謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!69at HISTORY
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!69 - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
12/10/19 01:50:43.23
卑弥呼は3世紀頃に九州に住んでた女の人ですよ
ナンデそんなものに興味があるのでつか?

3:日本@名無史さん
12/10/19 10:17:09.76
あらいやらしいスレ

4:日本@名無史さん
12/10/19 12:59:56.26
弥生時代末期の筑紫、博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。
【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)・筑紫/宇佐→安芸→吉備→「大和」
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)・日向↑ 【神武東征ルート】
....................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で
肥後狗奴国 (後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。その男系子孫であることを示すため、神武は投馬国(日向)から出航し、
「和」国の首都を筑紫・博多から「大和」へ東遷。「大王(おおきみ)」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。
※記紀が、投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の末裔である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。

【大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代】
〔前期古墳〕…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武~仲哀)=♂投馬(日向)系大王
〔中期古墳〕…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神~武烈)=♀邪馬台(筑紫)系大王(百済へ軍事援助で王権強大化)
〔後期古墳〕…近江王朝(※継体~天智~桓武~現在)=♂投馬(日向)系大王

-継体・安閑・宣化=日向系大王。継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明~皇極(斉明)=筑紫系大王。筑紫系大臣、蘇我氏による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」へ
-天智・弘文=日向系大王。「白村江の戦い」惨敗で百済滅亡で半島権益を完全喪失、王権弱体化→「壬申の乱」へ
-天武~考謙(称徳)=筑紫系「天皇」。両系和解の記紀編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「道鏡事件」へ
-光仁・桓武~現代=日向系天皇。筑紫系天皇の奈良・平城京から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの平安京に遷都

5:日本@名無史さん
12/10/19 19:21:20.07
>>979
>北九州説は倭人伝の道程的にかなり厳しくないか?
>やはり比定地は九州では難しそうだな

どういうふうに厳しいのですか?具体例を載せて下さい。


6:日本@名無史さん
12/10/19 19:23:58.06
>>985 サガミハラハラ
>郡からであるから、半島内陸行説をとります。
>海岸に循いて水行し、群山に上陸、陸を南下し、求礼に到着、そこから東に進み、
>固城という港町に付きます。陸行ざっと、260kmです。唐津に上陸し、東南に松浦川沿に進み、多久市中小路の伊都国の館に到着。
>そこから東に進み小城市不二町に到着。邪馬台国卑弥呼都城址はその南1kmです。
>唐津からここまで陸行ざっと41kmです。
>陸行合計301kmとなります。これを1月すなわち30日で割ると、約10kmとなります。1日10kmとなります。

ナンダッテ?w

7:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/19 20:54:14.83
倭国は、倭奴國卑弥呼と邪馬台国倭王の2王体制である。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
 其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。

晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

景初3年12月に女王卑弥呼は、「親魏倭王卑彌呼」と倭奴国王位継承を認められている。
しかし、正始元年梯儁等は、倭奴国を素通りして、邪馬台国へ向かう。
つまり、女王共立は、疲弊した倭奴国最後の王位設立でしかない。
魏としては、後漢の皇帝位委譲、よって、後漢が認めた倭奴国王位は認めたが、
頼りにならないことは先刻ご承知。だから、
邪馬台国に倭王位を下賜する。
至邪馬臺國,即倭王所都。 邪馬台国はヤマト王の都。
この時代を考古学は
ほけの山(225~250年)
3世紀前半の大型建物跡を 盛り土(土地は乾くヒ)と整地(ならす・代)して中期の大型建物
景行日代宮、であるから、邪馬台国官伊支馬=イクメ=垂仁、都市牛利(たしうり)=田道間守。



8:日本@名無史さん
12/10/19 21:10:08.43
>誉田御廟山古墳」(5世紀前半、大阪府羽曳野市)と、履中天皇陵に指定する「上石津ミサンザイ古墳」(4世紀末、堺市)
>の両大型前方後円墳の前方部から埋葬施設とみられる土壇(どだん)(盛り土)が確認され

>この意味が分かるか?
>誉田御廟山と上石津ミサンザイ古墳には存在するが、大山陵には存在しない。
>もう少し詳しくなれば、多分これで決定。
>大山陵になぜ存在しないのか?
>大山陵の主は399年に葬られた“高句麗に大敗した大王”である。
>つまり、歴史から抹殺された大王なのである。
>そして、この古墳に他の埋葬施設が無いということは、この大王に連なる系図を拒否したということである。

唐松山さん、仁徳天皇陵とされる大仙古墳の前方部にも埋葬施設と思しき土壇が確認されているようだけど、

この辺もっとkwsk!

9:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/19 21:18:59.34
>>8
そうなんだよね。
大山陵は築造途中で、築造を放棄した。だから山肌が荒れている。
そして、3世紀半ばのほけの山には6世紀の石室がある。
だから、もう少しはっきりしないと・・・とは思う。

URLリンク(www.furutasigaku.jp)
古記 令集解
古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一
月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。
安閑天皇元年(甲寅五三四)◆閏十二月己卯朔
534年から狭義の朔旦冬至を割り出せば、325年仁徳13年になる。
つまり、仁徳紀が313年から書かれているとすると

316年西晋滅亡
316年 仁徳4年 課役の停止(半島に駐留する軍の引き揚げ)
奈勿大圣神帝纪
317年 奈勿元年 丁丑
十一月加耶君守克殂慕诃立以宣失为太后时加耶与倭相通不遵朝廷之令
至是以倭王女为妻而不听宣失之言遣使责之
(伽耶と倭は通じて、朝廷の命令に従わなかった)


10:日本@名無史さん
12/10/19 21:24:05.98
あいもかわらず「奈勿大聖神帝紀」が「奈勿大圣神帝纪」に文字化けしてもしっちゃない

11:日本@名無史さん
12/10/19 21:37:55.16
①上石津ミサンザイ古墳(履中陵)…前方部に円形祭壇
URLリンク(www.bell.jp)

②誉田御廟山古墳(応神陵)…前方部に方形祭壇
URLリンク(www.pref.osaka.jp)

③堺大仙古墳(仁徳陵)…前方部に方形祭壇
URLリンク(www.pref.osaka.jp)

12:日本@名無史さん
12/10/19 21:41:27.76
あいもかわらず あてずっぽの看板のくせに しっちゃない

13:太国 ◆yVAs7uaYlY
12/10/19 21:59:44.28
邪馬台国官伊支馬≠イキマ≠垂仁

14:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/19 22:00:18.04
庄内式土器を九州に持ち込んだのは、景行である。
九州上陸で最初に挨拶に行ったのは、筑紫の神夏磯媛(カンカシヒメ)であり
景行(倭王)から見た媛(卑弥呼)は「我が属類」
景行が最初の大王であれば、その古墳は、箸墓になる。(260年代)
誉田御廟山(380年代) この120年を成務・仲哀で埋めるのは不可能である。
佐紀盾なみに王墓がある。
それ以前に、桜井茶臼山やメスリ山も可能性がある。これら3世紀後半の古墳には
△ 鏡と大量の鉄器が副葬されている。これらの鉄器は、軍隊編成の必需品である。
だから、ヤマトで編成された軍隊が半島に存在する時代である。
神功紀のいう新羅から調が納められた時代。
その軍隊が、永嘉の乱に巻き込まれ、さらに大量の軍隊を送り込むと、倭国内では庶民が
疲弊する。西晋滅亡とともに軍を引き上げるが、空白となった半島の勢力
辰(新羅)や不耐ワイ(百済の前身)には独自行動を起こす能力が不足している。
辰(新羅)は女王国であり、軍隊といえるほどのものはない。
不耐ワイ(百済の前身)は、郡の下働きを生業とする勢力である。
その不安が、神功48年ころの倭国訪問となる。
323年神功49年再渡海は、時代の必然なのである。


15:太国 ◆yVAs7uaYlY
12/10/19 22:05:28.78
景行が最初の大王でないから、その古墳は、箸墓ではない。

最初(ハツクニシラス)の大王は神武であり景行(アトクニシラス)ではない。

なお箸墓は景行の墓ではない。

16:日本@名無史さん
12/10/19 22:41:05.88
前スレ1000はどういう意味だ?

