【三十一谷人】福沢諭吉について(其の8)at HISTORY2
【三十一谷人】福沢諭吉について(其の8) - 暇つぶし2ch566:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/02 19:24:19.80 iCAgAl8i0
余録:蘭学者、緒方洪庵が大坂に開いた適塾は…
URLリンク(mainichi.jp)

蘭学者、緒方洪庵が大坂に開いた適塾は福沢諭吉はじめ幕末から明治に活躍した多くの人材を生んだ。今の大阪大学の前身でもある。
驚くのは諭吉の自伝の回想だ。夏には武家の子弟である塾生らが下帯もせず素裸で過ごしていたという
▲「もちろん飯を喫(く)う時と会読をする時にはおのずから遠慮するから何か一枚ちょいと引っかける、中にも(織り目の透いた薄い)絽(ろ)の羽織を真裸体の上に着ている者が多い。
これは余程おかしな風で、今の人が見たらさぞ笑うだろう」。幕末のスーパークールビズだ
▲勤務中のポロシャツやアロハ、サンダルもOKという環境省のスーパークールビズが今年も始まった。
昨季に続く節電の夏の2年目の試みで、ジーパンも破れていないものなら可、一方ランニングや短パンは不可だという
▲昨年は欧米のメディアでも「服装革命?」と報じられたスーパークールビズだった。
保守的な日本のビジネス風土では普及は望み薄だろうとからかう調子で扱われたが、そもそも日本人が蒸し暑い夏にスーツを着るはめになったのはそちらのせいだともいいたくなる
▲諭吉らは極端だろうが、夏は遠慮なく半裸で過ごした昔の日本人だ。それを来日した欧米人に「野蛮」といわれ、
一生懸命取り入れた「文明」の結果が夏のスーツ姿である。裸には戻れずとも、できる職場はできる程度に日本の夏にふさわしいスタイルにすればいい
▲仕事着だけではない。今年も扇風機に打ち水や浴衣、昔のヘチマ棚に代わるグリーンカーテンなど、
節電でよみがえったレトロな夏の衣食住が話題になろう。むろん下が裸でなければ絽の羽織もいい。

567:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/02 19:28:57.27 gPYiPDDP0
>>546
つまり、福澤の名誉回復よりも、
自身の正統性維持の方が大切ということでしょう。

568:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/02 19:55:42.05 9JIu7Vp4P
>>564

241 名前:名無しさん@13周年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 17:27:28.14 ID:n8hK9bXi0
>>237
永年契約ならまあクビにはならないよ
その代わり昇進できなくて、年下が教授になったりして人間関係が複雑になる。

精一杯やってきただけに、任期有り30代の苦しみは辛いなぁ

242 名前:名無しさん@13周年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 17:29:24.10 ID:K3d2KsM80
国立大の技術職員が来ましたよ。
こういう人ってどこの大学にも居るよね。若い頃、教授と喧嘩して昇進閉ざされて
歳とってもずっと助手とか助教の人って。

569:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/03 07:48:50.72 YX2Ognvx0
>>566 日本人は夏には沖縄人かハワイ人の格好をしていればいいと思う。

 東南アジアスタイルでもよいな。


570:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/03 07:57:59.57 l63SMlcB0
米の日本軍慰安婦の碑撤去の署名【期日6/9】
スレリンク(ms板:352番)

署名お願いします。このままだと
「日本人が韓国人を拉致して性奴隷にしていた」=真実になってしまいます。
必要なのはメールアドレスと名前だけで、
表示されるのはイニシャル名のみAkira.Sとかです。


571:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/03 09:50:16.59 NNOsTnmn0
小倉紀蔵の『朱子学化する日本近代』(藤原書店)が
生協新刊書コーナーに並んでいたので、さっそく購入して読んだ。
第10章「福澤諭吉における朱子学的半身」が目当てだが、全体のテーマ、
日本近代を思潮の朱子学化と捉える、にも関心があったからだ。

結論から言うと、厚さの割には中身の薄い本だ。

マックス・ウェーバーと丸山の見解のちょうど逆をいうことで、
朱子学に近代化の根本動因を見るというのだが、
根拠は薄弱。

ヘーゲルでも朱子学でもともに言っているようなところを、
とくに朱子学由来として記述しているだけ。

名分論や自然的序列観を朱子学の本質から外してしまえば、
そりゃ、近代化の原動力ともなるが、それらを捨ててしまった残余を
朱子学と呼ぶことが可能か、という点に根本的な疑問が。

肝心の福澤論も、福澤に朱子学的側面があると言ったって、
それはあるでしょう、と言うしかない。
現に学んでいたのだし、西洋概念の翻訳語も、朱子学由来の
ものが多いから。



572:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/03 14:36:58.53 f6icS9bh0
福沢全集の改定に消極的な慶応の姿勢はあまりにも不可解だと思う。
平山説を容れて全集を改訂しても、評価が下落するのは石河(とその弟子の富田)
であって福沢ではないし、慶応にとっては創立者の福沢のほうが石河・富田より
はるか重要な人物だろうに。それに、石河は福沢の一番弟子・忠実な弟子どころか、
不肖の弟子だったわけだから、そのような人物を臭いものに蓋をしてまで守る
必要もメリットも慶応には無いはずなのにな。

573:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/03 17:17:11.70 klL5DMgdP
>>572
慶應としては、評議員会が石河に福沢諭吉伝の執筆を正式に依頼した、
ということがあるから、今さら間違っていました、とは言えないわけでね。

574:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/03 20:23:20.96 NNOsTnmn0
>>572
あと、>>7に書かれていることは、事実としてあると思う。

575:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/04 07:21:29.98 Kcd2QFi6O
勉強になるな、ここ

576:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/04 11:55:22.33 81Jk+2nw0
先週後半の話題の続き。
>>549の都倉准教授による記述は石河の>>563と福沢伝によるらしい。
ということは、もはや目撃者のいなくなった時点での唯一の生存者による証言だ。
>>547の疑問はもっとも、ということになる。

577:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/04 15:17:45.60 EeVDHEhf0
前から思っていたことなんだが、
都倉が平山の問題提起を理解しているようには思えないんだよな
石河の言説を所与のものとして福沢を解説している時点で
福沢の解説として正確さが疑われるのでは。
福沢が論説をどれほど添削してきたかは印象論では語りえないものであって、
量をベースに議論しないと学術的な議論に値しないのではないかね

578:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/04 16:41:01.72 Yl8OzJTM0
>>577
福沢センターは伝記編纂所の後身だからねえ

579:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/04 20:14:18.62 Kcd2QFi6O
学問と遠慮だな

580:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/04 21:29:33.18 HWcsh3lH0
第9回:『時事新報』論説をめぐって(1) ~論説執筆者認定論争~
URLリンク(www.keio-up.co.jp)
----------------------------------------------------------------------
 現行の全集が出来るまでに、福沢の全集は3回編まれている。第1回は福沢
生前の明治31年のもので「明治版」と呼ばれる(『福沢全集』と題し全5巻)。
これは時事論説を収録していない。続いて「大正版」(『福沢全集』と題し
全10巻)、そして「昭和版」(『続福沢全集』と題し全7冊)と呼ばれるものが
出ており、時事新報記者として長く福沢と行動をともにし、福沢没後の『時事』
を主筆として支えた門下生・石河幹明が編纂に当たった。富田が書いている
とおり、全集編纂のとき石河一人の手によって、全論説の中から福沢執筆の
ものだけが「判別」され、全集に収録されたのである。

 この経緯は、知れば知るほど確かに厳密さを欠く話であり、近年の実証的
歴史研究の流れの中ではとても無批判ではありえない。何しろ、数十年前に
書かれた無数の文章から福沢の書いたものだけを選び出すという作業が一人の
記憶を頼りに密室で行われ、それが全集の約半分を占めているということに
なるのである。富田も触れているように、全集に収録されていない論説の福沢
直筆原稿が発見されることは少なくないので、それが高度な精度を有する作業
でなかったことは明らかであるし、また石河が記者となる明治18年以前の社説も、
彼の認定作業で選ばれていることも、精度に疑問を抱かせる。

 それでは、石河による「判別」に疑問があるとして、この問題をどうするべき
なのだろうか。ここで登場したのが、論説執筆者を推定し直す、という新たな
執筆者認定論である。この議論の先鞭を付けたのは、比較言語学者で『中江兆民
全集』の編纂で無署名論説の選定を経験した井田進也氏である。同氏は、論説の
文中に使用されている語彙や送り仮名、当て字に個人差があることに着目し、独自
の執筆者認定法を提唱した。筆者が明確にわかっている記事を参考に各記者の筆癖
を抽出し、それを無署名論説と照合し、誰が起草した記事か、また福沢の加筆が
どの程度入っているかを5段階で判定するというものである。A評価は福沢が全文
執筆したもの、Eは福沢の筆が全く入っていない、というわけだ。この議論は、
平山洋氏の『福沢諭吉の真実』(文春新書)で敷衍(ふえん)されて広く世に
知られることとなった。


581:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/04 21:31:54.47 HWcsh3lH0
つづき

 井田氏や平山氏は、この認定法で検証すると、従来福沢批判で用いられていた
『時事』論説は、ほとんど他の記者が起筆したものであるという。混入している
論説の多くは石河起筆のもので、水戸出身の彼の論説は国権主義的色彩が強く、
この影響で福沢の思想が歪んで理解されるようになってしまったというのだ。

 この議論の盛り上がりによって、全集の盲点が多くの研究者に議論されること
となったのは、大きな意義があったといえよう。しかし、この認定方法は、
また多くの問題を抱えているように思われる。たとえば、社説を起草していた
記者がいつ何人いたかは正確に分かっていない。有名な記者は署名記事が存在
して語彙比較が出来るとしても、無名の記者や短期間しか在籍しなかった記者が
多く存在する。そういった記者の起草論説は福沢と語彙が似ているかも知れない
し似ていないかも知れない。また、この認定法では文章の全体的な傾向を評価
できるかもしれないが、検証できる語彙は文章の中での分布に粗密が生じるはず
なので、「ここの部分は福沢が書いた」、といったことを断言できるほどの精度
を持ちうる話とはなりえない。一見客観的な認定結果も、その精度は検証不能
なのである。さらに、植字工が正確に原稿を写さなかったり、校正係が表記や
送り仮名のゆれを統一した可能性もあるだろう。記者の気分や偶然による綴りの
変化、福沢が起草記者の筆癖を知っていて戯れに加筆でもそれを真似た可能性、
福沢の加筆修正を経てさらに別の記者が修正や清書をした可能性など、いくらでも
例外を想像でき、しかもそれらはありそうな話である。最近ではこの議論に対して、
再反論を試みる福沢批判も発表されているが、それは井田氏らの認定結果を誤り
として別の認定結果を提示するもので、事ここに至れば執筆者認定論は水掛け論
になってしまったといわざるを得ないだろう。

