戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性についてat HISTORY2
戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について - 暇つぶし2ch1:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/28 23:59:20 gC95IlEA0
これは意外とありえると思う

2:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 00:28:32 UXu1cPOo0
北越戦争開始時までならチャンスはあったと思う。

3:名無しさん@お腹いっぱい。
10/09/29 01:56:15 gw1RT4FwO
鳥羽伏見の戦いが起きた時点で慶喜の計画は台無し、おまけにでかい口叩く会桑があっさり負けた時点でいろんな意味で逆転不可能

4:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/01 23:42:47 7WMZoviN0
>>2
榎本艦隊が新潟に無事到着して制海権を確保して、
河井継之助が西郷率いる増援軍勝つか冬まで持ち堪えるかしかないな。

いずれにしても相当ハードル高い。
そもそも無事に新潟に到着できるかが物凄く怪しいw

5:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/02 07:27:54 gBGEe+dC0
それ以前に、
榎本は徳川処分が終わり、自分が何をしても徳川家に迷惑が掛からない段階で蝦夷に向かっている。
新潟を守るなら、それ以前に江戸を脱走しなければならないが、脱走したらその責任を徳川家がとってお家断絶が有り得る訳だが。
それで榎本の武士道や正義感は問題視されないのか?

6:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/02 10:56:27 B0oUBzsT0
>>5
歴史を捻じ曲げて金儲けする会津観光史学の倫理観は問題視されないの?

おまえの事だ

7:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 17:06:57 kmEggSM40
せめて白河城ぐらいは防衛しきれないとお話にならないと思う。

兵力では優越してたんだしさ。

8:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/03 21:04:27 RR3OzfTX0
また会津観光史学がクソスレたてやがった。
ここも監視下におく。

9:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/06 00:24:55 llk3lk+y0
>>6
おいおい、俺は会津を叩く側だよ
会津ヲタが良く叫ぶ「榎本海軍が奥羽越後に来ていたら、会津は負けなかった」という暴論に対し、
「徳川処分が終わる前に、徳川海軍が戦争を始めたら徳川家断絶将軍慶喜は処刑になる。そんな事を幕臣の榎本がするわけねぇよ」と言いたかったんだ。
第一、榎本が会津や長岡を助けなけりゃならん理由もない。ただ、蝦夷開拓は静岡に行けなくなった幕臣を救済するという理由があった。結果的に函舘戦争になったがな。
早い話が、徳川と会津を一緒にするな。会津みたいに怨念と意地だけで戦争してた訳じゃないよ。と言いたい訳だ。

10:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/07 14:16:26 35Puge2NO
今の榎本スレの惨状を見たら会津厨と榎本好き(大鳥好きも)は相容れないのはわかるだろ

11:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/07 21:30:08 bkta/Q0r0
榎本スレ荒らしてるのは、どう考えてもアンチ会津だろ?
キチガイみたいに発狂してたじゃねえか

12:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/07 21:55:12 qNHCt7Rl0
吉外みたいなのは、会津が好きな人たちだったような気がする。
彼らに任せると、鳥羽伏見の緒戦の敗北も当事者ではなく徳川慶喜の数日後の撤退のせいにされてしまう。
歴史を語るものにとって、会津愛好者は悪例だろう。

13:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/08 20:19:37 tKNATR0VO
そもそも王政復古後の新政府のメンバーは
親慶喜派が多数派なんだから戦わないのが
ベストだわな



14:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/08 20:39:22 +5wIZd5iO
>>11
あれはどうみてもいつもの成りすまし君だろ
その他も病院絡みの事ばっかじゃねーか

15:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/13 23:39:29 lCBxZ6wy0
「天皇の世紀(9)」を読んでいるが、ちょうど鳥羽伏見の戦いのところで面白い。
薩長軍がぎりぎりの綱渡りを勝ち抜き、自然と天下の大勢を味方につけた事がよくわかる。
このスレにいる人にはお薦めなので、ほんの少しだけ紹介しよう。


・・・(中略)・・・
 戦闘は、正月三、四、五、六日と続いた。局部的には、幕府軍側が反撃に成功し、陣地を夜中保持したが、
大勢は今や京軍の作戦行動が広範囲の機動力で全面的に圧迫を加え、一日毎に敵の後退を促した。
 伏見の戦闘は、第二日には中書島、堀川右岸の郊外に出て、撃退に成功した京軍が追撃を怠った隙に、
会津軍は淀に退いて、戦闘の中心は鳥羽方面に移り、幕府軍が退いて防備した富ノ森の攻防に集中せられた。
これは代表的な戦闘となって、彼我の運命を大きく決定した。
「午前七時頃、鳥羽本道隊は昨日伏見から転身してきた新手の篠原藤十郎(国幹)の三番隊と大山弥助(巌)の二番隊とを前軍とし、
少距離をとって、五番、六番隊、一番砲隊、長(州)第三中隊の順序で前進し、外城二番隊は横大路に止まり、予備隊となった。
横大路を通過した三番隊は、村端れに出るや、前方六百メートルの富ノ森の敵陣地から砲火を受ける。
直ちに本道の左側に散開、前進したが、この地は前日(大)坂軍の槍隊や抜刀隊の潜伏、突撃を受けた所だから、
予めこれに備えて、左側やや前方に約一分隊(二十名)ほどを出し、側面援護に任じた。
かくて敵前二百メートルくらいまで敵火をおかして前進したが、激烈な鉄砲火を受けるので、ついに三番隊も停止し、銃火を開いた。
 続く二番砲隊も村端れに出るや、横隊となって前進、三番隊の近くまで弾雨の中を進んだが、
三番隊の停止を見て二番砲隊もややその後方畑地に陣地を占領し、酒樽台場に向かって砲撃をはじめた。」(大山柏「戊辰役戦史」)


16:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/13 23:40:58 lCBxZ6wy0
 酒樽陣地は、酒造用のたるを徴発し、畳、木材その他で、この地に胸哨陣地を築いたものである。
「最初から陣地にある敵砲四門から射撃して来るので苦戦し、最初は伏臥射撃(原注・用済み砲手は直ちに伏臥する)で砲火を集中したが、
中々制圧できない。本隊の先頭に在った小銃五番隊は本道の右に、更にその右翼の狭小なる地域に無理に六番隊と長第三中隊が割り込み、
一番砲は二番砲の右に並んで砲車間隔なく密列して陣地についた。しかし敵は甚だ頑強で、十余門の放火をもってしてもこの不完全台場を破れない。
ややもすれば、かえって躍動出撃を受ける気配すらある。ここにおいて大山隊長は、その小荷駄の二十ドイム臼砲を取り寄せ、射撃を命じた。
 三番隊が停止して射撃を開始するや、秘かに突撃の機を窺っておった会(会津)軍槍隊の一軍は『時至れり』と突然草叢中より踊り出で、
三番隊の左側援護隊に喊声を挙げて突込んで来た。だが三番隊には備えがあった。援護隊の連中は狙撃兵若干名のほかはいずれも腕に覚えの剣士ばかりだった。
突撃を受けるや『何を!』とばかり立向かい、忽ち格闘となった。傍らの狙撃兵が小銃でお手伝いするので、忽ち会兵勇士はバタバタ斃され、
ついに突撃は成功しなかった。」
 近代的銃砲戦と、古風な軍記物のような一騎打ちの白兵戦との混り合いであった。
「会兵は新手を入替えて突撃を反復したが、その都度迎撃され、流石武勇を誇る槍隊も歯が立たない。
実は前々日からの戦闘で強豪を多数失い、その質が低下していた。しれぶ会藩最強の別撰組主力はこの日伏見街道に在り、
僅かに一小部しか参加せず、これも数回の突撃で死傷者が続出したからこそ、突撃が成功しなかったのである。
一方、薩兵も前日に懲り備えを立ててあったので、柳の下の鰌はもう取れなかった。
 今度は手を替え、四、五名ずつで三番隊の後方を隠蔽匍匐して、二番砲隊の左側へ躍り込んだ。
二番砲隊はその時、山砲とその後方の二十ドイム臼砲とを併せ撃っておったので手一杯のところへ躍り込まれた。
だが二番砲隊随一の豪のもの伍長川上万助は手を負傷しておったが、会兵の突進を見るや、手槍を取って立ち向かった。
流石は梅田流槍術の達人、『チェストー』と薩人独特の掛声もろとも、先頭の会兵をただ一突きに突伏せた。
次に来た一名は川上の後方から伊東強右衛門が小銃で撃ち倒し、続いて来るものは、川上がまたも渡り合い、『エーイ』と突き出す手練の一突き、
敵は受け損じて胸板を貫かれた。残りの人も斃されて砲隊は事なきを得た。これは戦闘の間における些細な小闘に過ぎないが、
この教訓は砲隊にその両翼警戒を痛感せしめ、本役以降、砲隊には砲護兵と称する歩兵一分隊ぐらいを専属せしめることとなった。」
 二番砲隊はこの騒ぎで動揺したが、直ちに立直って、二十ドイム臼砲の威力を発揮し、出撃せんとする敵を散乱せしめて陣地に封じ込めた。
しかし戦況はうごかず、午前七時から始めて、正午になっても発展しない。


17:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 00:02:51 qRGK5cLw0
「わが(薩軍)右翼では敵の抵抗は割合弱いが、その地は桂川の流域で処々に水溜りが在り、容易に前進できない。
かつ、ここは淀北端の納所(地名)に在る敵の第二線陣地(距離約六百メートル)から砲撃を受けるので、
これも前進の妨げとなっている。また遥か東南のの伏見街道にも断続的銃砲声が聞こえる。
また横大路におった予備の外城二番隊は、会兵の潜伏、白兵突撃を見、三番隊の左側を援護する如く、
密集隊形で三番隊の左翼後方に進み、敵の白兵突撃に備えながら、正面敵陣地の右翼を攻撃した。
 二番砲隊は景気よく射撃した結果、砲側の弾薬を使用し尽し、横大路まで前進しておった小荷駄の予備弾薬をもって補充したが、
これも刻々減って来る。大山隊長はついに意を決し、抜刀して『砲を捨て、銃をとれ!』の号令を下したため、
砲隊は忽ちにして小銃隊に早替りした。続いて『散開前へ』で、歩兵線を乗越え、敵の銃砲火中を一意前進し、
ついにそのまま敵の陣地へ突込んだ。砲隊の小銃前進を見た両隣の小銃隊は、共に天下無敵を誇る篠原三番隊と野津五番隊、
何でこれを見逃そう。『砲隊に遅れては小銃隊の名折れ、われ遅れじ』と突進したから、期せずして前線の総攻撃を誘発し、
さしも頑強に抵抗した幕、会兵も(前夜野営の際)みずから破壊した不完全台場では持久し得ず、
この突撃に遇って脆くも敗れ、納所の第二線陣地へ敗退した。」(大山柏「戊辰役戦史」)
 富ノ森は、かくして薩軍の手に落ちた。三番隊長篠原国幹は後の西南戦争の勇将、五番隊の野津道貫は日露戦役の軍司令官、
大山巌は満州軍の総司令官で、共に元帥と成った人々である。
「この富ノ森へ二番砲隊が小銃突撃する少し前、大山隊長は右耳を撃ち貫かれ、今日の止血包帯の意で手拭をもって頬冠りした。
かくして頬冠りのまま陣地へ突入したのが、他隊の人々には何ゆえか判らなかったので、当時『弥助どんの頬冠り斬込み』
と言ってもてはやされた。」
 富ノ森を占領して、部隊を整備した後に、薄弱となった敵の小銃火をあびながら、前進し、地域が狭いため自然に密集しつつ、
淀の北端の納所の敵陣地に突込んだ。敵は陣地を放棄して退却し、午後二時には、淀の前線を確保して、なお攻撃前進を続けた。
富ノ森の抵抗を破ったので、道が開けたのである。

18:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 11:31:03 FF1kUY+B0
鳥羽伏見の戦いは本来勝てる戦い。

幕軍は、洋式歩兵 5個連隊、伝習1個大隊他に撒兵隊等もおり、薩長軍を圧倒していた。

敗因として幕府側の慢心と指揮命令系統が確立されていないのと総指揮官の問題。
最低限、臨戦態勢を持って望めばあのような負け方は無かったでしょう。
私なりに考えると、伏見の奉行所周辺の要地を事前に押さえるか、押えられてしまったら伏見市街地は放棄し、鳥羽方面に集中させればと思います。


「幕府歩兵隊」著者の野口武彦氏が書いた「鳥羽伏見の戦い : 幕府の命運を決した四日間」
と言う本が出ているので私もまだ読んでませんが、読むといいかと思います。


19:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 11:55:43 KR7trXofO
また会津観光史学の妄想か

20:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 13:00:09 AOlmBJgP0
>>18
>敗因として幕府側の慢心と指揮命令系統が確立されていないのと総指揮官の問題。
>最低限、臨戦態勢を持って望めばあのような負け方は無かったでしょう。

鳥羽伏見の戦いにおいて、旧幕府軍の戦術は前近代の立ち遅れたものでした。
優勢な火力を所持していながら、見通しの利く場所での無為な密集突撃で部隊指揮官もろとも消滅してしまったのですから。

旧幕府軍を勝利させるなら、
1.人数上の優勢を生かすために進路を分散させる
2.臨戦態勢で進軍する
3.命令を混乱させただけだった瀧川・竹中は更迭する
4.突撃戦法は無意味なので、これを指導したフランス軍将校も更迭する

これだけのことが、事前に必要でした。

21:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 15:27:34 akbiAXF30
タイトルは「鳥羽伏見の戦い 幕府軍勝利の可能性について」
にしといた方が良かったんだろうなあ。


22:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 17:38:06 FF1kUY+B0
>20
>見通しの利く場所での無為な密集突撃で部隊指揮官もろとも消滅してしまったのですから
これについては当時いたしたかなかったのでは?
南北戦争でも同様の問題はありましたしね。
密集戦法でも良いが、優勢な戦力を先鋒・中備・後詰と的確に配置し連続攻撃していれば突破できたはず。
戦国時代の武将に統帥させても勝てたのでは?

