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郡司大尉一行、ボートで千島探検へ ― 2012/02/21 03:59
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肝心の両国へ聴きに行った講演の話をする。 墨田区立緑図書館で行われた 舟川はるひさん(日露交流史研究家、ユーラシア研究所研究員)の「郡司大尉の 千島開拓」という講演だった。
私は舟川さんの母上、郡司保子さんと福澤諭 吉協会で親しくさせて頂いている。 保子さんの一昨年亡くなられたご主人敏 麿さんが、郡司成忠(しげただ)大尉の孫だから、舟川さんは曾孫にあたる。
郡 司大尉が1893(明治26)年千島探検に隅田川の言問から出発した縁での「すみ だ文化講座」、今回は二回目だそうで、1896(明治29)年開拓のために千島(占守 (しゅむしゅ)島など3島)に本格的に移住してからの話だった。
初めて聞くこ とばかりで、興味深いものだった。
私が聴いていなかった一回目の部分を、緑図書館の資料展や、郡司保子さん の著書『郡司家四百年物語』(新人物往来社)で振り返っておく。
郡司成忠は、 かの幸田家の二男で、郡司家を継いだ。
長男幸田成常は相模紡績(カネボウの 前身)の社長、三男は夭折、四男成行が作家幸田露伴、長女延はピアニスト、五 男成友は近代経済史の教授(一橋と慶應)、
次女幸はヴァイオリニストとなり、 それぞれ近代日本の歴史に名を残した。
1875(明治8)年、日露全権大使の榎本武揚とゴルチャコフによって、樺太千 島の交換条約が締結され、南樺太の権利を放棄するかわりに、千島列島の全て が日本の領有となった。
1891(明治24)年から翌年にかけ、明治天皇のご沙汰 で、片岡利知侍従の一行が全千島の探検と調査にあたった。
このことにより、 郡司成忠は、千島探検と殖民の志を更に固め、1892 (明治25)年、周到な千島 列島探検計画趣意書を政府に提出、志願者を募り「報效義会(ほうこうぎかい)」 を組織する。
だがロシアの反応を恐れた海軍は、表向き公式に応援せず、探 検船も貸してくれなかったので、1893(明治26)年3月20日郡司大尉の一行84 名ほどは、
払い下げられた端艇(ボート)5隻の「北航艇隊」で、隅田川から北千島 占守島を目指して出発する。
一行は途中八戸沖と白糟沖で2隻が遭難し、19名の乗組員を失って、ボート での千島行きを断念、軍艦や民間汽船の協力でエトロフ島、シャスコタン島、 占守島に到着し、越冬している。
政府は、報效義会に占守、阿頼度、幌筵(ほ ろむしろ)の3島の10年間貸与と徴兵免除の恩典付与をした。 この第一次報 效義会による探検と調査の時代は、1896(明治29)年8月まで3年5か月続く。