【敵国】元寇について語るスレ【降伏】at HISTORY
【敵国】元寇について語るスレ【降伏】 - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
12/12/09 02:25:56.40
なかなか神風が吹かないからタイムスリップして神風起こすんだよね
結局、時空パトロールに捕まって投獄されるけど

3:日本@名無史さん
12/12/09 02:27:44.87
>>1の家に、むくりこくりの鬼が来ます

4:日本@名無史さん
12/12/09 04:13:36.67
大蒙古國ってユーラシア殆どアレしたんだから
奇跡だよな

5:日本@名無史さん
12/12/09 13:27:14.13
余裕勝ちしてしまった日本から見ると、蒙古ごときに征服されるユーラシアのレベルが低い

6:日本@名無史さん
12/12/10 18:52:07.35
元寇で昔とやや違う考え方が出てきているのは

文永の役では少なくとも交戦時における暴風雨、神風はなかったのではないかということ
日本軍はそれまでの伝統的な戦いの仕方から
相手に合わせた集団戦法にわりと早く対応できていたのではないかということ
弘安の役の江南軍10万は滅亡した南宋の兵士や不穏分子の
厄介払いの意味があったのではないかということ
高麗製の船は比較的頑丈な構造を持っていたこと

こんなとこかな

7:日本@名無史さん
12/12/10 19:16:29.26
もともと集団戦法が日本軍の伝統的な戦いの仕方だからな。
実際に戦ってみたらモンゴル軍の集団戦法より日本軍の集団戦法の方が優れていたってだけの話。

8:日本@名無史さん
12/12/11 07:42:40.85
上の国書は平出と台頭が用いられている
平出は敬すべき語が出てきたところで改行して行頭にすることで
「王(日本国王)」の部分がそれに当たる
台頭は最も敬すべき語を一段高く書くことで
「祖宗(ジンギスカン)」などがそれにあたる

また文末の「不宣」はこれ以上詳しくは書かない、という
友人宛の文末に用いる語で、これをもって
この国書を友好的などとみるむきもあるが
全体的な内容は恫喝以外のなにものでもない

9:日本@名無史さん
12/12/11 08:03:19.78
戦法というよりも大陸と日本の戦いに対する考え方が違っていた
大陸的な戦い方は一般民衆を略奪・虐殺しながら進軍する
略奪品を糧食とし金品を分配し人を殺すあるいは奴隷として連れ帰る
実際、対馬、壱岐の島民はそうされた
これは封建領地を大切に経営している
当時の日本の武士には考えられない非道な戦い方で
恨みは強く残った

10:日本@名無史さん
12/12/11 18:51:14.83
・文永の役の暴風雨は、少なくとも日本軍に本土の戦闘で完全に駆逐され本国に敗走する途中で発生した

・10月20日の戦闘の時間から見て、日本軍は「わりと早く適応」したのではなく「最初から適応」していたと見ざるを得ない
 つまり戦法そのものでも日本軍が蒙古軍を圧倒し、せいぜい奇妙な武器に興味を引かれただけで、それはまったく戦闘に影響を与えなかったと見るべき

・弘安の役の10万人の兵力は「厄介払いの意味合い」なんてない、当時調達し得るベストの兵力だった

・高麗の船は頑丈

11:日本@名無史さん
12/12/11 18:54:14.01
結論:元のほぼ総力と言える兵力をもって日本を攻め立てたにも関わらず、
日本は壱岐・対馬を除いてこれにまったく橋頭保を与えず一方的に攻め立てて撃退した

大蒙古帝国にとって、精鋭十数万を投じても一歩も敵地に踏み込めず、
生還率が3割などと言う海のスターリングラード、未曽有の強敵が東海の果てにいた
これが真実

12:日本@名無史さん
12/12/14 01:18:14.46
元寇の凄いところは日本史の教育、書籍、TV番組などから一般人の得ている情報が全部嘘ってこと。
ここまで徹底して嘘だと、ちょっと考えればわかるだろってレベルの有り得ない話でも人間って信じちゃうんだ。
洗脳って怖いよね。

13:日本@名無史さん
12/12/14 08:19:36.30
時宗さま偉い!

14:日本@名無史さん
12/12/14 21:54:17.34
と言うか、戦後日本の「敗戦と焼け野原からの高度成長」と、ベトナム戦争での米軍の敗戦
これが「文永の役で近代兵器?に大敗したが、学習して弘安では国難を乗り切った」と言う認識を支持させた部分が大きいと思うね。
網野が東アジアの視点みたいなことを言い始めるまでは。

それ以降がめちゃくちゃになった

15:日本@名無史さん
12/12/14 21:56:12.71
東アジアの視点を入れるなら、なぜ中国代表が蒙古になるんだよ。
当時の幕府のブレーンはみんな南宋人じゃねえか。

16:日本@名無史さん
12/12/15 00:33:20.30
日本史の学者って資料も読めない馬鹿しかいないらしい

17:日本@名無史さん
12/12/15 02:32:10.56
散々苦戦だったとか戦闘では負けていたとか聞かされてたのに、史料読んだら文永の役も弘安の役も
普通に日本の圧勝じゃん
今まで聞かされてた話は何なんだろうね・・・

18:日本@名無史さん
12/12/15 05:19:09.09
福岡市に住んでるんだけど、物乞観光都市だから元寇はタブーみたい。

19:日本@名無史さん
12/12/15 05:39:06.49
神風を言い出したのは、箱崎宮の乞食神主どもだもんね。
武士の活躍を無視して、自分等の祈祷で勝ったと京都の公家さん達に言いふらした。
手柄横取り。
水城まで攻められた、というのも、太宰府しか知らん京都の公家さんたちのうわさ話。
武士が海岸線付近で撃退した。

20:日本@名無史さん
12/12/15 05:42:34.34
>>16
漢人には、中華民族の正統を継ぐ宋と、鎌倉幕府は準同盟国だったと言ってやれ。
モンゴル人はそんなことでいちいち騒いだりしない

21:日本@名無史さん
12/12/15 05:56:10.01
箱崎宮「敵国降伏」、この額縁の下の賽銭箱の横に、
「敵国とは特定の国ではありません、心に住む魔物です。」と書いてんだよ。
乞食神主ども、そうまでして、ゲン、ウォンがほしいか。

22:日本@名無史さん
12/12/15 19:17:42.75
総力戦を行ったのは武士ではなく、寺社だからな。
武士にとって、元寇自体は大きな戦争ではなく、その後の霜月騒動の方が被害は甚大だった。

元寇で、実際戦った武士は九州武士団だけだが、祈祷で戦ってるつもりの神官僧侶は日本中にいた。
そりゃ九州北部が毎年台風に襲われることを知らない人たちは、神官僧侶が祈って暴風雨が起きたら、
彼らの宣伝する「神風」のことも信じちまうさ。

特に、あの時代は末法思想吹き荒れる世の中で、神風でもなんでも心の支えになるなら受け入れる土壌があった。
表向きは神風を否定してる現代であっても、「八幡愚童訓」を一級資料として扱ってる限り、
神官僧侶の言うこと真に受けるしかなかった当時の民衆と同じレベルなんだよね。
残念ながらそれが今の現状。

23:日本@名無史さん
12/12/15 20:10:45.09
一人だけで回してるスレ

24:日本@名無史さん
12/12/17 02:11:17.38
誰とは言わないが、ある意味魔物だわなwwwww

25:日本@名無史さん
12/12/17 20:41:39.00
箱崎社は岩門合戦では景資側に付いたのだな。

26:日本@名無史さん
12/12/18 08:02:42.40
>>22
>総力戦を行ったのは武士ではなく、寺社だからな。
武士にとって、元寇自体は大きな戦争ではなく、
理解できません。
質問1、総力戦の指揮官は寺社のだれか。寺社の誰が幕府の命令を受けたのか。
質問2、大きな戦争でなくて、なぜ恩賞の不満が出たか。

もしご存じなら、
質問3
敵国降伏の敵国とはどこか。

余りに意外で、勉強しますのでよろしくお願いいたします。

27:日本@名無史さん
12/12/19 01:41:48.46
>>26
恩賞に不満って・・・
そりゃ、全ての御家人が100パーセント満足ってわけじゃないかも知れんが、そんなこと言ったら現代の
労使交渉とかも同じわけで、元寇の恩賞は特に問題も無く支給されて終了したよ。

28:日本@名無史さん
12/12/19 06:05:17.15
ふーーん、それで質問1は?

29:日本@名無史さん
12/12/19 06:41:39.48
恩賞に不満が出たかなんてまったく確かめようがないんだ。
だって直後に霜月騒動→岩門合戦が発生して、安達・景資側の所領が没収され、
そこから恩賞が出てるんだから。
幕府の鎮西探題設置のほうがはるかに地元御家人の反発を買っただろうが、これだって決定打になったかどうか分からない。

ちなみに、文治の奥州合戦の奥州藤原氏や、承久の乱の京方のほうが、文永の役の蒙古軍よりはるかに「大きな戦争」だったと断言できるよ。
数万の兵が堅固な防塁を築いて鎌倉方の大手軍と数昼夜にわたり激戦を繰り広げたんだから
文永の役は、鎌倉幕府的には「ちょっと大きな戦争」に過ぎない。

30:日本@名無史さん
12/12/19 06:44:16.74
最近の研究者は元寇が幕府滅亡の遠因なんて言ってないだろう。
弘安の役が幕府滅亡の半世紀前の出来事。
江戸幕府で言えば18世紀のロシア船の来航が滅亡の原因と言ってるようなものだから。

31:22
12/12/19 07:57:34.31
>>26
質問1:亀山上皇。幕府の命令ではなく、上皇が総本山や神宮、大社(二十二社)と言われるような大手の寺社に加持祈祷の勅命を出した。
さらに、末社の人間も祈祷してるので、当然総本山から指示があったのだと思われる。
全国の武士は戦闘してないが、全国の神官僧侶は祈祷したんで総力戦という表現をした。

質問2:自分が言った大きさというのは、戦線の大きさで、九州北部沿岸のみで済んだ元寇は、
壱岐対馬の武士を除いた武士たちにすれば、全国に飛び火した霜月騒動の方が大きな出来事だったんじゃないかという推測からきている。
恩賞の不満というのは、他の人も言ってるように具体的な記録が残ってないんで自分はわからない。

箱崎の人は、自分と違う人なので自分が質問3を答えるのは適切かわからないけど、
朝廷の返書案は、蒙古宛になってるので、当時、亀山上皇が書いた「敵国」は蒙古のことだと思われる。

32:日本@名無史さん
12/12/20 05:33:54.29
>>31
回答ありがとうございます。
1、皆で祈ったから総力戦?
2、恩賞の不満は計れない?


やはり私は、武士が戦って得た勝利、
寺社が手柄を横取りした。
これを確信しました。

霜月の乱も、鎮西探題
も元寇がらみだと思います。
鎌倉幕府の崩壊は、確かに原因はいろいろありますが、元寇は極めて大きな原因であったと
確信しました。

どうもありがとうございました。

33:日本@名無史さん
12/12/20 12:29:48.80
鎌倉幕府の崩壊を元寇の所為にするのは、
明の崩壊を秀吉の所為にするレベル。

34:日本@名無史さん
12/12/20 21:30:15.20
>>32
いやとんでもないよ。
鎮西探題はともかく、霜月騒動は元寇がらみではない。
鎮西探題だって幕府崩壊の直接的要因ではなく、あくまで「延焼」を酷くしたもの。

35:日本@名無史さん
12/12/20 21:33:21.53
ここで聞くより、高時政権に関する一般向け研究書なりを読んでごらんって。
元寇との因果関係を強調してるものなんて大昔のものでない限り、1つもないはず。

教科書は「大まかな流れ」を覚え込ませるせいもあって元寇と御家人の不満を結び付けた
書き方をしてるものもあるかも知れないが、それは因果関係が確かめようもなく、あくまでイメージの問題に過ぎない。
だって恩賞は現に出てるんだからさ

36:日本@名無史さん
12/12/20 21:36:00.79
たとえば江戸幕府だって成立期に強引な大名の改易転封を繰り返してるけど、
なぜ「大名や牢人の不満」が噴出して「崩壊」に至らなかったのさ
逆に、安易な配転をやらなくなった19世紀になぜ崩壊したのか。まったく説明できないでしょ

37:日本@名無史さん
12/12/21 03:48:39.36
福岡に住んでると箱崎宮の敵国降伏は特定の国ではありません。
と言うように、事実を曲げる勢力に支配されてる人が多い。
中国、韓国朝鮮連合軍の侵略をいかに阻止したかというのここのテーマじゃないかな。
ちなみに、箱崎宮が示すように、福岡人は金になればなんでもするから信用できんよ。

38:日本@名無史さん
12/12/21 03:57:20.61
余りにも元寇の被害・影響が過小評価で不自然。投稿者何者?

39:日本@名無史さん
12/12/21 07:28:17.09
元寇の影響は大きかったよ。
攻めてきた元軍を2回も完膚なきまで叩き潰したおかげで、その後数百年も中国側から日本に対して
武力行使というオプションが一切使えなくなったからね。

40:日本@名無史さん
12/12/22 01:51:56.88
>>38
軍事史学を読んでごらん。バックナンバーあるから。

41:日本@名無史さん
12/12/22 07:52:45.06
歴史ifを考えるのは不毛であるけれど、
元寇がなかったとして、北条高時・足利高氏・後醍醐天皇の時代に鎌倉幕府は滅びるんだろうか?

42:日本@名無史さん
12/12/22 08:34:37.35
>>41
元寇は一方で幕府と北条得宗家の権力の上昇をもたらしたが、その一方で幕府に対する、寺社と
西国の非御家人武士(本所一円地住人)の権利要求の高まりももたらし、それへの対応の路線対立を
もたらし結果的に幕府権力を空洞化させたので、大きなトピックであったことは間違いない。

43:日本@名無史さん
12/12/23 20:25:10.59
何にもしなかったと自分には思われる寺社に多大なる
貢献の謝礼としての寄進を支払わなければならなくなったのは
幕府財政を圧迫させたのは間違いない、実際に元と戦った
肥後御家人はさしたる恩賞をもらわなかった

それはいいんだけど難しいんだよね、特に高麗、南宋、元と入り混じって
無学な俺にはチンプンカンプンでw、覚えるいいアイデアとかなあい?
先生達揃ってそうで教えてください

44:日本@名無史さん
12/12/23 20:33:45.65
刀伊の入寇って元寇の前哨戦だったの?

45:日本@名無史さん
12/12/23 21:14:49.38
朝鮮人がお人好し日本人を騙した事件のことね。
元寇のときも、朝鮮人は元に脅され日本を攻めたことにしてるもんな。
恥を知れ朝鮮人。

刀伊の入寇は日本人を騙す練習

NHK、平清盛終わってやれやれ、視聴率ささえたのは在日韓国朝鮮人。

46:日本@名無史さん
12/12/23 21:30:22.14
NHKアナウンサーが日本語の標準だった頃が昔あったんだけど、
いまは日本語破壊協会、日本破壊協会。
韓流ブームはNHKが作った。
パチンコのあとはダンスクラブ宣伝かな。

47:日本@名無史さん
12/12/23 21:38:56.44
ドン・キホーテ

48:日本@名無史さん
12/12/23 21:42:46.66
>>41
南北朝の動乱はそもそも皇室の継承問題を端とするものだから
ぶっちゃけ元寇はそこまで関係してないよ。

49:日本@名無史さん
12/12/23 22:00:19.02
>>47
NHKが移民を受け入れないと国債がヤバいといってるね、なぜ

50:日本@名無史さん
12/12/23 22:07:56.13
南北朝なにそれ、今元寇の話しなんですけど。

51:日本@名無史さん
12/12/23 22:10:58.67
>>48はぶっちゃけ朝鮮人?

52:日本@名無史さん
12/12/23 22:28:51.35
元寇は朝鮮人の日本侵略、へいせいの元寇が始まっている。
福岡の男どもは、すでに朝鮮人の犬に成り果てた。
Softbankホークスのシンボルマークは鷹ではなく犬だからね。福岡では。
朝鮮人に犬野郎と蔑まれ小銭めぐまれてよろこふぶ福岡のお父さん。

箱崎宮があの調子だからな。

53:日本@名無史さん
12/12/23 22:30:37.37
たふぁのキチガイでした

54:日本@名無史さん
12/12/23 22:35:33.11
↑箱崎宮の氏子はこのレベルです。

55:日本@名無史さん
12/12/23 22:50:42.94
元寇
命じたのは、モンゴル人、もうけ話に乗ったのは朝鮮人、
兵隊も朝鮮人
渡し船作ったのも朝鮮人、船がお粗末で皆死んだ。

56:日本@名無史さん
12/12/24 02:44:38.71
南北朝で鎌倉幕府が打倒されたのは元寇の恩賞問題とはまるで関係がない

直接的要因としては後醍醐に対する微温的処置と、軍事的威信の低下だな
零落した御家人に対する再給付のシステムが作動しなかったことは確かだけど
それは元寇が原因じゃない

57:日本@名無史さん
12/12/24 10:11:39.89
>>55
なんか朝鮮人憎しもここまで来ると問題ありだな。
高麗兵は一部しかいないし、高麗船は頑丈だったんだがな。

58:日本@名無史さん
12/12/24 15:32:34.32
文永の役、主力は朝鮮人だった。
蒙古漢人1万5千
朝鮮人 3万2千(水兵を含む)
船団900隻、半年間突貫工事、朝鮮造船

59:日本@名無史さん
12/12/24 15:44:41.73
朝鮮人なんて、あの時代おらん

60:日本@名無史さん
12/12/24 16:52:03.43
>>58
『高麗史』によれば
蒙古漢兵1万5千
高麗兵5300
水夫6700人だよ。
主力は明らか蒙漢軍。

それに文永の役半年で900隻造れるわけないじゃん。
三別抄の乱の時の軍船や三別抄から接収した船やそれ以前に建造命令が出されていた造ってあった
分をかき集めて新造艦を足して編成されたのが900隻。

それに元軍が暴風雨を受けたのは文永の役では撤退中のことなので
日本側からしたら、船がどうのは勝敗とは何ら関係ない。

61:日本@名無史さん
12/12/24 16:53:20.88
そうだな。朝鮮人は悪いことしたときは、日本人のふりするもんな。

62:日本@名無史さん
12/12/24 16:54:04.70
それに弘安の役では高麗船が頑丈だったために高麗兵の7割以上が高麗へ帰還できた。

63:日本@名無史さん
12/12/24 17:05:25.86
水夫でも水兵でもいいけど、軍勢としての数。

64:日本@名無史さん
12/12/24 17:12:57.89
高麗兵と水夫を足しても、兵隊だけの蒙古・漢兵より少ない。高麗人は主力ではない。

65:日本@名無史さん
12/12/24 17:44:29.51
高麗船が頑丈?

東路軍指揮官、蒙古人忻都が船が腐れたと嘆いているよな。
東路軍だから、朝鮮半島で作った船だ。

頑丈な船は東支那海を渡ってきた実績のある南宋の船だろ。

66:日本@名無史さん
12/12/24 19:18:13.73
>>62
それは間違い

67:日本@名無史さん
12/12/24 20:30:28.10
>>65
高麗船が頑丈だったのは元朝では広く知れ渡っていた。
元の官吏の書の『汎海小録』でも「唯だ勾麗(高麗)の船は堅く全きを得、遂に師を西還す」と
高麗船が頑丈だったことを指摘しているし、中書省の丁という人物もクラビイに対して
「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、接触すればすぐに壊れた。これは
第二次日本侵攻の利を失する所以である。もし、高麗をして船を造らせて、また再び
日本に遠征すれば、日本を取ることができる」と発言して、これに心を動かされたクビライは
再び日本遠征を再考している。

そのほかにも高麗船が頑丈だった証拠として、弘安の役に参加した高麗人26,989人のうち、19,397人が無事に
高麗へ帰還しているし、明らかに高麗船は江南の船より頑丈だった。
鷹島から発掘されている沈没船も江南地方の物しかできていないということは、被害が甚大だったのは
江南の船だったということだ。

68:日本@名無史さん
12/12/24 20:34:43.85
訂正
鷹島から発掘されている沈没船も江南地方の物しかできていないということは、被害が甚大だったのは
江南の船だったということだ。

陶磁器や碇石など海底から発掘されているが、どれも江南地方産だそうだ。高麗に関する物は今のところ
一切、上がっていない。これも高麗船が頑丈だったという諸資料と高麗人の生還者の多さから考えれば
高麗船は頑丈だったという事は疑いようが無い。

69:日本@名無史さん
12/12/24 20:40:36.54
>>67
内陸国の元から見れば、どんな船でも自分達が作ったものよりはマシだろw

70:日本@名無史さん
12/12/24 21:06:06.26
>>67
朝鮮人得意の嘘
とたんに人数が一桁になったろ。
韓国のスポーツ芸術省かあれナチスの宣伝省のコピーだからな。
賢明な日本人だまされるなよ。
特に福岡博多のお父さん犬な。

71:日本@名無史さん
12/12/24 21:44:00.78
>>67
おい、嘘つき韓国朝鮮人、その一桁人数を書いている史料見せろよ。

72:日本@名無史さん
12/12/24 22:16:22.84
NHK南果歩
こいつ北朝鮮人じゃなっかな。
NHKのドラマなんかつぶしたんだよな。
またでてきた。

最低この番組の目的は、在日が、密入国者じゃないといいたいんだろが。
ほとんど密入国者。

生活保護貰ってるのは、最近合法的にきたやつ。戦後ね

73:日本@名無史さん
12/12/24 22:23:50.76
南果歩がなにも知らないと言っているが、嘘。
朝鮮総連のしじで番組を降りた。

74:日本@名無史さん
12/12/24 22:32:47.20
>>69
そもそも、元は内陸国ではない。弘安の役の頃には大陸の沿岸部の全域を支配している。
もっといえば、水運が発達していた江南の船より頑丈だったと明言しているのだから、
高麗船が頑丈だったというのは事実だろう。恐らく、高麗は文永の役の暴風雨を体験している
ためにその対策を施していたのに対して、江南軍は何の対策もしていなかったんじゃないかな。

>>71
いや、俺は朝鮮人嫌いだから。
それと資料。
『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「(忠烈王七年十一月)壬午、各道按廉使啓、東征軍九千九百六十名、梢工引海水手一萬七千二十九名、
其生還者一萬九千三百九十七名。」

75:日本@名無史さん
12/12/24 22:34:04.83
韓国朝鮮人の国籍詐称は当たり前、
日本人には中国人だと言う。中国人には日本人だという。
最近欧米人には、誉められたときには韓国朝鮮人といい、失敗したときは日本人と言う。
平成の元寇の尖兵NHK南果歩。

76:日本@名無史さん
12/12/24 22:39:05.22
橋田壽賀子の手を噛んだ狂犬のこと。

77:日本@名無史さん
12/12/24 22:50:18.78
韓国朝鮮人の家系図は焼けて残ってないけど、駅前一等地の土地権利書は残ってる不思議。

78:日本@名無史さん
12/12/24 22:53:54.88
ここは朝鮮スレではないぞ

79:日本@名無史さん
12/12/24 22:55:53.12
NHKは日本人がおかしいと思う放送をあえて流す。在日応援歌だから。
日本人は見なくても目的は達成される。韓国朝鮮人対照番組。

80:日本@名無史さん
12/12/24 22:56:26.22
スレチ消えろよ。うざい。

81:日本@名無史さん
12/12/24 22:59:00.93
↑福岡博多人の餌付け係

82:日本@名無史さん
12/12/24 23:05:55.80
箱崎宮が敵国降伏を否定するのは、放火が恐いからかもな。
福岡市だからな。
だったら納得できる。

83:日本@名無史さん
12/12/24 23:15:06.37
俺は博多の高校出身だけど、
十万夷敵の血に肥えし~♪勇者(あしゅら)九州男(くすお)の誓いは堅し~♪
とか応援歌が血なまぐさかったぞ。

84:日本@名無史さん
12/12/25 00:00:51.26
元に抵抗する朝鮮はあえて弱い船を作ってうんたらかんたら
って朝鮮age論はもうなくなったの?

85:日本@名無史さん
12/12/26 05:14:29.72
安永の役、鳥飼で負けたあとの作戦会議、
朝鮮(旧姓高麗)侵略軍司令官、はもう一度博多を攻撃すると言い張ったんだよな、
今さら日本侵略やる気がなかったとか言っても、高麗記にのってるだろが。

86:日本@名無史さん
12/12/26 05:31:04.28
蒙古に対する朝鮮防衛戦を日本のために戦ったといいまくるのが、朝鮮人。
韓国朝鮮人は強い奴に尻尾をふるの。

トリンドル韓国ハーフが言うとるやろ。権力のある男が好きだと。
あいつ在日ハーフ、Softbank宣伝係だから。
あいつ本物韓国人
糸電話鳥取はバカだからまあいいか。

87:日本@名無史さん
12/12/26 05:47:28.20
鳥取、島根は朝鮮人の国、それを倭人が征服したから、糸電話国、
韓国だったらもっと発展したよ。
という在日応援歌。
トリンドル鳥取

88:日本@名無史さん
12/12/26 06:10:58.40
>>83
血の気はあるが脳ミソはない。
優秀な奴は、皆東京に行った。
その劣等感の裏返しが博多福岡のプライド。
頭がなくて元気な奴が、小銭稼ぎの観光に走って。韓国朝鮮人の犬になる。
箱崎宮は元寇時代から嘘つき乞食だから期待してないけど。敵国の解説止めろや。

89:日本@名無史さん
12/12/26 10:56:24.39
金方慶の発言の場所が九州本土なら、こいつはとんでもない脳筋か、さもなければウソの記述かどっちかだけれどね。

90:日本@名無史さん
12/12/27 02:29:11.06
琉球大のチームが10月にプレスに言ったからもう決着したでしょ
船は二重底で粗悪品なんかじゃないよって

91:日本@名無史さん
12/12/27 09:16:19.56
南宋船と高麗船の識別はできてるの?