当時は戦術の過渡期でもあり、操典に忠実にやるよりも、士気の高い武士に洋式銃持たせ戦闘レベルは適当に戦わせた方が有効という見方もできる。
討幕軍や幕府脱走軍も徴寡歩兵隊除けばそんな戦い方している。
当時幕府には、歩兵役になるうる士気の高い武士が少なかったのも問題ですが。

23:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 18:00:26 4hz5pFUF0
会津観光史学に洗脳されるとここまで妄想が酷くなるのか

24:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 18:10:27 e/DNAESVO
>>23
成りすまし君理解出来ないからって観光史学呼ばわりするのはマヌケだよ

25:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 18:53:42 AOlmBJgP0
>>22
>密集戦法でも良いが、優勢な戦力を先鋒・中備・後詰と的確に配置し連続攻撃していれば突破できたはず。

それにしては、前線司令官は全滅した上に部隊は四散し、連続攻撃しようにも続かなかったのですが。
旧幕府陸軍が当時引き連れていた兵数では、密集戦法は無理だったのだと結論付けざるを得ません。

砲支援のない単純な密集突撃は、ライフル銃登場前の、銃の射程と威力が増す以前の戦法で、
これを採用したフランス軍将校は、以後の本国の戦闘でも敗北を喫しています。
彼らは敗北を見て改めない、無能な人間であったと私は思います。
彼らの指導には誤りがありました。

26:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 21:28:04 FF1kUY+B0
>25
鳥羽側の薩長側戦力はせいぜい2千、しかも恒久陣地を構築している訳でもく充分な砲が有った訳でもない。
幕府側の戦力は当初どおりでも5千以上、但し上洛途上での戦闘を想定していない指揮系統が別な3梯団に別れていた。
兵数不足というよりも、全体統制されない各部隊が狭い地積に集中して混乱したという構図。
近代も、中世も関係なく、鳥羽方面の指揮官を決め先鋒・中備・後詰と振り分けるだけで良かった。

当時、幕府に限らずきちんとした散兵戦法とれる部隊があったのか?
幕府以外は洋式調練も小隊どまり、また洋式教練不十分な武士に洋式銃持たせただけなので、結果的に散兵的戦いに成ったというのが実情では。



 

27:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/14 21:57:09 AOlmBJgP0
>>26
>しかも恒久陣地を構築している訳でもく充分な砲が有った訳でもない。
砲支援も無く前進した旧幕府歩兵の稚拙さをレトリックでごまかそうとしても、それは無駄というものです。

>幕府側の戦力は当初どおりでも5千以上、但し上洛途上での戦闘を想定していない指揮系統が別な3梯団に別れていた。
>兵数不足というよりも、全体統制されない各部隊が狭い地積に集中して混乱したという構図。
>近代も、中世も関係なく、鳥羽方面の指揮官を決め先鋒・中備・後詰と振り分けるだけで良かった。
兵士を集めているだけで、砲支援も無く、一日中突撃を行い部隊もろとも消えていった旧幕府軍現場指揮官は、馬鹿そのものですね。

>当時、幕府に限らずきちんとした散兵戦法とれる部隊があったのか?
>幕府以外は洋式調練も小隊どまり、また洋式教練不十分な武士に洋式銃持たせただけなので、結果的に散兵的戦いに成ったというのが実情では。

長州勢は押し出し候節は銃隊は駆足並にて押し来り
発泡の矢頃に至り候えば太鼓打ち止め直に散兵と相成り
銘々物陰を撰びて手早く身を隠し顔ばかり出し発泡致し
匍て進み寄り候
(小倉城陥落時 加賀藩士高嶺清八・岡田助三郎報告)

これを見る限り、薩長側に散兵戦術があり、旧幕府軍には前近代的な密集突撃戦術があったようです。
洋式教練不十分な兵士とは、旧幕府軍及びフランス軍顧問団の側ではないかと思われます。

28:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/15 23:19:13 WMlxBtvV0
小倉戦争の大敗北で、戊辰も負ける。
戦争での勝利の要素に民衆が官軍側に支持というのもある。
抑圧的で異国との不平等条約に弱腰な幕府より薩長という世論。
関西~関東まで、官軍に商人、民衆は援助し応援した。

あと、大村益次郎がいるので、勝ち目はない。

29:名無しさん@お腹いっぱい。
10/10/16 15:21:43 8CUUvE4Z0
>>27
幕府も歩兵隊は散兵戦術使えたのでは。
伏見でも、突撃してるのは会津や新撰組ばっかだったような。
歩兵隊は指揮官が不用意に前線に出て撃たれまくってるね。

>>22
伏見戦での官軍の戦法を見ると、十分な厚みがある部隊は前列は銃剣を装着し、
後ろの段列が射撃を担当する。
十分な厚みのない部隊では、敵の突撃を受けたらさっさと足止めして撤退する。
たとえば新撰組の永倉が、手薄な側面から迂回突撃したが後者の方法でスカされて撤退してる。

まぁ完全に効果がない訳ではないが、犠牲が大きすぎるんだな。
死体を乗り越えて遮二無二突撃しろって、言うのは簡単だが……

30:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/02 13:52:57 rA6bcckk0


31:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/08 09:06:04 rxsyMfOz0
散兵戦術をするのは幕府軍には無理。
武士は士気が低く、江戸周辺のちんぴらごろつきを集めて作った集団に、
幕府の為に戦えといったら、指揮官から離れて戦ってくれるわけがない。
長州の場合は、士気が高く一人になっても戦える兵士だったから、散兵戦術ができただけ。
また十分な練度が必要、長州は四境戦争前から調練していたわけで、
それを一朝一夕でやれというのは無理。

つまり幕府軍は密集突撃をしないと軍が維持できず、そのまま離散してしまうという事です。
軍を軍として維持するのはとても大変なんですよ。
つまり戦術としてそれしか選べなかったのです。
そしてそれを選べば負けるしかない、つまりどうあっても歴史は覆らないという事です。


32:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/08 23:53:21 +axvrfwGO
バックがフランスじゃ勝ち目なしだろ

33:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/09 00:18:39 AQVbnx7m0
ナポレオン三世(仏第二帝政)1970年崩壊→イギリスへ亡命(実体は英の傀儡政権)
小栗信者は馬鹿過ぎで旧幕府系も勝ち目なんか無い。


34:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/09 00:27:34 AQVbnx7m0
>>33
1870年でした。

35:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/09 02:51:20 ntDovhTiO
幕府軍の兵力は薩長を上回っていたというが
本当に戦う気があったの会津や桑名など極一部だけだったから実質的な兵力差は余りになかったんだよな
その上で戦術、指揮能力等も薩長以下なんだから勝てる分けない

36:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/09 08:23:17 suVBidDc0
浜田藩や小倉藩や松山藩も必死で戦ったのになあ

37:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/09 13:22:03 v8FPw4b90
長州征伐なら、肥後藩も頑張ってたような……
いくら援軍要請しても誰も来ないからブチ切れて帰っちゃったとか

38:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/09 21:24:12 apnL3ctq0
鳥羽・伏見の戦いだが、開戦直前時の朝廷の命令は
「会津・桑名は罷免間もないので上洛を認めない」
「大軍を連れての慶喜上洛は人心が動揺するので見合わせるように」
だったんだよね。

朝廷はあと一歩で軟化して、「徳川慶喜は会津・桑名以外の軍なら連れて武装上洛して良い」
になる可能性があった。
会津・桑名は尾張・越前ら小御所の諸侯に警戒されていたので、薩長は会桑を名目に旧幕府軍の行動に制限を加えようとした。

会津・桑名(含新撰組・見廻組)を鳥羽・伏見の戦いに参加させてはいけなかったのではないか。
先発隊は別の藩にやらせておけば、薩長軍が戦いを仕掛ける口実がなかったのではないか。

39:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/25 00:15:14 qnA7xPKt0
>>38
会桑は当然だが、「大軍を連れての慶喜上洛は人心が動揺するので見合わせるように」と言われているのだから、軍隊を連れて行くのは駄目だろw。
朝廷からはさらに「普段と同じように上洛せよ」と言われている。供連れは構わないが、その供が鎧着てちゃ駄目だ。鉄砲持っているなどもってのほか。
ごく普通の大名行列だったら戦にはならなかったろう。


40:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/26 01:36:42 7ZKtBKsM0
会津・桑名は当時朝廷を押さえていた諸侯から復帰を警戒されていたので、
彼らの軍を上洛させるのでは、諸侯の旧幕府への賛同は得にくい。

旧幕府軍は、別の藩兵を使うべきであったのではないか。
旧幕府贔屓の人が言うように、旧幕府軍は兵力で圧倒的に優位だったという主張があるなら、
尚のこと会津・桑名は後詰であるべきだろう。

また、他藩の兵や幕府歩兵の後備が動かせる状況ではなかったというなら、
圧倒的優位という口上は看板倒れで、徳川慶喜の逃亡も責められない。

41:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/26 22:07:32 eJVFTaan0
他藩兵というのであれば、二条城に水戸藩兵が入り、京都警備に薩長に交じって土佐兵、尾張兵がいる。
薩長はともかく、土佐と尾張は幕府軍から”味方”と思われていた。また、大津に幕府軍先鋒を担ってきた彦根部隊が布陣していた。
そういう意味では、旧幕府軍は潜在的味方を考えると別にわざわざ会桑を上洛させる必要は全くない。
武装した徳川兵も不用。尾張徳川兵がすでに京都にいるし、幕府政治総裁職の春嶽率いる越前福井兵も親徳川の山内容堂の土佐兵もいたのだから。
彼らが、なぜ薩長に味方したかと言えば、第一日目にあっという間に徳川が負け、錦旗が出てしまったから。出る前までは、味方だったよ。

42:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/26 22:21:10 7ZKtBKsM0
「味方」という言葉を都合よく使い分けているようだが、
小御所に詰めていた諸侯にとって、土佐藩士らを多数捕縛殺害し、御所を過去に押さえていた会津・桑名は「味方」ではない。
また、大政奉還後の彦根藩は、朝廷の命令が旧幕府より優先されるとして行動していた。

会津・桑名主力という行軍形態は、一番当時の京都へ行軍させてはならない、最低の選択だった。

43:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/26 23:57:32 eJVFTaan0
会桑を京都へ行かさなくても、徳川兵が武装して京都へ進軍すりゃ同じ結果だと思うけどねw
普通に大名行列作って行けば良いだけでしょうにw。
そもそも、戦争を目的に京都へ兵を出せば会桑がいなくても阻止されますよw


44:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/27 00:09:26 45hOeWZa0
戦闘を意図したにしては、昼下がりに鳥羽・伏見に到着してから
街道に関を作っていた薩摩軍との交渉が決裂したと看做して、夕暮れに行軍を再開しても、
一切戦闘隊形を作らなかったという粗忽ぶり。

それくらいなら、戦闘員なんて送らずに大名行列で京都へ向かった方がマシ。
鳥羽・伏見における旧幕府軍は、何か勘違いしていたとしか思えない。

45:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/27 00:23:31 4beM0hYr0
1.鳥羽伏見直前期、「会桑に何の罪があって、彼らのみを帰国させるのか?彼らも上洛して然るべき」と論難し、
  薩長をタジタジにさせた論客が土佐藩山内容堂公だという事実。
2.会津桑名が殺した土佐人の多くが、土佐脱藩の下級武士郷士の尊攘派。
  その土佐尊攘派の最大派閥、土佐勤王党は山内容堂自身が弾圧壊滅させている事実。
3.薩長に同調して挙兵しそうな土佐上士指揮官クラスの板垣退助らは、山内容堂自身が「国元へ帰っておとなしくしていろ」と命じ、
  鳥羽伏見の戦い時、京都にいない事実。

以上の事実により、土佐藩が会津桑名を嫌っているとは限りません。
まぁ一部土佐藩士の中に会津桑名を嫌っているヤツはいるだろうけれどもw


46:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/27 00:37:00 45hOeWZa0
色々書いてはいるが、全て山内容堂一人の行動じゃないか。

実際この時期の記録を見ると、容堂の姿勢に土佐藩邸が嘆息したというものもあり、
容堂を土佐藩内に返せという意見も記録されている。
容堂が一人、土佐藩で浮いていたんだよ。

47:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/27 08:06:48 q/IW3FMY0
容堂一人というが、土佐藩を代表しかつ土佐藩政に与える影響も大。
参政後藤象二郎も容堂の支援無しには何一つ行動を起こせない。
そういう意味では、土佐藩=容堂であり、よって土佐藩が会津桑名が来たら敵対するとは限らない。


48:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/30 13:43:25 MD+nIVBG0
土佐藩がどう動いても歴史はかわらんよ。
粛清対象に土佐が入るだけ。

49:名無しさん@お腹いっぱい。
10/11/30 19:34:00 C6SXcoip0
土佐藩が藩を挙げて公武合体に進んでいたなら、まだ慶喜にも勝ち目はあったかもしれないよ。

しかし当時の記録を見る限り大政奉還の頃には、幕府側の史料で土佐は悉く倒幕に靡きなどと書かれているので、
慶喜側の接近策は容堂一人にしか効かず、土佐藩は討幕路線一辺倒だったのだと分かる。

坂本龍馬暗殺も、会津藩の意図していた土佐と薩長との連絡役を潰すという効果ではなく、
身内を幕府勢力に殺されたことによって、土佐藩を薩長へに接近させる結果を生んだ。

大政奉還をしないのなら幕府は政権として突っ張れたし、
会津桑名が大政奉還絶対反対路線でまぜっかえさなければ、妥協の余地もあった。

幕府側の不一致が、旧幕府勢力が徹底的に敗北するまで追い込まれた原因でしょうね。

50:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/01 00:15:37 jtmgzPOs0
>>49
それは微妙な意見だな

>幕府側の史料で土佐は悉く倒幕に靡きなどと書かれているので

鳥羽伏見直前の段階では、逆に幕府側から味方だと思われていたよ。
王政復古に協力した土佐藩だが、鳥羽伏見では佐幕派からかなり期待されていた。
事実、会津藩先鋒の林隊が土佐隊と接触した際、土佐兵は「自分達の警備以外の地域を通るなら構わない」と返答し、
会津林隊は土佐兵を迂回し、命じ政府軍警戒線の遙か後方の薩摩藩邸を焼き討ちしているw。
土佐が討幕路線一辺倒なら、あり得ない事だぞw。

>身内を幕府勢力に殺されたことによって、土佐藩を薩長へに接近させる結果を生んだ

まだこだわってんのかよ。
会津桑名が殺した土佐人ってな、何度も言うように土佐脱藩郷士や下級脱藩士ばかりだってのw。
土佐勤王党をぶっ潰した上士の後藤象二郎や山内容堂にとって痛くも痒くもないの。
ただし板垣退助は上士だが激烈な倒幕派だから、こいつ等が会桑を嫌っていただけでしょうにw。
第一、土佐が武力討幕一辺倒なら大政奉還なんて建白する訳ねーだろw。


51:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/01 01:21:22 78MXUw0t0
>鳥羽伏見直前の段階では、逆に幕府側から味方だと思われていたよ。
>王政復古に協力した土佐藩だが、鳥羽伏見では佐幕派からかなり期待されていた。
>事実、会津藩先鋒の林隊が土佐隊と接触した際、土佐兵は「自分達の警備以外の地域を通るなら構わない」と返答し、
>会津林隊は土佐兵を迂回し、命じ政府軍警戒線の遙か後方の薩摩藩邸を焼き討ちしているw。
>土佐が討幕路線一辺倒なら、あり得ない事だぞw。

後方に回ってみたが味方も続かず指示も来ず、改めて伝令を出したら、「戦力が足りないので帰還せよ」だったので
何もせず引き返した、と会津側の証言には、指示を出した幕府側への恨み言と一緒に載っています。

何が焼き討ちしたですか。嘘をつくからあなたの証言は信じられないのです。

52:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/01 01:37:16 78MXUw0t0
大体あなたの味方認定は、
会津に都合のいいように、勝手に他人の言行を盗んで会津の功績にした挙句、
龍馬暗殺や神保切腹強要など、会津の恥部へは
味方なんだからあいつらのせいだ、容保サマは清廉潔白です、と押し通すだけで、
味方に認定されても、ちっとも喜べません。

大目付の永井に龍馬暗殺の罪をなすりつけようとしたり、
山内容堂や後藤象二郎が龍馬暗殺の真犯人だと言い張ってみたり、
神保切腹は徳川慶喜のせいだといってみたり、迷惑この上ありません。

しかもその場その場の言い逃れで全体として整合性がなく、会津を庇うだけで混乱を作ろうと画策する。

53:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/01 02:02:55 Ag9/aZ2g0
え?おまいらどこでそんなに歴史勉強してるの?
ウィキ?

54:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/02 17:34:54 n+UR6Ynz0
>>47
当時はそこまでの影響はないよ。
他藩と繋がっている志士連中のほうが発言力は強い。
土佐がいなくても維新はなってしまうんだよ。残念な事にね。
そしてそれがわからないわけじゃないから、結局は迎合せざるをえない。

55:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/03 01:05:58 irSIFOb5O
大政奉還前の時期でも土佐藩の上士は9割が佐幕派
一方郷士以下はほぼ勤王家
ソースは佐々木高行の日記

56:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/03 01:06:35 Kxf3RBmDO
佐賀と福岡に山口の尻を襲わせれば勝てた

57:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/04 22:36:03 4KPU7tet0
会桑が失脚しそうだったから武装上洛煽ったとか
そんな単純な問題じゃねーの?

58:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/20 07:02:05 ARj0ewBP0
>>13
禿同!

慶喜は、大阪城で待ちながら、尾張藩や越前藩、土佐藩の多数派工作を見守っておればよかった。
何も正月早々から戦争はじめることは無かった。

岩倉を含めた公家連中は、徳川との戦争回避に躍起になっており、慶喜の議定就任と
新政府参加を認める立場、また、皇族議定が、新政府での下級藩士の活発な活動や
発言の多さを批判する意見書を提出し、岩倉を批判し出した。
その結果、下級藩士がメインの参与と大名や公卿、皇族中心の議定の会議は別々に開かれる様になり、
参与会議は下院、議定会議は上院、と言われ始める状態にまでになっていた

まだ新政府に参加していない、阿波藩、福岡藩、熊本藩が御所からの軍隊引揚を薩長側に要求するし出した。

これらの事から見て。幕府側が薩摩のテロ活動による挑発に乗ってしまったのが、最大のミスだろうな。

西郷も、徳川家との戦争は3月か4月ぐらいだと考えていた。
慶喜も4月まで開戦を引っ張ってストーンウォール号(甲鉄艦)を入手してから
開戦すればよかったのにな、甲鉄艦が手に入れば、徳島沖海戦はでは、薩長の艦船を
全部沈める事できたであろうに。
甲鉄艦を含めた大阪湾の徳川海軍は、薩長側の広島藩の広島城かその城下を艦砲射撃で
焼払う事もできたであろうに。

59:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/21 09:44:22 qNVEjICi0
無理。
鋼鉄艦の砲門数知ってていっているのか?
ちなみに四カ国艦隊のときは200門くらいあるからな、
それでも艦砲射撃では長州側の砲撃を止めれず海兵隊が上陸して砲門壊してまわったくらい。

60:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/24 02:31:38 WHfF2MaE0
>無理。 鋼鉄艦の砲門数知ってていっているのか?

ストーンウォール号の凄いところはな、速度と船体の丈夫さなんだよ!

鋼鉄の船体で敵船に体当たりして、ジャンジャン沈める。

>艦砲射撃では長州側の砲撃を止めれず

長州の対艦砲撃は、薩英戦争の時とは違い、全然当らなかった。

あと判っていない様だけど、薩摩は長州と違い、藩上げての対幕府戦争に
賛成している訳では無いからな、国許では対徳川戦には反対の意見が強い。

ついでに機関砲も付いているので、敵艦の乗員をバタバタ殺せる。

61:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/24 02:33:17 WHfF2MaE0
(修正)
ストーンウォール号の凄いところはな、速度と船体の丈夫さなんだよ!
鋼鉄の船体で敵船に体当たりして、ジャンジャン沈める。
ついでに機関砲も付いているので、敵艦の乗員をバタバタ殺せる。

62:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/24 08:20:15 P6jS0ojh0
>>60
だから艦砲射撃で城下を焼き払うとか無理っていってんの。
ちなみに馬関戦争の時の長州の砲はがんがん当たっているよ。
英国の旗艦はマストも折れて、艦長以下士官が数人殺傷されているし、
死傷者も連合艦隊のほうが多い。

ちなみに連合艦隊は17隻もいるからな。幕府海軍にこれだけの規模があったのか?
ちなみに幕府海軍は幕長戦のときに、長州海軍に追い回されてなにもできなかったからw

63:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/24 08:38:00 yUDCABTj0
幕府海軍は、全部で12隻です、ストーンウォール号を幕府が入手すれば13隻。

榎本艦隊は、7隻で出航しましたが、小型船舶や古い船は見捨てて出港しました。
榎本艦隊7隻には、3千人の旧幕府歩兵が乗船しています。

ちなみに長州藩を攻撃した4カ国連合艦隊は17隻の軍艦には5千人の兵隊(水兵・乗組員も含め)が乗船しています。

64:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/24 08:52:05 yUDCABTj0
幕府海軍は、長州藩海軍相手にそんなに戦っていない。
むしろ補給艦としての役割を負っている。

薩摩海軍を当初海上戦闘を負担させる予定が、参戦しなかったために
幕府海軍が、その代わりをしている。

65:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/26 05:11:40 mSbK/uy30

結果論だけど、徳川慶喜は、戊辰戦争なんてやらずに
越前、高知、尾張の3藩に議定会議の多数派工作を任せて置けばよかったんだ。

大政奉還や王政復古のクーデターの時点で江戸に帰る、という慶喜の選択肢が有ってもよい。

66:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/26 05:23:02 1SK/h1lZ0
徳川家の新政府入りできても、これまでと程遠い扱いを受けることが確定な会桑が暴徒と化してるからな
あの時点の一会桑は一橋と会桑に相容れないものがある

67:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/26 07:36:12 kvsjCUNx0
>>65
いや、あのな…
慶喜は戊辰戦争なぞ望んでいなかったし、開戦する気もなかったよ。
単に朝廷から上洛して謝罪しろと言われていたから、そうしようと思っていただけ。
実際、そうしたならば明治政府に参与として参加できると福井土佐尾張藩から聞いてたし。

そうさせなかったのは、会桑そして幕臣の主戦派でしょ。
彼らは「上さま(慶喜)を刺し殺してでも、戦争する」と息巻き、老中板倉をして「もう抑えがたき」と言わせた。
結局、慶喜は上洛の共連れとして上洛を許可したが、戦えとは命じていない。あくまでも慶喜上洛の御共だったんだよ。
彼らは慶喜に無断で勝手に開戦し、戊辰戦争を勃発させ、そして勝手に負けた。

そして今、会津の研究家は叫ぶのさ「軍隊を京都へ送っておきながら、最後まで戦わなかった無能将軍」とね。
会津の記録だけを信じ、慶喜の記録は「真実を告白していない」と頭から信じていない。
そういうことさ。


68:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/29 11:04:59 W4TDduM30
>>67
慶喜は、幕朝戦争を回避したかったであろうが、対薩摩藩限定の戦闘ならそうでもないぞ。
討薩表なんて物を書いているんだし。

ただまさか、鳥羽伏見で薩摩・長州藩と戦闘になるとは思っても見なかったらしい。
慶喜は、京都御所や在京藩邸を拠点に京の中で薩長と市街戦になると思っていた。
鳥羽伏見では幕府軍は、弾を込めずに整列縦隊のまま突っ立っていたら、
いきなり薩摩軍から砲撃と一斉射撃を喰らい、初っ端から大打撃を被った。

明治政府の参与じゃなくて議定じゃなかったけ?慶喜に約束されていたポストは、
しかも福井・土佐・尾張の三藩は、皇族議定に総裁を関白に変更し副関白(副総裁)に
慶喜を任命するように根回しをしていた。

これは、
皇族議定が、新政府の参与に任命された下級藩士や下級廷臣の活発な活動や
発言の多さを批判する意見書を議定会議に提出し、岩倉を批判し出した事に
目をつけた山内豊信の作戦だった。豊信は、王政復古のクーデター以前の慶喜
の摂政任官計画を復活させようと、薩長や岩倉に批判的な皇族議定に的を絞り、
慶喜を議定よりも上位のポストにつけて三職会議を事実上の諸侯会議に改変し、
その首班に任命させようとした。また明治天皇の外戚である議定の中山忠能ですら
動揺しており、慶喜と妥協する可能性があった。

それに、まだ新政府に参加していない阿波藩、福岡藩、熊本藩などが薩長に
御所の占領状態を解除するように申し入れていた。
諸藩には、強引に徳川家を新政府から追い出した薩長に対しても
良くは思ってはおらす、薩長はこちらでも孤立気味。

小御所会議の時点では、薩長は政治的に大して有利でもないんだよ。

69:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/29 14:23:01 T5Fx/C1e0
>>68
少し勘違いしているな、薩長に完全に主導権をとられるのが嫌で、
自分らも参加させろってのが諸藩のスタンス。
幕府はその為のコマだよ。
そして福岡熊本の両藩が薩長と敵対する事はありえん。

70:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/29 15:16:10 re2wRLR80
>>69
福岡熊本の両藩が薩長に敵対する事は無くても、味方にもなっていない。

それに王政復古のクーデター以降でも鳥羽伏見の戦い以前までは、
関東、東北、東海中部地方のほとんどは、幕府寄りの藩ばかりで、
しかも大政奉還以後に慶喜に東帰(江戸への帰還)を求めているし、
諸藩は朝廷からの官位を返上している。
しかも、朝廷の諸藩への上洛要請は幕府の顔を立てて断っている藩ばかり。

畿内11~13藩程度が、幕府から離れて朝廷に近づいている。
また、中国地方と九州で尊王藩が出てきている程度。
慶喜が大阪城を放棄する前は、幕府に反抗する藩はそう大勢は居ない。

阿波藩、福岡藩、熊本藩は、御所の占領状態を解除の申し入れ書を文章に
して新政府に提出したが、本来新政府に参加していないこの三藩の書面を
受け取る必要は無かった。しかし文章を受け取り新政府内で検討した後に
返答すると応えている。

やはりこの時点この薩長軍撤退申し入れ文章を受け取ったのは、薩長の
新政府内での立場の弱さの表れだ。討幕派の多い参与会議ならともかく、
何気に徳川シンパの多い議定会議でこの三藩の薩長軍撤退申し入れ文章
が議題になれば、批判されるのは薩摩藩や岩倉となる。案外この三藩の
薩長軍撤退申し入れ文章は、慶喜が中立藩に手を回して書かせて新政府
への圧力として提出させたのかも知れない。
三藩の中に徳川シンパの阿波藩が入っているのも少し解せない。

71:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/29 19:18:58 T5Fx/C1e0
>>70
いやすぐに味方になっているんだが。
福岡藩なんで、長州征伐の頃から長州と繋がっている藩だぞ。
熊本藩は長州征伐で幕府があまりにへタレだったから、幕府見捨てて、
新政府にいち早く近づいた藩。
さらに東海道の諸藩は尾張の言いなりだから、尾張が新政府についている以上、
東海の諸藩も幕府の味方ではない。あくまで尾張の味方で、尾張は幕府を見限っている。
新政府内での立場強化である程度は動いているだけ。


72:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 00:07:46 MAMTh8Og0
>>68
何度か交渉した末に、埒が明かないから突破だか圧力かけようとしただかして強襲されたんじゃなかったか。
まぁ突破っつっても行軍隊形のままだったみたいだけど。
これはケーキちゃんがどうとかではなく、現場の最高指揮官が何考えてたのか謎なレベルだが。

73:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/30 03:31:53 W6Jjvi5j0
>>71
福岡藩と熊本藩が、完全に討幕藩に成るのは、鳥羽伏見の戦いに負けて
大阪城を慶喜が放棄したてからだろう。王政復古のクーデター以降も
阿波藩、福岡藩、熊本藩の三藩は一応中立と言うスタンスで御所の軍事
管制下での小御所会議の継続を非難している。

特に福岡藩は、慶応年間に藩主黒田長溥が、藩内の尊皇派志士を弾圧し
佐幕色を強めている時期。同時に薩摩藩と長州藩、幕府の間に立って
仲介を務めるなどの中立的な政治活動をしている。

また、この当時の熊本藩主の細川韶邦は、尊皇攘夷にはには消極的な人物で、
1862年に肥後勤王党が分裂したのを契機として藩論を尊王論に統一した。
1866年長州藩の高杉晋作が小倉藩を攻撃したとき、小倉藩側に与して戦って
いる。しかし隣国の薩摩藩などの動向が気にかかることもあって、戦って敗
れた直後、即座に撤退している。

尾張藩は一応新政府に参加しているけど、戊辰戦争までは徳川シンパとして
新政府内でも活動している。特に尾張藩は内部で佐幕派と勤王派の対立が激
しく、徳川慶勝もそう簡単に舵を切ることができない状態。尾張藩が佐幕派
と成るのは青松葉事件を経てからで、東海道諸藩の動向もそれに連動している。
ただし、駿府城に幕府陸軍の大軍が入城すれば、東海道諸藩はそれにも反応する。

>>72
確かにそんな感じですね。
下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の押し問答から
軍事的衝突が突然起こり、鳥羽での砲声が聞こえると伏見でも戦端が開かれた。

鳥羽方面では、3日夕方には、突然砲撃を開始した。鳥羽方面の司令官だった滝川具挙の近くに着弾し
乗馬していた滝川を乗せたまま後方に逃げ出した。また、最初の薩摩の一斉射撃で
弾丸を装填していない整列縦隊の幕府歩兵隊がなぎ倒され、総崩れに成ったらしい。
事実上、鳥羽での緒戦は幕府軍の惨敗で、薩摩側の死傷者は初日はゼロだった。

伏見方面では、3日の早朝から伏見奉行所を包囲する形で薩摩藩兵が布陣し、
夕方の鳥羽方面からの砲声にあわせて薩摩軍が伏見奉行所への砲撃を開始した。
伏見方面の幕府軍の司令官は、竹中重固で、彼は戦闘開始直前には、強行突破
の決意を固めて奉行所内で地図を広げて、どこから突破しようか検討中だったらしい。

伏見の桃山中腹の薩摩の砲兵陣地から、伏見奉行所へ砲撃が開始されると、
奉行所の門が開かれ、刀や槍を持った会津藩兵や新撰組が飛び出して来た。
それをめがけて薩摩藩兵が一斉射撃を開始する。

74:名無しさん@お腹いっぱい。
10/12/31 20:49:33 0gGca5j90
>>73
福岡藩の事は乙丑の変の事を言っているのだろうが、あれは長州びいきだったのを、
幕府からとがめられて、やり過ごす為に、代わりに切腹させたようなものだぞ。
処刑させても、長州と裏で繋がっていた反。
藩主もその後継者も長州よりの立場なのは変わってない。
中立的な政治活動じゃねーよ。薩長同盟の仲立ちとかもしてる藩だよここは。
本人も有名な勤皇家。内戦になる戦争には反対派であっただけで、幕府よりじゃねーよ。

熊本は尊王に統一したんなら普通に新政府派だろなにをいっているんだ?
薩長よりってほどではないが、新政府や福井や尾張なども含めた雄藩連合政権に傾注していた藩。
幕府は当然見限っている。
実際小倉戦線では熊本藩以外戦わなかった、幕府はへタレで戦わず、
援軍もよこさなかったため、熊本藩は激高して帰った。

尾張にしても対立激しくっていったって、速攻で佐幕派を処刑して、
新政府に忠誠を尽くした藩。そもそも尾張が親幕府とかないわあ。
そこは代々宗家と中悪いんだよ。
さらにチョイ前に御三卿からの養子がゴミで、尾張にすむ武士層の支持を失っており、
慶勝は宗家からの養子ではなくて、支藩からの養子でそもそも幕府とは対立している。
派閥としても、慶勝本人がふいご党などの幕府のお目付け派閥を嫌っていたからな。
尾張が幕府の為に動いたって何を根拠に?

つか都合のいいように解釈しすぎ。

75:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/01 10:26:26 2DGtXZMe0
>これはケーキちゃんがどうとかではなく、
>現場の最高指揮官が何考えてたのか謎なレベルだが。

慶喜は京への進軍のみを認めたが、幕臣たちは、慶喜には黙って薩摩限定の先制攻撃を仕掛けるつもりだった。
大河内正質、竹中重固、滝川具挙、窪田、塚原あたりが、鳥羽伏見を強行突破した後に
在京薩摩藩邸を攻撃して京市内の薩摩軍を叩く構想があった。
また、土佐藩もそれに同調する計画だった。

この計画は、そもそも幕臣ではなく、大垣藩士の井田五蔵が討薩の戦略を老中に進言して始まった物。
京の薩摩藩邸と薩摩藩部隊を先制攻撃し、そのスキに幕府軍の別働隊が御所を占拠して明治天皇の身柄を拘束。
天皇を大阪城に移して西南諸藩の反幕諸藩を征伐する(第三次長州征伐)、と言う計画だった。


ただし、鳥羽伏見では、まだ戦闘にはならないと思い、幕府軍は戦闘体制に入らなかった。
そこを逆に薩長に先制攻撃され、幕府軍はボロ負けした。

>幕府からとがめられて、やり過ごす為に、代わりに切腹させたようなものだぞ

それ立派な、幕府サイドの行動ですから。

>政府や福井や尾張なども含めた雄藩連合政権に傾注していた藩

雄藩連合政権=薩長政権ではないから。
徳川宗家(大政奉還後は、江戸徳川家)が雄藩連合に加わる政権構想がある。
土佐、福井、尾張等はその線。

>尾張が幕府の為に動いたって何を根拠に?

新政府の議定会議では、土佐、福井と組んで慶喜の議定就任工作をしている。

76:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/01 22:33:50 jX+dhHV/0
>それ立派な、幕府サイドの行動ですから。

その裏で長州の為に朝廷工作してるんですよ。
幕府サイドでもなんでもない。そもそも藩主が長州よりなんだから。

>徳川宗家(大政奉還後は、江戸徳川家)が雄藩連合に加わる政権構想がある。

これは別に幕府よりな構想でもなんでもない。
新政府に徳川家を参加させるかどうかという程度の事。
幕府を一つの藩として扱う構想で、幕府のお偉方は反対派。
また当然幕府の領地は大幅に取り上げるのが前提である。

>新政府の議定会議では、土佐、福井と組んで慶喜の議定就任工作をしている。

だからそれは幕府の為じゃないだろうがw
雄藩連合構想を目的として動いているだけで、佐幕派じゃねーよw
幕府を静岡藩60万石として、新政府に参与させるくらいは認めている。

77:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/02 14:26:07 n5ZgLn6L0
>そもそも藩主が長州よりなんだから。

じゃ~何で長州征伐で小倉藩に味方すんのよ?
それに王政復古のクーデター以後に薩長による御所の軍事占領を批判する文章を朝廷に提出するんだよ?

>新政府に徳川家を参加させるかどうかという程度の事。

1867年12月の時点での小御所会議では、薩長はそれに猛反対。
岩倉は揺れ始めているし、中山忠能と皇族議定は、徳川との戦争にビビッて認め始めている。

>また当然幕府の領地は大幅に取り上げるのが前提である。

当初徳川宗家天領400万石のうち200万石を新政府が召し上げる計画だったが、
それは、土佐、尾張、福井の三藩が議定会議で多数派工作し、阻止している。
特に皇族議定が賛成に回っている。対幕府戦争に自信の無い中山、岩倉あたりも動揺黙認状態。

>幕府を静岡藩60万石として、新政府に参与させるくらいは認めている。

尾張藩は、当初の新政府が徳川宗家天領400万石のうち200万石を新政府が徴収する案を
批判し、撤回に動いている。国元の尾張藩自体が、佐幕派と尊皇討幕派に分裂している。
青松葉事件まで、佐幕派、討幕派どちらが有利ともいえない状態。
徳川慶勝は国元の事情を考えて中立的だが、実際には徳川サイドで動いている。
鳥羽伏見の戦いで慶喜が大阪城を放棄した後は、完全に新政府サイドになるが。

78:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/05 18:44:08 e0pjAlvb0
何を持って何サイドとするかで議論が噛み合ってないな
薩長のような武力で徳川宗家を完全に滅ぼすほどの主張はしてないからといって
江戸幕府全盛期のような徳川将軍家の専制政治を、尾張も容堂も求めてはいないよ


79:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/05 23:51:11 Le4ioO3e0
幕府専制派vs公議政体派vs倒幕派って感じだな。あの頃は。

80:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/07 11:38:32 97a7Q+++0
高杉晋作さえ殺しておけばよかったのに

81:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/07 13:18:55 IKgggugO0
高杉晋作か村田蔵六か桂小五郎の内、一人でも殺しとけば違ったのにな。

82:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/08 01:13:34 tA0S4P8H0
逆に、久坂玄瑞が生き延びる歴史になってしまったりして。

83:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/08 23:30:43 5tDm6/DZ0
>>79
慶喜は、大政奉還直前まで慶応の軍制改革などを行い幕府専制派だったけど、
土佐藩からの建白書や説得で公議政体派に鞍替えし、政権を手放した。

薩長の討幕計画が、土佐藩からカナリ詳しく慶喜に報告された。
その為に慶喜は、大政奉還を行い薩長の討幕計画の大義名分を奪う事にした。

84:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/14 20:07:21 fJnAfUSQ0
よく抗戦派が「大坂で篭城すれば勝てる」とか「江戸で抗戦すれば勝てる」とか
言ってるの見るけどそれって勝利条件が「薩長の撃破」ならいいけど
「徳川政権の維持」だったらこれを考慮するとかなり厳しいのでは?

 つ 市街戦が発生した場合の経済的損失(復興工事、被災者の救済etc・・)

仮に江戸で市街戦が発生した場合・・

1.当然賠償請求される薩長
2.1の支払い能力を超えた分を不良債権として被る幕府
3.2の何割かは押し付けられるであろう親藩、譜代藩(特に徹底抗戦主張した会桑)
4.1~3の幕府、藩に金を貸してる商人

1~4のどこまで破産するだろう・・?

85:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/24 10:22:50 UheNFuw80
長州って長州征伐を戦うだけで財政は破綻しなかったのか?
戊辰戦争を起こす財源ってどこから捻出したんだろう?

86:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/26 17:13:32 OfHOcLnS0
>>85
撫育金からの出費。

7代目藩主毛利重就の頃、一般会計の再建とは別に、検地とかで浮かした金を元手に
特別会計として、撫育方っつー少数精鋭の部署を作り、産業振興やインフラ整備に加えて
業者への貸付などの利殖を行わせた。
そこで得た利潤は全て撫育方に収められ、更なる産業振興やインフラ整備に充てられた。
これの一般会計との切り離しは徹底してて、数代後の藩主んとき、台風被害の復興のために
撫育方から出金しましょうっつった重臣が、藩主の怒りをかって御役御免だか謹慎だかさせられた事もある。
んで、この撫育方は代々守られ、普請やら災害復興やらの止むを得ない時だけ出費されてきた。
それに加えて幕末に起用された村田清風の天保の改革により、一般会計の改善とともに
撫育金の利殖も大車輪で行われた。
この代々貯め込んできた金が、村田蔵六による軍制改革のときに盛大に使われることになる。

この撫育金のその後だが、明治初期の時点で約100万両が残っていたとされ、廃藩置県の折に内70万両が
明治政府に対し贈与されている。
あと、長州藩江戸藩邸には、昔々から他藩からの贈答品やら何やらを売り払って貯め込んできた古金もあったらしいw

87:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/26 23:06:46 DtUG79C80
>>86
一方で幕府は、家斉の浪費や松平定信の重商主義否定政策なんかで
資金が尽きていたことを考えると、やはり金は戦の変数項だなぁと感じるね

88:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/27 12:17:42 xub+pYSA0
サンクス

89:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/30 18:21:41 swddj+ho0
小笠原長行って致命的ミスをしたのに
なぜかあまり叩かれないよな

90:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/30 20:25:36 qyz1uuGg0
マイナーだからだろ
あの人の逃げっぷりは桂小五郎を超えてるよ

91:名無しさん@お腹いっぱい。
11/01/31 16:59:12 hxNjJVG+0
逃げるべき時に逃げるならまだ分かるけどなw
そして逃げたこと自体よりも、小倉口の幕軍を完膚なきまでに自滅させたのがすげぇ。

92:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/01 15:14:25 f+Y8sgOz0
小笠原壱岐守って小倉藩の小笠原とはどういった関係なの?

93:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/01 19:37:02 h+Amaf1T0
唐津は江戸時代初期の小倉の分家ですけど、唐津の方は全国を鉢植え大名として流浪しているから、
すっかり独立した存在ですよ。

94:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/02 23:33:16 A3DDbDN70
>>86
その撫育金を兵制改革に支出させたのが桂=木戸だよな。
そういう伝統だからと出し渋っていたのを、
今使わんでどうする、ここで撫育金を軍備増強に使わなけりゃ
戦争に負けて敵にまるごと取られるだけだぞっつー正論で。
結果、武器の充実・訓練の徹底・士気の高さで幕長戦争勝利。

95:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/03 08:41:23 5CSynFyy0
長州を倒した暁には、長州から奪った撫育金を支給するぞ~
って鼓舞すれば勝てたかもw

96:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/04 18:18:40 JumOANO60
>>95
どうかなぁ。将来の金よりいま金が欲しいって藩のが多そうw

97:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/05 17:06:57 /z4sCdFv0
そもそも長州征伐が成功したら権威回復の為にに暴走を幕府がすることを危惧してるしな
難癖付けられて次の標的にされたらかなわん。なんで熊本はやる気があったんだろう

98:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/05 21:40:08 OBW1Uk8x0
URLリンク(www.asahi.com)
URLリンク(www.asahi.com)
戊辰戦争でプロイセンに提携持ちかけ 会津・庄内両藩
2011年2月5日21時0分

戊辰戦争での薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、
会津・庄内両藩がプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたことが
東京大史料編纂(へんさん)所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、
宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で、10年ほど前にドイツ側の研究者が存在を紹介したが、詳細が不明だった。

箱石さんらの調査で確認されたのは、1868年の文書3点。
いずれも、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読、日本語に翻訳した。
(1)7月31日付で駐日代理公使のフォン・ブラントがビスマルクへあてたもの。
「会津・庄内の大名から北海道、または日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた。
ミカドの政府も財政が苦しく南の諸島を売却せざるをえない模様」として判断を仰いでいる。
(2)10月8日付で宰相からフォン・ローン海相あて。
「他国の不信、ねたみをかうことになる」と却下の考えを示し、海相の意向を尋ねている。
(3)10月18日付で、海相から宰相への返事。

この年は5月に江戸城が明け渡され、7月初めに上野で新政府軍と彰義隊との戦いが決着。
戦争の舞台が東北へ移る緊迫した時期の交渉。両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられるが、
ブラントは「北日本が有利になれば、この申し出は大変重要な意味を帯びる」とも記しており、政治的な狙いも込められていたようだ。



99:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/05 21:40:52 OBW1Uk8x0
>>98

会津は京都を舞台に長州と激しく対立、庄内藩は江戸警備を担当して
薩摩藩邸を襲撃したことがあり、両藩は同盟関係にあった。
北海道の領地は北方警備強化のために1859年に幕府が東北の有力6藩に与えた。
会津藩は根室や紋別を、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。

箱石さんは「敗者の歴史は忘れ去られ、この交渉も日本にはまったく記録がない。
会津と庄内は土地を提供することでプロイセンを味方につけようとしたのだろう。
戦争が長引けば明治維新に違う展開があったかもしれない」。

明治維新を研究する東京大の保谷徹教授は「会津・庄内両藩がよくぞここまで国際活動を展開させたなと驚いた。
歴史にはまだまだ知らないことがたくさんあり、その答えが海外に眠っていることを示しているのだろう」と話している。
(渡辺延志)



100:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/05 21:59:23 nU0cyZNa0
プロイセンへの領土割譲覚書は、後年榎本武揚ら北海道の旧幕府海軍が行い、
日本国は取り返すのに多大な財を費やす羽目になった、榎本政権の恥部というべき一件なのだが。

会津庄内が提案を行っていたとなると、戊辰戦争での外国軍から干渉を排した徳川慶喜の意思に完全に叛いていた事になる。
松平容保はどこまで不忠者なのだろう。

101:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/05 22:50:51 eBcF+rIU0
ビスマルク失脚後のヴィルヘルムだったら提案に乗ったかも知れないな。

102:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/06 13:56:36 irfZXtyM0
あれだけ不良品を売りつけられ、しかもそれが敗因の一端を担っているのに、
スネル兄弟がまだ英雄視されて有り難がっている佐幕ヲタってどうよ?。

103:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/06 23:19:50 8OMgmNfpO
スネル兄弟とは何だったのか

104:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/06 23:42:01 aHLaYRq00
明治政府の新潟港開港延期要請に従ったイギリス・アメリカ・フランス・オランダとは違い
無視を決め込み列藩同盟に独占的に武器を売り込もうとした、抜け駆け野郎以上でも以下でもありません。

105:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/06 23:44:10 aHLaYRq00
つまり、スネル兄弟とは、西宮神社の数年前の不正福男のような存在です。

しかし会津にとっては彼が頼りでした。
何故なら、あと一人しか新潟には外国商人は来なかったから。

106:名無しさん@お腹いっぱい。
11/02/24 16:57:36.31 cwdljvvC0
江戸無血開城後なら無理。
やっぱ鳥羽・伏見だな。あれに西洋化した庄内藩、額兵隊、etc
しかし、砲兵部隊が手薄すぎる。

107:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/14 10:32:37.81 vsN6tmbM0
>>100
長州も馬関戦争の講和で下関を事実上自由港化してるし、巨額賠償金を勝手に約している。
当時の幕府は開港に伴う国内商工業の打撃を緩和すべく努力していたから、
長州の講和は孝明帝の上意にも、日本財政や国内産業保護政策にも反するものだった。
自藩の存亡がかかると、そんなものだ。

108:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/14 12:01:11.14 itjPxEx00
>>107
結局、尊皇勤皇ってのは朝廷の名を活動の正当化に利用しているだけなんだよな。
だから朝廷の意思なんか二の次なんだね。

109:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/14 12:02:25.88 itjPxEx00
>>100
蝦夷以外の割譲地はどのあたりが想定されていたのでしょうか?
会津の飛び地?

110:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/14 22:46:12.79 wSiDhI7L0
>>107
>当時の幕府は開港に伴う国内商工業の打撃を緩和すべく努力していたから

kwsk

111:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/14 23:00:11.32 g96a7AcN0
>>108
いや、長州藩が航海遠略策を放棄するときは、明確に奉勅攘夷を決意してるよ。
1862年の御前会議で、”攘夷とか無謀過ぎる。ここでいるのだけで決めても、国許がそっぽ向いたら藩主公もご立派な討死ができないよ”って意見に、
”攘夷が無謀なのは知ってんけど、勅令なんだから仕方ないじゃん。ここに居る奴らだけでも藩主公と共に死ぬしかねー”みたいな結論で
長州は攘夷に邁進し始めた。
思えば、藩主の前で本人討死大前提の議論するのはどうよw

112:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/27 08:12:36.85 h2qR7Vrn0
>>78
>江戸幕府全盛期のような徳川将軍家の専制政治を、尾張も容堂も求めてはいないよ

それでも慶喜がニ条摂政の後任に就任したり、朝廷新政府の首班兼上院議長に慶喜が就任する事や
三職会議の№2として副総裁(副関白)に就任する事には賛成している。

鳥羽伏見の戦いが始まるまで、慶喜の副総裁(副関白)に就任向けて
新政府(三職会議)にて尾張、越後、土佐の三藩は工作していた。

皇族議定は、慶喜の副総裁(副関白)に基本的に賛成し、公卿連中も動揺していた。
慶喜が、山城一国(35万石)を朝廷領として献上する案を持っている事を
皇族や公卿達は知っていたし、当然それを望んでいた。

尾張、越後、土佐は、幕藩体制を終わらせる事は、了解していても、
徳川宗家の主導権までは否定していない。

113:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/27 08:38:59.37 HMxAtOIe0
越後じゃないよ越前だよ。
それと尾張・越前・土佐は会津・桑名両藩主の辞職と京都からの退場を要求していた。
この両藩がいなくなった場合、それまでの一会桑体制は徳川慶喜を除いて消滅することになる。

これでは、公儀政権で京都の幕閣体制が発展的に存続する、と認定することはできないのではないか。

114:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/27 18:55:17.35 ucH3P+GS0
>それと尾張・越前・土佐は会津・桑名両藩主の辞職と京都からの退場を要求していた。

仕方ない、会津・桑名両藩は佐幕テロをやり過ぎた。
龍馬暗殺でさえ松平容保命令説が最近では有力、土佐藩は会津藩にカンカンだろう。

>この両藩がいなくなった場合、それまでの一会桑体制は徳川慶喜を除いて消滅することになる。

大政奉還後少し経過すると、会津・桑名両藩士は、家族を含めて京から避難し始めているし、
12月12日以降の両藩士は大阪城に詰めているので、大阪では一会桑体制じゃね?

それに順序の問題で、慶喜が議定や副総裁(副関白)に就任し新政府の三職会議で
慶喜の主導権が確立してから、会津・桑名両藩主を新政府に入れても良い。

また慶喜は機会を見て、会津藩に帰国命令を出すつもりだったのかも知れないが…
しかし薩長との軍事衝突が必至と見れば、帰国命令は出さないだろう。

115:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/28 11:46:39.22 XgWyXBCg0
>また慶喜は機会を見て、会津藩に帰国命令を出すつもりだったのかも知れないが…
>しかし薩長との軍事衝突が必至と見れば、帰国命令は出さないだろう。

王政復古クーデター以降の慶喜は、和戦両ニラミ状態。

116:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/29 10:00:08.91 rZOuhdco0
京を出た時点で、一会桑って括りに意味はあったんかなぁ。
大政奉還には強硬に反対してるし、この時期はむしろ幕閣のが会桑に近いのでは。
まぁ伝家の宝刀は抜かない方が良かったなw

117:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/29 23:40:43.43 DWR0qF6S0
意味無かっただろうケド、
鳥羽伏見で負けるまでは、大阪城で慶喜は「もう会津に帰っていいよ」とは言わなかったしw

それに確かに、幕閣の方が強硬派
慶喜を切ってでも、京に進撃しようとする。

大阪城に移ってから、朝廷と慶喜の連絡が悪くなるのは、幕閣のサボタージュがあったんだろう。

結果論だが、土佐、越前、尾張の斡旋に任せていた方が良かった。
皇族と公卿の議定を取り込んだこの三藩が、多数派工作に成功していた可能性がある。
そうなれば薩長が勝手に自滅していたかも知れない。


また、薩長と戦争するなら、四月五月まで待てばよかった。
ストーンウォール号は、幕府の手に入っていたし、伝習隊だけではなく
幕府陸軍の各部隊に元込式銃がもっと配備されていたかもしれない。

西郷ですら2~3ヵ月後のつもりだった様だし。

118:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/30 08:15:50.87 End49zqV0
ファビョってる会桑を抑えるのが限界に来てたからしばらく待つのも無理だろ
あいつらは戦犯だよ。徳川家が穏健に新政府入りできても、自分らのポストがないから必死

119:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/30 12:11:14.85 P+i1r2WS0
それって、
慶喜が「しばらくほとぼりが冷めたら、新政府の良いポストあっせんするから、まってろ。」
って言って宥められなかったのかね?

領国が畿内に近い桑名藩だけは、大阪城に残して、
会津藩だけは、何とか理由を付けてクニに帰すか、江戸に回した方が良かった。

120:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/30 12:54:50.92 P+i1r2WS0

それと畿内やその近くに意外と討幕藩が多いのに驚かされる。

数え方によるが、10藩以上にも及ぶ。

121:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/30 20:42:25.96 ur3rZndT0
公家と縁戚関係にある藩が多かったからじゃなかったっけ?

122:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/30 21:20:36.99 R7PY5gIo0
あと皇室領や公家領が近くにある、公家の菩提寺や御陵が領国内にある、以前から天皇の逃亡経路になっていた、
京都御所の警備をやっていて公家や皇族と近くなった、etc…

江戸時代でも畿内だと1~2日で領国と御所を行ったり来たり出来ますからね、
外様の大藩が朝廷に接近する事は、幕府は警戒しますが、小藩だとスルーしている部分も有るのかと。


討幕藩と言っても、畿内の小藩ですので、薩長と組んで大阪城を攻撃したり幕府陸軍と戦う訳ではないです、
彦根藩と西大路藩、膳所藩辺りが、薩長の後方支援程度しかしていません。

123:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/30 21:39:40.97 T01xGmvn0
畿内が朝廷に従う勤皇多数となるのは歴史的に見て当たり前
淀が譜代なのに裏切ったとか声高に言ってる人間が多いのに逆に驚くわ

幕末は江戸時代からの幕府との関係性より
古代からの土地との関係に随分行動は左右されてるよ

124:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/31 10:50:32.53 uaCllgTL0
>古代からの土地との関係に随分行動は左右されてるよ

土地の関係については、律令制の関係は既に切れていますよ。

応仁の乱や戦国時代で日本の土地は、ほとんど武士が接収(押領)してます。
日本のアチコチにあった膨大な寺社領、公家領はほとんどなくなります。

畿内に徳川家康の好意で皇室領(3万石)公家領(7万石)残されただけです。
朝廷の運営経費ぐらいは自分で何とかしなさい、って事でしょう。
しかも皇室領の実質的な管理者は武家(京都郡代)で幕府の旗本が面倒見ている状態。

江戸時代には軽く見られていたが、幕末になり朝廷の政治的権威が高まり、
皇室領公家領の政治的位置づけが高まった感じ、その事から…
大政奉還と徳川新政権を認めてくれれば、山城一国を朝廷直轄領に献上する慶喜の案が出てくる。

125:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/31 21:41:28.71 i/yb2kEJ0
そういう直近的な幕末当時の関係って意味じゃなくて
もっと古くからかつて存在していた土地との歴史的関係ってことだろ

幕末は過去の時代、神代まで遡ってあれこれと談じることが盛んだったから
畿内以外でもかつて勤皇の忠臣を排出してる備前や伯耆も尊皇思想は強いし
配流の地である隠岐も強い

朝廷との繋がりが深かった西国と過去に遡ってもろくにない東国ではやはり差が出てるよ

126:名無しさん@お腹いっぱい。
11/03/31 21:54:34.75 DOthiwnP0
その神代研究の元になった人物は、秋田藩出身の平田篤胤だろ。

東国の平田のトンデモをありがたく聞いている西国人ってかw

127:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/01 08:01:13.46 mt//x/cQ0
武家っつか、御所千度参りが行われる様な民衆層にある下地のことじゃね?
武士層も、そういう下々と関係が深いのほど影響受けたんじゃないかな。

128:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/03 20:49:51.97 phkPsDsP0
1867年の12月9日の王政復古のクーデターは、有名だが、
実は、同年11月には、大政奉還への不満や、薩摩藩兵と長州藩兵の大挙上洛に対する警戒などから
佐幕派諸藩や幕臣だちが佐幕派クーデターともいえる計画を建てている。

ちょうど坂本龍馬が暗殺される直前に立案され、大垣藩藩士の井田五蔵が佐幕派諸藩を代表して
在京老中に進言しているが、大垣藩の後ろには、紀州藩や津藩(この時点での)などの佐幕派諸藩
が控えていた、当然会津藩や桑名藩もこの考えを後押ししている。

この佐幕派クーデターの内容は、兵力を京に集中させ始めている薩摩藩打倒クーデターであり対薩摩藩邸先制攻撃案だった。

長州藩の各地の藩邸は、禁門の変の後に全て接収破棄されており、江戸はもちろん京や大阪には
長州藩の大規模な公式施設(藩邸など)は無い、あるのは薩摩藩の藩邸であり、その為に幕府陸軍と
佐幕派諸藩による薩摩藩とその支藩である佐土原藩の京と大阪の藩邸への先制攻撃プランとして作成された。

