【敵国】元寇について語るスレ【降伏】at HISTORY
【敵国】元寇について語るスレ【降伏】 - 暇つぶし2ch465:日本@名無史さん
13/09/06 08:33:21.80
そもそも、矢が短いいけど、毒矢でやられてしまうって意味が通らないでしょ。

466:日本@名無史さん
13/09/06 08:49:33.16
>>450
>偽書を偽書として研究するのはいいが、偽書をそのままソースにするのはアホ

分かりがわるいな。
古事記を偽書として研究するのではない。偽書であることを踏まえた上で、
そのなかに含まれる真実を歴史研究に活用するのだ。

古事記をそのままソースにしている論文はいくらでもあるではないか。

467:日本@名無史さん
13/09/06 08:59:18.12
大友文書に戻ろう。

形式は別としてその内容が真実であると考える理由は次の通り。

1)その内容は大友家に不利である。内容まで偽造するのなら不利な内容を偽造する
はずがない。
2)その内容が新しい為政者に信用されることを期待して書かれている。つまり、
新しい為政者すなわち武士社会の代表者に、「文永の役で戦わない御家人が多かった」
という認識があることを前提にしている。

「文永の役で戦わない御家人が多かった」というのはこの時代の武士社会の一般認識
だったのだ。
言い換えれば、この時期にこの文書が存在すること自体が、その内容が真実であること
を保証するのである。

468:日本@名無史さん
13/09/06 08:59:46.73
政府関係者が編纂した歴史書の古事記と大友家が自らの家格を
押し上げることだけが目的の偽書とを比較すること自体ナンセンス。

469:日本@名無史さん
13/09/06 09:08:02.41
1)その内容は大友家に不利である。内容まで偽造するのなら不利な内容を偽造する
はずがない。

文永の役で日本軍の指揮を執っていたのは少弐氏。
その少弐氏の不手際に対して、大友氏に全国の御家人の指揮を委ねたとするのがこの偽文書。

つまりは、大友家が大権を託された由来として、偽文書の内容は不利なのではなく、大友家にとって有利。何がはずがないのか、意味がわからないんだけど。
(「文永の役で戦わない御家人が多かった」というのはこの時代の武士社会の一般認識 だったのだ。)と偽文書から論理を飛躍するのは、感心できないな。

470:日本@名無史さん
13/09/06 09:26:09.05
>>467
「文永の役で戦わない御家人が多かった」というのがこの時代の武士社会の
一般認識 だったことを証明する史料が無い。
したがって、大友文書はまったくの出鱈目を書いてるとしか考えられない。

471:日本@名無史さん
13/09/06 09:31:06.79
>>466
分かりがわるいなのはそっちだろ。
古事記は偽書じゃないんだから、そのままソースにしている論文があっても
何の問題もないじゃん。
偽書を歴史研究に活用することと関連が一切ない。

472:日本@名無史さん
13/09/06 13:52:36.05
南宋の知識人や商人などを通してフビライの帝位継承戦争と
樊城攻撃の予測はおそらく鎌倉に伝えられていただろうね。
となると朝幕とも、蒙古の国書を見ても何をかいわんやと言う認識であっただろうな。

473:日本@名無史さん
13/09/06 15:45:17.16
>>470
偽書確定で内容も信ずるに足らないってだけなんだよね
なんでこんな話でいつまでも引っ張ろうとするのか

474:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/06 18:17:33.92
三度目の来寇は戦わずして大風で撃沈か。

この島は海から吹く風様に守られておるのじゃ…

475:日本@名無史さん
13/09/06 18:18:30.79
日本は野蛮で外交わかってないけどたまたま台風で生き残れただけですね

476:日本@名無史さん
13/09/06 18:22:05.91
モンゴルの国書を読む限り、モンゴルが外交を理解してるとはいいがたい

477:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/06 18:29:49.13
>>462
変わってないって。お隣は相変わらず蒙古の召使いやらされてるし。

478:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/06 18:43:39.05
>>475
弘安の時は、たまたま思円上人の涙ながらの祈祷で栂尾大明神が
降りて来て、ほら風吹かしてやったと言われたんだと。

全くの防衛戦争で、一所懸命にお祈りすりゃな…

479:日本@名無史さん
13/09/06 18:46:12.44
糞弱い日本は土下座するしか無かったのに
アホの幕府が使者斬って詰んだけど
神頼みの運だけで凌いだのか

480:日本@名無史さん
13/09/06 18:47:54.69
同じキチガイでもパフォーマンスコンクールが居た頃と比べて空気が緩みまくってるな
低レベルすぎてどうでもいいってか

481:日本@名無史さん
13/09/06 20:27:02.10
和馬と棄民とパフォコンの頃のスレはガチ壮絶だったよな

482:日本@名無史さん
13/09/07 01:38:25.94
パフォコンはあれだけ調べてるのになんであんな結論になってしまうのだろう

483:日本@名無史さん
13/09/07 04:43:57.99
tes

484:日本@名無史さん
13/09/07 07:17:16.27
坊やだからさ

485:日本@名無史さん
13/09/07 11:01:31.88
日本の馬はポニーサイズとかいいますが蒙古襲来の向こうの資料とかに
サイズかいてあったり日本の馬小さすぎワロタみたいなのってかいてないのですか?

486:日本@名無史さん
13/09/07 11:20:48.41
>>485
蒙古側の馬も日本と同じポニーサイズだから特筆したりしないだろ。

S・R・ターンブル・著 『モンゴル軍』

「モンゴル馬はあらゆる意味で乗り手と同様にタフだった。この馬は当時、
そして現在も4フィート4インチから8インチ(約131~142cm)ぐらいの
背丈が低い頑丈な種である。」

487:日本@名無史さん
13/09/07 12:01:20.84
日本の馬はポニーサイズwwみたいな感じで
馬鹿にする奴たまにいるけど、蒙古馬も同じサイズ
だっていうの。

とにかく、日本を低く小さく矮小化しようとする輩が
必ず湧いてくるよな。

日本側は一騎打ち戦法とかウソが流布してたり、なぜか
元寇の説明にやたらと蒙古兵のてつはうとかは異様に強調
する割に対する武士が戦闘のプロであるという説明がごっそり
抜け落ちてたりする。
印象操作だよね。

488:日本@名無史さん
13/09/07 12:22:25.54
教科書の写真が、苦戦しているワンシーン(竹崎季長が騎馬で吶喊かけてるやつ)ばかりだもんね
偏ってるよ
奮戦した少弐景資や菊池武房も無名だしな

489:日本@名無史さん
13/09/07 12:27:25.33
アレって、「敗走する蒙古騎兵。追撃する日本兵。撤退を支援する蒙古弓兵」って構図で良いのかな?

490:日本@名無史さん
13/09/07 12:43:13.46
蒙古兵は左手の防衛陣地らしきものに向かってるし、それで合ってるのではないかと

491:日本@名無史さん
13/09/07 12:57:23.81
文永の役で蒙古軍が内陸部に拠点を築いて長期間戦うつもりだったとは思えんけどな

492:日本@名無史さん
13/09/07 13:06:04.11
だから防衛陣地「らしきもの」
盾並べてるだけでしょ?

