戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性についてat HISTORY2
戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について - 暇つぶし2ch200:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/02 02:36:27.63 OutBiSDD0
>>199
そういう連中を集めたのが、京都の見廻組や新撰組なんだがw

また、最後の幕政改革の「慶応の改革」で旗本の部隊指揮権と領地収入の半分が幕府に奪われた。
幕府陸軍は、必ずしも旧来の身分制度に捕らわれない人材が登用され始めている。
従来の旗本八万騎から西洋式の銃兵に変わろうとしている時期に、旧来の身分のどうのこうのは無関係。

201:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/02 17:33:14.04 /i1CUq730
素直に考えりゃよかったと思うんだよな。
関東が騒乱状態だから江戸に帰って幕府改革を進めるでもよし。
京でのクーデタ対処を優先して薩摩に対抗するでもよし。

関東を固めれば、一時は政局を放棄しても幕府はクリンチに持ち込めただろうし、
京で対抗すればどこかで折り合いがついた。鳥羽伏見の初日が全てだった。

202:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/02 21:32:19.02 MbmC5FMW0
関東に帰っても幕府なんて機関はもう存在しない
あるのは関東徳川領

203:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/03 09:54:50.96 8YYRHH2l0
>>200
よく反乱起こさなかったなと思うんだが、旗本。
旗本改革訴えた原市之進は殺されたのに。

204:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/03 22:25:53.27 Lfrck5b50
徳川にはまだ!手付かずの旗本八万期がいる!

205:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/07 20:52:20.98 flFqra6r0
いや実際には旗本八万旗もいないし。五千旗ぐらいだし。

206:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/10 20:54:30.87 gZ1L/7lO0
幕府歩兵が貴重な実戦経験を積めるし、関東・奥羽諸藩の動向は固まる
皮肉にも鳥羽伏見の後から幕府歩兵は実戦に慣れ始めている
それと、薩摩藩邸焼き討ちで幕閣と慶喜の意思疎通が齟齬することは少なくともない

207:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 11:32:26.43 aSMR7L8I0
>皮肉にも鳥羽伏見の後から幕府歩兵は実戦に慣れ始めている

だから慶喜は、大阪城に立て籠もって戦争を続けるべきだったんだよ。

カダフィを見習えってんだ。


208:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 11:55:25.40 gLDsW6lV0
カダフィは援軍を呼ぶ当てがあったが、ケーキちゃんの場合、主力として関東から上ってくるのは
幕府歩兵隊の居残り組みとその他有象無象だぜ?

209:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 17:33:37.32 QI/9rWe3O
大佐の敵は民兵と脱走兵ぐらいだけど
慶喜の場合は主力が有利な状態で
少ない敵に粉砕されたからねえ


210:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 18:43:30.28 d0zVdwPE0
というか慶喜って旧幕府軍の勝利を強く望んでたの?
幕府軍が薩長に勝利するってことは幕藩体制が続くってことでしょ。
抜き打ちで辞官納地を要求されたのは腹が立つけど、江戸の幕府首脳に対する不信感も強そう。

211:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 20:51:07.41 n5YGRpEa0
鳥羽伏見の戦いや大阪城の戦いで慶喜が勝ったら、
ニ条摂政の後任として慶喜が、徳川宗家の領土や軍隊を持ったまま摂政になるだけ、

慶喜バージョンの明治維新が進むだけ、つまり慶応の改革が、より大規模に遂行される。

幕藩体制維持は、慶喜の望む所ではない。

あと関東には徳川陸軍24,000人が居たんですけど、史実では使いませんでした。

もしガッツがある慶喜が大阪城で篭城していたら、関東の徳川陸軍24,000が小栗指揮の下で西進するでしょう。
他にも奥羽越列藩同盟や関東甲信列藩同盟の部隊も徳川陸軍に続いて西進すると思います。

212:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 21:05:39.93 hsrf8kxG0
>>211
>他にも奥羽越列藩同盟や関東甲信列藩同盟の部隊も徳川陸軍に続いて西進すると思います。

それは妄想。徳川慶喜が絶対権を確立するには、他の同盟の成立は許さない。
ゆえに公儀政権も名ばかりの徳川慶喜に隷属した組織になるし、
そこでの軍事活動も、幕府ないし徳川慶喜の次の政権の枠に隷属した、下働きとしての活動になる。

213:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 21:10:32.89 7YXIt4Of0
大坂籠城は、何度も指摘されてるけど、津藩、淀藩が寝返り、
紀州藩の動向にも疑念が飛び交ってるような状況では無理だったと思うよ。
幕府艦隊が摂海を遮断して薩長軍の上京を阻止し、
なおかつ幕府歩兵や諸藩が速やかに大坂へ進発すれば別だけれども、
大坂に籠居していると知って駆け付けてくる藩はそれほど多くないでしょ

やはり京での決起か、もしくは江戸帰還。

214:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/14 08:02:21.92 5tLldOpC0
籠城ってのは「籠もっているだけ」だから、負けはしないが勝ちもしない。

215:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/16 15:27:55.78 mqmd3urF0
籠っているだけ、って事はない。
西郷は。鳥羽伏見の戦いの後半には、長州藩や広島藩や土佐藩と大阪城攻略の打ち合わせ
をしている。土佐藩は、その時に裏切って、幕府軍と合流するつもりだった。

216:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/16 22:09:56.23 sCNnJMmh0
土佐藩って幕府軍に合流するつもりだったんか?
んー谷干城や板垣退助とは違う反主流派でも存在していたの?

熊本藩みたいに。

217:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/17 13:54:23.08 6/dl/gR/0
土佐藩が幕府に味方する積りだったのは鳥羽伏見の時だろ
幕府軍が京に乱入出来てれば実現した

その後はわざわざ遠ざけてた主戦派の板垣やらが軍を率いて復帰してるから難しい

218:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/17 19:38:41.73 D3SbpXLn0
>>211
長州征伐でその五倍率いても大敗じゃないかw

219:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/18 09:49:32.91 zxjFmrvI0
薩長は、鳥羽伏見の戦いに勝ったとはいえ、それなりに被害も受けており
また、5千人と言う寡兵でもあるので、西郷は、それぞれ洛中に千数百人程度
の軍勢を集結させている土佐藩や広島藩に大阪城攻略の応援を頼んでいる。

土佐藩の裏切り計画は、始めは官軍による大阪城包囲に加わってから、
城内の幕府軍と連絡を取り合流する腹積もり。
既に鳥羽伏見の戦いの最中にも連絡を取り合っているが。

山内容堂と後藤は、大阪城の戦いは、長期化が予想され、特に
官軍サイドの補給が続かない事を見越しており、西郷も幕府軍が
大阪城に籠もられたら大変だ、と言う認識を持っている。

慶喜が大阪城から逃げ出した事で、全てがオールアウト!

220:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/18 10:16:31.45 kUTNGoDw0
一分銀コレクターなんだが、幕末はエラーや偽鋳が結構多いんだよね
お前らが思っている以上の混乱だった気がする、何事も理屈通りにはいかないよ

221:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/18 11:46:21.98 svfLhjBY0
>218
第2次長州征伐時に稼動した幕府歩兵大隊は4個にすぎない、幕府側諸藩兵も殆ど洋式化されていない。

鳥羽伏見参戦の幕府歩兵大隊は伝習大隊含め11個、幕府側諸藩の洋式化もいくらかは進んでいる。

また武器弾薬の輸送は海路を取らざるを得ず、また輸入も当然海からで制海権は確実に幕府が抑えているので補給が困難。

さらに薩長の戦費にしても大阪商人が拠出しているので、大阪押さえていれば戦費拠出もままなならない。
平時では商人自治にに任せていたが、戦争となれば薩長に金出す商人の首切ることも可能。


222:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/18 22:31:34.65 fHcBUXsE0
鳥羽伏見の戦いの後の大阪城の戦いで幕府側の強みは、天王寺に幕府軍の
物資が集積してあるので、それを大阪城に入れるのにはそれほど時間が
かからない事と大阪城の砲兵隊は、まったく無傷で残っている事。
また、>>221の言うとおり幕府海軍が大阪湾の制海権を握っている事。

この3つがある。

大阪城の砲兵隊は、鳥羽伏見には出陣していない。
また弱兵の指摘が有るが、大阪城には、3000人の予備兵力(旗本出身)が居る。
これらの兵力は、鳥羽伏見の戦いには全く参加していない。

これらを新規に戦闘に投入できる大阪城の幕府方は、軍事的にはかなり有利な立場。

223:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/19 07:18:31.54 7ZmDtseWO
紀州藩、美濃大垣藩、庄内藩などは長州より先に軍備の洋式化、近代化をしてる

224:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/19 20:21:03.57 zWFW4uNP0
>>221
長州はそれ以上に進んでいる。
長州藩は戊辰戦争末期には二万ほどミニエー銃輸入しており、
諸隊の数も200を越えている。隊ひとつで100人ほどだから、
二万という大軍だ。洋式化されて訓練された軍がな。

また幕府が制海権を抑えていたというのも間違いである、
抑えているなら、薩長の軍がそもそも自由に上陸できるわけがない、
長州征伐でもオンボロの長州海軍に制海権を握られており、
幕府海軍はなにも出来なかった、大島からは追い出され、馬関海峡を自由に航行していたのは長州である。
ましてや薩摩の海軍までいるのに、幕府がかなうはずもなし。

また長州藩は100万両ほど貯金を隠しもっており、当座の資金に困る事はない。
また大阪をどうやって幕府が抑えるというのか。
商人の首などきれば、幕府からさらに人が逃げるだけである。

225:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/19 21:32:29.18 t2BGXqdo0
>224

大きな間違いをしている。
ミニエー銃2万丁というのは戊辰戦争終了時点であり、江戸をおあさえて以降に江戸、横浜の商人からも徴収して戦費にしている。

また動員兵力=派遣可能兵力ではない、戊辰戦争ピークでも長州が派遣した戦力は7千程度。

話を戻すが鳥羽伏見時点での在京戦力は千名余にすぎない。

鳥羽伏見時点の話をしているのに時系列がむちゃくちゃ。
海軍にしても第2次長州征伐時の幕府軍艦は富士山、朝暘の2艦のみ
鳥羽伏見時点で大阪沖にいた幕府軍艦は2800tの日本唯一のフリゲイト開陽はじめ富士山、回天、蟠竜の4隻がいて兵庫港にいた薩艦2隻は開戦と同時に尻尾をまいて逃げた。


226:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/19 22:16:07.38 gXQmTIly0
6日に尻尾を巻いて逃げたのは開陽ら榎本艦隊でしたが。

227:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/19 22:48:38.99 4xAmdsNv0
両サイドの兵の数だけ見るなら、
「戊辰戦争、薩長軍勝利の可能性について」の方がしっくり来るのだが、
その可能性が現実となってしまい、後の歴史が作られているのだから仕方ない。
まさかの慶喜トンズラ!は誰もが予測できない可能性だと思う。

228:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 07:40:02.93 WIVEuOru0
兵の数だけ見なくても、緒戦で薩長軍が負けてたら薩摩藩指導者は失脚でしょ
いくら玉を抱えてても
本当に西郷大久保以下が見通しがあって決戦に踏み切ったのか疑問なんだよな

229:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 11:44:24.50 eFnCd0pF0
大きなターニングポイントは鳥羽伏見の初日。
市街地の伏見はともかく鳥羽方面は兵の質量からしても幕府側が戦闘態勢で望めば負けるべくも無い。

朝廷内でも倒幕主戦論の薩長は浮いている存在でほとんどの大名、公家は日和見であって第一日目で幕府が敗退しなければ、幕府側に多くはなびく。


230:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 13:19:38.32 y98VZVP1O
大阪城にどっしり構えられたら薩長は手がでない
その上で京方面を包囲するような布陣で圧力をかければ薩長主導の勢力は自然と崩壊しそうだ

231:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 13:24:50.36 y98VZVP1O
錦旗というが勝って玉を挽回すれば長州がそうだったように朝敵の汚名は返上できる
慶喜は自分こそ尊皇という自負があったはず
すると何考えて逃亡したのかよくわからない

232:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 20:33:30.88 YeEk6rfV0
なんで幕府が負けたかはっきりとは言えないけど、薩摩藩は相当自信があったんだろうね。
少なくとも幕府勢力をなめていた節はあると思うよ。

安政の大獄初期に島津斉彬が政局物申すために精鋭部隊を率いて上京しようとしたり(これは未遂だが)、
文久年間に島津久光が兄のやり方を継ぎ、藩兵を率いて江戸に威嚇上京を行って幕政改革を成功させたり・・・
鎖国が解かれたとはいえ、幕府しか貿易の権利がないところを、江戸のお膝元の横浜で堂々と諸外国と貿易をしたり・・・
(幕府は薩摩の威勢に遠慮して、知らないふりを決め込む)

王政復古のクーデターも薩摩藩のそれまでの武力を背景としたやり方と同じなだけに、
まあ「今回も上手くいくだろう」思っていたような気がするんだけど、要求が限度を超えてたため鳥羽伏見の戦いになっちゃった。。

>>231
俺もわからん。慶喜が逃亡した理由は別にあったんじゃないかと思うのだが・・・
緒戦で負けて錦旗が出たから逃亡した・・・では、あまりに慶喜の行動が自由すぎるw
仮にも2ヶ月前まで将軍。そんな個人的理由でいいのか!?って普通は思う。

233:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 20:52:35.03 YeEk6rfV0
やっぱり慶喜はそれまで将軍として薩摩藩の重役らと接してきて、
どう考えても幕府側に対抗できる人材がいない・・・というのを身に染みて感じていたからだと思うのだが。。。
で、大阪籠城をあきらめたとしか思えない。

というと、佐幕派が猛追撃してきそうだなw司馬に毒されすぎか?

234:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/21 07:54:17.28 4q4+71QY0
人材が足りないのは事実だが現場指揮官の優劣なんて分からないしな
薩摩藩の在京指導者に関しては、おそらく藩論と離れて暴走したあげく巻き返しにあって、
最後に踏み切った冒険だった。鳥羽伏見の緒戦で負けたら切り捨てられて失脚

235:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/22 18:59:21.56 dk02o+QYP
>>233
URLリンク(peachy.xii.jp)
100回音読して出直して来い。

236:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/23 09:04:36.58 vG+JBwdY0
>>231-232
負けるはずの無い鳥羽伏見で負けたからじゃないの?
幕府歩兵隊8800の内、江戸に居残り組みが1800ぐらい、
奥詰銃隊他、3分の1は使い物にならないと言われてた旗本隊が大坂城詰め。
つまり幕府歩兵隊で最良の部隊が最大限動員されてる。
これで負けちゃ駄目だろ……

しかも篭城は難しいしな。
関東からの援軍が新政府軍を突破できなければ、城内に不安が発生する。
古来、城が落ちた原因で一番多いのは内応裏切りだから。
大軍とはいえ、士気が落ちてるごたまぜ部隊で篭城するぐらいなら、少数精鋭で篭城した方がいい。

237:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/23 17:40:47.60 m6Khtl3q0
慶喜についは根本理念が将軍就任以前から見えない。
その場の場当たり対応に終始している、頭が良いから議論や場当たり処理はこなしてしまう。

将軍というよりも後見職が似合っている。



238:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/23 21:47:06.65 DOGt95wU0
>>237
>慶喜についは根本理念が将軍就任以前から見えない

 お前さぁ、水戸学の知識無いだろw知識がなきゃ見えるはずもない罠w

239:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/24 11:21:17.60 GlAm4yL50
>238
慶喜が水戸学に徹してると言えるのか?

慶喜が徹するべきは将軍職なのだが。

240:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/24 11:54:49.51 89AmCZCc0
徹するとか意味分からん

241:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/24 12:47:51.82 D/PYZdWc0
    ヽ`-'´/ `゙´ヽ , --¬ ノ` / , j-、:i      , -'´`ッ
    彡、、 l j 三ニ≧r‐ュ、ヽノヽく´ ´ ヽ ヽ ,-‐一゙, / ´
    /´ヽl  ヾ  `ヽミニ=‐リ`゙ニ{{,,∠ニミ,r'´i´゙7::: /´
/ `ヽ  ',,ヽ    ヽ‐=フ´ヽ,__,人tュッ、升ヒト、:〃
'    ヽ ヽ`ヽ` ̄ ´/´ // l ヽ ヽ‐´ ト、ニ-'´
      ヽ \ ` - 、`‐- 、__ , ノヽ ノ
      ヽ  \ `ヽ  ̄` jフ, - '´
このままでは日本がダークサイドに落ちるのじゃ
シナの逆襲-Revenge of the China-中国 国防動員法 編
URLリンク(www.youtube.com)

242:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 00:13:52.54 nSty2Jfa0
幕府側の人材も馬鹿にならない、小栗や栗本などはたいした者。

ただ第二次長州征伐の失敗で幕府の弱体化が露見し南西諸藩が幕府から離れ始めた、と見ることも出来る。

その時期に幕府が崩壊しなかったのは、以前から孝明天皇の支持がある慶喜が、色々工作をして
朝廷の支持を幕府に繋ぎ止めていたから。慶喜の政治力はたいしたモノで薩摩は
慶喜相手では高等な政治工作では勝てないと見て、武力討幕に切り替えた。

それと、桂小五郎が言うように、慶喜により開始された最後の幕政改革である
“慶応の改革”が、予想よりも大規模な改革でこの改革が実行されると幕府(徳川宗家)が
更に強大化し、薩長は敵わなくなる、と言う判断もあり、なるべく早い段階での幕府への
武力行使を検討する事になる。

戊辰戦争の背景の一つには、幕府の“慶応の改革”の進展を阻止する目的があった。

243:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 00:25:47.76 gatiFOy30
さあ、どうかねえ栗本や小栗が有能だったとは思えんな。

実際に外国奉行の栗本より部下の福澤諭吉の方が優れた見識を持っていたことが維新後にはっきりした。
つまり、幕府は人材登用方法を知らなかったのだよ。

内ゲバや足の引っ張り合いで勝手に自爆していくだけだった。
自業自得ですな。。

244:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 16:49:42.21 1oKUKBRI0
>>242
玉石混交でも人材豊富なのは結構だが、軍の指揮を執れるだけの軍事的才能を持ったのが居なくね?
鳥羽伏見の陸軍奉行、陸軍奉行並、歩兵奉行は血筋も経歴も立派な人ばかりだが……なぁ。
大鳥は良かったと思うが、江戸開城の頃でも歩兵頭だから大隊長クラスなのが痛い。
海軍は榎本でいいと思うけど。

大鳥がわざわざ白河城支援の為に日光から貴重な歩兵隊の兵力を割いたのに、
その別働隊が絶好の位置に進出していながら大した働きもせずに撤退してるのを見ると
指揮官って大事だなと痛感する。

あと、幕府はその人材を浪費しすぎ。
川路聖謨とか岩瀬忠震とか勿体無さ過ぎる。

245:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 18:54:41.63 UGm/Mjmf0
本来は歩兵隊と一緒に訓練した連中を指揮官にすべきだったよね。
食い詰め集団の歩兵隊も使える人員はいたんだから士分に取り立てて下級士官にするとか。
薩長の軍権は実質的に下級武士が握ってたのと、幕府軍が旗本指揮だったのが対照的。

246:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 22:46:34.88 gatiFOy30
んー、大鳥圭介は旗本格になるのがあまりにも遅すぎた。
福澤諭吉が幕臣に取り立てられ、旗本格になったのが1864年。大鳥は更に1年遅れて幕臣になる。

とにかく幕府陸軍は人材に乏しい。沼間守一では何も出来なかっただろう。
海軍は木村芥舟、矢田堀鴻、肥田浜五郎、小野友五郎と中々いい人材が揃っているが皆協調性が無い。

247:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 23:55:13.34 PpevNtflO
大村益次郎がいるかぎり幕軍に勝利はないのだろうか

248:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 01:52:21.90 VEmeQatj0
大村益次郎は、「小栗の反撃計画をやられていたらコッチの首が無かった」と言っている、けど。

249:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 02:08:49.25 fGhI5ByY0
榎本艦隊で東海道沿いを襲撃すればいい、と幕臣が胸を張ったものの、
新政府軍が中仙道を主力にしていると聞いて絶句し、以後は押し黙った、という話の方が有名

250:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 02:19:57.42 VEmeQatj0
そんなの初耳。

それに官軍主力部隊が中仙道だと、なんでダメなのよ?
持久戦になれば、官軍だって信州のド田舎の山の中では補給がママなら無いじゃん、
2月中ぐらいは、甲府城は、幕府側なんだし。

251:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 05:00:06.76 ASXbW9f/0
軍事的な側面に限っていうのなら、鳥羽伏見での敗戦以後も幕府側が徹底抗戦を行って
攻め上ってくる薩長軍を相手に戦うという選択肢はそれなりにあったような気がする。

優勢な艦隊勢を使用するのも有力な手だった。
また、指揮官の無能のせいで活躍は出来なかったし、素行の悪さ等から幕府上層部からは
鼻つまみ者扱いされていたけれども、薩長に対抗しうるポテンシャルを有していることは示した
幕府歩兵部隊を前面に押し出して存分に働かせるという手も有った。

ただ、その結果として内乱状態が長引いて、旧幕府・薩長勢の双方が人命と軍費を消耗して
弱体化することを良しとしなかった人間が双方の上層部に何人かいて、その人間達の意志が
全面的な衝突を回避することに繋がった、という理解で良いんだと思う。

スレタイに即して言えば、こんな感じかと。
「勝利の可能性はあったが、とてつもなく高い代償を払うことになり得る可能性もまた高かった。
負けてしまう可能性も勘案に入れれば、あまりにもリスクの高い賭なので踏み切るだけの自信がなかった」


252:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 08:53:30.33 g64L/5TX0
>>248
それも伝聞だけどね。
関東の守りって意味では箱根の天険による計画はいいと思うが、
上方からの物流が途絶える=一揆祭りになってる関東単独で持久する
ってことだから、政略も考えると案外厳しいんではと思う。
あと軍指揮官の資質の問題もあり、慶喜はその辺も考えて降伏に踏み切ったのでは。

それと、北陸道のこと、たまには思い出してあげてください……
加賀百万石が泣いてます

253:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 16:36:18.77 Hh8c0tZp0
慶喜が、大阪城から逃げ出さずに頑張れば良いだけの事。

そうなれば官軍は大阪城対策に手一杯になり
江戸からの援軍の対策は打てません。

254:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 19:59:22.45 g64L/5TX0
江戸からの援軍も来るだろうが、薩長の国元からも援軍が来るわけで……
あと上にも書いたが、篭城って篭もる軍兵の連帯が大事なのよね。
淀は裏切る藤堂も裏切るでは、慶喜がその点に疑問を抱くのも当然。

255:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 08:36:15.64 Vgd6/rjQ0
大阪城に籠城するぞって判断を下すにも、「トロイの木馬」みたいなことをやられちゃかなわん
という事もあるしなぁ。

逃げた総大将を非難するのも無理からぬ事だけど、身内から裏切りを出してしまうような
現場統率力の無さや状況判断の甘さを、兵を率いていた指揮官クラスが認識してくれないとね。

256:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 09:29:05.93 anR/r+7P0
鳥羽伏見の敗戦後の東帰抗戦は厳しいが、
鳥羽伏見前の東帰なら効果的だったと思う
と言うより、京でクーデタを潰す・大坂退去・東帰のいずれの選択肢でもよかった

257:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 12:38:06.57 UXjbmuDL0
>>239
>慶喜が水戸学に徹してると言えるのか?

人に聞いている時点で駄目だ。君は水戸学が何なのか知らなすぎる。

>慶喜が徹するべきは将軍職なのだが。

ホントに知識が無い人だね。将軍職がどのようなものなのか、その意味役目使命を規定したのが水戸学。
もちろん、”江戸時代の将軍とは”という意味であって、戦国時代以前の将軍の役目とは違うよ。


258:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 13:17:19.04 hNVw8jAT0
やはり、箱根の関に幕軍が待ち伏せして官軍を押し返す中で
幕軍の軍艦が駿河湾から官軍部隊に砲撃を加えていたら…
東海道の官軍は壊滅的打撃を受けていたんでは??

まぁ…でも箱根の関である事も無いわな。
由比で幕軍が待ち伏せして官軍を足止めさせた上で
駿河湾から軍艦が官軍へ砲撃する方が確実だろうな。
間違い無く官軍部隊は壊滅したと思う。

東照神君再来慶喜公が錦旗に弓引き、一天万乗の天子様に刃向かう
朝敵・国賊に成る覚悟が有ればの御話だけどな。

259:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 14:54:20.60 W2wppKs00
>>258
>駿河湾

天候が良ければできるが…
悪天候と海流次第だな。静岡沖は遠州灘と伊豆半島の先端の海流が酷い。
黒潮の激流がときどき変な流れを生み出す場所でね。
江戸時代を通じて、海運といえば日本海の北前船だったのは、太平洋側の航路が危険だったからだ。
房総沖で難破事故を起こしている榎本艦隊の運用を見ると、果たして必ず迎撃できたかどうか?。
ちなみに航海術に天候予測の知識はあるはずだから、悪天候は運が悪いなどとは言えないのだ。

260:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 20:08:55.33 m8aN7dqIO
>259
それは千代田形のことで、証明されていますよ。

261:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 18:11:18.49 bc187DSC0
どのみち関東では一揆のアラーシで、抵抗するにもどうしようもない。
埼玉では「殿様殺し事件」があって、旗本が領民に殺害される所まで逝っている。
抵抗は、その土地の統治能力があってこそできるのであって、庄内藩のような
本間家のバックアップや領民の支持があればできる。
気分屋であきっぽい江戸っ子や、統治能力を喪失した北関東を考慮しないと
厳しい。

262:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 19:33:51.33 qzEdHh5P0
>261
御用盗みたいなことをした連中に、おいそれと
従いますかね。

263:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 17:36:40.09 hCqyEMTC0
>気分屋であきっぽい江戸っ子や、統治能力を喪失した北関東を考慮しないと厳しい。

そこで鳥羽伏見の戦いの前に幕府陸軍2万4千の北関東への治安出動(訓練を兼ねて)ですよ。
一部は、元込め式の最新式銃を装備しています。

264:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 19:14:32.73 YuI3DJ4P0
その前に、まず陸軍奉行や歩兵奉行に相応しい人材を探した方が

265:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 20:40:41.75 PaBhimIQO
>264
いませんよ

266:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 09:47:40.17 KN57YYce0
鳥羽伏見で敗戦するまで、身分が低い有能な人材を抜擢する仕組みが存在していなかった。

海軍に関してはオランダから学んで一から組織・制度を作っていったから、
長崎海軍伝習所出身の人間が登用されたけど、陸軍に関しては門閥・家柄重視で
人材登用が行われていたからまともな軍隊運用など夢のまた夢という状態。

267:48
11/05/31 10:00:46.26 9vy4Z5u50
>266
その通りです。

268:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 11:07:48.85 GxekY3WN0
幕府陸軍の体制だが

陸軍総裁
陸軍副総裁 (兼)若年寄
陸軍奉行   老中支配 五千石 諸大夫 芙蓉間 駿府城代の上席 海軍奉行の下席 若年寄並
陸軍奉行並 老中支配 三千石
騎兵奉行   老中支配 三千石 諸大夫 芙蓉間 歩兵奉行の上席
歩兵奉行   老中支配 三千石 勘定奉行の上席
歩兵頭    老中支配 二千石 中之間詰
歩兵頭並   老中支配 一千石 布衣
歩兵総目付 若年寄支配 七百石 
騎兵差図役頭取 陸軍奉行支配 四百石
歩兵差図役頭取 歩兵奉行支配 四百俵

こんな感じ?
歩兵頭の中之間っつーと、目付とかと同じ間か。
まぁ差図役とかに旗本を登用したのは、失業者対策として仕方ないね。

269:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 11:14:10.93 A+TEYuLMO
これじゃかてない

270:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 14:41:48.23 s/LusuwY0
しょうがない。
家格を否定すると最終的に徳川将軍家の否定に繋がってしまう。

271:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 17:41:03.59 NlY892lQ0
明治になってから陸軍で活躍した戊辰戦争に従軍した幕府の人材で有名な人物って
だれだろう。大鳥や榎本は内政の方にいったし、立見尚文は桑名だし。

272:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 18:45:37.63 GxekY3WN0
揖斐章とか?
結構いい経歴だったのに、早死にしちゃったな。

273:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/06 11:50:33.03 2ldXgchg0
この時期の欧州にしても士官は貴族はじめそれなりの身分の出身。

また幕府陸軍にしても既存兵制と並存する形で作られたたので、指揮官クラスはそれなりに登用されている。
問題なのは、その登用が洋学知識偏重。
特に陸軍総裁の松平 乗謨は知識は一流かも知れなかったが将の器かは?

274:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/19 17:56:53.26 0paIjQuj0
根拠がある訳ではないが、陸軍総裁クラスになると
後の陸軍大臣みたいな立場にならないかな。

>>268
案外身分高いのな。
歩兵奉行なんか、勘定奉行の上席か。
こうして考えると、大鳥なんか、歩兵頭とはいえ大抜擢?

275:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/19 20:06:09.02 Gl7PNG6x0
>274
歩兵奉行が行政組織上の位置付けとして勘定奉行よりも格上だったとしても、
それがイコール幕府内での権力を振るえたかどうかとは別問題なんじゃないかなぁ。

勘定奉行は「勘定所」という実働部隊を下部において、行政組織としての財政やら法整備やらの
権限を一手に握っていたから、組織図上の位置よりもはるかにハバをきかせてたし。

幕府は本来的には「軍事組織」という建前があるから、武官系の方が組織図の上では優遇されてるけど、
江戸の中期以降は、実際には国政を担当する「行政組織」としての性格の方が強くなっちゃっていたから、
具足奉行やら鉄砲奉行やらの軍事系の職階よりも、勘定系や大目付・目付といった事務系職の方が、
実質的な権限を握っていたみたいだよ。

そもそも、幕末に編制された鉄砲を主とする歩兵隊は、刀槍をメインの武器として位置づけていた
江戸幕府の軍事組織の中では「足軽・雑兵」みたいなイメージで見られる場合が多くって、
そんなに大事にされてなかったし。

歩兵隊の重要さに本当に気がついたのは、第二次長州征伐以降のことだし、それだって本当に
理解していたのは慶喜とその側近だけで、会桑や幕府首脳は心の底からは理解していなかったから
鳥羽伏見で負けを喫しちゃったわけだしね。

276:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/20 13:07:02.07 v6HBPJD00
幕府のもとで近代化していたら軍隊の階級呼称がどうなったか興味がある。
少尉、大佐などお公家さん風の名称は使われなかったと思う。

奉行とか与力、あるいは一等士官とかになったのだろうか?

277:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/25 21:40:02.25 crv5Y0zb0
>>275
さも見てきたかのようなw

278:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 10:59:57.95 UtwUgNPc0
皆さん幕府のことをボロクソに色々言うけど、明治維新政府は、混乱に混乱を重ねて、
結局最後には幕臣が作った最後の幕政改革“慶応の改革”を丸呑みして富国強兵に乗り出したんだよ。


小栗や栗本あたりは、本当にスゴイ人だったと思う。

“慶応の改革”の途中で戊辰戦争が始まっちゃった。
しかしこれも桂小五郎が言うように、“慶応の改革”が成功すると
徳川宗家(あえて幕府とは言わない)が強くなりすぎて討幕が
出来なくなるので、慌てて王政復古のクーデターを起した面がある。

慶喜も在京の幕臣も幕藩体制には、それほど固執していない。
実質的に徳川宗家の政治力が残れば、どんな体制でも言いや!
っていう割り切りがある。
大政奉還後の小栗もそんな感じ、小栗だったら政府が近代化しても大蔵官僚出来るしね。

279:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 11:10:15.64 vpBHbPIX0
>278

それはあまりにも慶喜や小栗といった、幕府内でも極めて少数だった「先の見える有能な政治家」の
考えに偏したモノの見方のように思える。

当時の幕閣や幕臣たちの大多数はそうした慶喜らの先を見据えた施策の意味を理解できず、
旧態依然とした政治・経済・軍事の仕組みを墨守しようとした集団だったという側面にも
目を向けておく必要があるんじゃなかろうか。

鳥羽伏見において刀や槍といった旧式の武器を手放そうとしなかったのが幕臣や会桑の藩士達だったし、
その認識を改めて銃砲を主体とした部隊を重視するようになったのも、それらの部隊を指揮する能力を持った
下級階層出身者を重用するようになったのも、「敗戦」という危機にさらされてはじめて起こった変化だった。

薩長主体の明治政府をことさら称揚するつもりはないし、慶応の幕政改革の重要性を否定するつもりもないけど、
末期の幕府権力がスムーズに既得権を手放して明治政府のような形態の強大な国家へと変貌を遂げられた可能性は
必ずしも高くないという見方も、一応は押さえておくべきだと思うよ。

280:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 12:39:09.57 GW5dhM8r0
幕臣に新軍事教練やらせてみても、全く真面目に取り組まず戦力化できなかった。
しょうがないから軍役を人納、金納に変えて歩兵隊を組織したわけで。
本来なら部屋住みはこぞって参集してもおかしくないはずなのにね。

281:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 12:48:15.04 16GunPla0
>>278
長井雅楽や吉田東洋もいるし、
小栗や栗本だけが優秀だったわけではない。


282:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 12:50:35.53 16GunPla0
>>280
旗本の軍役を金納に変えた時点で幕府軍は崩壊してるね。
慶喜は戦争するつもりなかったからこれでいいというか仕方なかったんだけど。

283:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 17:34:15.08 B96/mUyC0
しかも指揮官が>>268みたいなんだから、ぶっちゃけ旧来の家格による人事を刷新できたとは言い難いと思う。
少なくとも近代戦を理解してる奴が軍単位での指揮を執らないと、薩長には勝てない。
まぁ旗本改革を訴えた原市之進は同僚に暗殺された訳で、難しかったんだろうけど。

そもそも、慶応の改革っつっても外国の行政制度取り入れ、富国強兵っつー指針が一致してたってだけで、
明治政府がやったこととそんな具体的に一致してるか?
あのままの勢いで軍制改革が進めば、討幕派としては不味かっただろうが。

あと、徳川宗家の政治力だけが問題なら、薩摩藩邸焼き討ちに始まる強硬派江戸幕閣の暴発を
何としてでも抑えるべきだったな。
西郷の挑発にまんまと乗って鳥羽伏見だから。
まぁ小栗が死んだのは惜しかったけどね。

284:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 17:41:12.25 UkdmqPlSO
鳥羽伏見の前日に幕末軍の兵も官軍の兵も一緒に風呂に入り雑談を交わす者もいた
って歴史の本に書いてあった
モチベーション高くない人はこんな感じだったのかな

285:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 09:16:58.32 g346IEnd0
>末期の幕府権力がスムーズに既得権を手放して……可能性は必ずしも高くないという見方も、

大政奉還(慶喜は単に政権返上)は言いだしっぺは、土佐藩だが、慶喜も納得している。
征夷大将軍職の辞表は67年の10月24日に朝廷に提出している。67年の時点では、
もう幕藩体制を維持する為に軍事行動を起す事は、下級幕臣はともかく幕閣クラスではないよ。

朝廷新政府に日本の統治機構を一元化する事は、幕府上層部では、了解済み。

慶喜も征夷大将軍職を維持するのではなく、むしろ朝廷新政府の摂政(関白)に就き
さらに諸侯会議(上院)議長を狙っていた。そして何れはその双方のポストを合併し
ナポレオン3世をモデルとした“大君”を目指す予定だった。
慶喜が目指したのは、フランス第二帝政をモデルにした“徳川版ボナパルト体制”
当然諸大名は全部潰すし、旗本領は徳川家が収公する。全武家、全藩は“大君慶喜”が廃止する。
>>282にあるように小栗が計画した六百万ドルの起債が薩摩の妨害工作で潰された、という事もあるが。

286:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 09:46:45.27 g346IEnd0
そもそも征韓論は、幕末の幕閣で老中の板倉勝静が唱え始めた。

征韓論をあおり、対外的緊張をワザと高めて、武家や諸藩の廃止を実行しようとしたのかもしれない。
また、征韓論自体軍事力の強化が必要となるので、小栗の立案した“慶応の改革”を
更にスケールアップしスピードアップ出来る訳だ。

小栗がヤケに武器と艦船の国産化に急いだのも、当面の薩長との対決も有るのだろうが、
より長い目で見れば“徳川宗家(大君慶喜)による征韓論”を念頭においていたのだろう。

“徳川版ボナパルト体制”による日清戦争を見てみたかったなw

287:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 10:03:03.85 YalCzs4z0
日清以前に借銭の返済で潰れそうだがね

288:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 10:15:15.91 WKMSZNop0
>285
>朝廷新政府に日本の統治機構を一元化する事は、幕府上層部では、了解済み。

いや、慶喜を中心として京都に存在していた一会桑勢力と、江戸に存在していた幕府の主流とでは、
現状認識や採用する戦略に相当な開きがあったと思うんだが。

少なくとも、大政奉還の知らせを聞いた江戸城では天地がひっくり返ったかのような感覚で
この出来事を受け止めた人間の方が多数派だったらしいし、「徳川版ボナパルト体制」が出来る前に、
旗本たちが叛旗を翻して収拾が付かなくなる可能性の方が高かったんじゃないかな。

289:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 12:54:56.16 AtVuPzXu0
>当然諸大名は全部潰すし

さらっとものすごい事言ってるなw
実際には長州ひとつ潰せなかったけど

290:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 14:05:17.06 g346IEnd0
>>289
慶応の改革の当面の目標は、薩長潰し。
最終目標は、征韓論。

悪い意味で菅直人とカダフィのあの頑張りを見習えばよい。
全然評価できないがww

291:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 14:12:40.44 g346IEnd0
>いや、慶喜を中心として京都に存在していた一会桑勢力と、江戸に存在していた幕府の主流とでは、
>現状認識や採用する戦略に相当な開きがあったと思うんだが。

慶喜が大政奉還後10月後半から11月中旬にかけて説得している。
江戸や大阪の強硬派幕臣や佐幕藩の対薩摩藩先制クーデター計画が
くすぶってはいるが、慶喜は、なんとかこれも押さえ込んだ。

>「徳川版ボナパルト体制」が出来る前に、旗本たちが叛旗を翻して収拾が付かなくなる可能性

それはない。
旗本は、領地収入が半減している上に更に幕府からの俸禄がなくなるとマジで収入無くなる。

292:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 14:21:24.21 v2nlKBEA0
菅直人なみに頑張ったといえば、敗北後に東北全土を巻き込んで更に敗北した、松平容保がいますが。
往生際が悪いのは良い結果を生みません。

293:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 14:58:32.62 tS27dykIO
>>291
そもそも会桑自体が大政奉還大反対じゃん
んで強硬派を押さえ込めなかったが故の鳥羽伏見なのであって

294:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 16:32:15.42 g346IEnd0
大垣藩立案の対薩摩藩先制クーデター計画を慶喜は押さえ込んだ。
この計画には会桑はもとより紀州藩、津藩、若狭藩、宮津藩など
畿内周辺の佐幕藩までも参加し後押しした大規模な計画だった。

また、別途若年寄の永井尚志が立案した薩長両藩の部隊集結を阻止する
計画も慶喜が抑えてしまった。67年12月7日には兵庫開港・大阪開市の
準備の為に大阪と西宮に出張するが、この様に永井が慶喜の側を離れた事が、
12月9日の薩長の王政復古のクーデターをやり易くした、とまで言われている。

12月6日には、薩長の王政復古のクーデターが慶喜の耳に入っていた。
それなのに慶喜は何も対策を打たず、何故か翌日に永井を大阪と西宮に
出張させてしまったのか、良く判らない。