また、この幕府陸軍と佐幕派諸藩の薩摩藩邸先制攻撃により京がパニック状態になったスキに、
京都御所に幕府陸軍の特殊部隊が突入し、明治天皇を拉致して大阪城まで搬送、
その後幕府陸軍と佐幕派諸藩は、明治天皇を頭に立てて大阪城に立て篭もり幕府海軍と
一緒に西南討幕諸藩と迎え撃つ計画だった。
また、江戸にいる幕府陸軍の上洛西進を同時に開始する事も計画されている。

特に京と大阪の薩摩藩邸は、この作戦の最重要攻撃目標であり、京都御所の裏の「相国寺二本松藩邸」や
「伏見藩邸」、「小松原薩摩藩調練場」等が京での攻撃目標になった。
また、大阪の薩摩藩邸は、土佐堀2丁目に「上屋敷」、江戸堀5丁目に「中屋敷」、立売堀西之町に
「下屋敷(蔵屋敷)」があり、この三箇所が攻撃目標となった。

これらの作戦を聞かされた徳川慶喜は、大慌てで反対し、実施しないように宥めている。
慶喜は、これから開かれる朝廷での諸侯会議での首班指名に掛けており、自らの武力行使で
政権維持を図るつもりは無かった。
しかし、慶喜側近の幕閣にも少なからずこの案に賛成する者もいた、若年寄の永井尚志などがそうで、
彼は、大政奉還後に続々と薩摩藩兵が上洛している事を察知、事前にこれを阻止する処置を慶喜に
進言したが、慶喜からは神戸開港の準備を命ぜられてしまい、永井は薩摩藩兵の上洛阻止が出来なかった。

年末の永井尚志の不在が、薩長の王政復古のクーデターをやり易くした、とする声さえある。

129:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/04 16:24:54.24 VN4vQbAt0
やっぱり幕軍が勝利するとすれば京で先制攻撃が正解だったような気がする。
交渉による位押しの路線て一見、確実に見えるけど最後まで絶対の我慢を貫き通す覚悟が必要だからね

当の慶喜でさえ討薩の表の時は少なからず期待しちゃったわけだし

130:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/06 02:10:43.35 Bxin7K2N0
>>947
>幕府の代表者である徳川慶喜も賛同した大政奉還を、裏から非合法な形で
>葬ろうとした幕府内の勢力がいただけのこと。

慶喜の大政奉還路線を潰そうとしていた強硬派幕臣(幕権派)がいました。
徳川宗家のトップは、大政奉還路線かもしれませんが、人数から言ったら大政奉還に反対する勢力の方が多いです。
徳川幕府のトップとその側近以外は皆大政奉還に反対だった、と言っても良い状態。

特に江戸では、大政奉還撤回の声が公然と言われており、この実現の為には、
裏からや非合法な方法ではなく旗本・御家人・譜代は大っぴらに慶喜に直談判して
大政奉還撤回を求めています。

大政奉還の直後10月17日に江戸城で有司総登城の命令が下り慶喜無き大評定が開かれ
老中や各種奉行がほとんど出席し、幕権派の巨頭小栗忠順も出席しており、当然ながら
大政奉還大反対の結論になった。その後京に陸軍奉行、海軍奉行、などを兼務する
在江戸老中が次々に上洛して慶喜に接見し大政奉還の取り消しを求めた。

慶喜のお膝元であるニ条城では、流石に公然と大政奉還撤回を求める幕閣は居なかったが、
逆に公然と大政奉還に賛成した幕閣も少なく、精々板倉、小笠原、永井ぐらいである。

江戸から来た老中達は大政奉還の撤回を求めただけではない、先の見通しが立たないなら、
慶喜は江戸に帰り、譜代や旗本を糾合して江戸城で体制を立て直すべきだ、とも考えていた。
だから10月下旬に上洛した江戸の老中達は、11月11日まで二条城に留まり、慶喜への説得を続けた。
しかし慶喜は、大政奉還後には朝廷での諸侯会議で新政府首班(元首)に選出されるか、二条摂政
の後任に慶喜が選出される様に工作している事を説明して江戸の老中を何とか帰してしまった。

だが、この事で畿内やその近くの佐幕派諸藩は、江戸の幕閣のほとんどが、大政奉還に反対である事を知る。
その為か11月に入ると大垣藩の藩士である井田五蔵が、老中に“討薩の戦略”を上申披露した。
京と大阪の薩摩藩邸を佐幕派諸藩と幕府陸軍で先制攻撃し、さらに明治天皇を拉致して大阪城に
連れ出してしまおう、という作戦である。このプランは大垣藩だけが考えたのではない。
大垣藩の後ろには畿内の佐幕派諸藩のリーダーである紀州藩が控えており、津藩、淀藩、小浜藩、丹後宮津藩、亀山藩や
その他に会津藩、桑名藩などがこの計画を後押ししていた、幕府陸軍と佐幕派諸藩は共同で佐幕派クーデターとも言える
プランを徳川慶喜に提出していたのである。

だが、慶喜はこの作戦には賛同せず、何とか実行しないように幕府や佐幕派諸藩を宥めるのに精一杯だった。

龍馬や中岡、伊東申子太郎の暗殺は、井田五蔵の“討薩”を上申の直後に発生しており、
慶喜の中止勧告はあったものの佐幕強硬派による大政奉還阻止のクーデター計画の一環として
実施されたのではないだろうか?

131:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/06 02:30:15.00 PMmGMQlPO
アニータ!アニータ幕府なのよ!!!!

132:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 01:45:42.81 PUWRXQZw0
>やっぱり幕軍が勝利するとすれば京で先制攻撃が正解だったような気がする。

長州の藩兵はまだ畿内に居ないし、薩摩の在京兵力も少ないけど
(11月上旬の時点で約2000人?年末には4000人まで増強)
広島藩兵は1200人ほど京に居る。これが如何出るか?
薩摩藩の武器も禁門の変の頃よりは、格段に良くなっている。

幕府軍と佐幕派諸藩が、京の薩摩藩邸を攻撃すると、当然薩摩藩兵は藩邸に立て籠もって抵抗するわけで
そうなると京は禁門の変以上の大惨事になったと思われる。

おそらく大阪でも薩摩藩邸を攻撃しただろうから、江戸薩摩藩邸攻撃位の被害は出るね。

佐幕派クーデターは、成功するだろうが、薩長も黙っていないので
幕府軍と薩長軍は、畿内で大戦争となるだろう。

133:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 03:07:56.08 2bcWGOPnO
>>132
それが薩長の当初の予想だったんだけどなw
幕府側があんなにあっけなく山城から引き上げて大阪城まで捨てるなんて思ってなかったw
高嶺の花だと思っていた女が実はただのヤリマンだったような衝撃www

134:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 04:30:03.41 jo3Ifzxz0
昔の佐々木克は王政復古クーデタを知った段階で挙兵して叩き潰すべきだったと主張していた。
一方で家近良樹などは京での暴発を抑えて下坂したのは有利な結果をもたらしたと主張する。
王政復古は越前・尾張も賛成しており、慶喜自身、土佐からの通報にも関わらず動いた形跡がないこと、
大坂を抑えて摂海と京を遮断する形勢が出来たことから、最近はこっちが有力なのかな。

しかし、下坂してきた時の慶喜の疲労度(サトウによる観察)、会桑の憤激の凄まじさ、
土佐からの通報時に慶喜が確信を持って抑えたと言うより、決断がつかなかったと思われること、
そして最後には慶喜が討薩に色気を見せて進発を許してしまったことを考えると、
京で決起したほうがよかったのかも知れないと言う気がする。慶喜が最後まで会桑を抑え切ると言う強い意思があれば別だが

135:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 04:46:47.85 0EzY1K1l0
大村が「東海道で艦砲射撃されたら危なかった」と言ったのはなんだったんだろう
他の人なら100%皮肉と取れるんだが
大村って性格的にそういうこと言わないよな

136:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 08:57:15.52 Qrt5ZAnH0
どうなのかね。勝はそれをやっても戦術的な勝利に過ぎないっつったらしいけど。

まぁ関東は一揆の嵐で上野に到っては藩主が追い出されるぐらい猖獗を極めてる上、
大坂からの物流が止められたらそれらの窮民を養う術がないから。
更に東山道と北陸の軍にも対処して……まぁ勝の言う通り長期戦化かも。
大村の首取る為にはもうちょっと何か欲しいな。

137:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 11:43:35.44 2bcWGOPnO
東海道に冷奴ならべて網で捕まえる

138:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 16:13:46.79 2A4HNqtU0
>>133
慶喜もカダフィ大佐ぐらい頑張って欲しいかったなw

【リビア】進撃するカダフィ、足を取られる革命家たち-アラブ紙社説[04/06]
スレリンク(news5plus板)

1 :mongerφ ★:2011/04/08(金) 00:49:04.42 ID:???
社説:進撃するカッザーフィー、足を取られる革命家たち

リビア情勢は政治的にも軍事的にもひどく不明瞭である。そのことは、このひと月半カッザーフィー大佐の体制に抵抗を続けている
リビア革命家たちにネガティブな影響をもたらすと思われる。

昨日米政権は、リビア元首からオバマ大統領に宛てられた書簡を受理したことを明らかにした。書簡では、
「リビアに対し十字軍的敵意を抱く帝国主義的軍事同盟」からアメリカが撤退したことへの感謝が述べられ、同時に停戦が提案されていた。

カーニー米大統領報道官は、リビア元首に対し口先だけではなく[連合側の要請を]実行するよう求め、また、
この類の書簡を受け取るのは初めてではないことを明かしたが、アメリカの対応は、リビアの武装反体制勢力の希望を挫くものであった。

反体制軍指揮官アブドゥル・ファッターフ・ユーニス・アビーディー少将の記者会見をみると、東部へ進軍するカッザーフィー部隊への
NATOの対応の遅さに、反体制軍の間で明らかに幻滅が広がっていることが分かる。
反体制側は、NATOに対する公式な苦情を安保理に提出することすら考えている。

139:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 17:42:56.27 2A4HNqtU0
佐幕派クーデターを起こすなら、長州藩兵力と薩摩藩の増援部隊がまだ上洛する以前の
1867年11月までだろう、12月になると討幕派の兵力が増加して佐幕派クーデターの成功
の可能性が薄くなる。

慶喜が11月までに決断が付かないのなら翌年の68年の5月まで戦争を始めない方が良い。
ストーンウォール号は4月まで幕府の手に入らないし、元込め式の銃をもっと導入しなければ
ならないし、アームストロング砲が手に入らなければ、代わりにクルップ砲を何十門と導入
しなければならない。色々やることがある。
>>136が言うように関東では薩摩藩のテロ活動もあり、騒乱状態なので、幕府陸軍は官軍と戦う前に
これらを鎮圧する必要がある。

>家近良樹などは京での暴発を抑えて下坂したのは有利な結果をもたらしたと主張する。

大久保利通が、同じ事を西郷に言っているから、そうなんだろう。
井上勲なんかは、慶喜は早ければ大政奉還と同時に、遅くても王政復古のクーデターの時までに
関東に帰り、江戸城で旗本と譜代を糾合して“関東甲信列藩同盟”の様な朝廷とは別の権威
を打ち立てる“東帰割拠”論が徳川再生の道と言っている(奥羽越列藩同盟からの支援も期待)。

松浦玲も、慶喜は鳥羽伏見の戦いに負けたからと言って大阪城を逃げ出したのが最大の負け要因、
としているし野口武彦なんかも同じで慶喜の桁外れなチキンぶりに呆れている。

特に野口武彦は、大阪城篭城戦では、大阪城の広大さと堅固な堀や壁、大阪城砲台の火力、城内の予備兵力、
膨大な物資、大阪湾での幕府海軍の優性、薩長軍の寡兵と補給の弱さ、などを考慮して幕府軍の優勢を分析
しており、大阪城の戦いが始まれば、土佐藩の裏切り(実際、鳥羽伏見の戦いの時に慶喜と連絡していた)
を考慮して官軍の敗退の可能性が大きかったと分析している。
実際に土佐藩が、幕府軍に寝返ると越前・尾張も怪しくなる。

140:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/08 19:56:58.74 jo3Ifzxz0
いや、籠城は古来内から崩れてきたわけで、
鳥羽伏見で津・淀の両藩が裏切った時点では慶喜は東帰せざるを得なかったよ。
客観的な状況判断と主観的な状況判断は違う。

家近さんのは結局、外側から見た幕軍情勢の分析じゃないかな。


141:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/09 02:54:29.01 zmDqahxD0
>籠城は古来内から崩れてきたわけで

崩れネーヨ!
もう崩れている奴らは、官軍側に寝返っている。

大阪城に官軍が近づいて来たら、今度は土佐藩が徳川サイドに寝返るかもしれない。
板垣退助は、在国中だし。

>鳥羽伏見で津・淀の両藩が裏切った時点では慶喜は東帰せざるを得なかったよ。

ナンセンス!