493:日本@名無史さん
13/09/07 13:23:50.57
文永の役の元軍は船を拠点として何回かヒットアンドアウェイを繰り返して
十分示威できたと思ったら帰るつもりだったんだろ

494:日本@名無史さん
13/09/07 13:27:16.06
戦闘では楽勝だと思ってたんだろうね

495:日本@名無史さん
13/09/07 13:29:27.33
>>491
あきらかに蒙古軍は日本征服する気だったよ。
クビライは文永の役にタイミング合わせて自分の娘を高麗国王に嫁がせてるわけで、
蒙古軍がおめおめ逃げ帰ったら帝国の権威失墜じゃん。

496:日本@名無史さん
13/09/07 13:32:31.64
>>495
あんな補給もない弱体兵じゃいずれ包み込まれて殲滅させられるのは
普通の指揮官ならわかる

497:日本@名無史さん
13/09/07 13:34:20.76
クビライが最終的に日本を制服、あるいは属国化させるつもりだったのは確かだろうが
文永の役だけでそれを成すとは考えてなかったろう

498:日本@名無史さん
13/09/07 13:34:24.26
さすがに離反工作も無くたかが4万で制圧は考えてないだろう
戦場で無敵でフルボッコしても統治できんわ

499:日本@名無史さん
13/09/07 13:37:45.13
>>496
九州に上陸したのは弱兵どころか、モンゴル皇帝の親衛隊も務めた最精鋭部隊。
文永の役の半年前にモンゴル本土から招集された。

500:日本@名無史さん
13/09/07 13:41:57.58
>>499
しかし日本の土の上ではでは弱体だったし守備の手薄な離島を蹂躙しただけだな

501:日本@名無史さん
13/09/07 13:44:53.39
>>493
上陸作戦においては上陸の瞬間が一番危険が多いわけで、船を拠点として
ヒットアンドアウェイを繰り返すなんて作戦はあり得ないよ。
一度上陸した部隊が船に戻ったってことは戦闘で負けたってこと。

502:日本@名無史さん
13/09/07 13:47:47.47
>>501
先頭で負けたのはそうだが、長期野営するつもりとかありえない
京都まで攻め上って天皇を討つつもりだったのか

503:日本@名無史さん
13/09/07 13:51:22.45
軽くなでてやったら頭下げてくると思ってたんだろう

504:日本@名無史さん
13/09/07 13:59:58.50
>>502
モンゴルは何度使者を送っても京都へ入れず、返書ももらえなかったから
武力行使に踏み切ったわけで、逆に言えば京都へ攻め込むか返書を出させるか
でもしなければ武力を使う意味がない。
最終手段に踏み切った以上、何としても結果を出す必要がある。

505:日本@名無史さん
13/09/07 14:17:04.11
(この話題を出すとパフォが出てくるかも知れないが)
蒙古はおそらく博多も含めて大宰府と認識していたから、
そのあたりを攻め落とせば何とかなると思ってたのだろ。

4万で攻めたら1日で撃退、14万で攻めても皆殺しにされた日本みたいな軍事大国のほうが稀少なので

506:日本@名無史さん
13/09/07 14:20:35.70
樺太、珍島、済州島に渡海遠征した蒙古軍は文永の役より
はるかに下回る1万の軍勢に過ぎなかったが、これらの島を占領している。

文永の役は蒙古軍が3万以上いるし、完全に占領するつもりだったんだろうね。
日本を占領するつもりが、あまりの武士の強さに逃げ帰ったというのが1番納得いく。

507:日本@名無史さん
13/09/07 14:22:16.88
>>504
だから最終的には日本を服属させるつもりだったのは確かだろ
日本での戦いは蒙古が経験してきたような平原で大軍が雌雄を決するような戦いではないし
天皇の直属軍を破れば勝ちというわけではない
日本は封建制であちこちに力を持った実力者がいた

ただ元軍も日本の実力を計りかねていただろうし、示威によって降伏する可能性も考えていたが
そうではなかったということだ
「元史日本伝」によれば矢が尽きたことを撤退の理由の一つにあげていて
これは多分に言い訳が入ってるだろうが、補給も期待できない上にたいした軍備でもなかった

「高麗史」では忽敦が「疲弊した兵士で日増しに増える敵軍と戦うのは策ではない」と述べているように、
日本攻略の困難さは把握していたはず

だから今回は示威行動に徹して、それで降伏すればよし
そうでなければ南宋攻略後に本格的に戦うつもりだったのではないか

508:日本@名無史さん
13/09/07 14:26:11.71
示威を示すどころか、逆に大陸に逆遠征を計画されちゃうほど
結果は舐められようになっただけ。

最低でも太宰府は落とさないと示威になんぞ、ならない。
高麗史にあるように蒙古軍は、多大な損害を出して疲兵して
夜間に逃げ帰っただけ。

509:日本@名無史さん
13/09/07 14:29:54.27
まー太宰府攻略はできたらやったろうが
日本軍というのは強力なゲリラがあちこちから湧いてくるようなもので
とうてい保てるものではないことは並みの指揮官ならわかる

510:日本@名無史さん
13/09/07 14:31:49.16
ちなみに九州の二倍の面積があるジャワ島に
派遣された蒙古軍は2万。もちろん、征服が目的
だった。

日本に派遣した蒙古軍3万だけは示威が目的だったなんて
アホな珍説をこのスレでいうと笑われるよ。

511:日本@名無史さん
13/09/07 14:34:17.88
>>510
そうとしか思えんけどね
笑われてるのはお前じゃないの

512:日本@名無史さん
13/09/07 14:36:11.45
島の広さだけで比較しても

513:日本@名無史さん
13/09/07 14:41:22.68
そもそも、珍島、済州島、樺太、ジャワ島など日本以外の渡海遠征は
すべて征服が目的であり、示威で軍勢を派遣などしていない。

日本には、それらの島に派遣された軍勢を上回る軍勢を派遣していながら
なぜ、日本にだけは示威遠征としか思えないとアホな結論になったの?

514:日本@名無史さん
13/09/07 14:43:56.80
上陸してたった一日で逃げ帰ってるのに示威になんてならんだろう。

515:日本@名無史さん
13/09/07 14:44:53.24
戦場での戦闘能力でボロ負けするのはそりゃ想定外だから仕方ないだろ
というか予測できるか

516:日本@名無史さん
13/09/07 14:45:23.79
>>513
人口多いから

517:日本@名無史さん
13/09/07 15:01:10.85
>>514
蒙古側の計画がどんな物か知らないが、企画倒れに終わったという事じゃないか?

