戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性についてat HISTORY2
戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について - 暇つぶし2ch150:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/10 08:57:19.37 E+TB+6HY0
>>149
それを言っちゃうと洋式軍の絶対的な不足や指揮系統の不備という幕府軍の欠陥がなくなるなw
もはや幕府軍とは別物だ。

151:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/10 10:48:08.38 dRiDKZg60
志茂田景樹か星亮一の戦記小説を見るようだ。

実際は、事前に最新戦術教練と最新武器の配備に余念がなかったのは薩摩だったわけで、
実戦に堪える最新戦術という点では長州が抜きん出ていた。

会津をはじめとする佐幕派諸藩は、戦術や武器の遅れは精神性で補えると勝手に自負していた。
幕府歩兵は武器は最新だったはずだが、戦術に無駄な密集突撃が多く狙撃で指揮官を失い自滅し、
追い散らされると指揮が更に乱れて撤退を重ねた。

152:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 03:58:17.70 CkdgmDTY0
幕府にも島津斉彬みたいな人がいればよかったのに

153:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 08:04:01.21 FdofPEkg0
>会津をはじめとする佐幕派諸藩は、戦術や武器の遅れは精神性で補えると勝手に自負していた。

思ってネーヨ!

特に庄内藩と長岡藩は、もう全軍銃兵化を計画している。
藩士、郷士の身分は関係ナシの片っ端の銃兵化計画。
しかも最終的には、後装式銃での全軍銃兵化だ。

会津?シラネ
でも鳥羽伏見の戦いでは、白刃を抜いての万歳反復突撃は、物凄い物があった。
死者数も物凄いが…

>戦術に無駄な密集突撃が多く狙撃で指揮官を失い自滅し、
>追い散らされると指揮が更に乱れて撤退を重ねた。

まさか戦闘になると思っていないから、兵隊に弾を込める命令を出していないし、
丹波口からの山陰街道を下っている山陰鎮撫隊への攻撃もしていない。

最大のミスは、西国街道に幕府兵を配備しなかった事だろう。

西国街道を北上すれば、鳥羽街道の薩摩軍を迂回して薩摩軍の補給基地である東寺を攻撃出来たのだが、
幕府軍の西国街道無視で津藩は裏切ってしまった。

154:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 08:11:42.01 fkgg+sZf0
>>153
文が矛盾していることに気付いていないのだろうか。

155:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 11:42:17.29 XrjN6Pq3O
近代歩兵戦の経験値と金の問題で幕府が直接抱えてる歩兵隊とその他の藩兵の装備は差があるからな。

政治的な駆け引きとしても薩長髪

156:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 18:45:27.74 RDywkV490
いや錬度はダメだけど装備は大して変わらんだろ。
歩兵隊も前装式ライフル。
江戸には後装式も多少あったし。

157:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 14:45:13.69 YRaPQSx20
幕府歩兵隊の問題は、装備や練度よりも下士官の不足じゃなかったっけ。
伏見なんか奉行所から撤退した後最高指揮官がさっさと逃げ出して、
部隊は当てもなく一晩明かした後三々五々撤退とかお粗末すぎる。

158:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 18:54:52.63 oa6+3tYd0
>>154
銃だけで戦争を戦うわけじゃないから、べつに白兵戦における会津藩の戦力を評価するのは矛盾ではない

159:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 18:57:00.37 XzjYQGOn0
下士官(軍曹級)よりも下級士官の経験不足は大きく影響しただろうね。
歩兵自体は士分ですらないから下士官程度までで指揮はできない。
中隊長クラスは士分を当てるから当たり外れが大きい。
まあそれより上のクラスでも近代戦を理解してた将校は何人いるか・・・
大鳥くらいじゃないのかね?

160:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 20:57:48.42 6Py8FKGIO
>>159
大鳥も長州征伐でようやく基本を理解したってぐらいだからな。
少数のゲリラ的な戦いならある程度勘でやれたみたいだが、大兵力の火力展開から白兵突撃や後退の指揮までやれたのは寛永寺以降だったようで。
フランスやイギリスの教官から習った事だけではどうにもならなかった。

161:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 23:18:27.69 Q8T4FYRi0
先見性がある藩だからこそ新政府側へ寝返ったり日和見ったりするんだよな。
これらの藩を幕府側につけることが重要だったかも。

162:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 23:50:06.89 6Py8FKGIO
>>161
味方は多いにこしたことはないからな。
ただ、どうやったら味方につくかって話で。
諸藩に分かりやすいビジョンとエサを与えるにはやっぱり天皇っていうカードは大きいかなぁ

163:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/13 03:56:17.77 E0r9BtIa0
>>158
だが、旧幕府軍の戦力は優秀だったと宣言するときには、
鳥羽伏見の戦いに出てこない庄内・長岡を挙げ、
資料では討ち減らされるだけだった会津兵が勇猛だったかのように語るのは、鳥羽伏見の戦いにおける史実に反する。

164:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/13 07:34:36.37 D+YNLlmN0
大阪から京に直接行くのに、西国街道、鳥羽街道、竹田街道、伏見街道の4つがあり、
幕府と佐幕派諸藩の兵15000人が鳥羽街道と伏見街道にしか進撃しなかった。

これは大失敗。

西国街道と竹田街道には、薩長軍はほとんど居ない。
ここを進撃すれば、幕府軍も佐幕派諸藩も下京に突入できたし、
そうなれば鳥羽伏見で戦っている薩摩と長州の部隊の一部を撤退させて
下京防衛に回さなければならない。
そうなると鳥羽伏見の幕府軍は楽になる。

それに下京に幕府軍や佐幕派諸藩が突入すると、元々本音では徳川家よりの
土佐藩の寝返りが起きるし、それに釣られて越前、尾張も寝返るかも


大阪に留まっている姫路藩と京への進撃に出遅れた紀州藩には、
山陰街道に回り込んで進撃する命令を出しても良い。
薩摩軍1千人と決戦になるが、一部洋式化されている紀州藩兵相手なら面白い対戦になる。



まあ、実際のところ幕府軍は、戦闘になると思っていなかったんだろう。
兵士は弾丸も銃に込めていなかったぐらいだし、不意を付かれた訳だ。

165:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/14 07:02:24.69 LLx6qi7R0
>>164
戦術的には良いんだが…無理じゃね?
幕府軍の指揮官は「朝廷の命令により、通過させる事は出来ない」と関所で止められると、
「関所で止められたが、でどうしたら良いか?」と馬を大坂城へ走らせ、将軍様に一々お伺いを立てる。
多方面から進撃しても、この状況は変わらないだろう。結局、多方面で「通行出来ず、進撃不能」という報告が大坂に行くだけ。
この間に薩長に錦旗渡っちゃうよw。
最初から武力で突破して薩長に戦争準備させないのであれば、鳥羽伏見二方向からの進撃(史実通りの)で兵力は集中されているんだから、
余裕で勝てたはず。

166:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/14 08:26:09.51 tu6nDNA/0
西国街道、竹田街道では、幕府軍は止められないでしょう。
薩長軍が居ないんだから。

丹波街道の戦いでも、嵯峨で決戦となると天竜寺が焼けてしまうなw

167:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/14 09:01:10.62 LLx6qi7R0
たまたま居なかっただけでしょ
朝廷命令として「幕府軍の通過を阻止しろ」と出されているので、薩長兵だけでなく大垣藩だろうがどこの藩だろうが居れば止めますw。
居る居ないという議論は無駄ですよ。そんな運まかせの戦術論は戦術論じゃありません。
戦術論で勝利を目指すなら「居る事を前提に」考えなければ、必勝の策とはなりますまい。


168:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/15 14:00:23.34 VXbf62bj0
まぁでも、薩長が居ればその分他の街道に展開してる兵力も薄くなるし、
薩長以外の藩が守っているなら突破できたかもしれない。
何より、幕府にはそれをやっても各街道で十分な兵力の厚みを維持できるという強みがある。

なーんて後世からの視点で言ってみても、あの幕府重臣連がそれを的確に指揮できたかは疑問だけどw

169:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/16 02:48:42.91 vF8CwBsKO
>>1-168

170:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/17 19:46:52.53 kXciYGsI0
慶応四年の正月早々から戦争する事無いんだよ。
関東では騒乱状態なんだから、それを鎮圧してから薩長と本格的に戦争すればよい。

ストーンウォール号を手に入れて、五月開戦で十分。

それまでに長州藩部隊の増強は有り得るが、
薩摩藩は鳥羽伏見の戦い直前に4000人の部隊を上京させたが、それ以上の増強はかなり厳しい。
薩摩藩内部に討幕戦争に批判的な声がある。
島津一門や家老でさえ意見が一本化されていないにの薩摩藩部隊を無理やり4000人を上京させている。

171:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/17 23:21:40.28 Bd+/77C30
>>170
それは無理じゃねぇか?
開戦したがっていたのは旧幕軍主戦派で、慶喜自身も止めようがなかった訳だし

172:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/18 12:29:50.89 gpmh8ZHP0
薩摩藩江戸藩邸焼き討ち事件の発生を聞いた時点で、慶喜は江戸に帰還すればよい。
ちょうど関東は、騒乱状態だし。

詳細の報告書を京都の新政府に報告して
小御所(議定)会議で薩摩藩のテロ支援活動を断罪してもらえばよい。

薩摩藩の議定や参与の責任問題になり、解任されるかもw

173:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/18 16:41:43.53 NlchFCB10
そこで慶喜東下の為に大阪城内を抑えきれるかがまた問題な訳で。
あの時点で脱出しても、それこそ残された連中が何やらかすか分かったもんじゃない。
まだ在京の薩長なら余裕で蹴散らせると思ってるし、余計な連中まで江戸表から上ってくるしな。
せめて幕閣の多数派がイケイケじゃなければ、何とかなったと思うんだが。

174:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/18 19:29:52.60 kiVa3bIa0
>それこそ残された連中が何やらかすか分かったもんじゃない。

慶喜が居ない時には、大戦争は起こせない。

慶喜は大阪の幕閣に宿題を出してやれば良い。
幕府軍はいきなり京を攻めるのではなく、
まずは畿内の勤王藩を攻撃して、朝廷シンパが畿内に広まらないように手を打つべき。

慶喜は、大阪幕閣に畿内勤王藩制圧作戦を行うように言う
近江、大和、丹波、摂津の小藩が以外と勤王藩に転向しているケースが多い。

175:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/19 10:28:30.95 YXdTTC970
>>174
通常ならその通りなんだが、当時は慶喜の身が異常な状況だからな。
慶喜無しで統制できるなら、そもそも慶喜の欲しない鳥羽伏見が起きることは無かっただろう。
幕閣で頼りになるのは板倉ぐらいだが、その板倉ですらお手上げ状態だからなぁ。

あと、勤王藩攻撃して停戦の勅命が下った場合、従わなければ朝敵認定される訳で。
それならいっそ京を直撃した方がいいと思われ。

176:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/19 18:52:56.08 St0Cmp+V0
>まだ在京の薩長なら余裕で蹴散らせると思ってるし

いや、全員がそう思っている訳でもない。
慶応三年十一月までは、京に居る討幕派の兵力は薩摩藩兵2000名ぐらいだったが、
十二月になると薩摩藩の援軍2000と長州藩兵1300が上洛し討幕派の兵力が
5000人を超えてしまう。

永井尚志なんかは、薩長の援軍上洛を聞いて、
これ以上の討幕派の兵力増強を阻止すべく慶喜に進言している位。

>余計な連中まで江戸表から上ってくるしな

それは長州藩も同じ事、戊辰戦争で長州藩は最終的に2万人も動員している。
同じく薩摩藩は、数千人だそうだ。

>そもそも慶喜の欲しない鳥羽伏見が起きることは無かっただろう

幕府強硬派の圧力もあったが、慶喜自身もそれなりに戦闘での勝利に色気が無かった訳ではない。
討薩表を書いて、幕府軍の戦闘に掲げた事も慶喜は了承している。

>勤王藩攻撃して停戦の勅命が下った場合、従わなければ朝敵認定される訳で

理由付けの内容次第だろ。
無罪の藩にいきなり攻撃を仕掛けたら、朝廷三職会議で朝敵にされかねないが、
薩摩藩が関東で行っているテロ支援活動なら、むしろ薩摩藩の方がヤバイ立場に立たされる。

彦根藩や西大路藩、膳所藩などは、薩長の後方支援を行っているし、
園部藩、篠山藩などは天皇の逃亡の手助けをしているので、土佐、越前、尾張などの
徳川よりの議定(藩主)からは、非難されるだろう。

現実に畿内の藩がそれほど戦闘力を保持している訳でもない。
郡山藩の藩主も正室が薩長シンパの公卿一条家から嫁に来ているので、要注意だが、
実際に鳥羽伏見の戦いで、朝廷側に参戦して大阪城を攻撃した訳ではない。
大阪-奈良間の街道には、佐幕派の姫路藩兵数百名が陣取り、警戒していた為に
郡山藩は、何も軍事的には動けなかった。

177:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 00:01:18.79 n8TUO/TC0
>>176
いやー、それはちょっと難しいんじゃないかな。
薩長側っつっても、彦根なんかはあくまで朝廷の勅に従って上洛してる訳で。後方支援は鳥羽伏見でしょ?
園部藩にしても鳥羽伏見の前に表立って批難される動きはしてないし、天皇遷御の密約を証明でもしないと
京で頑張ってる容堂公や春嶽公でもフォローできるか疑問。
あと篠山藩って、山陰道鎮撫軍が来る前に何かやってたっけ。

軍事的には、王政復古で長州藩が大手を振って上洛出来るようになっていたことを考えれば、
敵の増強を待たずに鳥羽伏見の時点で開戦したことはそれほど悪い選択ではなかったと思われる。
ストーンウォールはあくまでも海上戦力だからね。
ただ、戦略的に指揮をとるのが史実通りの面子では話にならないが……
それ以上開戦を引き延ばすなら、軍事的な状況の好転よりも容堂公、春嶽公による政治的巻き返しに
期待した方がよい。

178:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 00:16:26.02 MENVtCDq0
>>176
>幕府強硬派の圧力もあったが、慶喜自身もそれなりに戦闘での勝利に色気が無かった訳ではない。
>討薩表を書いて、幕府軍の戦闘に掲げた事も慶喜は了承している。

了承してないしてないw
その見解は、「幕府歩兵隊(中公新書)」の著者が書いた「鳥羽伏見の戦い(中公新書)」で語られたものだ。
ところが、その著者は幕府歩兵隊ひいては主戦派贔屓で、自分に都合良い資料と見解を述べているだけなんだよ。

「慶喜公伝」やその著者が使っている史料を丹念に見ていくと、
慶喜が了承したのは”討薩表”を朝廷に提出する事”であって、戦争に関しては依然として”戦うな”なんだよねw。
幕府主戦派は、提出を許可された事を利用して軍を進發させた。
主戦派の考えでは、圧倒的な兵力を前に薩長側が恐れをなし戦わずして入京。
討薩表を朝廷に提出した上で、御所に兵を入れる。
ここまで来れば、薩長は戦わずして敗れ天皇を奪還できると考えていた。
慶喜が色気を見せたのはコレね。戦争にならずに天皇を取り戻せるんならそれに越した事は無い。
だから、慶喜は討薩表を出す事に許可を与えたが、戦争をする事は許可してないんだよ。

179:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 00:22:58.11 MENVtCDq0
ついでに言えば、だからこそ関所で進軍を止められ討薩表を提出出来なくなった幕府軍は、
大坂の慶喜に指示を仰いだ。圧倒的に兵力が少ない薩長から攻撃してくる訳がないと思っていたからこそ、
戦闘展開もせず行軍隊形のままで待機しちゃってたのさ。
そこを薩摩が砲撃して開戦になったんでボロ負けしたという経緯だからね。

180:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 09:45:30.16 DVVxuUCx0
>>176
すまんすまん、江戸表からの余計な連中ってのは、滝川とかの幕閣強硬派のことを指した積りだった。

181:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 09:59:24.88 vLW4seeq0
>「慶喜公伝」

「慶喜公伝」w
それ明治政府への言い訳文章だからw

それに進撃許可を与えて、戦闘許可は与えない。
なんてどんな言い訳よw
旗本銃兵と薩摩藩士が伏見で「通せ!通さない!」の押し問答している最中に、
伏見奉行所では竹中重固が地図を広げて軍議を開いている。もう戦闘準備モードだよw

>園部藩にしても鳥羽伏見の前に表立って批難される動きはしてないし
>あと篠山藩って、山陰道鎮撫軍が来る前に何かやってたっけ。

畿内の小藩は、直接的な軍事行動は出来ないですよ。
兵力も少ないし銃兵化もしてないし、精々公家と密談して
「朝廷側に付きます」って言っているぐらいなもの。

>彦根なんかはあくまで朝廷の勅に従って上洛してる訳で。後方支援は鳥羽伏見でしょ?

彦根藩・西大路藩・膳所藩は、大政奉還の頃からもう幕府から離れ始めています。
彦根藩家老の岡本黄石だけが慶喜に近く二条城や大阪城に居るだけです。
藩主も井伊一門もほとんどの家老も在国中で朝廷寄りになっていますよ。
後方支援の為に東寺に入ったのも鳥羽伏見の戦い以前からです。

>それ以上開戦を引き延ばすなら、軍事的な状況の好転よりも容堂公、
>春嶽公による政治的巻き返しに期待した方がよい。

土佐・越前・尾張の政治工作で時間を稼いでその間に関東の騒乱状態を鎮圧し
ストーンウォール号や元込銃やクルップ砲を手に入れて置けば良いと思います。
引き伸ばせば、それだけ神戸港からの関税収入は手に入るし徳川サイドに有利です。

長州藩兵の更なる上洛があれば、その事を理由に幕府陸軍の西進を始めても良いわけです。

それに薩摩藩の関東でのテロ支援活動を土佐・越前・尾張の三候に頼んで朝廷で暴露してもらえば良い。
大久保一蔵は、参与を解任されるかもw
で討幕反対派の薩摩藩家老関山糺が参与に任命されたら、薩摩藩の討幕姿勢は鈍りますね。

182:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 18:52:54.98 DVVxuUCx0
>>181
篠山藩は山陰道鎮撫軍が来るまで藩内でゴタゴタしてなかったっけってだけです。
要するに、幕府から離れてるってのを根拠に討伐するってのは、京の政局的に弱いんじゃないのってこと。

幕府陸軍の西進が良く分からんが、東下の際に連れてくってことかな。
薩摩の非を鳴らすのは、政治的には+になったかもしれない。
参与云々については、当時の薩摩藩の内部事情に詳しくないので何とも言えないが。
ただ、時間稼ぎっつっても、容堂公と春嶽公は本気で慶喜中心の諸侯会議を目指してる訳で、
京で結論が出た場合は旧幕府として何らかのリアクションを取る必要に迫られるってのはある。
とりあえず納地棚上げして召集しようやってとこまで話は進んでた訳で。

183:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 21:58:33.30 y3xv+wCh0
>>181
>慶喜公伝について
もちろん明治維新後の自己弁護が入っている訳だが、それだけを見て言っている訳じゃないよw。
「鳥羽伏見の戦い(中公新書)」の参考文献を取り寄せて呼んでみなってw。
逆に聞くけど、「慶喜が先頭許可を与えたという明確な史料」も無いだろw。

>伏見奉行所では竹中重固が地図を広げて軍議を開いている。もう戦闘準備モードだよw

 そう。幕臣主戦派は戦いたくって仕方がない。ところが総大将の慶喜が先頭許可を出さない。
だから”主戦派と慶喜の妥協案として出てきたのが、大兵を京都へ送れば、薩長がビビって逃げ出すだろうから、戦争になる事もなく勝てますよ”という案なんだって。
主戦派と慶喜の玉虫色出兵策ね。慶喜もこれ以上主戦派を押し止める事が出来ず、結局兵を京都へ送る事に許可を与えたんだ。先頭許可は与えずにね。

 そもそも、戦争許可を与えていたなら薩摩藩兵が守っている関所にのこのこ「通せ」なんて交渉する訳ないじゃん。
薩摩兵見つけた途端に攻撃開始でしょw。先頭命令が出ているなら。交渉なんてする必要ない。
攻撃して薩摩兵を蹴散らし、悠々と関所を突破して京都に行くでしょう普通w。
そうしなかったのは、戦うなと言う指示が出ていたからだよ。


184:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 22:01:22.40 y3xv+wCh0
誤字修正
参考文献を取り寄せて呼んでみなって:×
参考文献を取り寄せて読んでみなって:○

先頭:×
戦闘:○

185:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/21 23:26:07.64 +ql0wMem0
慶喜の上京って軽武装上京じゃなかったかな?

それが、何故か途中で残らず行け!で15000人の大軍になっており、
これでは、慶喜は戦闘に入る事を半ば黙認している事と同じ。
と言うのが野口武彦氏の説明。

漏れもそう思う、慶喜は、あわよくばって思っている。

>慶喜もこれ以上主戦派を押し止める事が出来ず、
>結局兵を京都へ送る事に許可を与えたんだ。戦闘許可は与えずにね。

これは残念に思う。
薩摩藩のテロ活動で、武蔵と相模は、騒乱状態だし
江戸市内の治安も急に悪化しているので、そちら鎮圧を優先する!
と言う事を慶喜は貫き通せなかったのは、誠に残念。

>要するに、幕府から離れてるってのを根拠に討伐するってのは、京の政局的に弱いんじゃないのってこと。

薩摩が、そう言って来たら、山内容堂あたりに
「じゃ~11月からやっている関東での薩摩藩のテロ支援活動何とかしてよ、もう土一揆まで誘発してんだから!」
長州が文句言って来たら、松平春嶽あたりに
「お宅の軍隊が、山陰道を上がってくるけど、ナンなのよ?畿内で大戦争する気?」
と、それぞれ議定会議で言ってもらいましょう。

下手をすると、薩長の責任問題になり、議定や参与の解任に成りかねません。
慶喜の責任問題も、ウヤムヤに。

>篠山藩は山陰道鎮撫軍が来るまで藩内でゴタゴタしてなかったっけってだけです。

討幕派と佐幕派の内紛でゴタつく畿内小藩が多いです。
膳所藩も藩主が佐幕派だったので、藩内の討幕派と佐幕派の内紛は一応佐幕派が押さえ込んでいました。
それでも藩内で藩士同士の切り合いや、藩主による討幕派の大弾圧としての藩士の大量切腹がありました。
しかし大政奉還で藩主も討幕派弾圧を止めてしまい、同じ近江の彦根藩の動きに合わせて討幕派に合流と言う感じ。

郡山藩が討幕派に近づいた為に、同じ大和の柳生藩(歴代将軍の指南役)まで
討幕派になったのには、畿内諸藩で評判になりました。

186:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/22 14:50:23.04 GCTYYlnP0
>>185
ちょっと勘違いしている様に思うのだが、容堂公も春嶽公も無条件に旧幕府の味方って訳じゃないぞ?
王政復古を起こして旧幕府勢力を排除したのは薩芸尾越土だ。
ただ、来るべき諸侯会議において、その中心となるべきは徳川家と慶喜しかあり得ないという点で
慶喜と協力関係が結べた訳で、あの時点においては薩長と旧幕府、どちらかの勢力が圧倒的に
優勢になるのは困るんだよ。
徳川家の力を削ぎすぎれば史実みたくなるし、逆に薩長の力を削ぎすぎれば幕権派が益々勢いを得て、
諸侯会議なんて構想は根元から吹っ飛ぶから。

だから長州藩の兵が早速上ってきてもそんな気にしないし、徳川家に対する辞官納地問題は全力で排除した。
あの時点で薩摩の起こした騒擾を利用するとしても、西郷を遠ざけるか辞官納地問題もしくは
慶喜上洛の条件について多少有利な条件を引き出すぐらいだと思われる。
さすがに史実のような大軍での率兵上洛は、諸侯会議派も望んでないから。

187:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/22 22:47:38.82 YzDk7lok0
>さすがに史実のような大軍での率兵上洛は、諸侯会議派も望んでないから。

じゃ慶喜が江戸に東帰して薩摩のテロ支援活動による関東の一揆や強盗を鎮圧するのは問題ないな。

>その中心となるべきは徳川家と慶喜しかあり得ないという点で

ニ条摂政の後任に慶喜、と言う話しや、諸侯会議で新政府首班や元首(大君)に就任するのは、尾越土それぞれ認めている。

他にも新政府の議定にはもちろん、総裁(関白)の次の位としての新設の№2のポスト副総裁(副関白)に慶喜が任官する
という話しも尾越土が根回ししている。小御所会議では、尾越土が、慶喜に単なる議定ではなく副総裁(副関白)に任官
する様に(しかも天領400万石と陸海軍そのまま保持して)工作している現実。

これでは幕府はなくなっても、徳川宗家の政権が継続する事には変わりが無い。
しかも関東では、最後の幕政改革“慶応の改革”が続行中と言う時期にである。

>だから長州藩の兵が早速上ってきてもそんな気にしないし、

そうかな?
尾越土は、直接言わなくても、王政復古のクーデターの3日後には肥後藩・筑前藩・阿波藩などが
御所からの軍隊引揚を要求し、薩長の上洛援軍について問題視し始めている。
肥後藩・筑前藩・阿波藩は、新政府に参加していないが、それなりの大藩なので岩倉ら公家議定も無視できない状態。

肥後藩・筑前藩・阿波藩の後ろに慶喜が居て、言わせているのか、までは知らんがw

188:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/22 23:01:26.76 YzDk7lok0
>あの時点で薩摩の起こした騒擾を利用するとしても、西郷を遠ざけるか辞官納地問題もしくは
>慶喜上洛の条件について多少有利な条件を引き出すぐらいだと思われる。

既に史実でも、小御所会議が進むにつれて、徳川宗家直轄領の返上問題は、ウヤムヤになっている。

西郷の責任問題が出て(御所の警備責任者を)解任されたり、慶喜の上洛条件が緩和されれば、願ったりかなったりだw
薩長ら武力討幕派と付和雷同組の広島藩や岡山藩の間を裂く事にもなるし。

189:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/24 00:28:04.09 /ZbVxqDS0
>尾越土は、直接言わなくても、王政復古のクーデターの3日後には肥後藩・筑前藩・阿波藩などが
>御所からの軍隊引揚を要求し、薩長の上洛援軍について問題視し始めている。
>肥後藩・筑前藩・阿波藩は、新政府に参加していないが、それなりの大藩なので岩倉ら公家議定も無視できない状態。

これを見ると、慶喜が12月12日に二条城から軍隊(幕府軍5千人会津勢3千人桑名勢1500人)を率いて
大阪城に撤退する訳だが、幕府軍全てを大阪城に撤退させる必要は無かったかもしれない。
二条城に幕府軍2千人程度残した方が良かったかも知れない、大阪城には別に兵力が有るんだし。

肥後藩・筑前藩・阿波藩が御所から撤退を要求した同じ日に慶喜は大阪に撤退してしまうので、
この三藩の抗議で折角引き起こしかけた公家議定の動揺を生かしきれなかった。

12日に京から撤退してしまった為に、薩長は単に王政復古のクーデターで京都御所を占拠しただけでなく
京の市政まで掌握してしまう結果となる。14日に慶喜率いる幕府軍や佐幕派諸藩が京から居なくなった
事に気を強くした薩長は、三職会議で強引に京都町奉行の廃止を決定してしまう。

京を軍事的に支配してきた京都守護職と司所代は、王政復古と同時に廃止されたが、
実は守護職と司所代職の解任は慶喜が自主的に行ったものだ、なぜなら洛中での衝突を
避けたいと言う慶喜の意向があったからだ。
しかし、京都町奉行は一般の自治体行政事務も掌握している為に王政復古と言えでも
廃止できなかった。

しかし、慶喜が京から軍隊ごと撤退した為に薩長は京都御所の占拠だけではなく、京の市政まで掌握するべく
処置を取る。朝廷による京都町奉行の廃止命令だ。これにより京都町奉行は、洛中の警邏も出来なくなり、
また京都町奉行職員も洛中にいる法的根拠も無くなり伏見奉行所まで撤退している。

また、朝廷も洛中の混乱や治安の悪化を懸念しており、京都町奉行に代わり独自に新政府は
従来の京都町奉行所にかわって「京都市中取締役」を設置、膳所・篠山・亀山の3藩をこの職にあてた。このうち篠山・亀山両藩は佐幕派であり、その為に実際には独り膳所藩のみが洛中での治安活動に当る事になるが、
膳所藩は小藩で藩士の数も少なく、余り実効ある警察行為は出来なかったようだ。

この様に慶喜が、軍隊全部をつれて大阪城に撤退してしまった為に京都御所に
立て籠もっていた薩長は洛中全体を掌握してしまう状態になる。
二条城に少し手も兵力を残しておけば、この様な事態にならなかっただろう。

190:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/24 06:10:34.51 S6eVg3pW0
後藤が慶喜に通報していることから考えて、
土佐藩首脳はクーデタに対してのリアクションを暗に要求してた可能性あるなあ

191:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/24 22:45:35.84 dPnDmVNn0
司所代→× 所司代→○

>>190
当然あるだろう。

幕臣の永井尚志も薩長の援軍上洛阻止を慶喜に進言しているし、
強硬派の会津藩士佐川官兵衛や林権助は、薩摩藩先制攻撃論を慶喜に吹き込んでいる。
大垣藩もかなり詳細な対薩摩藩クーデターの上申書を老中に提出している。

だが慶喜は、調停工作に自信が有るのか、全然武力行使には乗って来ない。

畿内や京で武力行使をしないのなら、江戸に帰って一揆や薩摩支援の強盗を鎮圧するなり
慶応の改革を慶喜自身で陣頭指揮を執って進めるなり、色々やれば良いのに、と思う。

畿内に将軍が居ると朝廷の権威が大きくて慶喜の存在が小さく見える。
関東に帰れば、徳川宗家の本営であり朝廷とは別の権威となる。
慶応の改革がそれを更に軍事的経済的に補強する。

192:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/24 23:50:34.26 dPnDmVNn0
>朝廷による京都町奉行の廃止命令だ。これにより京都町奉行は、洛中の警邏も出来なくなり、
>また京都町奉行職員も洛中にいる法的根拠も無くなり、伏見奉行所まで撤退している。

京都町奉行は、江戸や大阪の奉行所に位置づけの出先行政機関であり、
江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制だった。

東西それぞれの奉行所には同心20名、与力50名が配置され、京全体で町代17名が、
京都奉行所の行政事務に携わっていた。さらに町代の下には1~2人の下町代が
配置されているし、江戸時代後期には同心・与力の人員が水増しされているので
平時でも東西それぞれの奉行所には100人以上の職員が所属していた事になる。

それが急遽、朝廷による京都奉行所廃止命令の為に活動を停止した。
身分が町人であった、町代と下町代が朝廷が新設した「京都市中取締役」の下部組織として
取り込まれたが、れっきとした徳川家の御家人である京都奉行所の同心・与力は、京都奉行所
廃止命令で急遽洛中から脱出し慌てて伏見奉行所に入った。

京都守護職の指揮下にあった京都見廻組と新撰組は、京都奉行所とは強い横の連絡があり、
事実上見廻組と新撰組、京都奉行所の三組織が連絡を取りつつ幕末の洛中の治安を維持していた。
その為に朝廷による京都奉行所廃止命令で、見廻組と新撰組も一緒に洛中から脱出し、
同じく伏見奉行所に集結した。
そして洛中から脱出した見廻組と新撰組、それに京都奉行所の同心・与力の三者は、
伏見奉行所の同心・与力も合流し“遊撃隊”を結成、隊長には京都奉行が任命され
伏見奉行所を根拠地に薩長軍の偵察を行っていた。事実上幕府軍の先方部隊との
位置づけである。

しかし洋風軍服を着込んだ幕府陸軍兵士とは異なり、見廻組みも新撰組も腕に自信のある
剣客集団だから遊撃隊は銃兵化は全くしておらず袴・羽織の和装に腰には刀を差している
日本古来の侍の姿のままである。

193:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/24 23:53:45.54 dPnDmVNn0
京都町奉行は、江戸や大阪の奉行所に位置づけの出先行政機関であり←×
京都町奉行は、江戸や大阪の奉行所に位置づけに次ぐ出先行政機関であり←○

194:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/25 14:00:20.73 pySTpeT40
>>187
>肥後藩・筑前藩・阿波藩
それは御所の兵についてで、上洛軍は問題にされていたかな。
どちらにせよその動きも、辞官納地問題の駆け引きに利用されて、薩摩の政治的譲歩と共に終了でしょ?
軍についてはそのまま。俺の言ったこととは矛盾してないように思えるが。
そのレスで君も追認してるように、公議政体派にとっては第一に徳川家が日本の柱石として健在でなければ困る訳で。

>>188
まー、容堂公と春嶽公がどの程度やるつもりだったのかは分からんけどね。

195:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/25 14:09:15.10 vabcaEUN0
>>190
容堂公は端っから、小御所に慶喜公を呼べっつってるしね。
公議政体派っつっても、軍事衝突が避けられない所まで来たら旧幕府を支持する方に舵を切ったと思う。
鳥羽伏見の時もそんな動きをしてるようだし。

>>191
京から至近に慶喜が鎮座して、周囲に睨みを利かしてるってのは政治的に大きいぞ。
勅許が下りたら即上洛できるしな。

むしろ、旧幕閣の殆どが江戸で雁首揃えてたんだから、そっちはそっちで何とか出来なかったんだろうか。
相手も正規軍でなく、一揆や薩摩の集めた浪人なんだし。
最近、有能有能と評判の小栗とかも江戸に居るんだし。

196:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/25 22:41:22.78 kYtdH/Gy0
>>195
それで薩摩藩邸を焼き討ちしました。

197:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/27 04:44:26.91 EfjheTvJ0
>京から至近に慶喜が鎮座して、周囲に睨みを利かしてるってのは政治的に大きいぞ。

それは大政奉還や王政復古の以前の話し。
早くて大政奉還、遅くても王政復古時に慶喜は江戸に帰るべき。

>勅許が下りたら即上洛できるしな。

王政復古後に慶喜が呼び出されてノコノコ軽装備で朝廷に顔出したら、
薩長に身柄拘束されかねない。

>旧幕閣の殆どが江戸で雁首揃えてたんだから、そっちはそっちで何とか出来なかったんだろうか。

江戸の治安の悪化の原因を検討した結果、江戸の薩摩藩が問題だ。
と言う事になったのだろう。

慶応の改革は、慶喜が京に居ながら、江戸の老中や奉行たちと連絡を取り合い進めている。
しかし慶喜が江戸で陣頭指揮を執れば、もっと早く出来るし、もっと効果を期待できる。

小栗なんか旗本領を加増して大名にしてしまい、老中に任命すれば良かったのにw

武蔵や相模の一揆は、慶喜が陣頭指揮をとり鎮圧する事で、
関東が徳川宗家の本拠地である事を朝廷にアピールする事が出来る。
また関東駐留の徳川陸軍は一揆鎮圧で戦闘経験が積める。

198:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/29 04:44:51.67 ipDbsouiO
豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!!
おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。
薬味はネギと紅ショウガね。
マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね!
ああ~また食いたくなってきた~。
明日も食うけん!!

199:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/30 23:45:36.54 AoBVyD8f0
変革を願って政治運動に参加したのは食い詰め浪人か貧乏旗本の次男三男坊だからな。
まさか世の中ひっくり返ると思わないから与党もまじめに対応しないだろ。

つ ま り 旧 幕 府 軍 は 勝 て な い

200:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/02 02:36:27.63 OutBiSDD0
>>199
そういう連中を集めたのが、京都の見廻組や新撰組なんだがw

また、最後の幕政改革の「慶応の改革」で旗本の部隊指揮権と領地収入の半分が幕府に奪われた。
幕府陸軍は、必ずしも旧来の身分制度に捕らわれない人材が登用され始めている。
従来の旗本八万騎から西洋式の銃兵に変わろうとしている時期に、旧来の身分のどうのこうのは無関係。

201:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/02 17:33:14.04 /i1CUq730
素直に考えりゃよかったと思うんだよな。
関東が騒乱状態だから江戸に帰って幕府改革を進めるでもよし。
京でのクーデタ対処を優先して薩摩に対抗するでもよし。

関東を固めれば、一時は政局を放棄しても幕府はクリンチに持ち込めただろうし、
京で対抗すればどこかで折り合いがついた。鳥羽伏見の初日が全てだった。

202:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/02 21:32:19.02 MbmC5FMW0
関東に帰っても幕府なんて機関はもう存在しない
あるのは関東徳川領

203:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/03 09:54:50.96 8YYRHH2l0
>>200
よく反乱起こさなかったなと思うんだが、旗本。
旗本改革訴えた原市之進は殺されたのに。

204:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/03 22:25:53.27 Lfrck5b50
徳川にはまだ!手付かずの旗本八万期がいる!

205:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/07 20:52:20.98 flFqra6r0
いや実際には旗本八万旗もいないし。五千旗ぐらいだし。

206:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/10 20:54:30.87 gZ1L/7lO0
幕府歩兵が貴重な実戦経験を積めるし、関東・奥羽諸藩の動向は固まる
皮肉にも鳥羽伏見の後から幕府歩兵は実戦に慣れ始めている
それと、薩摩藩邸焼き討ちで幕閣と慶喜の意思疎通が齟齬することは少なくともない

207:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 11:32:26.43 aSMR7L8I0
>皮肉にも鳥羽伏見の後から幕府歩兵は実戦に慣れ始めている

だから慶喜は、大阪城に立て籠もって戦争を続けるべきだったんだよ。

カダフィを見習えってんだ。


208:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 11:55:25.40 gLDsW6lV0
カダフィは援軍を呼ぶ当てがあったが、ケーキちゃんの場合、主力として関東から上ってくるのは
幕府歩兵隊の居残り組みとその他有象無象だぜ?

209:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 17:33:37.32 QI/9rWe3O
大佐の敵は民兵と脱走兵ぐらいだけど
慶喜の場合は主力が有利な状態で
少ない敵に粉砕されたからねえ


210:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 18:43:30.28 d0zVdwPE0
というか慶喜って旧幕府軍の勝利を強く望んでたの?
幕府軍が薩長に勝利するってことは幕藩体制が続くってことでしょ。
抜き打ちで辞官納地を要求されたのは腹が立つけど、江戸の幕府首脳に対する不信感も強そう。

211:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 20:51:07.41 n5YGRpEa0
鳥羽伏見の戦いや大阪城の戦いで慶喜が勝ったら、
ニ条摂政の後任として慶喜が、徳川宗家の領土や軍隊を持ったまま摂政になるだけ、

慶喜バージョンの明治維新が進むだけ、つまり慶応の改革が、より大規模に遂行される。

幕藩体制維持は、慶喜の望む所ではない。

あと関東には徳川陸軍24,000人が居たんですけど、史実では使いませんでした。

もしガッツがある慶喜が大阪城で篭城していたら、関東の徳川陸軍24,000が小栗指揮の下で西進するでしょう。
他にも奥羽越列藩同盟や関東甲信列藩同盟の部隊も徳川陸軍に続いて西進すると思います。

212:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 21:05:39.93 hsrf8kxG0
>>211
>他にも奥羽越列藩同盟や関東甲信列藩同盟の部隊も徳川陸軍に続いて西進すると思います。

それは妄想。徳川慶喜が絶対権を確立するには、他の同盟の成立は許さない。
ゆえに公儀政権も名ばかりの徳川慶喜に隷属した組織になるし、
そこでの軍事活動も、幕府ないし徳川慶喜の次の政権の枠に隷属した、下働きとしての活動になる。

213:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/13 21:10:32.89 7YXIt4Of0
大坂籠城は、何度も指摘されてるけど、津藩、淀藩が寝返り、
紀州藩の動向にも疑念が飛び交ってるような状況では無理だったと思うよ。
幕府艦隊が摂海を遮断して薩長軍の上京を阻止し、
なおかつ幕府歩兵や諸藩が速やかに大坂へ進発すれば別だけれども、
大坂に籠居していると知って駆け付けてくる藩はそれほど多くないでしょ

やはり京での決起か、もしくは江戸帰還。

214:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/14 08:02:21.92 5tLldOpC0
籠城ってのは「籠もっているだけ」だから、負けはしないが勝ちもしない。

215:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/16 15:27:55.78 mqmd3urF0
籠っているだけ、って事はない。
西郷は。鳥羽伏見の戦いの後半には、長州藩や広島藩や土佐藩と大阪城攻略の打ち合わせ
をしている。土佐藩は、その時に裏切って、幕府軍と合流するつもりだった。

216:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/16 22:09:56.23 sCNnJMmh0
土佐藩って幕府軍に合流するつもりだったんか?
んー谷干城や板垣退助とは違う反主流派でも存在していたの?

熊本藩みたいに。

217:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/17 13:54:23.08 6/dl/gR/0
土佐藩が幕府に味方する積りだったのは鳥羽伏見の時だろ
幕府軍が京に乱入出来てれば実現した

その後はわざわざ遠ざけてた主戦派の板垣やらが軍を率いて復帰してるから難しい

218:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/17 19:38:41.73 D3SbpXLn0
>>211
長州征伐でその五倍率いても大敗じゃないかw

219:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/18 09:49:32.91 zxjFmrvI0
薩長は、鳥羽伏見の戦いに勝ったとはいえ、それなりに被害も受けており
また、5千人と言う寡兵でもあるので、西郷は、それぞれ洛中に千数百人程度
の軍勢を集結させている土佐藩や広島藩に大阪城攻略の応援を頼んでいる。

土佐藩の裏切り計画は、始めは官軍による大阪城包囲に加わってから、
城内の幕府軍と連絡を取り合流する腹積もり。
既に鳥羽伏見の戦いの最中にも連絡を取り合っているが。

山内容堂と後藤は、大阪城の戦いは、長期化が予想され、特に
官軍サイドの補給が続かない事を見越しており、西郷も幕府軍が
大阪城に籠もられたら大変だ、と言う認識を持っている。

慶喜が大阪城から逃げ出した事で、全てがオールアウト!

220:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/18 10:16:31.45 kUTNGoDw0
一分銀コレクターなんだが、幕末はエラーや偽鋳が結構多いんだよね
お前らが思っている以上の混乱だった気がする、何事も理屈通りにはいかないよ

221:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/18 11:46:21.98 svfLhjBY0
>218
第2次長州征伐時に稼動した幕府歩兵大隊は4個にすぎない、幕府側諸藩兵も殆ど洋式化されていない。

鳥羽伏見参戦の幕府歩兵大隊は伝習大隊含め11個、幕府側諸藩の洋式化もいくらかは進んでいる。

また武器弾薬の輸送は海路を取らざるを得ず、また輸入も当然海からで制海権は確実に幕府が抑えているので補給が困難。

さらに薩長の戦費にしても大阪商人が拠出しているので、大阪押さえていれば戦費拠出もままなならない。
平時では商人自治にに任せていたが、戦争となれば薩長に金出す商人の首切ることも可能。


222:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/18 22:31:34.65 fHcBUXsE0
鳥羽伏見の戦いの後の大阪城の戦いで幕府側の強みは、天王寺に幕府軍の
物資が集積してあるので、それを大阪城に入れるのにはそれほど時間が
かからない事と大阪城の砲兵隊は、まったく無傷で残っている事。
また、>>221の言うとおり幕府海軍が大阪湾の制海権を握っている事。

この3つがある。

大阪城の砲兵隊は、鳥羽伏見には出陣していない。
また弱兵の指摘が有るが、大阪城には、3000人の予備兵力(旗本出身)が居る。
これらの兵力は、鳥羽伏見の戦いには全く参加していない。

これらを新規に戦闘に投入できる大阪城の幕府方は、軍事的にはかなり有利な立場。

223:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/19 07:18:31.54 7ZmDtseWO
紀州藩、美濃大垣藩、庄内藩などは長州より先に軍備の洋式化、近代化をしてる

224:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/19 20:21:03.57 zWFW4uNP0
>>221
長州はそれ以上に進んでいる。
長州藩は戊辰戦争末期には二万ほどミニエー銃輸入しており、
諸隊の数も200を越えている。隊ひとつで100人ほどだから、
二万という大軍だ。洋式化されて訓練された軍がな。

また幕府が制海権を抑えていたというのも間違いである、
抑えているなら、薩長の軍がそもそも自由に上陸できるわけがない、
長州征伐でもオンボロの長州海軍に制海権を握られており、
幕府海軍はなにも出来なかった、大島からは追い出され、馬関海峡を自由に航行していたのは長州である。
ましてや薩摩の海軍までいるのに、幕府がかなうはずもなし。

また長州藩は100万両ほど貯金を隠しもっており、当座の資金に困る事はない。
また大阪をどうやって幕府が抑えるというのか。
商人の首などきれば、幕府からさらに人が逃げるだけである。

225:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/19 21:32:29.18 t2BGXqdo0
>224

大きな間違いをしている。
ミニエー銃2万丁というのは戊辰戦争終了時点であり、江戸をおあさえて以降に江戸、横浜の商人からも徴収して戦費にしている。

また動員兵力=派遣可能兵力ではない、戊辰戦争ピークでも長州が派遣した戦力は7千程度。

話を戻すが鳥羽伏見時点での在京戦力は千名余にすぎない。

鳥羽伏見時点の話をしているのに時系列がむちゃくちゃ。
海軍にしても第2次長州征伐時の幕府軍艦は富士山、朝暘の2艦のみ
鳥羽伏見時点で大阪沖にいた幕府軍艦は2800tの日本唯一のフリゲイト開陽はじめ富士山、回天、蟠竜の4隻がいて兵庫港にいた薩艦2隻は開戦と同時に尻尾をまいて逃げた。


226:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/19 22:16:07.38 gXQmTIly0
6日に尻尾を巻いて逃げたのは開陽ら榎本艦隊でしたが。

227:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/19 22:48:38.99 4xAmdsNv0
両サイドの兵の数だけ見るなら、
「戊辰戦争、薩長軍勝利の可能性について」の方がしっくり来るのだが、
その可能性が現実となってしまい、後の歴史が作られているのだから仕方ない。
まさかの慶喜トンズラ!は誰もが予測できない可能性だと思う。

228:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 07:40:02.93 WIVEuOru0
兵の数だけ見なくても、緒戦で薩長軍が負けてたら薩摩藩指導者は失脚でしょ
いくら玉を抱えてても
本当に西郷大久保以下が見通しがあって決戦に踏み切ったのか疑問なんだよな

229:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 11:44:24.50 eFnCd0pF0
大きなターニングポイントは鳥羽伏見の初日。
市街地の伏見はともかく鳥羽方面は兵の質量からしても幕府側が戦闘態勢で望めば負けるべくも無い。

朝廷内でも倒幕主戦論の薩長は浮いている存在でほとんどの大名、公家は日和見であって第一日目で幕府が敗退しなければ、幕府側に多くはなびく。


230:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 13:19:38.32 y98VZVP1O
大阪城にどっしり構えられたら薩長は手がでない
その上で京方面を包囲するような布陣で圧力をかければ薩長主導の勢力は自然と崩壊しそうだ

231:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 13:24:50.36 y98VZVP1O
錦旗というが勝って玉を挽回すれば長州がそうだったように朝敵の汚名は返上できる
慶喜は自分こそ尊皇という自負があったはず
すると何考えて逃亡したのかよくわからない

232:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 20:33:30.88 YeEk6rfV0
なんで幕府が負けたかはっきりとは言えないけど、薩摩藩は相当自信があったんだろうね。
少なくとも幕府勢力をなめていた節はあると思うよ。

安政の大獄初期に島津斉彬が政局物申すために精鋭部隊を率いて上京しようとしたり(これは未遂だが)、
文久年間に島津久光が兄のやり方を継ぎ、藩兵を率いて江戸に威嚇上京を行って幕政改革を成功させたり・・・
鎖国が解かれたとはいえ、幕府しか貿易の権利がないところを、江戸のお膝元の横浜で堂々と諸外国と貿易をしたり・・・
(幕府は薩摩の威勢に遠慮して、知らないふりを決め込む)

王政復古のクーデターも薩摩藩のそれまでの武力を背景としたやり方と同じなだけに、
まあ「今回も上手くいくだろう」思っていたような気がするんだけど、要求が限度を超えてたため鳥羽伏見の戦いになっちゃった。。

>>231
俺もわからん。慶喜が逃亡した理由は別にあったんじゃないかと思うのだが・・・
緒戦で負けて錦旗が出たから逃亡した・・・では、あまりに慶喜の行動が自由すぎるw
仮にも2ヶ月前まで将軍。そんな個人的理由でいいのか!?って普通は思う。

233:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/20 20:52:35.03 YeEk6rfV0
やっぱり慶喜はそれまで将軍として薩摩藩の重役らと接してきて、
どう考えても幕府側に対抗できる人材がいない・・・というのを身に染みて感じていたからだと思うのだが。。。
で、大阪籠城をあきらめたとしか思えない。

というと、佐幕派が猛追撃してきそうだなw司馬に毒されすぎか?

234:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/21 07:54:17.28 4q4+71QY0
人材が足りないのは事実だが現場指揮官の優劣なんて分からないしな
薩摩藩の在京指導者に関しては、おそらく藩論と離れて暴走したあげく巻き返しにあって、
最後に踏み切った冒険だった。鳥羽伏見の緒戦で負けたら切り捨てられて失脚

235:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/22 18:59:21.56 dk02o+QYP
>>233
URLリンク(peachy.xii.jp)
100回音読して出直して来い。

236:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/23 09:04:36.58 vG+JBwdY0
>>231-232
負けるはずの無い鳥羽伏見で負けたからじゃないの?
幕府歩兵隊8800の内、江戸に居残り組みが1800ぐらい、
奥詰銃隊他、3分の1は使い物にならないと言われてた旗本隊が大坂城詰め。
つまり幕府歩兵隊で最良の部隊が最大限動員されてる。
これで負けちゃ駄目だろ……

しかも篭城は難しいしな。
関東からの援軍が新政府軍を突破できなければ、城内に不安が発生する。
古来、城が落ちた原因で一番多いのは内応裏切りだから。
大軍とはいえ、士気が落ちてるごたまぜ部隊で篭城するぐらいなら、少数精鋭で篭城した方がいい。

237:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/23 17:40:47.60 m6Khtl3q0
慶喜についは根本理念が将軍就任以前から見えない。
その場の場当たり対応に終始している、頭が良いから議論や場当たり処理はこなしてしまう。

将軍というよりも後見職が似合っている。



238:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/23 21:47:06.65 DOGt95wU0
>>237
>慶喜についは根本理念が将軍就任以前から見えない

 お前さぁ、水戸学の知識無いだろw知識がなきゃ見えるはずもない罠w

239:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/24 11:21:17.60 GlAm4yL50
>238
慶喜が水戸学に徹してると言えるのか?

慶喜が徹するべきは将軍職なのだが。

240:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/24 11:54:49.51 89AmCZCc0
徹するとか意味分からん

241:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/24 12:47:51.82 D/PYZdWc0
    ヽ`-'´/ `゙´ヽ , --¬ ノ` / , j-、:i      , -'´`ッ
    彡、、 l j 三ニ≧r‐ュ、ヽノヽく´ ´ ヽ ヽ ,-‐一゙, / ´
    /´ヽl  ヾ  `ヽミニ=‐リ`゙ニ{{,,∠ニミ,r'´i´゙7::: /´
/ `ヽ  ',,ヽ    ヽ‐=フ´ヽ,__,人tュッ、升ヒト、:〃
'    ヽ ヽ`ヽ` ̄ ´/´ // l ヽ ヽ‐´ ト、ニ-'´
      ヽ \ ` - 、`‐- 、__ , ノヽ ノ
      ヽ  \ `ヽ  ̄` jフ, - '´
このままでは日本がダークサイドに落ちるのじゃ
シナの逆襲-Revenge of the China-中国 国防動員法 編
URLリンク(www.youtube.com)

242:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 00:13:52.54 nSty2Jfa0
幕府側の人材も馬鹿にならない、小栗や栗本などはたいした者。

ただ第二次長州征伐の失敗で幕府の弱体化が露見し南西諸藩が幕府から離れ始めた、と見ることも出来る。

その時期に幕府が崩壊しなかったのは、以前から孝明天皇の支持がある慶喜が、色々工作をして
朝廷の支持を幕府に繋ぎ止めていたから。慶喜の政治力はたいしたモノで薩摩は
慶喜相手では高等な政治工作では勝てないと見て、武力討幕に切り替えた。

それと、桂小五郎が言うように、慶喜により開始された最後の幕政改革である
“慶応の改革”が、予想よりも大規模な改革でこの改革が実行されると幕府(徳川宗家)が
更に強大化し、薩長は敵わなくなる、と言う判断もあり、なるべく早い段階での幕府への
武力行使を検討する事になる。

戊辰戦争の背景の一つには、幕府の“慶応の改革”の進展を阻止する目的があった。

243:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 00:25:47.76 gatiFOy30
さあ、どうかねえ栗本や小栗が有能だったとは思えんな。

実際に外国奉行の栗本より部下の福澤諭吉の方が優れた見識を持っていたことが維新後にはっきりした。
つまり、幕府は人材登用方法を知らなかったのだよ。

内ゲバや足の引っ張り合いで勝手に自爆していくだけだった。
自業自得ですな。。

244:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 16:49:42.21 1oKUKBRI0
>>242
玉石混交でも人材豊富なのは結構だが、軍の指揮を執れるだけの軍事的才能を持ったのが居なくね?
鳥羽伏見の陸軍奉行、陸軍奉行並、歩兵奉行は血筋も経歴も立派な人ばかりだが……なぁ。
大鳥は良かったと思うが、江戸開城の頃でも歩兵頭だから大隊長クラスなのが痛い。
海軍は榎本でいいと思うけど。

大鳥がわざわざ白河城支援の為に日光から貴重な歩兵隊の兵力を割いたのに、
その別働隊が絶好の位置に進出していながら大した働きもせずに撤退してるのを見ると
指揮官って大事だなと痛感する。

あと、幕府はその人材を浪費しすぎ。
川路聖謨とか岩瀬忠震とか勿体無さ過ぎる。

245:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 18:54:41.63 UGm/Mjmf0
本来は歩兵隊と一緒に訓練した連中を指揮官にすべきだったよね。
食い詰め集団の歩兵隊も使える人員はいたんだから士分に取り立てて下級士官にするとか。
薩長の軍権は実質的に下級武士が握ってたのと、幕府軍が旗本指揮だったのが対照的。

246:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 22:46:34.88 gatiFOy30
んー、大鳥圭介は旗本格になるのがあまりにも遅すぎた。
福澤諭吉が幕臣に取り立てられ、旗本格になったのが1864年。大鳥は更に1年遅れて幕臣になる。

