11/07/27 04:09:36.75 V/QAxbtL0
>>311
当然それも理由としてある。
慶喜は水戸系であり、大奥は南紀派だからどうしようもない部分が有る。
大奥としては15代将軍には亡き家茂の意向として三歳児wの田安亀之助を推していたし、
それがダメなら最後の紀州藩主の徳川茂承を推していた。また家茂と茂承は大変仲が良かった事も有る。
しかし和宮と幕閣と幕権派中堅官僚は、「今の時期には慶喜しか将軍職をこなせる人材は居ない」
と大奥に逆らう動きを見せ、結局将軍職の4ヶ月空位を経て慶喜が15代将軍に任官する。
この4ヶ月空位期間に岩倉が“宮将軍”の画策を行うなどの混乱もあったが、孝明天皇の強い意向もあり、
ついに慶喜は15代将軍に任官する。しかし慶喜が将軍に任官した直後に孝明天皇は崩御される。
ただ大奥の“慶応の改革”の反対は、水戸系将軍と紀州系大奥の対立だけでもないらしい。
慶喜が将軍職任官した慶応2年の末から幕府では急ピッチで幕府軍の近代化と産業インフラの整備を進めた。
その為に慶喜は大奥関連の予算をバッチリ削ってしまい、その事でも大奥からかなり恨まれている。
慶喜の正室である美賀子などは、大奥に行っても布団一枚も出してもらえなかった。
さらに驚く事に大奥が「慶応の改革」に反対した理由は、これにより幕府が西洋式の軍事色を
強める事そのものに嫌悪感を持っていた事だ。元々慶喜と仲の悪い天章院はもとより、
慶喜将軍任官を支持した和宮ですらこの意向を示し、二人とも慶喜が西洋式の軍服を着た
写真を見せられると大変嫌がった、と言われる。
また江戸城内でも慶喜治世下では、伝統的な武家の装いが廃止され始め、西洋式の衛兵が配置され
砲台や兵舎の設置も行われている。天章院も和宮もこの様な江戸城の西洋式の軍隊化に激しく反対していた。
慶応2年(1866年)の慶喜の大奥改革に対しては、天章院は、今まで仲の悪かった
和宮と協力して徹底的に反対しているが、これは大奥改革が“慶応の改革”の
費用捻出の為と疑っていた為であろう。