【敵国】元寇について語るスレ【降伏】at HISTORY
【敵国】元寇について語るスレ【降伏】 - 暇つぶし2ch152:日本@名無史さん
13/02/05 08:14:29.12
>>144
>そのすぐ後に、弘安の役で正軍1万を揃えるため新規動員する兵数を4万7千と書いてるじゃん。

文永の役では5千3百の軍額であったのに、さらに文永の役の軍額より4千7百の軍を追加投入するのは
高麗にとって耐え難いものであると言っているだけだよ。

その証拠に文永の役で高麗が用意したことが確認できる軍勢はいずれも5千数百のみ。

『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「三月、木速塔八・撒本合を遣わし、詔を持ち、高麗に使いし
僉軍五千六百人、助けて日本征せしむ、」

『高麗史』・元宗十五年三月丙戌条には
「元、元遣經略司王總管來りて命じ、軍五千を發し、助けて日本を征す。」
元宗十五年八月己の条
「元、日本征討都元帥忽敦を遣し來り、加えて京軍四百五十八人を發せしむ。」
とあり、高麗軍の総数を5,458人と『元史』の5600人と近い数字が確認できる。

高麗軍が8千だとすると、残りの2千5百の軍勢はどこから現れたのか?

>文永の役の犠牲者1万3千5百余は「軍の還らざる者」だから水夫は含まない。

水夫も元軍に加わっているのだから、「軍の還らざる者」に水夫が含まれていても
全く問題ない。むしろ、蒙漢軍の犠牲者を含めていながら、水夫だけ除外など不自然極まりない。

>あと、弘安の役は江南軍10万が加わるんだから、高麗軍が8千⇒1万でも兵力的には大幅増強だよ

文永の役で高麗軍は8千だったとしよう。その元軍は文永の役においてたった1日で継戦を断念せざるを得なかった。
弘安の役では、高麗軍はさらにたった2千の軍勢を増強しただけにもかかわらず、江南軍の到着を
待たずに東路軍だけで博多湾に途中にしたことになる。
東路軍が江南軍の到着を待たずに、博多湾に突入したのは、1日で「兵が少ない」ことを理由に撤退に
追い込まれた文永の役より自信があったからだと思う。文永の役の5千数百から1万なら、2倍に増強されて
おり、東路軍の行動と辻褄が合う。

153:日本@名無史さん
13/02/06 21:46:34.24
>>151
>耽羅を守備してる高麗軍1千って文永の役の後で欠員が出て忠烈王元年3月の新規募兵を加えた数だし

下記URL:
URLリンク(wenxian.fanren8.com)
で、高麗史の日本関係以外も含めた全文が読める。

元寇は27,28あたりだ。で、忠烈王元年のところを見たがそんな記事はない。
高麗史以外のソースか?

154:日本@名無史さん
13/02/06 23:43:46.22
>>153
便利なサイト教えてくれてありがとう。
>>152にも後でレスするけど、適当なこと書いてると思われるの嫌だから取り敢えず。

ソースは高丽史82卷-志36-兵2-鎭戍-009「忠烈王元年三月以耽罗戍卒缺少募人授职以遣。
七月遣府兵四领戍济州。」
そのサイトだと384ね。

155:日本@名無史さん
13/02/07 10:20:22.22
>>154
ありがとう。簡体字を直してあげよう。
高麗史82巻-志36-兵2-鎮戍-009「忠烈王元年三月耽羅戍卒缺少募人授職以遣」

ところで「軍額」の意味については下記URLを読むとわかる。
URLリンク(repository.kulib.kyoto-u.ac.jp)

高麗軍はもともと38領三万八千の「軍額」があったが、後期には欠員が出てこれを保てなかった
と書いてある。軍額が「定員」の意味であることがわかる。

156:日本@名無史さん
13/02/07 10:24:04.49
>>155
訂正:一字抜けていた。
高麗史82巻-志36-兵2-鎮戍-009「忠烈王元年三月以耽羅戍卒缺少募人授職以遣」

157:日本@名無史さん
13/02/16 22:36:02.60
戦闘国家・戦闘民族と言えば
スレリンク(whis板)l50

158:日本@名無史さん
13/02/20 22:10:40.09
>>152
長いこと放置してゴメン。

文永の役の兵数として高麗の用意が確認できる数字は8000人だけたよ。
元宗十五年三月には確かに元から兵5000人の用意を命じられてるけど、
その軍勢を実際に高麗が動員したことは確認出来ない。
その証拠に同年四月十八日条で高麗が今糧米を負担してると言ってるのは、
造船作業員の3万500人、種田軍・洪総菅軍・済州留守軍だけだし。

高麗は造船作業に3万500人も投入してるから、その上更に5000人も
動員出来ないんだよね。
ただ、逆に造船作業さえ終わってしまえば日本遠征に投入可能な人員が
3万500人確保されてたってことになる。
だから、高麗軍の兵数が8000人でも史料的には何ら問題ないが、5千数百人
という数字には一切史料的裏付けが無い。
だって、実際には元宗十五年三月に兵5000人は用意されてないんだもん。

159:日本@名無史さん
13/02/21 14:15:56.20
>>158
>その証拠に同年四月十八日条で高麗が今糧米を負担してると言ってるのは、
>造船作業員の3万500人、種田軍・洪総菅軍・済州留守軍だけだし

横からだが、その同じ記事で次のように言っている。
「故に往者、耽羅に赴征せる兵卒・蒿師は今又悉く造船の役に赴く。今、東征の兵卒・
梢工亦た当に向の件の役[功/夫]に就きて調出するのみ」

つまり遠征軍の兵にも造船を手伝わせているというのだから、遠征軍の人数は3万500人
に含まれている。だから3万500人の造船要員は遠征軍が5300人か8000人かの決め手には
ならない。

前から言っているが、この問題は5300人を「軍額」と呼んでいる時点で終わり。
軍額とは定員であって生き残りなどたまたま生じた実数ではない。

160:日本@名無史さん
13/02/21 14:57:07.43
>>159
文永の役に投入した高麗軍8000人の中で弘安の役に再投入が必要な枠の
定員が5300人だろ。
全く問題無いじゃん。
「軍額」と呼んでいるというのがこの問題に全く関係ないということは、
文永の役以前に5300という数字が一切出てこない出てこないことで明らかだよ。

161:日本@名無史さん
13/02/21 16:53:09.13
>>160
忠烈王6年11月11日の記事:
「小国一千軍の耽羅を鎮戍する者は在昔東征の時本国五千三百の軍額に係れり」

その少し後に:
「昔東征の時に於いて五千三百軍の齎去せる衣甲弓箭は多く棄失せるあり」
(齎去は「支給されて出て行った」の意味)

まさに文永の役に投入した高麗軍の軍額が5300人なのだ。

ちなみに耽羅鎮戍の一千人の話は、この1000人を弘安の役のための増員4700人の
一部に充当させてくれ、と言う文脈で出てくるから、5300人に含まれない。

162:日本@名無史さん
13/02/21 19:13:36.73
>>161
「昔東征の時に於いて五千三百軍の齎去せる衣甲弓箭は多く棄失せるあり」

まさに文永の役に投入した高麗軍8000人の中で弘安の役に再投入が必要な枠の
定員が5300人だという文章だね。
だって、そのすぐ後に「況んや今、四千六百人を新僉するをや」と弘安の役で正軍一万を
揃えるために新規募集する兵数が4600人だと書いてる。
つまり、5300人は文永の役の兵数ではなく、文永の役の後に残った兵数。
だって、文永の役の兵数が5300人なら、弘安の役では損失分も加えて絶対に4700人よりも
遥かに多い人数を新僉しないと正軍1万にならないからね。
文永の役の高麗軍は8000人で、その中から弘安の役に再投入する定員が5300人で、
新規募集が4600人で、残り100人を耽羅鎮戍の兵から補填する。
その文章が、文永の役で高麗軍が8000人だったことを完璧に裏付けてるじゃん。

163:日本@名無史さん
13/02/21 21:16:31.76
>>162
「昔東征の時に於いて五千三百軍の齎去せる衣甲弓箭は多く棄失せるあり」
文永の役の東征軍5300が装備を支給されて(齎)出発した(去)のだ。
5300が帰って来たとは書いてない。

>正軍一万を揃えるために新規募集する兵数が4600人だと書いてる。

そのすぐ前には「更に征討軍四千七百を添えたれば」と言っているから4700は消えて
いない。4600と4700の関係はわからないが、たいして意味ないだろう。

>文永の役の兵数が5300人なら、弘安の役では損失分も加えて絶対に4700人よりも
>遥かに多い人数を新僉しないと正軍1万にならない

だからこその軍額すなわち定員だ。文永の役で当然5300のなかから損失が出たが、
定員であればこそ言われなくても補充する義務があった。

>新規募集が4600人で、残り100人を耽羅鎮戍の兵から補填する。

100人ではなくて1000人だ。私が「一部」と言ったのは耽羅鎮戍兵一千人の一部を
補充にまわすと言う意味ではなく、1000人全部を新規4700人の「一部」として充当
すると言う意味だ。そうすれば真水の新規募集は3700人で済む。

忠烈王6年8月26日、王はフビライと会って陳情し、7項目の一つとして「我が軍の耽羅
を鎮戍する者を以て東征の師を補わしめよ」と訴えて了承されている。この耽羅鎮戍の
高麗兵一千は耽羅攻略以来、蒙古兵数百と共に耽羅警備にあたっていた。その警備任務
を一時的に解いてくれと言っているわけだ。

なお、この一千人は本来は日本遠征のための兵力だったのではないか? 東征軍五千三百
の軍額に係わる、つまり関係があるというのはそのことを言っているのではないか?
それかあらぬか、元史によれば耽羅攻略に用いられた高麗軍は6000人だ。

164:日本@名無史さん
13/02/22 18:37:56.53
>>163
>4600と4700の関係はわからないが、たいして意味ないだろう。

たいして意味ない訳がないだろ。
「征討軍四千七百」を「一千軍の耽羅を鎮戍する者」で補う許可を求めた上で
「四千六百人を新僉する」としてるんだから、その差百人は耽羅を鎮戍する者で
補われる分ってこと。

>だからこその軍額すなわち定員だ。文永の役で当然5300のなかから損失が出たが、
>定員であればこそ言われなくても補充する義務があった。

5300人の軍勢が文永の役から6年間も実体として存続してたわけないじゃん。
高麗は「地褊く、人稀にして、兵農別なし」なんだから、文永の役の後は、
当然武器を国庫に返納して農民に戻ったんだよ。
補充とか意味ないの。
だから、文永の役の高麗軍8000人の中から生還した5300人を軍額として
再招集する必要があったわけ。

>100人ではなくて1000人だ。私が「一部」と言ったのは耽羅鎮戍兵一千人の一部を
>補充にまわすと言う意味ではなく、1000人全部を新規4700人の「一部」として充当
>すると言う意味だ。そうすれば真水の新規募集は3700人で済む。

>なお、この一千人は本来は日本遠征のための兵力だったのではないか?

高麗が耽羅に兵1000人を駐屯されたのは、第一に三別抄の一部が島の奥地に
逃げ込み、完全に鎮圧されてなかったから。
第二に耽羅は本来独立国で高麗が統治するには軍事力の裏付けが必要だったこと。
第三に耽羅を自国に取り込みたい高麗と直轄統治したい元との利権争いだ。
したがって、耽羅に鎮戍する1000人全部を日本遠征に投入するとかあり得ない。

165:日本@名無史さん
13/02/23 10:30:31.96
>>164
話を絞ろう。この問題は君がスルーしている次の文章:
「昔東征の時に於いて五千三百軍の齎去せる衣甲弓箭は多く棄失せるあり」
に尽きている。

この文章は第二次遠征直前の時点で第一次遠征を振り返って言っているものだ。
「昔東征の時に於いて」すなわち六年前の第一次遠征の時に、
「五千三百軍の」すなわち五千三百人からなる軍隊が、
「齎」すなわち装備を支給されて、
「去」すなわち出て行った、出発した。

五千三百が第一次遠征時の高麗軍の、出発時の兵力であることになんの疑いもない。
君はこの文章をどう解釈するのか?

166:日本@名無史さん
13/02/23 17:38:56.84
>>165
>この文章は第二次遠征直前の時点で第一次遠征を振り返って言っているものだ。

この時点で間違ってる。
この文章は第二次遠征直前の時点で正軍1万を構成する兵の装備状況について
述べたものだよ。
岩波の高麗史日本伝が「齎去」を「もたらし与える」という述語としてるから
それに従うとして・・・

5300軍については、昔の東征の時に与えた装備の多くを棄失し、僅かに
回収した分も支用に堪えない。
4600軍については、装備をもともと一物だに持ってない。
残り100軍については、現役で軍務についてる耽羅鎮戍軍で補うから、
装備は問題無しでスルー。

現時点の、それも装備状況について書いてる訳で、一次遠征時の高麗軍の
兵数とか全く無関係な数字が書いてある訳無いの。

167:日本@名無史さん
13/02/23 21:56:14.89
>>166
>>165に示した文章について、君の言うへりくつも成り立たないことはない。
しかしこの文章はその直前の次の文章と呼応する。

「小国一千軍の耽羅を鎮戍する者は、在昔東征の時、本国五千三百の軍額に係れり」

耽羅鎮戍軍との関係は別として、この文章で五千三百が、「在昔東征時」つまり第一次
遠征時の、本国つまり高麗国が負担した「軍額」であったことがわかるのだ。

「軍額」は本来は常備軍の定員を指すのだろうが、東征に関して用いられるときは
フビライから命じられた責任動員兵数を指すと考えられる。

この文章と、>>165に示した文章とを併せて見るならば、五千三百が第一次遠征時の
高麗軍の初期兵数であることは動かない。

168:日本@名無史さん
13/02/25 00:53:29.96
>>167
言ってることが滅茶苦茶。
軍事遠征を行えば初期兵数は大量に消耗するのが常識。
初期兵数と遠征後の兵数が同じわけないだろ。
第二次遠征直前の時点で在昔東征の時の兵5300を「軍額」つまり定員として
求められてるんだから、第一次遠征時の初期兵数は5300よりも大幅に大きい
数字だったとしか考えられない。

169:日本@名無史さん
13/02/25 00:56:30.49
『元高麗紀事』「耽羅」至元九年(1272年)十一月十五日条
上曰、行之。至如耽羅歸順不用兵。別亦有調用之處。卿等議合用多少兵力。
囘奏、臣等約量本處屯田軍可摘二千。復於漢軍選三二千人。船中載馬費力。蒙古軍可少。
差高麗國合僉五六千。共一萬餘軍可矣」。
上曰、武衞軍差二千。卿等更議餘者。
--
「屯田軍二千」+「漢軍三~二千人」+「高麗軍五~六千」=一萬餘軍

170:169
13/02/25 01:32:15.15
なお、『元高麗紀事』には耽羅平定後に
守備兵1700人を置いたとあるが、
もう寝るわ

171:日本@名無史さん
13/02/25 21:20:41.66
>>168
>第二次遠征直前の時点で在昔東征の時の兵5300を「軍額」つまり定員として求められてる

第二次遠征直前なら軍額は5300じゃなくて一万だ。フビライに7項目の陳情をした記事に
続いて、各地方への割り当ての数字をはさんで「小邦の軍額は~総計一万人」と出ている。

まあ、この一万人という新しい軍額が発令されるまでは5300が軍額だったという意味だと
理解しよう。するとまた分からない。

第一次遠征の時は8000人で出て行ったと言うのだろう? それだって「軍額」に基づいて
出たはずだ。8000人が第一次遠征の軍額だったのだ。君の説によればね。

そこから(君によれば)損害が出て、5300人になって帰って来た。
その人数を、ひょいと新しい軍額にしていいのか? 
2700人もの減額を高麗王の一存で決められるのか?

決められないとすれば大幅減額について、忠烈王とフビライとの間で交渉があったはずだ。
なにしろ(君によれば)たった100人の耽羅鎮戍兵を転用するにも忠烈王がフビライに
陳情しに行ったのだからね。

そして耽羅鎮戍兵転用と同じように、2700人減額のための必死の交渉は高麗史に生々しく
記録されたはずだ。それはどこにあるのかな?

172:日本@名無史さん
13/02/26 01:30:02.07
各地方の割り当てを合算すると9500人。
しかし忠烈王七年壬午条に「東征軍九千九百六十名、梢工水手一万七千二十九名」
とあり、なんとか頑張って集めた模様。

173:日本@名無史さん
13/02/27 03:31:04.40
>>171
>まあ、この一万人という新しい軍額が発令されるまでは5300が軍額だったという意味だと
>理解しよう。

そうじゃない。
東征軍は常設じゃないんだから、第一次遠征後から一万人という新しい軍額が
発令されるまでの軍額なんて存在しない。
第二次遠征直前の時点で総計一万人の軍額を揃えるため、在昔東征の時の兵の
軍額が5300人で、新添の兵の軍額が4700人。
だから5300人も第二次遠征直前の時点での軍額だよ。

そもそも高麗史の記録というのなら5300人の軍額が忠烈王6年11月11日の記事
以前には一切記録されてないじゃん。

174:日本@名無史さん
13/02/28 11:13:31.08
>>173
>在昔東征の時の兵の軍額が5300人で、新添の兵の軍額が4700人。

なるほど、第一次東征時のベテランが、第二次東征直前に5300残っていたと解釈する
わけか。残念ながらそれは無理だ。

小国一千軍鎮戍耽羅者、在昔東征時、係本国五千三百軍額

漢文も中国語も、動詞の前に時の修飾語が来る。「在昔東征時」は動詞「係」を修飾する
時の修飾句だ。だから「係」の目的語の「五千三百軍額」も、なにも断りがなければ、
時の一致で在昔東征時(すなわち第一次東征時)の軍額でなければならない。

>5300人の軍額が忠烈王6年11月11日の記事以前には一切記録されてないじゃん。

一切記録されてないどころか、>>137がすでに完璧に説明しているように、高麗史、元史の
両方に出ている。
5300と端数がつくのは、それが5000+(加発の)京軍を意味するからだ。
京軍とは、以前に紹介した高麗の軍制の文献を参考にすれば、王直属の親衛隊だろう。

175:日本@名無史さん
13/02/28 16:48:56.08
対馬の捕虜は蒙古兵士の
夜の御相手を勉めたのか?

176:日本@名無史さん
13/02/28 18:15:37.60
対馬人のY染色体を調べればいい

177:日本@名無史さん
13/03/03 03:56:57.35
>>175
対馬捕虜で妄想するより、洗衣院の話のほうがエロいよ

178:日本@名無史さん
13/03/04 16:38:02.65
元兵は侍の装備に歯が立たなかったって本当かな?

179:日本@名無史さん
13/03/04 21:25:39.31
定住型重装弓騎兵ってジャンルはやりづらい相手だろうけど
歯が立たないってことは無いだろう

180:日本@名無史さん
13/03/05 10:05:21.85
騎乗の兵の数で言えば明らかに日本軍を上回っていたのに、
文永の役で追いまくられて1日で逃げ出したのを考えたら完敗

181:日本@名無史さん
13/03/05 10:49:54.33
>>180
>騎乗の兵の数で言えば明らかに日本軍を上回っていたのに、

上回ってない。元軍は指揮官クラスだけ馬に乗る歩騎混成。

対する日本軍は基本的に全軍騎兵だ。歩兵は戦闘補助者に過ぎない。
日本軍3000~5000頭、元軍2000~3000頭ぐらいでないか?

182:日本@名無史さん
13/03/05 16:39:56.90
弓の射程距離や鎧や刀の性能差で日本兵の相手にならなかったとか

183:日本@名無史さん
13/03/07 11:37:52.13
日本に来たのは大部分が朝鮮とかで徴兵された連中だろ。
実際にユーラシア征服で大活躍した生粋の猛古兵はほとんどいない。

184:日本@名無史さん
13/03/07 16:38:34.81
>>174
いや、証明されてるのは全く逆のこと。
軍額は定数なんだから端数が一致しないってことは全く無関係な数字ってことだよ。

あと、忠烈王の親衛隊ならクビライから与えられた兵3000人だろ。

185:日本@名無史さん
13/03/07 16:58:28.36
>>183
文永の役で九州に来たのは、実際にユーラシア征服で大活躍した生粋の猛古兵だけだよ。
朝鮮とかで徴兵された連中は壱岐までしか来てない。

186:日本@名無史さん
13/03/07 20:50:32.32
博多人は元寇は観光マイナス負債なので、だれも勉強してません。

187:日本@名無史さん
13/03/07 21:14:48.48
高島市長がカワイイ産業、カワイイ技術、カワイイ街作り、
怖いのはだーめ。
福岡市女は股ユルいから、北九州から朝鮮人オカマケーンもきてるからその手の人は、
福岡人はプライドないから、かおに結核(咳)かけてもニコニコしてる。日本人の恥と他県民(観光関係者以外)はバカにしてるけど。

188:日本@名無史さん
13/03/07 22:22:09.64
義経=ジンギスカンレベルのものなのかもしれないけど
これはなかなか面白かった

URLリンク(m.youtube.com)

189:日本@名無史さん
13/03/07 22:25:23.72
上手く貼れなかった

YouTubeで「歴史ミステリー 元寇はなかった?」を検索すると出てくるはず

190:日本@名無史さん
13/03/07 23:06:52.10
>>188
福岡博多人はこれ見て「カワイイ」「ヤバイ」しか言えない。
博多は「バカ」だと読みます。
バカにして市長に「カワイイ」と声かけするとニコニコします。
福岡バカ市民の選んだよだれ掛け市長の名前は高島市長です。

191:日本@名無史さん
13/03/08 10:20:06.87
>>184
>軍額は定数なんだから端数が一致しないってことは全く無関係な数字ってことだよ。

一つづつ行こう。
第一次東征に出動した8000人から損害が出て5300人になったというのだろう?
その5300人は何時の時点の人数?
第一次東征が終わって帰還した時点?

192:日本@名無史さん
13/03/08 16:06:25.40
>>188
その動画で佐藤鉄太郎が「後世の加筆です」と断定している、弓を射る二人の蒙古兵は、
大倉修二「蒙古襲来絵詞を読む」によれば竹崎季長じしんが加筆させた可能性が高い。

その理由として「海戦の場面の蒙古兵と書き方が同じ」というのも説得力がある。

恐らく季長も、逃げる蒙古兵ばかりではかえって手柄にならないと不満だったのだろう。
「蒙古兵だってそんなへたればかりじゃなかったよ」と。

193:日本@名無史さん
13/03/08 16:22:55.75
>>192
蒙古襲来絵詞はそもそも手柄にするため書かれたものじゃない。

あと、蒙古襲来絵詞って数百年の間に一度バラバラになったものをつなぎ合わせて現在の状態になってるんよ。
で、加筆とされてる弓を射る蒙古兵は、ちょうど接合部に描かれてる。
つまり、後世につなぎ合わせた後で、その上から書き足しってるってこと。

URLリンク(upload.wikimedia.org)

194:日本@名無史さん
13/03/08 16:38:45.06
弘安の役 防衛担当地域
今津…日向国、大隅国
今宿…豊前国
生松原…肥後国
姪浜…肥前国
百道原…?
博多…筑前国、筑後国
箱崎…薩摩国
香椎…豊後国

九州以外は?戦ったのはほとんど九州人だけですか?

195:日本@名無史さん
13/03/08 17:05:55.55
鎌倉:九州は九州人でしっかり守れ!おまえら壊滅して本州に来やがったら戦ってやる
と中国地方あたりにお控えあそばされておったそうな
お公家はんは敵国降伏のおまじない

196:日本@名無史さん
13/03/08 17:22:01.76
>>194
それぞれの国の当時の代表的武家を教えてください

197:日本@名無史さん
13/03/09 00:01:20.89
>>193
>蒙古襲来絵詞はそもそも手柄にするため書かれたものじゃない。

蒙古襲来絵詞はみずからの手柄の記録には違いないではないか。
「なんのために」手柄の記録を残したかについて議論があるだけだ。

>で、加筆とされてる弓を射る蒙古兵は、ちょうど接合部に描かれてる。
>つまり、後世につなぎ合わせた後で、その上から書き足しってるってこと。

それは後世の加筆であれ、完成直後の加筆であれ同じことだ。
紙が手漉きである以上、まったく継ぎ目のない絵巻なんてあり得ないからね。

また、後世の加筆であればわざわざ周りの兵士と異なる描き方をする理由がない。
これは絵巻ぜんたいが二人の絵師によって描かれていると言う大倉の説に
説得力がある。加筆はその二人目の絵師によって行われたのだ。

198:日本@名無史さん
13/03/09 03:35:32.02
>>197
>それは後世の加筆であれ、完成直後の加筆であれ同じことだ。
>紙が手漉きである以上、まったく継ぎ目のない絵巻なんてあり得ないからね。

同じじゃないよ。
その接合部を境に右の紙と左の紙は上下に4センチほどずれてる。
大倉修二「蒙古襲来絵詞を読む」のカラーページで確認してみればいいじゃん。
そんな状態で絵巻完成させるとかありえない。
後世、絵巻が修復された後で描きこまれたってこと。

199:日本@名無史さん
13/03/09 09:12:26.68
>>198
ずれてはいない。
いちばん手前の兵士の足を見ると、沓の先が欠けている。
これは加筆が行われた後に紙の下縁が水か何かでやられて、それを
別の紙で裏打ちしたことを示している。

200:日本@名無史さん
13/03/09 09:35:34.90
>>196
豊前 児玉氏
豊後 大友氏、難波氏、戸次氏、臼杵氏、日田氏、紀井氏
筑前 少弐氏、秋月氏
筑後 光友氏
肥前 高木氏、龍造寺氏、大村氏、松浦党、山代氏、白石氏、石志氏、西郷氏、有馬氏、深堀氏、千葉氏
肥後 菊池氏、竹崎氏、赤星氏、城氏、山鹿氏、葉室氏、詫磨氏
薩摩 島津氏、野田氏、山田氏

201:日本@名無史さん
13/03/09 10:28:19.80
>>200
おおありがとう
光友氏とか初めてみた

202:日本@名無史さん
13/03/09 10:52:05.10
光友は上妻氏の当時の名乗り

203:日本@名無史さん
13/03/09 14:23:44.05
>>199
明らかに、ずれた状態で別の紙で裏打ちしてる。
しかも4センチも。
修復過程でずれが生じて、その上から3人の蒙古兵を描きこんだのは一目瞭然。
つまり、あの3人の蒙古兵が描きこまれたのは近世としか考えられない。

204:日本@名無史さん
13/03/09 15:31:17.67
>>203
修復後に描きこまれた蒙古兵の足先がなんで紙の下縁で欠けるのか?

明らかに順序は:
3人の蒙古兵を描きこむ 
→その後紙の下縁が損傷する
→損傷した紙の下縁を切り取る(このとき手前の兵士の足先が紙といっしょに切り取られて欠ける)
→紙の切り取った部分を別の紙で裏打ちする(欠けた兵士の足先はそのまま)

という順序だ。加筆が先で修復が後。だから修復は加筆が直後か後世かの決め手にはならない。 
そうなると兵士の描き方が生きてくる。

後世の加筆なら改ざん意識があるから、周りの兵士を真似て描いただろう。
直後に加筆した絵師は改良意識はあっても改ざん意識はないから、堂々とじぶんの筆法で
「自分の絵」を描いた。

205:日本@名無史さん
13/03/09 16:19:27.96
>>204
他の場面と比べてごらんよ。
下縁が損傷した状態で裏打ちされてるから。
修復の際に他の紙と縁を揃えるため切断することはあっても、損傷してるからって紙の下縁を
切り取る必要がないの。
しかも、明らかに隣接する紙とずれた切断するはずがない。
つまり、あのずれた下縁が本来の下縁。
あの3人は後世の書き込み以外の可能性は無いよ。

206:日本@名無史さん
13/03/09 20:24:08.96
>>205
あれが本来の下縁だというのならば、手前の兵士の沓の爪先が欠けている理由を説明してくれ。

207:日本@名無史さん
13/03/10 10:05:30.72
>>206
もうひとつ書いて置こう。
継ぎ目の左側の紙の、問題の下縁は一見直線状かつ水平で、本来の下縁に見えるが、よく見ると左にかけて
だらだらと下がっている。

さらに決定的なのは、この下縁の線は継ぎ目の右側の紙に連続しており、その部分では直線ではなく
不定形の雲形である。その雲形は右にかけて下がって、健全な下縁に接続している。
これは左側の紙の問題の下縁が損傷によって生じたものであり、本来の下縁ではないことの、決定的な証拠である。

紙の継ぎ目をはさんで左側の紙と右側の紙が連続した同じ損傷を受け、それを併せて裏打ちしてあるのである。
どこにも「ずれ」は無い。

208:日本@名無史さん
13/03/10 10:07:42.95
現行の元寇の原稿についての言行を減光。

209:日本@名無史さん
13/03/10 10:14:42.76
追加:
「切り取った」については固執しないよ。
切り取ったかどうかは別にして、とにかく紙が損傷を受け、その結果として直線状の欠損部を生じ、
これによって手前の兵士の沓の爪先が切れた。

なぜ直線状になったかは分らないが、損傷による欠損であることは>>207で証明されているから、
損傷の原因は問題ではない。

210:日本@名無史さん
13/03/10 10:41:46.62
>>200
山鹿氏は筑前の豪族で麻生一族の先祖

211:日本@名無史さん
13/03/10 20:08:05.95
香椎のとこに豊後と関東の軍が一緒に居て志賀島方面から侵入してきた敵軍の一部を海の中道で迎撃した

212:日本@名無史さん
13/03/16 08:16:30.90
日本中から兵隊をかき集めると
食料も日本中からかき集める必要がある

213:日本@名無史さん
13/03/16 13:12:44.76
>>207
>さらに決定的なのは、この下縁の線は継ぎ目の右側の紙に連続しており、その部分では直線ではなく
>不定形の雲形である。その雲形は右にかけて下がって、健全な下縁に接続している。
>>206
破損して不定形の雲形になった右側の紙に左側の下縁揃えて接合したため、ずれが生じたってことだろ。
この一点でも、あの3人が後世の書き込みだってことを証明してるじゃん。

>不定形の雲形である。その雲形は右にかけて下がって、健全な下縁に接続している。
>これは左側の紙の問題の下縁が損傷によって生じたものであり、本来の下縁ではないことの、決定的な証拠である。

つまり、修復の際に斜めに接合しちまったってことね。

214:日本@名無史さん
13/03/16 14:13:18.63
>>213の「>>206」は単なるミスだから無視してね。
後世にあの3人が書き込まれてからだって既に数百年たってるわけで損傷だってするだろ。

215:日本@名無史さん
13/03/16 21:57:48.35
>>214
>後世にあの3人が書き込まれてからだって既に数百年たってるわけで損傷だってするだろ。

つまり加筆が先で、損傷・修復が後ってことだな?
私の意見に賛成してくれて有り難う。>>204参照

216:日本@名無史さん
13/03/17 08:20:14.69
>>215
明らかに接合した上から加筆してるのに、損傷・修復の後なわけないじゃん。

217:日本@名無史さん
13/03/17 09:48:14.25
>>215
>後世にあの3人が書き込まれてからだって既に数百年たってるわけで損傷だってするだろ。

この文章は3人が描かれた後の数百年の間に損傷の可能性があるという意味だ。
この文章は訂正するのか?

218:日本@名無史さん
13/03/17 10:08:09.61
>>217
何でさ?
絵巻が損傷・修復されその後から3人が加筆されたのは江戸時代なんだから
今から数百年前じゃん。

219:日本@名無史さん
13/03/17 10:12:15.59
>1をアドリブで解読してみた


『モンゴルの国書』

天地神明に誓って
大モンゴル国の皇帝が封書を送ります


日本国の王様へ


朕は自然に
随分昔から小国の古王様と領土国境を互いに接して
真面目に信義を呼び掛けて友好的な関係を当たり前にする様に務めて居ます

朕の祖先は天の明かりとなるようにとの命を天から受けて居ます

夏地域の西方には諸汗国が有りそれらも朕が編んでいます

朕の支配地域外の暴力を怖がって朕の国に入りたがる者も全員を数えきれない程です


ツヅク

220:日本@名無史さん
13/03/17 10:14:50.24
朕は皇帝になった最初の頃より
久しく高麗の病的なまでに過酷に徴兵されていた罪の無い民をして
直ぐに兵役を免じて彼等が力を発揮できる郷里へ返しました

その行き届いた目配りに返って高麗の王様も臣下も恐縮して参勤しなければと強く思っています

父子の関係ができれば君臣とも喜ぶものです

朕の他の家来の諸侯も今や高麗が朕の東の藩塀であるとちゃんと認識しています


ツヅク

221:日本@名無史さん
13/03/17 10:20:11.16
日本は高麗と建国以来互いに密接にお付き合いしまたその期間を通じて中国とも通商が有りましたね

別に結局は朕の方では高麗日本の合同使節をもって通商和親を結んでも一向に構わないのですが
真面目に王国(日本)が朕が日本をどう扱うか未審であると思ってビビっているといけないなと心配しています

そこで特別に使節を派遣し書をもたせて朕の意で覆うべく布告します

(朕)自ら今より往来を合意締結する様望みますので互いに親しみ睦みましょう

聖人は自らの周囲に堀を回して家々がゴチャゴチャ付き合わないのを好むとは言われていますが
それは果たして一家の道理であるのでしょうか?

最終的には用兵策を執行します
王が無回答を意図するのがその好む所である場合には


>元ってサイコー三年八月某日


オワリ

222:日本@名無史さん
13/03/17 11:49:09.25
>>218
結局、
「後世にあの3人が書き込まれてからだって既に数百年たってるわけで損傷だってするだろ。」
は前後関係については意味の無い文章だということがわかった。

さて、それでは聞くが、君によれば損傷・修復の後で描き込まれた手前の蒙古兵の沓の爪先が、
君の言う「本来の紙の下縁」で切れているのはなぜか?

223:日本@名無史さん
13/03/17 13:53:48.71
>>222
沓の爪先は紙の下縁では切れてないだろ。
ちゃんと下縁に収まるように書いたけど、爪先部分が色落ちしただけ。
その証拠に左側の紙の下縁は全体的に白く色落ちしてるよ。

224:日本@名無史さん
13/03/18 09:46:42.13
>>223
>ちゃんと下縁に収まるように書いたけど、爪先部分が色落ちしただけ。
>その証拠に左側の紙の下縁は全体的に白く色落ちしてるよ。

それこそが描かれた後の損傷である証拠だ。
なぜならその白化(色落ち)は右側の紙の損傷部(雲形欠損部)にも、全く同様に
起こっているからだ。

つまり左側の紙も右側の紙も、欠損と縁の白化とを生じるような、同一かつ共通の、
連続した損傷を受けたのである。

4センチ君が言うように、兵士像の加筆が行われた後に欠損は起こらず白化のみが
起こったのであれば、そのような白化が絵巻の他の部分にも見られなければならないが、
絵巻ぜんぶを見てもこのような白化は見られない。

結局、右側の紙にも左側の紙にも共通して白化があるということは、かえって「ずれ」が
ないことの証拠になっているである。

225:日本@名無史さん
13/03/18 11:01:27.13
>>224
いや、ずれてるから。
左側の紙の下縁に定規当てて、その直線を延長すればどれだけ右側の紙と
ずれてるか一目瞭然じゃん。
左右の紙がずれて接合されてるのは事実なんだから、そこは認めないと。

226:日本@名無史さん
13/03/18 13:16:36.26
>>225
あれは「ずれ」ではなくて「欠損」なのだ。
左側の紙の損傷と右側の紙の損傷が連続している、あの場面の写真とか実物を見て、
あれが「ずれ」だと思う人はまずいないだろう。

それでも「ずれ」説がまかり通るのは特定の学者がそう言っているからに過ぎない。
だれでも学者には弱いのだ。4センチ君を含めてね。

あれを「ずれ」だと言うためには、4センチ君がそう言っているように、
右側の紙の欠損部の上端に左側の紙の健全な下縁を合わせて、しかも斜めにつなぐ
と言う、前代未聞の修復方法を取ったと、強弁しなくてはならない。

私は「絵詞の研究}を読んでいないが、特定の学者はそんなことを言っているのか?

227:日本@名無史さん
13/03/18 18:27:01.07
>>226
左側の紙みたいに直線的に損傷するわけないし。
左側の紙に描かれた本来の蒙古兵は、ちゃんと下縁に沿って描かれてる。
それに対して接合部に後世加筆された蒙古兵は、ずれた分だけ下に描かれてるんだよね。

現実に、右側の紙の欠損部の上端に左側の紙の健全な下縁を合わせて、しかも斜めにつなぐという
修復方法が取られてるんだから仕方ないでしょ。

228:日本@名無史さん
13/03/18 21:16:11.44
>>227
>現実に、右側の紙の欠損部の上端に左側の紙の健全な下縁を合わせて

「・・絵詞の研究」の著者である特定の学者も、そのように言っているのか?
単に右側の紙の欠損部を無視しているだけじゃないのか?

229:日本@名無史さん
13/03/18 21:51:08.68
>>227
もうひとつ。
>それに対して接合部に後世加筆された蒙古兵は、ずれた分だけ下に描かれてるんだよね。

絵1を見よ。
下縁が左の紙に対して「4センチほどずれて」接いである(ように見える)。
しかし欄干の高さは左の紙の絵と合っている。

ずれて接いであるからって、必ず絵の高さもずれるとは限らないことがわかるな。
実はこの絵1だって、何らかの理由で下縁が切れたんだろう。

230:日本@名無史さん
13/03/19 02:13:59.17
>>229
絵1はずれてるように見えないよ。
だから、ずれてる絵7と違うのは当然。
絵1は紙がずれて接合されてないからそこに描かれてる欄干の高さが合っているんだし、
絵7は紙がずれて接合されてるからそこに描かれている蒙古兵の立ち位置もずれてる。

231:日本@名無史さん
13/03/19 09:18:36.94
>>230
>絵1はずれてるように見えないよ。
>絵1は紙がずれて接合されてないからそこに描かれてる欄干の高さが合っているんだし、

その通り。絵1のある第3紙は「ずれている」のではなくて「欠けている」のだ。
説明しよう。

絵1がある第3紙の下縁の右端は、その前の健全な第2紙(詞書き)から段差をなして上がっている。
上がった下縁は左上がりに僅かに傾斜しつつ直線状に伸びて、次の第4紙との接続部に至っているが、
第4紙の下縁の損傷部との間がまた段差をなしている。第3紙と第4紙との間は、武士の絵から見て
切り詰めがあるから、この段差は元は連続していた可能性がある。

第4紙下縁の損傷部は雲形をなして伸びて、次の第5紙に至ってはじめて健全な下縁に接続している。
ここに健全な下縁があり、しかも君も言うように絵のほうには全体として上下のずれが無いという事は、


上にずれて見える第3紙の直線状の下縁が、「本来の下縁」ではなく「直線状の欠損部」であることの
具体的な証拠である。

三蒙古兵像の左側、第24紙の下縁が「直線状だから本来の下縁である」という、ずれ説の最大の根拠
は、第3~第5図の観察によって崩れ去るのである。

232:日本@名無史さん
13/03/19 09:32:17.66
追加。
>左側の紙みたいに直線的に損傷するわけないし。>>227

「直線状の欠損部」が存在する証拠は他にもある。それは詞書きだ。
元軍本陣図のある第27紙の次の第28紙の詞書きを見よう。
下端の字が、紙の下縁にぴったりついている。なかには下が欠けて見える字もある。

絵は下縁にぴったりつけて描くこともあるが、文字はあり得ない。それは美しい字で
書かれた詞書きの美意識に反する。実際、他の紙の詞書きを見れば美しく下の余白を
つけて書かれている。

第28紙の下縁は直線状で、一見「本来の下縁」に見えるが、上記から明らかなように
「直線状の欠損部」なのである。

233:日本@名無史さん
13/03/19 14:01:02.05
>>231
訂正:
第3~第5図 → 第3~第5紙

234:日本@名無史さん
13/03/20 12:50:20.43
>>231
第3紙と第5紙の欄干の高さ比べれば分かるけど、第3紙の下縁は本来の下縁だよ。
長々書いてもらって申し訳ないけど、したがって>>231は何も証明していない。

調べてて分かったんだけど、第23紙には礬水が施されてないのに第24紙には礬水が施されてるんだって。
完全に別の場面として成立してた紙をずれた状態で接合して、後から3人の蒙古兵を加筆してる。
結論でちゃったね。

235:日本@名無史さん
13/03/20 15:28:31.02
>>234
>第3紙の下縁は本来の下縁だよ。

質問形式で行こう。

<質問1>
第3紙と第2紙の接続部において両紙の下縁の間に段差があり、第3紙のほうが約2センチ高い。
君はこの段差をどう説明するのか?

<質問2>
第28紙の下縁は本来の下縁か?

236:日本@名無史さん
13/03/21 09:14:22.22
今の教科書では元寇って書かないんだって

237:日本@名無史さん
13/03/21 18:34:07.85
>>235
<質問1>の答え
単純に第2紙と第3紙がずれて接合されてるだけ。
だって、上縁にもきっちり同じだけ段差があるじゃん。
<質問2>の答え
本来の下縁だよ。

238:日本@名無史さん
13/03/22 10:18:24.76
>>237
>単純に第2紙と第3紙がずれて接合されてるだけ。

服部英雄氏のブログは参考になる。URLリンク(www.scs.kyushu-u.ac.jp)
第3紙について:
「本文絵(の高さ)は前巻では39センチプラス8ミリ、マイナス4ミリである。冒頭の第
3紙は38,0センチで短いが、冒頭だから破損を受けやすかったかもしれない。」

第3紙の高さは平均40.2センチより2センチ強短い。服部氏はこれを「破損」と見ている。
学者の眼から見ても「直線状の欠損部」は存在するのだ。

>(第28紙の下縁は)本来の下縁だよ。

下の余白が無いのが本来の下縁の姿なのか?
簡単にするために第28紙のみについて言ったが、ページをめくれば第30~34紙において
詞書きの余白が様々な程度に直線状に欠損している。君はこれを全て本来の下縁だと言うのか?

239:日本@名無史さん
13/03/22 10:38:17.08
>>234
>調べてて分かったんだけど、第23紙には礬水が施されてないのに第24紙には礬水が施されてるんだって。
>完全に別の場面として成立してた紙をずれた状態で接合して、後から3人の蒙古兵を加筆してる。
>結論でちゃったね。

上記服部氏のブログを見ると、礬水処理については諸説がある。
第23紙と第24紙の片方のみ礬水処理されたというのは太田彩という人の説だが、これに対して
宮次男という人は両紙とも礬水処理がないと言っている。

また、これらの説はどうも絵を見ての所見であって化学分析ではないらしい。
もっとも、国宝級の原本を化学分析も難しいだろうけどね。

また服部氏は三蒙古兵像について後世改ざん説ではなく当時手直し説であるらしい。引用しよう。

「(第23紙と第24紙の)いずれかが時期を隔てた後世に画かれたとみることは、まったく
あり得ないと思う。」

「蒙古兵3人は制作過程の中で描かれたとする私見は成立する。」

マスコミは後世改ざん説を現在の定説のように言うが、どうも特定の学者とその信奉者だけのようだ。
すくなくとも「結論でちゃっ」てはいないね。

240:日本@名無史さん
13/03/22 11:58:47.69
>>238
そのブログでは詞1と絵1は2ミリしか大きさに差がないじゃん。

>>239
>「(第23紙と第24紙の)いずれかが時期を隔てた後世に画かれたとみることは、まったく
あり得ないと思う。」

そいつ問題を根本的に理解してないんじゃね?
誰も第23紙と第24紙が後世に描かれたなんて言ってない。
その接合部に描かれた3人が後世に描かれたって言われてるのに・・・

241:日本@名無史さん
13/03/22 21:25:19.46
>>240
>そのブログでは詞1と絵1は2ミリしか大きさに差がないじゃん。

宮次男氏のデータは最短値なのか平均なのかわからないが、いずれにしても詞1のある
第2紙は大部分において上部が大きく欠損しているから、第3紙と同じぐらいの高さしか
ないだろう。

ただし第3紙が破損によって38.0cmしかないと服部氏が言っているのは、第2紙とは
独立した話だ。第3紙は上部は残っているから破損というのは下縁のことしかあり得ない。
これを「破損」と見たことが重要なのだ。

>誰も第23紙と第24紙が後世に描かれたなんて言ってない。

「いずれかが」を見落としてないか?
礬水処理の話が「第24紙は礬水処理があるから後世の紙であり、したがってその上に
描かれた絵も後世の成立である」と言うのであれば、礬水処理が無いという第23紙が
制作時の紙であっても、上記第24紙にまたがって描かれた三蒙古兵像は後世の加筆だと
言うことになる。
服部氏は後世改ざん説の根拠となり得る上記の事情を否定しているわけだ。

いっぽう、「蒙古兵3人は制作過程の中で描かれたとする私見は成立する。」というのは、
画法の観点から、三蒙古兵像の画法が、これを制作過程での手直しと見る服部氏の見方と
矛盾しない、と言っているわけだ。引用しないが、その前の文章も読んでね。

ところで「・・を読む」の大倉隆二氏にしても、服部氏のブログの質疑応答にしても、
4センチずれ説に全く言及してないのは注目される。まともな学者たちからは無視され
てるんじゃないか?

242:日本@名無史さん
13/03/22 21:35:24.62
>>241
追加:
礬水処理の話は、私も服部氏ブログでしか読んでないので、礬水処理の有無と時期の関係は、
第23紙、第24紙について上記と逆なのかもしれない。
そうであったとしても話は変わらない。念のため。

243:日本@名無史さん
13/03/23 03:59:44.03
>>241
佐藤鉄太郎氏の論文に言及しながら4センチずれてることに異論を唱えてないのは、ずれてることを
認めてるってことじゃん。

244:日本@名無史さん
13/03/23 08:38:06.74
>>243
4センチずれを認めるということは、後世改ざん説を認めることに他ならない。

制作時手直し説に立つ大倉隆二氏、服部英雄氏がそれを認めるはずがないではないか。
単に無視しているだけだよ。

245:日本@名無史さん
13/03/23 13:12:55.70
>>244
もう改竄があったこと自体は定説だろ。
認めてないのなんて大倉隆二氏、服部英雄氏みたいなごく一部だけ。

246:日本@名無史さん
13/03/23 20:01:13.25
>>245
>もう改竄があったこと自体は定説だろ。

そう、大倉隆二氏も「・・を読む」のなかで多くの改ざんを提示している。
三蒙古兵については改ざんを認めていないだけ。

247:日本@名無史さん
13/03/23 20:15:32.63
>>246
訂正:
三蒙古兵については改ざんを認めていないだけ。
      ↓
三蒙古兵については改ざんと認めていないだけ。

248:日本@名無史さん
13/03/24 02:14:52.34
対馬を助けて‼

日本人の方、観光に来てください!
国は支援してくれません。

 韓国が不法占拠している竹島(島根県)に続き、対馬(長崎県)の領有権まで主張し始めた。


◆対馬を守るために立ち上がるオフ会◆

スレリンク(offmatrix板)

249:日本@名無史さん
13/03/24 02:52:26.55
対馬とか昆虫採集ぐらいしかやることないイメージ

250:日本@名無史さん
13/03/24 08:55:22.89
なるほど。対馬は災難だな。

神社巡りは壱岐とセットで行ってみたい。

251:日本@名無史さん
13/03/24 10:04:51.14
三蒙古兵像について後世改ざん説が世に受け入れられるのは、多分に印象操作の問題だ。
この場面だけを切り出して、「蒙古兵の描き方が全く異なる」「紙が4センチずれている」と
言われれば、だれしも「うわーほんとだ」となる。実は私もそうだった。

しかし追加の情報として、三蒙古兵と同じような画法で蒙古兵が描かれている他の場面が
あること、紙の下縁の直線状の欠損は多くの例があること、を与えられれば受け手の印象は
全く違ってくるだろう。

このような追加の情報を与えないところが意識的または無意識的の印象操作なのである。

252:日本@名無史さん
13/03/24 10:36:08.27
それでは、この場面の一般の蒙古兵と、加筆と見られる三蒙古兵の描き方はどのように
異なるだろうか。比較して見よう。一般の蒙古兵が矢印の左、三蒙古兵が同じく右である。

兜の垂れ:肩とあごを覆うフード←→フードが無く「吹き返し」飾りがある

顔の描き方:絵画的、優美←→漫画的、こっけい

輪郭の描線:全般に細い←→一部で太い

弓:細くて短い←→太くて長い

ズボンの描き方:簡略←→膝前面に折り目のようなものを描線で描く

すねの武装:白いすね当て←→黒い色のブーツ

三蒙古兵の描き方のこのような特徴は、他の場面の蒙古兵にも見られる。
例えば絵19(後巻第33紙)で、上の船の中央に仁王立ちする兵士を見よう。
上の対照表で矢印の右に示した特徴が全て表れている。

このような例を見れば、三蒙古兵の場面における兵士の描き方の差は、描かれた時代
の差ではなく、画工による画法の差であることが、文句なく納得できるのである。

253:日本@名無史さん
13/03/24 13:14:17.81
>>251
正確な情報を知れば知るほど後世の加筆という結論しか出ないじゃん。
あんな直線状に破損するわけないし、現実に他の紙でも直線状の欠損の箇所は全く無い。
第23紙には礬水が施されてないのに第24紙には礬水が施されてるんだから、この2紙が本来は別々の
場面だったことも明白。
赤外線調査で真ん中の槍を持つ蒙古兵は逃亡する蒙古兵の衣装の上に加筆したものであることが
判明してる。

>>252
で、加筆された蒙古兵と似てるとされる蒙古兵が描かれてるのは全部弘安の役の場面だろ。
竹崎季長が文永の役で戦った元軍と、弘安の役で戦った元軍は装備編成が完全に異なる。
つまり、後世の加筆じゃない限り特徴が一致するわけないの。
あの3人の蒙古兵が、絵19(後巻第33紙)で上の船の中央に仁王立ちする兵士と同じ特徴であること自体、
後世の加筆だってことの動かぬ証拠。

254:日本@名無史さん
13/03/24 13:34:41.78
追記

ちなみに絵19(後巻第33紙)で、上の船の中央に仁王立ちする兵士も、赤外線調査で加筆されたもの
であることが判明してるから。

255:日本@名無史さん
13/03/24 15:44:57.18
>>253
>竹崎季長が文永の役で戦った元軍と、弘安の役で戦った元軍は装備編成が完全に異なる。
>つまり、後世の加筆じゃない限り特徴が一致するわけないの。

え? 蒙古襲来絵詞は弘安の役が終わった後で作られたんじゃないのか?
主に弘安の役の場面を担当した第二の画工が、文永の役の場面の加筆も行ったと考えれば、特徴が一致して
当然ではないか。

それに、竹崎先駆けの場面の逃げる蒙古兵や本陣の蒙古兵と同じフード付きの兜をかぶった蒙古兵は
弘安の役でも描かれている。よく探してごらん。

全般に君の言っていることは単なる「加筆の証拠」を「後世の加筆の証拠」に拡大している。
制作過程の加筆であることは始めから言っているのだ。
後世の加筆だと言うなら、「制作過程での加筆ではない」あるいは例えば「江戸時代の加筆だ」という証拠を
示さなければならない。

256:日本@名無史さん
13/03/24 17:44:18.88
>>255
弘安の役に描かれてる蒙古兵と似た蒙古兵が文永の役の場面で描かれてることが、制作過程の加筆
じゃない証拠だよ。
蒙古兵の装備は、竹崎季長が実際に戦った蒙古兵の装備を再現したものであって、画工の特徴の
問題じゃない。
それに、制作過程で意図的に紙をずらして接合するわけもないしね。

257:日本@名無史さん
13/03/24 21:15:21.54
この感じはもしかしてまたパフォ様が降臨してる?

258:日本@名無史さん
13/03/24 21:24:52.75
>>256
>弘安の役に描かれてる蒙古兵と似た蒙古兵が文永の役の場面で描かれてることが、制作過程の加筆
>じゃない証拠だよ。

ではなぜ、文永の役に描かれている(加筆以外)蒙古兵と同じ装備をつけた蒙古兵が、弘安の役の
場面にも描かれているのか?

それと言うのは絵17だ。ここに描かれた十数人からなる一隊の兵士は全て文永の役に描かれている
蒙古兵と同じ装備をしている。絵の中では異なる装備の兵は混在しない。

これは所属の軍が違うのかと思えば、掲げている旗印はその前の絵16と同じ、赤地に金丸じるしだ。
絵16のほうの兵士は君の言う「弘安の役に描かれてる蒙古兵」の装備だ。

上記のことは文永の役と弘安の役を装備で描き分けてはいないという証拠ではないか?

259:日本@名無史さん
13/03/26 14:01:14.83
>>258
いや、文永の役と弘安の役は明確に描き分けてるよ。
弘安の役の元軍が多種多様な民族装備なのに対し、文永の役の元軍は編成に統一感がある。
これは、実際の文献史料に記された元軍の部隊編成にも一致する。
文永の役の場面であの3人だけが異質であり、後世の加筆なのは明らか。

260:日本@名無史さん
13/03/27 09:48:42.65
装備と描き手のことは暫く置いて、後世改ざん説最大の根拠である「4センチずれ」に戻ろう。

一般に「ずれる」ということは、下縁が上がればそのぶんだけ上縁が突出することを意味する。
しかし上縁がどうなっているかは、写真では確認できない。

君の考えでは「4センチずれ」の上縁はどうなっているのか?

261:日本@名無史さん
13/03/27 10:03:01.89
その後「・・を読む」を読み直したところ、三蒙古兵について太田彩氏も手直し説である
ことがわかった。これで手直し説の学者は三人になった。
手直し説と後世改ざん説の学者数は、今のところ3対1。
しかも太田彩氏は実物を見ている。

262:日本@名無史さん
13/03/27 14:10:39.20
多数決w

263:日本@名無史さん
13/03/27 19:03:18.25
パフォ爺かw

264:日本@名無史さん
13/03/28 17:26:25.06
民主主義は絶対

265:日本@名無史さん
13/03/30 11:11:07.57
太田彩氏の「絵巻蒙古襲来絵詞」(至文堂2000年)を入手した。
三蒙古兵に関するさわりを引用しよう。

「季長に射かける三名の蒙古兵の描写は一見粗く見えるが、力強い描線で実に動的に表現し、
描きなれた絵師によると考えられる。<中略>衣の描写は彩色の上から描線を描く点などを
考え合わせれば、前巻後半の絵九(秋田城介泰盛の館)場面の描写との類似も指摘できる。」

「詞の内容以上に、この場面の描写内容は、季長の功績を讃える描写が強調されすぎている
感が窺えるのである。従ってこの場面の改ざんは、最初の画面が制作されて後、間もなくに、
さらにいうなら季長の存命中、あるいは季長の気配が残る間に季長のために行われたものと
考えるべきであろう。」

要するに絵巻の一次的完成からあまり隔たらない時期に、季長の影響の下に「改ざん」が
行われたと言うのである。
古美術の専門家の太田氏の眼から見れば、「4センチずれ」とか「江戸時代の改ざん」とかは
論評にも値しないトンデモ説なのであろう。

266:日本@名無史さん
13/03/30 12:32:21.06
>>265
>詞の内容以上に、この場面の描写内容は、季長の功績を讃える描写が強調されすぎている
感が窺えるのである。

季長の書いた詞の内容以上に季長の功績を讃える描写が強調されてるのは、加筆が季長の死後
行われた証拠じゃん。
季長の存命中なら、詞と絵の印象が異なるわけないし。
そもそも、蒙古襲来絵詞の美術的価値と歴史史料としての価値が異なるということを理解してない点で
論評にも値しないトンデモ説。

267:日本@名無史さん
13/03/30 13:19:29.52
>>266
>季長の書いた詞の内容以上に季長の功績を讃える描写が強調されてるのは、加筆が季長の死後
行われた証拠じゃん。

証拠ではない。太田氏も「気配が残る期間」と言っているように、死後も含めて述べている。
季長の死後に行われたとすれば季長の取り巻きがやったのだ。
もっとも、私は存命中だと思うけどね。

>季長の存命中なら、詞と絵の印象が異なるわけないし。

異なっていいのだ。例えば太田氏の復元によれば元々は三井資長が突撃の先頭に描かれて
いた。それが事実であっても絵としては季長の気にくわなかったということも考えられる。

>蒙古襲来絵詞の美術的価値と歴史史料としての価値が異なるということを理解してない

「紙が4センチずれているか」「画風が鎌倉時代か、江戸時代か」は古美術の専門家の
範疇だ。

268:日本@名無史さん
13/03/30 13:44:33.94
>>267
いや、異なっちゃダメだろ。
詞の内容が気に食わなければ、当然詞の方を書き直す。
詞は季長自身の筆跡と一致してるんだから、詞の印象と異なるってことは加筆されたのが
季長の死後だったって完全に立証している。

それから、古美術の専門家の範疇のことについてなら、太田氏だって23紙と24紙が別々の場面として
成立したことを認めてるだろ。
紙が4センチずれているかについても否定していないし。

269:日本@名無史さん
13/03/30 15:57:35.18
>>268
>詞は季長自身の筆跡と一致してるんだから、詞の印象と異なるってことは加筆されたのが
>季長の死後だったって完全に立証している。

だから季長死後を含めると言ってるじゃないか。
しかし加筆は鎌倉時代末期であって江戸時代ではない。

>太田氏だって23紙と24紙が別々の場面として成立したことを認めてるだろ。

意味が違う。太田氏が言うのは、突撃場面はもっと長い連続した場面としていったん
成立した、ということだ。
そのように一旦成立した場面を、例えば季長と三井資長の前後を変えたりするために
配列を変えた、と言っているのだ。太田氏の復元案を見れば彼の意見がわかる。
まったく別の場面として成立した絵をつないだと言っているのではない。

>紙が4センチずれているかについても否定していないし

では改めて聞こう。
ずれた紙の上縁はどうなっていると、君は考えるのか?
逃げずに答えろよ。

270:日本@名無史さん
13/04/01 09:40:20.09
>>268
>ずれた紙の上縁はどうなっていると、君は考えるのか?

この質問では答えにくいようなので、3択形式にしてあげよう。
ずれた紙の上縁は:

(1)紙の下縁が4センチ上にずれているのだから、紙の上縁は当然、隣の紙の
上縁より4センチだけ上に突出している。

(2)ずれの結果として突出した紙の上縁は、隣の紙の上縁に合わせて切り取られて
いる。

(3)ずれた紙の上縁は損傷しているので隣の紙の上縁と一線に見える。もともと、
損傷した紙の上縁を隣の紙の上縁に合わせた結果として、下縁が4センチ上にずれた
のである。

さあ、どれだろう。どれかには違いないと思うが?

271:日本@名無史さん
13/04/01 13:01:13.07
>>270
ちょっと今忙しくて延々と議論する気分じゃないから来週ね

272:日本@名無史さん
13/04/10 05:00:24.77
BS歴史館面白かったな
元寇は日本が悪かったのか

273:日本@名無史さん
13/04/12 09:51:25.61
日本はさっさと宋に見切り付けてモンゴルにつくべき

274:日本@名無史さん
13/04/12 10:48:12.42
>>271
4センチ君は来週と言ったっきり出て来ないな。
「紙の上縁はどうなっているのか?」と聞かれただけで答えられずに逃亡する
というのは、某学者が唱える「4センチずれ説」がそれだけあやふやな説だと
言うことだ。

結局、あの場面は絵巻の完成からあまり隔たらない時期に加筆された後、後世において
紙の下縁が損傷・欠損して一見ずれたようになったものだ。

その他の部分も含めて、損傷の主な原因は江戸時代の持ち主が絵巻を移送中に川に
落としたということが記録されている。

275:日本@名無史さん
13/04/13 17:15:07.27
>>269
歴史史料として意味があるのは加筆が竹崎季長の生前か死後かって点であって、
死後の加筆ならぶっちゃけ鎌倉時代末期でも江戸時代でも一緒じゃん。

>>270
(2)だろ

276:日本@名無史さん
13/04/14 11:23:05.23
>>275
>死後の加筆ならぶっちゃけ鎌倉時代末期でも江戸時代でも一緒じゃん。

「鎌倉時代末期でもいいよ」まで後退したか。
しかし鎌倉時代末期なら江戸時代とは意味が違う。たとえ季長の死後だとしても
季長の親族縁者が季長のためにやった可能性が出てくるからだ。

その場合、親族縁者は季長の生前にじゅうぶん季長と接触して戦いの話を聞いて
いたであろうし、加筆した絵師もまた、絵16との類似が指摘されるように絵巻の
絵師と同じ人であった可能性がある。
つまりその場合は一種の同時代資料なのだ。
もちろん、生前だった可能性もじゅうぶんにあるしね。

>(2)だろ

なるほど、上縁は出っ張っていないことを認めるのだな。
つまり、一目瞭然な積極的な「ずれ」の証拠はない。したがって「ずれ」の証拠
として残るのは下縁の「直線状」だけだ。

しかし直線状の欠損は「あり得ない」のではなく、「いくらでもある」
たとえば「詞5~詞7」がある第28~35紙の下縁が様々な程度に直線状に欠損し、
なかには文字が切れているところもあるが、「これが全て本来の下縁か?」という
私の質問に君は答えていない。

277:日本@名無史さん
13/04/14 11:42:27.95
>>276
>その場合、親族縁者は季長の生前にじゅうぶん季長と接触して戦いの話を聞いて
>いたであろうし、加筆した絵師もまた、絵16との類似が指摘されるように絵巻の
>絵師と同じ人であった可能性がある。

詞の内容と絵が異なる以上、それはないよ。
加筆された3人には季長の監修が反映されてない以上、史料価値はない。
当然、蒙古襲来絵詞を語る際には存在しないものとして考えるべき。

あと、直線状に欠損した部分は存在しない。
第28~35紙も本来の下縁だし。

278:日本@名無史さん
13/04/14 13:02:25.62
>>277
>詞の内容と絵が異なる以上、それはないよ。

詞の内容と絵が異なっている点を指摘してくれ。

>第28~35紙も本来の下縁だし。

例えば第31紙の最後の2行は文字が完全に下縁に接しているか、一部切れている。
本来の下縁ならなぜこんなことが起こるのか?

279:日本@名無史さん
13/04/16 08:41:05.31
>>278
>詞の内容と絵が異なっている点を指摘してくれ。

一番わかり易いのは詞で一切記述のない「てつはう」だろうな。
加筆された3人の蒙古兵の靴や鞘と同じ黒で描かれてる。


>例えば第31紙の最後の2行は文字が完全に下縁に接しているか、一部切れている。
>本来の下縁ならなぜこんなことが起こるのか?

手書きだからだろ。
ワード使って書けばきちんと枠内に収まるけど、鎌倉時代じゃそういうわけにいかないし。

280:日本@名無史さん
13/04/16 11:02:45.85
>>279
>一番わかり易いのは詞で一切記述のない「てつはう」だろうな。

鉄炮の絵が加筆であるの絵が加筆であるかどうかは別にして、君が言わんとするところは
「鉄炮の絵が加筆である」ことの証明であって、
「鉄炮の絵が季長の意に反する加筆である」ことの証明ではない。

完成した絵詞を見た季長が、「これでは物足りない。鉄炮だって飛んでいたぞ」
と言って加筆させた可能性もあるではないか。

>手書きだからだろ。ワード使って書けばきちんと枠内に収まるけど

手書きであればこそ適当に改行すればよい。現に物語の第一行は:
「おきのはまにくんひやうそのかすをしらすう
ちたつ・・・」
と、言葉の句切りに関係なく改行している。
読みやすさより芸術作品としての美観を重んじたのだ。

281:日本@名無史さん
13/04/16 11:10:49.97
>>280
>完成した絵詞を見た季長が、「これでは物足りない。鉄炮だって飛んでいたぞ」
>と言って加筆させた可能性もあるではないか。

だったら詞だって書き直すだろ。
季長が加筆させた可能性は無いよ。

282:日本@名無史さん
13/04/16 15:57:42.38
>>281
>一番わかり易いのは詞で一切記述のない「てつはう」だろうな。<279

詞書きが語らないのは鉄炮ばかりではない。
季長の鎧の色、馬の色も、元軍の兵士のいでたちも、元軍が歩兵主体で騎兵を混じえた
ことも、詞書きはいっさい語らない。
また、竹崎勢の旗持ちが馬を射られてなお旗を持って走ったことも、三井資長が一騎に
なってなお元軍を追ったことも、白石勢の戦法が密集隊形による騎射であったことも、
詞書きはいっさい語らない。

我々はこれら全てのことを、ただ絵によってのみ知るのである。
要するに蒙古襲来絵詞(特に文永の役)は、戦いのおおまかな筋書きのみを詞書きで
述べ、戦いの実相や詳細は絵に語らせるという作りなのだ。

「てつはうが詞書きにないからてつはうの絵は加筆だ」というのは、学者の意図的な
詭弁だ。あえて学者の、と言う。4センチ君は受け売りしているだけだからだ。

かくして、季長じしんが加筆を指示した可能性はなお残る。
そして、鎌倉時代末期、すなわち絵詞完成から間もなくの加筆であれば、末長の生前
死後を問わず、同時代資料としての価値がある。

ところで君は詞書きの余白について反論しないが、直線状の欠損が存在することに
ついて納得したのか?

283:日本@名無史さん
13/04/16 16:00:58.86
>>282
訂正:
末長の生前 → 季長の生前

284:日本@名無史さん
13/04/18 13:39:01.91
なにまたパフォが来てんの?
絵詞の改ざん前の構図で明らかな通り蒙古兵は尻をからげて逃げ出してんだよ

285:日本@名無史さん
13/04/19 22:42:30.22
>>284
そう、その逃げるだけの蒙古兵に射られて五人のうち三人もやられたんじゃ
格好が付かないと思った季長か、または季長の近親者が、絵師に指示して
強そうな蒙古兵を加筆させたのだよ

286:日本@名無史さん
13/04/19 23:17:29.76
>>285
いや、詞書読めばわかるけど、季長はその戦闘に関して格好つけるつもりはない。
つまり、強そうな蒙古兵の加筆は完全に季長の意思に反する行為。

287:日本@名無史さん
13/04/20 09:26:49.91
>>286
だから「近親者」まで含めて言っている。
たとえ季長が格好付けるつもりはなくても、近親者がそう思った可能性がある。
その近親者の行為に対して、もはや季長の意志は働かない。

288:日本@名無史さん
13/04/20 09:41:45.48
>>286
追加:
たとえ「季長の意志に反する」加筆であったとしても、同時代資料としての
価値を失わない。
なぜなら当時、蒙古軍に対するそのような見方があったことを証明するからだ。

289:日本@名無史さん
13/04/20 13:57:04.33
>>287-288
蒙古襲来絵詞の史料的価値は「蒙古軍に対するそのような見方があった」とかじゃなく、
「竹崎季長が実際に目撃した戦闘が描かれている」ことだから。
「季長の意志に反する」加筆に価値なんか無いな。
考証の際は、あの3人は存在しないものとして考えるべき。

290:日本@名無史さん
13/04/20 15:17:23.05
>>287
かりに近親者が格好付けるために加筆した可能性があるとしたら
それこそ戦闘が実際以上にタイトだった(=ワンサイドゲームではなく激戦で勝ち残った季長の勇戦を強調)
と言う露骨な意図が加わっている可能性が高い

つまりどっちに転んでも改ざん前の構図が実際の戦闘

291:日本@名無史さん
13/04/20 20:22:45.61
>>290 >>289
>>286が「詞書読めばわかる」と言っているように、季長は詞書で「馬が矢に当たらず、白石勢が続かなければ自分は
死んでいたはずの身である」と言っている。

馬と白石勢は0RではなくANDだ。つまり白石勢が来てくれたとしても、もし馬が健在であれば、季長は白石に先行して
先頭を駆けているのであるから、そのまま敵中に突っ込んで死んでいた、と言うのである。

「馬が死んでくれて良かった」と言い切るこの文章には、季長の味わった一種の「恐怖心」が正直に出ている。
すなわち、季長にとって戦いは極めて「タイト」だった。

一次完成した絵巻の突撃場面の、逃げる蒙古兵しかいない構図は、季長じしん、あるいはその意をそんたくした近親者に
とって、「実際の戦闘」とは異なっていただろう。

つまり、加筆は季長の「意に反するもの」とは限らないのである。

292:日本@名無史さん
13/04/20 20:27:12.38
>>291
訂正:
0R → OR

293:日本@名無史さん
13/04/21 12:19:05.80
>>291
加筆は季長の意思とは無関係に行われてるんだから、確実に加筆は季長の「意に反するもの」じゃん。
そもそもあの場面自体、別々に作成された絵を無理やりつなぎ合わせ作った改竄の産物だし。
季長の監修した絵巻を勝手にいじくり回して本来の姿とは全く違う場面に仕立てたわけで、
実際に季長が目撃した逃げ回る蒙古兵にしか史料的価値は無いよ。

294:日本@名無史さん
13/04/21 16:57:14.12
>>293
>加筆は季長の意思とは無関係に行われてる

その証拠はない。季長が指示した可能性も残る。

>実際に季長が目撃した逃げ回る蒙古兵にしか史料的価値は無い

はて、詞書きを基準にするのじゃないのか?
詞書きは竹崎勢の先駆けで蒙古兵が逃げたとは言ってないが。

295:日本@名無史さん
13/04/21 17:16:41.95
>>294
>その証拠はない。季長が指示した可能性も残る。

証拠を出す義務があるのはそっちじゃん。
季長が作成した状態から改竄されてるんだから、季長が指示したという証拠でもない限り、
季長の意思に反してると考えるのが当然。

>はて、詞書きを基準にするのじゃないのか?
>詞書きは竹崎勢の先駆けで蒙古兵が逃げたとは言ってないが。

詞書きで蒙古兵は竹崎勢の追撃からも逃げてるし、白石からも逃げてるよ。
よく読み直してごらん。

296:日本@名無史さん
13/04/21 17:17:55.19
>>294
パフォよ、お前はすぐばれるな。

297:日本@名無史さん
13/04/21 20:08:20.73
仮に神風が吹かなかった場合のその後の戦況って

六波羅からの援軍が山口まで来てたし四国や中国の御家人も動員されるだろうから
日本側の戦力がかなり整ってきて

その後しばらく睨み合った後、物資の不足を理由に元軍が撤兵するか

博多に再度攻撃を仕掛けるが撃退されるか

位しか可能性は残されてないかな

298:日本@名無史さん
13/04/21 20:15:14.44
あー、でもそれまでの戦局を見てると
日本側が鷹島に強襲をかける可能性も相当高そうだな

299:日本@名無史さん
13/04/21 21:44:57.02
>>295
>季長が作成した状態から改竄されてるんだから

絵巻の一次完成した状態が季長の意向通り、という君の前提そのものが間違っている。
季長が指示して直させた痕跡はいくらでもある。季長がじぶんで直したところもある。
例えば後巻・絵11には季長の筆跡で「・・絵師書きたがう(違う)なり」と註書きがある。

絵巻は季長の目の届くところで、直接の監督の下に描かれたわけではないことがわかる。
だから一次完成=「季長が作成した状態」とか、=「季長が見た通り」とかは言えないのだ。

>詞書きで蒙古兵は竹崎勢の追撃からも逃げてるし

君は詞書きの全文を持って入るのだから、「読んでごらん」などと印象操作せず、まず
該当すると思う文章を引用せよ。

こちらも引用して置こう。
「(凶徒)塩屋の松の下に向け合わせて合戦す。一番に旗指し馬を射られて跳ね落とさる。
季長以下三騎痛手負い、馬射られて跳ねしところに」
これが詞書きにある竹崎勢の戦闘の全てだ。やられっぱなしで蒙古兵はまだ逃げていない。

300:日本@名無史さん
13/04/21 21:49:50.87
>>299
訂正:
持って入る→持っている

301:日本@名無史さん
13/04/22 04:24:11.24
>>297
まず文永の役に関しては神風は関係ない。
次に弘安の役に付いても、暴風雨は確かに遠征艦隊のかなりの部分に打撃を与えたが壊滅させるまでには至っていない。
日本軍がその後独力で海戦を戦い、追い上げた所を掃討して最終的に撤退に追い込んでいる。

そもそも台風シーズンまで攻略が手間取ったら暴風雨の直撃を食らうのは当然と言うのは措いておいても、
台風を抜きにしても日本軍が10数万の大軍を一方的にボコったのは明らか。

302:日本@名無史さん
13/04/22 04:30:33.39
台風が吹く季節に「吹かない」想定をするのは難しいが、
撤退で解兵になるか、強攻にこだわるかは元軍次第だな。
個人的には消耗が激しくなり、文永の役と同じように解兵になったのではないかと思う。

303:日本@名無史さん
13/04/22 04:33:04.50
>>291
それは季長が「突出しすぎた」結果発生した事象であって、
何ら日本軍苦戦の証拠にはならないよ。
むしろ日本軍の追撃がいかに急で、季長が思わず勇み足になりかけるほどの状況だったことを物語る。

304:日本@名無史さん
13/04/22 05:48:12.63
弘安に台風来なかったら~ってのは、来る前から日本側が攻撃仕掛けてるんだから
それが続くだけだろう

元軍がずっと平戸に籠もってたら~だと日本側の対応がどうなるか一考の余地ありだろうけど

305:日本@名無史さん
13/04/22 07:18:08.30
>>302
平戸でグダグダしてたの考えると神風がなければ
あのまましばらく鷹島沖にいるんじゃないかと思うけどね

一方鎌倉武士はそれまでの行動パターンからかなり積極的に攻勢しかける傾向あるから
戦力整えば鷹島に強襲しかける可能性がかなり高そう

306:日本@名無史さん
13/04/22 09:44:44.92
>>303
>何ら日本軍苦戦の証拠にはならないよ。

そんな議論はしていない。絵詞の加筆の話だ。

307:日本@名無史さん
13/04/22 17:32:57.88
損耗が一定程度以上になって、日本軍が鷹島攻略の気勢を示して、船だけは残ってる
と言う状況になったら浮き足立つのでは
文永の時も同じ議論のすえに金方慶が斥けられてるのに、弘安で主戦論が通るのかしら。

308:日本@名無史さん
13/04/22 18:19:49.38
元寇の後でモンゴル軍の指揮官が「本分を尽くさなかった」って理由で斬首されたり流刑地送りになったり、
やっぱモンゴル帝国にとって相当痛い敗北だったんだな。
棄民説とか嘘っぱちだったってことか。

309:日本@名無史さん
13/04/22 21:15:51.96
江南軍の戦闘力がわかんないんだよなぁ
図体でかいが消極的という事しか印象がない

310:日本@名無史さん
13/04/23 03:25:31.32
>>299
後巻・絵11には季長の筆跡で「・・絵師書きたがう(違う)なり」と註書きがあるにもかかわらず
改竄はされていな。
つまり、蒙古襲来絵詞において行われてる改竄は全て季長の意思に反するものってことじゃん。

あと、詞書きにおいて、蒙古兵が逃げてる該当箇所。

「塚原より鳥飼の汐□潟を大勢に成り合はむと退くを追ひ駆くるに馬干潟に馳せたばして、その敵を延ばす」

「肥後国の御家人白石六郎通泰後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に上がる」

311:日本@名無史さん
13/04/23 09:29:09.72
>>310
>季長の筆跡で「・・絵師書きたがう(違う)なり」と註書きがあるにもかかわらず
>改竄はされていない。

逆だ。あえて描き直しをしなかったこらこそ註書きで間違いがあることを示したのだ。
描き込まれた妻戸を消すのは、加筆と違って大変だし、汚くなるからね。

この註書き一つで、一次完成品が季長の直接監督なしで制作されたことがわかる。
そのことが重要だ。

それと、事実に対する季長の「こだわり」がわかる。そのこだわりが加筆にもつながるのだ。

>塚原より鳥飼の汐□潟を大勢に成り合はむと退くを追ひ駆くるに馬干潟に馳せたはして、その敵を延ばす

ここは季長は敵に向かって移動しているだけで、戦闘には至っていない。その敵は菊池に追い落とされて
自主的に撤退しているのであって、季長とは無関係。

>肥後国の御家人白石六郎通泰後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に上がる

これは白石勢百騎の戦闘であって季長の戦闘ではない。
季長の戦闘は三騎が痛手を負った段階で終わっており、この段階で敵は逃げていない。

だから季長は絵の中に「まだ逃げていない敵」が欲しかったのだ。

312:日本@名無史さん
13/04/23 10:04:01.41
>>311
>逆だ。あえて描き直しをしなかったこらこそ註書きで間違いがあることを示したのだ。
>描き込まれた妻戸を消すのは、加筆と違って大変だし、汚くなるからね。

別々の紙を無理やりつなぎ合わせるのだって大変だし、現に汚くなってる。
そんな加筆を季長が指示するなんてありえないってことだね。

>ここは季長は敵に向かって移動しているだけで、戦闘には至っていない。その敵は菊池に追い落とされて
>自主的に撤退しているのであって、季長とは無関係。

>これは白石勢百騎の戦闘であって季長の戦闘ではない。

あの場面の蒙古兵は別に季長から逃げてるわけじゃないんだから、それでいいんだよ。
全く別の絵に描かれていた季長を本人の意思に反して無理やり一つの場面にしてるわけで。

それに「まだ逃げていない敵」なら絵7の左下に2人いる。
見比べれば加筆された蒙古兵の装備が全く考証のされていない史料的価値ゼロの存在だってわかるよ。

313:日本@名無史さん
13/04/23 18:47:53.92
第二次大戦時における韓国とは"高麗棒子"。
これは日本人がそう呼んでいたのではなくて
あの戦争の当事者である中国人が韓国の事を揶揄して呼称していたもの。
そんな加害者である韓国=中国の人いわく"高麗棒子"が、日本を戦犯国だとか言っているのは片腹痛い。
今の韓国の人は高麗棒子として、なぜ中国の人々からそう呼ばれ蔑視されていたのかを認識し
逃げずにその歴史に向かい合い、ちゃんと反省する必要があるんだと思う。

314:日本@名無史さん
13/04/23 19:07:18.28
つか弘安の役のときは蒙古軍(といってもモンゴル人は多くない)は台風で船を残して
鷹島に数万規模で上陸してたんだよ
で船がなくなってるところを御家人軍に掃討され
おそらく万単位で処刑された

315:日本@名無史さん
13/04/23 20:27:00.84
>>312
>そんな加筆を季長が指示するなんてありえないってことだね。

君が、加筆は全て季長の意に反すると主張する根拠はたった一つ、絵巻の一次完成版が全て
季長の意向通りである(言い換えれば一次完成版の制作は季長の直接監修のもとに行われた)
という勝手な前提を根拠としている。

しかしこの前提は、君が季長自筆の「絵師書きたがうなり」を認めたことによってすでに
崩壊しているではないか。

>あの場面の蒙古兵は別に季長から逃げてるわけじゃないんだから、それでいいんだよ。

苦しくなったからと言って絵の話に逃げてはいけない。これは詞書きの話なのだ。
この議論は君の:「詞書きで蒙古兵は竹崎勢の追撃からも逃げてるし」>>295
から始まっているのだからね。

詞書きに、蒙古兵が季長の突撃(先駆け)で逃げたとは書いてないことは認めたのか?

316:日本@名無史さん
13/04/24 00:48:29.37
>>314
と言うことは、台風が来なくて消耗が進んでも同じような経過=戦闘継続だと?
>>315
竹崎からも、白石からも逃げてると書いてあるのにあんた日本語読めないの???
普通に理解する頭があれば、竹崎の描いた戦況がどんなものだったか素直に分かるでしょ
無理にひねくって解釈してるから意味不明な結論になるんだっつの。

317:日本@名無史さん
13/04/24 09:16:43.40
>>316
>竹崎からも、白石からも逃げてると書いてあるのにあんた日本語読めないの?

また印象操作してるな。それなら戦闘場面を全文引用しよう。

「弓箭の道は先をもって賞とす、ただ駆けよとて、おめいて駆く。凶徒すそ原より、
鳥飼の塩屋の松のもとに向け合わせて合戦す。一番に旗指し馬を射られて跳ね落とさる。
季長以下三騎痛手負い、馬射られて跳ねしところに肥前の国の御家人白石六郎通泰
後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の戦引き退きてすそ原に上がる。」

竹崎勢の戦いは「馬射られてはねしところに」で終わっている。蒙古兵は大勢の白石勢が
駆け付けたから後退したのである。

だいたい、季長が「馬が射られず敵中に突っ込んでいたら確実に死んでいた」と言って
いるのは敵が前面に居てこその話である。敵が逃げていたら敵中に突っこむも糞もない。

ところで「一次完成版は全て季長の意向通り」という君の前提の崩壊についてはスルー
しているが、崩壊を認めたのか?
それならば個々の加筆についての吟味の話になるが。

318:日本@名無史さん
13/04/24 11:05:40.62
>>317
>>316の人は第三者の立場からおかしな点を指摘してくれただけだよ。

>>295では「詞書きで蒙古兵は竹崎勢の追撃からも逃げてるし」と書いたんであって、誰も
「蒙古兵が季長の突撃(先駆け)で逃げた」なんて書いてないじゃん。
で、詞書には「塚原より鳥飼の汐□潟を大勢に成り合はむと退くを追ひ駆くるに馬干潟に馳せたばして、
その敵を延ばす」 と書いてあり、ちゃんと指摘通り「蒙古兵は竹崎勢の追撃からも逃げてる」だろ。

あの場面の竹崎季長は本来別の紙に書いてあったのをつなぎ合わせた改竄の産物であって
「季長の戦闘」でなければならないという前提が間違ってるんだよ。

あと、もともとは>>311で別々の紙を無理やりつなぎ合わせるのような改竄を季長が指示するなんて
ありえないって指摘に正面から答えられずに印象操作に逃げたのが発端だろ。
次の話題に移りたいのなら、改竄は季長の指示ではないって認めてからにしろよ。

319:日本@名無史さん
13/04/24 20:21:48.67
>>318
まあ、君が「絵師書きたがうなり→前提の崩壊」を認めるはずもない。認めたらそれで終わりだからね。
しかし君が認めようと認めまいと、前提の崩壊はどうしようもない。
なぜなら絵師が書き間違えるということは季長の直接監修が無かったことを意味し、したがって
「一次完成版は全て季長の意向通り」という君の前提は成り立たないからだ。

それは置いといて、先に進もう。加筆は何も三蒙古兵ばかりではない。
例えば前巻絵7の季長負傷の図には松の木が描き添えられている。この松の木と人馬の位置関係は
著しく不自然だ。また馬の足を見ると一つの足は木の幹の向こうにあるのに、他の足のひずめは幹の
上に乗っている(拡大するとわかる)。この松の木は人馬が描かれた後に加筆されたものである。

また後巻絵21では、安達盛宗の首実検を受ける季長の絵が描かれているが、鎧の草ずりの絵の具が
剥げた下に直垂が現れている。これは季長が直垂姿に描かれた後に、鎧が加筆されたものである。

問題は、見る人にとってはど~でもいいようなこのような加筆を、わざわざ絵師に頼んでやらせるような
ことを、誰が何のためにやったかである。

考えて見てね。

320:日本@名無史さん
13/04/24 20:35:38.53
>>319
別々の紙を無理やりつなぎ合わせるのような改竄を季長が指示するなんてありえないって指摘には
結局答えられないわけね。
季長は完成した絵巻への改竄は認めていない。
だから、それらの加筆は全部季長の意思に反して後世に行われたものだよ。

321:日本@名無史さん
13/04/24 20:56:50.79
>>320
「別々の紙を無理やりつなぎ合わせる」というのがなんのことかわからない。
だって和紙は巻取紙のようにエンドレスじゃないんだから、絵巻物は別々の紙をつなぎ合わせて
できている。

>季長は完成した絵巻への改竄は認めていない

なにかの記録があるの? それとも季長の霊に聞いたの?

322:日本@名無史さん
13/04/24 21:07:41.82
>>321
後巻・絵11には季長の筆跡で「・・絵師書きたがう(違う)なり」と註書きがあるにもかかわらず
改竄はされていなじゃん。
季長が完成した絵巻への改竄を認めていない証拠。

323:日本@名無史さん
13/04/24 21:58:18.35
>>322
ごめん、遺言の話と勘違いした。生前ならそりゃ認めないわな。
ただし、じぶん自身を除いてはね。文字の書き込みだって「加筆」である
ことを忘れてはいけない。

ところで「別々の紙」の説明はまだ~?

324:日本@名無史さん
13/04/25 12:00:04.27
>>323
第23紙には礬水引きがあり第24紙には礬水引きがないんだから、この2紙は本来別々の絵巻だろ。
蒙古襲来絵詞は甲佐阿蘇神社に伝わったのと竹崎家に伝わったので2組作られたとされてるんだし。
礬水引きがない後巻・第3紙の「・・絵師書きたがう(違う)なり」は、礬水引きがない絵巻Aをもとに
礬水引きした絵巻Bを作成した際の注意書きだと思うよ。
2組の絵巻が一緒になったのは、竹崎家が没落して絵巻を手放した後だろうな。

325:日本@名無史さん
13/04/25 20:24:58.72
礬水引きがあるA本と、礬水引きがないB本とがあり、現存本にはA本とB本がめちゃくちゃに継ぎ合わされて
いる、ということらしいが、事はそれほど単純ではない。

「・・を読む」の大倉氏によると、乙本と甲本とがあり、乙本は絵は絵、詞は詞で別の紙に書かれた後、
継ぎ合わされて成り、甲本は紙を継ぎ合わせて長いベルト状にしたものに絵と詞が交互に書かれたという。
そして甲本は乙本を基にして浄書されたと言う。現存本は乙本である(甲本の断片を一カ所含む)。

甲本を浄書版と呼ぶならば乙本は試作版、プロトタイプ版である。大倉氏はそこまで言っていないが、言って
いるのと同じである。現存する乙本が試作版であると言う事なら、全てが氷解する。

手直しや注書きが多いのも、絵師が複数いるのも、紙に礬水引きの有無が混在するのも、紙の継ぎ直しという
やや乱暴な処理がなされているのも、試作版ならおかしくない。

そしてこの試作版が乙本として季長の手元に残って現在に伝世し、甲本は奉納されて失われたのだ。

326:日本@名無史さん
13/04/25 20:51:36.22
続き:
竹崎勢の突撃場面における紙の継ぎ直しは、恐らく突撃の序列を変えるために行われた。
乙本が一次的に完成したとき、この場面における突撃の序列は:
三井資長←馬を射られた季長←二人の郎党←馬を射られて走る旗差し←白石勢
となっていた。

時間を季長に合わせるならば実際も恐らくこの通りで、季長の馬が射られて止まったことに
よって、二番手だった資長が先頭に突出してしまったのである。その資長も次の瞬間には
射られて突撃は頓挫するが、絵巻はその前の時点を描いているわけである。

このように描かれた絵を、季長または未知の誰かの意向によって、季長が先頭になるように、
紙を継ぎ直すことによって手直しした。資長の前を逃げる蒙古兵は残されたから、継ぎ直し
によって蒙古兵が二群に分かれてしまった。この辺りは浄書の際に直されたであろう。

紙を次ぎ直した際に季長の前面にいなければならない、矢を射る蒙古兵が加筆された。担当した
絵師が好みに描いたから他の兵と装備が異なってしまったが、構図を考えればよいのだから
構わなかった。この辺も浄書の際に直されたであろう。

こんな事情だったのではなかろうか。

327:日本@名無史さん
13/04/26 09:55:37.21
>>325-326
なんか酷すぎるな・・・

>「・・を読む」の大倉氏によると、乙本と甲本とがあり、乙本は絵は絵、詞は詞で別の紙に書かれた後、
>継ぎ合わされて成り、甲本は紙を継ぎ合わせて長いベルト状にしたものに絵と詞が交互に書かれたという。
>そして甲本は乙本を基にして浄書されたと言う。現存本は乙本である(甲本の断片を一カ所含む)。

「・・を読む」の大倉氏は、甲本は絵は絵、詞は詞で別の紙に書いた後で継ぎ合わせたとし、
乙本は紙を継ぎ合わせて長いベルト状にしたものに絵と詞を交互に書き連ねたとしたうえで、
甲本は乙本を基にして浄書されたと言ってるのに、まるっきり逆にしてるじゃん。
つまり、完全な捏造をベースに2スレ消費してるんだぜ。

>担当した絵師が好みに描いたから他の兵と装備が異なってしまったが、

絵師が全く考証のない蒙古兵を好みで書き加えるのは史料に対する改竄そのものじゃん。
あの加筆された3人の蒙古兵には史料的価値がないと認めたってことね。

328:日本@名無史さん
13/04/26 11:06:12.48
>>327
私が甲と乙を逆にしてしまったのは事実だが結論としては大倉氏の先を行き、より
合理的な結論に達したようだ。大倉氏は現存本を甲本、奉納されたものを乙本と
呼んでいる。その上で次の結論を書いている。

「絵巻の製作法としては、詞書と絵は別々に書き・描いたのちつなぎ合わせるのが
本式と考えられるので、乙本が略式と考えられるが、順序としては先ず乙本が先に
作られ、これを元に本格的に浄書されたのが甲本ではなかろうか」

引用文の乙本=(失われた)奉納本、甲本=現存本である。
大倉氏の考え方は季長の手元に残った現存本が完成版、最終版であるべきという考え方に
囚われている。考えて見れば中間的なものを神様に奉納するわけがない。
季長の手元に残ったのが中間的な試作版と考えれば全ての謎は氷解するのである。

>絵師が全く考証のない蒙古兵を好みで書き加えるのは史料に対する改竄そのものじゃん

それならば同じ蒙古兵の描き方をしている、後巻・絵16も「史料に対する改竄そのもの」かね?
季長が両戦役を通じてはじめて敵の首を取った、まさに物語のハイライト場面の一つだが。

329:日本@名無史さん
13/04/26 13:18:37.93
補足:
奉納本は二つの断簡のみが残り、いずれも詞書きである。その一つは現存本に組み込まれている。
「~を読む」で前巻・第43紙・詞九がそれである。
これに相当する現存本の詞書は前巻・第31紙・詞七である。

この二つを見比べるならば、どちらが「浄書」か、一目瞭然であろう。

330:日本@名無史さん
13/04/28 08:40:55.95
「~の研究」を図書館で借りてはじめて読んだ。
著者が、三蒙古兵が「江戸時代」の加筆であるとする理由は主として次の三つ。
1)紙が4センチ上にずれているのに絵はずれていない。
2)蒙古兵の描き方がこの場面の他の蒙古兵と異なる。
3)三蒙古兵の絵は新しい感じがする。

1)については「ずれ」ではなく「損傷」である可能性については全く論じていない。
また「ずれ」なら当然問題になる上縁の状態についても全く論じていない。

2)については蒙古兵の描き方の「差異」について論じるのみで例えば後巻き絵16
蒙古兵の描き方との「類似」については全く論じていない。

3)については「感じ」のみで論じていて、どこが新しいのか分析していない。

要するに著者の論はこのスレの4センチ君と同じレベルである。逆に言えば4センチ君は
この著者の論から一歩も出ていない。

これは教祖と信者の関係と言ってよかろう。信者は教義以上のことは言えないからね。

331:日本@名無史さん
13/04/28 08:44:45.10
>>330
訂正
後巻き絵16蒙古兵→後巻絵16の蒙古兵

332:日本@名無史さん
13/04/28 10:27:11.54
>>330
>>325-326の論拠が根底から覆ったんだから、あんたの書き込みは全部間違いって結論出てるじゃん

333:日本@名無史さん
13/04/28 10:36:00.78
結局なんだけど、依頼人の竹崎が自分の都合のいいように絵を描かせて、更に絵師も勝手に追記したりしてるって結論でいいのかな?
ってことは、後世の加筆だろうと、竹崎の依頼通りだろうと、描かれてるものは実際にあったこととイコールではないってことになるんでは?

334:日本@名無史さん
13/04/28 11:03:42.05
>>333
蒙古襲来絵詞は作成されてから700年近く経過してるから、その間に後世の絵師が勝手に追記したり
することもある。
でも、それってどの史料にも共通すること。
ほとんどの史料は歳月を経る間に何度も書き直されて内容が変わっていく。
そういうのをそぎ落として、史料本来の姿を復元するのは、史料を用いる際の基本作業だし。
蒙古襲来絵詞は元寇で唯一実際に戦闘に参加した武将の監修した史料なんだから、諸史料の中で
最も実際にあったことに近い史料だよ。

335:日本@名無史さん
13/04/28 11:05:50.29
もちろん一級資料

336:日本@名無史さん
13/04/28 13:02:42.39
>>332
>>325は私が大倉氏の文章を間違えて読んだおかげで正しい結論に達したものだ。
いま「~の研究」を読んでるんだけど、ひょっとしたらこの著者の考え方は
非常に私の考え方に近いかも知れない。蒙古襲来絵詞の二つの異本の関係についてね。

>>326>>325とは独立だ。三蒙古兵や松を除外しても成り立つからね。
だからこれだけでも議論できる。

君がそうしないのは私の読み違いを口実にして逃げ出したがっているからだ。

337:日本@名無史さん
13/04/28 13:34:34.10
>>336
ベースが根本から間違っていたら結論も覆るのが当然で、それをしないのは最初から結論ありきで
適当な屁理屈付けてるだけってことだろ。
その後の書き込みだって、どうせ矛盾点を指摘されたらその場で思いついた支離滅裂な屁理屈を
言い逃れとして書き込むだけじゃん。

絵師を複数もちいて尚且つ工程が複雑になれば費用も莫大にかさむわけで、そんな馬鹿げた試作版を
作成していきながら、礬水引きもしてない紙で浄書版を作成するなんてありえない。
こんな出鱈目を平気で書き込めるのは、ちゃんと考えもしないでその場その場の適当な思い付きを
書いてるだけだから。
1年ぐらいちゃんと調べて考察してから書き込めば?

338:日本@名無史さん
13/04/28 15:00:03.79
>>337
さて、異本間の関係の話に入る前に、その前の問題に戻ろう。
君は、完全に季長の意向を反映したオリジナル版の絵詞を想定するんだよね。
だから、後巻・絵21の、直垂姿の季長の上に書き込まれた鎧についても「後世の改竄」
とせざるを得ない。

>季長は完成した絵巻への改竄は認めていない。
>だから、それらの加筆は全部季長の意思に反して後世に行われたものだよ。 >>320

これについて「~の研究」の著者は実にいいことを言っている。引用しよう。
「この絵のこのような手直しは竹崎季長自らの注文でこのような手直しがおこなわれた
と見ていいであろう。竹崎季長からすれば蒙古襲来の合戦での自らの活躍を人々に
語るためには直垂姿よりも勇壮な鎧姿の方が当然見栄えがする。そのために鎧姿に
描き変えたのである。」

著者は後世の改竄とは見ていない。季長じしんが加筆を指示したと見ている。
さあ、どうする?
それとも>>320は「適当な思い付き」だったのかな?

339:日本@名無史さん
13/04/28 21:39:01.50
その理屈で言えば、実際は追撃の過程で勇み足になったの大変な激戦だったように改ざんしてる可能性が高いわけで、
やっぱり実際の戦闘では蒙古兵は追い散らされていたことになるね。

340:日本@名無史さん
13/04/29 08:12:22.91
>>339
5騎のうち3騎がたちまちにして射られたのなら、当人にして見れば「大変な激戦」には
違いないね。

341:日本@名無史さん
13/04/29 09:22:01.77
先駆けで突っ込めば敵の攻撃が集中するから、個人的視点で見れば激戦つーか死にそうな目に遭うのはある意味当たり前。

342:日本@名無史さん
13/04/29 09:53:02.52
よく解らない敵に先陣切って突撃して、矢の雨と未知の爆発兵器が飛んできて
部隊の過半数が戦死しましたと書くと、大激戦じゃ無いか。

343:日本@名無史さん
13/04/29 12:04:39.67
大空のサムライで、編隊組んで進行している時、
敵が近づくと、自然に横一列に並んじゃうそうな。

互いに見えないところを補い合えるのと、
突出すれば収集攻撃を受け、
後ろにいれば、卑怯者に見えかねないから。

344:日本@名無史さん
13/04/29 12:55:39.82
>>338
さあ、どうする? って>>282の「あえて学者の、と言う。4センチ君は受け売りしているだけだからだ」
という自分の勝手な思い込みが崩壊しただけじゃん・・・

345:日本@名無史さん
13/04/29 15:57:07.03
>>344
「受け売り」は4センチずれ/三蒙古兵江戸時代説の話だ。>>330

鎧上わ描き後世改竄説は4センチ君独自だって言いたいわけね?
それだけ独自性があれば何も4センチずれに固執することはないと思うけどな。

ついでだから私も独自の説を書こう。鎧上わ描きに関する「~の研究」の説は、
なんとなく「できあがって見たら季長の気が変わった」という風にも読めるが、
私はそうは思わない。季長はほんとうに鎧姿だったのだ。

事前打ち合わせにおいて、季長は安達盛宗など役人たちの姿について直垂姿だった、と
絵師に伝えた。それを絵師は季長まで直垂姿だったと勘違いしてしまった。勘違いに
もとづいて描かれた絵を見て、事実にこだわる季長は我慢できなかったのだ。

このように解釈するほうが季長の性格に合っていると思う。

346:日本@名無史さん
13/04/30 02:36:03.87
軍事史学の元寇特集号のBNだけでは詳しい戦闘経過がいまいち分からない。
太田弘毅[1997]と佐藤鉄太郎[2005]が錦正社から出ているが、これでいいんだろうか。

347:日本@名無史さん
13/04/30 07:27:49.88
>>342
横レスだけど、部隊の過半数が戦死しましたなんて書いてないよ。
3騎が負傷したと書いてるだけで、竹崎以下5騎は全員生還している。

348:日本@名無史さん
13/04/30 08:02:56.97
>>337
>礬水引きもしてない紙で浄書版を作成するなんてありえない。

これを見過ごしていた。
異本の断簡である第43紙・詞九に礬水引きがないことを言ってるのか?

それを言うなら相当する現存本の第31~34紙・詞七にも礬水引きがない(by太田氏)。
これから言えることは、礬水引きの有無では何も言えない、ということでしかない。

349:日本@名無史さん
13/04/30 15:46:26.43
>>348
これから言えることは、第31~34紙・詞七も甲本の基になった乙本であるということだろ。
礬水引きの有無が全てを物語ってるじゃん。

350:日本@名無史さん
13/04/30 20:24:24.58
>>349
じゃあなんで、君の言う「乙本」には同じ詞書が重複してるの?

351:日本@名無史さん
13/05/01 15:20:37.24
>>349
ひょっとして4センチ君は、詞七の一部と詞九とが同じ内容である、すなわち重複して
いると言うことを知らなかったのかな?

もしそうなら、重複していることを確かめた上で改めてコメントしてね。

352:日本@名無史さん
13/05/01 18:05:44.72
>>351
改めてコメントするよ。

ベースが根本から間違っていたら結論も覆るのが当然で、それをしないのは最初から結論ありきで
適当な屁理屈付けてるだけってことだろ。
その後の書き込みだって、どうせ矛盾点を指摘されたらその場で思いついた支離滅裂な屁理屈を
言い逃れとして書き込むだけじゃん。

絵師を複数もちいて尚且つ工程が複雑になれば費用も莫大にかさむわけで、そんな馬鹿げた試作版を
作成していきながら、礬水引きもしてない紙で浄書版を作成するなんてありえない。
こんな出鱈目を平気を書き込めるのは、ちゃんと考えもしないでその場その場の適当な思い付きを
書いてるだけだから。
1年ぐらいちゃんと調べて考察してから書き込めば?

353:日本@名無史さん
13/05/01 20:23:57.56
>>352
では改めて聞くが、どちらも礬水引きされていない詞七の一部と、詞九とが内容的に重複しているのは
なぜだと考えるの?

君の説に従えばどちらも礬水引きされていない詞七と詞九は、どちらも「乙本」だから、重複するはずは
無いよね?

他のことでなく質問に答えてね。

354:日本@名無史さん
13/05/01 20:52:07.54
>>338
「この絵のこのような手直しは竹崎季長自らの注文でこのような手直しがおこなわれた
と見ていいであろう。竹崎季長からすれば蒙古襲来の合戦での自らの活躍を人々に
語るためには直垂姿よりも勇壮な鎧姿の方が当然見栄えがする。そのために鎧姿に
描き変えたのである。」

だからこの論理に従えば、かりに書き換えたのが竹崎本人だったとしても
書き足し部分は「見栄えを良くする」ための誇張の意図が濃厚に含まれている
と言う結論になるじゃないか。何言ってんだ。

355:日本@名無史さん
13/05/01 20:52:11.89
>>346
とりあえず現状では元寇について最も詳細に研究してるのは佐藤鉄太郎氏じゃないかい?
他の人達は通説をさらっとなぞってるだくやしね。
あと威力偵察説唱えた張本人の杉山某は論外。

356:日本@名無史さん
13/05/01 21:23:49.11
>>354
当然ながらそれは著者の意見だ。
私の意見は少し違う。>>345を見てね。

>>355
最も詳細に研究した人の説が最も妥当だとは限らない。
三蒙古兵を江戸時代の加筆だとする彼の説は強引すぎる。
>>330を見てね。

357:日本@名無史さん
13/05/01 23:02:51.87
>>356
330は「~とは限らない」と言ってるだけで、345は「事実にこだわる季長」と言う性格を措定しておきながら、
なぜか「自分の戦功を誇張しようとする季長」と言う性格をべつに立てている矛盾が生じる

お話にならない。

358:日本@名無史さん
13/05/01 23:05:04.08
こ~んなデタラメ仮説が許されるなら、もう何でもアリだな。


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