とにかく幕府陸軍は人材に乏しい。沼間守一では何も出来なかっただろう。
海軍は木村芥舟、矢田堀鴻、肥田浜五郎、小野友五郎と中々いい人材が揃っているが皆協調性が無い。

247:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/26 23:55:13.34 PpevNtflO
大村益次郎がいるかぎり幕軍に勝利はないのだろうか

248:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 01:52:21.90 VEmeQatj0
大村益次郎は、「小栗の反撃計画をやられていたらコッチの首が無かった」と言っている、けど。

249:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 02:08:49.25 fGhI5ByY0
榎本艦隊で東海道沿いを襲撃すればいい、と幕臣が胸を張ったものの、
新政府軍が中仙道を主力にしていると聞いて絶句し、以後は押し黙った、という話の方が有名

250:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 02:19:57.42 VEmeQatj0
そんなの初耳。

それに官軍主力部隊が中仙道だと、なんでダメなのよ?
持久戦になれば、官軍だって信州のド田舎の山の中では補給がママなら無いじゃん、
2月中ぐらいは、甲府城は、幕府側なんだし。

251:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 05:00:06.76 ASXbW9f/0
軍事的な側面に限っていうのなら、鳥羽伏見での敗戦以後も幕府側が徹底抗戦を行って
攻め上ってくる薩長軍を相手に戦うという選択肢はそれなりにあったような気がする。

優勢な艦隊勢を使用するのも有力な手だった。
また、指揮官の無能のせいで活躍は出来なかったし、素行の悪さ等から幕府上層部からは
鼻つまみ者扱いされていたけれども、薩長に対抗しうるポテンシャルを有していることは示した
幕府歩兵部隊を前面に押し出して存分に働かせるという手も有った。

ただ、その結果として内乱状態が長引いて、旧幕府・薩長勢の双方が人命と軍費を消耗して
弱体化することを良しとしなかった人間が双方の上層部に何人かいて、その人間達の意志が
全面的な衝突を回避することに繋がった、という理解で良いんだと思う。

スレタイに即して言えば、こんな感じかと。
「勝利の可能性はあったが、とてつもなく高い代償を払うことになり得る可能性もまた高かった。
負けてしまう可能性も勘案に入れれば、あまりにもリスクの高い賭なので踏み切るだけの自信がなかった」


252:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 08:53:30.33 g64L/5TX0
>>248
それも伝聞だけどね。
関東の守りって意味では箱根の天険による計画はいいと思うが、
上方からの物流が途絶える=一揆祭りになってる関東単独で持久する
ってことだから、政略も考えると案外厳しいんではと思う。
あと軍指揮官の資質の問題もあり、慶喜はその辺も考えて降伏に踏み切ったのでは。

それと、北陸道のこと、たまには思い出してあげてください……
加賀百万石が泣いてます

253:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 16:36:18.77 Hh8c0tZp0
慶喜が、大阪城から逃げ出さずに頑張れば良いだけの事。

そうなれば官軍は大阪城対策に手一杯になり
江戸からの援軍の対策は打てません。

254:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/27 19:59:22.45 g64L/5TX0
江戸からの援軍も来るだろうが、薩長の国元からも援軍が来るわけで……
あと上にも書いたが、篭城って篭もる軍兵の連帯が大事なのよね。
淀は裏切る藤堂も裏切るでは、慶喜がその点に疑問を抱くのも当然。

255:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 08:36:15.64 Vgd6/rjQ0
大阪城に籠城するぞって判断を下すにも、「トロイの木馬」みたいなことをやられちゃかなわん
という事もあるしなぁ。

逃げた総大将を非難するのも無理からぬ事だけど、身内から裏切りを出してしまうような
現場統率力の無さや状況判断の甘さを、兵を率いていた指揮官クラスが認識してくれないとね。

256:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 09:29:05.93 anR/r+7P0
鳥羽伏見の敗戦後の東帰抗戦は厳しいが、
鳥羽伏見前の東帰なら効果的だったと思う
と言うより、京でクーデタを潰す・大坂退去・東帰のいずれの選択肢でもよかった

257:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 12:38:06.57 UXjbmuDL0
>>239
>慶喜が水戸学に徹してると言えるのか?

人に聞いている時点で駄目だ。君は水戸学が何なのか知らなすぎる。

>慶喜が徹するべきは将軍職なのだが。

ホントに知識が無い人だね。将軍職がどのようなものなのか、その意味役目使命を規定したのが水戸学。
もちろん、”江戸時代の将軍とは”という意味であって、戦国時代以前の将軍の役目とは違うよ。


258:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 13:17:19.04 hNVw8jAT0
やはり、箱根の関に幕軍が待ち伏せして官軍を押し返す中で
幕軍の軍艦が駿河湾から官軍部隊に砲撃を加えていたら…
東海道の官軍は壊滅的打撃を受けていたんでは??

まぁ…でも箱根の関である事も無いわな。
由比で幕軍が待ち伏せして官軍を足止めさせた上で
駿河湾から軍艦が官軍へ砲撃する方が確実だろうな。
間違い無く官軍部隊は壊滅したと思う。

東照神君再来慶喜公が錦旗に弓引き、一天万乗の天子様に刃向かう
朝敵・国賊に成る覚悟が有ればの御話だけどな。

259:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 14:54:20.60 W2wppKs00
>>258
>駿河湾

天候が良ければできるが…
悪天候と海流次第だな。静岡沖は遠州灘と伊豆半島の先端の海流が酷い。
黒潮の激流がときどき変な流れを生み出す場所でね。
江戸時代を通じて、海運といえば日本海の北前船だったのは、太平洋側の航路が危険だったからだ。
房総沖で難破事故を起こしている榎本艦隊の運用を見ると、果たして必ず迎撃できたかどうか?。
ちなみに航海術に天候予測の知識はあるはずだから、悪天候は運が悪いなどとは言えないのだ。

260:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/28 20:08:55.33 m8aN7dqIO
>259
それは千代田形のことで、証明されていますよ。

261:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 18:11:18.49 bc187DSC0
どのみち関東では一揆のアラーシで、抵抗するにもどうしようもない。
埼玉では「殿様殺し事件」があって、旗本が領民に殺害される所まで逝っている。
抵抗は、その土地の統治能力があってこそできるのであって、庄内藩のような
本間家のバックアップや領民の支持があればできる。
気分屋であきっぽい江戸っ子や、統治能力を喪失した北関東を考慮しないと
厳しい。

262:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/29 19:33:51.33 qzEdHh5P0
>261
御用盗みたいなことをした連中に、おいそれと
従いますかね。

263:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 17:36:40.09 hCqyEMTC0
>気分屋であきっぽい江戸っ子や、統治能力を喪失した北関東を考慮しないと厳しい。

そこで鳥羽伏見の戦いの前に幕府陸軍2万4千の北関東への治安出動(訓練を兼ねて)ですよ。
一部は、元込め式の最新式銃を装備しています。

264:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 19:14:32.73 YuI3DJ4P0
その前に、まず陸軍奉行や歩兵奉行に相応しい人材を探した方が

265:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/30 20:40:41.75 PaBhimIQO
>264
いませんよ

266:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 09:47:40.17 KN57YYce0
鳥羽伏見で敗戦するまで、身分が低い有能な人材を抜擢する仕組みが存在していなかった。

海軍に関してはオランダから学んで一から組織・制度を作っていったから、
長崎海軍伝習所出身の人間が登用されたけど、陸軍に関しては門閥・家柄重視で
人材登用が行われていたからまともな軍隊運用など夢のまた夢という状態。

267:48
11/05/31 10:00:46.26 9vy4Z5u50
>266
その通りです。

268:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 11:07:48.85 GxekY3WN0
幕府陸軍の体制だが

陸軍総裁
陸軍副総裁 (兼)若年寄
陸軍奉行   老中支配 五千石 諸大夫 芙蓉間 駿府城代の上席 海軍奉行の下席 若年寄並
陸軍奉行並 老中支配 三千石
騎兵奉行   老中支配 三千石 諸大夫 芙蓉間 歩兵奉行の上席
歩兵奉行   老中支配 三千石 勘定奉行の上席
歩兵頭    老中支配 二千石 中之間詰
歩兵頭並   老中支配 一千石 布衣
歩兵総目付 若年寄支配 七百石 
騎兵差図役頭取 陸軍奉行支配 四百石
歩兵差図役頭取 歩兵奉行支配 四百俵

こんな感じ?
歩兵頭の中之間っつーと、目付とかと同じ間か。
まぁ差図役とかに旗本を登用したのは、失業者対策として仕方ないね。

269:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 11:14:10.93 A+TEYuLMO
これじゃかてない

270:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 14:41:48.23 s/LusuwY0
しょうがない。
家格を否定すると最終的に徳川将軍家の否定に繋がってしまう。

271:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 17:41:03.59 NlY892lQ0
明治になってから陸軍で活躍した戊辰戦争に従軍した幕府の人材で有名な人物って
だれだろう。大鳥や榎本は内政の方にいったし、立見尚文は桑名だし。

272:名無しさん@お腹いっぱい。
11/05/31 18:45:37.63 GxekY3WN0
揖斐章とか?
結構いい経歴だったのに、早死にしちゃったな。

273:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/06 11:50:33.03 2ldXgchg0
この時期の欧州にしても士官は貴族はじめそれなりの身分の出身。

また幕府陸軍にしても既存兵制と並存する形で作られたたので、指揮官クラスはそれなりに登用されている。
問題なのは、その登用が洋学知識偏重。
特に陸軍総裁の松平 乗謨は知識は一流かも知れなかったが将の器かは?

274:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/19 17:56:53.26 0paIjQuj0
根拠がある訳ではないが、陸軍総裁クラスになると
後の陸軍大臣みたいな立場にならないかな。

>>268
案外身分高いのな。
歩兵奉行なんか、勘定奉行の上席か。
こうして考えると、大鳥なんか、歩兵頭とはいえ大抜擢?

275:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/19 20:06:09.02 Gl7PNG6x0
>274
歩兵奉行が行政組織上の位置付けとして勘定奉行よりも格上だったとしても、
それがイコール幕府内での権力を振るえたかどうかとは別問題なんじゃないかなぁ。

勘定奉行は「勘定所」という実働部隊を下部において、行政組織としての財政やら法整備やらの
権限を一手に握っていたから、組織図上の位置よりもはるかにハバをきかせてたし。

幕府は本来的には「軍事組織」という建前があるから、武官系の方が組織図の上では優遇されてるけど、
江戸の中期以降は、実際には国政を担当する「行政組織」としての性格の方が強くなっちゃっていたから、
具足奉行やら鉄砲奉行やらの軍事系の職階よりも、勘定系や大目付・目付といった事務系職の方が、
実質的な権限を握っていたみたいだよ。

そもそも、幕末に編制された鉄砲を主とする歩兵隊は、刀槍をメインの武器として位置づけていた
江戸幕府の軍事組織の中では「足軽・雑兵」みたいなイメージで見られる場合が多くって、
そんなに大事にされてなかったし。

歩兵隊の重要さに本当に気がついたのは、第二次長州征伐以降のことだし、それだって本当に
理解していたのは慶喜とその側近だけで、会桑や幕府首脳は心の底からは理解していなかったから
鳥羽伏見で負けを喫しちゃったわけだしね。

276:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/20 13:07:02.07 v6HBPJD00
幕府のもとで近代化していたら軍隊の階級呼称がどうなったか興味がある。
少尉、大佐などお公家さん風の名称は使われなかったと思う。

奉行とか与力、あるいは一等士官とかになったのだろうか?

277:名無しさん@お腹いっぱい。
11/06/25 21:40:02.25 crv5Y0zb0
>>275
さも見てきたかのようなw

278:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 10:59:57.95 UtwUgNPc0
皆さん幕府のことをボロクソに色々言うけど、明治維新政府は、混乱に混乱を重ねて、
結局最後には幕臣が作った最後の幕政改革“慶応の改革”を丸呑みして富国強兵に乗り出したんだよ。


小栗や栗本あたりは、本当にスゴイ人だったと思う。

“慶応の改革”の途中で戊辰戦争が始まっちゃった。
しかしこれも桂小五郎が言うように、“慶応の改革”が成功すると
徳川宗家(あえて幕府とは言わない)が強くなりすぎて討幕が
出来なくなるので、慌てて王政復古のクーデターを起した面がある。

慶喜も在京の幕臣も幕藩体制には、それほど固執していない。
実質的に徳川宗家の政治力が残れば、どんな体制でも言いや!
っていう割り切りがある。
大政奉還後の小栗もそんな感じ、小栗だったら政府が近代化しても大蔵官僚出来るしね。

279:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 11:10:15.64 vpBHbPIX0
>278

それはあまりにも慶喜や小栗といった、幕府内でも極めて少数だった「先の見える有能な政治家」の
考えに偏したモノの見方のように思える。

当時の幕閣や幕臣たちの大多数はそうした慶喜らの先を見据えた施策の意味を理解できず、
旧態依然とした政治・経済・軍事の仕組みを墨守しようとした集団だったという側面にも
目を向けておく必要があるんじゃなかろうか。

鳥羽伏見において刀や槍といった旧式の武器を手放そうとしなかったのが幕臣や会桑の藩士達だったし、
その認識を改めて銃砲を主体とした部隊を重視するようになったのも、それらの部隊を指揮する能力を持った
下級階層出身者を重用するようになったのも、「敗戦」という危機にさらされてはじめて起こった変化だった。

薩長主体の明治政府をことさら称揚するつもりはないし、慶応の幕政改革の重要性を否定するつもりもないけど、
末期の幕府権力がスムーズに既得権を手放して明治政府のような形態の強大な国家へと変貌を遂げられた可能性は
必ずしも高くないという見方も、一応は押さえておくべきだと思うよ。

280:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 12:39:09.57 GW5dhM8r0
幕臣に新軍事教練やらせてみても、全く真面目に取り組まず戦力化できなかった。
しょうがないから軍役を人納、金納に変えて歩兵隊を組織したわけで。
本来なら部屋住みはこぞって参集してもおかしくないはずなのにね。

281:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 12:48:15.04 16GunPla0
>>278
長井雅楽や吉田東洋もいるし、
小栗や栗本だけが優秀だったわけではない。


282:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 12:50:35.53 16GunPla0
>>280
旗本の軍役を金納に変えた時点で幕府軍は崩壊してるね。
慶喜は戦争するつもりなかったからこれでいいというか仕方なかったんだけど。

283:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 17:34:15.08 B96/mUyC0
しかも指揮官が>>268みたいなんだから、ぶっちゃけ旧来の家格による人事を刷新できたとは言い難いと思う。
少なくとも近代戦を理解してる奴が軍単位での指揮を執らないと、薩長には勝てない。
まぁ旗本改革を訴えた原市之進は同僚に暗殺された訳で、難しかったんだろうけど。

そもそも、慶応の改革っつっても外国の行政制度取り入れ、富国強兵っつー指針が一致してたってだけで、
明治政府がやったこととそんな具体的に一致してるか?
あのままの勢いで軍制改革が進めば、討幕派としては不味かっただろうが。

あと、徳川宗家の政治力だけが問題なら、薩摩藩邸焼き討ちに始まる強硬派江戸幕閣の暴発を
何としてでも抑えるべきだったな。
西郷の挑発にまんまと乗って鳥羽伏見だから。
まぁ小栗が死んだのは惜しかったけどね。

284:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/01 17:41:12.25 UkdmqPlSO
鳥羽伏見の前日に幕末軍の兵も官軍の兵も一緒に風呂に入り雑談を交わす者もいた
って歴史の本に書いてあった
モチベーション高くない人はこんな感じだったのかな

285:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 09:16:58.32 g346IEnd0
>末期の幕府権力がスムーズに既得権を手放して……可能性は必ずしも高くないという見方も、

大政奉還(慶喜は単に政権返上)は言いだしっぺは、土佐藩だが、慶喜も納得している。
征夷大将軍職の辞表は67年の10月24日に朝廷に提出している。67年の時点では、
もう幕藩体制を維持する為に軍事行動を起す事は、下級幕臣はともかく幕閣クラスではないよ。

朝廷新政府に日本の統治機構を一元化する事は、幕府上層部では、了解済み。

慶喜も征夷大将軍職を維持するのではなく、むしろ朝廷新政府の摂政(関白)に就き
さらに諸侯会議(上院)議長を狙っていた。そして何れはその双方のポストを合併し
ナポレオン3世をモデルとした“大君”を目指す予定だった。
慶喜が目指したのは、フランス第二帝政をモデルにした“徳川版ボナパルト体制”
当然諸大名は全部潰すし、旗本領は徳川家が収公する。全武家、全藩は“大君慶喜”が廃止する。
>>282にあるように小栗が計画した六百万ドルの起債が薩摩の妨害工作で潰された、という事もあるが。

286:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 09:46:45.27 g346IEnd0
そもそも征韓論は、幕末の幕閣で老中の板倉勝静が唱え始めた。

征韓論をあおり、対外的緊張をワザと高めて、武家や諸藩の廃止を実行しようとしたのかもしれない。
また、征韓論自体軍事力の強化が必要となるので、小栗の立案した“慶応の改革”を
更にスケールアップしスピードアップ出来る訳だ。

小栗がヤケに武器と艦船の国産化に急いだのも、当面の薩長との対決も有るのだろうが、
より長い目で見れば“徳川宗家(大君慶喜)による征韓論”を念頭においていたのだろう。

“徳川版ボナパルト体制”による日清戦争を見てみたかったなw

287:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 10:03:03.85 YalCzs4z0
日清以前に借銭の返済で潰れそうだがね

288:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 10:15:15.91 WKMSZNop0
>285
>朝廷新政府に日本の統治機構を一元化する事は、幕府上層部では、了解済み。

いや、慶喜を中心として京都に存在していた一会桑勢力と、江戸に存在していた幕府の主流とでは、
現状認識や採用する戦略に相当な開きがあったと思うんだが。

少なくとも、大政奉還の知らせを聞いた江戸城では天地がひっくり返ったかのような感覚で
この出来事を受け止めた人間の方が多数派だったらしいし、「徳川版ボナパルト体制」が出来る前に、
旗本たちが叛旗を翻して収拾が付かなくなる可能性の方が高かったんじゃないかな。

289:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 12:54:56.16 AtVuPzXu0
>当然諸大名は全部潰すし

さらっとものすごい事言ってるなw
実際には長州ひとつ潰せなかったけど

290:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 14:05:17.06 g346IEnd0
>>289
慶応の改革の当面の目標は、薩長潰し。
最終目標は、征韓論。

悪い意味で菅直人とカダフィのあの頑張りを見習えばよい。
全然評価できないがww

291:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 14:12:40.44 g346IEnd0
>いや、慶喜を中心として京都に存在していた一会桑勢力と、江戸に存在していた幕府の主流とでは、
>現状認識や採用する戦略に相当な開きがあったと思うんだが。

慶喜が大政奉還後10月後半から11月中旬にかけて説得している。
江戸や大阪の強硬派幕臣や佐幕藩の対薩摩藩先制クーデター計画が
くすぶってはいるが、慶喜は、なんとかこれも押さえ込んだ。

>「徳川版ボナパルト体制」が出来る前に、旗本たちが叛旗を翻して収拾が付かなくなる可能性

それはない。
旗本は、領地収入が半減している上に更に幕府からの俸禄がなくなるとマジで収入無くなる。

292:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 14:21:24.21 v2nlKBEA0
菅直人なみに頑張ったといえば、敗北後に東北全土を巻き込んで更に敗北した、松平容保がいますが。
往生際が悪いのは良い結果を生みません。

293:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 14:58:32.62 tS27dykIO
>>291
そもそも会桑自体が大政奉還大反対じゃん
んで強硬派を押さえ込めなかったが故の鳥羽伏見なのであって

294:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/02 16:32:15.42 g346IEnd0
大垣藩立案の対薩摩藩先制クーデター計画を慶喜は押さえ込んだ。
この計画には会桑はもとより紀州藩、津藩、若狭藩、宮津藩など
畿内周辺の佐幕藩までも参加し後押しした大規模な計画だった。

また、別途若年寄の永井尚志が立案した薩長両藩の部隊集結を阻止する
計画も慶喜が抑えてしまった。67年12月7日には兵庫開港・大阪開市の
準備の為に大阪と西宮に出張するが、この様に永井が慶喜の側を離れた事が、
12月9日の薩長の王政復古のクーデターをやり易くした、とまで言われている。

12月6日には、薩長の王政復古のクーデターが慶喜の耳に入っていた。
それなのに慶喜は何も対策を打たず、何故か翌日に永井を大阪と西宮に
出張させてしまったのか、良く判らない。

永井が二条城に居たら、慶喜の躊躇を押し切ってでも、彼が幕府陸軍を
率いて京都御所の警備を更に厳重にさせる事も可能だっただろう。

295:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/03 11:28:35.53 8JREsp7+0
慶喜は戦うつもりないんだもの。

296:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/03 19:22:16.92 nVbCsgAz0
議論が分かれるね。
JFKはベトナム戦争をするつもりが無いvsイヤある!と言う議論に似ている感もあるが…

慶喜は、征夷大将軍職には復帰するつもりが無いだけで
徳川宗家の実権維持には汲々としている。

297:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/04 07:20:24.67 77yAuCgy0
最近の王政復古のクーデターや鳥羽伏見の戦いについての資料発掘や再検討からは、
在江戸の幕府有司を含めた、軍事担当の幕臣たちが、逡巡する慶喜を巧みに開戦に追い込んだ。
と言う複雑な構図も見えてくる。

この時期の幕府は、朝廷新政府や薩長への方針が幕臣の間でも一致していないのが特徴であり、
勝海舟や大久保忠寛の天領・政権放棄路線から小栗や栗本らの幕権派(近代化)までいるが、
小栗は時期において大政奉還(天領放棄は?)をも認める発言もしてもいる。

しかし、江戸であれ大阪であれ、意見の異なる旗本を含めた幕臣達が、慶喜に薩摩藩との戦闘開始か、
さもなくば、徳川宗家の政治生命に致命的打撃を与える天領放棄を含めた政権返上か、どちらか
両極端な政策の二者択一を迫る進言を繰り返し、慶喜が戊辰戦争開始の道を進むしかない無い様な
方向に仕向けた事が改めて問題になる。

慶喜は、対薩摩藩の攻撃準備と新政府入りした土佐、越前、尾張を通じた多数派工作
の両方を実行しているが、このこと自体幕臣たちの意見の相違と徳川宗家の内部分裂を
表している様に思える。

298:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/04 12:20:08.77 S+0Bm4Ux0
軍隊の近代化を進められなかったツケが慶喜に廻ってきたからな。
薩長に負けてしまうとはねえ。情けない。


299:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/05 04:43:49.17 iAaAUodg0
まあ~何にせよ以下のような馬鹿馬鹿しい事にならずに軍隊の近代化を進めた幕臣も偉いよな。
       ↓
1882年に李氏朝鮮では、新式軍隊(近代式軍隊)に対する旧式軍隊の差別待遇、
賃金未払いなどに対して、不満を募らせた旧式軍隊と衛正斥邪派・大院君の勢力が結託し、
閔妃暗殺、閔氏一族・開化派勢力の追放をもくろんだ壬午事変が発生する。
壬午事変によって一時的に大院君は復権するが、殺されたと思われていた閔妃は
清の袁世凱に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。

300:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/05 10:08:04.87 rxMQkJq60
しかしまぁ、一会桑vs江戸幕府がなきゃ、もうちょっと上手く政治工作出来たんじゃね?
って気もするがw
旗本の一部も原市之進暗殺とか地味に抵抗してたが、第二次長州征伐の敗北も
軍制改革進める一助になったんかな。

301:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/05 12:05:45.02 7jX59Mea0
>>299
閔妃暗殺は日本が暗躍してるけどね。

302:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/09 09:51:00.37 qHEiB8Bc0
>第二次長州征伐の敗北も軍制改革進める一助になったんかな。

当然そうだろ、最後の幕政改革「慶応の改革」は、長州征伐の問題点を
克服しようとする形で始まった。


また、一会桑体制が崩壊したのなら、畿内に近い桑名藩はともかく
兵力が大きくて東北の大藩である会津藩は、さっさと帰国させるべきだろ。
なのになぜグズグズ京に居続けたり、慶喜の大阪城撤退にくっ付いて来たりするのかね?

会津藩は大政奉還と同時に少なくても江戸に戻るべきじゃね?

だらだら会津藩を畿内に居座らせていた慶喜も問題。

303:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/09 22:59:32.93 oREi9d2h0
そうは言っても軍事力が背景にないと、
相手はやる気満々なんだから、話し合いもできないでしょう。
やはり問題はその軍事力が全く当てにならなかったこと。


304:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/09 23:03:19.30 5TRo9k+J0
改革が進んだことにしておかないと
勝利の可能性がみえてこないので

305:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/10 00:05:29.39 nTBmv7VW0
江戸幕府がトーマス・グラバーを介してアームストロング砲35門もの多数を発注したが、
グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。

これらが大阪城や江戸城に配備されていたら、面白いことになっていたかもw

ただ言われているほど、アームストロング砲の威力や性能は、高くないらしい。


306:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 05:47:24.16 o+SzL6FK0
>>304
最後の幕政改革の「慶応の改革」は、それなりに進捗していた。
桂小五郎もビビッて居るくらいだ。

直接的な戦闘能力の向上もさることながら、
幕府の兵器と軍艦の国産計画が、薩長には脅威に思えたのでは?
薩長は、小さな工房程度ならあるが、基本的に兵器の調達は輸入だ。

有る程度幕府が、兵器を自主開発出来る能力を持ってしまうと
武器の補給面で幕府軍には敵わなくなる、と薩長は思ったのでは?

この時期アジアで唯一炸裂弾を生産できたのは徳川幕府の兵器廠だった。

307:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 14:31:53.79 rx20EQSf0
しかも朝廷に命じられて作ってるから薩長も批判するわけにいかんしな。

308:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 15:29:05.60 f9AUFa1N0
>しかも朝廷に命じられて作ってるから

そうなの?
知らなかったw

例の孝明天皇の攘夷命令の事かいな?

>アームストロング砲35門が大阪城や江戸城に配備されていたら、面白いことになっていたかもw

そうしたら安心して慶喜は、大阪城に篭城していたかもなw

しかし以外とアームストロング砲って扱いが難しかったり、故障が多かったりで
イギリスも正式な大砲としての採用年数は短かったはず。
幕府は、無理にアームストロング砲を採用せず、幕府海軍旗艦の開陽に搭載している
クルップ砲の大量発注でも良かったんじゃないかな?と思う。

メンテナンスや故障頻度を考えるとアームストロング砲よりもクルップ砲の方が
使い易いし結果的に幕府軍の戦力になった、とも思えるのだが。

309:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/22 15:48:17.59 +BQlpF8V0
>>306
炸裂弾っつーと、江川英龍の遺産?
銃自体は輸入したほうが早いと思うが、大砲や軍艦の生産能力は脅威になるかもね。
ただ、幕府陸軍の拡充のが直截的な脅威だったんでないかと思うが。

310:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/23 04:16:11.06 t3+aP06B0
>>309
まあ、そうだろう。
ただ長期戦になれば、輸入もままならないし、幕府が有利になったと思う。
現実には、武器のメンテナンスや修理は、幕府の施設でまかなえた様だ。

それとあきれ返るけど“慶応の改革”に反対していたのは、討幕諸藩だけではない。
なんとあの大奥が“慶応の改革”に大反対している。

311:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/24 00:20:06.07 NdxkBz6W0
慶喜の親父の 徳川斉昭は大奥でかなり嫌われていたからな

312:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/25 14:06:10.98 mZxQCHLQ0
大奥のバカ女どもは明治維新でどうなったの?
全員失業ってことだと威張るくらいしか能がない気位が高いバカ女どもだから路頭に迷ったろうな。

313:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/25 17:29:10.27 961s1Kyl0
まぁ大奥は昔から保守派の温床だし
あそこを上手く操れたのって田沼意次ぐらいじゃね?

314:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/25 19:47:36.20 XZKXhOHq0
>312
>大奥のバカ女どもは明治維新でどうなったの?

基本的には全員失業。
ただ、大奥に上がった女性は基本的な行儀作法が仕込まれているから、
旧家の家政の取り仕切り(下働きの下女達の監督)などを期待されて
そこそこの就職口はあったかと思われ。

明治に入ってから士族階級が没落していってしまったから、
全体の就職口のパイはそれほど多くはなかったろうけど、
そのまま自活能力なしで苦界に身を沈めたというほど酷い状況では
なかったからしい。

むしろ、大奥という場所で(ある意味での)職業訓練ないし宮仕えをしていた女性達より、
旗本・重臣層の奥方連として安穏とした生活を送っていた女性達の方が維新後には酷い目を見てる。

315:平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv
11/07/25 21:14:28.38 RYh62SyT0
このスレに感謝。

316:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/27 04:09:36.75 V/QAxbtL0
>>311
当然それも理由としてある。
慶喜は水戸系であり、大奥は南紀派だからどうしようもない部分が有る。

大奥としては15代将軍には亡き家茂の意向として三歳児wの田安亀之助を推していたし、
それがダメなら最後の紀州藩主の徳川茂承を推していた。また家茂と茂承は大変仲が良かった事も有る。
しかし和宮と幕閣と幕権派中堅官僚は、「今の時期には慶喜しか将軍職をこなせる人材は居ない」
と大奥に逆らう動きを見せ、結局将軍職の4ヶ月空位を経て慶喜が15代将軍に任官する。
この4ヶ月空位期間に岩倉が“宮将軍”の画策を行うなどの混乱もあったが、孝明天皇の強い意向もあり、
ついに慶喜は15代将軍に任官する。しかし慶喜が将軍に任官した直後に孝明天皇は崩御される。

ただ大奥の“慶応の改革”の反対は、水戸系将軍と紀州系大奥の対立だけでもないらしい。
慶喜が将軍職任官した慶応2年の末から幕府では急ピッチで幕府軍の近代化と産業インフラの整備を進めた。
その為に慶喜は大奥関連の予算をバッチリ削ってしまい、その事でも大奥からかなり恨まれている。
慶喜の正室である美賀子などは、大奥に行っても布団一枚も出してもらえなかった。

さらに驚く事に大奥が「慶応の改革」に反対した理由は、これにより幕府が西洋式の軍事色を
強める事そのものに嫌悪感を持っていた事だ。元々慶喜と仲の悪い天章院はもとより、
慶喜将軍任官を支持した和宮ですらこの意向を示し、二人とも慶喜が西洋式の軍服を着た
写真を見せられると大変嫌がった、と言われる。
また江戸城内でも慶喜治世下では、伝統的な武家の装いが廃止され始め、西洋式の衛兵が配置され
砲台や兵舎の設置も行われている。天章院も和宮もこの様な江戸城の西洋式の軍隊化に激しく反対していた。

慶応2年(1866年)の慶喜の大奥改革に対しては、天章院は、今まで仲の悪かった
和宮と協力して徹底的に反対しているが、これは大奥改革が“慶応の改革”の
費用捻出の為と疑っていた為であろう。

317:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/27 12:50:53.14 duoZPn+KO
>>312
彼女達は明治新政府により朝鮮半島に送り込まれほぼ全員が朝鮮人によってレイプされました。【氷河清話より】

318:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/27 19:11:20.38 XRPDRXUp0
とりあえず徳川家は、何が何でもアームストロング砲35門を調達して
そのうち15門を大阪城に、20門を江戸城に配備すべし。

ついでにクルップ砲も幕府艦隊旗艦の開陽搭載用以外に30門確保しておけばさらにOK!

319:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 17:42:13.09 RBRRt+sP0
>>316
幕府は、慶応の改革以前から、改革に着手しようとしていたが、
幕府内の守旧派によって退けられた。
それを決定的にしたのが井伊の大老就任。
井伊が強権振るえたのは守旧派が味方だったから。
(彼は朝廷無視して開国したが、幕政についてはガチガチの守旧派)
守旧派には旗本なども含まれる。もちろん軍の近代化には反対。

水戸対紀州ってよく言われるけど、事実としては改革対守旧。
それが「今の時期には(改革派の)慶喜しか」の意味なんだけど、
維新後は慶喜を改革派とみなすのはご法度だったから、
水戸対紀州ってことにされて、今もその影響下のまま。
本来慶喜が改革派じゃなければ、朝廷がわざわざ
幕府に慶喜を将軍後見人にしろなんて言うわけないのだが。

尊攘を代表するナショナリスト的価値観が、
幕府寄りの立場の人間の改革に対する正当な評価を阻んでる。
土佐藩の内部抗争についても、同じような誤解がある。


320:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 20:17:33.43 yL0B9/u00
>>308
> >しかも朝廷に命じられて作ってるから
>
> 例の孝明天皇の攘夷命令の事かいな?

その時、副使として付いて行った攘夷急進派の姉小路が
大阪で勝と龍馬に篭絡されて開国派になるでしょ。
当時、姉小路は国事参政になったばかりで、朝議を決定できる立場にあった。
その姉小路が大阪で開国派に篭絡されたわずか二週間後に、
朝廷から「摂海防備三か条の沙汰」が幕府に命じられて、
製鉄所や軍艦を建造することになった。

勝曰く「我が微衷天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす」

小攘夷派が維新の中心から退けられる決定的な出来事です。
この後は、薩摩が神戸開港を口実に慶喜を攻撃したくらいで、
この後は都は開国一直線です。
(田舎のほうではなんやら事件やらこれやら戦争などありましたが)

321:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 21:01:30.56 hiGac+H00
阿部正弘の評価を阻む点では佐幕シンパも同様

322:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 21:02:36.71 Mf7rSP380
新撰組も尊攘派だからナショナリストのはずだし、
慶喜警護の為に京にいる水戸藩も連中(本国寺党)も尊攘派。
原市ノ進を斬った旗本も尊攘派、佐幕派や幕府方にも尊攘派は結構居たんだけどねw
なぜか全部親仏派や開国派になっている。

また、幕府の改革派は、幕権派と言われ、いわゆる近代化グループ。
郡県制の施行や諸藩の廃止、政権の一元化や重火器や艦船の小銃の国産化
造船業や製鉄業、兵器産業の立ち上げ、鉄道・電信・道路等のインフラ整備
などの実現を志向する幕府内の勢力。

323:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 21:05:05.97 Mf7rSP380
>>322のつづき)
ただ面白いのは、幕権派の面々は、どちらかと言うと家茂人脈の人ばかり、
小栗や栗本、勝にしてもそうで、家茂治世下で出世した人ばかり。
それに家茂治世下では、幕府の近代化はそれほど進まず、むしろ慶喜での
「慶応の改革」でようやく本領を発揮できた。

慶喜が将軍に任官してトップダウンで近代化政策を実行出来た事と、第二次長州征伐の失敗の
ショックでさすがの江戸の幕府有司も近代化を進める必要性を感じた事が背景にある。

それと繰り返すが、アームストロング砲35門の調達は、是非とも実現させるべきだった。
アームストロング砲35門と甲鉄艦が、手元に揃うまで慶喜は開戦すべきではなかった。

江戸での薩摩藩邸焼き討ちが起きたら、大阪市内の薩摩藩邸(2~3箇所ある)を
攻撃してお茶濁しておけばよいのに。伏見奉行所を増強するとか、畿内の勤王藩
(彦根・西大路・郡山・園部・十津川郷士)にプレッシャーをかけるとか。

324:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 21:30:39.46 yL0B9/u00
家茂は本人はともかく、
バックが守旧派(昔で言う所の南紀派)だから、
改革を進められるわけない。
彼らが家茂を押した理由は、(紀州直系の人はともかく)
慶喜?一橋家なんて支流の御三卿の養子、しかも改革派なんてとんでもない
って理由だけだからね。

守旧派には大人物がいないから、
人物中心の歴史読み物では忘れられがちだけど、
あちこちで無視できない力を発揮している。
まあ長州に負けて発言力低下したけどもw

325:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/28 22:19:09.71 xwIqE9Ro0
旗本のほとんどが使い物にならない、状態でいくら近代化してもね。
大体石高から言ったら、本来薩長などに負けるはずないのに負けまくり。
旗本は従軍嫌がるし、福沢が篭城で幕府に暴言吐いてもスルー。
彰義隊も江戸で薩摩武士を大勢で闇討ちしたりしたが、逆に死を覚悟した薩摩武士に斬り立てられ逃げ回ったり。

326:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/29 09:33:48.97 +fj4aCbG0
上知令の時も旗本や譜代の抵抗があったな

327:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 01:44:26.72 KagjRR7A0
>旗本のほとんどが使い物にならない、状態でいくら近代化してもね。

中には近代化した行政府でも使えそうなのが居る、榎本は幕臣ながら明治政府で閣僚に。
大鳥圭介は、日清戦争開戦時の清と朝鮮の大使で陸奥外相の命で日清戦争の開戦の準備をしている。

あとは徳川宗家の大久保利通とも言える小栗や外務大臣も出来そうな栗本鋤雲、他に山口直毅、向山一履
甲鉄艦をアメリカで見つけ出して交渉し調達した小野友三郎、京不在が王政復古クーデターをやり易くした
とまで言われた若年寄の永井尚志などは旗本だが、徳川新政府の官僚でも使えるだろう。

譜代大名では、慶喜治世下での筆頭老中で征韓論の言いだしっぺの板倉勝静や自分の居城を西洋式の要塞と
したり、大政奉還直後に全国の大名の禄高の半分を削って全国統一軍を創設しその総司令官に前将軍の慶喜
を構想した老中兼陸軍総裁の松平乗謨なども閣僚として使えよう。

>上知令の時も旗本や譜代の抵抗があったな

そういう意味ではフランスからの600万ドル借款計画がアボンして良かった。
薩摩藩のプロパガンダで600万ドルの起債が失敗したらしいが、そのおかげで旗本領300万石
の内半分の150万石を事実上徳川宗家が収公出来た。

平時だったら旗本の大反対運動で上手く行かなかっただろう。
幕末の最後の幕政改革だったからこそ、旗本領地収入半分収公計画が上手く行った。

328:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 02:32:38.23 KagjRR7A0
それとこの時期は、徳川家による征韓論がかなり検討されている。

南紀派で井伊大老の側近で老中の間部詮勝は、開国と条約の締結を求める勅許の奏請にあたり、
「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現する事が
出来ると朝廷を説得したとされる。

守旧派と言われる南紀派も征韓論的な事を言っている。案外南紀派は南紀派で征韓論を考えていたのかもしれない。

文久3年(1863年)5月、対馬藩士の大島 友之允は、老中・板倉勝静の顧問であった山田方谷と会見する。
この時、征韓論だけに留まらず、中国大陸進出を唱えていた山田方谷に
「貴藩困乏斯の如し、何ぞ朝鮮違約の罪を鳴らして、之を征服する策に出でざるか」
と説かれ、これに感化された大島は征韓論を唱えることとなった。

そして元治元年(1864年)には、朝鮮進出の建白書を提出している。

この大島の感化を受けたのが友人である桂小五郎(木戸孝允)であり、後に桂が新政府の高官となるに至って、
大島の論は政局に重大な影響を与えることとなる。

329:名無しさん@お腹いっぱい。
11/07/31 02:40:14.74 KagjRR7A0
日米修好通商条約の交渉に臨んだ幕閣の岩瀬忠震は、現代で言えば侵略主義的な考え方を持っていた。
岩瀬は、勝海舟と仲がよく、彼の思想は勝海舟にも受け継がれている。

勝は文久3年(1863)4月27日、桂小五郎と上記の対馬藩士大島友之允に対して次のように述べている。
「当今亜細亜洲中、欧羅巴(ヨーロッパ)人に抵抗する者なし、これ皆規模狭小、
彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今我が邦より船艦を出だし、弘く亜細亜各国の主に説き、
横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙を遁(の)がるべからず。
先最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後支那に及ばんとす」(海舟日記)

これは後の「征韓論」に繋がる考え方です。
そして幕閣として初めて公式に征韓論を唱えたのは老中板倉勝静(かつきよ)で、
文久3年5月に対馬藩の朝鮮進出の請願書を受理しました。意外な感じがしますが、
当時の武家政権である幕政の担当者としては特に過激な考えと言う訳ではない。

そして翌月に、勝に対して対馬差遣を命じています。
その辞令には「朝鮮国の事情探索」とあったそうですが、実際には征韓準備のために派遣されたのです。
ところがその後、板倉と勝は失脚してしまい、幕府による征韓は沙汰止みとなります。

330:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 07:37:52.43 oMDEonQV0
実は攘夷には「大攘夷」と「小攘夷」の二つがあって、このどちらを採るかを巡って紛糾したのが幕末という時代。

「大攘夷」とは、現状の武備では、西欧列強と戦えば必ず負けるとの認識に立ち、
無謀な攘夷を否定する考えだった。現行の通商条約を容認し、その利益によって
十分な武備を調えた暁に、海外侵出をおこなうと主張したのだ。
公武合体派と呼ばれた人たちは、これを主張している。
 
一方で「小攘夷」とは、勅許を得ずに締結された現行の通商条約を、即時に、
しかも一方的に破棄して、それによる対外戦争も辞さないとする破約攘夷を主張するものだった。
長州藩などが、これに属していた。

