:29.72 kInSSb7BO
これは積極的関与の時期についてだね
日清戦争以後は?
676:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/23 15:17:41.85 RqwvkheN0
Eテレで、知花くららがアルバート・クレイグにインタビューしてる
677:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/23 15:34:02.35 /jrMYMh70
そうか、福沢が新聞社説に積極的に関与していた時期と
消極的に関与していた時期を分けて考えないといけないのか
ずっと関与していたものだと早とちりしていたが、
そうじゃないと考えるのがよさそう
678:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/24 12:21:19.97 ac2FTOtB0
慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉|ウェブでしか読めない|時事新報史
URLリンク(www.keio-up.co.jp)
【創立時在社】
中上川彦次郎、飯田平作、伊東茂右衛門、牛場卓蔵、岡崎亀雄、岡本貞烋、須田辰次郎、津田純一、
波多野承五郎、森下岩楠、矢田績、小幡篤次郎(客員)
【途中入社】
飯田三治、井坂直幹、石河幹明、伊藤欽亮、井上角五郎、岩本述太郎、岡本利兵衛、清野(竹越)与三郎、
桑田(三宅)豹三、小金井権三郎、高木喜一郎、高橋義雄、竹下権次郎、津田興二、村田彬、本山彦一、山名次郎、渡辺治、日原昌造(客員)
【入社時期不明】
石川半次郎、江口源治、岡崎郁二郎、小野田孝吾、金子静一、金子友之助、川上精一、河野頼策、小原(左近)与之助、
鈴木千巻、長尾喜三、夏目力蔵、平塚源太郎、馬越章造
【名目役職者】
大崎(牧野)鈔人、箱田半三郎、福城□〔一字不明〕朗
679:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/24 20:15:38.35 PJCvoWwT0
>>678
これでは肝心の執筆時期がわからないね
680:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 01:29:44.55 sL3fvg5Y0
>>677
福澤の時事新報への関与は年とともに少なくなっていったようです。
『福翁自伝』では以下のように言っています。
↓
----
併(しか)し私も次第に年をとり、何時(いつ)までもコンな
事に勉強するでもなし、老余は成る丈(た)け閑静に日を送る積りで、新聞紙
の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹
明(いしかわみきあき)、北川礼弼(きたがわれいすけ)、堀江帰一(ほりえきいち)などが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た
文章を見て一寸々々(ちよいちよい)加筆する位にして居ます。
----
福翁自傳 - 546 ページ :
URLリンク(project.lib.keio.ac.jp)
681:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 03:12:31.32 rtJHQiZg0
>>680
だとしたら、1894年以降、1898年まで、毎年100編以上全集に収められているのは、
おかしくはないか?
『福澤諭吉』の後ろから30ページにある表ではそうなっている。
それより前の1889年には46編しは入っていないのに。
682:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 12:47:13.69 Ya5MDDsQ0
>>681
だんだん遠くなったわけではない、ように見えるということね
683:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 14:59:51.13 Zl+bA1My0
どれどれ。平山伝記の「年度別の「時事論集」掲載論説集一覧」を写してみるか。
西暦 単行本日数 大正版 昭和版
1882 40 17 33
1883 8 24 56
1884 12 9 57
1885 39 17 58
1886 8 14 42
1887 0 12 34
1888 19 8 24
1889 0 24 52
1890 12 16 34
1891 0 15 69
1892 22 14 82
1893 15 14 65
1894 0 10 139
1895 0 12 123
1896 (74) 4 96
1897 (39) 10 102
1898 (57) 3 103
1899 (51) 0 31
