10/11/30 19:34:00 C6SXcoip0
土佐藩が藩を挙げて公武合体に進んでいたなら、まだ慶喜にも勝ち目はあったかもしれないよ。
しかし当時の記録を見る限り大政奉還の頃には、幕府側の史料で土佐は悉く倒幕に靡きなどと書かれているので、
慶喜側の接近策は容堂一人にしか効かず、土佐藩は討幕路線一辺倒だったのだと分かる。
坂本龍馬暗殺も、会津藩の意図していた土佐と薩長との連絡役を潰すという効果ではなく、
身内を幕府勢力に殺されたことによって、土佐藩を薩長へに接近させる結果を生んだ。
大政奉還をしないのなら幕府は政権として突っ張れたし、
会津桑名が大政奉還絶対反対路線でまぜっかえさなければ、妥協の余地もあった。
幕府側の不一致が、旧幕府勢力が徹底的に敗北するまで追い込まれた原因でしょうね。