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第9回:『時事新報』論説をめぐって(1) ~論説執筆者認定論争~
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現行の全集が出来るまでに、福沢の全集は3回編まれている。第1回は福沢
生前の明治31年のもので「明治版」と呼ばれる(『福沢全集』と題し全5巻)。
これは時事論説を収録していない。続いて「大正版」(『福沢全集』と題し
全10巻)、そして「昭和版」(『続福沢全集』と題し全7冊)と呼ばれるものが
出ており、時事新報記者として長く福沢と行動をともにし、福沢没後の『時事』
を主筆として支えた門下生・石河幹明が編纂に当たった。富田が書いている
とおり、全集編纂のとき石河一人の手によって、全論説の中から福沢執筆の
ものだけが「判別」され、全集に収録されたのである。
この経緯は、知れば知るほど確かに厳密さを欠く話であり、近年の実証的
歴史研究の流れの中ではとても無批判ではありえない。何しろ、数十年前に
書かれた無数の文章から福沢の書いたものだけを選び出すという作業が一人の
記憶を頼りに密室で行われ、それが全集の約半分を占めているということに
なるのである。富田も触れているように、全集に収録されていない論説の福沢
直筆原稿が発見されることは少なくないので、それが高度な精度を有する作業
でなかったことは明らかであるし、また石河が記者となる明治18年以前の社説も、
彼の認定作業で選ばれていることも、精度に疑問を抱かせる。
それでは、石河による「判別」に疑問があるとして、この問題をどうするべき
なのだろうか。ここで登場したのが、論説執筆者を推定し直す、という新たな
執筆者認定論である。この議論の先鞭を付けたのは、比較言語学者で『中江兆民
全集』の編纂で無署名論説の選定を経験した井田進也氏である。同氏は、論説の
文中に使用されている語彙や送り仮名、当て字に個人差があることに着目し、独自
の執筆者認定法を提唱した。筆者が明確にわかっている記事を参考に各記者の筆癖
を抽出し、それを無署名論説と照合し、誰が起草した記事か、また福沢の加筆が
どの程度入っているかを5段階で判定するというものである。A評価は福沢が全文
執筆したもの、Eは福沢の筆が全く入っていない、というわけだ。この議論は、
平山洋氏の『福沢諭吉の真実』(文春新書)で敷衍(ふえん)されて広く世に
知られることとなった。