永井が二条城に居たら、慶喜の躊躇を押し切ってでも、彼が幕府陸軍を
率いて京都御所の警備を更に厳重にさせる事も可能だっただろう。

295:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/03 11:28:35.53 8JREsp7+0
慶喜は戦うつもりないんだもの。

296:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/03 19:22:16.92 nVbCsgAz0
議論が分かれるね。
JFKはベトナム戦争をするつもりが無いvsイヤある!と言う議論に似ている感もあるが…

慶喜は、征夷大将軍職には復帰するつもりが無いだけで
徳川宗家の実権維持には汲々としている。

297:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/04 07:20:24.67 77yAuCgy0
最近の王政復古のクーデターや鳥羽伏見の戦いについての資料発掘や再検討からは、
在江戸の幕府有司を含めた、軍事担当の幕臣たちが、逡巡する慶喜を巧みに開戦に追い込んだ。
と言う複雑な構図も見えてくる。

この時期の幕府は、朝廷新政府や薩長への方針が幕臣の間でも一致していないのが特徴であり、
勝海舟や大久保忠寛の天領・政権放棄路線から小栗や栗本らの幕権派(近代化)までいるが、
小栗は時期において大政奉還(天領放棄は?)をも認める発言もしてもいる。

しかし、江戸であれ大阪であれ、意見の異なる旗本を含めた幕臣達が、慶喜に薩摩藩との戦闘開始か、
さもなくば、徳川宗家の政治生命に致命的打撃を与える天領放棄を含めた政権返上か、どちらか
両極端な政策の二者択一を迫る進言を繰り返し、慶喜が戊辰戦争開始の道を進むしかない無い様な
方向に仕向けた事が改めて問題になる。

慶喜は、対薩摩藩の攻撃準備と新政府入りした土佐、越前、尾張を通じた多数派工作
の両方を実行しているが、このこと自体幕臣たちの意見の相違と徳川宗家の内部分裂を
表している様に思える。

298:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/04 12:20:08.77 S+0Bm4Ux0
軍隊の近代化を進められなかったツケが慶喜に廻ってきたからな。
薩長に負けてしまうとはねえ。情けない。


299:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/05 04:43:49.17 iAaAUodg0
まあ~何にせよ以下のような馬鹿馬鹿しい事にならずに軍隊の近代化を進めた幕臣も偉いよな。
       ↓
1882年に李氏朝鮮では、新式軍隊(近代式軍隊)に対する旧式軍隊の差別待遇、
賃金未払いなどに対して、不満を募らせた旧式軍隊と衛正斥邪派・大院君の勢力が結託し、
閔妃暗殺、閔氏一族・開化派勢力の追放をもくろんだ壬午事変が発生する。
壬午事変によって一時的に大院君は復権するが、殺されたと思われていた閔妃は
清の袁世凱に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。

300:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/05 10:08:04.87 rxMQkJq60
しかしまぁ、一会桑vs江戸幕府がなきゃ、もうちょっと上手く政治工作出来たんじゃね?
って気もするがw
旗本の一部も原市之進暗殺とか地味に抵抗してたが、第二次長州征伐の敗北も
軍制改革進める一助になったんかな。

301:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/05 12:05:45.02 7jX59Mea0
>>299
閔妃暗殺は日本が暗躍してるけどね。

302:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/09 09:51:00.37 qHEiB8Bc0
>第二次長州征伐の敗北も軍制改革進める一助になったんかな。

当然そうだろ、最後の幕政改革「慶応の改革」は、長州征伐の問題点を
克服しようとする形で始まった。


また、一会桑体制が崩壊したのなら、畿内に近い桑名藩はともかく
兵力が大きくて東北の大藩である会津藩は、さっさと帰国させるべきだろ。
なのになぜグズグズ京に居続けたり、慶喜の大阪城撤退にくっ付いて来たりするのかね?

会津藩は大政奉還と同時に少なくても江戸に戻るべきじゃね?

だらだら会津藩を畿内に居座らせていた慶喜も問題。

303:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/09 22:59:32.93 oREi9d2h0
そうは言っても軍事力が背景にないと、
相手はやる気満々なんだから、話し合いもできないでしょう。
やはり問題はその軍事力が全く当てにならなかったこと。


304:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/09 23:03:19.30 5TRo9k+J0
改革が進んだことにしておかないと
勝利の可能性がみえてこないので

305:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/10 00:05:29.39 nTBmv7VW0
江戸幕府がトーマス・グラバーを介してアームストロング砲35門もの多数を発注したが、
グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。

これらが大阪城や江戸城に配備されていたら、面白いことになっていたかもw

ただ言われているほど、アームストロング砲の威力や性能は、高くないらしい。


306:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 05:47:24.16 o+SzL6FK0
>>304
最後の幕政改革の「慶応の改革」は、それなりに進捗していた。
桂小五郎もビビッて居るくらいだ。

直接的な戦闘能力の向上もさることながら、
幕府の兵器と軍艦の国産計画が、薩長には脅威に思えたのでは?
薩長は、小さな工房程度ならあるが、基本的に兵器の調達は輸入だ。

有る程度幕府が、兵器を自主開発出来る能力を持ってしまうと
武器の補給面で幕府軍には敵わなくなる、と薩長は思ったのでは?

この時期アジアで唯一炸裂弾を生産できたのは徳川幕府の兵器廠だった。

307:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 14:31:53.79 rx20EQSf0
しかも朝廷に命じられて作ってるから薩長も批判するわけにいかんしな。

308:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 15:29:05.60 f9AUFa1N0
>しかも朝廷に命じられて作ってるから

そうなの?
知らなかったw

例の孝明天皇の攘夷命令の事かいな?

>アームストロング砲35門が大阪城や江戸城に配備されていたら、面白いことになっていたかもw

そうしたら安心して慶喜は、大阪城に篭城していたかもなw

しかし以外とアームストロング砲って扱いが難しかったり、故障が多かったりで
イギリスも正式な大砲としての採用年数は短かったはず。
幕府は、無理にアームストロング砲を採用せず、幕府海軍旗艦の開陽に搭載している
クルップ砲の大量発注でも良かったんじゃないかな?と思う。

メンテナンスや故障頻度を考えるとアームストロング砲よりもクルップ砲の方が
使い易いし結果的に幕府軍の戦力になった、とも思えるのだが。

309:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 15:48:17.59 +BQlpF8V0
>>306
炸裂弾っつーと、江川英龍の遺産?
銃自体は輸入したほうが早いと思うが、大砲や軍艦の生産能力は脅威になるかもね。
ただ、幕府陸軍の拡充のが直截的な脅威だったんでないかと思うが。

310:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/23 04:16:11.06 t3+aP06B0
>>309
まあ、そうだろう。
ただ長期戦になれば、輸入もままならないし、幕府が有利になったと思う。
現実には、武器のメンテナンスや修理は、幕府の施設でまかなえた様だ。

それとあきれ返るけど“慶応の改革”に反対していたのは、討幕諸藩だけではない。
なんとあの大奥が“慶応の改革”に大反対している。

311:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/24 00:20:06.07 NdxkBz6W0
慶喜の親父の 徳川斉昭は大奥でかなり嫌われていたからな

312:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/25 14:06:10.98 mZxQCHLQ0
大奥のバカ女どもは明治維新でどうなったの?
全員失業ってことだと威張るくらいしか能がない気位が高いバカ女どもだから路頭に迷ったろうな。

313:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/25 17:29:10.27 961s1Kyl0
まぁ大奥は昔から保守派の温床だし
あそこを上手く操れたのって田沼意次ぐらいじゃね?

314:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/25 19:47:36.20 XZKXhOHq0
>312
>大奥のバカ女どもは明治維新でどうなったの?

基本的には全員失業。
ただ、大奥に上がった女性は基本的な行儀作法が仕込まれているから、
旧家の家政の取り仕切り(下働きの下女達の監督)などを期待されて
そこそこの就職口はあったかと思われ。

明治に入ってから士族階級が没落していってしまったから、
全体の就職口のパイはそれほど多くはなかったろうけど、
そのまま自活能力なしで苦界に身を沈めたというほど酷い状況では
なかったからしい。

むしろ、大奥という場所で(ある意味での)職業訓練ないし宮仕えをしていた女性達より、
旗本・重臣層の奥方連として安穏とした生活を送っていた女性達の方が維新後には酷い目を見てる。

315:平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv
11/07/25 21:14:28.38 RYh62SyT0
このスレに感謝。

316:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/27 04:09:36.75 V/QAxbtL0
>>311
当然それも理由としてある。
慶喜は水戸系であり、大奥は南紀派だからどうしようもない部分が有る。

大奥としては15代将軍には亡き家茂の意向として三歳児wの田安亀之助を推していたし、
それがダメなら最後の紀州藩主の徳川茂承を推していた。また家茂と茂承は大変仲が良かった事も有る。
しかし和宮と幕閣と幕権派中堅官僚は、「今の時期には慶喜しか将軍職をこなせる人材は居ない」
と大奥に逆らう動きを見せ、結局将軍職の4ヶ月空位を経て慶喜が15代将軍に任官する。
この4ヶ月空位期間に岩倉が“宮将軍”の画策を行うなどの混乱もあったが、孝明天皇の強い意向もあり、
ついに慶喜は15代将軍に任官する。しかし慶喜が将軍に任官した直後に孝明天皇は崩御される。

ただ大奥の“慶応の改革”の反対は、水戸系将軍と紀州系大奥の対立だけでもないらしい。
慶喜が将軍職任官した慶応2年の末から幕府では急ピッチで幕府軍の近代化と産業インフラの整備を進めた。
その為に慶喜は大奥関連の予算をバッチリ削ってしまい、その事でも大奥からかなり恨まれている。
慶喜の正室である美賀子などは、大奥に行っても布団一枚も出してもらえなかった。

さらに驚く事に大奥が「慶応の改革」に反対した理由は、これにより幕府が西洋式の軍事色を
強める事そのものに嫌悪感を持っていた事だ。元々慶喜と仲の悪い天章院はもとより、
慶喜将軍任官を支持した和宮ですらこの意向を示し、二人とも慶喜が西洋式の軍服を着た
写真を見せられると大変嫌がった、と言われる。
また江戸城内でも慶喜治世下では、伝統的な武家の装いが廃止され始め、西洋式の衛兵が配置され
砲台や兵舎の設置も行われている。天章院も和宮もこの様な江戸城の西洋式の軍隊化に激しく反対していた。

慶応2年(1866年)の慶喜の大奥改革に対しては、天章院は、今まで仲の悪かった
和宮と協力して徹底的に反対しているが、これは大奥改革が“慶応の改革”の
費用捻出の為と疑っていた為であろう。

317:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/27 12:50:53.14 duoZPn+KO
>>312
彼女達は明治新政府により朝鮮半島に送り込まれほぼ全員が朝鮮人によってレイプされました。【氷河清話より】

318:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/27 19:11:20.38 XRPDRXUp0
とりあえず徳川家は、何が何でもアームストロング砲35門を調達して
そのうち15門を大阪城に、20門を江戸城に配備すべし。

ついでにクルップ砲も幕府艦隊旗艦の開陽搭載用以外に30門確保しておけばさらにOK!

319:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 17:42:13.09 RBRRt+sP0
>>316
幕府は、慶応の改革以前から、改革に着手しようとしていたが、
幕府内の守旧派によって退けられた。
それを決定的にしたのが井伊の大老就任。
井伊が強権振るえたのは守旧派が味方だったから。
(彼は朝廷無視して開国したが、幕政についてはガチガチの守旧派)
守旧派には旗本なども含まれる。もちろん軍の近代化には反対。

水戸対紀州ってよく言われるけど、事実としては改革対守旧。
それが「今の時期には(改革派の)慶喜しか」の意味なんだけど、
維新後は慶喜を改革派とみなすのはご法度だったから、
水戸対紀州ってことにされて、今もその影響下のまま。
本来慶喜が改革派じゃなければ、朝廷がわざわざ
幕府に慶喜を将軍後見人にしろなんて言うわけないのだが。

尊攘を代表するナショナリスト的価値観が、
幕府寄りの立場の人間の改革に対する正当な評価を阻んでる。
土佐藩の内部抗争についても、同じような誤解がある。


320:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 20:17:33.43 yL0B9/u00
>>308
> >しかも朝廷に命じられて作ってるから
>
> 例の孝明天皇の攘夷命令の事かいな?

その時、副使として付いて行った攘夷急進派の姉小路が
大阪で勝と龍馬に篭絡されて開国派になるでしょ。
当時、姉小路は国事参政になったばかりで、朝議を決定できる立場にあった。
その姉小路が大阪で開国派に篭絡されたわずか二週間後に、
朝廷から「摂海防備三か条の沙汰」が幕府に命じられて、
製鉄所や軍艦を建造することになった。

勝曰く「我が微衷天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす」

小攘夷派が維新の中心から退けられる決定的な出来事です。
この後は、薩摩が神戸開港を口実に慶喜を攻撃したくらいで、
この後は都は開国一直線です。
(田舎のほうではなんやら事件やらこれやら戦争などありましたが)

321:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 21:01:30.56 hiGac+H00
阿部正弘の評価を阻む点では佐幕シンパも同様

322:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 21:02:36.71 Mf7rSP380
新撰組も尊攘派だからナショナリストのはずだし、
慶喜警護の為に京にいる水戸藩も連中(本国寺党)も尊攘派。
原市ノ進を斬った旗本も尊攘派、佐幕派や幕府方にも尊攘派は結構居たんだけどねw
なぜか全部親仏派や開国派になっている。

また、幕府の改革派は、幕権派と言われ、いわゆる近代化グループ。
郡県制の施行や諸藩の廃止、政権の一元化や重火器や艦船の小銃の国産化
造船業や製鉄業、兵器産業の立ち上げ、鉄道・電信・道路等のインフラ整備
などの実現を志向する幕府内の勢力。

323:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 21:05:05.97 Mf7rSP380
>>322のつづき)
ただ面白いのは、幕権派の面々は、どちらかと言うと家茂人脈の人ばかり、
小栗や栗本、勝にしてもそうで、家茂治世下で出世した人ばかり。
それに家茂治世下では、幕府の近代化はそれほど進まず、むしろ慶喜での
「慶応の改革」でようやく本領を発揮できた。

慶喜が将軍に任官してトップダウンで近代化政策を実行出来た事と、第二次長州征伐の失敗の
ショックでさすがの江戸の幕府有司も近代化を進める必要性を感じた事が背景にある。

それと繰り返すが、アームストロング砲35門の調達は、是非とも実現させるべきだった。
アームストロング砲35門と甲鉄艦が、手元に揃うまで慶喜は開戦すべきではなかった。

江戸での薩摩藩邸焼き討ちが起きたら、大阪市内の薩摩藩邸(2~3箇所ある)を
攻撃してお茶濁しておけばよいのに。伏見奉行所を増強するとか、畿内の勤王藩
(彦根・西大路・郡山・園部・十津川郷士)にプレッシャーをかけるとか。

324:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 21:30:39.46 yL0B9/u00
家茂は本人はともかく、
バックが守旧派(昔で言う所の南紀派)だから、
改革を進められるわけない。
彼らが家茂を押した理由は、(紀州直系の人はともかく)
慶喜?一橋家なんて支流の御三卿の養子、しかも改革派なんてとんでもない
って理由だけだからね。

守旧派には大人物がいないから、
人物中心の歴史読み物では忘れられがちだけど、
あちこちで無視できない力を発揮している。
まあ長州に負けて発言力低下したけどもw

325:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 22:19:09.71 xwIqE9Ro0
旗本のほとんどが使い物にならない、状態でいくら近代化してもね。
大体石高から言ったら、本来薩長などに負けるはずないのに負けまくり。
旗本は従軍嫌がるし、福沢が篭城で幕府に暴言吐いてもスルー。
彰義隊も江戸で薩摩武士を大勢で闇討ちしたりしたが、逆に死を覚悟した薩摩武士に斬り立てられ逃げ回ったり。

326:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/29 09:33:48.97 +fj4aCbG0
上知令の時も旗本や譜代の抵抗があったな

327:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 01:44:26.72 KagjRR7A0
>旗本のほとんどが使い物にならない、状態でいくら近代化してもね。

中には近代化した行政府でも使えそうなのが居る、榎本は幕臣ながら明治政府で閣僚に。
大鳥圭介は、日清戦争開戦時の清と朝鮮の大使で陸奥外相の命で日清戦争の開戦の準備をしている。

あとは徳川宗家の大久保利通とも言える小栗や外務大臣も出来そうな栗本鋤雲、他に山口直毅、向山一履
甲鉄艦をアメリカで見つけ出して交渉し調達した小野友三郎、京不在が王政復古クーデターをやり易くした
とまで言われた若年寄の永井尚志などは旗本だが、徳川新政府の官僚でも使えるだろう。

譜代大名では、慶喜治世下での筆頭老中で征韓論の言いだしっぺの板倉勝静や自分の居城を西洋式の要塞と
したり、大政奉還直後に全国の大名の禄高の半分を削って全国統一軍を創設しその総司令官に前将軍の慶喜
を構想した老中兼陸軍総裁の松平乗謨なども閣僚として使えよう。

>上知令の時も旗本や譜代の抵抗があったな

そういう意味ではフランスからの600万ドル借款計画がアボンして良かった。
薩摩藩のプロパガンダで600万ドルの起債が失敗したらしいが、そのおかげで旗本領300万石
の内半分の150万石を事実上徳川宗家が収公出来た。

平時だったら旗本の大反対運動で上手く行かなかっただろう。
幕末の最後の幕政改革だったからこそ、旗本領地収入半分収公計画が上手く行った。

328:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 02:32:38.23 KagjRR7A0
それとこの時期は、徳川家による征韓論がかなり検討されている。

南紀派で井伊大老の側近で老中の間部詮勝は、開国と条約の締結を求める勅許の奏請にあたり、
「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現する事が
出来ると朝廷を説得したとされる。

守旧派と言われる南紀派も征韓論的な事を言っている。案外南紀派は南紀派で征韓論を考えていたのかもしれない。

文久3年(1863年)5月、対馬藩士の大島 友之允は、老中・板倉勝静の顧問であった山田方谷と会見する。
この時、征韓論だけに留まらず、中国大陸進出を唱えていた山田方谷に
「貴藩困乏斯の如し、何ぞ朝鮮違約の罪を鳴らして、之を征服する策に出でざるか」
と説かれ、これに感化された大島は征韓論を唱えることとなった。

そして元治元年(1864年)には、朝鮮進出の建白書を提出している。

この大島の感化を受けたのが友人である桂小五郎(木戸孝允)であり、後に桂が新政府の高官となるに至って、
大島の論は政局に重大な影響を与えることとなる。

329:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 02:40:14.74 KagjRR7A0
日米修好通商条約の交渉に臨んだ幕閣の岩瀬忠震は、現代で言えば侵略主義的な考え方を持っていた。
岩瀬は、勝海舟と仲がよく、彼の思想は勝海舟にも受け継がれている。

勝は文久3年(1863)4月27日、桂小五郎と上記の対馬藩士大島友之允に対して次のように述べている。
「当今亜細亜洲中、欧羅巴(ヨーロッパ)人に抵抗する者なし、これ皆規模狭小、
彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今我が邦より船艦を出だし、弘く亜細亜各国の主に説き、
横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙を遁(の)がるべからず。
先最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後支那に及ばんとす」(海舟日記)

これは後の「征韓論」に繋がる考え方です。
そして幕閣として初めて公式に征韓論を唱えたのは老中板倉勝静(かつきよ)で、
文久3年5月に対馬藩の朝鮮進出の請願書を受理しました。意外な感じがしますが、
当時の武家政権である幕政の担当者としては特に過激な考えと言う訳ではない。

そして翌月に、勝に対して対馬差遣を命じています。
その辞令には「朝鮮国の事情探索」とあったそうですが、実際には征韓準備のために派遣されたのです。
ところがその後、板倉と勝は失脚してしまい、幕府による征韓は沙汰止みとなります。

330:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 07:37:52.43 oMDEonQV0
実は攘夷には「大攘夷」と「小攘夷」の二つがあって、このどちらを採るかを巡って紛糾したのが幕末という時代。

「大攘夷」とは、現状の武備では、西欧列強と戦えば必ず負けるとの認識に立ち、
無謀な攘夷を否定する考えだった。現行の通商条約を容認し、その利益によって
十分な武備を調えた暁に、海外侵出をおこなうと主張したのだ。
公武合体派と呼ばれた人たちは、これを主張している。
 
一方で「小攘夷」とは、勅許を得ずに締結された現行の通商条約を、即時に、
しかも一方的に破棄して、それによる対外戦争も辞さないとする破約攘夷を主張するものだった。
長州藩などが、これに属していた。

通商条約を独断で結んだのは井伊直弼ですが、その彼も攘夷論者で、「大攘夷」の考えだった。
井伊直弼は売国奴のイメージを与えられていますが、実際には最後まで通商条約の締結には慎重だった。
全権委任した岩瀬忠震(ただなり)らに、窮したときには調印しても良いと言う言質を与えた為に実行された。

直弼としては、やむを得ず時限的に海禁政策を放棄し、武備を整えた後は破約するつもりでした。
井伊大老の真意として、後の攘夷のための“海軍力強化”政策を打ち出しています。
これは「大攘夷」に当たります。

守旧派といわれる南紀派も“海軍力強化”などの大攘夷政策を立案しており、近代化政策を全く行わなかった訳でもない。

また幕末の最後の幕政改革「慶応の改革」もこの大攘夷の原則に則って始まった近代化政策であり、
当面の敵である薩長を圧倒する事を目先の目的としていたのだろうが、最終的には“大攘夷”と“征韓論”の実行
を目論んでいた「富国強兵」計画だった。

しかし徳川宗家にそんな事をされては、薩長の出番は無くなってしまうので、
彼らは幕府の兵器や艦船の国産化計画に反感を持つジャーディン・マセソン商会や
その代理店のグラバー商会から支援を受けて、王政復古の名の下に討幕挙兵に討って
出てきたのが実情。

331:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 09:31:48.04 BQ2YyKBt0
>>327
上の人の言っている「旗本」はそんな大物のことじゃないんじゃないの?
歩兵が駄目だと指揮官がまともでもどうしようもないしね。

>>328
> 守旧派と言われる南紀派も征韓論的な事を言っている。

南紀派の「守旧」は徳川宗家万歳、血統万歳ってことであって、
対外的政策のことじゃない。
むしろ朝廷に断らずに開国した。
もちろん開明とも違うが。

幕末を「~派」で語ると弊害が多い。

332:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 09:38:25.66 BQ2YyKBt0
>>330
小攘夷には2つあって、
一つは国粋馬鹿で、即今攘夷は玉砕するだけってのがわかってない奴ら。

もう一つは倒幕あるいは弱幕の方便で、攘夷って言ってるだけの奴ら。
征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて、
幕府牽制のために言っている。

ちなみに攘夷に反対している人間はいません。
黒船外交は武力威圧的なものだから当たり前なんだけど。

黒船来航直後の公家に前者が多かったのが幕末の混乱の原因。
まあ倒幕で近代化が進んでよかったけども、
死なんでいい偉い人がたくさん死んだよ。松陰とか象山とか。


333:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 10:25:21.87 oF/RrDoz0
小攘夷には、奉勅攘夷派もいるぞ。
尊皇=攘夷でなければ、少なくとも水戸藩の内訌や長州藩が藩を挙げて
攘夷に邁進することはなかった。

>>330
井伊直弼のやらかしたヘマは、朝廷軽視と安政の大獄だろう。
前者は戊午の密勅を誘発して返す返さないで水戸の天狗を敵に回すし、
後者は前者による反感に拍車を掛け、更に幕府の西洋に明るい人材群を浪費した。
川路聖謨はボロボロになるし、岩瀬忠震なんか憤死だろう。

334:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 10:54:32.25 WavHP4bf0
孝明天皇は薩摩に内勅を与えて、
急進即今尊攘派を京都から排除するようにお願いしていたくらいだから、
奉勅攘夷派と言っても、ほとんど即今攘夷馬鹿みたいなもんだ。

まあ三条とかが勝手に勅を出してるの知らんから仕方ないけども、
長州藩は大昔の御製を取り上げて、攘夷に反論変えたり、頓珍漢が極まってる。
大久保なんかは気づいていたみたいだけども。

当時、孝明天皇は攘夷派よりも松平容保の方に尊皇を感じていたようだし。
URLリンク(bakumatu.727.net)


335:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 11:33:55.16 wyJzx06Y0
久留米出身で長州尊攘派の中心人物になっていた真木和泉は逆に
ロシアはシベリアを占領しながら来ている為危険だが、
ペリーは通商を求めているだけで戦争するつもりはない、
なのに幕府のやり方は表面では和親を求めるが裏では軍備を整えて
数年後にペリーを討とうというもので『真心』がないと批判している。

336:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 13:07:41.77 tLIloRF20
攘夷と言っても、
条約を対等の立場で結び、開国を進めたいと思ってる奴から、
横浜での寄港給水すら受け付けない奴まで、いろいろいるからな。


337:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 16:49:17.20 kN9xAbas0
その寄港給水も、最初は遭難されては気の毒だといういわば人道的な非常措置だったのが、
何度も何度も同じように来られるのでこりゃたまらんと原則に立ち帰って打払令に至ったわけで。
こっちの顔色もお構いなしに遠慮もなく既得権益だとばかりに当然の要求として来る。
その時点で侵略的なものを嗅ぎとったとしても責められるものでもない。


338:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 00:27:44.95 8NMeasyp0
嗅ぎとったw

339:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 03:30:45.58 0fClwfP50
チョソ臭を嗅ぎ取って、今ウジテレビは大変な事になっているからねw
日本人は、そういうのには敏感だよ。

>>332
>小攘夷には2つあって、
>一つは国粋馬鹿で、即今攘夷は玉砕するだけってのがわかってない奴ら。
    ↑
 長州藩と水戸藩

>もう一つは倒幕あるいは弱幕の方便で、攘夷って言ってるだけの奴ら。
>征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて、
>幕府牽制のために言っている。
        ↑
       薩摩藩

>征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて

正確には…“今すぐには、出来ません”
13~4年して海軍力を整えたら、攘夷しましょう。ついでに征韓もしましょう。
って感じ。

>ちなみに攘夷に反対している人間はいません。

留学以後の長州五傑は、どうかな?
あの留学は、完全にジャーディン・マセソン商会がお膳立てしたモノ。
一種の欧米帝国主義の洗脳工作の部分がある。

特に井上馨は、留学中に西洋文明に見せられてしまい、完全な欧化主義者になっている。

井上は、幕府の便宜的な親フランス派官僚よりも酷い欧化主義者で、
明治維新後に井上馨は、今までのヨーロッパを視察して、現地では日本人が
「見た目」によって半未開の人種として実は「珍獣扱い」されているという
事実から明治政府の政策として“人種交配計画”を実行しようとしていた。
積極的に白人との結婚や性交渉を奨励し日本で混血児を増やして見た目から
白人に近づこうとしたのだ。
こういう見かけだけの「欧化」に突っ走る元長州藩士の元勲がいたという事は、
それほど長州藩のナショナリズムは激しくなかったと言える。

340:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 03:57:10.61 0fClwfP50
>井伊直弼のやらかしたヘマは、朝廷軽視と安政の大獄だろう。

まあそうだけど、最大の失敗は、水戸藩のテロ攻撃が迫る中、刀を結び付けていた事だと思うぞ。

>>334
長井雅楽の“航海遠略策”を言っているが、これは大攘夷と言うよりは
開国論と攘夷論の折衷案でどちらかと言うと開国論だ。
長州藩の尊皇攘夷派は“航海遠略策”に反発した、と言うが、
正式な藩論に採用されている事からこの時点の長州藩は、それほど攘夷派は強くないのだろう。
長州藩=攘夷派と単純に言うのはどうか?

>>335
真木和泉もそんな事言っているのか?
案外長州藩も便宜的ナ攘夷論者で単に政局の中心に座りたかっただけなのだったのかも。

341:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 06:37:15.14 dqxefsb10
攘夷実行した薩長、今即攘夷派の英雄が日本を救ったのだ。
攘夷実行の歴と功を都合よく無視し、挙句明治維新は薩長や攘夷派の単なる便宜的陰謀だったかのような、歴史改変捏造するのが売国の常。

新政権は開国はしたが、そもそも攘夷論と開国鎖国論は同じでない。
初期こそ鎖国は国是と思われてたが、途中から徳川幕府が成立した法でしかないと認識されてる。
流れから開国は避けられない必然で、問題はどの様に開国するかの問題でしかない。

和親条約は単に開国し、互いに外交しましょうという普通の外交条約に過ぎない。
次に結んだ日米修好通商条約が、攘夷派を急進論にしたのである。

日米修好通商条約は不平等な条約で、日本にとって著しく不利な条約である。
さらに国内的に朝廷の許可なく結び、対外的には侵略者の害夷の脅しに屈し無策で結ばされた。
この為に、国内経済は物価高で無茶苦茶になり、金銀を消失し、国民は苦しみ、植民地国の例に従い植民地手前の危機。

攘夷論は日本を害夷から守れという当然の論でしかない。
清国や、世界の植民地化された国々は、皆害夷との通商開国で植民地化されたのだ。
開国するのも、よほど上手く開国できなければ、他国のようと同じ道に過ぎない。

徳川は日米修好通商条約の結んだ時点で、もう命運と政権担当資格を失ってる。

その後不平等条約改正(破約攘夷)は薩長主導の新政府が半世紀以上の時間と血と労力をかけて改正を成し遂げた。

>>339
井上は不平等条約改正に苦心し、批判された鹿鳴館や極端な欧化政策を取ったが、そんな訳の分からないことはやってない。
目的は破約攘夷だ。

342:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 07:08:48.36 dqxefsb10
自称大攘夷開国派とやらは、単なる腰抜けでなんら大した役にたってない。

便宜上「開国して大攘夷だー」だの言ってるだけで、実態は幕府の失策を誤魔化しこれまでの行動を追従してるだけ。
航海遠略策などは実態を見ない、実践のない、単なる議論上便宜上のみで通じる空論、と見抜いたのは急進攘夷派の久坂玄瑞。

「英仏の力をほしいままにして皇国に向かい、干戈を用いざるは、支那の長髪賊の勢威はなはださかんなるゆえなるべし。
万に一も長髪賊、英仏に屈せば英仏の我に寇すること必然ならむ。
幕吏の穢き心もちたる奴らは戦いをおそれ和を唱えて、まず武備を整えてのち攘えしと・・・されど、癸丑の頃よりすでに十年の久しきを経ぬるに、器械何ほど整いたるか。士気何ほど奮いたるか。」と批判してる。

久坂は国際情勢を計り、害夷は清国の乱に手こずってるが、侵略の芽はいずれはこちらに向かってくる。
幕府の奴らはそれをよい事に、ただ戦いを恐れ、口先だけで航海だの武器を整え攘夷だの10年も述べてる。

「西洋諸国といえども、魯王のペートル、米利堅のワシントン師の如き、国を興す者の事業を見るに、是非とも百戦中より英傑起り、議論に定まりたる者に非らざれば、役に立たざるものなり。」
「これ非共早く一旦戦争を始めざれば、議論ばかりになりて事業は何時までも運び申さず」

と攘夷を経ずしてでなければならないと結論つけてる。
象山や福沢諭吉など開国派は、ただ外国知識があったってだけ。
攘夷論者の松陰や久坂や高杉や大村などと違い、大した人物でなく大して事もしてない。
会津に至っては、薩長憎しの私怨で北海道を売り飛ばそうとした。

ハッキリ歴史の正邪を明らかにしないと。

343:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 11:43:09.52 sAQruKBA0

井上馨の「人種改良論」知らないの?

馬鹿だねw

ソース
 ↓
井上馨の欧化政策と現代日本の政治
URLリンク(www.ubsgw.net)

344:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 11:55:09.81 45pdrgeJ0
>>342
久坂や三条は孝明天皇に京都を追い払われてるじゃん。
あの頭のいかれたヤツらをどうにかしてくれって薩摩に泣きついて。

345:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 13:10:05.70 qtn+tQBd0
大東亜戦争は科学技術が発達したとこでもう一度、攘夷を試みたわけだね。
大攘夷も結局は失敗に終わり、「平和で民主的」な屁たれ戦後社会ができた。

346:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 19:23:12.40 RfmWIXDU0
>>343
そこで井上を激烈に非難してる鳥尾小弥太も長州藩士でっせ。
ぱっと見反対派が圧倒的多数って感じだが、高橋義雄vs加藤弘之とか
やり合ってたとこ見ると、それなりに盛り上がってたのか?
井上はそんなことを言ってる一方で、憲法についてはドイツ式でも
イギリス式でもなく日本の国情に合ったものをって持論で、
盲目的に欧米信奉かと言うとそうでもない。
伊藤のキリスト教一件といい、どこか焦りというか浮ついたというか
そんな所のある連中だなw
大久保や木戸の苦労が偲ばれる。

347:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 21:43:40.54 3OFAo5oM0
>>330
幕府に近代化と改革は無理。
もし出来ても日本が植民地になってる。
何故なら幕府は金がカラケツで、旧態依然とした組織を潰す事も出来なかった。
幕府の改革は全て欧米からの借金が前提になっており、
鉄道などもみな敷設権を欧米に認めるというもの。
あれほどの巨額の融資をしてもらって、それを無事返済できるとは思えない。
幕府は馬関戦争の賠償金すら払えず、欧米に利権を譲り渡していた事だしね。

借款ができないか、代わりに領土なり権益なりを大幅に失い、
その権益を守る為に、欧米の兵が駐留するという植民地化が関の山。

348:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 23:29:23.79 b133A+Xq0
松陰、久坂、高杉らは天才であり、対外戦である攘夷戦が内にも急進的革命を引き起こす事を知っていた。
通常の尊皇攘夷論はまず内を固めてから外を跳ね返す論だが、これは空論でしかない事を知っていた。
外を攻撃する事で内も固めるという機微を知ってる。
これを早い時期から知っていた久坂は、中岡によると第一に卓識なる者となる。

>>345
あれは単なるアメリカとの戦争。
国民も負けたのは単に産業と科学の劣勢、原爆が原因と思ってたとされてる。
それを捻じ曲げたのはGHQのプロパと、それに操られ踊らされた戦後左翼や日教組に過ぎない。

349:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/03 01:29:21.95 fq9CrOMU0
ガルトネル開墾条約事件って
もしかして会津の蝦夷売却話と関係あるのでしょうか?

関係ないとすれば蝦夷共和国のトンチンカンぶりが悲しい。

350:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/03 03:16:08.10 suKcuN0BO
ジャンプしてサボンを作れ釜次郎

351:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/03 16:50:56.85 +qXZgZuY0
>>349
前にその辺をNHKBSの番組でやっていたが
政治的なことを個人の感傷にスライドしてごまかして終わってよくわからなかったな
まあその内に総合で再放送するだろう

352:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/03 16:53:55.02 R8HSsNrg0
>>349
会津の蝦夷地売却の件については、ビスマルクが列強との関係上宜しくないと
断ったって話じゃなかったっけ。
実際はその返事が来る前に会津が終わってたようだが。

353:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/05 13:46:54.27 nIwnoJ6n0
>>347
ウソばっかり書き込むな!

354:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/05 13:56:03.08 /bsMUlJN0
>>352
んでケリが付けばいいものを余計なことをしてプロイセン商人に結局6万ドルをふんだくられたのだから
函館府も蝦夷共和国もアホとしか言い用がない

355:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/05 13:57:56.91 /bsMUlJN0
函館府をアホみたいな公家なんかに任せたから99年租借なんかホイホイ認めちゃうんだよな。
長州藩が彦島租借を断固阻止したのと対照的だ。本当に公家は・・・・

356:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/05 14:28:56.89 H+//NYuO0
>>355
>本当に公家は・・・・


昭和天皇がマッカーサーに沖縄占領を長く続けてくれるように
頼んだのをおもいだした。

357:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/06 06:47:10.79 Zu10m+9H0
>何故なら幕府は金がカラケツで、

関税収入が、順調で幕府の税収は確保され、財政破綻はしていない。
従来の貨幣改鋳収入もまだそれなりに確保されているし、特に1867年以降は、
兵庫開港の関税収入は大きくなる。結果これらが、幕府が進める「慶応の改革」の資金源となる。

>旧態依然とした組織を潰す事も出来なかった。

大政奉還直前に幕藩体制から郡県制に移行する事を慶喜が表明している。
大政奉還後の朝廷新政府への政権一元化と合わせて、従来の幕藩統治機構は終了。

>幕府の改革は全て欧米からの借金が前提になっており、

薩摩藩のサボタージュで見事に失敗、代わりに徳川家が旗本領半分を収公してこれに当てる。
結果として、この方が良かった。

>鉄道などもみな敷設権を欧米に認めるというもの。

構想だけで、実現はしていない、外債の起債が失敗した時点でもうこの計画は危うくなっている。
もし徳川宗家の権力が維持されていた場合には、旗本領の残り半分を収公してそれに当てるしかないだろう。

>あれほどの巨額の融資をしてもらって、それを無事返済できるとは思えない。

だから「慶応の改革」は、外債の起債が失敗して、旗本の領地半分を使って費用を捻出したの!

358:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/06 19:14:15.26 X7IwqS7s0
江戸幕府がトーマス・グラバーの仲介で35門もの多数を発注したが、
グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった件だが、

これはグラバーが薩長の関係を重視した為に幕府に引き渡さなかった、
と言われる事が多いが、それと同時にジャーディン・マセソン商会の意向もあった。
ジャーディン・マセソン商会はグラバー商会の元請であり、逆に言えばグラバー商会は、
ジャーディン・マセソン商会の日本の代理店に過ぎない。

この様な最新式の重火器35門と言う大量発注の際は、元請のジャーディン・マセソン商会の
意向を聞かないとグラバーだけの判断では動けない。やはりジャーディン・マセソン商会は、
慶喜治世下の徳川幕府を警戒していたと思う。

ジャーディン・マセソン商会を始めとする外国商社が幕府から距離を取り始めたのは、
1864年に幕府が横浜鎖港を表明した為だ。と言うのが一般的に言われる説だが、幕府は
横浜鎖港の代わりに兵庫と新潟の開港を約束している訳で、外国商社にとってそれほど
不利益ではない。

やはり慶喜が遂行した「慶応の改革」で、大砲や軍艦等の国産化を目指したり、
輸出入や全国の運送を一元的に行なう徳川家肝いりの大商社の設立構想などが、
ジャーディン・マセソンらの外国商社にとっては、利害に直接的に反する、
と判断したからだろう。

幕府が軍艦や重火器の国産化を成功させた場合、外国商社からの武器や艦船の買い付けは大幅に減ると思れる。
また大商社設立計画も外国商社との直接競合する為、その存在を嫌がる。
その為に慶応の改革を実行した幕府への薩長の討幕運動に外国商社も関与した。

幕府の倒壊には、外国商社の関与もよく検討すべき。

359:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/06 19:16:57.64 X7IwqS7s0
幕府が軍艦や重火器の国産化を成功させた場合、外国商社からの武器や艦船の買い付けは大幅に減ると思れる。
   ↓
   ×
幕府が軍艦や重火器の国産化を成功させた場合、外国商社からの武器や艦船の買い付けは大幅に減る。
   ↓
   ○

360:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/06 21:51:46.22 G17+9XSE0
慶應年間なんて崖っぷちの時期に改革なんてしても却って混乱しただけだったんじゃないの

361:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 12:01:46.50 +WlrMtf70
その崖っぷちの「慶応の改革」を見て、桂小五郎は…

「今や、関東の政令一新、兵馬の制、またすこぶる見るべきものあり、一橋の胆略決して侮るべからず。
 忠し、今にして朝政挽回の機を失い、幕府に先を制せらるる事あらば、実に家康の再生を見るが如し。」

と言って、慌てて討幕を始めますがね。

また、桂小五郎も長州五傑の1人でジャーディン・マセソン商会の資金で欧米に留学しています。
外国商社の息がかかっている人物とも言えます。

軍艦と兵器の国産化や輸出入や全国の運送を一元的に行なう大商社の設立構想等をもった幕府に
アームストロング砲を売って今より更に幕府の軍事力を高める事は、ジャーディン・マセソンや
彼らの代理店であるグラバー商会にとっては、迷惑極まり無い事なのでしょう。

362:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 12:20:59.58 j9MbpILl0
>>361
>また、桂小五郎も長州五傑の1人でジャーディン・マセソン商会の資金で欧米に留学しています。
この一文で台無しだよwwwなんちゅう適当な情報をw
桂が長州五傑として留学してたら818政変とか池田屋とか禁門に立ち会えないってのw当時新鮮グミが追っかけてたのは何者なんだw
加冶とかのトンデモ情報にしても時系列滅茶苦茶な捏造だなー、もっと考えて話作れよな。
欧米の留学費は大村益次郎が工面して長州から出してる。

アームストロング云々なら佐賀藩で自作していた事はどうなのかね。

363:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 12:42:12.04 5z8WbHfK0
正直そんなん気にしてないだろ。
日本初のドッグ建造を斡旋したのはグラバーだぞ。長崎の。

兵器を生産出来る技術と、それを大量生産する技術は異なる。
生産できる鋼鉄の質と量、工作機械の調達、大量生産に適した組織作りが必要。
少なくとも、横須賀製鉄所すら出来てない状態で警戒しても意味がない。しかも結局明治政府が受け継いでるし。
また、マセソン商会が売らなくとも、他の商社や最終的にはフランスって伝があるから
どの程度の効果を期待できたか疑問。

ぶっちゃけ、戦争を長期化させたいから圧倒的優勢に見える幕府軍の戦力強化を敬遠したか、
売掛金の回収に不安でも生じたかってとこではないだろうか。

あと、ジャーディン・マセソン商会の仲介でイギリス留学したのは、桂小五郎じゃなくて
伊藤や井上を含む長州五傑の間違いじゃないか?
彼らは工学・鉄道・造幣の技術を学んで帰り、明治にはそれらの分野の重鎮として活躍している。
恒久的に日本に兵器を売りつけたいなら、工業生産性を高める工学や鉄道技術を学ばせちゃダメでしょ。

364:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 12:54:32.22 JbZUnlE80
技術は結構簡単に盗めるもんだけど、
(事実、戦国時代末期、日本は世界一の鉄砲輸出国だった)
金が継続的にないと大量生産のための投資はできない。

365:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 13:52:34.09 0uZ6cU6Q0
英国へ留学した長州五傑は、
井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の
5名の長州藩士ですた。

>アームストロング云々なら佐賀藩で自作していた事はどうなのかね。

買っただけで、自作はしていない。

>ぶっちゃけ、戦争を長期化させたいから圧倒的優勢に見える幕府軍の戦力強化を敬遠したか、

自分の商売がらみとは言え、それも結構な薩長支援じゃね?

>恒久的に日本に兵器を売りつけたいなら、
>工業生産性を高める工学や鉄道技術を学ばせちゃダメでしょ。

黄色人種全般を馬鹿にしていて、技術を教えたところで、マサかドイツ並みの製造業を
日本が立ち上げるとは、この時点では予測していなかったんだろう。

だいぶ後の話になるが、ニクソン訪中の直前にキッシンジャーと周恩来が秘密交渉しているんだけど、
その時にキッシンジャーが
「日本がこれほど経済的に誇張するとは思わなかった。日本を大きくしすぎた事を反省している。」
って周恩来に言う場面がある。これって白人の本音じゃネーのかね?

周恩来も、これを受けて
「日本が台湾の独立運動を支援したり、自主防衛や核武装する事をアメリカは阻止して下さい。」と言い、
キッシンジャーも了解している。

バブルの頃は、FSXの国産を妨害されたし、NOと言える石原慎太郎が、米中両国から嫌われる理由はこの辺りかと。

366:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 15:14:55.04 5z8WbHfK0
>>365
幕府発注のアームストロング砲のその後については今一よく分からんが、
結局鳥羽伏見には間に合ってないんで、そこまで薩長支援って訳ではないのでは。
前年に入荷してるようだし、本当に支援したいならもっと早く渡してるんでないかと。

まぁアームストロング砲自体、特に活躍したと言われるのも上野戦争ぐらいで、
それも佐賀藩所有の6ポンド軽野戦砲らしいから、ぶっちゃけどの程度の価値があったか疑問でもある。
お前ら最新兵器って売り文句に飛びついたんちゃうんかとw
せめて何ポンド砲が発注されたのか分かればなぁ。

あと、技術の吸収力について甘く見てたとしても、最初は外国人技師に頼らざるを得ない訳で。
その辺の判断材料与えるのは、収奪目的としてはマイナスだと思うんだよね。
結局明治政府は、鉄道の経営権を海外に販売するのは禁止しちゃったし。
幕府から買ってた経営権まで無効宣告されたのはザマァだがw

367:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 16:00:02.55 T0ysT2wT0
>結局鳥羽伏見には間に合ってないんで、そこまで薩長支援って訳ではないのでは。
>前年に入荷してるようだし、本当に支援したいならもっと早く渡してるんでないかと。

鳥羽伏見の戦い時点でアームストロング砲を持っているのは、鍋島藩だけで、薩長は持っていない。
上野戦争や会津の攻城戦の時は、薩長は、鍋島藩から借りているだけ。

グラバーにしろジャーディン・マセソンにせよ、鍋島藩に売って、なんで幕府に売らないのよ?
って感じだ。その辺に外国商社の恣意性が感じられる。
まっ薩長にアームストロング砲を売っていないから、露骨な薩長支援はしていないのだろうが…

アームストロング砲を薩長にだけ売って幕府に売らなかったら、グラバーは幕府向けの商売出来なくなっていたかも、
下手したら、攘夷派の旗本に斬られるなw

>あと、技術の吸収力について甘く見てたとしても、最初は外国人技師に頼らざるを得ない訳で。
>その辺の判断材料与えるのは、収奪目的としてはマイナスだと思うんだよね。

清朝も徳川幕府も最初は買うばっかりだったけど、
数年したら、幕府の兵器廠?が炸裂弾を造り始めたり、小栗が“慶応の改革”でアジア最大の造船所を建設したり、
艦船の国産化を言い出したりして、外人たちも次第に幕府と清朝の違いが、判り始めたんじゃないかな?

日本は、国産と輸入の併用で出来れば国産という志向があったけど、清朝は、日清戦争の頃でも輸入ばっかり。

清朝と幕府の兵器輸入政策は、ホンの数年で違いが出ている感がある。

368:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 20:04:42.44 f55yfpz40
>>366
アームストロング砲は秋田戦争などでも活躍しているよ。

369:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 20:17:58.13 /TkvJhdJ0
アームストロング社製でも艦載重砲は破裂しまくりの欠陥品

370:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 20:36:54.07 yaNzQzIC0
「幕府に西郷や大久保の様な大人物居ねーから無理勝てねーから」by慶喜
これが全て

371:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 21:08:04.30 iz2H1qeR0
それは鳥羽・伏見の戦いで負けて帰ってきた上に、大阪城に籠もりましょ、と松平容保らが言い張るから
お前らは大軍を擁し、大見得切って飛び出しておいて、ここまで負けておいてそんな器か、という意味の言葉のあやなわけ。

勝てば問題はなかった。問題は会津ら旧幕府軍が惰弱だったこと。

372:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/07 21:36:44.31 9CwWlNfG0
為替で財政流出して改革費ねえだろ。北海道担保にしようとしてたぐらいだろ?







ちゃんと調べてないけどwww

373:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/08 08:39:29.78 5UOUDAVn0
>>349
あれは幕府政権下の箱館奉行が認めたものを
蝦夷共和国と明治政府がどちらも追認しただけ。
んで明治政府が莫大な違約金をとられた。
まあ榎本は確信犯だったかもしれないけど。

374:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/08 18:41:37.55 7NeYOYkC0
>>368
ああ、秋田戦争ね、成程。
そこまで記録に残ってるなら逆に、グラバーが引き渡し拒否ったアームストロング砲は
一体どこ行ったんだろうな。
薩長の手に渡ってたら、どっかの戦線で使ってその記録が残るだろうし。
可能性としては、新政府軍にも引き渡されなかったか、重砲クラスで
野戦での運用なんか出来ない代物だったか、ぐらいかなぁ。
>>367が正しそう。
ちなみに、清は洋務運動で、製鉄所や造船所作って武器製造を行ったりしてるぞ。
いかにもあっちの国らしい理由で失敗してるが。

375:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/09 13:13:58.31 6iI1qqv60
>>357
>関税収入が、順調で幕府の税収は確保され、財政破綻はしていない。

関税率が引き下げられたため、収入が大幅に悪化した。財政破綻している。
下関事件の賠償金も払えなかった。
また国内においても酷いもので、長州征伐の失敗で500万両以上を無駄に使い、
その費用は御用金で捻出しており、幕府の金ではない。

>大政奉還直前に幕藩体制から郡県制に移行する事を慶喜が表明している。

もう幕府がつぶれた時の話だろ、そしてそんなことが実行できるわけもなし。

>構想だけで、実現はしていない、外債の起債が失敗した時点でもうこの計画は危うくなっている。

この時点で売国奴の発想なんだが、そもそも郡県制は構想のみであったといい、
敷設権を与える事は構想のみだから問題ないというのはただのダブスタに過ぎない。
基本的に幕府の艦船購入や、製鉄所や港湾の建設などの費用は全部外国からの借款が前提であり、
それが無理なら、破綻するものでしかなかった。
フランスからの莫大な借款は、フランスの優先購入という生糸の独占を許すものとの交換条件であり、
フランスは相場の半額以下で日本から買い叩いていた。

さらに慶応の改革の問題点をあげれば、日本の流通などもフランスにかませるというものまであり、
正直幕府は自らが存在する為に、日本を切り売りしようとしていたとしか思えない。

ちなみに明治政府は外国人の起業なども厳しく制限していた。
そうやってまず日本国内の産業を守る事が必要な時代だったんだよ。


>だから「慶応の改革」は、外債の起債が失敗して、旗本の領地半分を使って費用を捻出したの!

違うだろ嘘つくな。
旗本の領地収入の半分を収めさせた収入で作り上げたのは、幕府歩兵隊だ。
軍制改革も確かに慶応の改革ではあるが、なんでこれと政治改革まで混同させるんだよ。


376:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/09 13:27:32.31 vKyzxWDR0
絹利権は大きいからねえ。
蚕種の品質改良をすすめた幕府や絹織の技術を持ち帰った博多の人とかは
もっと評価されてもいいとおもう。

377:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/09 13:32:26.56 vKyzxWDR0
ちなみに俺は長い間「越後のちりめん問屋のご隠居」の「ちりめん」を絹のことと知らず
シラス(ちりめんじゃこ)を連想していますた。

378:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/09 17:57:16.40 4esNBwgl0
改税約書だっけ。
当時の列強の常識とは言え酷いもんだ。

379:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/09 21:01:10.73 zhN/zpHj0
>>375

いろいろ言うけど、結局幕府はフランスから金借りる事に失敗してね?

380:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/09 21:53:10.03 hOKv4mDL0
>>379
この文は、>>357が嘘という趣旨で書かれたもので、別にその部分は否定していないと思う。

381:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/10 16:29:13.91 lyY2HQba0
>>380
この分は>>347が嘘という趣旨で書かれたもので、別にその部分は否定していないと思う。

382:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/10 17:13:01.02 RBiEtOsu0
>>381
>>347は正しいと思うが。
嘘だらけの論証なしの>>357を論じられるのが、そんなに嫌なのだろうか。

383:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 02:20:19.75 +ruQHGX0O

結局、大平洋戦争に続く!

あんな馬鹿な大平洋戦争は、政治経済問題と共に、幕末維新の幕府軍の末裔の意識の裏返しがある!



384:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 04:00:57.99 biUBvJjB0
三国干渉の頃までは物事を客観的に見て現実的な判断が下せたんだがな
メンツを捨てても国を守れた

日露戦争で勘違いしちゃったんだな

385:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 06:06:30.90 CWByOfz+0
現実的な判断が何かという話だけどね
物質で勝つ戦争すべきなのは至極当たり前だけどアメリカならともかく
他の国からしたらほぼ戦争理想論に近いし
当時の指導者立場からしたらあれが地に足ついた現実的判断なんだろう

386:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 11:20:49.54 Rljzyzwv0
>>385
日本語でおK

387:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 12:09:10.42 YY2SD3cI0
お前が理解できないからといって誰もが理解できないと思わないほうがいい

388:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 12:16:37.25 Rljzyzwv0
意味不明だよw

389:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 12:24:58.02 Zw+1tyRC0
>>379
最初の借款は成功したが、追加借款は難航しており、交渉中に幕府が滅んだ。

390:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 17:33:07.87 asidz2/h0
>結局、大平洋戦争に続く!
>日露戦争で勘違いしちゃったんだな

幕末明治の戦争と太平洋戦争をつなげない方がいいよ。問題の質がまったく違う。

明治以前の戦争の主題は「いかに日本を守るか」だった。
そういう意味では、国防や国益をキチンと考えている。
昭和期の戦争は、ほとんどが軍閥の勢力拡大に端を発している。
政治家などの議会の方は、戦争なんかしたくなかったが、軍部や軍閥の方は戦争が起きた方が
自分達の権限や資金が集まる為、戦争を起こそうとして事件を起こした。
国或いは国益なんて考えてねぇもん。
日中戦争が特にそう。その日中戦争で中国側にたったのが米国などの連合国で、
太平洋戦争の原因は、日中戦争にある。


391:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 18:06:45.54 AEp7lCKt0
国益を考えてああなったんでわ
政治家などの議会は我が身の保身しか考えてなかった
アメリカはずっと満州利権狙ってたし

392:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/11 20:20:29.05 asidz2/h0
国益を考えてたら
”議会を通さず、参謀本部といった軍中央にも相談せず、ナントカ事変”なんて起こさないでしょ。
個人的利権や権力拡大の為にやったから”謀略的事件”になっとるわけで。


393:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/12 06:31:48.15 MHCPq+xf0
昭和のは全部既成事実と事後承諾の繰り返しの時点でどういう類のものだったかお察し


394:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/12 11:36:30.82 yG2/Trsc0
>>390
甘いよ議会というか議員さんのバックには財閥がいるわけで、
財閥は不況で消費が芳しくないから、戦争需要を当てにしているんだよ。
さらに満州に進出している企業はかなり多い。
そのうちの一つの満鉄の株だけで、東証の株価の一割はもっていた。
その株を保険屋や銀行がもっているわけで、ここが潰れると金融が連鎖倒産する恐れがあったんだよ。
だから彼らも満州の権益を手放すなんて出来ない。

日中戦争とは日本が権益をそのまま持とうとした事と、
それを奪還しようとした中国の戦いなのさ。

在日米軍基地に特攻しかけたようなもんだ。

395:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/12 13:48:33.54 ARr07uud0
まぁ戦前は国民感情的にも、満州放棄は無理だったと思うけどね。
ただ張作霖爆殺と満州事変ってやり方は……

396:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/14 00:15:06.63 IC8Xm1ay0
直ちに放棄しろとは言ってないんだな。

397:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/14 07:59:23.51 a5///+6F0
政治家も内田外相の焦土演説が受け入れられたのを考えると満州国を肯定してたように思えるけど。
まあ犬養みたいに粛軍とリットン提言に近い線での満州処理を考えてた政治家もいるんで一概には言えんけどな。

398:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/15 02:11:36.79 xm3TMv5h0
生糸利権フランスに売り渡そうとした小栗の父祖伝来の領地が養蚕王国上州だったというのが
皮肉めいて面白いんだろ。歴史の妙な必然。
小栗の功績、横須賀ドックは軽工業(紡績)で数十年経験積んで、重工業に移行した時に
やっと役に立った。我が国唯一の資源、生糸利権売り渡してれば無駄。

399:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/15 02:48:44.96 vov+57J3O
>>397
満州国に関する犬養の答弁やインタビューはかなり苦しいけどなw

経済建て直しには新興財閥の更なる成長は不可欠な上に、予算を突っ込みたい化学・軍事関係は旧財閥より新興財閥の方が積極的。


もし満州放棄になればこの新興財閥が一気に離れ、経済も更に失速という。


ジレンマってやつだな

400:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/15 02:54:09.44 YM4H6hUN0
日明貿易を牛耳る大内氏が絹利権に目をつける

満田彦三郎が大内の手引きにより広州で修行し大陸の絹製法を持ち帰る

博多織や西陣織等絹織物が大きな利権となる

生糸の需要も高まり南蛮人が絹の転売で大儲けする

諸藩が蚕の改良に尽力する

生糸、絹織物ともに中国水準に迫る質を得る

養蚕製糸が殖産興業の主力になる

富岡から三河へ紡績が広まる

豊田佐吉が自動織機を作る

挙母町に自動車工場が設立される

人工繊維の開発で絹需要が激減

自動車産業全盛期へ

歴史って面白いですね。

401:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/17 14:28:08.49 lSbE5xg/0
つながってるからな

402:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/17 21:19:40.49 cZHAze0Z0
そろそろ話を幕末に近づけましょう。

戊辰戦争に勝利した新政府は、長州藩の大村一派と薩摩藩の海江田一派により
軍制の策定を巡って対立論争をし始めた。そしてついに海江田一派は長州藩の
大村益次郎を暗殺してしまう。

このような新政府内の混乱をよそに紀州藩(和歌山)が独自の徴兵制を敷いて
ドライゼ銃とクルップ砲で武装したプロイセン式農兵軍を組織し、地理的な優
位性と徳川宗家16代当主の田安亀之助が紀州徳川家の縁者である事などもあり
同藩は軍事的に台頭しつつあった。
また、この動きに、土佐藩が同調する動きも有った。

大村の後を継いだ長州奇兵隊出身の山縣有朋は、紀州藩の動きに危機感を覚え
て薩摩との協調に転じ、山縣の依頼を受けた西郷隆盛は、1871年(明治4年)
に中央政界に復帰して御親兵(後の近衛師団)に各藩の藩兵を拠出させて改組
し、これを中央軍とする体制が暫定的に発足し、この御親兵の軍事力を梃子に
して廃藩置県を新政府は断行した。

江戸城開城以後も薩長に軍事的に対抗する動きを見せた土佐藩や紀州藩の軍事
力を廃藩置県という大義名分の下に解散させた。

403:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/19 01:36:05.35 36O2hM9c0
16 名前:日本@名無史さん :03/02/10 03:22
行軍隊形に京都へ進軍したから。
旧幕府側はあの場で戦争するつもりはなかったから。
以上の原因から生ずる初日二日目の旧幕府軍敗北で旧幕府側は
後手後手にまわり、これと心中したくない土佐、淀、津各藩現場部隊は、
隠居や藩主の意向などおかまいなく錦の御旗にすがりつき、
旧幕府軍敗退に拍車をかけた。

404:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/19 22:13:45.37 QbVNpUxS0
淀藩、津藩はともかく土佐藩は、幕府軍を裏切ってはいない。

幕府軍が、鳥羽伏見の戦いに負けて大阪城に撤退した後も土佐藩は幕府や会津藩と連絡を取り、
京都への最進撃を要請してきている。

特に官軍の兵力と食料弾薬のの不足の情報を提供しており、再度の進撃が合った場合、
鳥羽伏見の防衛線で官軍は守りきれるか判らなかった。

405:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/20 02:23:23.47 eSGS9HJ50
>>404
土佐藩は四日には新政府側として参戦してるぞ。
しかも敗退した後に進撃とか、三分の一の数の薩長だけでも勝てなかったのに
日和見して裏切った淀藩や津藩だけではな無く、旧幕府側として出兵していた
小浜藩も新政府側に恭順しだした情勢では無謀だよ。
士気の面でもね。

406:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/22 14:33:49.86 keUABWZI0
幕府のまま近代化していたら朝廷の位置づけはどうなっていたのだろう。
ローマ教皇のようなものと説明するのだろうか?

407:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/22 15:37:09.59 iKEhZOg40
西南戦争終わるまで
一般市民のとっては天皇って地味だったろ

408:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/22 17:43:50.86 bwsBG1At0
庶民でも論語や孟子くらい読んでいた。
その中の「正名」という概念について学べば
武官の長にすぎない「将軍」と呼ばれる者が
「帝」と呼ばれる存在をさしおいて
実質上最高権力者の地位にいる事を奇異に思わないはずがない。
そういう議論は幕末までには庶民レベルまで相当浸透していた。
庶民というのは下級武士も含むからね。

409:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/22 18:04:15.44 keUABWZI0
易姓革命も辞さないという強い態度で臨んだらお公家さんはへたれ
だから、宗教上の指導者ということで祭り上げられるんじゃないか。

410:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/23 12:12:33.06 2t0iOnr30
下級武士は幕藩体制で固定化されている身分制度を打ち壊すために
勤皇を利用したって側面も大きいけどね。
要するに成り上がるには将軍すっ飛ばして天皇に直接ぶら下がるのがいいと考えた。

411:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/24 13:22:13.81 Z9JN689I0
光格天皇のとき、御所千度参りとかいうのがあったのを考えると、
少なくとも近畿では神社的な存在感はあったんじゃないか?w
あと庄屋とか豪農辺りだと教育受けて勤皇に走ったのもいるから結構知られてただろうし、
寺子屋の多かった辺りは農民でも知っていたかもしれない。
伊藤博文や山県有朋だって、元は中間だしね。

412:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/24 21:33:46.75 lDTJ3fkS0
長州藩の場合は国内でも二番目の数の寺子屋があって、
けっこう教育に熱心な藩だったからねえ。
農民をある程度教育していたのは、岡山藩(寺子屋の数一位)と長州藩くらいのもの。
そしてだから勤皇藩に長州藩はなったといえる。

413:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/24 22:33:41.76 mua/5ZeP0
勤皇の結果、神がかり対米戦争に突入だけどな。

414:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/25 13:49:40.62 p/wwS9Zl0
外様の藩士なら特に勤王の論理に飛びついただろう

415:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/25 14:41:15.08 2NVp0XRq0
一番物凄い勢いで飛びついたのは親藩の水戸だけどなw

416:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/26 20:26:00.72 7cjsw/eS0
尊皇攘夷は当たり前の常識。
尊皇攘夷を政治実現化すると勤王になる、なぜ勤王か。
攘夷の為には上下左右の軋轢を廃し日本を一つにまとめる必要がある。
幕府は諸侯の中で大いなる盟主に過ぎないから、日本の旗になるのは不可能。
結局天皇以外なしとなる。

417:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/26 23:57:49.93 4f2QJFrC0
天皇抜きに出来なかったのが当時の日本人の弱さだな。

418:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/27 01:03:08.67 VqUUL52d0
権力を持たない権威という点で都合のいい
天皇家という中核がいたことが当時の日本の強みだな

民主主義はよほど成熟しないと権威と権力の分離が上手くいかない
共和制国家は統合の中核を欠き、
王政国家は権力の専横のリスクがある
だからフランスですら王政と共和制を行ったり来たり動揺していた


419:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/27 06:54:21.36 U5t82uyw0
日本の場合幸い、天皇家は西洋における政教的役割も兼ねてる。
欧米の場合はナポレオン戦争や独立戦争の攻伐から、挙国攘夷体制の国民国家を作り出した。
その点日本は言語習慣風習が同じ単一国で、皆尊敬する天皇家という人工では作れない権威象徴がある。
皆尊王だったから大きな内乱なく、封建体制や身分制を廃し国民国家を成立できた。

420:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/30 05:09:24.33 3O1HL39B0
>>405
土佐藩兵は、幕府軍とほとんど戦っていないのが現実。
>>410
それは、その通り、徳川将軍家のオールマイティーを打ち消す為に、皇室を持ち出した。
ある意味、明治天皇が徳川慶喜に成り代わって廃藩置県や富国強兵を行った。
>>417
今でも日本人には天皇家は欠かせない、必要ないのはブサヨとチョソとシナだけ。
民主党のデタラメぶりを見れば、出来れば天皇に拒否権ぐらい与えても良いくらいだ。
>>418
フランス革命政府は、ルイ16世のクビをちょん切ってから“理性の祭典”なんてのをやっている。

421:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/30 06:37:30.13 AgXYJAVCO
きんのー

422:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/04 09:40:44.84 0takiqB90
>420
リヒテンシュタインですか?

423:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/04 16:09:06.65 AA2JbzZf0
フンガー

424:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/16 11:52:45.75 f4vVOKa/0
桃山時代には大砲を安宅丸に搭載した徳川水軍がいたのに
それらはどこにいった?

425:名無しさん@お腹いっぱい。
11/09/17 02:54:27.22 HV9jIlfm0
海軍は維持費が馬鹿高いので解体しました。
大船建造禁止令があるからいいじゃない。
商船利用しようにも、一本帆だから切り上がり性能が良くなくて風待ちは必須だし、
沿岸航海に特化してるから、大挙してやってくれば絶対どっかで見つかるし。
商船に偽装して建造しようにも、一本帆は大型船に向いてない。

426:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/15 10:25:45.00 L7rogHm/0
御三家の尾張、紀州はヘナチョコすぎた。

427:名無しさん@お腹いっぱい。
11/10/16 01:38:14.44 SApfssfw0
尾張は第一次長州征伐で幕府に面目潰されたのが大概だと思う。
紀州は第二次で頑張ってたし、鳥羽伏見じゃ出た頃には負け確だから
情状酌量の余地があると思うw

428:名無しさん@お腹いっぱい。
11/11/19 11:29:07.59 UZ07duQ10
諸国名産魚名尽し

尾州の川魚 大海の魚にはましり難たし
水戸の人魚 あるか無いかわからない
紀のごまめ 魚ノ数のみとるにたらず
備前 鮫  かまぼこより外しかたなし
因州 初かつを 皆人々好く
田安 池の魚 大海へでて、うつけばかり
安藤(信正) 南風(はえ)にあたった魚 腹わたが腐っている
久世広周 車海老 味あれども骨がたりない
薩州 鯨  動き出しては大騒ぎ
長州 ボラ 作り身にして鯛に続く
土州 かつお なくてはならぬ
肥州 鰐の子 成長の後恐るべし
芸州 馬鹿貝のむき身 魚の数にいらず
鍋嶋 鰐 呑みもはねもする恐るへき勢い

429:名無しさん@お腹いっぱい。
11/12/04 14:24:53.17 YKoNZWLK0
関東連合
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