92:日本@名無史さん
12/12/27 09:44:37.41
識別は可能だよ。発見された船体の一部周辺からは旧南宋地方産の陶磁器や碇石が発見されている。
今回発見された元軍船は、中国製のレンガや陶磁器が船体の周辺から発見されているので旧南宋船である。
今のところ、高麗産の船と思われる船は発見されていない。
発見された旧南宋船は、当時の貿易船の泉州船や新安船には無い、防水用の二重底になっており
通常の船より頑丈に造っていたものと思われるが、高麗船は文永の役において暴風雨で大損害を
被っており、それを受けて旧南宋船より頑丈に造られていたと思う。
後、旧南宋船は南宋の旧艦であるのに対して、高麗船は新造艦を多く含んでいたのも高麗船の被害が
少なかった原因の一つだろう。

93:日本@名無史さん
12/12/27 11:38:46.48
なんで箱崎宮の執行って岩門合戦で景資側に与して戦ってるの?

94:日本@名無史さん
12/12/27 20:23:35.70
>>92
高麗船が頑丈に作られた物的証拠は?

95:日本@名無史さん
12/12/28 00:21:36.52
ニュースだけど、神社のご神木に薬品注入して枯らすやつがいる。
これ北朝鮮工作員の訓練だからな。
今までの訓練。
関西電力送電線塔連続倒壊。鉄塔脚ボルト数十本撤去


96:日本@名無史さん
12/12/28 02:32:04.15
風船騒動
コンドームじゃねーぞ
小型化気球が大挙飛んできたのよ

吊り下げてたのは水。
あれ何年だったけ。
細菌戦訓練

福岡人、特に博多人は絶対に信用するな。

博多人を見たら韓国朝鮮人の工作員と思え。

韓国朝鮮人は日本人大好きです。

信じる人は自己責任。


箱崎宮敵国降伏解説
皆直接見てくれ。
賽銭箱の横だ。

97:日本@名無史さん
12/12/28 09:20:07.02
>>95
木材業者とグルなんだってよ。枯れたころに木材業者が現れて神社と交渉する。
調べて見るとご神木の根元に穴が空けてあって、その奥に薬品が検出される。
NHKでやってた。

現在では神社やお城の改築に必要な巨木はこうした木材業者から入手されると
いう皮肉。

98:日本@名無史さん
12/12/28 12:59:12.95
このスレ回してるのは朝鮮人?

99:日本@名無史さん
12/12/28 17:24:34.24
自分と違う意見を全員朝鮮人認定してる馬鹿だよ

100:日本@名無史さん
12/12/28 22:46:33.42
蒙古襲来と聖祈祷士たち
URLリンク(yromtm1059.blog117.fc2.com)

101:日本@名無史さん
12/12/29 02:58:58.22
なんかアレな人が妄言垂れ流し続けるスレばっかだなこの板

102:日本@名無史さん
12/12/29 03:08:26.00
軍事板の元寇スレではほぼ論じつくされてるから、興味がある人間はそちらへ行くといいよ

103:日本@名無史さん
12/12/29 11:43:59.50
>>94
物的証拠は「高麗船の沈没船が一切見つかっていない」だな。
高麗製の遺物も海底から発見されていないし、これ以上の物的証拠は無い。

104:日本@名無史さん
12/12/29 12:22:30.75
無い歴史はいくらでも捏造できる
半島の歴史はそうやって創作されて来た

105:日本@名無史さん
12/12/29 22:41:19.32
「南大門」復元大詰め、天井に鮮やかな竜
「国宝第1号」で2008年に放火により焼失した崇礼門(通称:南大門)の
復元作業が大詰めを迎えている。
このほど、虹霓門(虹模様の中央通路)天井の竜の絵が初めて公開された。
竜の絵は朝鮮時代初期の様式に倣い、荘厳で落ち着いた印象の黄や緑の顔料が使われている。
現在の復元工程率は95%。来年1月末に仮設フェンスを解体され、威厳のある姿を現す。
URLリンク(www.chosunonline.com)
焼失前
URLリンク(farm3.static.flickr.com)

復元
URLリンク(beebee2see.appspot.com)

106:日本@名無史さん
12/12/30 01:47:30.90
南大門の周辺は日韓併合前は貧民窟だった。日本が助けてやって一人前。
たかり国家韓国。
竹島があるから泥棒か。

107:日本@名無史さん
12/12/30 01:48:58.01
韓国朝鮮ネタは別のところでやれよ
この時代に韓国朝鮮は存在しない

108:日本@名無史さん
12/12/30 08:58:54.42
キモイのが一人暴れてるな。元寇と関係のないレスをする奴のことだけどね。

109:日本@名無史さん
12/12/30 09:20:54.14
まーた、朝鮮か

110:日本@名無史さん
12/12/30 09:24:39.30
>>90>>92
頑丈に作られた船は朝鮮半島で作られた船じゃないんだってよ。
高麗船木っ端微塵。

111:日本@名無史さん
12/12/30 18:09:57.68
>>110
いやいや、海底に沈んだ旧南宋船が頑丈に造られていたことが今回発見されたことで判明しており
その旧南宋船より、頑丈だったと諸資料に記載されているのだから高麗船は頑丈だったんだよ。

実際、海底からは一切高麗遺物は発見されていないし、高麗人の7割以上が無事に生還している。
いい加減、「高麗人がわざとボロ船を造ったおかげで日本は助かりました!」というトンデモ論に
惑わされるなよ。

112:日本@名無史さん
12/12/30 18:17:12.63
高麗の場合はボロ船を作る必然性がまったくない。そして南宋の棄民説みたいな俗説が完全に否定された
船の問題はもう結論が出たから、文永の役直前~臨安陥落までの対南宋との交渉が知りたいね。

113:日本@名無史さん
13/01/05 02:49:34.15
ボロ船造る必要ないが、一生懸命作ったらボロ船しかできなかった。
帰還者の数が一名単位で記録されてるのに、どんな戦いぶりだったかか分からない。
帰還者数がでっち上げ。

114:日本@名無史さん
13/01/05 07:40:28.97
朝鮮半島からの北九州襲撃は元寇の何百年も前から定期的にやってるわけで
そんな大げさに捉える問題ではないと思うが
生還者

115:日本@名無史さん
13/01/05 13:05:25.19
朝鮮人アゲしたい人間は、根拠が無い、
もしくは限りなく空理空論でもアゲるから

116:日本@名無史さん
13/01/06 11:58:26.14
いずれにしても主力は蒙漢軍であり、高麗軍はルーマニア軍みたいなもの。

117:日本@名無史さん
13/01/06 20:21:41.28
>>113
帰還者の数が一名単位で記録されているのは台風の後「鷹島に取り残された兵士のうちの
帰還者」なのであるから、取り残されずに脱出した高麗人の帰還者数とは何の関係もない。

118:日本@名無史さん
13/01/07 01:13:59.48
>>117
じゃあ高麗兵が7割り生還したのは根拠なしだな。
だから高麗兵は一生懸命作ったボロ船で遭難壊滅したんだろ。

119:日本@名無史さん
13/01/07 10:17:35.07
>>118
ん?なぜそうなる?
台風の後に朝鮮半島に帰還した高麗人の数は史料にちゃんと残されている。
『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「(忠烈王七年十一月)壬午、各道按廉使啓、
東征軍九千九百六十名、梢工引海水手一萬七千二十九名、其生還者一萬九千三百九十七名。」

鷹島に取り残された兵士と高麗人の帰還者「生還者一萬九千三百九十七名」とは何の関係もない。

120:日本@名無史さん
13/01/29 13:53:37.00
>>103
鷹島沖の海底をいくら探しても高麗船の沈没船が一切発見されないのは当然なんだけどね
だって鷹島沖は弘安の役の時に江南艦隊が嵐によって多数沈没した場所だから
高麗船の沈没船を見つけようと思えば壱岐沖を探さなくちゃ
記録では文永の役の時に高麗船130艘が壱岐で沈没したとされてるんだし

121:日本@名無史さん
13/01/29 18:14:37.31
>>120
高麗軍船の東路軍は江南軍と合流しており、鷹島沖に来ている。
その証拠に東路軍に参加していた張成の碑文にも鷹島に至ったことが記されている。
でも、鷹島沖には高麗船は発見されていない。高麗船が頑丈だったという諸資料から判断して
やはり高麗船は台風を受けながら、被害が少なかったとみるべきだろう。

122:日本@名無史さん
13/01/29 18:26:40.93
常に中国は日本に恩恵を施してきた

URLリンク(music.geocities.jp)

モンゴル人の仕業だったのが、「元寇」だった。

123:日本@名無史さん
13/01/29 21:32:47.46
木っ端微塵になって跡形も残ってないのが真実

124:日本@名無史さん
13/01/30 00:01:16.76
なんか朝鮮人憎しで元寇を捻じ曲げてる奴が多くて困る。
やれ高麗国王忠烈王がクビライに日本遠征をひつように進言したのが発端だとか
元軍の大半が高麗兵だったとか、高麗人がボロ船を造ったとか。

どれも間違ってるんだけどねー。忠烈王の進言の4年前から日本征服の意思をクビライは
表明しているし、元軍の主力は蒙漢軍だし、高麗船に乗船していた高麗兵の生存率は高いし。

この手の輩は、朝鮮人憎しで朝鮮人と同じように歴史を捏造しているのだから話にならない。

125:日本@名無史さん
13/01/30 00:02:23.09
訂正
をひつように進言したのが

をしつように進言したのが

126:日本@名無史さん
13/01/30 00:26:27.57
元寇って一般人がまともな情報知る手段が皆無だから。
お勧めの本とか訊かれても、無いとしか答えられない。
迂闊に本読んで嘘八百刷り込まれるより、知識ゼロの方がマシってレベル。

127:日本@名無史さん
13/01/30 02:12:25.80
>>124
朝鮮人、にょつ

128:日本@名無史さん
13/01/30 05:40:31.57
江南軍と東路軍の被害の差は船の頑丈さだけでなく
船乗りとしての嵐に対応する経験・能力の差もあったんじゃないかな

129:日本@名無史さん
13/01/30 09:49:36.19
>>128
それは無いだろ。
江南艦隊の船乗りたちは海洋海洋貿易国家だった南宋の海運を支えていた人たち。
外洋航海の技術に関しては当時世界最高水準にあったはずだ。

130:日本@名無史さん
13/01/30 15:15:53.94
大国に囲まれ蹂躙されてきたほぼ全敗の超賤な民はリアル北斗の拳的弱肉強食の世界で
特に北方騎馬軍団等のヒャッハーなお兄さん達にデオキシリボ角三を注入されまくった
ため、その末裔がメンデルの法則に従い気性の激しい強姦魔となったのは地政学的宿命。
世紀始覇者チンギスハーンのY染色体を受け継ぐ者が現在全世界で1600万人程いるが貢献大。

131:日本@名無史さん
13/01/31 00:42:44.56
>>60
『高麗史』によればって書いておきながら、『高麗史』の数字と違う・・・
『高麗史』に書いてある本当の数字は
蒙古漢兵2万5千
高麗兵8千
水夫6700人なんだが。。。

132:日本@名無史さん
13/01/31 01:52:10.45
朝鮮関係はいくらでも捏造発見できるよ
いちいち指摘したくなくなるぐらいね

133:日本@名無史さん
13/01/31 11:39:57.23
>>131
それは『高麗史』金方慶伝の方ね。
『高麗史』世家では高麗軍5千ちょいだったり、蒙古漢軍が1万5千だったりする。

134:日本@名無史さん
13/01/31 13:25:23.00
>>133
だってそれは最終的に日本遠征に投入された高麗軍や蒙漢軍の総数じゃないもん。
世家でも最終的な文永の役の兵力は蒙古軍2万5千、高麗軍8千、水夫6千7百で金方慶伝と一致してる。

135:日本@名無史さん
13/01/31 14:10:28.18
>>134
じゃあ、世家で「蒙古軍2万5千、高麗軍8千、水夫6千7百」とある該当部分を挙げてみたら?
俺のみた限りではそんな記述は無いけど。
それに元史でも高麗兵は5千6百ってなってるんだよね。

136:日本@名無史さん
13/01/31 16:50:54.03
>>135
高麗史・世家・元宗十五年、冬十月乙已条
「元の元帥の忽敦は、右副元帥の洪茶丘と、左副元帥の劉複享と与に、蒙・漢軍二万五千と、我が軍八千と、
梢工・引海六千七百と、戦艦九百余艘とを以て、日本を征す。」

あと、元史に高麗軍の兵数に関する記述は無い。

137:日本@名無史さん
13/01/31 20:09:21.36
>>136
それは金方慶伝と同文の文章だから、金方慶伝を写しているだけの文章だよ。
実際、その文の後の「道を分かちて」云々も全く同じ内容。
この部分は金方慶伝の内容を省略して、世家に載せているだけ。
つまり、実質「蒙古軍2万5千、高麗軍8千、水夫6千7百」の根拠は金方慶伝だけなんよね。

それと『元史』にちゃんと記載があるよ。
『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「三月、木速塔八・撒本合を遣わし、詔を持ち、高麗に使いし
僉軍五千六百人、助けて日本征せしむ、」

で『高麗史』・元宗十五年三月丙戌条には
「元、元遣經略司王總管來りて命じ、軍五千を發し、助けて日本を征す。」
元宗十五年八月己の条
「元、日本征討都元帥忽敦を遣し來り、加えて京軍四百五十八人を發せしむ。」
とあり、高麗軍の総数を5,458人と『元史』の5600人と近い数字が確認できる。

他にも烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条にも
「小國一千軍、耽羅に鎭戌する者は、昔東征の時に在りては、本國五千三百の軍額に係る」
とあって、やっぱり文永の役の軍額が5千数百だったとしている。