1900 (5) 1 38
1901 (19) 0 8
カッコ内は社説欄以外の特別欄掲載。
1898年の脳卒中発作以後の掲載分の執筆は発作前。
たしかに大正版では「だんだん遠くなって」いるな。「昭和版」も合わせると
ずっと関与していた、だ。
684:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 15:01:03.74 Zl+bA1My0
あれれ、うまく書式が保存されていない。でも分かるだろ。
685:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 16:18:59.68 7XHSfI2w0
1894年から98年まで、昭和になってから軒並み100編以上追加されている
これは怪しすぎるだろ
686:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 17:18:47.30 Ya5MDDsQ0
>>683-685
1898年なんか大正版が3編で、昭和版で103編増補とはいくらなんでも…
こうした数字は初めて出てきたみたいだ
687:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 17:32:56.39 Zl+bA1My0
あと、>>672については、以下引用
また国府津での避暑から戻った九二年秋以降の書簡を虚心坦懐に読み返しても、
福沢が毎日の社説に細かく差配していた気配を感じ取ることはできない。
確かに自らが立案した社説についての指示は残されている。九二年九月から倒れた
九八年九月までの六年間に社説に言及している書簡は一九通確認でき、
そのうち一二通は石河のもとに保存されていたものである。
それらの中で扱われている社説の総数は約二五編である。
同じ期間について大正版「時事論集」には五九編、
昭和版ではそれに加えて六五六編もの社説が収録されている。
二五編にかかわっていたのだから残余の七百編近くにも関与していたであろう
というのが従来までの解釈であった。
とはいえ、もし関与があったと仮定すると、非常に奇妙なことになるのである
。石河が伝記で述べているように、『時事新報』には福沢の生涯にわたる指導があり、
社説の論調は一貫して福沢が決定していたのだとしたら、
同じ時期に発表された社説の相互に大きな矛盾が生じることはない。
そこに変化があるとしても、それは福沢が考えを改めるに応じた、
非常にゆっくりしたものになるはずである。
最初は民権の獲得を重要視していたのに、
二〇年を経てみるといつしか国権の拡大ばかりを言うようになっていた、
というような、気づかれにくい変更となろう。
ところが、現行版の「時事新報論集」における論調の変化はそのようになっていない。
石河が主導権を握った一八九二年頃から一挙に清国人・朝鮮人蔑視の傾向と
領土獲得の要求が強まる一方で、ごく稀に、
『学問のすゝめ』や『文明論之概略』の頃とほとんど同じ調子の真筆社説が
掲載されるようになっていくのである。「支那人親しむ可し」もその一つであるが、
もしも石河がその時期に至っても完全に福沢の言いなりだったとしたら、
その論旨と相対立する民族偏見論説は発表できなかったはずである。
ところが安川によれば、実際には、「支那人親しむ可し」(九八・三・二二)の後にも
「支那に対して更らに要求す可きものあり」(九八・四・二七)や「対韓の方針」(九八・四・二八)
のような恥ずべき社説が掲載されている。
これは、もうこの時期には、福沢の言うことに石河は聞く耳をもたなかった、ということを意味している。
『福沢諭吉の真実』177~178ページ
URLリンク(blechmusik.xii.jp)
688:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 22:34:43.06 Yij35UT00
平山は福沢の思想が首尾一貫していて
そこに石河のものが紛れ込んでいるからおかしく見えるって論調だけど、
福沢の思想自体が1890年代に支離滅裂になった、とは考えられないかな
689:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/26 01:07:51.90 vMeedMEd0
>>688
平山さんは、福澤の著作で社説欄に掲載されて単行本になったのは、
1893年5月刊の『実業論』が最後だという事実を指摘して、
「日清戦争を挟む四年のうちに、漠然とではあるにしても、
『実業論』をもって福沢は『時事新報』の社説から身を引いた、と
当時の読者は考えたのではなかろうか」
と言っていますね。(『真実』の176~177頁)
つまり、『実業論』以後は、福澤の社説が稀になって、むしろ
石河の社説の中に、福澤の社説が紛れ込んでいるような状態に
なったと言えるのではないのかな?
690:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/26 07:32:39.46 xk2b5ds+0
>>688
その点については、以下引用。
とはいえ、もし関与があったと仮定すると、非常に奇妙なことになるのである。
石河が伝記で述べているように、『時事新報』には福沢の生涯にわたる指導があり、
社説の論調は一貫して福沢が決定していたのだとしたら、
同じ時期に発表された社説の相互に大きな矛盾が生じることはない。
そこに変化があるとしても、それは福沢が考えを改めるに応じた、
非常にゆっくりしたものになるはずである。
最初は民権の獲得を重要視していたのに、
二〇年を経てみるといつしか国権の拡大ばかりを言うようになっていた、
というような、気づかれにくい変更となろう。
ところが、現行版の「時事新報論集」における論調の変化はそのようになっていない。
石河が主導権を握った一八九二年頃から一挙に清国人・朝鮮人蔑視の傾向と領土獲得の要求が強まる一方で、
ごく稀に、『学問のすゝめ』や『文明論之概略』の頃とほとんど同じ調子の真筆社説が掲載されるようになっていくのである。
「支那人親しむ可し」もその一つであるが、もしも石河がその時期に至っても完全に福沢の言いなりだったとしたら、
その論旨と相対立する民族偏見論説は発表できなかったはずである。
ところが安川によれば、実際には、「支那人親しむ可し」(九八・三・二二)の後にも
「支那に対して更らに要求す可きものあり」(九八・四・二七)や「対韓の方針」(九八・四・二八)のような
恥ずべき社説が掲載されている。
これは、もうこの時期には、福沢の言うことに石河は聞く耳をもたなかった、ということを意味している。
逆に、安川が主張するように、民族偏見論説を書いている姿のほうが当時の福沢の実像であったとすると、
「支那人親しむ可し」のようなまともな論説を執筆する必要がどうしてあったのか、
ということについての説明が困難になるのである。
石河が書いていた社説は、今日の目で見れば恥じるべきものであるとしても、
一八九八年当時は特にそのようには受け取られていなかった。
いやそれどころか事態は一九三三年に至っても同じで、
石河は自分の書いた論説を『続全集』に収めることで福沢の名声をより高められると信じていたのである。
そうであるなら、あえて「支那人親しむ可し」を執筆しなければならない理由など全くない、ということになるであろう。
この点について、安川はその主張を「嘘」と断じてはいるが、
なぜそんな嘘をつかなければならなかったのかについて何の説明もしていないのである。
所収の論説は全て福沢を体現しているという石河の主張を真に受け、さらに安川の考えと整合させるためには、
日清戦争後の福沢は狂ったように日々石河に民族偏見論説を起筆させ、
ある時突然我々の想像もつかない理由から「清国人を蔑視してはいけない」という
嘘八百の(しかも今日の目ではごくまっとうな)真筆論説を発表した、ということになる。
こんな馬鹿げた話を信じる者はいないのではなかろうか。
(以上『福沢諭吉の真実』177~179頁)
URLリンク(blechmusik.xii.jp)
691:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/26 13:42:42.47 e1UoTvyb0
「馬鹿と片輪に宗教、ちょうど良い取り合わせだろう」
(福沢諭吉全集 第20巻 232ページ)
URLリンク(kariyatetsu.com)
692:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/26 20:03:43.06 mUhSjtLkO
選挙が近づくとこのネタがわくな
693:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 07:23:12.17 AWvYZzN40
>>672>>677
「九二年九月から倒れた
九八年九月までの六年間に社説に言及している書簡は一九通確認でき、
そのうち一二通は石河のもとに保存されていたものである。
それらの中で扱われている社説の総数は約二五編である。」>>687
これは福沢立案社説に添付された書簡だな。全般的に社説を統括している、
という内容ではなく。つまり消極的関与の手紙ということ。
694:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 09:26:04.04 xyW3jpEV0
なんでそんなに石河にばかり書簡を送っていたんだろうか
福沢は石河を特に敵視?していたのかな
695:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 10:37:30.48 TeVgj+Tf0
>>694
福沢が自分で立案した社説について、実際の執筆者である石河に
意見を付けて返却したメモみたいなもんだよ
696:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 11:47:31.27 AWvYZzN40
>>694
石河だけが書簡を手元に残しておいたからだろう。
697:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 11:58:55.47 DqLIpGdR0
>>690
この部分への安川の反論は、どうなの? つまり論駁に成功したか、ということなんだが。
698:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 13:53:12.42 xyW3jpEV0
>>695 なるほど。そういうことか。
>>696
だとすると、他の社員は福沢の書簡をさほど重視していなかったようにも思える
699:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 14:26:26.35 AWvYZzN40
>>698
というより、書簡集が最初に編纂された昭和版のときには、石河以外の社説記者は絶滅していて、
そんなもんどっかに吹っ飛んでいた、ということだろう。
たとえば自分の親父が仕事場から持ち帰ったメモみたいなものを、息子が処分しないでおくと思うかい?
700:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 18:37:59.07 IcT/Ts6Y0
>>697
俺の知る限り有効な反論はしていない。スルー。
701:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 22:50:42.62 aUtIK0B40
>>699
単に関東大震災で燃えてしまって、
残っていなかっただけジャマイカ?
702:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/28 07:27:22.24 4l2kE/NLO
下町にお住まいの慶応卒業生は少なかろう
703:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/28 16:45:52.94 B2SCgtCG0
時事新報社説への福沢の関与について、書簡から分かったことは、
1892年春までは掲載前に見ていたが、
1893年以降は自分の立案社説に言及した書簡しか残っていない、でOK?
自伝の最後の部分と同じじゃん
704:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/28 23:33:18.27 Xs607awk0
>>702
関東大震災は下町だけでなく横浜や神奈川県地方にも被害を与えました。
そして、石河幹明の『福沢諭吉伝』編纂にも障害をもたらしたのでした。
↓
----
著者石河幹明が、義塾評議員会の議を経て、いわば公伝とも称すべき
福澤諭吉傳編纂の委嘱を受けたのは、大正12年(1923)6月のことであった。
当初編纂の期間を3か年としていたが、先生の死後20数年を経過した
時点での伝記編纂だけに、散逸した資料の蒐集や、たまたま起こった
関東大震災による障碍など、編纂上の困難は一通りではなく、若き日の
富田正文を唯一の助手として、昭和6年3月の脱稿まで、実に7年有余の
日時を費やしての完成であった。
----
[慶應義塾豆百科] No.80 『福澤諭吉傳』の復刊
URLリンク(www.keio.ac.jp)
705:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/29 08:24:10.44 VZPK6Bp0O
704
ははあなるほど
中上川宛ての書簡も焼失したと思われていたんだっけ
706:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/29 10:42:52.91 g8UiD0V/0
>>704
その割にはデキは悪いよこの伝記。
テキストクリティ-クがなってない。
707:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/29 16:47:14.65 9uO9KAd00
石河抜きの福沢像と
石河の考えを忠実に反映した福沢像は
相当違う気がする
708:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/29 21:41:58.28 WQtd8ei30
>>707
たとえば?
709:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 04:14:41.39 U394Uq+N0
平山さんの新刊ですが、表紙が決まったようです。
URLリンク(www.minervashobo.co.jp)
710:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 07:49:49.82 AzlY9j9q0
>>709
ちょっとイラストがデカいんじゃ? この絵は『福澤諭吉』の最初の方でも紹介されているな
711:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 12:28:51.93 n2+0sDC30
【書籍】 脱亜論で日本を帝国主義の迷路に誤導し原爆の洗礼招いた日本人~チョン・イルソン著「福沢諭吉」
スレリンク(news4plus板)
>福沢の脱亜論はアジア侵略の論理で朝鮮と中国支配を正当化している点で
>歴史歪曲の根源になっていることを説明する。
>この本は日本右翼支配層のゆがんだ見解を理解するのに役立つ。
韓国の福沢一般書に安川の言説が強く影響している?
712:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 12:35:07.56 n2+0sDC30
>>709
今気づいたけど
> 石河は社説「国の為めに戦死者に謝す」を『続全集』に入れたかったのではないか
これってそうとう踏み込んだ考察だよね
石河の真の意図があぶり出されるなら、画期的な研究になりそう
713:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 14:29:34.33 AzlY9j9q0
>>711
11年前の初版本を書き換えた、とあるね。つまり安川本を参考にした、ってこと。
>>712
平山サイトで検索した。↓の部分のことじゃないか。
このように、福沢が病後にも社説に係わった可能性は、限りなく低い。
にもかかわらず石河がこのように大量の自身の社説を続全集に入れたのは、
自分の文章を多く残したかった、ということもあるだろうが、それ以上にその中に、
『福沢諭吉伝』の立論のために欠かすことのできない社説が含まれていたから、
と私は推測する。それは、明治33(1900)年の北清事変で戦死した日本軍人を讃えた
「国の為めに戦死者に謝す」(1900年6月21日掲載)である。
この社説は、「旅順虐殺無稽の流言」と同様、まず『福沢諭吉伝』で重要な社説として紹介され、
次いで続全集に収録されたものである。内容は清国兵を豚呼ばわりしたひどい代物で、
安川寿之輔も『 福沢諭吉のアジア認識』(2000年12月・高文研刊)で本社説をアジア蔑視
・対外強硬策を表すものとして批判している(同書243頁)。福沢の思想ではなく、
石河のそれとしてなら、私もまったく同感である。
URLリンク(blechmusik.xii.jp)
714:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 15:30:04.69 kDL8bUPcP
"朝鮮侵略"主張した二つの顔の日本人を知っているか
ソウル新聞書評全文
【福沢諭吉】ジョンイルソン著知識産業社社発行
日本人福沢諭吉(1835?)をご存じですか。
日本の近代化を導いた啓蒙思想家で19世紀半ば以降、
韓日関係史に大きな影響を与えたジャーナリスト、
教育者であった。彼は日本で一般的に"国民の教師"、
"国民国家論の創始者"、 "絶対主義思想家"などと呼ばれる。
特に死んでから100年が過ぎたが、
今日、日本の金融の最高額の1万円の顔に復活し、
日本を象徴してています。
しかし、これは日本の歴史家たちが日本の近代化の過程に貢献した
彼の純粋な機能だけを浮上させたかの断面に過ぎない。
タルアロン(脱??)という名で日本を帝国主義の迷路
(迷路)にオドハン間違いを勘案すれば、彼の功績は半減せざるを得ない。
つまり、彼は二つの顔の男だ。
日本人にもグロハゴ私たち韓国人にもそうである。
日本人にはヨーロッパとアメリカを見習うと主張したという点では
先駆者かもしれないが、日本がアジアを支配しなければならないという
論理は、結局、日本にとって第二次世界大戦で原爆の洗礼を受けること
にしました。韓国人たちに、彼は朝鮮の開化派人士たちを助けて煽って
甲申政変を起こすために尽力した人でもある。 が、政変の失敗後、
日本の朝鮮支配を強く主張した張本人である。
また、日帝政府より先に立って日清戦争挑発を衝動して、
朝鮮にいた日本人の保護を口実に朝鮮に駐屯軍派兵の必要性を声高に叫んだ。
また、 "征韓論"を超える"ジョソンジョンリャクロン"を提唱し、
朝鮮の改革はすぐに、日本の独立を維持する道であるという論理を立てて、
朝鮮の国政改革を推進して監視する"朝鮮国務長官"問題を提案した。
この朝鮮国務長官は朝鮮総督の名前が変わって日帝植民地統治の象徴として
君臨することになる。新刊"福沢諭吉"(ジョンイルソン著、知識工業社発行)
は、このような事実に傍点を撮りながら、
彼の二つの顔を詳細に調査してていて目を引く。
今まで私たちに、日本の偉大な思想家であると認識されている点が間違って
いると指摘する。歴史教科書歪曲を主導している日本の右翼の支配層がほと
んど福沢"朝鮮·中国蔑視の理論"と精神武装しているという事実を強調する。
福沢タルアロンウンアジア侵略の論理であり、朝鮮と中国の支配を正当化し
ているという点で、歴史歪曲の源となっていることを説明する。
この本は、日本の右翼の支配層の歪んだ視点を理解することができます。
そのような点政治家、教育者、ジャーナリスト、
そして大学生が一度読んでくださいする必要があるという感じがするよう
にします。11年前に初めて本を出し、今回の改訂版を出した。1万9000ウォン。ギムムン先任記者km@seoul.co.kr
715:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 15:34:45.22 kDL8bUPcP
日本人・福沢諭吉(1835~1901)をご存知ですか。日本の近代化を導いた啓蒙思想家で19世紀中
盤以後、韓日関係史に大きな影響を及ぼしたジャーナリストであり教育者であった。彼は日本でよ
く「国民の教師」「国民国家論の創始者」「絶対主義思想家」等と呼ばれる。
特に死後百年過ぎた今日、日本貨幣の最高額である1万円の顔として復活し日本を象徴している。
しかし、これは日本の歴史家が日本近代化過程に貢献した彼の純粋な功績だけを強調した一断
面に過ぎない。
脱亜論という名前で日本を帝国主義の迷路に誤導した誤りを勘案すれば彼の業績は半減する他
ない。換言すれば彼には二つの顔がある。日本人にとっても私たち韓国人にとっても。日本人に
は欧米を見習えと主張した点では先駆者かもしれないが日本がアジアを支配すべきだという論理
は結局、日本にとって第ニ次世界大戦で原子爆弾の洗礼を受ける結果になった。
韓国人にとって彼は朝鮮開化派を助け甲申政変をたきつけた人でもある。しかし、政変失敗後は
日本の韓国支配を強力に主張した張本人だ。合わせて日帝政府より先に立って清日戦争を挑発
して朝鮮にいた日本人保護を口実に朝鮮に駐屯軍派兵の必要性を声高に叫んだ。また‘征韓論’
を越える‘朝鮮政略論’を主張し朝鮮の改革がすなわち日本の独立を維持するという論理を前面
に押し出し朝鮮の国政改革を推進して監視する‘朝鮮国務監督官’を提案した。
この朝鮮国務監督官は朝鮮総督に名称が変わり日帝植民統治の象徴として君臨することになる。
新刊「福沢諭吉」(チョン・イルソン著作、知識産業社編)はこのような事実に傍点をつけながら彼の
二つの顔を詳しく描いて注目される。
今まで私たちにとって日本の偉大な思想家という認識は誤りと指摘する。歴史教科書歪曲を推進
する日本右翼支配層の大部分が、福沢の‘朝鮮・中国蔑視理論’で精神武装している事実を強調
する。福沢の脱亜論はアジア侵略の論理で朝鮮と中国支配を正当化している点で歴史歪曲の根
源になっていることを説明する。
この本は日本右翼支配層のゆがんだ見解を理解するのに役立つ。そうした点から政治家、教育
者、メディア人、そして大学生が一度は読まなければならない必要があると感じられた。11年前の
初版を今回改訂出版した。
1万9000ウォン。
キム・ムン選任記者
ソース:ソウル新聞(韓国語) ‘朝鮮侵略’主に主張した二つの顔の日本人をご存知ですか
URLリンク(www.seoul.co.kr)
716:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 16:02:42.49 n2+0sDC30
>>714
タルアロンは脱亜論だろうね
717:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 16:04:43.88 kDL8bUPcP
>>714自動翻訳
>>715模範解答
自動翻訳もよくやっている。
718:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 16:26:44.66 AzlY9j9q0
>>711
あと、>>715に「絶対主義思想家」とあるだろ。このレッテルは旧講座派=共産党左派の定式。
具体的には服部之総・遠山茂樹・安川寿之輔くらいしか主張していない。
この本が安川の影響下にあるのは明白だな。
ところで、
韓国人にとって彼は朝鮮開化派を助け甲申政変をたきつけた人でもある。しかし、政変失敗後は
日本の韓国支配を強力に主張した張本人だ。合わせて日帝政府より先に立って清日戦争を挑発
して朝鮮にいた日本人保護を口実に朝鮮に駐屯軍派兵の必要性を声高に叫んだ。また‘征韓論’
を越える‘朝鮮政略論’を主張し朝鮮の改革がすなわち日本の独立を維持するという論理を前面
に押し出し朝鮮の国政改革を推進して監視する‘朝鮮国務監督官’を提案した。>>715
に当てはまる社説は、いったいどれなんだ? 開戦前に対清国攻撃を唱えたなんて聞いたことが
ないんだが。
719:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 17:12:01.69 rfT7UKuk0
【次代への名言】
司馬さん、遼(はるか)なり編(58)
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
■「藩にしても国家にしてもおなじで、福沢諭吉がいったように、官の力で国が立つのではなく、民力があってはじめて国が立つのである」
(司馬遼太郎『街道をゆく 檮原(ゆすはら)街道(脱藩のみち)』)
福沢諭吉は、司馬さんが最も敬意を表していた日本人の一人であろう。
「むこうはどうも、あれだな、凄味(すごみ)といっちゃ違うが、とにかく日本のどういう英雄豪傑にもなかった種類の勇気というものがありますよ(中略)
義ヲミテナサザルハ勇ナキナリ、のあの勇です。それが福沢にはある。匹夫(ひっぷ)の勇ではない」
幕末を舞台にした『峠』には、のちに明治を代表するジャーナリストとなる、福地源一郎(桜痴(おうち))が、洋学の先輩である福沢についてそう語る場面がある。
「(激動の時代に)さらりと独立自尊をやってのけています」
司馬さんが評論家の江藤淳氏と対談したさいの福沢評だ。その福沢は西南戦争の後、政府を論難し、乱の指導者となった西郷隆盛を擁護する論文
『丁丑(ていちゅう)公論』をひそかにしたためた。このときの福沢の心中について、司馬さんは『「明治」という国家』でこう分析している。
