戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性についてat HISTORY2
戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について - 暇つぶし2ch513:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/17 23:22:42.41 t8Tw523W0
>>508
座礁したのは幕府艦隊の砲撃や追撃を逃れる為なんだから、結局逃げ切れなかったという事。
逃げ切れたのなら、座礁なんかしなかったはず。

>薩長がうんと言わなければどうせまとまらないわけなんだがら意味ないね。

薩長抜きでまとまりそうだったよ慶喜の新政権参加問題は。
むしろ薩長の方が孤立気味だった。それなのに幕府軍が鳥羽伏見に進軍してきた。

薩摩藩の関東でのテロ活動やテロ支援活動の報を聞いて、
幕臣が頭に来てそれを慶喜が押えられなかった為に幕府軍が鳥羽伏見に進撃してきた。

12月12日に慶喜は二条城から撤退、14日には東西二箇所ある京都町奉行所が朝廷の命令で急に廃止。

その為に両京都町奉行所の与力・同心だった武士と見廻組は、新遊撃隊に再編され、
伏見奉行所の武士と共に同奉行所に配備された。大目付の永井尚志に従って下坂し
北野天満宮に陣取っていた新撰組だが、伏見鎮撫を命ぜられ、伏見奉行所に合流、
年末ぐらいまでは、京付近の幕府側の兵力はこの程度で、基本的には幕府軍は大阪に居た。

伏見では幕府の奉行所があるので、そこが鳥羽伏見の戦いの時も幕府側の拠点となったが、
奉行所は本来軍事施設ではなく、行政分署であり、幕府側もこの程度しか軍事拠点がなかった。

だから年末に大軍をそろえて大阪から出陣する事が無ければ、幕府と朝廷の武力衝突は避けられた。

伏見奉行所近辺で、見廻組や新撰組、新遊撃隊(旧京都町奉行所詰の武士で構成)あたりが
示威行為を盛んにしていた為に討幕派と小規模な衝突や狙撃事件は多発していた。
現にこの時期に伏見街道で近藤勇が伊東甲子太郎暗殺の報復として御陵衛士に狙撃され
被弾し大阪城で治療を受ける程の銃傷を負う。 その後、御陵衛士は解散状態になり
薩摩藩邸に逃込み戊辰戦争では赤報隊に加わっている。

この様に幕府や諸藩の藩兵は出動しておらず、年末に幕府軍と譜代佐幕派諸藩の藩兵が、
大挙鳥羽伏見に進軍しなければ、正規軍同士の大規模な戦闘は起きなかったであろう。

ただ、新撰組やら見廻組は、伏見奉行所付近で討幕派の諸組織との小競り合いを続けるだけ。


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