12/02/17 22:07:27.92 pT05vIGO0
>>788,809,810
中国はむしろ村落の間隔が日本に比べて広く、日本軍は現地調達に苦労したのですが……
他のスレで御持論を披露される前に、まず上でも紹介しましたマーチン・ヴァン・クレヴェルトの補給戦を一度お読みになられては如何でしょうか。
欧州戦史に偏ってはいますが、詳細なデータを元に兵站史とその現実を分析を施した佳作です。
まずこれはよく勘違いされていることですが、WW2においても、食料を含めた完璧な補給を常に行えたのはアメリカ軍だけです。
日本軍は元より、ドイツ軍、ソ連軍においても補給を行うための兵站能力が不足しており、食糧の不足分は現地調達で補っています。
現地調達ですが、これは最前線よりその後背地で主に行われます。
旧日本軍は東南アジアや中国で軍票を濫発していましたが、これこそが現地調達の対価として使用されたものです。
ではなぜ牟田口中将が当時から現在に至るまで非難されているかといいますと、食糧の現地調達は現地で人が生産活動を行っていなければ不可能だからです。
人が居なければ当然食糧の備蓄などあろう筈がなく、略奪も市場による調達もできません。
また、現地における街、村、集落が軍の規模に比して小さすぎれば、当然ながら早々に調達すべき食糧は尽きるでしょう。
ビルマ-インド国境は、あえて言うまでもなく、生産性の著しく劣るジャングルと山岳に隔てられた人口過疎地域でした。
それに対して牟田口中将は、牛で部隊を編成し連れて行くという斜め上な方策を考案し、案の定失敗したため、今でも非難されている訳です。
上のレスで名前の挙がっているガダルカナルでの失敗も、上記の要因によるものです。
ちなみに、ドイツ軍においても鉄道網から現地へ輸送するための自動車が足りず、旧態依然とした馬匹まで使用しています
これらを踏まえて、幕末に戻ります。
まず京都-大坂ですが、上記の”人の生産活動が行われていない、或いは小規模な地域”に当然ながら当てはまりません。
また、畿内および中国地方東部には大小の藩があり、これらが全く兵糧米の備蓄を行っていないとはまず考えられません。
兵站線についても、山陽道の他に、越前藩が大阪へ米を輸出していた際に使用していた琵琶湖-淀川の水運とその周辺地域が利用可能です。
例えば、早々に新政府軍に転向していた彦根藩などはこれを即座に活用することが十分可能でしょう。
確かに大阪湾に旧幕府海軍がいることは新政府軍にとって大きな阻害要因となりますが、それを以って食糧の補給が不可能ということは非論理的です。
三十年戦争でもそうであったように、長期に渡る大規模な軍の駐屯は地域を疲弊させ、いずれ食糧の欠乏を招きます。
しかし、食糧を調達する後背地が広ければ広い程、そこでの生産活動が活発であればあるほど、その破局に至るまでの期間は伸ばせます。
糧食の調達において本国からの補給というのは、その『食糧を調達する後背地を広げ』かつ安定させるという行為であるという認識が必要です。
ちなみに、軍の兵員数はそのまま養う口の数に直結するため兵站にとっても重要な要素ですが、幕末と徴兵制採用後ではこれが大きく違います。
鳥羽伏見においては、多く見積もっても旧幕府軍15,000名、新政府軍5,000名です。
一方帝国陸軍ですが、1個師団で25,000名から15,000名になります。
たとえばお気に入りの牟田口中将によるインパール作戦を例にとりますと、参加兵力は第15軍3個師団を中心に約86,000名に上ります。
幕末の兵員規模と比較すれば、1日当たりで必要となる食糧の量が全く違うということがご理解頂けると思います。
これを欧州の戦史上で比較しますと、三十年戦争でのリュッツェンの戦いは、スウェーデン軍16,000名、皇帝軍26,000名です。
ちなみにこの時皇帝軍を率いたヴァレンシュタインは、皇帝の勅許の下、街や村に軍税として金銭および食糧の調達を義務付け
現地調達を効率的に行うシステムを構築しています。