138:日本@名無史さん
13/01/31 20:35:45.96
>>137
そこに挙げてる数字は全部、中間値だったり一部の部隊の兵数だったりで文永の役の元軍の総数として
書かれたものじゃないじゃん。
それらを全部踏まえて最終的に日本遠征に投入された兵力として書かれてるのは高麗史の
「蒙古軍2万5千、高麗軍8千、水夫6千7百」だけ。
だから世家でも金方慶伝でも数字が一致してる。
高麗史だけじゃなく高麗史節要でも文永の役の兵数は「蒙古軍2万5千、高麗軍8千、水夫6千7百」。
この数字を疑う理由なんて無いだろ。

139:日本@名無史さん
13/01/31 22:29:30.36
>>138
いやいや、どこに「中間値だったり一部の部隊の兵数だった」なんて書いてある?
文永の役のために高麗軍が用意したのが5千数百だと書いてあるのだから、8千か5千数百だったか
の2択しか無いわけだ。
『高麗史』には途中で加えた458人という細かな数字はちゃんと記載があるわけで、8千まで足らない
残りの2500人が加えられた記載がなく、さらに忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条では文永の時の本国(高麗)
の軍額が5千3百だと明言している。
ここまで、5千数百という数字が重なると、8千より高麗軍5千数百の方が遥かに信憑性が高い。

で、5千数百だとしているのは『高麗史』でも『元史』でも一致している。
この場合、8千という金方慶伝の数字は明らか史料の数字から浮いてる。

>高麗史だけじゃなく高麗史節要でも文永の役の兵数は「蒙古軍2万5千、高麗軍8千、水夫6千7百」。

高麗史節要はその名の通り高麗史の節略本(より詳細な貴重な記述もあるが)なのだから同文が書かれているのは
当然なのだが。

140:日本@名無史さん
13/02/01 01:31:34.87
>>139
文永の役では全体で1万3500人が犠牲になってるんだよ。
忠烈王六年十一月の時点で文永の役の兵が5千3百残ってるってことは、遠征に投入された兵数は
それより遥かに多かったってこと。
つまり、5千数百という数字はあり得ない。
高麗軍は8千だったってことね。

141:日本@名無史さん
13/02/01 08:38:22.84
>文永の役では全体で1万3500人が犠牲になってるんだよ。

それが何の関係がある?1万3500人は蒙漢軍や水夫を入れた人数だ。
高麗軍が8千か5千数百かと何の関係もないね。

>忠烈王六年十一月の時点で文永の役の兵が5千3百残ってるってことは、遠征に投入された兵数は
それより遥かに多かったってこと。

君はちゃんと史料を読もう。
「小國一千軍、耽羅に鎭戌する者は、昔東征の時に在りては、本國五千三百の軍額に係る」
どこに文永の役「の後に残った兵士」が5千3百だと書いている?
史料の意味するところは、 耽羅を守備していた高麗軍1千が文永の役の高麗軍の軍額の5300人に
含まれていたということ。勝手に史料を改変してはいけない。

そもそも、文永の役の撤退理由に「兵が少ない」ことが挙げられているにもかかわらず、弘安の役と
対して兵力の変わらない8千で再び博多湾に乗り込んでくるわけが無い。
高麗軍が文永の役で5千数百だったなら、弘安の役では高麗軍が1万の約2倍に増強されており、文永の役の
「兵が少ない」ことが理由での撤退と整合性が合う。
8千という数字は誇張だろうね。
やはり、高麗軍は5千数百だったのだろう。

142:日本@名無史さん
13/02/01 08:40:41.99
訂正
兵力の変わらない8千で→兵力の変わらない1万で

143:日本@名無史さん
13/02/01 08:51:43.62
ただし、蒙漢軍は140の言う通りもっと兵力が多かった可能性が高い。
蒙漢軍に関する資料は少なく不明な点が多いからな。

144:日本@名無史さん
13/02/01 11:18:56.98
>>141
>どこに文永の役「の後に残った兵士」が5千3百だと書いている?

そのすぐ後に、弘安の役で正軍1万を揃えるため新規動員する兵数を4万7千と書いてるじゃん。
「小邦は地褊く、人稀にして、軍と民と別に節次なきに、更に征討軍四千七百を添えたれば、
以て数を尽すも、応副し難きをば深く恐る」
5千3百+4千7百でちょうど1万。
つまり5千3百は文永の役に投入された高麗軍8千の生き残りってこと。

文永の役の犠牲者1万3千5百余は「軍の還らざる者」だから水夫は含まない。
当然高麗軍にも大損害があったはずだろ。
5千3百という数は実際に文永の役に投入された数よりも数千人減った数だとしないと辻褄が合わないの。

あと、弘安の役は江南軍10万が加わるんだから、高麗軍が8千⇒1万でも兵力的には大幅増強だよ。

145:日本@名無史さん
13/02/01 21:23:54.91
当時の朝鮮で1万ていう兵力はどのくらいの規模なの?
そもそも一万人?一万騎?
騎なら確かに総軍だろうけど、人ならかなりしょぼい・・・
日本なら九州だけで倍以上出せそうだけど・・・

146:日本@名無史さん
13/02/02 10:52:05.15
>>145
もともと高麗王朝では正規軍の定員が4万5000人だった。
でも、元寇当時は30年間に渡るモンゴル軍の侵攻で疲弊しまくってたから、
1万人動員するのが精一杯だったんだよ。
このスレでも元軍の主力は朝鮮人だったとか流説を書き込む人がいるけど、
とてもじゃないが高麗にそんな動員力ないから。

147:日本@名無史さん
13/02/02 12:53:22.18
>>144
横からだけど、「軍額」というのは定員という意味だろ?
5300がたまたま生き残った数なら軍額と呼ぶのはおかしいんじゃないか?

148:日本@名無史さん
13/02/02 13:21:19.95
俺も横から失礼するが、生き残りとしたら文からして意味がおかしいね。
耽羅を守備していた1000の兵が生き残った5300に含まれていたっておかしいだろ。耽羅の守備兵はなぜか無傷だったってか?

149:日本@名無史さん
13/02/03 19:47:19.77
>>146
>元軍の主力は朝鮮人だったとか流説を書き込む人がいるけど

漢人が主力だったとは言えるだろうね

150:日本@名無史さん
13/02/03 22:01:43.58
>>149
元寇の漢人はモンゴル帝国の最精鋭部隊だからな。
帝国の皇位争いであるアリク・ブケの乱で、主要モンゴル人のがアリク・ブケ側に付く中、
クビライの親衛隊としてモンゴル高原に侵攻し、首都カラコルムを占領した漢人部隊。
文永の役の半年ほど前にモンゴルから召集されて、対日戦に投入された。

151:日本@名無史さん
13/02/05 06:14:57.67
>>148
それは>>141の 「耽羅を守備していた高麗軍1千が文永の役の高麗軍の軍額の5300人に含まれていた」
って意訳がおかしいんだよ。
耽羅を守備してる高麗軍1千って文永の役の後で欠員が出て忠烈王元年3月の新規募兵を加えた数だし。

152:日本@名無史さん
13/02/05 08:14:29.12
>>144
>そのすぐ後に、弘安の役で正軍1万を揃えるため新規動員する兵数を4万7千と書いてるじゃん。

文永の役では5千3百の軍額であったのに、さらに文永の役の軍額より4千7百の軍を追加投入するのは
高麗にとって耐え難いものであると言っているだけだよ。

その証拠に文永の役で高麗が用意したことが確認できる軍勢はいずれも5千数百のみ。

『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「三月、木速塔八・撒本合を遣わし、詔を持ち、高麗に使いし
僉軍五千六百人、助けて日本征せしむ、」

『高麗史』・元宗十五年三月丙戌条には
「元、元遣經略司王總管來りて命じ、軍五千を發し、助けて日本を征す。」
元宗十五年八月己の条
「元、日本征討都元帥忽敦を遣し來り、加えて京軍四百五十八人を發せしむ。」
とあり、高麗軍の総数を5,458人と『元史』の5600人と近い数字が確認できる。

高麗軍が8千だとすると、残りの2千5百の軍勢はどこから現れたのか?

>文永の役の犠牲者1万3千5百余は「軍の還らざる者」だから水夫は含まない。

水夫も元軍に加わっているのだから、「軍の還らざる者」に水夫が含まれていても
全く問題ない。むしろ、蒙漢軍の犠牲者を含めていながら、水夫だけ除外など不自然極まりない。

>あと、弘安の役は江南軍10万が加わるんだから、高麗軍が8千⇒1万でも兵力的には大幅増強だよ

文永の役で高麗軍は8千だったとしよう。その元軍は文永の役においてたった1日で継戦を断念せざるを得なかった。
弘安の役では、高麗軍はさらにたった2千の軍勢を増強しただけにもかかわらず、江南軍の到着を
待たずに東路軍だけで博多湾に途中にしたことになる。
東路軍が江南軍の到着を待たずに、博多湾に突入したのは、1日で「兵が少ない」ことを理由に撤退に
追い込まれた文永の役より自信があったからだと思う。文永の役の5千数百から1万なら、2倍に増強されて
おり、東路軍の行動と辻褄が合う。

153:日本@名無史さん
13/02/06 21:46:34.24
>>151
>耽羅を守備してる高麗軍1千って文永の役の後で欠員が出て忠烈王元年3月の新規募兵を加えた数だし

下記URL:
URLリンク(wenxian.fanren8.com)
で、高麗史の日本関係以外も含めた全文が読める。

元寇は27,28あたりだ。で、忠烈王元年のところを見たがそんな記事はない。
高麗史以外のソースか?

154:日本@名無史さん
13/02/06 23:43:46.22
>>153
便利なサイト教えてくれてありがとう。
>>152にも後でレスするけど、適当なこと書いてると思われるの嫌だから取り敢えず。

ソースは高丽史82卷-志36-兵2-鎭戍-009「忠烈王元年三月以耽罗戍卒缺少募人授职以遣。
七月遣府兵四领戍济州。」
そのサイトだと384ね。

155:日本@名無史さん
13/02/07 10:20:22.22
>>154
ありがとう。簡体字を直してあげよう。
高麗史82巻-志36-兵2-鎮戍-009「忠烈王元年三月耽羅戍卒缺少募人授職以遣」

ところで「軍額」の意味については下記URLを読むとわかる。
URLリンク(repository.kulib.kyoto-u.ac.jp)

高麗軍はもともと38領三万八千の「軍額」があったが、後期には欠員が出てこれを保てなかった
と書いてある。軍額が「定員」の意味であることがわかる。

156:日本@名無史さん
13/02/07 10:24:04.49
>>155
訂正:一字抜けていた。
高麗史82巻-志36-兵2-鎮戍-009「忠烈王元年三月以耽羅戍卒缺少募人授職以遣」

157:日本@名無史さん
13/02/16 22:36:02.60
戦闘国家・戦闘民族と言えば
スレリンク(whis板)l50

158:日本@名無史さん
13/02/20 22:10:40.09
>>152
長いこと放置してゴメン。

文永の役の兵数として高麗の用意が確認できる数字は8000人だけたよ。
元宗十五年三月には確かに元から兵5000人の用意を命じられてるけど、
その軍勢を実際に高麗が動員したことは確認出来ない。
その証拠に同年四月十八日条で高麗が今糧米を負担してると言ってるのは、
造船作業員の3万500人、種田軍・洪総菅軍・済州留守軍だけだし。

高麗は造船作業に3万500人も投入してるから、その上更に5000人も
動員出来ないんだよね。
ただ、逆に造船作業さえ終わってしまえば日本遠征に投入可能な人員が
3万500人確保されてたってことになる。
だから、高麗軍の兵数が8000人でも史料的には何ら問題ないが、5千数百人
という数字には一切史料的裏付けが無い。
だって、実際には元宗十五年三月に兵5000人は用意されてないんだもん。

159:日本@名無史さん
13/02/21 14:15:56.20
>>158
>その証拠に同年四月十八日条で高麗が今糧米を負担してると言ってるのは、
>造船作業員の3万500人、種田軍・洪総菅軍・済州留守軍だけだし

横からだが、その同じ記事で次のように言っている。
「故に往者、耽羅に赴征せる兵卒・蒿師は今又悉く造船の役に赴く。今、東征の兵卒・
梢工亦た当に向の件の役[功/夫]に就きて調出するのみ」

つまり遠征軍の兵にも造船を手伝わせているというのだから、遠征軍の人数は3万500人
に含まれている。だから3万500人の造船要員は遠征軍が5300人か8000人かの決め手には
ならない。

前から言っているが、この問題は5300人を「軍額」と呼んでいる時点で終わり。
軍額とは定員であって生き残りなどたまたま生じた実数ではない。

160:日本@名無史さん
13/02/21 14:57:07.43
>>159
文永の役に投入した高麗軍8000人の中で弘安の役に再投入が必要な枠の
定員が5300人だろ。
全く問題無いじゃん。
「軍額」と呼んでいるというのがこの問題に全く関係ないということは、
文永の役以前に5300という数字が一切出てこない出てこないことで明らかだよ。

161:日本@名無史さん
13/02/21 16:53:09.13
>>160
忠烈王6年11月11日の記事:
「小国一千軍の耽羅を鎮戍する者は在昔東征の時本国五千三百の軍額に係れり」

その少し後に:
「昔東征の時に於いて五千三百軍の齎去せる衣甲弓箭は多く棄失せるあり」
(齎去は「支給されて出て行った」の意味)

まさに文永の役に投入した高麗軍の軍額が5300人なのだ。

ちなみに耽羅鎮戍の一千人の話は、この1000人を弘安の役のための増員4700人の
一部に充当させてくれ、と言う文脈で出てくるから、5300人に含まれない。

162:日本@名無史さん
13/02/21 19:13:36.73
>>161
「昔東征の時に於いて五千三百軍の齎去せる衣甲弓箭は多く棄失せるあり」

まさに文永の役に投入した高麗軍8000人の中で弘安の役に再投入が必要な枠の
定員が5300人だという文章だね。
だって、そのすぐ後に「況んや今、四千六百人を新僉するをや」と弘安の役で正軍一万を
揃えるために新規募集する兵数が4600人だと書いてる。
つまり、5300人は文永の役の兵数ではなく、文永の役の後に残った兵数。
だって、文永の役の兵数が5300人なら、弘安の役では損失分も加えて絶対に4700人よりも
遥かに多い人数を新僉しないと正軍1万にならないからね。
文永の役の高麗軍は8000人で、その中から弘安の役に再投入する定員が5300人で、
新規募集が4600人で、残り100人を耽羅鎮戍の兵から補填する。
その文章が、文永の役で高麗軍が8000人だったことを完璧に裏付けてるじゃん。

163:日本@名無史さん
13/02/21 21:16:31.76
>>162
「昔東征の時に於いて五千三百軍の齎去せる衣甲弓箭は多く棄失せるあり」
文永の役の東征軍5300が装備を支給されて(齎)出発した(去)のだ。
5300が帰って来たとは書いてない。

>正軍一万を揃えるために新規募集する兵数が4600人だと書いてる。

そのすぐ前には「更に征討軍四千七百を添えたれば」と言っているから4700は消えて
いない。4600と4700の関係はわからないが、たいして意味ないだろう。

>文永の役の兵数が5300人なら、弘安の役では損失分も加えて絶対に4700人よりも
>遥かに多い人数を新僉しないと正軍1万にならない

だからこその軍額すなわち定員だ。文永の役で当然5300のなかから損失が出たが、
定員であればこそ言われなくても補充する義務があった。

>新規募集が4600人で、残り100人を耽羅鎮戍の兵から補填する。

100人ではなくて1000人だ。私が「一部」と言ったのは耽羅鎮戍兵一千人の一部を
補充にまわすと言う意味ではなく、1000人全部を新規4700人の「一部」として充当
すると言う意味だ。そうすれば真水の新規募集は3700人で済む。

忠烈王6年8月26日、王はフビライと会って陳情し、7項目の一つとして「我が軍の耽羅
を鎮戍する者を以て東征の師を補わしめよ」と訴えて了承されている。この耽羅鎮戍の
高麗兵一千は耽羅攻略以来、蒙古兵数百と共に耽羅警備にあたっていた。その警備任務
を一時的に解いてくれと言っているわけだ。

なお、この一千人は本来は日本遠征のための兵力だったのではないか? 東征軍五千三百
の軍額に係わる、つまり関係があるというのはそのことを言っているのではないか?
それかあらぬか、元史によれば耽羅攻略に用いられた高麗軍は6000人だ。

164:日本@名無史さん
13/02/22 18:37:56.53
>>163
>4600と4700の関係はわからないが、たいして意味ないだろう。

たいして意味ない訳がないだろ。
「征討軍四千七百」を「一千軍の耽羅を鎮戍する者」で補う許可を求めた上で
「四千六百人を新僉する」としてるんだから、その差百人は耽羅を鎮戍する者で
補われる分ってこと。

>だからこその軍額すなわち定員だ。文永の役で当然5300のなかから損失が出たが、
>定員であればこそ言われなくても補充する義務があった。

5300人の軍勢が文永の役から6年間も実体として存続してたわけないじゃん。
高麗は「地褊く、人稀にして、兵農別なし」なんだから、文永の役の後は、
当然武器を国庫に返納して農民に戻ったんだよ。
補充とか意味ないの。
だから、文永の役の高麗軍8000人の中から生還した5300人を軍額として
再招集する必要があったわけ。

>100人ではなくて1000人だ。私が「一部」と言ったのは耽羅鎮戍兵一千人の一部を
>補充にまわすと言う意味ではなく、1000人全部を新規4700人の「一部」として充当
>すると言う意味だ。そうすれば真水の新規募集は3700人で済む。

>なお、この一千人は本来は日本遠征のための兵力だったのではないか?

高麗が耽羅に兵1000人を駐屯されたのは、第一に三別抄の一部が島の奥地に
逃げ込み、完全に鎮圧されてなかったから。
第二に耽羅は本来独立国で高麗が統治するには軍事力の裏付けが必要だったこと。
第三に耽羅を自国に取り込みたい高麗と直轄統治したい元との利権争いだ。
したがって、耽羅に鎮戍する1000人全部を日本遠征に投入するとかあり得ない。

165:日本@名無史さん
13/02/23 10:30:31.96
>>164
話を絞ろう。この問題は君がスルーしている次の文章:
「昔東征の時に於いて五千三百軍の齎去せる衣甲弓箭は多く棄失せるあり」
に尽きている。

この文章は第二次遠征直前の時点で第一次遠征を振り返って言っているものだ。
「昔東征の時に於いて」すなわち六年前の第一次遠征の時に、
「五千三百軍の」すなわち五千三百人からなる軍隊が、
「齎」すなわち装備を支給されて、
「去」すなわち出て行った、出発した。

五千三百が第一次遠征時の高麗軍の、出発時の兵力であることになんの疑いもない。
君はこの文章をどう解釈するのか?

166:日本@名無史さん
13/02/23 17:38:56.84
>>165
>この文章は第二次遠征直前の時点で第一次遠征を振り返って言っているものだ。

この時点で間違ってる。
この文章は第二次遠征直前の時点で正軍1万を構成する兵の装備状況について
述べたものだよ。
岩波の高麗史日本伝が「齎去」を「もたらし与える」という述語としてるから
それに従うとして・・・

5300軍については、昔の東征の時に与えた装備の多くを棄失し、僅かに
回収した分も支用に堪えない。
4600軍については、装備をもともと一物だに持ってない。
残り100軍については、現役で軍務についてる耽羅鎮戍軍で補うから、
装備は問題無しでスルー。

現時点の、それも装備状況について書いてる訳で、一次遠征時の高麗軍の
兵数とか全く無関係な数字が書いてある訳無いの。

167:日本@名無史さん
13/02/23 21:56:14.89
>>166
>>165に示した文章について、君の言うへりくつも成り立たないことはない。
しかしこの文章はその直前の次の文章と呼応する。

「小国一千軍の耽羅を鎮戍する者は、在昔東征の時、本国五千三百の軍額に係れり」

耽羅鎮戍軍との関係は別として、この文章で五千三百が、「在昔東征時」つまり第一次
遠征時の、本国つまり高麗国が負担した「軍額」であったことがわかるのだ。

「軍額」は本来は常備軍の定員を指すのだろうが、東征に関して用いられるときは
フビライから命じられた責任動員兵数を指すと考えられる。

この文章と、>>165に示した文章とを併せて見るならば、五千三百が第一次遠征時の
高麗軍の初期兵数であることは動かない。

168:日本@名無史さん
13/02/25 00:53:29.96
>>167
言ってることが滅茶苦茶。
軍事遠征を行えば初期兵数は大量に消耗するのが常識。
初期兵数と遠征後の兵数が同じわけないだろ。
第二次遠征直前の時点で在昔東征の時の兵5300を「軍額」つまり定員として
求められてるんだから、第一次遠征時の初期兵数は5300よりも大幅に大きい
数字だったとしか考えられない。

169:日本@名無史さん
13/02/25 00:56:30.49
『元高麗紀事』「耽羅」至元九年(1272年)十一月十五日条
上曰、行之。至如耽羅歸順不用兵。別亦有調用之處。卿等議合用多少兵力。
囘奏、臣等約量本處屯田軍可摘二千。復於漢軍選三二千人。船中載馬費力。蒙古軍可少。
差高麗國合僉五六千。共一萬餘軍可矣」。
上曰、武衞軍差二千。卿等更議餘者。
--
「屯田軍二千」+「漢軍三~二千人」+「高麗軍五~六千」=一萬餘軍

170:169
13/02/25 01:32:15.15
なお、『元高麗紀事』には耽羅平定後に
守備兵1700人を置いたとあるが、
もう寝るわ

171:日本@名無史さん
13/02/25 21:20:41.66
>>168
>第二次遠征直前の時点で在昔東征の時の兵5300を「軍額」つまり定員として求められてる

第二次遠征直前なら軍額は5300じゃなくて一万だ。フビライに7項目の陳情をした記事に
続いて、各地方への割り当ての数字をはさんで「小邦の軍額は~総計一万人」と出ている。

まあ、この一万人という新しい軍額が発令されるまでは5300が軍額だったという意味だと
理解しよう。するとまた分からない。

第一次遠征の時は8000人で出て行ったと言うのだろう? それだって「軍額」に基づいて
出たはずだ。8000人が第一次遠征の軍額だったのだ。君の説によればね。

そこから(君によれば)損害が出て、5300人になって帰って来た。
その人数を、ひょいと新しい軍額にしていいのか? 
2700人もの減額を高麗王の一存で決められるのか?

決められないとすれば大幅減額について、忠烈王とフビライとの間で交渉があったはずだ。
なにしろ(君によれば)たった100人の耽羅鎮戍兵を転用するにも忠烈王がフビライに
陳情しに行ったのだからね。

そして耽羅鎮戍兵転用と同じように、2700人減額のための必死の交渉は高麗史に生々しく
記録されたはずだ。それはどこにあるのかな?

172:日本@名無史さん
13/02/26 01:30:02.07
各地方の割り当てを合算すると9500人。
しかし忠烈王七年壬午条に「東征軍九千九百六十名、梢工水手一万七千二十九名」
とあり、なんとか頑張って集めた模様。

173:日本@名無史さん
13/02/27 03:31:04.40
>>171
>まあ、この一万人という新しい軍額が発令されるまでは5300が軍額だったという意味だと
>理解しよう。

そうじゃない。
東征軍は常設じゃないんだから、第一次遠征後から一万人という新しい軍額が
発令されるまでの軍額なんて存在しない。
第二次遠征直前の時点で総計一万人の軍額を揃えるため、在昔東征の時の兵の
軍額が5300人で、新添の兵の軍額が4700人。
だから5300人も第二次遠征直前の時点での軍額だよ。

そもそも高麗史の記録というのなら5300人の軍額が忠烈王6年11月11日の記事
以前には一切記録されてないじゃん。

174:日本@名無史さん
13/02/28 11:13:31.08
>>173
>在昔東征の時の兵の軍額が5300人で、新添の兵の軍額が4700人。

なるほど、第一次東征時のベテランが、第二次東征直前に5300残っていたと解釈する
わけか。残念ながらそれは無理だ。

小国一千軍鎮戍耽羅者、在昔東征時、係本国五千三百軍額

漢文も中国語も、動詞の前に時の修飾語が来る。「在昔東征時」は動詞「係」を修飾する
時の修飾句だ。だから「係」の目的語の「五千三百軍額」も、なにも断りがなければ、
時の一致で在昔東征時(すなわち第一次東征時)の軍額でなければならない。

>5300人の軍額が忠烈王6年11月11日の記事以前には一切記録されてないじゃん。

一切記録されてないどころか、>>137がすでに完璧に説明しているように、高麗史、元史の
両方に出ている。
5300と端数がつくのは、それが5000+(加発の)京軍を意味するからだ。
京軍とは、以前に紹介した高麗の軍制の文献を参考にすれば、王直属の親衛隊だろう。

175:日本@名無史さん
13/02/28 16:48:56.08
対馬の捕虜は蒙古兵士の
夜の御相手を勉めたのか?

176:日本@名無史さん
13/02/28 18:15:37.60
対馬人のY染色体を調べればいい

177:日本@名無史さん
13/03/03 03:56:57.35
>>175
対馬捕虜で妄想するより、洗衣院の話のほうがエロいよ

178:日本@名無史さん
13/03/04 16:38:02.65
元兵は侍の装備に歯が立たなかったって本当かな?

179:日本@名無史さん
13/03/04 21:25:39.31
定住型重装弓騎兵ってジャンルはやりづらい相手だろうけど
歯が立たないってことは無いだろう

180:日本@名無史さん
13/03/05 10:05:21.85
騎乗の兵の数で言えば明らかに日本軍を上回っていたのに、
文永の役で追いまくられて1日で逃げ出したのを考えたら完敗

181:日本@名無史さん
13/03/05 10:49:54.33
>>180
>騎乗の兵の数で言えば明らかに日本軍を上回っていたのに、

上回ってない。元軍は指揮官クラスだけ馬に乗る歩騎混成。

対する日本軍は基本的に全軍騎兵だ。歩兵は戦闘補助者に過ぎない。
日本軍3000~5000頭、元軍2000~3000頭ぐらいでないか?

182:日本@名無史さん
13/03/05 16:39:56.90
弓の射程距離や鎧や刀の性能差で日本兵の相手にならなかったとか

183:日本@名無史さん
13/03/07 11:37:52.13
日本に来たのは大部分が朝鮮とかで徴兵された連中だろ。
実際にユーラシア征服で大活躍した生粋の猛古兵はほとんどいない。

184:日本@名無史さん
13/03/07 16:38:34.81
>>174
いや、証明されてるのは全く逆のこと。
軍額は定数なんだから端数が一致しないってことは全く無関係な数字ってことだよ。

あと、忠烈王の親衛隊ならクビライから与えられた兵3000人だろ。

185:日本@名無史さん
13/03/07 16:58:28.36
>>183
文永の役で九州に来たのは、実際にユーラシア征服で大活躍した生粋の猛古兵だけだよ。
朝鮮とかで徴兵された連中は壱岐までしか来てない。

186:日本@名無史さん
13/03/07 20:50:32.32
博多人は元寇は観光マイナス負債なので、だれも勉強してません。

187:日本@名無史さん
13/03/07 21:14:48.48
高島市長がカワイイ産業、カワイイ技術、カワイイ街作り、
怖いのはだーめ。
福岡市女は股ユルいから、北九州から朝鮮人オカマケーンもきてるからその手の人は、
福岡人はプライドないから、かおに結核(咳)かけてもニコニコしてる。日本人の恥と他県民(観光関係者以外)はバカにしてるけど。

188:日本@名無史さん
13/03/07 22:22:09.64
義経=ジンギスカンレベルのものなのかもしれないけど
これはなかなか面白かった

URLリンク(m.youtube.com)

189:日本@名無史さん
13/03/07 22:25:23.72
上手く貼れなかった

YouTubeで「歴史ミステリー 元寇はなかった?」を検索すると出てくるはず

190:日本@名無史さん
13/03/07 23:06:52.10
>>188
福岡博多人はこれ見て「カワイイ」「ヤバイ」しか言えない。
博多は「バカ」だと読みます。
バカにして市長に「カワイイ」と声かけするとニコニコします。
福岡バカ市民の選んだよだれ掛け市長の名前は高島市長です。

191:日本@名無史さん
13/03/08 10:20:06.87
>>184
>軍額は定数なんだから端数が一致しないってことは全く無関係な数字ってことだよ。

一つづつ行こう。
第一次東征に出動した8000人から損害が出て5300人になったというのだろう?
その5300人は何時の時点の人数?
第一次東征が終わって帰還した時点?

192:日本@名無史さん
13/03/08 16:06:25.40
>>188
その動画で佐藤鉄太郎が「後世の加筆です」と断定している、弓を射る二人の蒙古兵は、
大倉修二「蒙古襲来絵詞を読む」によれば竹崎季長じしんが加筆させた可能性が高い。

その理由として「海戦の場面の蒙古兵と書き方が同じ」というのも説得力がある。

恐らく季長も、逃げる蒙古兵ばかりではかえって手柄にならないと不満だったのだろう。
「蒙古兵だってそんなへたればかりじゃなかったよ」と。

193:日本@名無史さん
13/03/08 16:22:55.75
>>192
蒙古襲来絵詞はそもそも手柄にするため書かれたものじゃない。

あと、蒙古襲来絵詞って数百年の間に一度バラバラになったものをつなぎ合わせて現在の状態になってるんよ。
で、加筆とされてる弓を射る蒙古兵は、ちょうど接合部に描かれてる。
つまり、後世につなぎ合わせた後で、その上から書き足しってるってこと。

URLリンク(upload.wikimedia.org)

194:日本@名無史さん
13/03/08 16:38:45.06
弘安の役 防衛担当地域
今津…日向国、大隅国
今宿…豊前国
生松原…肥後国
姪浜…肥前国
百道原…?
博多…筑前国、筑後国
箱崎…薩摩国
香椎…豊後国

九州以外は?戦ったのはほとんど九州人だけですか?

195:日本@名無史さん
13/03/08 17:05:55.55
鎌倉:九州は九州人でしっかり守れ!おまえら壊滅して本州に来やがったら戦ってやる
と中国地方あたりにお控えあそばされておったそうな
お公家はんは敵国降伏のおまじない

196:日本@名無史さん
13/03/08 17:22:01.76
>>194
それぞれの国の当時の代表的武家を教えてください

197:日本@名無史さん
13/03/09 00:01:20.89
>>193
>蒙古襲来絵詞はそもそも手柄にするため書かれたものじゃない。

蒙古襲来絵詞はみずからの手柄の記録には違いないではないか。
「なんのために」手柄の記録を残したかについて議論があるだけだ。

>で、加筆とされてる弓を射る蒙古兵は、ちょうど接合部に描かれてる。
>つまり、後世につなぎ合わせた後で、その上から書き足しってるってこと。

それは後世の加筆であれ、完成直後の加筆であれ同じことだ。
紙が手漉きである以上、まったく継ぎ目のない絵巻なんてあり得ないからね。

また、後世の加筆であればわざわざ周りの兵士と異なる描き方をする理由がない。
これは絵巻ぜんたいが二人の絵師によって描かれていると言う大倉の説に
説得力がある。加筆はその二人目の絵師によって行われたのだ。

198:日本@名無史さん
13/03/09 03:35:32.02
>>197
>それは後世の加筆であれ、完成直後の加筆であれ同じことだ。
>紙が手漉きである以上、まったく継ぎ目のない絵巻なんてあり得ないからね。

同じじゃないよ。
その接合部を境に右の紙と左の紙は上下に4センチほどずれてる。
大倉修二「蒙古襲来絵詞を読む」のカラーページで確認してみればいいじゃん。
そんな状態で絵巻完成させるとかありえない。
後世、絵巻が修復された後で描きこまれたってこと。

199:日本@名無史さん
13/03/09 09:12:26.68
>>198
ずれてはいない。
いちばん手前の兵士の足を見ると、沓の先が欠けている。
これは加筆が行われた後に紙の下縁が水か何かでやられて、それを
別の紙で裏打ちしたことを示している。

200:日本@名無史さん
13/03/09 09:35:34.90
>>196
豊前 児玉氏
豊後 大友氏、難波氏、戸次氏、臼杵氏、日田氏、紀井氏
筑前 少弐氏、秋月氏
筑後 光友氏
肥前 高木氏、龍造寺氏、大村氏、松浦党、山代氏、白石氏、石志氏、西郷氏、有馬氏、深堀氏、千葉氏
肥後 菊池氏、竹崎氏、赤星氏、城氏、山鹿氏、葉室氏、詫磨氏
薩摩 島津氏、野田氏、山田氏

201:日本@名無史さん
13/03/09 10:28:19.80
>>200
おおありがとう
光友氏とか初めてみた

202:日本@名無史さん
13/03/09 10:52:05.10
光友は上妻氏の当時の名乗り

203:日本@名無史さん
13/03/09 14:23:44.05
>>199
明らかに、ずれた状態で別の紙で裏打ちしてる。
しかも4センチも。
修復過程でずれが生じて、その上から3人の蒙古兵を描きこんだのは一目瞭然。
つまり、あの3人の蒙古兵が描きこまれたのは近世としか考えられない。

204:日本@名無史さん
13/03/09 15:31:17.67
>>203
修復後に描きこまれた蒙古兵の足先がなんで紙の下縁で欠けるのか?

明らかに順序は:
3人の蒙古兵を描きこむ 
→その後紙の下縁が損傷する
→損傷した紙の下縁を切り取る(このとき手前の兵士の足先が紙といっしょに切り取られて欠ける)
→紙の切り取った部分を別の紙で裏打ちする(欠けた兵士の足先はそのまま)

という順序だ。加筆が先で修復が後。だから修復は加筆が直後か後世かの決め手にはならない。 
そうなると兵士の描き方が生きてくる。

後世の加筆なら改ざん意識があるから、周りの兵士を真似て描いただろう。
直後に加筆した絵師は改良意識はあっても改ざん意識はないから、堂々とじぶんの筆法で
「自分の絵」を描いた。

205:日本@名無史さん
13/03/09 16:19:27.96
>>204
他の場面と比べてごらんよ。
下縁が損傷した状態で裏打ちされてるから。
修復の際に他の紙と縁を揃えるため切断することはあっても、損傷してるからって紙の下縁を
切り取る必要がないの。
しかも、明らかに隣接する紙とずれた切断するはずがない。
つまり、あのずれた下縁が本来の下縁。
あの3人は後世の書き込み以外の可能性は無いよ。

206:日本@名無史さん
13/03/09 20:24:08.96
>>205
あれが本来の下縁だというのならば、手前の兵士の沓の爪先が欠けている理由を説明してくれ。

207:日本@名無史さん
13/03/10 10:05:30.72
>>206
もうひとつ書いて置こう。
継ぎ目の左側の紙の、問題の下縁は一見直線状かつ水平で、本来の下縁に見えるが、よく見ると左にかけて
だらだらと下がっている。

さらに決定的なのは、この下縁の線は継ぎ目の右側の紙に連続しており、その部分では直線ではなく
不定形の雲形である。その雲形は右にかけて下がって、健全な下縁に接続している。
これは左側の紙の問題の下縁が損傷によって生じたものであり、本来の下縁ではないことの、決定的な証拠である。

紙の継ぎ目をはさんで左側の紙と右側の紙が連続した同じ損傷を受け、それを併せて裏打ちしてあるのである。
どこにも「ずれ」は無い。

208:日本@名無史さん
13/03/10 10:07:42.95
現行の元寇の原稿についての言行を減光。

209:日本@名無史さん
13/03/10 10:14:42.76
追加:
「切り取った」については固執しないよ。
切り取ったかどうかは別にして、とにかく紙が損傷を受け、その結果として直線状の欠損部を生じ、
これによって手前の兵士の沓の爪先が切れた。

なぜ直線状になったかは分らないが、損傷による欠損であることは>>207で証明されているから、
損傷の原因は問題ではない。

210:日本@名無史さん
13/03/10 10:41:46.62
>>200
山鹿氏は筑前の豪族で麻生一族の先祖

211:日本@名無史さん
13/03/10 20:08:05.95
香椎のとこに豊後と関東の軍が一緒に居て志賀島方面から侵入してきた敵軍の一部を海の中道で迎撃した

212:日本@名無史さん
13/03/16 08:16:30.90
日本中から兵隊をかき集めると
食料も日本中からかき集める必要がある

213:日本@名無史さん
13/03/16 13:12:44.76
>>207
>さらに決定的なのは、この下縁の線は継ぎ目の右側の紙に連続しており、その部分では直線ではなく
>不定形の雲形である。その雲形は右にかけて下がって、健全な下縁に接続している。
>>206
破損して不定形の雲形になった右側の紙に左側の下縁揃えて接合したため、ずれが生じたってことだろ。
この一点でも、あの3人が後世の書き込みだってことを証明してるじゃん。

>不定形の雲形である。その雲形は右にかけて下がって、健全な下縁に接続している。
>これは左側の紙の問題の下縁が損傷によって生じたものであり、本来の下縁ではないことの、決定的な証拠である。

つまり、修復の際に斜めに接合しちまったってことね。

214:日本@名無史さん
13/03/16 14:13:18.63
>>213の「>>206」は単なるミスだから無視してね。
後世にあの3人が書き込まれてからだって既に数百年たってるわけで損傷だってするだろ。

215:日本@名無史さん
13/03/16 21:57:48.35
>>214
>後世にあの3人が書き込まれてからだって既に数百年たってるわけで損傷だってするだろ。

つまり加筆が先で、損傷・修復が後ってことだな?
私の意見に賛成してくれて有り難う。>>204参照

216:日本@名無史さん
13/03/17 08:20:14.69
>>215
明らかに接合した上から加筆してるのに、損傷・修復の後なわけないじゃん。

217:日本@名無史さん
13/03/17 09:48:14.25
>>215
>後世にあの3人が書き込まれてからだって既に数百年たってるわけで損傷だってするだろ。

この文章は3人が描かれた後の数百年の間に損傷の可能性があるという意味だ。
この文章は訂正するのか?

218:日本@名無史さん
13/03/17 10:08:09.61
>>217
何でさ?
絵巻が損傷・修復されその後から3人が加筆されたのは江戸時代なんだから
今から数百年前じゃん。

219:日本@名無史さん
13/03/17 10:12:15.59
>1をアドリブで解読してみた


『モンゴルの国書』

天地神明に誓って
大モンゴル国の皇帝が封書を送ります


日本国の王様へ


朕は自然に
随分昔から小国の古王様と領土国境を互いに接して
真面目に信義を呼び掛けて友好的な関係を当たり前にする様に務めて居ます

朕の祖先は天の明かりとなるようにとの命を天から受けて居ます

夏地域の西方には諸汗国が有りそれらも朕が編んでいます

朕の支配地域外の暴力を怖がって朕の国に入りたがる者も全員を数えきれない程です


ツヅク

220:日本@名無史さん
13/03/17 10:14:50.24
朕は皇帝になった最初の頃より
久しく高麗の病的なまでに過酷に徴兵されていた罪の無い民をして
直ぐに兵役を免じて彼等が力を発揮できる郷里へ返しました

その行き届いた目配りに返って高麗の王様も臣下も恐縮して参勤しなければと強く思っています

父子の関係ができれば君臣とも喜ぶものです

朕の他の家来の諸侯も今や高麗が朕の東の藩塀であるとちゃんと認識しています


ツヅク

221:日本@名無史さん
13/03/17 10:20:11.16
日本は高麗と建国以来互いに密接にお付き合いしまたその期間を通じて中国とも通商が有りましたね

別に結局は朕の方では高麗日本の合同使節をもって通商和親を結んでも一向に構わないのですが
真面目に王国(日本)が朕が日本をどう扱うか未審であると思ってビビっているといけないなと心配しています

そこで特別に使節を派遣し書をもたせて朕の意で覆うべく布告します

(朕)自ら今より往来を合意締結する様望みますので互いに親しみ睦みましょう

聖人は自らの周囲に堀を回して家々がゴチャゴチャ付き合わないのを好むとは言われていますが
それは果たして一家の道理であるのでしょうか?

最終的には用兵策を執行します
王が無回答を意図するのがその好む所である場合には


>元ってサイコー三年八月某日


オワリ

222:日本@名無史さん
13/03/17 11:49:09.25
>>218
結局、
「後世にあの3人が書き込まれてからだって既に数百年たってるわけで損傷だってするだろ。」
は前後関係については意味の無い文章だということがわかった。

さて、それでは聞くが、君によれば損傷・修復の後で描き込まれた手前の蒙古兵の沓の爪先が、
君の言う「本来の紙の下縁」で切れているのはなぜか?

223:日本@名無史さん
13/03/17 13:53:48.71
>>222
沓の爪先は紙の下縁では切れてないだろ。
ちゃんと下縁に収まるように書いたけど、爪先部分が色落ちしただけ。
その証拠に左側の紙の下縁は全体的に白く色落ちしてるよ。

224:日本@名無史さん
13/03/18 09:46:42.13
>>223
>ちゃんと下縁に収まるように書いたけど、爪先部分が色落ちしただけ。
>その証拠に左側の紙の下縁は全体的に白く色落ちしてるよ。

それこそが描かれた後の損傷である証拠だ。
なぜならその白化(色落ち)は右側の紙の損傷部(雲形欠損部)にも、全く同様に
起こっているからだ。

つまり左側の紙も右側の紙も、欠損と縁の白化とを生じるような、同一かつ共通の、
連続した損傷を受けたのである。

4センチ君が言うように、兵士像の加筆が行われた後に欠損は起こらず白化のみが
起こったのであれば、そのような白化が絵巻の他の部分にも見られなければならないが、
絵巻ぜんぶを見てもこのような白化は見られない。

結局、右側の紙にも左側の紙にも共通して白化があるということは、かえって「ずれ」が
ないことの証拠になっているである。

225:日本@名無史さん
13/03/18 11:01:27.13
>>224
いや、ずれてるから。
左側の紙の下縁に定規当てて、その直線を延長すればどれだけ右側の紙と
ずれてるか一目瞭然じゃん。
左右の紙がずれて接合されてるのは事実なんだから、そこは認めないと。

226:日本@名無史さん
13/03/18 13:16:36.26
>>225
あれは「ずれ」ではなくて「欠損」なのだ。
左側の紙の損傷と右側の紙の損傷が連続している、あの場面の写真とか実物を見て、
あれが「ずれ」だと思う人はまずいないだろう。

それでも「ずれ」説がまかり通るのは特定の学者がそう言っているからに過ぎない。
だれでも学者には弱いのだ。4センチ君を含めてね。

あれを「ずれ」だと言うためには、4センチ君がそう言っているように、
右側の紙の欠損部の上端に左側の紙の健全な下縁を合わせて、しかも斜めにつなぐ
と言う、前代未聞の修復方法を取ったと、強弁しなくてはならない。

私は「絵詞の研究}を読んでいないが、特定の学者はそんなことを言っているのか?

227:日本@名無史さん
13/03/18 18:27:01.07
>>226
左側の紙みたいに直線的に損傷するわけないし。
左側の紙に描かれた本来の蒙古兵は、ちゃんと下縁に沿って描かれてる。
それに対して接合部に後世加筆された蒙古兵は、ずれた分だけ下に描かれてるんだよね。

現実に、右側の紙の欠損部の上端に左側の紙の健全な下縁を合わせて、しかも斜めにつなぐという
修復方法が取られてるんだから仕方ないでしょ。

228:日本@名無史さん
13/03/18 21:16:11.44
>>227
>現実に、右側の紙の欠損部の上端に左側の紙の健全な下縁を合わせて

「・・絵詞の研究」の著者である特定の学者も、そのように言っているのか?
単に右側の紙の欠損部を無視しているだけじゃないのか?

229:日本@名無史さん
13/03/18 21:51:08.68
>>227
もうひとつ。
>それに対して接合部に後世加筆された蒙古兵は、ずれた分だけ下に描かれてるんだよね。

絵1を見よ。
下縁が左の紙に対して「4センチほどずれて」接いである(ように見える)。
しかし欄干の高さは左の紙の絵と合っている。

ずれて接いであるからって、必ず絵の高さもずれるとは限らないことがわかるな。
実はこの絵1だって、何らかの理由で下縁が切れたんだろう。

230:日本@名無史さん
13/03/19 02:13:59.17
>>229
絵1はずれてるように見えないよ。
だから、ずれてる絵7と違うのは当然。
絵1は紙がずれて接合されてないからそこに描かれてる欄干の高さが合っているんだし、
絵7は紙がずれて接合されてるからそこに描かれている蒙古兵の立ち位置もずれてる。

231:日本@名無史さん
13/03/19 09:18:36.94
>>230
>絵1はずれてるように見えないよ。
>絵1は紙がずれて接合されてないからそこに描かれてる欄干の高さが合っているんだし、

その通り。絵1のある第3紙は「ずれている」のではなくて「欠けている」のだ。
説明しよう。

絵1がある第3紙の下縁の右端は、その前の健全な第2紙(詞書き)から段差をなして上がっている。
上がった下縁は左上がりに僅かに傾斜しつつ直線状に伸びて、次の第4紙との接続部に至っているが、
第4紙の下縁の損傷部との間がまた段差をなしている。第3紙と第4紙との間は、武士の絵から見て
切り詰めがあるから、この段差は元は連続していた可能性がある。

第4紙下縁の損傷部は雲形をなして伸びて、次の第5紙に至ってはじめて健全な下縁に接続している。
ここに健全な下縁があり、しかも君も言うように絵のほうには全体として上下のずれが無いという事は、


上にずれて見える第3紙の直線状の下縁が、「本来の下縁」ではなく「直線状の欠損部」であることの
具体的な証拠である。

三蒙古兵像の左側、第24紙の下縁が「直線状だから本来の下縁である」という、ずれ説の最大の根拠
は、第3~第5図の観察によって崩れ去るのである。

232:日本@名無史さん
13/03/19 09:32:17.66
追加。
>左側の紙みたいに直線的に損傷するわけないし。>>227

「直線状の欠損部」が存在する証拠は他にもある。それは詞書きだ。
元軍本陣図のある第27紙の次の第28紙の詞書きを見よう。
下端の字が、紙の下縁にぴったりついている。なかには下が欠けて見える字もある。

絵は下縁にぴったりつけて描くこともあるが、文字はあり得ない。それは美しい字で
書かれた詞書きの美意識に反する。実際、他の紙の詞書きを見れば美しく下の余白を
つけて書かれている。

第28紙の下縁は直線状で、一見「本来の下縁」に見えるが、上記から明らかなように
「直線状の欠損部」なのである。

233:日本@名無史さん
13/03/19 14:01:02.05
>>231
訂正:
第3~第5図 → 第3~第5紙

234:日本@名無史さん
13/03/20 12:50:20.43
>>231
第3紙と第5紙の欄干の高さ比べれば分かるけど、第3紙の下縁は本来の下縁だよ。
長々書いてもらって申し訳ないけど、したがって>>231は何も証明していない。

調べてて分かったんだけど、第23紙には礬水が施されてないのに第24紙には礬水が施されてるんだって。
完全に別の場面として成立してた紙をずれた状態で接合して、後から3人の蒙古兵を加筆してる。
結論でちゃったね。

235:日本@名無史さん
13/03/20 15:28:31.02
>>234
>第3紙の下縁は本来の下縁だよ。

質問形式で行こう。

<質問1>
第3紙と第2紙の接続部において両紙の下縁の間に段差があり、第3紙のほうが約2センチ高い。
君はこの段差をどう説明するのか?

<質問2>
第28紙の下縁は本来の下縁か?

236:日本@名無史さん
13/03/21 09:14:22.22
今の教科書では元寇って書かないんだって

237:日本@名無史さん
13/03/21 18:34:07.85
>>235
<質問1>の答え
単純に第2紙と第3紙がずれて接合されてるだけ。
だって、上縁にもきっちり同じだけ段差があるじゃん。
<質問2>の答え
本来の下縁だよ。

238:日本@名無史さん
13/03/22 10:18:24.76
>>237
>単純に第2紙と第3紙がずれて接合されてるだけ。

服部英雄氏のブログは参考になる。URLリンク(www.scs.kyushu-u.ac.jp)
第3紙について:
「本文絵(の高さ)は前巻では39センチプラス8ミリ、マイナス4ミリである。冒頭の第
3紙は38,0センチで短いが、冒頭だから破損を受けやすかったかもしれない。」

第3紙の高さは平均40.2センチより2センチ強短い。服部氏はこれを「破損」と見ている。
学者の眼から見ても「直線状の欠損部」は存在するのだ。

>(第28紙の下縁は)本来の下縁だよ。

下の余白が無いのが本来の下縁の姿なのか?
簡単にするために第28紙のみについて言ったが、ページをめくれば第30~34紙において
詞書きの余白が様々な程度に直線状に欠損している。君はこれを全て本来の下縁だと言うのか?

239:日本@名無史さん
13/03/22 10:38:17.08
>>234
>調べてて分かったんだけど、第23紙には礬水が施されてないのに第24紙には礬水が施されてるんだって。
>完全に別の場面として成立してた紙をずれた状態で接合して、後から3人の蒙古兵を加筆してる。
>結論でちゃったね。

上記服部氏のブログを見ると、礬水処理については諸説がある。
第23紙と第24紙の片方のみ礬水処理されたというのは太田彩という人の説だが、これに対して
宮次男という人は両紙とも礬水処理がないと言っている。

また、これらの説はどうも絵を見ての所見であって化学分析ではないらしい。
もっとも、国宝級の原本を化学分析も難しいだろうけどね。

また服部氏は三蒙古兵像について後世改ざん説ではなく当時手直し説であるらしい。引用しよう。

「(第23紙と第24紙の)いずれかが時期を隔てた後世に画かれたとみることは、まったく
あり得ないと思う。」

「蒙古兵3人は制作過程の中で描かれたとする私見は成立する。」

マスコミは後世改ざん説を現在の定説のように言うが、どうも特定の学者とその信奉者だけのようだ。
すくなくとも「結論でちゃっ」てはいないね。

240:日本@名無史さん
13/03/22 11:58:47.69
>>238
そのブログでは詞1と絵1は2ミリしか大きさに差がないじゃん。

>>239
>「(第23紙と第24紙の)いずれかが時期を隔てた後世に画かれたとみることは、まったく
あり得ないと思う。」

そいつ問題を根本的に理解してないんじゃね?
誰も第23紙と第24紙が後世に描かれたなんて言ってない。
その接合部に描かれた3人が後世に描かれたって言われてるのに・・・

241:日本@名無史さん
13/03/22 21:25:19.46
>>240
>そのブログでは詞1と絵1は2ミリしか大きさに差がないじゃん。

宮次男氏のデータは最短値なのか平均なのかわからないが、いずれにしても詞1のある
第2紙は大部分において上部が大きく欠損しているから、第3紙と同じぐらいの高さしか
ないだろう。

ただし第3紙が破損によって38.0cmしかないと服部氏が言っているのは、第2紙とは
独立した話だ。第3紙は上部は残っているから破損というのは下縁のことしかあり得ない。
これを「破損」と見たことが重要なのだ。

>誰も第23紙と第24紙が後世に描かれたなんて言ってない。

「いずれかが」を見落としてないか?
礬水処理の話が「第24紙は礬水処理があるから後世の紙であり、したがってその上に
描かれた絵も後世の成立である」と言うのであれば、礬水処理が無いという第23紙が
制作時の紙であっても、上記第24紙にまたがって描かれた三蒙古兵像は後世の加筆だと
言うことになる。
服部氏は後世改ざん説の根拠となり得る上記の事情を否定しているわけだ。

いっぽう、「蒙古兵3人は制作過程の中で描かれたとする私見は成立する。」というのは、
画法の観点から、三蒙古兵像の画法が、これを制作過程での手直しと見る服部氏の見方と
矛盾しない、と言っているわけだ。引用しないが、その前の文章も読んでね。

ところで「・・を読む」の大倉隆二氏にしても、服部氏のブログの質疑応答にしても、
4センチずれ説に全く言及してないのは注目される。まともな学者たちからは無視され
てるんじゃないか?

242:日本@名無史さん
13/03/22 21:35:24.62
>>241
追加:
礬水処理の話は、私も服部氏ブログでしか読んでないので、礬水処理の有無と時期の関係は、
第23紙、第24紙について上記と逆なのかもしれない。
そうであったとしても話は変わらない。念のため。

243:日本@名無史さん
13/03/23 03:59:44.03
>>241
佐藤鉄太郎氏の論文に言及しながら4センチずれてることに異論を唱えてないのは、ずれてることを
認めてるってことじゃん。

244:日本@名無史さん
13/03/23 08:38:06.74
>>243
4センチずれを認めるということは、後世改ざん説を認めることに他ならない。

制作時手直し説に立つ大倉隆二氏、服部英雄氏がそれを認めるはずがないではないか。
単に無視しているだけだよ。

245:日本@名無史さん
13/03/23 13:12:55.70
>>244
もう改竄があったこと自体は定説だろ。
認めてないのなんて大倉隆二氏、服部英雄氏みたいなごく一部だけ。

246:日本@名無史さん
13/03/23 20:01:13.25
>>245
>もう改竄があったこと自体は定説だろ。

そう、大倉隆二氏も「・・を読む」のなかで多くの改ざんを提示している。
三蒙古兵については改ざんを認めていないだけ。

247:日本@名無史さん
13/03/23 20:15:32.63
>>246
訂正:
三蒙古兵については改ざんを認めていないだけ。
      ↓
三蒙古兵については改ざんと認めていないだけ。

248:日本@名無史さん
13/03/24 02:14:52.34
対馬を助けて‼

日本人の方、観光に来てください!
国は支援してくれません。

 韓国が不法占拠している竹島(島根県)に続き、対馬(長崎県)の領有権まで主張し始めた。


◆対馬を守るために立ち上がるオフ会◆

スレリンク(offmatrix板)

249:日本@名無史さん
13/03/24 02:52:26.55
対馬とか昆虫採集ぐらいしかやることないイメージ

250:日本@名無史さん
13/03/24 08:55:22.89
なるほど。対馬は災難だな。

神社巡りは壱岐とセットで行ってみたい。

251:日本@名無史さん
13/03/24 10:04:51.14
三蒙古兵像について後世改ざん説が世に受け入れられるのは、多分に印象操作の問題だ。
この場面だけを切り出して、「蒙古兵の描き方が全く異なる」「紙が4センチずれている」と
言われれば、だれしも「うわーほんとだ」となる。実は私もそうだった。

しかし追加の情報として、三蒙古兵と同じような画法で蒙古兵が描かれている他の場面が
あること、紙の下縁の直線状の欠損は多くの例があること、を与えられれば受け手の印象は
全く違ってくるだろう。

このような追加の情報を与えないところが意識的または無意識的の印象操作なのである。

252:日本@名無史さん
13/03/24 10:36:08.27
それでは、この場面の一般の蒙古兵と、加筆と見られる三蒙古兵の描き方はどのように
異なるだろうか。比較して見よう。一般の蒙古兵が矢印の左、三蒙古兵が同じく右である。

兜の垂れ:肩とあごを覆うフード←→フードが無く「吹き返し」飾りがある

顔の描き方:絵画的、優美←→漫画的、こっけい

輪郭の描線:全般に細い←→一部で太い

弓:細くて短い←→太くて長い

ズボンの描き方:簡略←→膝前面に折り目のようなものを描線で描く

すねの武装:白いすね当て←→黒い色のブーツ

三蒙古兵の描き方のこのような特徴は、他の場面の蒙古兵にも見られる。
例えば絵19(後巻第33紙)で、上の船の中央に仁王立ちする兵士を見よう。
上の対照表で矢印の右に示した特徴が全て表れている。

このような例を見れば、三蒙古兵の場面における兵士の描き方の差は、描かれた時代
の差ではなく、画工による画法の差であることが、文句なく納得できるのである。

253:日本@名無史さん
13/03/24 13:14:17.81
>>251
正確な情報を知れば知るほど後世の加筆という結論しか出ないじゃん。
あんな直線状に破損するわけないし、現実に他の紙でも直線状の欠損の箇所は全く無い。
第23紙には礬水が施されてないのに第24紙には礬水が施されてるんだから、この2紙が本来は別々の
場面だったことも明白。
赤外線調査で真ん中の槍を持つ蒙古兵は逃亡する蒙古兵の衣装の上に加筆したものであることが
判明してる。

>>252
で、加筆された蒙古兵と似てるとされる蒙古兵が描かれてるのは全部弘安の役の場面だろ。
竹崎季長が文永の役で戦った元軍と、弘安の役で戦った元軍は装備編成が完全に異なる。
つまり、後世の加筆じゃない限り特徴が一致するわけないの。
あの3人の蒙古兵が、絵19(後巻第33紙)で上の船の中央に仁王立ちする兵士と同じ特徴であること自体、
後世の加筆だってことの動かぬ証拠。

254:日本@名無史さん
13/03/24 13:34:41.78
追記

ちなみに絵19(後巻第33紙)で、上の船の中央に仁王立ちする兵士も、赤外線調査で加筆されたもの
であることが判明してるから。

255:日本@名無史さん
13/03/24 15:44:57.18
>>253
>竹崎季長が文永の役で戦った元軍と、弘安の役で戦った元軍は装備編成が完全に異なる。
>つまり、後世の加筆じゃない限り特徴が一致するわけないの。

え? 蒙古襲来絵詞は弘安の役が終わった後で作られたんじゃないのか?
主に弘安の役の場面を担当した第二の画工が、文永の役の場面の加筆も行ったと考えれば、特徴が一致して
当然ではないか。

それに、竹崎先駆けの場面の逃げる蒙古兵や本陣の蒙古兵と同じフード付きの兜をかぶった蒙古兵は
弘安の役でも描かれている。よく探してごらん。

全般に君の言っていることは単なる「加筆の証拠」を「後世の加筆の証拠」に拡大している。
制作過程の加筆であることは始めから言っているのだ。
後世の加筆だと言うなら、「制作過程での加筆ではない」あるいは例えば「江戸時代の加筆だ」という証拠を
示さなければならない。

256:日本@名無史さん
13/03/24 17:44:18.88
>>255
弘安の役に描かれてる蒙古兵と似た蒙古兵が文永の役の場面で描かれてることが、制作過程の加筆
じゃない証拠だよ。
蒙古兵の装備は、竹崎季長が実際に戦った蒙古兵の装備を再現したものであって、画工の特徴の
問題じゃない。
それに、制作過程で意図的に紙をずらして接合するわけもないしね。

257:日本@名無史さん
13/03/24 21:15:21.54
この感じはもしかしてまたパフォ様が降臨してる?

258:日本@名無史さん
13/03/24 21:24:52.75
>>256
>弘安の役に描かれてる蒙古兵と似た蒙古兵が文永の役の場面で描かれてることが、制作過程の加筆
>じゃない証拠だよ。

ではなぜ、文永の役に描かれている(加筆以外)蒙古兵と同じ装備をつけた蒙古兵が、弘安の役の
場面にも描かれているのか?

それと言うのは絵17だ。ここに描かれた十数人からなる一隊の兵士は全て文永の役に描かれている
蒙古兵と同じ装備をしている。絵の中では異なる装備の兵は混在しない。

これは所属の軍が違うのかと思えば、掲げている旗印はその前の絵16と同じ、赤地に金丸じるしだ。
絵16のほうの兵士は君の言う「弘安の役に描かれてる蒙古兵」の装備だ。

上記のことは文永の役と弘安の役を装備で描き分けてはいないという証拠ではないか?

259:日本@名無史さん
13/03/26 14:01:14.83
>>258
いや、文永の役と弘安の役は明確に描き分けてるよ。
弘安の役の元軍が多種多様な民族装備なのに対し、文永の役の元軍は編成に統一感がある。
これは、実際の文献史料に記された元軍の部隊編成にも一致する。
文永の役の場面であの3人だけが異質であり、後世の加筆なのは明らか。

260:日本@名無史さん
13/03/27 09:48:42.65
装備と描き手のことは暫く置いて、後世改ざん説最大の根拠である「4センチずれ」に戻ろう。

一般に「ずれる」ということは、下縁が上がればそのぶんだけ上縁が突出することを意味する。
しかし上縁がどうなっているかは、写真では確認できない。

君の考えでは「4センチずれ」の上縁はどうなっているのか?

261:日本@名無史さん
13/03/27 10:03:01.89
その後「・・を読む」を読み直したところ、三蒙古兵について太田彩氏も手直し説である
ことがわかった。これで手直し説の学者は三人になった。
手直し説と後世改ざん説の学者数は、今のところ3対1。
しかも太田彩氏は実物を見ている。

262:日本@名無史さん
13/03/27 14:10:39.20
多数決w

263:日本@名無史さん
13/03/27 19:03:18.25
パフォ爺かw

264:日本@名無史さん
13/03/28 17:26:25.06
民主主義は絶対

265:日本@名無史さん
13/03/30 11:11:07.57
太田彩氏の「絵巻蒙古襲来絵詞」(至文堂2000年)を入手した。
三蒙古兵に関するさわりを引用しよう。

「季長に射かける三名の蒙古兵の描写は一見粗く見えるが、力強い描線で実に動的に表現し、
描きなれた絵師によると考えられる。<中略>衣の描写は彩色の上から描線を描く点などを
考え合わせれば、前巻後半の絵九(秋田城介泰盛の館)場面の描写との類似も指摘できる。」

「詞の内容以上に、この場面の描写内容は、季長の功績を讃える描写が強調されすぎている
感が窺えるのである。従ってこの場面の改ざんは、最初の画面が制作されて後、間もなくに、
さらにいうなら季長の存命中、あるいは季長の気配が残る間に季長のために行われたものと
考えるべきであろう。」

要するに絵巻の一次的完成からあまり隔たらない時期に、季長の影響の下に「改ざん」が
行われたと言うのである。
古美術の専門家の太田氏の眼から見れば、「4センチずれ」とか「江戸時代の改ざん」とかは
論評にも値しないトンデモ説なのであろう。

266:日本@名無史さん
13/03/30 12:32:21.06
>>265
>詞の内容以上に、この場面の描写内容は、季長の功績を讃える描写が強調されすぎている
感が窺えるのである。

季長の書いた詞の内容以上に季長の功績を讃える描写が強調されてるのは、加筆が季長の死後
行われた証拠じゃん。
季長の存命中なら、詞と絵の印象が異なるわけないし。
そもそも、蒙古襲来絵詞の美術的価値と歴史史料としての価値が異なるということを理解してない点で
論評にも値しないトンデモ説。

267:日本@名無史さん
13/03/30 13:19:29.52
>>266
>季長の書いた詞の内容以上に季長の功績を讃える描写が強調されてるのは、加筆が季長の死後
行われた証拠じゃん。

証拠ではない。太田氏も「気配が残る期間」と言っているように、死後も含めて述べている。
季長の死後に行われたとすれば季長の取り巻きがやったのだ。
もっとも、私は存命中だと思うけどね。

>季長の存命中なら、詞と絵の印象が異なるわけないし。

異なっていいのだ。例えば太田氏の復元によれば元々は三井資長が突撃の先頭に描かれて
いた。それが事実であっても絵としては季長の気にくわなかったということも考えられる。

>蒙古襲来絵詞の美術的価値と歴史史料としての価値が異なるということを理解してない

「紙が4センチずれているか」「画風が鎌倉時代か、江戸時代か」は古美術の専門家の
範疇だ。

268:日本@名無史さん
13/03/30 13:44:33.94
>>267
いや、異なっちゃダメだろ。
詞の内容が気に食わなければ、当然詞の方を書き直す。
詞は季長自身の筆跡と一致してるんだから、詞の印象と異なるってことは加筆されたのが
季長の死後だったって完全に立証している。

それから、古美術の専門家の範疇のことについてなら、太田氏だって23紙と24紙が別々の場面として
成立したことを認めてるだろ。
紙が4センチずれているかについても否定していないし。

269:日本@名無史さん
13/03/30 15:57:35.18
>>268
>詞は季長自身の筆跡と一致してるんだから、詞の印象と異なるってことは加筆されたのが
>季長の死後だったって完全に立証している。

だから季長死後を含めると言ってるじゃないか。
しかし加筆は鎌倉時代末期であって江戸時代ではない。

>太田氏だって23紙と24紙が別々の場面として成立したことを認めてるだろ。

意味が違う。太田氏が言うのは、突撃場面はもっと長い連続した場面としていったん
成立した、ということだ。
そのように一旦成立した場面を、例えば季長と三井資長の前後を変えたりするために
配列を変えた、と言っているのだ。太田氏の復元案を見れば彼の意見がわかる。
まったく別の場面として成立した絵をつないだと言っているのではない。

>紙が4センチずれているかについても否定していないし

では改めて聞こう。
ずれた紙の上縁はどうなっていると、君は考えるのか?
逃げずに答えろよ。

270:日本@名無史さん
13/04/01 09:40:20.09
>>268
>ずれた紙の上縁はどうなっていると、君は考えるのか?

この質問では答えにくいようなので、3択形式にしてあげよう。
ずれた紙の上縁は:

(1)紙の下縁が4センチ上にずれているのだから、紙の上縁は当然、隣の紙の
上縁より4センチだけ上に突出している。

(2)ずれの結果として突出した紙の上縁は、隣の紙の上縁に合わせて切り取られて
いる。

(3)ずれた紙の上縁は損傷しているので隣の紙の上縁と一線に見える。もともと、
損傷した紙の上縁を隣の紙の上縁に合わせた結果として、下縁が4センチ上にずれた
のである。

さあ、どれだろう。どれかには違いないと思うが?

271:日本@名無史さん
13/04/01 13:01:13.07
>>270
ちょっと今忙しくて延々と議論する気分じゃないから来週ね

272:日本@名無史さん
13/04/10 05:00:24.77
BS歴史館面白かったな
元寇は日本が悪かったのか


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