文永の役における蒙古軍の目的は、日本征服または九州に恒久的な橋頭堡を得ることの
可能性が高いと思う。だが、現地に来てみたらそんな生やさしい話じゃなかった。
蒙古の司令部は相当に優秀な人たちだったのだろう。「もうちょっと戦って様子を見よう」なんて
中途半端を考えず、「もう無理、逃げよう」と英断を下して即日撤退という流れじゃないかな。

518:日本@名無史さん
13/09/07 15:37:10.94
朝廷の重臣が大宰府の記録を幕府に見せてくれて
唐が北九州に進駐していた時期に何処と何処を抑えていたか大陸人の好みを知る事が出来ていたお蔭で
防塞の造りが適当であった由により
元軍は斥候からの報告に基づき少し外れの地形的に難しく上陸しても補給の続かない地点を攻めさせられる羽目になっていたから

以上資料無し文部省検定済み教科書他をパラパラ眺めた程度勘

519:日本@名無史さん
13/09/07 16:07:14.45
蒙古は明らかに日本を征服する気で遠征軍を組織してる。日本から見たら信じられないような話だろうけど。

英断と言うより、莫大な損害を出して翌日の戦闘に耐えられないのが明らかだからでしょ。
日本軍も一部軍勢の突出で前のめりになって戦ってたから、いったん攻勢が止んだ。しかし翌日まで粘ってたら全滅は確定
はたして本土の激戦後の夜間撤退と言う強行日程で金方慶伝の言うような軍議がされたのかどうか、場所についても異論が出ていた。

520:日本@名無史さん
13/09/07 17:08:53.43
元軍の指揮官の忽敦って敗戦の責任取らされて処刑されてるよね。
文永の役の後、一切の記録から消えてる。

521:日本@名無史さん
13/09/07 17:48:48.27
あれ? 弘安の役にも参加してなかったっけ?

522:日本@名無史さん
13/09/07 18:43:59.55
それヒンドゥだよ。クドゥンとヒンドゥは別人。

クドゥンは本当に文永の役のすぐ後から記録から消えてる。
死んでしまったのか、敗戦の責任をとらされたのかは不明だけど。

523:日本@名無史さん
13/09/08 05:24:36.09
そもそも、なんで鎌倉武士は一騎討ちが主流なんて説が蔓延していたの?
平家物語でも読めば、それが特殊な状況であることぐらいわかりそうだが…

524:日本@名無史さん
13/09/08 06:38:38.42
戦後史観が、日本軍は強くあってはなえらないから、
武士は無能でおバカだったと信じたかった。
まともな中世研究家でも、台風のお陰で元軍は撤退したという、
神風論信者がいまだにいる。
そもそも文永の役は台風の季節ではない。

525:日本@名無史さん
13/09/08 06:44:36.58
>>518
>唐が北九州に進駐していた時期に

そんな史実あるの?

526:日本@名無史さん
13/09/08 07:57:02.98
>>525
「白村江であれだけボロ負けしたんだから日本は唐に占領されたはずだ!!」
いわゆる唐の筑紫都督府説って奴
白村江関連は、普通に日本書紀や三国史記や唐書を読まないで、イメージだけで語る奴が多いからね
元寇についても同じか

527:日本@名無史さん
13/09/08 11:43:38.87
>>471
古事記は偽書じゃないんだから、そのままソースにしている論文があっても
何の問題もないじゃん。

偽書の定義としては「製作者や製作時期などの由来が偽られている文書・書物のことを言う」
というのが一般的だ。
この定義に従えば古事記は少なくとも偽書の疑いがある。なぜならその由来を主張する
「序文」に疑問が多い(人名などに裏付けが少ない、本文との矛盾がある等)からである。
序文が偽書なら本文がいかに真正であっても偽書である。定義に従えばね。

だから「偽書を利用するべきではない」という君の主張に従えば、偽書の疑いがある古事記
をソースにすることは少なくとも「何の問題もない」ことではない。
あくまで君の主張に従えば、だよ。

>偽書を歴史研究に活用することと関連が一切ない。

それについてはウィキペディアがいいことを言っている。
「その字面からは「偽りの書」として価値のない物と誤解されがちであるが、偽文書や偽書の
作成がなされた事情は、その当時の歴史的背景に由来することが多く、学問上、完全に無意味と
される物は後述のオカルト的・詐欺的な例外を除けば少ない。」

つまり偽書も学問的価値がある、言い換えれば歴史研究に活用するべきだと言っているのだ。

528:日本@名無史さん
13/09/08 13:09:12.62
>>527
偽文書や偽書の作成がなされた事情については歴史研究に活用の余地があるって
言ってるだけじゃん。
つまり、大友文書は元寇から100年後に大友氏が偽書を作成した事情についての
史料であるってだけ。
中身が嘘なんだから元寇の史料としては全く無価値であることに変わりなし。

529:日本@名無史さん
13/09/08 14:24:07.91
>>528
ウィキの文章は続けてこう書いている。
「焚書や経年劣化などで歴史上に失われた文書が多いことを鑑みれば、資料が残っている分まだ貴重な
面があるといえる。」

つまり偽書とされる文献に残っている資料そのものが貴重だと言っている。

くりかえしになるが、古事記には正偽の論争があり、正書説、偽書説にそれぞれ根拠があって、いまの
ところいずれも決定的でない。
しかし偽書説の立場に立つ学者は古事記の本文の内容を全く棄てて顧みないのかと言えばそんなこと
はなくて、ちゃんと史料として利用している。

つまり偽書であるかないかと、内容が真正であるかないかは、まったく別の問題なのだ。
ある人が、他人が書いた真正な資料を見つけて、これは私が書いたものだと序文で主張すれば、それが
偽書になるのだからね、定義に従えば。

大友文書につけて言えば、大友家に全国への指揮権があるように見せかけたところが偽書なのであって、
そのことと「進み戦わざる者多し」がウソかどうかはまったく別問題である。
むしろ君の言うように「偽書成立の事情」を考慮すれば、作成者はこれが為政者に信じられることを
期待したのであるから「進み戦わざる者多し」の部分は当時の一般通念である可能性が高いのである。

530:日本@名無史さん
13/09/08 14:34:41.75
>>526
>白村江関連は、普通に日本書紀や三国史記や唐書を読まないで、イメージだけで語る奴が多いからね

日本書紀によれば、筑紫に600人(?)だかの唐の軍隊が滞在して、それに対して日本の政府が大量の
軍需物資を与えた、となっているね

531:日本@名無史さん
13/09/08 14:47:26.66
>>469
>文永の役で日本軍の指揮を執っていたのは少弐氏。
>その少弐氏の不手際に対して、大友氏に全国の御家人の指揮を委ねたとするのがこの偽文書。

なるほど、「進み戦わざる者多し」の責任を少貳氏におっかぶせて、それによって少貳氏の不利、
大伴氏の有利を図った、というわけか。

しかしそれだと「進み戦わざる者多し」が事実だったということになってしまうな。

532:日本@名無史さん
13/09/08 14:50:09.43
>>529
そもそも元寇当時の事情が100年後に正確に伝わっていれば、当時大友家に
全国への指揮権があるように見せかけた偽書が作成されるわけないんだから、
偽書が作成されたってこと自体「進み戦わざる者多し」の部分が元寇の
史料と舌は全くの無価値だってことの証明。

533:日本@名無史さん
13/09/08 14:51:02.33
>>531
訂正
大伴氏→大友氏

534:日本@名無史さん
13/09/08 15:05:55.75
>しかしそれだと「進み戦わざる者多し」が事実だったということになってしまうな。

何がなるほどだよ。少弐が文永の役で責任をとらされた事実が無いのだから
「進み戦わざる者多し」ことによって少弐氏から大友氏に指揮権が全国に移った
とする結論とその由来部分である「進み戦わざる者多し」も捏造と見做して問題ない。
むしろ、「進み戦わざる者多し」の由来部分と捏造結論部分を分けて考えること自体
間違っている。