客観的には、篭城すべきタイミング。
慶喜は、淀川上流から死体の山を積んだ何隻もの船を見てビビッて逃げ出したのが真相。

4日に淀藩が、6日に津藩が寝返っているのは有名だが、同じ6日に丹波最大の藩で佐幕派の
丹波亀山藩が西園寺公望率いる山陰道鎮撫隊に降伏している。翌7日にはやはり佐幕派の
福知山藩が降伏、大政奉還の頃から勤王派への色彩を強めていた園部藩、篠山藩は、難なく
同日に山陰道鎮撫隊に対して勤王を誓った。

この様に確かに鳥羽伏見の戦いの影響で丹波を中心に諸藩がドミノ倒し的に勤王派へ寝返っている現象はある。
だがこの現象も大阪城で慶喜が徹底抗戦を続ければ、大阪湾の幕府海軍の存在もあり止められる話。
大阪城を官軍が包囲してもナカナカ落城しなければ、畿内の諸藩も勤王派には、そう簡単には寝返れない。

ちなみに官軍が鳥羽伏見の戦いを進めている最中に山陰道鎮撫隊を組織して丹波制圧を進めていたのは、
万が一鳥羽伏見の戦いで官軍が負けた場合に備え天皇を長州や広島に逃す為の退路を確保しておく必要があったからだ。
官軍も少ない貴重な戦力を山陽道鎮撫に割いたのはこの為で、薩摩藩のこの時点での在京兵力は4000人だったが
鳥羽伏見の戦いに拠出した薩摩藩の兵力は3000人で残りの1000人はこの山陰道鎮撫隊に振り向けた。

この様に薩長でさえ貴重な兵力を分散し逃げ道を確保しながらの戦争であり、決して幕府軍撃退に確固たる自信があった訳ではないのだ。

142:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/09 04:07:25.41 Wap9CFKe0
とすると
①王政復古クーデタの計画を察知し得た段階での挙兵
②討薩表を掲げての上洛
③大坂籠城
いずれも勝つチャンスがあったと言うことか
一般には②で幕軍が即時開戦に踏み切れる準備をしておればよかったとは言われる所だが、
さすがに紀州藩の動向まで怪しくなっている中で長期戦は難しいだろう

143:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/09 09:29:36.80 zmDqahxD0
>紀州藩の動向まで怪しくなっている中

怪しくネーヨ!
立派に佐幕派している。

次の将軍職は、紀州出身の田安亀之助だから必至に佐幕派している。





勝つ最大のチャンスは、開戦を68年5月まで引き伸ばして、それまでに…

①元込め式銃とクルップ砲を更に買い込んで幕府陸軍に配備する事、
②幕府海軍は、ストーンウォール号を手に入れて操縦を覚える事。
③関東の幕府陸軍は、演習を兼ねて関東一円に治安出動を繰り返し、暴動、打壊しなどを鎮圧する事。

などかな、必要な処置は、その上で薩長と開戦すればよい。

144:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/09 09:36:49.22 QNNiNwiZ0
>>139
いや、鳥羽伏見のときに幕軍が京に乱入できていれば土佐が幕府側に付いた可能性が高いが、
正式な勅命が下った後である大阪城攻防戦の頃じゃ、それも難しいだろう。
土佐藩の軍には勤皇派が多いし、一度は差し止めたそれを戦線に出しちゃってるからね。下手すれば藩内で割れる。
あと大坂城内の予備兵力は旗本主体の歩兵隊で、野口もこいつらは使えねーっつってた気がするがw

>>141
いや、篭城って案外難しいのよ。
囲まれた後から敵の警戒線突破して能動的に作戦するのは極めて困難だから
時間とともに士気は落ちていくし、余程の信頼関係がないと城内に疑心暗鬼が蔓延るのは止められない。
小田原城なんかもそうだが、古来内応で落ちた城が数多あるのはこのせい。
まぁ幕府歩兵隊・会桑辺りだけで篭ればその心配はないかもしれんが、他を追い出したら追い出したで不安要素が増えるしなw
敗走の後だから元々士気が低い連中は信用できないし、武器兵器特に最新装備の喪失はかなり痛い。

何にせよ、出来るだけ早い段階で江戸から軍を上らせることが必要。
まぁ幕閣はやる気満々だからすぐ軍を出すだろうけど、問題はその兵と指揮官の質だろうな。
幕府歩兵隊の主力は大阪城だし、援軍の指揮官が小笠原みたいなのになったら悲惨な結果しか見えないw
どうなるにせよ、その軍で阻止に来るであろう薩長の軍に勝てるかどうかが戦局の分かれ目かな。

幕府海軍の威力は大いに認めるが、内陸部に対する影響は極めて限定的なので内陸の藩の寝返りは止められないだろう。
艦隊の取れる陸上作戦には厳しい制約があるから、大阪湾封鎖が最も重要な任務になると思われる。

あと忘れてるかもしれないが、山陽道は鳥羽伏見やってる頃から長州軍が駆け上がってる最中だぞ。
それと山陽道屈指の大藩である広島藩と岡山藩が、都落ちの際の朝廷疎開先候補に挙がるぐらいガチガチの勤皇藩であるのも痛い。
近畿地方で言えば、紀州に次ぐ石高を持つ彦根と津がさっさと寝返ってるのが不安要因。

ぶっちゃけ、有能な奴を司令官に据えて鳥羽伏見やってた方がかなり勝算が高いと思う。

145:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/09 11:06:03.19 3L5TI6J6O
籠城ってw
鳥羽伏見は客観的に見れば軍事力は幕軍有利
大阪城を拠点に海軍で海上閉鎖
陸軍で陸路閉鎖
京都は補給線を絶たれ孤立
普通に戦えば幕軍が負ける戦ではないから

146:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/09 11:22:22.14 pbHTvJiA0
>>145
>鳥羽伏見は客観的に見れば軍事力は幕軍有利
それが負けたのだから、指揮者の松平容保らがよっぽど阿呆ということなので、
なら他の旧幕府軍も信用できないという話になってしまう

147:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/09 13:29:07.64 ne+8Ar4tO
どんなに大軍を擁しても
どんなに精強な兵を揃えようと
どんなに優秀な装備を持っていようと
指揮官が無能だと負けます

148:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/09 13:53:30.05 SvPwvGOX0
竹中半兵衛の子孫、竹中丹後守のことか。

149:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/10 07:27:38.54 C2YYtrV30
勝つ最大のチャンスは、慶喜が東帰して開戦を68年5月まで引き伸ばして、それまでに…

①元込め式銃とクルップ砲を更に買い込んで幕府陸軍に配備する事。
②幕府海軍は、ストーンウォール号を手に入れて操縦訓練。
③関東の幕府陸軍は、演習を兼ねて関東一円に治安出動を繰り返し、暴動・打壊しなどを鎮圧する事。
④徳川宗家は、関東甲信列藩同盟、東海道列藩同盟、奥羽越列藩同盟を結成し東日本の支配権をアピール。
⑤幕府陸軍2万4000人の西上作戦の準備。
⑥薩摩藩と長州藩の船舶への継続的攻撃による畿内での薩長軍増強の阻止。

などかな、必要な処置は、その上で薩長と開戦すればよい。

150:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/10 08:57:19.37 E+TB+6HY0
>>149
それを言っちゃうと洋式軍の絶対的な不足や指揮系統の不備という幕府軍の欠陥がなくなるなw
もはや幕府軍とは別物だ。

151:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/10 10:48:08.38 dRiDKZg60
志茂田景樹か星亮一の戦記小説を見るようだ。

実際は、事前に最新戦術教練と最新武器の配備に余念がなかったのは薩摩だったわけで、
実戦に堪える最新戦術という点では長州が抜きん出ていた。

会津をはじめとする佐幕派諸藩は、戦術や武器の遅れは精神性で補えると勝手に自負していた。
幕府歩兵は武器は最新だったはずだが、戦術に無駄な密集突撃が多く狙撃で指揮官を失い自滅し、
追い散らされると指揮が更に乱れて撤退を重ねた。

152:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 03:58:17.70 CkdgmDTY0
幕府にも島津斉彬みたいな人がいればよかったのに

153:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 08:04:01.21 FdofPEkg0
>会津をはじめとする佐幕派諸藩は、戦術や武器の遅れは精神性で補えると勝手に自負していた。

思ってネーヨ!

特に庄内藩と長岡藩は、もう全軍銃兵化を計画している。
藩士、郷士の身分は関係ナシの片っ端の銃兵化計画。
しかも最終的には、後装式銃での全軍銃兵化だ。

会津?シラネ
でも鳥羽伏見の戦いでは、白刃を抜いての万歳反復突撃は、物凄い物があった。
死者数も物凄いが…

>戦術に無駄な密集突撃が多く狙撃で指揮官を失い自滅し、
>追い散らされると指揮が更に乱れて撤退を重ねた。

まさか戦闘になると思っていないから、兵隊に弾を込める命令を出していないし、
丹波口からの山陰街道を下っている山陰鎮撫隊への攻撃もしていない。

最大のミスは、西国街道に幕府兵を配備しなかった事だろう。

西国街道を北上すれば、鳥羽街道の薩摩軍を迂回して薩摩軍の補給基地である東寺を攻撃出来たのだが、
幕府軍の西国街道無視で津藩は裏切ってしまった。

154:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 08:11:42.01 fkgg+sZf0
>>153
文が矛盾していることに気付いていないのだろうか。

155:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 11:42:17.29 XrjN6Pq3O
近代歩兵戦の経験値と金の問題で幕府が直接抱えてる歩兵隊とその他の藩兵の装備は差があるからな。

政治的な駆け引きとしても薩長髪

156:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/11 18:45:27.74 RDywkV490
いや錬度はダメだけど装備は大して変わらんだろ。
歩兵隊も前装式ライフル。
江戸には後装式も多少あったし。

157:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 14:45:13.69 YRaPQSx20
幕府歩兵隊の問題は、装備や練度よりも下士官の不足じゃなかったっけ。
伏見なんか奉行所から撤退した後最高指揮官がさっさと逃げ出して、
部隊は当てもなく一晩明かした後三々五々撤退とかお粗末すぎる。

158:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 18:54:52.63 oa6+3tYd0
>>154
銃だけで戦争を戦うわけじゃないから、べつに白兵戦における会津藩の戦力を評価するのは矛盾ではない

159:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 18:57:00.37 XzjYQGOn0
下士官(軍曹級)よりも下級士官の経験不足は大きく影響しただろうね。
歩兵自体は士分ですらないから下士官程度までで指揮はできない。
中隊長クラスは士分を当てるから当たり外れが大きい。
まあそれより上のクラスでも近代戦を理解してた将校は何人いるか・・・
大鳥くらいじゃないのかね?

160:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 20:57:48.42 6Py8FKGIO
>>159
大鳥も長州征伐でようやく基本を理解したってぐらいだからな。
少数のゲリラ的な戦いならある程度勘でやれたみたいだが、大兵力の火力展開から白兵突撃や後退の指揮までやれたのは寛永寺以降だったようで。
フランスやイギリスの教官から習った事だけではどうにもならなかった。

161:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 23:18:27.69 Q8T4FYRi0
先見性がある藩だからこそ新政府側へ寝返ったり日和見ったりするんだよな。
これらの藩を幕府側につけることが重要だったかも。

162:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/12 23:50:06.89 6Py8FKGIO
>>161
味方は多いにこしたことはないからな。
ただ、どうやったら味方につくかって話で。
諸藩に分かりやすいビジョンとエサを与えるにはやっぱり天皇っていうカードは大きいかなぁ

163:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/13 03:56:17.77 E0r9BtIa0
>>158
だが、旧幕府軍の戦力は優秀だったと宣言するときには、
鳥羽伏見の戦いに出てこない庄内・長岡を挙げ、
資料では討ち減らされるだけだった会津兵が勇猛だったかのように語るのは、鳥羽伏見の戦いにおける史実に反する。

164:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/13 07:34:36.37 D+YNLlmN0
大阪から京に直接行くのに、西国街道、鳥羽街道、竹田街道、伏見街道の4つがあり、
幕府と佐幕派諸藩の兵15000人が鳥羽街道と伏見街道にしか進撃しなかった。

これは大失敗。

西国街道と竹田街道には、薩長軍はほとんど居ない。
ここを進撃すれば、幕府軍も佐幕派諸藩も下京に突入できたし、
そうなれば鳥羽伏見で戦っている薩摩と長州の部隊の一部を撤退させて
下京防衛に回さなければならない。
そうなると鳥羽伏見の幕府軍は楽になる。

それに下京に幕府軍や佐幕派諸藩が突入すると、元々本音では徳川家よりの
土佐藩の寝返りが起きるし、それに釣られて越前、尾張も寝返るかも


大阪に留まっている姫路藩と京への進撃に出遅れた紀州藩には、
山陰街道に回り込んで進撃する命令を出しても良い。
薩摩軍1千人と決戦になるが、一部洋式化されている紀州藩兵相手なら面白い対戦になる。



まあ、実際のところ幕府軍は、戦闘になると思っていなかったんだろう。
兵士は弾丸も銃に込めていなかったぐらいだし、不意を付かれた訳だ。

165:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/14 07:02:24.69 LLx6qi7R0
>>164
戦術的には良いんだが…無理じゃね?
幕府軍の指揮官は「朝廷の命令により、通過させる事は出来ない」と関所で止められると、
「関所で止められたが、でどうしたら良いか?」と馬を大坂城へ走らせ、将軍様に一々お伺いを立てる。
多方面から進撃しても、この状況は変わらないだろう。結局、多方面で「通行出来ず、進撃不能」という報告が大坂に行くだけ。
この間に薩長に錦旗渡っちゃうよw。
最初から武力で突破して薩長に戦争準備させないのであれば、鳥羽伏見二方向からの進撃(史実通りの)で兵力は集中されているんだから、
余裕で勝てたはず。

166:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/14 08:26:09.51 tu6nDNA/0
西国街道、竹田街道では、幕府軍は止められないでしょう。
薩長軍が居ないんだから。

丹波街道の戦いでも、嵯峨で決戦となると天竜寺が焼けてしまうなw

167:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/14 09:01:10.62 LLx6qi7R0
たまたま居なかっただけでしょ
朝廷命令として「幕府軍の通過を阻止しろ」と出されているので、薩長兵だけでなく大垣藩だろうがどこの藩だろうが居れば止めますw。
居る居ないという議論は無駄ですよ。そんな運まかせの戦術論は戦術論じゃありません。
戦術論で勝利を目指すなら「居る事を前提に」考えなければ、必勝の策とはなりますまい。


168:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/15 14:00:23.34 VXbf62bj0
まぁでも、薩長が居ればその分他の街道に展開してる兵力も薄くなるし、
薩長以外の藩が守っているなら突破できたかもしれない。
何より、幕府にはそれをやっても各街道で十分な兵力の厚みを維持できるという強みがある。

なーんて後世からの視点で言ってみても、あの幕府重臣連がそれを的確に指揮できたかは疑問だけどw

169:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/16 02:48:42.91 vF8CwBsKO
>>1-168

170:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/17 19:46:52.53 kXciYGsI0
慶応四年の正月早々から戦争する事無いんだよ。
関東では騒乱状態なんだから、それを鎮圧してから薩長と本格的に戦争すればよい。

ストーンウォール号を手に入れて、五月開戦で十分。

それまでに長州藩部隊の増強は有り得るが、
薩摩藩は鳥羽伏見の戦い直前に4000人の部隊を上京させたが、それ以上の増強はかなり厳しい。
薩摩藩内部に討幕戦争に批判的な声がある。
島津一門や家老でさえ意見が一本化されていないにの薩摩藩部隊を無理やり4000人を上京させている。

171:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/17 23:21:40.28 Bd+/77C30
>>170
それは無理じゃねぇか?
開戦したがっていたのは旧幕軍主戦派で、慶喜自身も止めようがなかった訳だし

172:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/18 12:29:50.89 gpmh8ZHP0
薩摩藩江戸藩邸焼き討ち事件の発生を聞いた時点で、慶喜は江戸に帰還すればよい。
ちょうど関東は、騒乱状態だし。

詳細の報告書を京都の新政府に報告して
小御所(議定)会議で薩摩藩のテロ支援活動を断罪してもらえばよい。

薩摩藩の議定や参与の責任問題になり、解任されるかもw

173:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/18 16:41:43.53 NlchFCB10
そこで慶喜東下の為に大阪城内を抑えきれるかがまた問題な訳で。
あの時点で脱出しても、それこそ残された連中が何やらかすか分かったもんじゃない。
まだ在京の薩長なら余裕で蹴散らせると思ってるし、余計な連中まで江戸表から上ってくるしな。
せめて幕閣の多数派がイケイケじゃなければ、何とかなったと思うんだが。

174:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/18 19:29:52.60 kiVa3bIa0
>それこそ残された連中が何やらかすか分かったもんじゃない。

慶喜が居ない時には、大戦争は起こせない。

慶喜は大阪の幕閣に宿題を出してやれば良い。
幕府軍はいきなり京を攻めるのではなく、
まずは畿内の勤王藩を攻撃して、朝廷シンパが畿内に広まらないように手を打つべき。

慶喜は、大阪幕閣に畿内勤王藩制圧作戦を行うように言う
近江、大和、丹波、摂津の小藩が以外と勤王藩に転向しているケースが多い。

175:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/19 10:28:30.95 YXdTTC970
>>174
通常ならその通りなんだが、当時は慶喜の身が異常な状況だからな。
慶喜無しで統制できるなら、そもそも慶喜の欲しない鳥羽伏見が起きることは無かっただろう。
幕閣で頼りになるのは板倉ぐらいだが、その板倉ですらお手上げ状態だからなぁ。

あと、勤王藩攻撃して停戦の勅命が下った場合、従わなければ朝敵認定される訳で。
それならいっそ京を直撃した方がいいと思われ。

176:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/19 18:52:56.08 St0Cmp+V0
>まだ在京の薩長なら余裕で蹴散らせると思ってるし

いや、全員がそう思っている訳でもない。
慶応三年十一月までは、京に居る討幕派の兵力は薩摩藩兵2000名ぐらいだったが、
十二月になると薩摩藩の援軍2000と長州藩兵1300が上洛し討幕派の兵力が
5000人を超えてしまう。

永井尚志なんかは、薩長の援軍上洛を聞いて、
これ以上の討幕派の兵力増強を阻止すべく慶喜に進言している位。

>余計な連中まで江戸表から上ってくるしな

それは長州藩も同じ事、戊辰戦争で長州藩は最終的に2万人も動員している。
同じく薩摩藩は、数千人だそうだ。

>そもそも慶喜の欲しない鳥羽伏見が起きることは無かっただろう

幕府強硬派の圧力もあったが、慶喜自身もそれなりに戦闘での勝利に色気が無かった訳ではない。
討薩表を書いて、幕府軍の戦闘に掲げた事も慶喜は了承している。

>勤王藩攻撃して停戦の勅命が下った場合、従わなければ朝敵認定される訳で

理由付けの内容次第だろ。
無罪の藩にいきなり攻撃を仕掛けたら、朝廷三職会議で朝敵にされかねないが、
薩摩藩が関東で行っているテロ支援活動なら、むしろ薩摩藩の方がヤバイ立場に立たされる。

彦根藩や西大路藩、膳所藩などは、薩長の後方支援を行っているし、
園部藩、篠山藩などは天皇の逃亡の手助けをしているので、土佐、越前、尾張などの
徳川よりの議定(藩主)からは、非難されるだろう。

現実に畿内の藩がそれほど戦闘力を保持している訳でもない。
郡山藩の藩主も正室が薩長シンパの公卿一条家から嫁に来ているので、要注意だが、
実際に鳥羽伏見の戦いで、朝廷側に参戦して大阪城を攻撃した訳ではない。
大阪-奈良間の街道には、佐幕派の姫路藩兵数百名が陣取り、警戒していた為に
郡山藩は、何も軍事的には動けなかった。

177:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 00:01:18.79 n8TUO/TC0
>>176
いやー、それはちょっと難しいんじゃないかな。
薩長側っつっても、彦根なんかはあくまで朝廷の勅に従って上洛してる訳で。後方支援は鳥羽伏見でしょ?
園部藩にしても鳥羽伏見の前に表立って批難される動きはしてないし、天皇遷御の密約を証明でもしないと
京で頑張ってる容堂公や春嶽公でもフォローできるか疑問。
あと篠山藩って、山陰道鎮撫軍が来る前に何かやってたっけ。

軍事的には、王政復古で長州藩が大手を振って上洛出来るようになっていたことを考えれば、
敵の増強を待たずに鳥羽伏見の時点で開戦したことはそれほど悪い選択ではなかったと思われる。
ストーンウォールはあくまでも海上戦力だからね。
ただ、戦略的に指揮をとるのが史実通りの面子では話にならないが……
それ以上開戦を引き延ばすなら、軍事的な状況の好転よりも容堂公、春嶽公による政治的巻き返しに
期待した方がよい。

178:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 00:16:26.02 MENVtCDq0
>>176
>幕府強硬派の圧力もあったが、慶喜自身もそれなりに戦闘での勝利に色気が無かった訳ではない。
>討薩表を書いて、幕府軍の戦闘に掲げた事も慶喜は了承している。

了承してないしてないw
その見解は、「幕府歩兵隊(中公新書)」の著者が書いた「鳥羽伏見の戦い(中公新書)」で語られたものだ。
ところが、その著者は幕府歩兵隊ひいては主戦派贔屓で、自分に都合良い資料と見解を述べているだけなんだよ。

「慶喜公伝」やその著者が使っている史料を丹念に見ていくと、
慶喜が了承したのは”討薩表”を朝廷に提出する事”であって、戦争に関しては依然として”戦うな”なんだよねw。
幕府主戦派は、提出を許可された事を利用して軍を進發させた。
主戦派の考えでは、圧倒的な兵力を前に薩長側が恐れをなし戦わずして入京。
討薩表を朝廷に提出した上で、御所に兵を入れる。
ここまで来れば、薩長は戦わずして敗れ天皇を奪還できると考えていた。
慶喜が色気を見せたのはコレね。戦争にならずに天皇を取り戻せるんならそれに越した事は無い。
だから、慶喜は討薩表を出す事に許可を与えたが、戦争をする事は許可してないんだよ。

179:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 00:22:58.11 MENVtCDq0
ついでに言えば、だからこそ関所で進軍を止められ討薩表を提出出来なくなった幕府軍は、
大坂の慶喜に指示を仰いだ。圧倒的に兵力が少ない薩長から攻撃してくる訳がないと思っていたからこそ、
戦闘展開もせず行軍隊形のままで待機しちゃってたのさ。
そこを薩摩が砲撃して開戦になったんでボロ負けしたという経緯だからね。

180:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 09:45:30.16 DVVxuUCx0
>>176
すまんすまん、江戸表からの余計な連中ってのは、滝川とかの幕閣強硬派のことを指した積りだった。

181:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 09:59:24.88 vLW4seeq0
>「慶喜公伝」

「慶喜公伝」w
それ明治政府への言い訳文章だからw

それに進撃許可を与えて、戦闘許可は与えない。
なんてどんな言い訳よw
旗本銃兵と薩摩藩士が伏見で「通せ!通さない!」の押し問答している最中に、
伏見奉行所では竹中重固が地図を広げて軍議を開いている。もう戦闘準備モードだよw

>園部藩にしても鳥羽伏見の前に表立って批難される動きはしてないし
>あと篠山藩って、山陰道鎮撫軍が来る前に何かやってたっけ。

畿内の小藩は、直接的な軍事行動は出来ないですよ。
兵力も少ないし銃兵化もしてないし、精々公家と密談して
「朝廷側に付きます」って言っているぐらいなもの。

>彦根なんかはあくまで朝廷の勅に従って上洛してる訳で。後方支援は鳥羽伏見でしょ?

彦根藩・西大路藩・膳所藩は、大政奉還の頃からもう幕府から離れ始めています。
彦根藩家老の岡本黄石だけが慶喜に近く二条城や大阪城に居るだけです。
藩主も井伊一門もほとんどの家老も在国中で朝廷寄りになっていますよ。
後方支援の為に東寺に入ったのも鳥羽伏見の戦い以前からです。

>それ以上開戦を引き延ばすなら、軍事的な状況の好転よりも容堂公、
>春嶽公による政治的巻き返しに期待した方がよい。

土佐・越前・尾張の政治工作で時間を稼いでその間に関東の騒乱状態を鎮圧し
ストーンウォール号や元込銃やクルップ砲を手に入れて置けば良いと思います。
引き伸ばせば、それだけ神戸港からの関税収入は手に入るし徳川サイドに有利です。

長州藩兵の更なる上洛があれば、その事を理由に幕府陸軍の西進を始めても良いわけです。

それに薩摩藩の関東でのテロ支援活動を土佐・越前・尾張の三候に頼んで朝廷で暴露してもらえば良い。
大久保一蔵は、参与を解任されるかもw
で討幕反対派の薩摩藩家老関山糺が参与に任命されたら、薩摩藩の討幕姿勢は鈍りますね。

182:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 18:52:54.98 DVVxuUCx0
>>181
篠山藩は山陰道鎮撫軍が来るまで藩内でゴタゴタしてなかったっけってだけです。
要するに、幕府から離れてるってのを根拠に討伐するってのは、京の政局的に弱いんじゃないのってこと。

幕府陸軍の西進が良く分からんが、東下の際に連れてくってことかな。
薩摩の非を鳴らすのは、政治的には+になったかもしれない。
参与云々については、当時の薩摩藩の内部事情に詳しくないので何とも言えないが。
ただ、時間稼ぎっつっても、容堂公と春嶽公は本気で慶喜中心の諸侯会議を目指してる訳で、
京で結論が出た場合は旧幕府として何らかのリアクションを取る必要に迫られるってのはある。
とりあえず納地棚上げして召集しようやってとこまで話は進んでた訳で。

183:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 21:58:33.30 y3xv+wCh0
>>181
>慶喜公伝について
もちろん明治維新後の自己弁護が入っている訳だが、それだけを見て言っている訳じゃないよw。
「鳥羽伏見の戦い(中公新書)」の参考文献を取り寄せて呼んでみなってw。
逆に聞くけど、「慶喜が先頭許可を与えたという明確な史料」も無いだろw。

>伏見奉行所では竹中重固が地図を広げて軍議を開いている。もう戦闘準備モードだよw

 そう。幕臣主戦派は戦いたくって仕方がない。ところが総大将の慶喜が先頭許可を出さない。
だから”主戦派と慶喜の妥協案として出てきたのが、大兵を京都へ送れば、薩長がビビって逃げ出すだろうから、戦争になる事もなく勝てますよ”という案なんだって。
主戦派と慶喜の玉虫色出兵策ね。慶喜もこれ以上主戦派を押し止める事が出来ず、結局兵を京都へ送る事に許可を与えたんだ。先頭許可は与えずにね。

 そもそも、戦争許可を与えていたなら薩摩藩兵が守っている関所にのこのこ「通せ」なんて交渉する訳ないじゃん。
薩摩兵見つけた途端に攻撃開始でしょw。先頭命令が出ているなら。交渉なんてする必要ない。
攻撃して薩摩兵を蹴散らし、悠々と関所を突破して京都に行くでしょう普通w。
そうしなかったのは、戦うなと言う指示が出ていたからだよ。


184:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/20 22:01:22.40 y3xv+wCh0
誤字修正
参考文献を取り寄せて呼んでみなって:×
参考文献を取り寄せて読んでみなって:○

先頭:×
戦闘:○

185:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/21 23:26:07.64 +ql0wMem0
慶喜の上京って軽武装上京じゃなかったかな?

それが、何故か途中で残らず行け!で15000人の大軍になっており、
これでは、慶喜は戦闘に入る事を半ば黙認している事と同じ。
と言うのが野口武彦氏の説明。

漏れもそう思う、慶喜は、あわよくばって思っている。

>慶喜もこれ以上主戦派を押し止める事が出来ず、
>結局兵を京都へ送る事に許可を与えたんだ。戦闘許可は与えずにね。

これは残念に思う。
薩摩藩のテロ活動で、武蔵と相模は、騒乱状態だし
江戸市内の治安も急に悪化しているので、そちら鎮圧を優先する!
と言う事を慶喜は貫き通せなかったのは、誠に残念。

>要するに、幕府から離れてるってのを根拠に討伐するってのは、京の政局的に弱いんじゃないのってこと。

薩摩が、そう言って来たら、山内容堂あたりに
「じゃ~11月からやっている関東での薩摩藩のテロ支援活動何とかしてよ、もう土一揆まで誘発してんだから!」
長州が文句言って来たら、松平春嶽あたりに
「お宅の軍隊が、山陰道を上がってくるけど、ナンなのよ?畿内で大戦争する気?」
と、それぞれ議定会議で言ってもらいましょう。

下手をすると、薩長の責任問題になり、議定や参与の解任に成りかねません。
慶喜の責任問題も、ウヤムヤに。

>篠山藩は山陰道鎮撫軍が来るまで藩内でゴタゴタしてなかったっけってだけです。

討幕派と佐幕派の内紛でゴタつく畿内小藩が多いです。
膳所藩も藩主が佐幕派だったので、藩内の討幕派と佐幕派の内紛は一応佐幕派が押さえ込んでいました。
それでも藩内で藩士同士の切り合いや、藩主による討幕派の大弾圧としての藩士の大量切腹がありました。
しかし大政奉還で藩主も討幕派弾圧を止めてしまい、同じ近江の彦根藩の動きに合わせて討幕派に合流と言う感じ。

郡山藩が討幕派に近づいた為に、同じ大和の柳生藩(歴代将軍の指南役)まで
討幕派になったのには、畿内諸藩で評判になりました。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch