会津戦争で蛮行の限りを尽くした鬼畜薩長人を斬る!4at HISTORY2
会津戦争で蛮行の限りを尽くした鬼畜薩長人を斬る!4 - 暇つぶし2ch647:名無しさん@お腹いっぱい。
12/07/28 21:57:41.76 xnUO9dtG0
元会津藩役知村々の嘆願書
URLリンク(www.nnn.co.jp)
この歎願書の日付は慶応4(1868)年、つまり江戸末年の2月1日。ちょうど戊辰(ぼしん)戦争の発端である
鳥羽・伏見の戦いが幕府軍の敗走で終わった後に、本学が所在する旧御厨(みくりや)村を含む河内国4郡の代表4カ村
(交野郡寺村・讃良(ささら)郡岡山村・若江郡加納村・若江郡御厨村)の連名で、長州藩御役所宛てに願い出されている。

 これらの村々は会津藩役知といって、幕末に尊攘過激派から京都の治安を守るために幕府が置いた京都守護職を命ぜられた
会津藩が、その期間に幕府から与えられた所領であった。史料の概要を簡単に紹介する。

 4郡の石高のうち、1万7千石余りは元会津藩役知を仰せつかったが、このたび改正となったという経緯から書き始められ、

 「乍去(さりながら)何分御時節柄万一悪党もの又者(または)下方人気不穏成(なる)真逆乱妨〈暴〉もの出来候程と難計
(はかりがたく)、其節(そのせつ)当 御役所様江急訴乍恐縦願仕度(へきゅうそおそれながらじゅうがんつかまつりたく)、
(中略)御用多茂不顧(たもかえりみず)御催促ケ間敷段甚以奉恐入候得共(がましきだんはなはだもっておそれいりたてまつりそうらえども)、
深く御賢慮を以(もって)早々御支配所御示定之儀(ごじていのぎ)、乍恐御歎願奉申上候(後略)」とある。

 つまりは、「何分時節柄、万一悪党者や不穏なる乱暴者が現れるやもしれず、その際には長州様の御役所へ急いで訴え出たいので、
ご多用も顧みず催促がましいのですが、早々に支配をお決めいただきたい」と、前年の京都守護職廃止後その役知を解かれた村々が、
長州藩支配を催促している内容なのである。河内幕府領の農民は政治の趨勢(すうせい)を見てとるや、自己存続の道を求めて
雄藩へ擦り寄っているのである。

 『枚方市史資料』第2巻に収録された「慶応事件記」によると、1月6日幕府軍の兵士は八幡・橋本を守れず敗走し、中には、
高野街道を枚方・交野・八尾を経て河内に向かい、奈良越えした部隊もあった。敗軍の歩兵は村々にて食物・金銭・衣類を盗むなどし、
乱暴人がたくさん出た。旧御厨村周辺もまさに、「不穏なる乱暴者」が現れかねない状況であったことは想像に難くない。

長州藩支配を願い出た河内の幕府領村々の嘆願書
URLリンク(www.nnn.co.jp)


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch