13/01/08 22:15:55.36
336は例えば秋山好古の臨終の場面をフィクションとして楽しめるのだろうか。
フィクションとして楽しむにはフィクションと分かっていなければならない。
しかしフィクションかどうか区別するだけの知識があるのか。
そんな知識を持ち合わせている人は普通いないはず。
司馬だってもともと知って書いてるわけじゃないと思う。
ただ、商売のネタなんで、司馬は山のように資料を買った。
それを学者みたいに研究したんじゃなくて、適当に小説のプロットを探したんだろう。
十冊に一個見つかればいいぐらいの気持ちで。
なんせ、原稿用紙一枚が札束に変わるような作家だから。
膨らませる種が見つかればいいんだよ。
そうして書かれたものの細部について、素人が嘘だホントだと判断するのは無理だ。
司馬と同じだけの財力があり、同じだけの資料を入手できるのならともかくね