11/04/19 18:52:56.08 St0Cmp+V0
>まだ在京の薩長なら余裕で蹴散らせると思ってるし
いや、全員がそう思っている訳でもない。
慶応三年十一月までは、京に居る討幕派の兵力は薩摩藩兵2000名ぐらいだったが、
十二月になると薩摩藩の援軍2000と長州藩兵1300が上洛し討幕派の兵力が
5000人を超えてしまう。
永井尚志なんかは、薩長の援軍上洛を聞いて、
これ以上の討幕派の兵力増強を阻止すべく慶喜に進言している位。
>余計な連中まで江戸表から上ってくるしな
それは長州藩も同じ事、戊辰戦争で長州藩は最終的に2万人も動員している。
同じく薩摩藩は、数千人だそうだ。
>そもそも慶喜の欲しない鳥羽伏見が起きることは無かっただろう
幕府強硬派の圧力もあったが、慶喜自身もそれなりに戦闘での勝利に色気が無かった訳ではない。
討薩表を書いて、幕府軍の戦闘に掲げた事も慶喜は了承している。
>勤王藩攻撃して停戦の勅命が下った場合、従わなければ朝敵認定される訳で
理由付けの内容次第だろ。
無罪の藩にいきなり攻撃を仕掛けたら、朝廷三職会議で朝敵にされかねないが、
薩摩藩が関東で行っているテロ支援活動なら、むしろ薩摩藩の方がヤバイ立場に立たされる。
彦根藩や西大路藩、膳所藩などは、薩長の後方支援を行っているし、
園部藩、篠山藩などは天皇の逃亡の手助けをしているので、土佐、越前、尾張などの
徳川よりの議定(藩主)からは、非難されるだろう。
現実に畿内の藩がそれほど戦闘力を保持している訳でもない。
郡山藩の藩主も正室が薩長シンパの公卿一条家から嫁に来ているので、要注意だが、
実際に鳥羽伏見の戦いで、朝廷側に参戦して大阪城を攻撃した訳ではない。
大阪-奈良間の街道には、佐幕派の姫路藩兵数百名が陣取り、警戒していた為に
郡山藩は、何も軍事的には動けなかった。