 それでは結局、『時事』論説をどう読むべきなのだろうか?…と、ここで
今回は紙幅が尽きたので次回筆者なりの卑見を述べてみたい。
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第10回:『時事新報』論説をめぐって(2) ~「我輩」は『時事新報』である~
URLリンク(www.keio-up.co.jp)
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 この論争を積極的に総括するとすれば、福沢全集の『時事』論説が、実は
石河幹明によって選ばれた一部だけを収録した、いわば『時事』論説のダイジェスト
(より正確に言えば、石河の考えるところのダイジェスト)であることを
気付かせたという点において実に有意義であったと思う。これからは、むしろ
全集に入っていない論説も含めた、大きな流れの中で個別の論説を位置付ける
読み方が必要であろう。そして、今後福沢全集を編むことがあるならば、紙面
に掲載後「福沢諭吉立案」として単行本化され福沢生前の全集にも入っている
『時事』論説以外は収録せず、別に「時事新報論説集」を編み、論説を全日分
収録するのが最も適切な扱い方であると思う。
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582:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/04 21:33:31.88 HWcsh3lH0
つづき

>>577
都倉さんは平山さんの問題提起をよく理解していると思いますよ。

都倉さんは
「慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉|ウェブでしか読めない|時事新報史」
の第9回で、井田さんや平山さんの執筆者認定論に触れているし、
第10回では、今後『福澤全集』を新たに編纂するとしたら、
時事新報論集は全集には収録しないで、『福澤全集』とは別の
シリーズとして発行すべきだと提言していることからも分かります。
(投稿する順番が入れ違いになってしまいました。)

583:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/04 22:44:18.92 Kcd2QFi6O
事典の記述とニュアンスが違う

584:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 07:32:09.31 dU1P8b+K0
>>580-582
そうだとすると、福沢諭吉事典が安川平山論争にまったく言及せず、
また、都倉さんがカテゴリーⅣ社説(福沢無関与)を認めていない事実と、
なおさら齟齬があるように見えるな。

585:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 12:40:06.61 eF3obC7r0
>>584
>>580-582を表層的にしか読めていないでしょ
都倉が福沢研究の文脈において井田と平山の研究をどう評価しているのか
精読すればいいかと

586:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 12:41:26.88 Tte1AToP0
文体判定によるまでもなく、石河は福沢の草稿の
半分も選択できなかったのだから、現行の時事新
報論集の信憑性は無に等しい。

587:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 12:58:46.54 dU1P8b+K0
>>585
>>549の中と>>581の中には重要な相違点がありますよ。
>>581では安川平山論争に触れているのに、>>549では触れていない。
あれほど話題になった論争なのに。

588:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 13:19:55.85 BAm/6bwG0
都倉氏は福沢が毎日の社説を、
最低でも「事前に」見ていたとする立場だな。
根拠は石河の証言だけ。

対して井田氏平山氏は、「そんなことは不可能だ」と。


589:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 13:54:49.83 Tte1AToP0
>>585
都倉説については自分も言いたいことがある。それは、
全部見ていたとなると、社説相互の理解しがたいほど
の矛盾が生じている理由がどうしても説明できないこと。 

590:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 14:52:54.95 lmBqlwmr0
ここは慶応出身者が多いのか?
オバサンたちが福沢の公金横領疑惑について
激論している。面白いぜ。

〓慶應〓 奥様三田会 19 〓塾員〓
スレリンク(ms板)


591:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 15:20:53.24 BAm/6bwG0
>>590
たしかにおもしろい。
よくやるなあ。


592:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 16:11:18.08 dU1P8b+K0
>>590
なんでもネット上にアップしておけば、どこかで話題になるんですね。
いつでもどこからでもレファできるのがネット時代。

593:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 20:01:58.57 b/hqVsof0
>>588
なるほど

594:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 21:36:42.93 xa+DZR6F0
福沢書簡に登場する「藤田組」「藤田平太郎」
URLリンク(kbaba.asablo.jp)

明治19(1886)年~20(1887)年になると、福沢書簡には、「藤田組」が発 展して、同社や関連事業に慶應義塾の卒業生が就職したり、
藤田伝三郎の長男 平太郎が慶應義塾に入学したことが出て来る。

 福沢書簡1112   明治19年12月1日付、本山彦一(熊本藩士、慶應義塾 出版社を経て、租税寮出仕、兵庫県学務課長、大阪新報社、時事新報社を経て、
明治19年藤田組に招かれて支配人)宛。 牛場卓蔵(伊勢の農家に生れ、明 治5年入塾、報知新聞社、兵庫県学務課に勤務、勧業課長、
内務省にいて明治 14年政変で罷免され、時事新報記者、朝鮮政府顧問、大蔵省に出仕後、本山彦 一の斡旋で藤田組へ)の藤田組入社に異存のないこと、
藤田・久原の子息(長 男藤田平太郎、久原庄三郎の次男房次郎(のち房之助))の慶應義塾入塾のこと などを伝える手紙。

 福沢書簡1122   明治20年1月25日付、本山彦一宛。 「藤田、久原二 少年、不相替勉強、富豪千金之子、従来辛酸をなめたることなし」
「(保護者の 浜野定四郎と福島(未詳)は)困る者を首尾よく世話することこそ、面白けれ」 「一両年本塾にて修業の上、米国への留学を勧める」

 福沢書簡1133   明治20年2月13日付、本山彦一宛。 山陽鉄道株式引 受と中上川彦次郎の同社社長就任の時事新報社への影響につき相談する手紙。 
神戸馬関間の鉄道の株式を十万円引き受けたい、資本を出す三菱(荘田平五郎 がいる)に五万、藤田組に五万の十万にする心づもりと伝える。 
次男の捨次 郎が明治21(1888)年に鉄道を学んでアメリカ留学から帰国の予定なので、 そのためにも株式を所有したいので、荘田と藤田伝三郎に伝えてもらいたい。 
今後、日本で事を成さんとするには新聞は重要で、中上川彦次郎の抜けた時事 新報は心配だが、ただ人物さえあれば維持は容易だ、と言う。

 福沢書簡1103   明治19年11月11日付、福沢一太郎宛。 「当今ハ日 本も金次第之世ノ中となり」旧工部大学校卒業生で、
鉄道局に奉職した者も、 「藤田組等より招きニ参れバ、颯々と辞表を出して立退き候次第、鉄道局にて も困るよしなり」

595:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 21:38:32.87 xa+DZR6F0
松下竜一と福沢評価のシーソーゲーム
URLリンク(kbaba.asablo.jp)

『父を焼く 上野英信と筑豊』の「枯れすすきの幸せ」という一篇は、大分 県中津在住の作家、松下竜一について書かれている。 
苦しい豆腐屋の営みの なかから『豆腐屋の四季』という本を自費出版、それが高い評価を得て作家専 業となり、以来2004年に67歳で亡くなるまで数多くの著作を生み出した人で ある。 
上野朱さんは「そのいずれにも共通するのは、歴史年表に名を残すこ とはないであろう民草の行き死にを見つめる目であり、
人を欺き蹴落としてで も成り上がりたい権力の亡者や、取り返しのつかないほど自然を破壊してでも 「開発」「発展」を求める行政や財界に対して、
「ちょっと待ってくれんの」と いう異議申し立てである」という。 「ちょっと待ってくれんか。ほんとにそ れが進歩なんじゃろか? それが人間の幸せなんじゃろか? 
という問いは、 政府や大企業といった権力だけに向けられたものではなく、たとえば原子力発 電所を作らねば電力が枯渇して原始時代に戻ってしまう、
というような恫喝や 論理の欺瞞に気付かない、我々一人ひとりに対する問いかけでもある。」と(こ の本は2010年8月27日の発行)。

 松下竜一は、佐高信さんの『福沢諭吉伝説』(角川学芸出版)の冒頭にも登場 する。 松下竜一に『疾風の人』という、福沢の又従弟(またいとこ)増田宋 太郎を扱った作品がある。 
尊皇攘夷思想を奉じた増田は、西洋文明の導入者 としての福沢を仇とし、暗殺しようとさえした。 そして、後に自由民権運動 に近づき、西南戦争に参加して西郷隆盛に殉じて死ぬ。 
(『福澤諭吉事典』に よれば、暗殺を企てた後、みずから悟るところあって福沢の説を聞き、感服し て慶應義塾に入学、洋学を学び、在京中は福沢の家に寄寓していたという。
そ の後、中津の『田舎新聞』の社長になり、民権自由の説を主張した。明治10 年の西南の役に中津藩士族を率いて西郷軍に呼応、
中津支庁、大分県庁などを 襲撃したのち、薩軍に合流して転戦の末、9月24日鹿児島城山で戦死した。) 

太平洋戦争中、福沢は鬼畜米英の手先とされ、中津の旧邸には石が投げ込まれ、 小学校の講堂の福沢自筆の「独立自尊」の額もひきずりおろされ、倉庫に眠ら された。 
松下は『疾風の人』の結論に「思えば、この「またいとこ」と同士 の、歴史の流れの中での評価のシーソーゲームは甚だしく劇的である。 
敗戦 によって、福沢諭吉がこの国の民主主義の鼻祖として復権した時、増田宋太郎 は触れてはならぬ危険人物として被われ、性急に忘れさられていくことになっ た」と書いた。 
佐高さんは、この福沢評価のシーソーゲームから、自身の「福 沢諭吉伝」を書き始めるのだ。

 佐高信さんは、松下が「反・福沢」の増田伝を書いたけれど、福沢と松下に は共通するものがある。 ユーモアのセンスである、という。 
松下竜一は、 九州電力豊前火力発電所建設差し止め請求訴訟に敗れた時、「アハハハ……敗け た、敗けた」という垂れ幕を掲げた。 
市民運動につきまとう悲観論、深刻癖 を吹きとばすユーモア感覚が松下にはあった。 泣かれるより哄笑される方が 相手は怖いということを松下は知っていた、というのだ。 
法曹界から、権威 ある裁判をコケにしたという苦情が来た。 松下は「われわれがコケにしたの ではない。裁判所がコケにしたのだ。
最終弁論さえ許さずに裁判を打ち切った “不真面目”な裁判所に恐れ入る必要はない」と書いた。 
その官を恐れぬ精 神も、福沢譲りに見える、と佐高さんは書いている。

596:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/05 21:40:52.26 xa+DZR6F0
「福澤諭吉と初代梅若實」その接点
URLリンク(kbaba.asablo.jp)

そこで福澤諭吉協会の会合だが、20日発行の『福澤手帖』152号に「『福翁 自伝』の表と裏―松沢弘陽さんの読みなおし―」
という一文を書かせて頂 いた松沢弘陽先生がいらっしゃったので、開会の前に、ご挨拶する。 すると 直後に、松沢弘陽先生の今回校注を担当された
「新日本古典文学大系 明治編」 『福沢諭吉集』(岩波書店)を始めとする永年の福沢研究の業績と貢献に対して、 福澤諭吉協会からの表彰があった。 
嬉しいことだった。

 土曜セミナーでは、とても興味深い話を聴けた。 学問探求の醍醐味の、お 裾分けを頂く。 日本思想史がご専門の前坊洋(まえのぼう・よう)さんの「福澤諭吉と初代梅若實」。 
福沢とは、まったく別世界に生きる人間だと思われる 能楽師、観世流の初代梅若實(1828~1909)との間に、意外なつながりがあった。  梅若實は、江戸幕府瓦解時に東京に残り能楽を今に伝えた立役者で、
宝生九郎・ 桜間伴馬(左陣)とともに明治三名人といわれた。 60年間、一度も欠けること のない日記を残し、2002~3年に『梅若実日記』全7巻が八木書店から刊行さ れている。 
帯に「幕末維新・明治期のすべての研究者必見」とある。

 福沢との接点の最たるものは、明治28年12月12日芝公園の紅葉館での福 沢の還暦祝賀会(日清戦争で一年延期した)で、梅若實が「橋弁慶」を演じたこ と。 
日記によると、観世宗家の観世清廉(きよかど)に話があり、梅若實は清 廉に頼まれた。 12日に紅葉館の隣の能楽堂で午後2時から3時半までの公演 を行った記録がある。 
翌13日の項を読んで、前坊洋さんは「盲亀の浮木、 優曇華の花」だと驚く。 
一門人の「横浜蓑田長二郎(正しくは長三郎、長二郎 は父)より姉かつ子へ土屋勘兵衛二男大輔ヲ迎へ婚姻相結祝ノ鳥の子餅 松魚 節壱円ノ切手参る」とあったからだ。

 これより先、福沢の長男、一太郎はアメリカ留学から帰国後の明治22年4 月、福沢家の家庭医の一人、近藤良薫の世話で、
横浜の商人蓑田長二郎の長女 かつと結婚したが、10月に実家に帰ったまま戻らず、翌年4月離婚となった。 
福沢は蓑田家を非難し、すさまじい攻撃力、速射砲のような書簡がある。

 その離婚から約6年、その蓑田長二郎の長女かつが再婚したわけだ。 『梅 若実日記』明治29年1月17日「箕田ノ聟ハ昨十二月参る。
長三郎ノ姉勝子へ 五日市土屋勘兵衛二男大輔ト申スヲ迎へ婚姻アル」。 この「五日市」(現、あ きるの市)土屋勘兵衛は、
明治百年に色川大吉によって発見された五日市憲法草 案の起草者・千葉卓三郎の所に、その元になった嚶鳴社憲法草案を持ち込んだ 人物だった。

 福沢の側からばかりの資料で判断すると、落ちて来るものがある。 蓑田家 は、一太郎の離婚問題で福沢が、日頃の説に反し「素町人、土百姓之輩」
(蓑田 家が離縁状を求めたのを謝絶する明治23年4月15日付近藤良薫宛書簡にある ←馬場)と口走ったような悪い家ではない。 
蓑田長二郎は、美術品と生糸を扱 う富裕な商人で、横浜七十四銀行の筆頭株主で取締役(近藤良薫も取締役で大株 主)、ある程度文化的活動をした人だった。

597:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/06 06:32:14.46 UELCJaaL0
>>594-596
情報ありがとう!
福澤諭吉は話題に事欠かないね!

598:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/06 12:18:43.93 zXhQSgZ20
版元のHPにも平山さんの新著の情報が載ってるね。

アジア侵略の批判者 福沢諭吉 脱亜論・朝鮮滅亡論そして尊王論 平山洋
URLリンク(www.minervashobo.co.jp)

599:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/06 16:45:18.68 XthdqNTM0
>>598
平山さんのページと本の題名が違うような?

600:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/06 18:41:18.79 VA4bLmvq0
>>599
すごい! 3通りの題名のある本だ! 
平山さんのことだから、3バージョンあって3つとも買わせる算段かも。

>>558には『アジア独立論者福沢諭吉』と『福沢諭吉はアジア侵略論者か』
>>599にはさらに『アジア侵略の批判者福沢諭吉』が加わっている。

どれが本当の題名なんだ。HPが正解かな。


601:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/06 20:09:38.25 zclgxUvkO
おばさんたちの方にまたアンチが来ているから、
誰か行ってやれよ

602:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/06 22:45:48.03 3f21DkbU0
>>598
情報ありがとう。
出版年月日 2012/06/30 ということは、今月中に出るわけですね。
それにしても、慶應義塾大学出版会からではなくて、ミネルヴァから
出版されるというのが、平山さんの立場を物語っているようですね。

603:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/07 07:35:32.55 YGdP1ysjO
慶応出版の初代社長は富田だからね

604:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/07 13:33:10.66 nqPPATbA0
>>595
福沢没後は終戦まで福沢の評価は低かったから、安川が侵略戦争の先導者として福沢を批判するのは
見当違いも甚だしいということができる。

605:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/07 16:48:13.99 7Kln70sh0
>>600
よくわからないが結局福沢は侵略論者だったのか?

606:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/07 16:55:40.27 O/PyVctA0
>>605
それを知りたければ新本を読め、ってことだろ w

まったく、商売がうまい

607:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/07 18:53:39.15 /SITIkF30
要するに都倉の方は福沢が時事新報にどれくらい手をいれたのかわからないから
時事新報全体を見ろって言っているわけだよね
平山は時事新報のうちの一部が福沢の意見の反映なのであって
どれがそういうものなのかをなんとか選別して議論せよって言う
都倉の立場なら福沢を侵略論者と描きやすく平山なら逆か

608:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/07 19:50:32.38 YGdP1ysjO
よい論点

609:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/08 07:42:41.68 K5hTnfTV0
>>607
どうも分からんのは、福沢自身は時事新報から手を引いたと言っている(自伝)のに、
なんで全体を見なきゃ福沢を理解できないと考えるかだな。
福沢関与の証拠がある社説だけを見なければ、福沢は分からない、というなら
まだしも同意できるんだが。(都倉准教授への疑問になるか。)

610:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/08 21:18:46.82 FMpUCkNG0
天下無敵のメディア人間―喧嘩ジャーナリスト・野依秀市―
佐藤卓己/著
URLリンク(www.shinchosha.co.jp)
ブラックジャーナリズムの祖にして、GHQから最も多く発禁処分を受けた男。

昭和前期から戦後にかけて「言論界の暴れん坊」の異名をとる男がいた。
反体制も躊躇せず、戦時下は反東条の姿勢を貫き、一方で対米戦を過激に煽る。
その結果、収監されることも一度や二度ならず。だが彼ほど「世論」を体現した者はいなかった。
表の言論史には現れぬ鬼才に焦点を当て、真のジャーナリズムとは何か、その原点を考える。

URLリンク(www.shinchosha.co.jp)
「風流夢譚」事件を煽動した「右翼(?)」の大物
 昭和前期から戦後にかけて、「天下無敵」「言論界の暴れん坊」と異名をとる人物がいました。雑誌『実業之世界』、
日刊紙『帝都日日新聞』を経営し、言論活動を展開した野依秀市です。ただ、一般の言論史では抹殺された存在である彼の名は、今ではほとんど忘れられていると言っていいでしょう。
この鬼才に焦点を当て、真のジャーナリズムとは何か、その原点を考えようと試みたのが、メディア史、大衆文化の研究者である佐藤卓己さんによる本書です。
では、この消されてしまった野依式「喧嘩ジャーナリズム」とは、一体どんなものだったのか……。
戦後、彼の悪名を決定的にしたある事件が起きました。一九六一年の「風流夢譚」事件です。
中央公論新人賞作家・深沢七郎が『中央公論』に発表した風刺小説「風流夢譚」、この空想物語は「左慾」革命により天皇・皇族が皆殺しになるというあまりに衝撃的な内容の問題作で
発表と同時に宮内庁、あるいは多くの右翼団体が不敬であると抗議し、
ついには右翼団体の17歳青年・小森一孝が中央公論社社長であった嶋中鵬二氏宅に押しかけ、夫人に重傷を負わせ、家政婦を刺殺するに及んだという事件でした。
 この時、先頭を切って「風流夢譚」に対して激しく抗議活動を行なったのが野依だったのです。自らが発行する『帝都日日新聞』紙上で、
作者の深沢と中央公論社へ向けて連日筆誅を加え続け、また「小森少年のテロがなければ新聞はあんなに書かなかったろう」とテロの動機そのものについてまで理解を示していました。
戦前には右翼から「偽装共産党」と糾弾された野依は、この事件以来、「右翼」のレッテルが貼られることになります。
 ところが、少なくとも野依には、自分が右翼だという意識は毛頭なかったようです。野依は言います、「右翼の諸君は宜しく『中央公論』をしてもっと徹底的に謝罪さすよう行動を起して貰いたい」。
彼は体制の流れに迎合したり、安易に誰かの考えに与したりすることが大嫌いでした。彼の真情は、愚直に自分の意見を貫き通すことだけだったのです。
例えば、戦時下では反東条の姿勢を貫きました。その一方で、戦後のGHQ検閲による没収図書には23冊も挙げられ、個人ではダントツの1位という名誉ある(?)記録も誇ります。
「風流夢譚」事件での抗議も、あくまで一言論人として「皇室への無礼」に憤慨し、特に小説の中で「美智子妃」の実名があげられていたことが許せなかったからでした。
 野依が「天下無敵」と評されたのは、言論、出版活動のあまりの過激さ、傍若無人ぶりから来るものでしたが、
一方でどんな劣勢の状況に置かれても決して持論を譲ることなく、呵々大笑していた器の大きさにも由来するものだったのです。
 その時々の大衆の感情、つまり「世論」を体現した“メディア人間”の一代記、その痛快さを是非、堪能してください。

611:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/08 21:19:39.98 FMpUCkNG0
URLリンク(blog.goo.ne.jp)