《西郷の死と、西郷の後輩たちの大量死は、サムライたちが保持していた日本人の品性や気骨、質実さが、今後、急速に薄れてゆくという不安を福沢にいだかせたのでしょう。
“個人の独立”といったところで、薄っぺらな個人が独立したところで、なにほどの美を済(な)すわけではありません。
福沢は、それより(中略)内村(鑑三)や新渡戸(稲造)たちが大切にした、武士道というものを大切にしたかったのです》(文化部編集委員 関厚夫)
720:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/01 04:54:02.95 VzapoZL/0
>>718
開戦前に対清国攻撃を唱えた社説といえば、
・「支那朝鮮両國に向て直に戰を開く可し」(1894年7月24日)
のことでしょう。
> 彼は朝鮮開化派を助け甲申政変をたきつけた人でもある。
たしかに、朝鮮開化派を助けたことは事実だけど、
「甲申政変をたきつけた人」というのは、
平山さんの調査報告「福沢諭吉は朝鮮甲申政変の黒幕か?」
URLリンク(blechmusik.xii.jp)
によると、井上角五郎の証言しか証拠が存在しないし、
その証言も信用できない内容だそうですね。
> 政変失敗後は日本の韓国支配を強力に主張した張本人だ。
政変失敗後の社説
・「朝鮮獨立黨の處刑」(1885年2月23日・26日)
・「脱亞論」(1885年3月16日)
・「朝鮮人民のために其國の滅亡を賀す」(1885年8月13日)
などは、むしろ福澤の朝鮮支援策が失敗したという敗北宣言と
解釈するのが有力な説のようです。
> 日帝政府より先に立って清日戦争を挑発
> して朝鮮にいた日本人保護を口実に朝鮮に駐屯軍派兵の必要性を声高に叫んだ。
これは、
・「朝鮮東學黨の騒動に就て」(1894年5月30日)
・「速に出兵す可し」(1894年6月5日)
のことでしょう。
> ‘征韓論’
> を越える‘朝鮮政略論’を主張し朝鮮の改革がすなわち日本の独立を維持するという論理を前面
> に押し出し朝鮮の国政改革を推進して監視する‘朝鮮国務監督官’を提案した。
「朝鮮政略論」に相当するのは、
・「改革の勸告果して効を奏するや否や」(1895年1月4日)
・「朝鮮の改革に外國の意向を憚る勿れ」(1895年1月5日)
・「義侠に非ず自利の為めなり」(1895年3月12日)
のことかな。
「朝鮮国務監督官」というのは見つかりませんでした。
721:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/01 08:50:25.64 /U0ezN5E0
>>720
平山サイトによると、
URLリンク(blechmusik.xii.jp)
「シナ朝鮮両国に…」は、昭和版採録・草稿非残存・推定石河執筆のようだ。
もちろん、福沢が関与していなかった証拠などないが、1933、4年に福沢の社説と
認定されたということだけは確実だ。
平山説が定説化してしまうと、左翼は本当に困ってしまうようだね。
722:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/01 10:42:45.76 3Mv1gifPO
全集に入っているが
福沢が書いたかはわからない
こういうのが多いんだろうな
723:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/02 09:31:04.11 KVYNyf3V0
今の岩波の全集が有効である限り
日本の左翼や韓国からの攻撃は
止むことはないであろう!
724:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/02 10:52:54.91 26w4WbPY0
まあ、福澤が経営していた新聞の論調が清国への早期開戦を主張していたとしても、
それだから悪いとはいえないのだがね。
725:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/02 19:40:33.39 y73Wk/46O
その方向で反論するか
726:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/03 00:07:10.14 qD/Vq8d40
>>723
平山さんの新刊が出ても攻撃は止まないのかな?
727:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/03 03:19:09.51 ZEgBtlLWO
もちろんだ
岩波には権威があるからな
w
728:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/03 07:35:43.65 EzR1e0st0
平山新本>>558を使えば買わずとも読めそう