535:日本@名無史さん
13/09/10 09:38:04.97
>>534
>「進み戦わざる者多し」ことによって少弐氏から大友氏に指揮権が全国に移ったとする結論

これは元を正せば大友文書の内容が大友氏にとって不利だという私の意見が始まりだったな?
で、少貳が文永の役の大将だから「進み戦わざる」は少貳の責任だという君の意見だが、

少貳(武藤)氏と大友氏はどちらも鎮西奉行であって対等であり、対蒙古防衛に関する
特別権限を幕府から受けている。つまり防衛の権限と責任を共同分担している。

だからその日の戦闘について「進み戦わざる者多し」は、少なくとも少貳と大友の
共同責任である。(大友の配下の武士について言ったのだという見方は多いけどね)

百歩譲って「進み戦わざる」が「日の大将」である少貳のみの責任だとしても、大友文書は
次の内容を含む。
「或いは当境を守ると称し馳せ向かわざるの輩、多くその聞こえ有り、甚だ不忠の科を招くか」

これはそもそも戦闘に参加していないのだから、その日の戦闘に関係ない。そして武士の招集に
関しては大友、少貳がそれぞれの担当地域について召集令をかけたのであるから、この部分は
大友の担当地域において大友の威令が足りなかったことを責めているのである。

大友文書の内容は大友氏にとって不利であることがわかったかな?

536:日本@名無史さん
13/09/10 09:43:57.63
>>535
偽書をもっともらしく見せかけるには内容が大友にとって不利なほうがいい。
結局、偽書はどこまで行っても偽書に過ぎないってこと。

537:日本@名無史さん
13/09/10 13:13:34.24
しばらく来てなかったけどパフォコン爺が新キャラでも始めたのか?

538:日本@名無史さん
13/09/10 14:33:48.67
>>536
>偽書をもっともらしく見せかけるには内容が大友にとって不利なほうがいい。

そう、時の為政者に、「なるほど、そんなこともあったのか。いかにもあり
そうなことだな。そう言えばそんなことがあったと聞いたな。」
と思わせるようなね。

つまり、「進み戦わず」があったという記憶が当時の武士社会に残っていた
ということだ。偽作者はそれをあてにしたのだ。

ちなみに、偽作が行われたとされる時点は竹崎季長が死んでからほんの2,30年
しかたっていない。

結局、「進み戦わざる者多し」はどこまで行っても事実だったってこと。

539:日本@名無史さん
13/09/10 14:52:20.01
>>538
元寇当時の記憶が残っていたら偽書を作成するわけないじゃん。
作っても速攻バレるだけだし。
偽書を作成したってことは、当時の記憶なんて残ってなかったってこと。
結局、「進み戦わざる者多し」が全くの嘘って結論しか出ない。

540:日本@名無史さん
13/09/10 17:59:31.03
>>535
全く大友家に不利じゃないよ。
なぜなら、鎮西の動員を掛けた形跡があるのは少弐家だけだからな。
鎮西奉行と言っても、主体は少弐家だったことは鎮西に動員を掛けたのが
少弐家の文書が圧倒的多数であり、大友家が動員を掛けたのは大友家が守護職を
担当していた豊後だけだった。

つまり、鎮西奉行とは言っても、少弐家と大友家には権限に大きな差があった。
文永の役で大友家を差し置いて少弐家が総大将だったのも以上の理由による。

文永の役当時の少弐家の地位を大友家が幕府に認めれたとするこの偽書にとって
進み戦わざる者が多くいたので、鎮西の指揮権を大友家に与えるとするこの文書は
大友家にとって有利でしかないのだよ。

541:日本@名無史さん
13/09/10 18:31:58.57
>>535
文永の役以前に大友家が担当地域外の動員権を発揮した形跡が無く
「或いは当境を守ると称し馳せ向かわざるの輩、多くその聞こえ有り、
甚だ不忠の科を招くか」 とあることは、これは大友家の責任では無く
少弐家の責任であり、これらの御家人をまとめあげるように指示したのが
この大友家によって偽造された文書であるということは大友家にとって
有利でしかない。

542:日本@名無史さん
13/09/12 16:44:44.54
対ベトナム戦とか対ジャワ戦とか元寇並みに詳しくわかってるの?

543:日本@名無史さん
13/09/12 16:56:31.48
>>542
対ベトナム戦や対ジャワ戦あたりは基本
対大理国戦や対ビルマ戦や対チベット戦とかも詳しくわかってるよ

544:日本@名無史さん
13/09/15 14:09:56.97
>>540 >>541
文書を読み直して見ると、幕府の叱責は全軍に対してであるように思えて来た。
つまり大友が代表して叱責状を受けたか、少貳にも同じ主旨の叱責状が行ってそちらの
ほうは失われたかのどちらかだろう。

そもそも対蒙古動員に関してなぜ少貳と大友が並立したかを考えると、少貳はその名が示す
ようにこの地方の旧制度(朝廷の制度)の代表者である。これに対して大友は幕府中央の代表者
なのだから、大友の方がお目付役とも言える。そう考えれば両人を代表して大友が叱責を受けても
別に不思議ではない。

それならばこの文書の宛名が守護名になっていないことや、「普」の文字があることは別に
変ではないから、そのことをもってこれを偽文書とする根拠にはならない。
現に橋本操六氏の「関東奉行人大友頼泰とその権限」
URLリンク(bud.beppu-u.ac.jp)
はそのことをまったく取り上げていない。
ただ、宛名が「大友兵庫入道殿」となっているのを取り上げているのみである。
(この文書の時点で頼泰はまだ出家していない)

545:日本@名無史さん
13/09/15 17:57:26.67
最初に結論があって、その結論に適合するように史料を恣意的に解釈していくのは学問とは言いませんよ。
今まではそれで通用したのかも知れないけどね。

546:日本@名無史さん
13/09/15 20:54:03.12
まず信頼に値しない後の時代に捏造された偽文書である、というところからスタートしないとね
嘘八百の偽文書の内容を見てるうちに「こう思えてきた」では誰も納得させられませんわ

547:日本@名無史さん
13/09/16 11:00:57.75
パフォくんは武功夜話を一次ソースとして語るタイプだな

548:日本@名無史さん
13/09/16 11:19:49.42
見てるうちに何となく○○だと思えてきたってのがパフォの原点だろうしな
逆にそんなあやふやなところに立脚してるから誰も納得させられない

549:日本@名無史さん
13/09/16 13:38:26.82
「偽文書だからダメ」から一歩も出ないか、揚げ足をとるかしかなくなって来たな。
「御家人が敵前逃亡や出陣拒否をするはずがない」という結論ありきから出発する
からそういうことになるのだ。

議論に戻れば、現在の私は「偽文書ではなかろう」と言っているのだよ。
大友の指揮権に関することを除けば、あとは宛名(大友兵庫入道殿)の問題しかない。
これについて上記文献のなかで佐藤進一氏がいいことを言っているので引用しよう。

「従ってこの充名(あて名)は時間的に事実と合わないわけであるが、この一点を以て直ちに
偽作として抹殺し得るかといえば、なお躊躇せざるを得ないものがある。大体大友文書は写しが
多く、中には充名を改竄したと覚しきものがあるから、或いはこれもその類であるかもしれない。」

要するに筆写した人があて名を誤ったか、または筆写当時の認識にしたがって気をきかせ過ぎたか
という可能性が高いのだ。
ちなみに諸君の好きな蒙古襲来絵詞にも「豊後国守護大友兵庫頭頼泰」という誤った注記がある。
この一点をもって絵詞全体を偽書とするわけには行かないだろう?

550:日本@名無史さん
13/09/16 13:54:15.24
>>549
訂正:
誤:「大友の指揮権に関することを除けば」
正:「大友の指揮権に関する疑問が無くなったのであれば」

551:日本@名無史さん
13/09/16 15:01:35.66
>>544
>対蒙古動員に関してなぜ少貳と大友が並立したか

そもそもの前提が間違っている。少弐氏と大友氏は同じ鎮西奉行で
あっても権限が全く異なっている。
たとえば、文永の役以前における守護管国外、つまりは鎮西における
鎮西奉行としての役割を示す史料は存在していない。
対して、少弐氏が鎮西奉行としての活動を示すものとしては守護管国外
における豊後国、薩摩国などにその権限を行使したことが確認できる。

さらに幕府は、文永の役の一年前に豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬国
御家人など鎮西御家人の「云其所名字分限、云領主之交名、且糺明所
帯御下文・御下知」させることを少弐資能に命じている。
鎮西一体に命令権を行使することを少弐氏に命じているのだ。

552:日本@名無史さん
13/09/16 15:02:25.77
ところが、文永の役という危機を前にして、大友氏がこれらの
命令権を発した記録はない。
また、大友氏が「鎮西東方奉行」であったとする文書は、大友家
の管国である豊後家の御家人の書状にしか見られないのだ。

つまりは、文永の役以前の大友氏は少弐氏とは権限としては
全く対等では無かったことを示す。

そして、例の偽書を偽書と見なさない場合、文永の役以前に
全く鎮西に命令権を発した形跡が無い大友家であるにも関わらず、
突如、「普」の文字、つまり鎮西すら超えた日本全国の御家人の
統率を大友家が幕府から受けるという可笑しな書状が登場することになる。

権限領域が明記されておらず、「普」の文字が使われる場合は鎮西すら
その命令権を超えた権限が全国に及ぶ場合にのみ使われる文字である。

鎮西にのみ与えられていた少弐氏の権限を超えて、大友家が突如その権力を
増大させたことになってしまうのだ。

553:日本@名無史さん
13/09/16 15:04:30.69
例えば、以下の史料を見てみよう。
一自今以後、有蒙御勘当輩之時、追討使蒙仰不相向之外、無左右於馳向之輩者、可被処重科之由、
「普」可令相触御家人等給之状、依仰執達如件、
   文永九年二月十一日    左京権太夫(北条政村)
謹上 相模守殿(北条時宗)

これは北条政村が北条時宗に充てた文書であるが、北条時宗の
権限は「普」の文言が使われるにふさわしい地位であるが、
このように権限が明記されておらず「普」が使われる場合は、
幕府の首脳部のみの人間に限られている。

大友頼泰が突如として北条時宗と同様の権限を与えられているこの
書状は明らかに不自然である。

また、「進み戦わざる者多し」が多かったと幕府が把握していた場合、
「進み戦わざる者」を罰する義務が幕府にはあるが、そのような人物は
全く存在していない。
むしろ、『蒙古襲来絵詞』にあるように、文永の役で奮戦した120余人の
御家人に褒賞が与えられたことが知られるのみである。

以上、文書の形式も内容も正確なものと裏付けるもの皆無であり、信用に
足らない偽書である可能性が高い。

554:日本@名無史さん
13/09/16 15:05:39.49
たとえば、文永の役以前における【大友家の】守護管国外、つまりは鎮西における
鎮西奉行としての役割を示す史料は存在していない訂正

555:日本@名無史さん
13/09/16 15:06:48.92
訂正

たとえば、文永の役以前における守護管国外、つまりは鎮西における
鎮西奉行としての役割を示す史料は存在していない


たとえば、文永の役以前における【大友家の】守護管国外、つまりは鎮西における
鎮西奉行としての役割を示す史料は存在していない

556:日本@名無史さん
13/09/17 07:53:55.63
パフォの場合は自分が信じたい内容があるから採用したいってだけだもんな

557:日本@名無史さん
13/09/18 07:44:21.17
中国は日本に常に恩恵を施してきた

URLリンク(music.geocities.jp)

「元寇」は、モンゴル人の仕業だった。

( URLリンク(music.geocities.jp) )

558:日本@名無史さん
13/09/18 16:34:04.99
そりゃ宋はモンゴル帝国に滅ぼされた側だからな
でもモンゴルの走狗として攻めてきたことには変わりあるまい

559:日本@名無史さん
13/09/18 20:24:13.29
中華なんてどの王朝も周囲の民族殺しまくりだろ。
やられたのも多いだろうが。

今のもチベットとか殺しまくったな。

560:日本@名無史さん
13/09/18 20:53:36.10
日本の場合はなんちゃって朝貢の勘合貿易で旨味だけあった

561:日本@名無史さん
13/09/18 21:00:30.77
>>560
それは元寇で圧勝したお陰だ
モンゴル軍ですら勝てないのに他の中華王朝が勝てるわけないから

562:日本@名無史さん
13/09/18 23:02:03.39
外交って積み重ねだよね
九州御家人よくやった

563:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/20 10:03:11.93
下層農民が過去帳に名前を連ね始めるのは元寇後からか?

564:日本@名無史さん
13/09/20 14:45:58.77
もっと後じゃないかな

565:日本@名無史さん
13/09/20 19:28:30.64
江戸で完成だが始まりはわからんな

566:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/21 00:31:44.69
鎌倉末から南北朝、畿内一帯からだとさ。

外敵の侵略に遭遇すると意識が変化するのは自然なことだろう。
ナショナリズムを刺激するような話だが。

567:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/21 00:42:02.72
戦後冷戦期の研究では、こういう話はしずらかったか知らん。

しかし、西洋列強の圧迫で国民国家体制が始まったのと本質的に
変わりはない話だからな。

568:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/21 01:05:14.31
外国の威を借りて自国を破壊するのが愛国心だとか勘違いしてる
頓珍漢もいる時代だが。

569:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/21 01:37:54.98
「国民みんなが主役」だなんて物言いも絶えて久しい。
独り善がりのええ格好しいが邪魔くさくのさばるばかりだ。

570:日本@名無史さん
13/09/21 02:07:35.29
ここは居酒屋じゃねえぞ。
愚痴なら他所でやってくれ。

571:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/21 07:47:19.59
有害なのは国家の敵か、国民の敵か?

572:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/21 07:52:53.65
国難の時代だ。歴史から学ぶべきじゃないか?

573:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/21 08:15:14.26
「俺が主役だ。逆らう奴は国家の敵だ」ってクソ野郎がいるだろ?

574:ジャップ ◆.EDMOUBKE2
13/09/21 22:00:07.16
寺子屋の起源は室町頃だな。つまり元寇後。
大衆教育事始。

575:日本@名無史さん
13/10/02 12:02:33.85
パフォはアク禁にでもなったの?
それとも反論できずに逃亡?

576:日本@名無史さん
13/10/04 13:07:29.16
パフォ、次はどんな牽強付会を披露するだろうか

577:日本@名無史さん
13/10/04 13:09:59.58
パフォは根っこが馬鹿だけど勉強家だからな

578:日本@名無史さん
13/10/04 17:02:20.97
一番始末に困るタイプだな

579:日本@名無史さん
13/10/07 15:39:19.95
しかしパフォのおかげで生半可なキチガイが乗り込んできたところで
スレ住民は「パフォと比べたらただの馬鹿だな」と冷めた感じで軽くあしらう
落ち着いたスレになるという効果が得られた

580:日本@名無史さん
13/10/08 21:15:56.68
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 5
スレリンク(army板)

パフォが自らPCとコテを名乗った模様

581:日本@名無史さん
13/10/15 17:30:39.21
パフォは話し相手が欲しくてしょうがないんだな

582:日本@名無史さん
13/10/29 21:51:52.38
俺はネトウヨだが

元襲来= モンゴルの精鋭+中華朝鮮人の奴隷だからなw
んで、修羅の国・九州勢が今も昔も頑張って戦い勝った。
当時でも馬を乗せて大量の船が来れる大国だった。
モンゴルは得意の騎馬隊なので言い訳は通用しない。

ギリギリ日本が勝ったのは油断した1回目で、2回目の襲来では日本の圧勝でしたwwwww  学校の教科書では謙虚に書かれてる不思議 日教組は糞

583:日本@名無史さん
13/10/29 21:55:38.05
>>5
>余裕勝ち

正解


九州 vs モンゴル+中国朝鮮の奴隷兵

584:日本@名無史さん
13/10/29 23:53:33.75
むしろ数的劣勢の本来アホな突撃で押し返してしまった文永の役の方が戦闘力差感じる

585:日本@名無史さん
13/10/30 01:07:39.91
主力同士の戦いでは日本の優勢だったからね
そのうえ副将まで射倒しちゃって

586:日本@名無史さん
13/10/30 01:14:59.18
だがちょっと待って欲しい
チョンが味方についている限り21世紀の米軍vs縄文人でも同じ結果になっただろう

587:日本@名無史さん
13/10/30 01:54:02.62
クビライは高麗が味方についた結果、モンゴル帝国の内乱に勝ちまくってるんだが

588:日本@名無史さん
13/10/30 10:20:29.52
文永の役における日本軍の犠牲者195人
文永の役における元高麗軍の犠牲者1万3500余人
キルレシオは1:69

589:日本@名無史さん
13/10/30 16:36:06.34
応永の外寇

戦力
 朝鮮軍 17500人 vs 日本軍 600人

戦死者
 朝鮮軍 2500人 vs 日本軍 20人

590:日本@名無史さん
13/10/30 23:25:00.02
文藝春秋2013年11月号
教科書ではわからない
この国の見方が変わる 新しい日本史20
元寇の目的は中国兵のリストラだった   杉山正明
URLリンク(gekkan.bunshun.jp)

591:日本@名無史さん
13/10/31 00:54:10.27
目的かどうかは分からないけど、元寇も秀吉の朝鮮出兵も国内の戦争が終わって、有り余る兵士をどこかで消耗させないと国内の治安が維持できないところまで来てたのかもな。
略奪と殺戮三昧の殺伐とした毎日を送ってた兵士を武装解除して田舎に帰したところで、簡単にはもとの従順な良民に戻ってくれないだろうしな。

592:日本@名無史さん
13/10/31 01:05:24.87
>>591
元寇の日本遠征軍は中国におけるモンゴルの支持基盤なんだから消耗させたらダメだろ。
お陰で折角手に入れた南宋の精鋭部隊が壊滅しちゃって後に残ったのは老人など弱兵ばかり。
南宋艦隊使って東南アジア方面への進出の芽も断たれた。

593:日本@名無史さん
13/11/10 14:59:22.22
★ 朝鮮人の日本侵略史 ★
【第一次侵略=356年】
ワイ人=朝鮮人の金奈勿(キン・ナブツ)が、稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪、
志良岐を乗っ取る。稲飯命王朝が滅亡。
【第二次侵略=562年】 朝鮮人国家=新羅が、日本領=任那を武力攻撃。任那は滅亡した。
【第三次侵略=660年】 新羅が、唐軍と共に日本領=百済を侵略。百済は滅亡した。
【第四次侵略=811年・12月】 新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。
【第五次侵略=813年(弘仁4年)・2月】新羅人百人余、肥前小近島に来て島民を殺傷する。
【第六次侵略=869年(貞観11年)・5月】新羅の海賊、博多で掠奪する。
【第七次侵略=893年(寛平5年)・5月】 新羅の賊、肥前・肥後を襲う。
【第八次侵略=894年(寛平6年)・4月】 新羅の賊来る。大宰府に討たせる。
【第九次侵略=997年(長徳3年)】 高麗の賊が大挙して侵寇。多数の日本人を虐殺。
【第十次侵略=1014年(長和三年)】 高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。

594:日本@名無史さん
13/11/10 15:00:33.48
【第十一次侵略=1019年(寛仁三年)】
50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を荒らして物資を奪い、家屋を焼き払い、
老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。ついに博多に迫る。日本側は、大宰権使=藤原隆家・大蔵種材や
在地の豪族らが応戦撃退。逃げる敵を追って船三十艘で追撃。ついに追い払った。
十数日間に渡る戦闘だった。刀伊の侵略。
【第十二次侵略=1097年(承徳元年)】
異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船を撃破し
賊徒数万を海没させた。元寇に至る外国からの侵略事件の中でも最大規模のもの。
【第十三次侵略=1274年10月(文永11年)】
忻都、金方慶らに率いられた、高麗人・モンゴル人数万人が朝鮮の月浦(現在の馬山)を出発。
10月5日に対馬を、10月14日には壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させた。
【第十四次侵略=1281年(弘安4年)】
高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本を侵略。
【第十五次侵略=1419年(応永26年】
朝鮮が、日本領=対馬を、倭寇征伐の名目で侵略する。朝鮮では己亥東征という。
太宗は「倭寇の根拠地は対馬だ」と言いがかりをつけ、対馬を侵略した。これにより6月19日、李従茂指揮の
227隻、1万7258人からなる船隊が、朝鮮の巨済島から対馬にむかい、翌20日に対馬浅茅湾の土寄崎に停泊。
当初、朝鮮軍は対馬の民家1939戸を焼き、多数の日本人住民を虐殺した。しかし、同年26日に仁位郡に進攻した頃から
対馬の伏兵に反撃され、朝鮮軍は2500余人の損害を出した。そして、宗貞盛の撤兵要求を受け入れて7月3日に
巨済島に引き揚げた。
【第2次世界大戦後の侵略】 数十万人の朝鮮人が、アメリカの占領下にある日本へ、不法入国・不法定住。
島根県隠岐郡隠岐の島町の一部(竹島)を準軍事力で制圧、現在、不法占拠状

595:日本@名無史さん
13/11/19 03:17:21.47
>>590
杉山さん、今度はオヤジ向け雑誌で愚論を垂れ流してるんだな。。。
日本史研究者なんてふざけようと思ったら何でもアリね

596:日本@名無史さん
13/12/03 12:12:27.59
>>586
弱くはないよ
高麗は結構元に対して粘った上、後年は
元と高麗の連合軍が伝統的蒙古軍を倒してるからなあ

>>590
弘安の役の大敗以降は外征もパッとしないよな
それ以前に服属させていたベトナムにも反乱を起こされ平定もできず、
ジャワでは目的達成かと思いきや支配していた在地勢力突然の裏切りで敗退
弘安の役での物資の消費や壊滅的被害がなければこれらの事態に大軍を
送り込めただろうに

597:日本@名無史さん
13/12/03 15:38:20.26
少弐景資が奮戦したからね
西国御家人達が強過ぎる

598:日本@名無史さん
13/12/04 13:32:30.16
別に西国御家人は当時の日本の中で
突出して強いというわけではないのでは?

599:日本@名無史さん
13/12/07 03:14:53.51
御家人の精鋭は東国、分布も東国が多い
ただ元寇に関しては負け組地元の御家人のほうが戦意使命感ともに高かったかなと

600:日本@名無史さん
13/12/08 16:31:46.62
鎮西武士の間では
「鎮西の武士ばかりが戦っている、東国武士も少しは戦ってみろ」と
いう事が囁き出されていたが
鎌倉の安達盛宗の出撃が合戦に転機をもたらしたらしい

601:日本@名無史さん
13/12/10 10:09:36.01
>>588
>文永の役における日本軍の犠牲者195人

「下郎はその数を知らず」な。
下郎というのは民百姓のことではないよ。

602:日本@名無史さん
13/12/14 16:18:39.29
>>590
所謂「棄民説」というやつだな。

征服民が被征服民を新たなる侵略の尖兵として使うなんてのは古今東西当たり前にやられてきたことで、特に
モンゴルはそれを基本戦略にしてきたんだが、元寇以外でそんなものを「棄民」と呼ぶなど聞いたことが無い。

何としても日本武士の実力による勝利(蒙古の敗北)を認めたくないがゆえに奇怪な屁理屈をこねくり回してると
しか思えん。

603:日本@名無史さん
13/12/14 16:25:58.99
>>601
騎馬武者と下郎の比率はわからんが、仮に1:3として下郎の死者は600人、1:4でも800人。
死者の総数が1000人を超すことはあるまい。

いずれにしろ日本側の圧勝だな。

604:日本@名無史さん
13/12/14 17:02:13.09
>>603
勝敗を死者数で言ってるのなら、元軍の死者数は海難と戦闘がごっちゃだから
なんとも言えない。

ついでだが、日本側の死者数が1000人程度だというのは賛成するが、郎党は
騎馬武者であってかつ下郎だと思う。

605:日本@名無史さん
13/12/14 17:51:56.19
棄民説って未だに現在進行形でやってたのか
ワラタわ

606:日本@名無史さん
13/12/14 17:53:20.82
>>604
郎党の騎馬武者はあるかもしれないが、下郎の騎馬武者などあるわけないだろ。
騎馬武者であれば195人の中に勘定されてるよ。

607:日本@名無史さん
13/12/14 17:56:48.74
>>604
郎党は下郎じゃないよ。
それに野戦においては基本的に騎馬武者のみが戦闘要員。
だから日本側の戦闘損失は195人がすべて。

608:日本@名無史さん
13/12/14 18:40:34.12
「下郎はその数を知らず」とあるんだから下郎の死者がゼロということはないだろう。
だが実際のところ下郎の死者数が武者の死者数を大きく上回るとは考えにくい。
>>607の言うように下郎は戦闘要員ではないからな。
先陣切って敵に突っ込んでいく義務もないし、主人が討ち死にした後、自らも死ぬまで戦い続けなければならない義理もない。
そりゃ戦線が崩壊して敵方が殲滅戦に入れば逃げ遅れた下郎も皆殺しになるだろうが、実際には元軍は大宰府はおろか博多すら
落とせず、自分たちの戦線維持が精一杯という状況だったとしか思えないからな。

個人的には日本側の死者総数は下郎を入れても500人以下だろうと思っている。

609:日本@名無史さん
13/12/14 21:46:22.87
604はパフォ?

610:日本@名無史さん
13/12/15 14:24:23.08
>>590
学界で相手にされなくなったからって、一般向け雑誌で読者洗脳して便所水ぶちまけて抵抗するとか、
ほんと見苦しい真似はやめてほしいよね。こういうネタ学者のネタ学説を乗っけるほうもどうかと思う。

611:日本@名無史さん
13/12/15 17:17:52.97
そのうち一般誌の読者にすら鼻で笑われて終了になるだろうな

612:日本@名無史さん
13/12/16 14:26:19.47
なんだかんだ「棄民説の杉山」というのが定着した時点で言った者勝ち。
結局、変なこと言えば勝ち。他の文系の学問分野でも言えるけど。
受け入れられなくてもメディアに売り込み、アカデミズム批判とからめれば信じ込む人が大勢いる。

613:日本@名無史さん
13/12/16 16:43:30.76
606~608
言葉の感じで下郎を低く見てはいけない。
下郎は「下臈」から来た言葉で、「下役の人」という意味だ。
百姓つまり一般庶民はその「役」さえないのだ。

郎党は下郎だよ。歩兵は「下人」だ。

614:日本@名無史さん
13/12/16 16:55:46.28
1日の戦闘に五月雨式に参加した総勢1万人として、騎上の者195人も戦死すれば十分に激戦(「苦戦」ではない)
そのうえに下郎が1000人も戦死してたまるか。

615:日本@名無史さん
13/12/16 21:24:43.66
>>613
「役」がついてる者の討死は恩賞の対象になるから数知れずなどということは
ありえない。
現に郎党の討死は立派に恩賞の対象だし。
文永の役で恩賞を授かったのは約120人だから戦闘員の討死もそれに近い数字になる。

つまり、郎党は下郎ではないってこと。

616:日本@名無史さん
13/12/16 22:00:49.45
>>613
相変わらずああいえばこういうの詭弁の達人だねえ。

 言葉の感じで女郎を低く見てはいけない。
 女郎は「上臈」から来た言葉で、「上流の婦人・貴婦人」という意味だ。
 また「上臈」は江戸幕府の大奥の職名で奥女中の最高位。公家出身が多かった。

女郎は女郎、下郎は下郎だよ。
下郎の騎馬武者などいるわけないだろ。
というか、仮にも騎馬武者が下郎呼ばわりされて死者数にカウントすらされないなんて事があると本気で思ってるのか ?

617:日本@名無史さん
13/12/17 06:21:05.78
パフォは結論ありきだから手のつけようがない
今は軍板が隔離板になってるからお帰り

618:日本@名無史さん
13/12/17 18:02:52.87
>614
>騎上の者195人も戦死すれば十分に激戦

騎馬武者の戦死者総数が195人なら壱岐対馬だけで満杯だ。

>>613
>現に郎党の討死は立派に恩賞の対象だし。

郎党は恩賞の対象ではない。郎党が死んで恩賞を貰うのは主人の御家人だ。

>>616
>仮にも騎馬武者が下郎呼ばわりされて

下郎が悪い意味だと思うのは戦国以降の語感を鎌倉時代に投影するものだ。
下郎は騎馬の郎党と歩兵の下人を含む階級だ。要するに御家人クラス以外の戦闘員。

>死者数にカウントすらされないなんて事があると本気で思ってるのか

「ある記」に記された「日本人」死者数が、幕府にとっての最大関心事だった御家人クラス(御家人+係累)
の死者数カウントだった可能性があるだろう。
その場合、御家人が負った損害として報告される郎党の死者数がカウントに入らず、「その数を知らず」と
して一纏めにされてもおかしくない。

619:日本@名無史さん
13/12/17 18:12:28.12
>>618
いや、郎党は負傷でも恩賞の対象。
現に竹崎は郎党の負傷を戦果として認められてるし。
ましてや討死が恩賞の対象と認められないなどあり得ない。
御家人と郎党を合わせた文永の役における戦闘員の全死者数が195人だよ。

620:日本@名無史さん
13/12/17 19:21:03.05
>>618
中世の合戦の密度を非常に濃く考えてる
全体で195騎でも大して違和感はないしそのうえ「下郎」が何百人も戦死してるほうが異様

621:日本@名無史さん
13/12/17 23:02:56.37
杉山がマルコポーロの存在を否定しようとしてる理由は、東方見聞録を
読めば「南宋戦の側面作戦説」や「棄民説」が崩壊するからだな。
クビライが日本の富目当てで遠征軍を送ったことや、逃げ帰った重臣2人を
処刑するなど痛い敗北と認識されていたことが明記されてる。

622:日本@名無史さん
13/12/17 23:39:11.31
>>618
>郎党は恩賞の対象ではない。郎党が死んで恩賞を貰うのは主人の御家人だ。
話をすり替えるな。
恩賞を貰うのが誰かなんて話は誰もしてない。
恩賞の対象になる戦死者としてカウントされるかどうかって話をしてるんだ。

>下郎が悪い意味だと思うのは戦国以降の語感を鎌倉時代に投影するものだ。
下郎は騎馬の郎党と歩兵の下人を含む階級だ。要するに御家人クラス以外の戦闘員。
嘘を並べるな。
誰も「下郎」の語源についての話などしてない。
下郎は「下臈」から来たなんてのは本筋と何の関係も無い、人数不明の「下郎」の死者数に騎馬武者が入っているかのように印象付ける為
だけの単なる詭弁。
騎馬武者というのは必ず馬回り等の従者を引き連れている。
仮にも従者を引き連れた主人が「下郎」などと呼ばれるわけがない。
この場合の「下郎」はその従者等に相当する人間であろうことは明白。

>「ある記」に記された「日本人」死者数が、幕府にとっての最大関心事だった御家人クラス(御家人+係累) >
の死者数カウントだった可能性があるだろう。
最初に結論ありきの自分の奇説に都合のいいようにこじつけただけの根拠のない憶測。
だいたいそれなら「日本人」なんて書き方するわけないわな。

>その場合、御家人が負った損害として報告される郎党の死者数がカウントに入らず、「その数を知らず」と
>して一纏めにされてもおかしくない。
だから騎馬武者の郎党が「下郎」などと呼ばれるわけがないと言ってんだ。

623:日本@名無史さん
13/12/17 23:56:24.19
要するにパフォは武士の死者が200人に満たないなどという記録自体、我慢ならないわけだ。
パフォ的には武士はもっと大勢死んでいてもらわないと困るので、人数不明の「下郎」の数になんとか武士を紛れ
込ませて武士の死者数を大幅に水増ししようと目論む。
まずそれが出発点。
そのためにはどんな詭弁や議論のすり替え、こじつけをしようと恥とも思わない。
こういうことするから卑怯者と呼ばれるんだよ。

元々が単なる伝聞で元ネタすら不明の話なんだから気に入らないなら無視すりゃいいのに何故かそれはしない。

624:PC
13/12/18 20:15:29.34
>>619
>御家人と郎党を合わせた文永の役における戦闘員の全死者数が195人だよ。

繰り返しになるが、195人は壱岐対馬の戦死者180騎でほぼ満杯になる。これをどうするのか?
念のためだが壱岐対馬の戦死者は「騎」で数えられている。

625:日本@名無史さん
13/12/18 20:22:25.81
死傷者ならともかく勝ち戦の死者なら別にそこまでおかしくないだろ

626:PC
13/12/18 20:22:32.60
>>622
>恩賞の対象になる戦死者としてカウントされるかどうかって話をしてるんだ。

カウントなら馬だってされる。郎党の戦死戦傷はたしかに申告されるが、名前が無い。
名前の無い数字だけという意味において、申告のなかで郎党の扱いは馬並みなのだ。
それに対して御家人クラス(御家人およびその係累)の損害はちゃんと姓名を入れて
申告されている。文字通り「名ある武士」の扱いだ。絵詞で確かめてごらん。
195人はこの「名ある武士」の死者総数であろうというのが私の考え方だ。

>仮にも従者を引き連れた主人が「下郎」などと呼ばれるわけがない。
>この場合の「下郎」はその従者等に相当する人間であろうことは明白。

従者は下郎である前に「下人」だ。下人というと、また「非人」と間違えるかもしれないが、
立派な当時の用語だ。そして従者=下人は完全な戦闘員ではない。だから全軍騎乗を基本とする
当時の日本軍の構成において、郎党を祭り上げてしまうと「兵士」がいなくなる。
要するに郎党は騎馬の兵士なのだ。兵士を下郎と呼ぶのには抵抗はないだろう?

>だいたいそれなら「日本人」なんて書き方するわけないわな。

御家人であれ郎党であれ「日本人」という呼び方はもともと変だ。なぜここに日本人という
言葉が用いられたのか。「日本人」の問題を持ち出した君からまず説明してもらおうか。

627:日本@名無史さん
13/12/18 20:35:42.54
>>624
「数が合わない、よって下郎が何百人も死んだに決まってる」

これが詭弁だというのは分かる?話にならない

628:日本@名無史さん
13/12/18 20:37:44.61
日本側にも死者が大量に居ないとおかしい
195人は酷く限定された数字に違いない
そうじゃないとおかしい
きっとそうだ
そういうことにしよう

629:日本@名無史さん
13/12/19 03:16:06.69
逆にパフォに聞くけど合計180騎が戦死した対馬壱岐で騎乗以外の「下郎」は何人戦没したと思ってんだ
お前の論法だと戦闘員総数と合わなくなりかねないぞw


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