野依秀市と言っても、貴人をはじめ、ほとんどの人はわからないと思いますが、
言わば、三鬼陽之助、佐藤正忠の大先達というか、あの手の雑誌の元祖、草分けであった人物です。この野依秀市は、
明治の財界人に取り込み、「帝都日日新聞」などを創刊し、衆院議員も2期つとめた右翼というか、文字通り、新聞記者の原初、土俗的ジャーナリストです(笑)。
貴人が興味を持つ人物なので、お調べになると良いと思います。人間的に愛嬌のある人らしく、とても思想、
心情的には異なると思える、あの内村鑑三とも仲が良くて、野依の事業や著書の推薦人になっているほどです。


へー、驚きました。そんな人がいたなんて全く知りませんでした。先生のメールは続きます。


彼は、「の」という平仮名の家紋をつけた羽織を着て、慶應出身(自らは大分生まれで、慶應義塾商業学校出身)の財界人などに近づき、政・財界に大きな人脈を築きました。

佐藤准教授は現在「考える人」誌でこの野依秀市のことを連載中です。同准教授は、野依が戦前、朝日新聞を「国賊」と批判、糾弾しながら、
元共産党員を自らの「帝都日日新聞」に雇い、同紙は東条内閣では45回も発禁処分を受けていると、メディア史の研究家らしい視点で野依を捉えております。 
ご興味があれば、「考える人」誌を読まれると良いでしょう。

612:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/08 21:21:42.76 FMpUCkNG0
野依秀市先生と念仏信仰
四宮政治文化研究所
URLリンク(shinomiya-m.txt-nifty.com)

『歎異抄』に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」「親鸞は父母のためとて、一返にても念仏したること、いまださふらはず。」
という言葉があるので、親鸞はあくまでも個人の救済を重視していたと理解する人がゐる。また浄土教・阿弥陀信仰は、「厭離穢土・欣求浄土」という言葉もある通り、
厭世的で来世に救いを求める信仰と理解する人が多い。したがって、日蓮信仰と比較すると、国家・社会改革に対しては積極的ではないと思われてきたようである。
私もその一人てあった。
ところが私が高校生時代に書生をさせていただいた野依秀市先生は、晩年に至るまで活発なる言論運動・政治運動・愛国運動を活発に展開した。
のみならず生涯を通して戦闘的姿勢を貫いた人である。野依氏が許せないと思った政治権力者・財界・軍部・学者など他者に対する非難攻撃は凄まじかった。
そのために四度にわたって囹圄の身になった。それは、浄土真宗宗門にも及んだ。
大正十二年七月には「大谷光瑞氏に自決を勧告して本願寺の改革と門徒諸氏の覚醒に及ぶ」という著書まで出している。しんだら極楽浄土に往生すると説いているのに、
「自決勧告」とは面白いが、野依先生には、退嬰的あるいは厭世的な生き方は微塵も見られなかった。
野依秀市先生は次のように論じている。「未來で極樂淨土に參らせて頂ける、と云ふことになって居るが我々は之を信ずる。
信ずればこそ其處に人生の樂しみがある。既に世の中に樂しみを有して居るからには、この現世が厭になったり早く死なうなどと思ったりする譯がない。
…國家社會のことにしても、その現状及び將來を悲觀してこそ、其處にこれでは可けない、轉回の必要があると感じ、
それが爲に大なる元気を出し、大なる希望を見出して、大いに奮闘しやうとするのである。この境地に達せんとするには、一旦、小我を捨てて大我を見、
他力に依って極樂を信じ、眞に親鸞の教に歸依しなくてはならぬ。」(『絶對の慈悲に浴して』)と論じている。
考えてみれば、一向宗は近世初期、織田信長と果敢に戦ったし、一揆も起こした。もともとは戦闘的であり行動的だったのである。それが退嬰的と言われるようになったのは、
徳川三百年の太平、そして徳川幕府の宗教政策に呑み込まれてしまったからであろう。

613:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/08 21:25:14.72 FMpUCkNG0
野依秀市先生について
四宮政治文化研究所
URLリンク(shinomiya-m.txt-nifty.com)

最近、野依秀市先生についての論文を書かせていただいた。小生は昭和三十九年、高校に通いながら野依秀市先生の書生をしていた。
またその当時生長の家で活動していた。その頃野依秀先生は、紀元節復活運動を全國的規模で展開していた。
生長の家の谷口雅春先生は、野依先生の運動に全面的に協力し、共に演説會を何回も行なった。また、谷口先生は野依先生の主宰する『帝都日々新聞』に度々原稿を書いた。
野依先生は、情熱の人であり、明るい性格の人であった。また熱烈な「皇室中心主義」「愛国心」の持ち主であった。
野依秀市先生は、明治・大正・昭和にわたる長い間、縦横無尽に活躍したが、何故か言論史・政治史・宗教史にその名を記されることは少ない。
国難の時期に際会している今日の日本において、言論界・政界・宗教界に人物が少ないと言われる中にあって、野依秀市先生の信仰精神と足跡を再評価することが必要なのではあるまいか。
『歎異抄』に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という言葉があるので、親鸞はあくまでも個人というよりも自分一人の救済を重視していたとする人がいる。
また浄土教・阿弥陀信仰は、「厭離穢土・欣求浄土」という言葉で要約されるので、厭世的で来世に救いを求める信仰と理解する人がいる。
したがって、日蓮信仰などと比較すると、国家・社会改革に対しては積極的ではないと理解する人が多い。小生自身もそうであった。
ところが野依秀市先生は、いわゆる個人主義者でも、厭世思想の持ち主でもなかった。生涯にわたって言論活動・政治運動・愛国運動を活発に展開し戦闘的姿勢を貫いた人である。
退嬰的な生き方は微塵も見られなかった。「愛国の快男児」と自ら称されていた。
考えてみれば、徳川氏が天下を統一し江戸幕府による宗教統制が強固になる以前の真宗教団あるいは信徒は、
一向一揆や石山本願寺の歴史を見ても分かる通り退嬰的どころか極めて戦闘的であった。
信長との戦いで、本願寺第十一世・顕如は、「進む者は極楽、退く者は地獄ぞ」と号令したという。野依秀市先生はこうした戦闘精神を継承したのかもしれない。

614:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/08 21:25:15.39 EOl5Uv2N0
>>610>>611
福沢とまったく関係がない内容ではないが、
紹介するにしてももう少しきちんとまとめなよ。
宣伝だとしたら逆効果だよ。

615:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/08 21:30:30.62 FMpUCkNG0
野依秀市先生についての原稿を書いています
四宮政治文化研究所
URLリンク(shinomiya-m.txt-nifty.com)

野依秀市先生についての原稿を書いています。この方は、明治・大正昭和の三代にわたって、言論界・政界・宗教界そして愛国運動で大活躍をされた方であります。
「実業之世界」「帝都日日新聞」という新聞と雑誌を刊行し、破邪顕正の立場から論陣を張られました。
さらに、戦前一回・戦後一回大分県から衆議院議員に選出されました。
昭和三十年の保守合同(民主党と自由党が合同し現在の自由民主党が結成されたこと)では全国的な国民運動を展開しました。
明治末期に、筆禍によって入獄されましたが、獄中で阿弥陀仏信仰に目覚め、出獄後、世界仏教協会を結成され、猛烈なる宗教運動を開始されました。
そして「世界仏教」「真宗の世界」という雑誌を刊行しました。
つまり、言論人・政治家・宗教家という三つの面で活躍されたのであります。
さらに、戦時中は「米本土空襲」を唱えて全国行脚をされました。戦後は、「中央公論糾弾運動」「紀元節復活運動」に挺身されました。「愛国の快男児」と言われました。
私は、高校三年の時に、野依先生の書生となりました。高校卒業までのごく短期間でしたが、色々ご教導をいただきました。
野依先生の信仰信条、そして様々な活動について、私なりに書かせていただく所存であります。阿弥陀仏信仰と愛国運動がどう結びつくのかは大きなテーマであると思います。

616:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/09 03:41:14.01 tIlbXR650
なぜこのスレにって感じはしますね。

617:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/09 08:56:34.36 fGHuZ62X0
福沢諭吉の言葉
URLリンク(avidjungreader.blog102.fc2.com)

618: 忍法帖【Lv=17,xxxPT】
12/06/10 17:41:45.97 xcw6pP5F0
test

619:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/10 19:41:44.74 JZSrfVnW0
小川原本の感想を聞きたい

620:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/11 21:51:05.32 VYvXATvt0
おかしいな、確か読んだ人がいたと思ったんだが

621:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/12 07:47:12.36 F/JfMBH60
>>609
石河の全集編纂事業は、なかったこと、にして、現代の全集刊行委員会が、新たに選びなおせばよい。

622:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/12 21:06:30.20 FW1cinD40
>>610-613>>615
なんだ。新刊の宣伝だったのか。

Amazon.co.jp: 天下無敵のメディア人間: 喧嘩ジャーナリスト・野依秀市 (新潮選書): 佐藤 卓己: 本
URLリンク(www.amazon.co.jp)
出版社: 新潮社 (2012/4/27)

内容(「BOOK」データベースより)
昭和前期から戦後にかけて「言論界の暴れん坊」の異名をとる男がいた。
反体制も躊躇せず、戦時下は反東条の姿勢を貫き、一方で対米戦を過激に煽る。
その結果、収監されることも一度や二度ならず。だが彼ほど大衆の感情、
「世論」を体現した者はいなかった。表の言論史には現れぬ鬼才に焦点を当て、
真のジャーナリズムとは何か、その原点を考える。

623:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/13 18:27:01.54 kos2xJld0
ジャーナリズムや世論への訴えという視点から
福沢と比較するとそれなりにおもしろいかも
いや、時期的には石河との比較になるだろうか。
そう考えると、福沢研究の基礎というか方向性を示した
石河の言説研究はそれほど進んでいないことに気づくな。

624:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/13 20:23:15.08 cGAn9a7q0
ミネルヴァのHPではアジア侵略の批判者になっている

URLリンク(www.minervashobo.co.jp)

625:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/14 00:45:14.98 1iCd+FtY0
>>624
平山さんの新刊を収録しているミネルヴァの「シリーズ・人と文化の探究」って、
伊藤之雄さんの『伊藤博文と韓国統治』を収録していたシリーズだったのか。

ミネルヴァ書房 > 歴史 > シリーズ・人と文化の探究
URLリンク(www.minervashobo.co.jp)

伊藤博文と韓国統治 初代韓国統監をめぐる百年目の検証
URLリンク(www.minervashobo.co.jp)

626:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/14 02:57:42.23 PM7dSAHb0
『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』「天は人の上に人を造らず…」の出典について
URLリンク(www.koubunken.com)

627:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/14 09:09:23.42 1xXk8goL0
>>625
地味な人物研究の学術シリーズだな。値段が高いのは大学図書館向けだからだろう。

628:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/14 20:17:30.85 yFxAVAv+O
あんな値段で売れんのか

629:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/15 12:38:17.08 YdKNQ9f00
>>626
福沢イズムの合言葉とかよく分からない文章なのだけれど、
結局は何を言いたいんだろう?


630:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/15 12:51:11.89 9N4yLP2S0
平山さんの新刊、ミネルヴァのHPでもタイトルが「アジア独立論者」になった上に、発売予定日も7月に延びたな。
URLリンク(www.minervashobo.co.jp)

631:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/15 13:06:11.01 vOhPsPbb0
>>629
安川に質問したら?

>>630
うおっ、値段も上がっている! まだ加筆しているんじゃ???

632:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/15 14:20:38.09 YdKNQ9f00
>>631
安川に質問する機会があればするかもしれないけど、
平山と安川のやりとりを見る限りでは、
安川の議論の仕方自体理解できないんですよ、私。。。

633:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/15 14:39:26.67 vOhPsPbb0
>>632
それは安川たちが、自分たちにしか通用しない言葉で議論しているからだろう

634:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/15 18:46:58.88 6u/VPKK90
>>630
「アジア独立論者福沢諭吉」が正解だったみたいだね。

635:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/15 22:28:35.83 XLvqzWSV0
>>630-631
ありゃりゃ、出版年月日 2012/07/20、予価 本体7,000円+税 になってますね。

>>632
安川さんは、
「以上の件につき、関心のある方は、高文研宛てにご連絡をいただければ、
8頁にわたる詳しい経過報告の文書を送らせていただきます。」
と言っているのだから、高文研宛てに質問してみたら?

636:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/16 05:03:24.75 eZtV9Hqr0
助教の書いたもんに値打ちなんてあるのか?

637:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/16 09:55:43.01 6QFaQFYS0
たしかに教授の安川の方が値打ちがあるよな

638:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/16 23:11:25.38 kfuVdt360
>>637
安川さんは名誉教授ですよ。

639:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/17 04:46:52.10 8ZwaBw9Y0
安川寿之輔さんの本には、署名にかならず「名古屋大学名誉教授」という肩書きが入っているね。

640:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/17 17:43:29.40 lb5q7CDwO
あはは

641:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/17 19:32:12.01 zAlQ6dNk0
素晴らしい

642:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/18 00:45:14.72 kmdgTxNX0
>>635
高文研は
「8頁にわたる詳しい経過報告の文書」を持っているんだったら、
それをウェブで公開すればいいのにと思われ。

643:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/18 01:06:25.30 kJ4OXiip0
なるほど

644:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/18 14:17:11.68 Qqppanmh0
名誉教授号って、研究の内容も授与審査の対象になるの?

645:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/18 14:28:43.71 stL/fWeB0
淫行(=わいせつ)犯人を捜しています!!!!

■女子中学生にわいせつ行為をした犯人を捜しています!!!!
URLリンク(www.youtube.com)

■女子中学生にわいせつ行為をした犯人を捜しています!!!!Part2
URLリンク(www.youtube.com)

646:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/18 14:52:43.95 fMn80+Dg0
井田メソッドの信憑性
URLリンク(aoimon.blog7.fc2.com)

647:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/18 16:53:42.82 WEnkRfFD0
>>646

これは面白い!

648:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 07:50:32.86 DnNAt3H60
>>646

平山が真筆認定していた「忠孝論」は、真筆ではなかった!

URLリンク(blechmusik.xii.jp)

649:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 09:56:52.12 dVDllQhd0
小川原正道の『福澤諭吉の政治思想』読んだ。
第1部政治構想に含まれる、議会論(第1章)・憲法論(第2章)・天皇論(第3章)・外交論(第4章)
のできはなかなか。このまま大学の教科書として使えると思う。
第2部人間観に含まれる華士族論(第5・第6章)・宗教論(第7章)・明治政府との確執(補章)
は悪いわけではないが、『官との闘い』や、それに付随する具体的トピックで、
読み物としては面白いが、学術著作としての密度は平均水準。
全体の点数は5点満点中の4くらい。

650:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 12:15:21.55 DnNAt3H60
>>649

安川や平山の扱いはどうなっている? 3、4章あたりで。

651:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 12:43:58.89 jue5pLYt0
>>649
>第1部政治構想に含まれる、議会論(第1章)・憲法論(第2章)・天皇論(第3章)・外交論(第4章)
>のできはなかなか
目新しい福沢分析として何か書いてあった?

652:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 14:15:38.64 dVDllQhd0
>>650
安川も平山も索引には出ていない。註からは採っていないようなので、
そちらは直接見ないと。本文中では大きくは取り上げられてはいなかったと思う。

>>651
議会については、幕末期は国会論、それから県会優先論となり、明治11年ころ
また国会論(憲法草案とからめて)、そして14年政変後はやや距離をおくようになった
とのこと。なぜ優勢順位が変わったかについては、はっきりとは書いてなかった。
憲法論についての新たな見解は、政変のトラウマをより強く言っているところかな。
天皇論は「帝室論」重視で、戦前は重要視されていなかったのに、戦後にわかに重要となった
という部分が興味深い。安川に触れていないので、反論もない。
外交論についても丸山の意見にそったもので、従来の正統派政治学者の見解をなぞっている。
いや、「パワ・イズ・ライト」の側面は最初からあった、というところからは、
むしろ安川にも近いのか。ただしそれはリアリズムということで、むしろ弁護している。
全体としてよく調べてあって、結論も正統派として妥当。だから教科書向きといえるが、
刺激的というところは少ない。

653:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 16:42:07.88 jue5pLYt0
ありがとう
気になるのは尊王論がどう扱われているか、だな
URLリンク(project.lib.keio.ac.jp)
平山は尊王論執筆者を石河だと言っていたが
帝室論と尊王論の読み分けについて書いているんだろうか
実際に取り寄せて読んでみるよ

654:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 17:03:08.04 gpjN9dtv0
>>653
「尊王論」を出版した集成社というのは聞いたことの無い出版社だと思って検索したら、
同時期に「三酔人」を出したところのようだ。福沢との関係は?

655:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 17:59:26.07 dVDllQhd0
>>653
巻末に書名索引があって、『尊王論』は9箇所にでてくると分かる。で、
執筆者問題には触れていない。つまり100パーセント福沢作の立場。
ただ、立脚点の置き所が、皇室の「政治社外性」から
「神聖性」に移っていることについては、64ページに指摘がある。
よくよく調べてみると、安川については註や参考文献も含めてまったく
触れられていないのに対し、平山については「脱亜論」に言及している
第4章の註(123ページ)で、『福沢諭吉の真実』の題名が記載されている。
あとは参考文献に、それと『福沢諭吉』があげられている(270ページ)。



656:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 18:31:22.44 1YqRtqig0
URLリンク(rocketnews24.com)

657:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 19:47:26.37 rQxhtSKYO
なんだ

658: 忍法帖【Lv=26,xxxPT】
12/06/19 21:47:03.61 099w3rxB0
危機の時代のリーダーとは… 交詢社オープンフォーラム
URLリンク(sankei.jp.msn.com)

「危機の時代のリーダーを育てる」をテーマにした「第4回交詢社オープンフォーラム」(産経新聞社後援)が17日、
東京都千代田区の大手町サンケイプラザで開かれ、安倍晋三元首相の基調講演やパネルディスカッションが行われた。

 交詢社は明治13(1880)年に福沢諭吉が提唱し、「知識を交換し、世務を諮詢する」をスローガンに創設された日本最古の社交機関。

 約500人の聴衆を前に安倍元首相は「リーダーに必要なものは責任感と判断力、情熱」と指摘し、
「リーダーは国を愛し、守るべきものは何かを自覚した者」と結んだ。

 このあと、山内昌之・明治大学特任教授▽猪瀬直樹・東京都副知事▽大竹美喜・アフラック最高顧問
▽谷内正太郎・元外務事務次官の4氏がリーダー像について議論を交わした。

659:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/19 22:04:24.21 r6k4XLc10
>>655
読みました。

「第三章 天皇論」は、『福沢諭吉 「官」との闘い』にも、
収録されていましたね。デジャヴュかと思ってしまいました。

付録の資料「時事新報社説(福澤諭吉自筆原稿確認分)」には
5編の社説が収録されていました。

①1884年(明治17年)2月26日・27日 「仏法ノ運命如何」
②1884年(明治17年)4月1日 「不景気ニ狼狽スル勿レ」
③1892年(明治25年)6月3日 「海軍省所管」
④1893年(明治26年)8月9日 「株式市場の変動」
⑤1896年(明治29年)3月17日 「日本銀行課税」

これらは小川原さんが自ら現物を見て確認したそうです。
つまり執筆者問題は既に前提とされている訳ですね。

あと、つまらないミスですが、晩年の『福澤全集緒言』から
「学問のすすめの評」の一部が引用されていて、晩年の
文章と説明されていたようですが、「学問のすすめの評」自体は
明治7年11月7日付けで新聞に掲載されたものなので、晩年の
文章とは言えないですね。

660:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/20 00:09:38.72 A5LtdqqHO
書き込みの質が高いねここは

661:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/20 07:15:59.43 dUK9gn9B0
>>659
この5編の全集の収録状況は、どうなの?

662:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/20 08:48:48.37 lXeZjrHu0
小川原本を読んだ住人はもう一人いるんじゃ? >>515
何か意見はある?

663:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/20 16:02:52.21 vGTMME4X0
>>659
小川原本で無署名社説の扱いがどうなっているのかと気になって、調べてみた。
本文中には福沢が関与していない社説があるとはかかれていない。
注意深く見てみると、第4章外交論の註45(126ページ)に、
「以下、本章で扱う『時事新報』社説に対する福澤の関与について概観しておこう。」
とあって、石河の例の言明が引用され、さらに関与の証拠として明治20年から
26年までの手紙が紹介されている。
草稿残存社説については付記があるが、ないものも使用されていて、
それはどうなのかはっきりしないように感じられる。
巻末の「書名・論考名」をざっと見てみたが、
安川が問題視している日清戦争期以降の社説はほとんど非言及だ。
となると、安川からは、「逃げた」と批判されるのは避けられない。

664:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/20 18:57:06.72 ot8TfODH0
>>663
GJ

665:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/21 05:56:51.26 Zze+XL810
>>646
井田メソッドを信頼できないとしていた杉田聡の証明が、じつは信頼できることの証明になっていたとはね

666:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/21 15:22:25.89 PpgVodHK0
>>663
それを読む限りでは都倉氏と同じスタンスの気がする
福沢が時事新報の論調に多かれ少なかれ影響したのだから
福沢存命時の論説は一応福沢が目をとしたものとして論じているんじゃないかな

667:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/21 15:44:14.34 KZezHd5Q0
>>666
そうだとすると、都倉氏や小川原氏は、安川氏が批判する諸社説について、
どう弁解するんだろう? 台湾の蜂起民を殲滅せよ、と福沢が主張したことを認める?

668:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 06:09:41.76 RW7s9G+TO
そうするしかないだろうな

669:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 07:59:32.44 Nzbjdi5P0
>>666
でも、目を通した、という証言は石河のものだけしかないわけでしょう

670:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 11:52:22.51 uzolyCN80
>>669
それって本当?
福沢が話したことは一度もないのかな

671:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 13:02:32.77 Nzbjdi5P0
>>670
積極的に新聞社説に関わっている、という内容の手紙は
明治26年(1893)8月24日付日原昌造宛書簡が最後(小川原本127ページ)。
つまり日清戦争以後の紙面を統括していた福沢側の証拠は、ない!

672:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 13:22:15.92 HjzdgHsy0
>積極的に新聞社説に関わっている、という内容の手紙は
じゃあ消極的ながら関与していた、という手紙はどれくらいあるんだろうか

673:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 22:00:33.51 RW7s9G+TO
たしか福沢の真実に書いてあったはず

674:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/22 23:48:55.60 cD4/a0ku0
>>673
『真実』にはこう書いてあります。
文中の「この四年」というのは1887年、1889-1891年のことです。

----
渡辺退社直後の日原昌造宛
書簡に、「唯今は社説に老生一名の外に(石河・菊池の)二少年あるのみ。随分忙しき次第に
御座候」(八九・二・二)とある。このような状況に鑑みて、この四年について八割以上の社
説に福沢が無関与であった、とは到底思われないのである。
----
『福沢諭吉の真実』、123頁

675:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/23 06:13:29.72 kInSSb7BO
これは積極的関与の時期についてだね
日清戦争以後は?

676:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/23 15:17:41.85 RqwvkheN0
Eテレで、知花くららがアルバート・クレイグにインタビューしてる

677:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/23 15:34:02.35 /jrMYMh70
そうか、福沢が新聞社説に積極的に関与していた時期と
消極的に関与していた時期を分けて考えないといけないのか
ずっと関与していたものだと早とちりしていたが、
そうじゃないと考えるのがよさそう

678:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/24 12:21:19.97 ac2FTOtB0
慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉|ウェブでしか読めない|時事新報史
URLリンク(www.keio-up.co.jp)

【創立時在社】
中上川彦次郎、飯田平作、伊東茂右衛門、牛場卓蔵、岡崎亀雄、岡本貞烋、須田辰次郎、津田純一、
波多野承五郎、森下岩楠、矢田績、小幡篤次郎(客員)

【途中入社】
飯田三治、井坂直幹、石河幹明、伊藤欽亮、井上角五郎、岩本述太郎、岡本利兵衛、清野(竹越)与三郎、
桑田(三宅)豹三、小金井権三郎、高木喜一郎、高橋義雄、竹下権次郎、津田興二、村田彬、本山彦一、山名次郎、渡辺治、日原昌造(客員)

【入社時期不明】
石川半次郎、江口源治、岡崎郁二郎、小野田孝吾、金子静一、金子友之助、川上精一、河野頼策、小原(左近)与之助、
鈴木千巻、長尾喜三、夏目力蔵、平塚源太郎、馬越章造

【名目役職者】
大崎(牧野)鈔人、箱田半三郎、福城□〔一字不明〕朗

679:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/24 20:15:38.35 PJCvoWwT0
>>678
これでは肝心の執筆時期がわからないね

680:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 01:29:44.55 sL3fvg5Y0
>>677
福澤の時事新報への関与は年とともに少なくなっていったようです。
『福翁自伝』では以下のように言っています。

----
併(しか)し私も次第に年をとり、何時(いつ)までもコンな
事に勉強するでもなし、老余は成る丈(た)け閑静に日を送る積りで、新聞紙
の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹
明(いしかわみきあき)、北川礼弼(きたがわれいすけ)、堀江帰一(ほりえきいち)などが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た
文章を見て一寸々々(ちよいちよい)加筆する位にして居ます。
----
福翁自傳 - 546 ページ :
URLリンク(project.lib.keio.ac.jp)


681:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 03:12:31.32 rtJHQiZg0
>>680
だとしたら、1894年以降、1898年まで、毎年100編以上全集に収められているのは、
おかしくはないか?
『福澤諭吉』の後ろから30ページにある表ではそうなっている。
それより前の1889年には46編しは入っていないのに。

682:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 12:47:13.69 Ya5MDDsQ0
>>681
だんだん遠くなったわけではない、ように見えるということね

683:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 14:59:51.13 Zl+bA1My0
どれどれ。平山伝記の「年度別の「時事論集」掲載論説集一覧」を写してみるか。

西暦  単行本日数 大正版 昭和版
1882  40       17 33
1883 8 24 56
1884 12 9 57
1885 39 17 58
1886 8 14 42
1887 0 12 34
1888 19 8 24
1889 0 24 52
1890 12 16 34
1891 0 15 69
1892 22 14 82
1893 15 14 65
1894 0 10 139
1895 0 12 123
1896 (74) 4 96
1897 (39) 10 102
1898 (57) 3 103
1899 (51) 0 31
1900 (5) 1 38
1901 (19) 0 8

カッコ内は社説欄以外の特別欄掲載。
1898年の脳卒中発作以後の掲載分の執筆は発作前。


たしかに大正版では「だんだん遠くなって」いるな。「昭和版」も合わせると
ずっと関与していた、だ。



684:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 15:01:03.74 Zl+bA1My0
あれれ、うまく書式が保存されていない。でも分かるだろ。

685:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 16:18:59.68 7XHSfI2w0
1894年から98年まで、昭和になってから軒並み100編以上追加されている
これは怪しすぎるだろ

686:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 17:18:47.30 Ya5MDDsQ0
>>683-685
1898年なんか大正版が3編で、昭和版で103編増補とはいくらなんでも…
こうした数字は初めて出てきたみたいだ

687:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 17:32:56.39 Zl+bA1My0
あと、>>672については、以下引用

また国府津での避暑から戻った九二年秋以降の書簡を虚心坦懐に読み返しても、
福沢が毎日の社説に細かく差配していた気配を感じ取ることはできない。
確かに自らが立案した社説についての指示は残されている。九二年九月から倒れた
九八年九月までの六年間に社説に言及している書簡は一九通確認でき、
そのうち一二通は石河のもとに保存されていたものである。
それらの中で扱われている社説の総数は約二五編である。
同じ期間について大正版「時事論集」には五九編、
昭和版ではそれに加えて六五六編もの社説が収録されている。
二五編にかかわっていたのだから残余の七百編近くにも関与していたであろう
というのが従来までの解釈であった。

とはいえ、もし関与があったと仮定すると、非常に奇妙なことになるのである
。石河が伝記で述べているように、『時事新報』には福沢の生涯にわたる指導があり、
社説の論調は一貫して福沢が決定していたのだとしたら、
同じ時期に発表された社説の相互に大きな矛盾が生じることはない。
そこに変化があるとしても、それは福沢が考えを改めるに応じた、
非常にゆっくりしたものになるはずである。
最初は民権の獲得を重要視していたのに、
二〇年を経てみるといつしか国権の拡大ばかりを言うようになっていた、
というような、気づかれにくい変更となろう。

ところが、現行版の「時事新報論集」における論調の変化はそのようになっていない。
石河が主導権を握った一八九二年頃から一挙に清国人・朝鮮人蔑視の傾向と
領土獲得の要求が強まる一方で、ごく稀に、
『学問のすゝめ』や『文明論之概略』の頃とほとんど同じ調子の真筆社説が
掲載されるようになっていくのである。「支那人親しむ可し」もその一つであるが、
もしも石河がその時期に至っても完全に福沢の言いなりだったとしたら、
その論旨と相対立する民族偏見論説は発表できなかったはずである。
ところが安川によれば、実際には、「支那人親しむ可し」(九八・三・二二)の後にも
「支那に対して更らに要求す可きものあり」(九八・四・二七)や「対韓の方針」(九八・四・二八)
のような恥ずべき社説が掲載されている。
これは、もうこの時期には、福沢の言うことに石河は聞く耳をもたなかった、ということを意味している。

『福沢諭吉の真実』177~178ページ

URLリンク(blechmusik.xii.jp)


688:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/25 22:34:43.06 Yij35UT00
平山は福沢の思想が首尾一貫していて
そこに石河のものが紛れ込んでいるからおかしく見えるって論調だけど、
福沢の思想自体が1890年代に支離滅裂になった、とは考えられないかな

689:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/26 01:07:51.90 vMeedMEd0
>>688
平山さんは、福澤の著作で社説欄に掲載されて単行本になったのは、
1893年5月刊の『実業論』が最後だという事実を指摘して、
  「日清戦争を挟む四年のうちに、漠然とではあるにしても、
  『実業論』をもって福沢は『時事新報』の社説から身を引いた、と
  当時の読者は考えたのではなかろうか」
と言っていますね。(『真実』の176~177頁)

つまり、『実業論』以後は、福澤の社説が稀になって、むしろ
石河の社説の中に、福澤の社説が紛れ込んでいるような状態に
なったと言えるのではないのかな?

690:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/26 07:32:39.46 xk2b5ds+0
>>688
その点については、以下引用。

とはいえ、もし関与があったと仮定すると、非常に奇妙なことになるのである。
石河が伝記で述べているように、『時事新報』には福沢の生涯にわたる指導があり、
社説の論調は一貫して福沢が決定していたのだとしたら、
同じ時期に発表された社説の相互に大きな矛盾が生じることはない。
そこに変化があるとしても、それは福沢が考えを改めるに応じた、
非常にゆっくりしたものになるはずである。
最初は民権の獲得を重要視していたのに、
二〇年を経てみるといつしか国権の拡大ばかりを言うようになっていた、
というような、気づかれにくい変更となろう。

ところが、現行版の「時事新報論集」における論調の変化はそのようになっていない。
石河が主導権を握った一八九二年頃から一挙に清国人・朝鮮人蔑視の傾向と領土獲得の要求が強まる一方で、
ごく稀に、『学問のすゝめ』や『文明論之概略』の頃とほとんど同じ調子の真筆社説が掲載されるようになっていくのである。
「支那人親しむ可し」もその一つであるが、もしも石河がその時期に至っても完全に福沢の言いなりだったとしたら、
その論旨と相対立する民族偏見論説は発表できなかったはずである。
ところが安川によれば、実際には、「支那人親しむ可し」(九八・三・二二)の後にも
「支那に対して更らに要求す可きものあり」(九八・四・二七)や「対韓の方針」(九八・四・二八)のような
恥ずべき社説が掲載されている。
これは、もうこの時期には、福沢の言うことに石河は聞く耳をもたなかった、ということを意味している。

逆に、安川が主張するように、民族偏見論説を書いている姿のほうが当時の福沢の実像であったとすると、
「支那人親しむ可し」のようなまともな論説を執筆する必要がどうしてあったのか、
ということについての説明が困難になるのである。

石河が書いていた社説は、今日の目で見れば恥じるべきものであるとしても、
一八九八年当時は特にそのようには受け取られていなかった。
いやそれどころか事態は一九三三年に至っても同じで、
石河は自分の書いた論説を『続全集』に収めることで福沢の名声をより高められると信じていたのである。
そうであるなら、あえて「支那人親しむ可し」を執筆しなければならない理由など全くない、ということになるであろう。
この点について、安川はその主張を「嘘」と断じてはいるが、
なぜそんな嘘をつかなければならなかったのかについて何の説明もしていないのである。

所収の論説は全て福沢を体現しているという石河の主張を真に受け、さらに安川の考えと整合させるためには、
日清戦争後の福沢は狂ったように日々石河に民族偏見論説を起筆させ、
ある時突然我々の想像もつかない理由から「清国人を蔑視してはいけない」という
嘘八百の(しかも今日の目ではごくまっとうな)真筆論説を発表した、ということになる。
こんな馬鹿げた話を信じる者はいないのではなかろうか。
(以上『福沢諭吉の真実』177~179頁)

URLリンク(blechmusik.xii.jp)




691:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/26 13:42:42.47 e1UoTvyb0
「馬鹿と片輪に宗教、ちょうど良い取り合わせだろう」
(福沢諭吉全集 第20巻 232ページ)
URLリンク(kariyatetsu.com)

692:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/26 20:03:43.06 mUhSjtLkO
選挙が近づくとこのネタがわくな

693:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 07:23:12.17 AWvYZzN40
>>672>>677
「九二年九月から倒れた
九八年九月までの六年間に社説に言及している書簡は一九通確認でき、
そのうち一二通は石河のもとに保存されていたものである。
それらの中で扱われている社説の総数は約二五編である。」>>687

これは福沢立案社説に添付された書簡だな。全般的に社説を統括している、
という内容ではなく。つまり消極的関与の手紙ということ。

694:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 09:26:04.04 xyW3jpEV0
なんでそんなに石河にばかり書簡を送っていたんだろうか
福沢は石河を特に敵視?していたのかな

695:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 10:37:30.48 TeVgj+Tf0
>>694
福沢が自分で立案した社説について、実際の執筆者である石河に
意見を付けて返却したメモみたいなもんだよ

696:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 11:47:31.27 AWvYZzN40
>>694
石河だけが書簡を手元に残しておいたからだろう。

697:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 11:58:55.47 DqLIpGdR0
>>690
この部分への安川の反論は、どうなの? つまり論駁に成功したか、ということなんだが。

698:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 13:53:12.42 xyW3jpEV0
>>695 なるほど。そういうことか。
>>696
だとすると、他の社員は福沢の書簡をさほど重視していなかったようにも思える

699:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 14:26:26.35 AWvYZzN40
>>698
というより、書簡集が最初に編纂された昭和版のときには、石河以外の社説記者は絶滅していて、
そんなもんどっかに吹っ飛んでいた、ということだろう。
たとえば自分の親父が仕事場から持ち帰ったメモみたいなものを、息子が処分しないでおくと思うかい?


700:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 18:37:59.07 IcT/Ts6Y0
>>697
俺の知る限り有効な反論はしていない。スルー。

701:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/27 22:50:42.62 aUtIK0B40
>>699
単に関東大震災で燃えてしまって、
残っていなかっただけジャマイカ?

702:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/28 07:27:22.24 4l2kE/NLO
下町にお住まいの慶応卒業生は少なかろう

703:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/28 16:45:52.94 B2SCgtCG0
時事新報社説への福沢の関与について、書簡から分かったことは、
1892年春までは掲載前に見ていたが、
1893年以降は自分の立案社説に言及した書簡しか残っていない、でOK?

自伝の最後の部分と同じじゃん

704:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/28 23:33:18.27 Xs607awk0
>>702
関東大震災は下町だけでなく横浜や神奈川県地方にも被害を与えました。
そして、石河幹明の『福沢諭吉伝』編纂にも障害をもたらしたのでした。

----
著者石河幹明が、義塾評議員会の議を経て、いわば公伝とも称すべき
福澤諭吉傳編纂の委嘱を受けたのは、大正12年(1923)6月のことであった。
当初編纂の期間を3か年としていたが、先生の死後20数年を経過した
時点での伝記編纂だけに、散逸した資料の蒐集や、たまたま起こった
関東大震災による障碍など、編纂上の困難は一通りではなく、若き日の
富田正文を唯一の助手として、昭和6年3月の脱稿まで、実に7年有余の
日時を費やしての完成であった。
----
[慶應義塾豆百科] No.80 『福澤諭吉傳』の復刊
URLリンク(www.keio.ac.jp)

705:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/29 08:24:10.44 VZPK6Bp0O
704
ははあなるほど
中上川宛ての書簡も焼失したと思われていたんだっけ

706:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/29 10:42:52.91 g8UiD0V/0
>>704
その割にはデキは悪いよこの伝記。
テキストクリティ-クがなってない。

707:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/29 16:47:14.65 9uO9KAd00
石河抜きの福沢像と
石河の考えを忠実に反映した福沢像は
相当違う気がする

708:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/29 21:41:58.28 WQtd8ei30
>>707
たとえば?

709:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 04:14:41.39 U394Uq+N0
平山さんの新刊ですが、表紙が決まったようです。
URLリンク(www.minervashobo.co.jp)

710:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 07:49:49.82 AzlY9j9q0
>>709
ちょっとイラストがデカいんじゃ? この絵は『福澤諭吉』の最初の方でも紹介されているな

711:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 12:28:51.93 n2+0sDC30
【書籍】 脱亜論で日本を帝国主義の迷路に誤導し原爆の洗礼招いた日本人~チョン・イルソン著「福沢諭吉」
スレリンク(news4plus板)
>福沢の脱亜論はアジア侵略の論理で朝鮮と中国支配を正当化している点で
>歴史歪曲の根源になっていることを説明する。

>この本は日本右翼支配層のゆがんだ見解を理解するのに役立つ。

韓国の福沢一般書に安川の言説が強く影響している?

712:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 12:35:07.56 n2+0sDC30
>>709
今気づいたけど
> 石河は社説「国の為めに戦死者に謝す」を『続全集』に入れたかったのではないか
これってそうとう踏み込んだ考察だよね
石河の真の意図があぶり出されるなら、画期的な研究になりそう

713:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 14:29:34.33 AzlY9j9q0
>>711
11年前の初版本を書き換えた、とあるね。つまり安川本を参考にした、ってこと。

>>712
平山サイトで検索した。↓の部分のことじゃないか。

このように、福沢が病後にも社説に係わった可能性は、限りなく低い。
にもかかわらず石河がこのように大量の自身の社説を続全集に入れたのは、
自分の文章を多く残したかった、ということもあるだろうが、それ以上にその中に、
『福沢諭吉伝』の立論のために欠かすことのできない社説が含まれていたから、
と私は推測する。それは、明治33(1900)年の北清事変で戦死した日本軍人を讃えた
「国の為めに戦死者に謝す」(1900年6月21日掲載)である。
この社説は、「旅順虐殺無稽の流言」と同様、まず『福沢諭吉伝』で重要な社説として紹介され、
次いで続全集に収録されたものである。内容は清国兵を豚呼ばわりしたひどい代物で、
安川寿之輔も『 福沢諭吉のアジア認識』(2000年12月・高文研刊)で本社説をアジア蔑視
・対外強硬策を表すものとして批判している(同書243頁)。福沢の思想ではなく、
石河のそれとしてなら、私もまったく同感である。
URLリンク(blechmusik.xii.jp)

714:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 15:30:04.69 kDL8bUPcP
"朝鮮侵略"主張した二つの顔の日本人を知っているか
ソウル新聞書評全文

【福沢諭吉】ジョンイルソン著知識産業社社発行

日本人福沢諭吉(1835?)をご存じですか。
日本の近代化を導いた啓蒙思想家で19世紀半ば以降、
韓日関係史に大きな影響を与えたジャーナリスト、
教育者であった。彼は日本で一般的に"国民の教師"、
"国民国家論の創始者"、 "絶対主義思想家"などと呼ばれる。
特に死んでから100年が過ぎたが、
今日、日本の金融の最高額の1万円の顔に復活し、
日本を象徴してています。
しかし、これは日本の歴史家たちが日本の近代化の過程に貢献した
彼の純粋な機能だけを浮上させたかの断面に過ぎない。
タルアロン(脱??)という名で日本を帝国主義の迷路
(迷路)にオドハン間違いを勘案すれば、彼の功績は半減せざるを得ない。
つまり、彼は二つの顔の男だ。
日本人にもグロハゴ私たち韓国人にもそうである。
日本人にはヨーロッパとアメリカを見習うと主張したという点では
先駆者かもしれないが、日本がアジアを支配しなければならないという
論理は、結局、日本にとって第二次世界大戦で原爆の洗礼を受けること
にしました。韓国人たちに、彼は朝鮮の開化派人士たちを助けて煽って
甲申政変を起こすために尽力した人でもある。 が、政変の失敗後、
日本の朝鮮支配を強く主張した張本人である。
また、日帝政府より先に立って日清戦争挑発を衝動して、
朝鮮にいた日本人の保護を口実に朝鮮に駐屯軍派兵の必要性を声高に叫んだ。
また、 "征韓論"を超える"ジョソンジョンリャクロン"を提唱し、
朝鮮の改革はすぐに、日本の独立を維持する道であるという論理を立てて、
朝鮮の国政改革を推進して監視する"朝鮮国務長官"問題を提案した。
この朝鮮国務長官は朝鮮総督の名前が変わって日帝植民地統治の象徴として
君臨することになる。新刊"福沢諭吉"(ジョンイルソン著、知識工業社発行)
は、このような事実に傍点を撮りながら、
彼の二つの顔を詳細に調査してていて目を引く。
今まで私たちに、日本の偉大な思想家であると認識されている点が間違って
いると指摘する。歴史教科書歪曲を主導している日本の右翼の支配層がほと
んど福沢"朝鮮·中国蔑視の理論"と精神武装しているという事実を強調する。
福沢タルアロンウンアジア侵略の論理であり、朝鮮と中国の支配を正当化し
ているという点で、歴史歪曲の源となっていることを説明する。
この本は、日本の右翼の支配層の歪んだ視点を理解することができます。
そのような点政治家、教育者、ジャーナリスト、
そして大学生が一度読んでくださいする必要があるという感じがするよう
にします。11年前に初めて本を出し、今回の改訂版を出した。1万9000ウォン。ギムムン先任記者km@seoul.co.kr


715:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 15:34:45.22 kDL8bUPcP
日本人・福沢諭吉(1835~1901)をご存知ですか。日本の近代化を導いた啓蒙思想家で19世紀中
盤以後、韓日関係史に大きな影響を及ぼしたジャーナリストであり教育者であった。彼は日本でよ
く「国民の教師」「国民国家論の創始者」「絶対主義思想家」等と呼ばれる。

特に死後百年過ぎた今日、日本貨幣の最高額である1万円の顔として復活し日本を象徴している。
しかし、これは日本の歴史家が日本近代化過程に貢献した彼の純粋な功績だけを強調した一断
面に過ぎない。

脱亜論という名前で日本を帝国主義の迷路に誤導した誤りを勘案すれば彼の業績は半減する他
ない。換言すれば彼には二つの顔がある。日本人にとっても私たち韓国人にとっても。日本人に
は欧米を見習えと主張した点では先駆者かもしれないが日本がアジアを支配すべきだという論理
は結局、日本にとって第ニ次世界大戦で原子爆弾の洗礼を受ける結果になった。

韓国人にとって彼は朝鮮開化派を助け甲申政変をたきつけた人でもある。しかし、政変失敗後は
日本の韓国支配を強力に主張した張本人だ。合わせて日帝政府より先に立って清日戦争を挑発
して朝鮮にいた日本人保護を口実に朝鮮に駐屯軍派兵の必要性を声高に叫んだ。また‘征韓論’
を越える‘朝鮮政略論’を主張し朝鮮の改革がすなわち日本の独立を維持するという論理を前面
に押し出し朝鮮の国政改革を推進して監視する‘朝鮮国務監督官’を提案した。

この朝鮮国務監督官は朝鮮総督に名称が変わり日帝植民統治の象徴として君臨することになる。
新刊「福沢諭吉」(チョン・イルソン著作、知識産業社編)はこのような事実に傍点をつけながら彼の
二つの顔を詳しく描いて注目される。

今まで私たちにとって日本の偉大な思想家という認識は誤りと指摘する。歴史教科書歪曲を推進
する日本右翼支配層の大部分が、福沢の‘朝鮮・中国蔑視理論’で精神武装している事実を強調
する。福沢の脱亜論はアジア侵略の論理で朝鮮と中国支配を正当化している点で歴史歪曲の根
源になっていることを説明する。

この本は日本右翼支配層のゆがんだ見解を理解するのに役立つ。そうした点から政治家、教育
者、メディア人、そして大学生が一度は読まなければならない必要があると感じられた。11年前の
初版を今回改訂出版した。

1万9000ウォン。

キム・ムン選任記者

ソース:ソウル新聞(韓国語) ‘朝鮮侵略’主に主張した二つの顔の日本人をご存知ですか
URLリンク(www.seoul.co.kr)

716:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 16:02:42.49 n2+0sDC30
>>714
タルアロンは脱亜論だろうね

717:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 16:04:43.88 kDL8bUPcP
>>714自動翻訳
>>715模範解答

自動翻訳もよくやっている。

718:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 16:26:44.66 AzlY9j9q0
>>711
あと、>>715に「絶対主義思想家」とあるだろ。このレッテルは旧講座派=共産党左派の定式。
具体的には服部之総・遠山茂樹・安川寿之輔くらいしか主張していない。
この本が安川の影響下にあるのは明白だな。

ところで、

韓国人にとって彼は朝鮮開化派を助け甲申政変をたきつけた人でもある。しかし、政変失敗後は
日本の韓国支配を強力に主張した張本人だ。合わせて日帝政府より先に立って清日戦争を挑発
して朝鮮にいた日本人保護を口実に朝鮮に駐屯軍派兵の必要性を声高に叫んだ。また‘征韓論’
を越える‘朝鮮政略論’を主張し朝鮮の改革がすなわち日本の独立を維持するという論理を前面
に押し出し朝鮮の国政改革を推進して監視する‘朝鮮国務監督官’を提案した。>>715

に当てはまる社説は、いったいどれなんだ? 開戦前に対清国攻撃を唱えたなんて聞いたことが
ないんだが。

719:名無しさん@お腹いっぱい。
12/06/30 17:12:01.69 rfT7UKuk0
【次代への名言】
司馬さん、遼(はるか)なり編(58)
URLリンク(sankei.jp.msn.com)

■「藩にしても国家にしてもおなじで、福沢諭吉がいったように、官の力で国が立つのではなく、民力があってはじめて国が立つのである」
(司馬遼太郎『街道をゆく 檮原(ゆすはら)街道(脱藩のみち)』)

福沢諭吉は、司馬さんが最も敬意を表していた日本人の一人であろう。

「むこうはどうも、あれだな、凄味(すごみ)といっちゃ違うが、とにかく日本のどういう英雄豪傑にもなかった種類の勇気というものがありますよ(中略)
義ヲミテナサザルハ勇ナキナリ、のあの勇です。それが福沢にはある。匹夫(ひっぷ)の勇ではない」

幕末を舞台にした『峠』には、のちに明治を代表するジャーナリストとなる、福地源一郎(桜痴(おうち))が、洋学の先輩である福沢についてそう語る場面がある。
「(激動の時代に)さらりと独立自尊をやってのけています」

司馬さんが評論家の江藤淳氏と対談したさいの福沢評だ。その福沢は西南戦争の後、政府を論難し、乱の指導者となった西郷隆盛を擁護する論文
『丁丑(ていちゅう)公論』をひそかにしたためた。このときの福沢の心中について、司馬さんは『「明治」という国家』でこう分析している。

 《西郷の死と、西郷の後輩たちの大量死は、サムライたちが保持していた日本人の品性や気骨、質実さが、今後、急速に薄れてゆくという不安を福沢にいだかせたのでしょう。
“個人の独立”といったところで、薄っぺらな個人が独立したところで、なにほどの美を済(な)すわけではありません。
福沢は、それより(中略)内村(鑑三)や新渡戸(稲造)たちが大切にした、武士道というものを大切にしたかったのです》(文化部編集委員 関厚夫)

720:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/01 04:54:02.95 VzapoZL/0
>>718
開戦前に対清国攻撃を唱えた社説といえば、
・「支那朝鮮両國に向て直に戰を開く可し」(1894年7月24日)
のことでしょう。

> 彼は朝鮮開化派を助け甲申政変をたきつけた人でもある。

たしかに、朝鮮開化派を助けたことは事実だけど、
「甲申政変をたきつけた人」というのは、
平山さんの調査報告「福沢諭吉は朝鮮甲申政変の黒幕か?」
URLリンク(blechmusik.xii.jp)
によると、井上角五郎の証言しか証拠が存在しないし、
その証言も信用できない内容だそうですね。

> 政変失敗後は日本の韓国支配を強力に主張した張本人だ。

政変失敗後の社説
・「朝鮮獨立黨の處刑」(1885年2月23日・26日)
・「脱亞論」(1885年3月16日)
・「朝鮮人民のために其國の滅亡を賀す」(1885年8月13日)
などは、むしろ福澤の朝鮮支援策が失敗したという敗北宣言と
解釈するのが有力な説のようです。

> 日帝政府より先に立って清日戦争を挑発
> して朝鮮にいた日本人保護を口実に朝鮮に駐屯軍派兵の必要性を声高に叫んだ。

これは、
・「朝鮮東學黨の騒動に就て」(1894年5月30日)
・「速に出兵す可し」(1894年6月5日)
のことでしょう。

> ‘征韓論’
> を越える‘朝鮮政略論’を主張し朝鮮の改革がすなわち日本の独立を維持するという論理を前面
> に押し出し朝鮮の国政改革を推進して監視する‘朝鮮国務監督官’を提案した。

「朝鮮政略論」に相当するのは、
・「改革の勸告果して効を奏するや否や」(1895年1月4日)
・「朝鮮の改革に外國の意向を憚る勿れ」(1895年1月5日)
・「義侠に非ず自利の為めなり」(1895年3月12日)
のことかな。
「朝鮮国務監督官」というのは見つかりませんでした。

721:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/01 08:50:25.64 /U0ezN5E0
>>720
平山サイトによると、
URLリンク(blechmusik.xii.jp)
「シナ朝鮮両国に…」は、昭和版採録・草稿非残存・推定石河執筆のようだ。
もちろん、福沢が関与していなかった証拠などないが、1933、4年に福沢の社説と
認定されたということだけは確実だ。

平山説が定説化してしまうと、左翼は本当に困ってしまうようだね。

722:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/01 10:42:45.76 3Mv1gifPO
全集に入っているが
福沢が書いたかはわからない

こういうのが多いんだろうな

723:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/02 09:31:04.11 KVYNyf3V0
今の岩波の全集が有効である限り
日本の左翼や韓国からの攻撃は
止むことはないであろう!

724:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/02 10:52:54.91 26w4WbPY0
まあ、福澤が経営していた新聞の論調が清国への早期開戦を主張していたとしても、
それだから悪いとはいえないのだがね。

725:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/02 19:40:33.39 y73Wk/46O
その方向で反論するか

726:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/03 00:07:10.14 qD/Vq8d40
>>723
平山さんの新刊が出ても攻撃は止まないのかな?

727:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/03 03:19:09.51 ZEgBtlLWO
もちろんだ
岩波には権威があるからな
w

728:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/03 07:35:43.65 EzR1e0st0
平山新本>>558を使えば買わずとも読めそう


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