通商条約を独断で結んだのは井伊直弼ですが、その彼も攘夷論者で、「大攘夷」の考えだった。
井伊直弼は売国奴のイメージを与えられていますが、実際には最後まで通商条約の締結には慎重だった。
全権委任した岩瀬忠震(ただなり)らに、窮したときには調印しても良いと言う言質を与えた為に実行された。

直弼としては、やむを得ず時限的に海禁政策を放棄し、武備を整えた後は破約するつもりでした。
井伊大老の真意として、後の攘夷のための“海軍力強化”政策を打ち出しています。
これは「大攘夷」に当たります。

守旧派といわれる南紀派も“海軍力強化”などの大攘夷政策を立案しており、近代化政策を全く行わなかった訳でもない。

また幕末の最後の幕政改革「慶応の改革」もこの大攘夷の原則に則って始まった近代化政策であり、
当面の敵である薩長を圧倒する事を目先の目的としていたのだろうが、最終的には“大攘夷”と“征韓論”の実行
を目論んでいた「富国強兵」計画だった。

しかし徳川宗家にそんな事をされては、薩長の出番は無くなってしまうので、
彼らは幕府の兵器や艦船の国産化計画に反感を持つジャーディン・マセソン商会や
その代理店のグラバー商会から支援を受けて、王政復古の名の下に討幕挙兵に討って
出てきたのが実情。

331:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 09:31:48.04 BQ2YyKBt0
>>327
上の人の言っている「旗本」はそんな大物のことじゃないんじゃないの?
歩兵が駄目だと指揮官がまともでもどうしようもないしね。

>>328
> 守旧派と言われる南紀派も征韓論的な事を言っている。

南紀派の「守旧」は徳川宗家万歳、血統万歳ってことであって、
対外的政策のことじゃない。
むしろ朝廷に断らずに開国した。
もちろん開明とも違うが。

幕末を「~派」で語ると弊害が多い。

332:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 09:38:25.66 BQ2YyKBt0
>>330
小攘夷には2つあって、
一つは国粋馬鹿で、即今攘夷は玉砕するだけってのがわかってない奴ら。

もう一つは倒幕あるいは弱幕の方便で、攘夷って言ってるだけの奴ら。
征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて、
幕府牽制のために言っている。

ちなみに攘夷に反対している人間はいません。
黒船外交は武力威圧的なものだから当たり前なんだけど。

黒船来航直後の公家に前者が多かったのが幕末の混乱の原因。
まあ倒幕で近代化が進んでよかったけども、
死なんでいい偉い人がたくさん死んだよ。松陰とか象山とか。


333:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 10:25:21.87 oF/RrDoz0
小攘夷には、奉勅攘夷派もいるぞ。
尊皇=攘夷でなければ、少なくとも水戸藩の内訌や長州藩が藩を挙げて
攘夷に邁進することはなかった。

>>330
井伊直弼のやらかしたヘマは、朝廷軽視と安政の大獄だろう。
前者は戊午の密勅を誘発して返す返さないで水戸の天狗を敵に回すし、
後者は前者による反感に拍車を掛け、更に幕府の西洋に明るい人材群を浪費した。
川路聖謨はボロボロになるし、岩瀬忠震なんか憤死だろう。

334:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 10:54:32.25 WavHP4bf0
孝明天皇は薩摩に内勅を与えて、
急進即今尊攘派を京都から排除するようにお願いしていたくらいだから、
奉勅攘夷派と言っても、ほとんど即今攘夷馬鹿みたいなもんだ。

まあ三条とかが勝手に勅を出してるの知らんから仕方ないけども、
長州藩は大昔の御製を取り上げて、攘夷に反論変えたり、頓珍漢が極まってる。
大久保なんかは気づいていたみたいだけども。

当時、孝明天皇は攘夷派よりも松平容保の方に尊皇を感じていたようだし。
URLリンク(bakumatu.727.net)


335:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 11:33:55.16 wyJzx06Y0
久留米出身で長州尊攘派の中心人物になっていた真木和泉は逆に
ロシアはシベリアを占領しながら来ている為危険だが、
ペリーは通商を求めているだけで戦争するつもりはない、
なのに幕府のやり方は表面では和親を求めるが裏では軍備を整えて
数年後にペリーを討とうというもので『真心』がないと批判している。

336:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 13:07:41.77 tLIloRF20
攘夷と言っても、
条約を対等の立場で結び、開国を進めたいと思ってる奴から、
横浜での寄港給水すら受け付けない奴まで、いろいろいるからな。


337:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/01 16:49:17.20 kN9xAbas0
その寄港給水も、最初は遭難されては気の毒だといういわば人道的な非常措置だったのが、
何度も何度も同じように来られるのでこりゃたまらんと原則に立ち帰って打払令に至ったわけで。
こっちの顔色もお構いなしに遠慮もなく既得権益だとばかりに当然の要求として来る。
その時点で侵略的なものを嗅ぎとったとしても責められるものでもない。


338:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 00:27:44.95 8NMeasyp0
嗅ぎとったw

339:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 03:30:45.58 0fClwfP50
チョソ臭を嗅ぎ取って、今ウジテレビは大変な事になっているからねw
日本人は、そういうのには敏感だよ。

>>332
>小攘夷には2つあって、
>一つは国粋馬鹿で、即今攘夷は玉砕するだけってのがわかってない奴ら。
    ↑
 長州藩と水戸藩

>もう一つは倒幕あるいは弱幕の方便で、攘夷って言ってるだけの奴ら。
>征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて、
>幕府牽制のために言っている。
        ↑
       薩摩藩

>征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて

正確には…“今すぐには、出来ません”
13~4年して海軍力を整えたら、攘夷しましょう。ついでに征韓もしましょう。
って感じ。

>ちなみに攘夷に反対している人間はいません。

留学以後の長州五傑は、どうかな?
あの留学は、完全にジャーディン・マセソン商会がお膳立てしたモノ。
一種の欧米帝国主義の洗脳工作の部分がある。

特に井上馨は、留学中に西洋文明に見せられてしまい、完全な欧化主義者になっている。

井上は、幕府の便宜的な親フランス派官僚よりも酷い欧化主義者で、
明治維新後に井上馨は、今までのヨーロッパを視察して、現地では日本人が
「見た目」によって半未開の人種として実は「珍獣扱い」されているという
事実から明治政府の政策として“人種交配計画”を実行しようとしていた。
積極的に白人との結婚や性交渉を奨励し日本で混血児を増やして見た目から
白人に近づこうとしたのだ。
こういう見かけだけの「欧化」に突っ走る元長州藩士の元勲がいたという事は、
それほど長州藩のナショナリズムは激しくなかったと言える。

340:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 03:57:10.61 0fClwfP50
>井伊直弼のやらかしたヘマは、朝廷軽視と安政の大獄だろう。

まあそうだけど、最大の失敗は、水戸藩のテロ攻撃が迫る中、刀を結び付けていた事だと思うぞ。

>>334
長井雅楽の“航海遠略策”を言っているが、これは大攘夷と言うよりは
開国論と攘夷論の折衷案でどちらかと言うと開国論だ。
長州藩の尊皇攘夷派は“航海遠略策”に反発した、と言うが、
正式な藩論に採用されている事からこの時点の長州藩は、それほど攘夷派は強くないのだろう。
長州藩=攘夷派と単純に言うのはどうか?

>>335
真木和泉もそんな事言っているのか?
案外長州藩も便宜的ナ攘夷論者で単に政局の中心に座りたかっただけなのだったのかも。

341:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 06:37:15.14 dqxefsb10
攘夷実行した薩長、今即攘夷派の英雄が日本を救ったのだ。
攘夷実行の歴と功を都合よく無視し、挙句明治維新は薩長や攘夷派の単なる便宜的陰謀だったかのような、歴史改変捏造するのが売国の常。

新政権は開国はしたが、そもそも攘夷論と開国鎖国論は同じでない。
初期こそ鎖国は国是と思われてたが、途中から徳川幕府が成立した法でしかないと認識されてる。
流れから開国は避けられない必然で、問題はどの様に開国するかの問題でしかない。

和親条約は単に開国し、互いに外交しましょうという普通の外交条約に過ぎない。
次に結んだ日米修好通商条約が、攘夷派を急進論にしたのである。

日米修好通商条約は不平等な条約で、日本にとって著しく不利な条約である。
さらに国内的に朝廷の許可なく結び、対外的には侵略者の害夷の脅しに屈し無策で結ばされた。
この為に、国内経済は物価高で無茶苦茶になり、金銀を消失し、国民は苦しみ、植民地国の例に従い植民地手前の危機。

攘夷論は日本を害夷から守れという当然の論でしかない。
清国や、世界の植民地化された国々は、皆害夷との通商開国で植民地化されたのだ。
開国するのも、よほど上手く開国できなければ、他国のようと同じ道に過ぎない。

徳川は日米修好通商条約の結んだ時点で、もう命運と政権担当資格を失ってる。

その後不平等条約改正(破約攘夷)は薩長主導の新政府が半世紀以上の時間と血と労力をかけて改正を成し遂げた。

>>339
井上は不平等条約改正に苦心し、批判された鹿鳴館や極端な欧化政策を取ったが、そんな訳の分からないことはやってない。
目的は破約攘夷だ。

342:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 07:08:48.36 dqxefsb10
自称大攘夷開国派とやらは、単なる腰抜けでなんら大した役にたってない。

便宜上「開国して大攘夷だー」だの言ってるだけで、実態は幕府の失策を誤魔化しこれまでの行動を追従してるだけ。
航海遠略策などは実態を見ない、実践のない、単なる議論上便宜上のみで通じる空論、と見抜いたのは急進攘夷派の久坂玄瑞。

「英仏の力をほしいままにして皇国に向かい、干戈を用いざるは、支那の長髪賊の勢威はなはださかんなるゆえなるべし。
万に一も長髪賊、英仏に屈せば英仏の我に寇すること必然ならむ。
幕吏の穢き心もちたる奴らは戦いをおそれ和を唱えて、まず武備を整えてのち攘えしと・・・されど、癸丑の頃よりすでに十年の久しきを経ぬるに、器械何ほど整いたるか。士気何ほど奮いたるか。」と批判してる。

久坂は国際情勢を計り、害夷は清国の乱に手こずってるが、侵略の芽はいずれはこちらに向かってくる。
幕府の奴らはそれをよい事に、ただ戦いを恐れ、口先だけで航海だの武器を整え攘夷だの10年も述べてる。

「西洋諸国といえども、魯王のペートル、米利堅のワシントン師の如き、国を興す者の事業を見るに、是非とも百戦中より英傑起り、議論に定まりたる者に非らざれば、役に立たざるものなり。」
「これ非共早く一旦戦争を始めざれば、議論ばかりになりて事業は何時までも運び申さず」

と攘夷を経ずしてでなければならないと結論つけてる。
象山や福沢諭吉など開国派は、ただ外国知識があったってだけ。
攘夷論者の松陰や久坂や高杉や大村などと違い、大した人物でなく大して事もしてない。
会津に至っては、薩長憎しの私怨で北海道を売り飛ばそうとした。

ハッキリ歴史の正邪を明らかにしないと。

343:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 11:43:09.52 sAQruKBA0

井上馨の「人種改良論」知らないの?

馬鹿だねw

ソース
 ↓
井上馨の欧化政策と現代日本の政治
URLリンク(www.ubsgw.net)

344:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 11:55:09.81 45pdrgeJ0
>>342
久坂や三条は孝明天皇に京都を追い払われてるじゃん。
あの頭のいかれたヤツらをどうにかしてくれって薩摩に泣きついて。

345:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 13:10:05.70 qtn+tQBd0
大東亜戦争は科学技術が発達したとこでもう一度、攘夷を試みたわけだね。
大攘夷も結局は失敗に終わり、「平和で民主的」な屁たれ戦後社会ができた。

346:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 19:23:12.40 RfmWIXDU0
>>343
そこで井上を激烈に非難してる鳥尾小弥太も長州藩士でっせ。
ぱっと見反対派が圧倒的多数って感じだが、高橋義雄vs加藤弘之とか
やり合ってたとこ見ると、それなりに盛り上がってたのか?
井上はそんなことを言ってる一方で、憲法についてはドイツ式でも
イギリス式でもなく日本の国情に合ったものをって持論で、
盲目的に欧米信奉かと言うとそうでもない。
伊藤のキリスト教一件といい、どこか焦りというか浮ついたというか
そんな所のある連中だなw
大久保や木戸の苦労が偲ばれる。

347:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 21:43:40.54 3OFAo5oM0
>>330
幕府に近代化と改革は無理。
もし出来ても日本が植民地になってる。
何故なら幕府は金がカラケツで、旧態依然とした組織を潰す事も出来なかった。
幕府の改革は全て欧米からの借金が前提になっており、
鉄道などもみな敷設権を欧米に認めるというもの。
あれほどの巨額の融資をしてもらって、それを無事返済できるとは思えない。
幕府は馬関戦争の賠償金すら払えず、欧米に利権を譲り渡していた事だしね。

借款ができないか、代わりに領土なり権益なりを大幅に失い、
その権益を守る為に、欧米の兵が駐留するという植民地化が関の山。

348:名無しさん@お腹いっぱい。
11/08/02 23:29:23.79 b133A+Xq0
松陰、久坂、高杉らは天才であり、対外戦である攘夷戦が内にも急進的革命を引き起こす事を知っていた。
通常の尊皇攘夷論はまず内を固めてから外を跳ね返す論だが、これは空論でしかない事を知っていた。
外を攻撃する事で内も固めるという機微を知ってる。
これを早い時期から知っていた久坂は、中岡によると第一に卓識なる者となる。

>>345
あれは単なるアメリカとの戦争。
国民も負けたのは単に産業と科学の劣勢、原爆が原因と思ってたとされてる。
それを捻じ曲げたのはGHQのプロパと、それに操られ踊らされた戦後左翼や日教組に過ぎない。


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