12/01/28 07:54:52.45 0BZDGldX0
>食料と武器弾薬の備蓄が必要なんだから。
大阪天王寺が、幕府軍の補給基地になっていて、
そこにある武器弾薬、食料と突貫で大阪城に搬入すればよい事。
>在京の士は臆病だ
これは、12月12日に慶喜が大阪城に撤退する前の話で、月末、年末の話ではないね。
それに月末、年末では、幕府の外国事務局は、神戸開港、新潟海市、横須賀鎖港の
対応で追われていた。そこに更に王政復古のクーデターで6ヶ国公使と大坂城で会談
となり、そのセッティングなどもあり色々忙しかった。特に神戸開港は、幕府への
関税収入への足しが大きくなる事などから慶喜側近で12月以降の対薩長強硬策の提
唱者でもある永井尚志を担当者に当てるなど、慶喜政権ではかなり重要視されていた。
江戸でも慶応の改革の施策は、続けられており、全軍銃兵化や先込式銃への転換、
フランス将校による幕府軍の訓練、新兵募集の継続や横須賀製鉄所の拡大、鋼鉄製
軍艦の買付など幕軍改革の仕掛過程の業務が沢山あり、その一方で薩摩のテロ活動
への対策も打たなくてはならない等江戸の陸軍局、海軍局、会計局(勘定奉行)は
結構忙しかった。
更に江戸の陸軍局、海軍局、外国事務局は、大政奉還や王政復古で朝廷新政府の三
職会議の決議内容次第では今後の日本の軍制度が決まるのでそれに対する準備まで
している。
67年5月以降は、幕府従来の奉行制や老中合議制は廃止し、西洋型の事務局制とその
トップに担当老中を当てる事実上の内閣制に移行している。
この様に個別政策に関しては担当部署以外の人間の発言では動かなくなり始めている。
また、それ以外の慶応の改革の施策でも忙しい。
この様に大政奉還~王政復古時期の幕府上層部は、中々忙しくて、はっきり言って
京での討幕派への対応策や朝廷でのロビー活動まで頭に入っていない状態。フラン
ス大使のロッシュでさえも慶応の改革では部局ごとの改革の進捗度が違ったり、横
の連絡が取れていなかったりで、ロッシュの目には改革の進展は捗々しい物ではなかった。
その為に慶喜が江戸に帰還して自ら慶応の改革の先頭に立つように要請している位。
しかし京では、薩長の王政復古のクーデターなどがり、その対応策や畿内諸藩の動向、
朝廷新政府への内部工作等の難問が山積しており、とてもじゃないけど江戸に帰れる状況
でもなかったが、江戸では慶応の改革の途中であり、京への政変への対応工作よりも
幕府自らの改革作業や朝廷新政府への合流準備の方が忙しくて、幕閣はあまり京への政変
対応策まで目が行っていないのが実情。だから鳥羽伏見の戦い後にイキナリ慶喜が江戸に
軍艦で戻って来た事にも江戸での幕閣が驚いている。一々江戸の幕閣が薩長相手の施策ま
で判断していた訳でもない。