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「福澤諭吉と初代梅若實」その接点
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そこで福澤諭吉協会の会合だが、20日発行の『福澤手帖』152号に「『福翁 自伝』の表と裏―松沢弘陽さんの読みなおし―」
という一文を書かせて頂 いた松沢弘陽先生がいらっしゃったので、開会の前に、ご挨拶する。 すると 直後に、松沢弘陽先生の今回校注を担当された
「新日本古典文学大系 明治編」 『福沢諭吉集』(岩波書店)を始めとする永年の福沢研究の業績と貢献に対して、 福澤諭吉協会からの表彰があった。
嬉しいことだった。
土曜セミナーでは、とても興味深い話を聴けた。 学問探求の醍醐味の、お 裾分けを頂く。 日本思想史がご専門の前坊洋(まえのぼう・よう)さんの「福澤諭吉と初代梅若實」。
福沢とは、まったく別世界に生きる人間だと思われる 能楽師、観世流の初代梅若實(1828~1909)との間に、意外なつながりがあった。 梅若實は、江戸幕府瓦解時に東京に残り能楽を今に伝えた立役者で、
宝生九郎・ 桜間伴馬(左陣)とともに明治三名人といわれた。 60年間、一度も欠けること のない日記を残し、2002~3年に『梅若実日記』全7巻が八木書店から刊行さ れている。
帯に「幕末維新・明治期のすべての研究者必見」とある。
福沢との接点の最たるものは、明治28年12月12日芝公園の紅葉館での福 沢の還暦祝賀会(日清戦争で一年延期した)で、梅若實が「橋弁慶」を演じたこ と。
日記によると、観世宗家の観世清廉(きよかど)に話があり、梅若實は清 廉に頼まれた。 12日に紅葉館の隣の能楽堂で午後2時から3時半までの公演 を行った記録がある。
翌13日の項を読んで、前坊洋さんは「盲亀の浮木、 優曇華の花」だと驚く。
一門人の「横浜蓑田長二郎(正しくは長三郎、長二郎 は父)より姉かつ子へ土屋勘兵衛二男大輔ヲ迎へ婚姻相結祝ノ鳥の子餅 松魚 節壱円ノ切手参る」とあったからだ。
これより先、福沢の長男、一太郎はアメリカ留学から帰国後の明治22年4 月、福沢家の家庭医の一人、近藤良薫の世話で、
横浜の商人蓑田長二郎の長女 かつと結婚したが、10月に実家に帰ったまま戻らず、翌年4月離婚となった。
福沢は蓑田家を非難し、すさまじい攻撃力、速射砲のような書簡がある。
その離婚から約6年、その蓑田長二郎の長女かつが再婚したわけだ。 『梅 若実日記』明治29年1月17日「箕田ノ聟ハ昨十二月参る。
長三郎ノ姉勝子へ 五日市土屋勘兵衛二男大輔ト申スヲ迎へ婚姻アル」。 この「五日市」(現、あ きるの市)土屋勘兵衛は、
明治百年に色川大吉によって発見された五日市憲法草 案の起草者・千葉卓三郎の所に、その元になった嚶鳴社憲法草案を持ち込んだ 人物だった。
福沢の側からばかりの資料で判断すると、落ちて来るものがある。 蓑田家 は、一太郎の離婚問題で福沢が、日頃の説に反し「素町人、土百姓之輩」
(蓑田 家が離縁状を求めたのを謝絶する明治23年4月15日付近藤良薫宛書簡にある ←馬場)と口走ったような悪い家ではない。
蓑田長二郎は、美術品と生糸を扱 う富裕な商人で、横浜七十四銀行の筆頭株主で取締役(近藤良薫も取締役で大株 主)、ある程度文化的活動をした人だった。