1000 :日本@名無史さん:2012/10/19(金) 19:18:51.41
1000ならイチノイデ

17:サガミハラハラ
12/10/19 23:01:00.54
半島内を進むと、とおまわりと不平がでるといいますが、江戸時代の通信使はソウルからプサンまで陸行でしたよ。

18:卑弥呼は満州にいた
12/10/19 23:19:30.91
川柳に 真面目に答へる サガミハラ (爆笑)

19:サガミハラハラ
12/10/19 23:49:52.37
けどこの陸行 行程計算しこしこ進んで 参考にはなったでしょ。

20:日本@名無史さん
12/10/20 00:39:50.45
>>14
景行天皇は土器商人か…。

21:日本@名無史さん
12/10/20 09:30:12.31
半島内を陸行したら狗邪韓国から倭国へ渡る船がないだろう。

22:日本@名無史さん
12/10/20 09:32:43.26
>>11
>②誉田御廟山古墳(応神陵)…前方部に方形祭壇
>URLリンク(www.pref.osaka.jp)

↑レーザー写真、後円部の中軸線上に造り出しが見えないか?

23:日本@名無史さん
12/10/20 10:12:44.23
野見宿禰の子孫の土師氏が傘下にいたから、
良い土さえあれば、その場で野焼きで甕を作ったんじゃないのか?

24:日本@名無史さん
12/10/20 10:46:26.42
邪馬台国は下関と奈良だよ

卑弥呼の古墳は箸墓古墳じゃないよ。あれはもっと古い時代のもの。

卑弥呼の墓は安徳天皇陵。

そもそも、源平合戦の壇ノ浦で亡くなった安徳天皇って平安時代の人物だからね

平安時代に古墳なんて作ってないよ

因みに卑弥呼は雲南省→台湾→沖縄→奄美→九州と渡ってきた南方系の部族

ちなみに九州でも西側しか領土ではない

太平洋側の大分宮崎辺りは蛮族の領土

25:日本@名無史さん
12/10/20 12:55:01.16
古代の中国人は、卑弥呼は公孫氏と書いている
卑弥呼は遼東半島付近にいた一族の末裔との認識を持ってのことでしょう
卑弥呼が帯方郡と緊密だったのは、卑弥呼一族の故地だからで
卑弥呼の関心は、朝鮮半島~扶余の方面を向いてたのでは

26:日本@名無史さん
12/10/21 10:07:21.87
狗邪韓国=狗奴+邪馬台

27:日本@名無史さん
12/10/21 10:08:14.65
下関と奈良つーのはマクモニーグル説か?

28:日本@名無史さん
12/10/21 10:40:27.11
この池田仁三氏の説ってどうよ?

URLリンク(www11.ocn.ne.jp)

29:太国 ◆yVAs7uaYlY
12/10/21 10:46:26.63
もっぱらインチキだと言う人が多いね?

不審点多いんだろうし、どうだろうか?

30:日本@名無史さん
12/10/21 11:01:01.63
このPCソフト第3者が結果を再現出来さえすれば、一気に認定だろ?
似たような無料ソフトでトライした人いないんかねえ?

31:日本@名無史さん
12/10/21 11:27:07.98
URLリンク(watchizu.gsi.go.jp)

32:日本@名無史さん
12/10/21 11:28:32.20
URLリンク(watchizu.gsi.go.jp)

33:日本@名無史さん
12/10/21 11:30:53.00
URLリンク(watchizu.gsi.go.jp)

34:日本@名無史さん
12/10/21 11:36:29.38
URLリンク(watchizu.gsi.go.jp)

35:レス長たらし毘古
12/10/21 12:34:23.86
>>28
よく調べたねぇ。拾い集めたらできる編年だとは思いましたが、実際やられる
方がおらりょーとは(オホホ)。大筋ではここでの当方の筋とは近い部分も
多いので、これからも頑張って欲しいページだと思います。多分神代まで
編年に組み込む事(それが戦前神話代歴史観と必ずしもピッタリ一致すると
までは限らないが)はある程度可能だと思いますよ。レガシーでトンチンカン
な戦後の左右歴史観に惑わされずに、真実一路で頑張って頂きたい取り組み方
の一つですね。
(ちなみに誤解されたくは無いのだが、当方は戦前の神代歴史観すら懐疑的。
だがしかし、それでもまだ戦後の左右の神代歴史観よりかはマシな部分は多い
と見ています)

やっぱモモピー有力候補w(但し当方は淡路島の周辺説(九州東北部含む))

36:レス長たらし毘古
12/10/21 12:56:26.39
>>25
公孫氏の関係。或は(中華)春秋戦国時代の、燕・斉・等々の国と何かしらの
関係(もしくはネットワーク)があった可能性は当方も有る程度高いと考えて
ます。古事記神代には「外洋文明」との関係を匂わす表記も多いですからね。
例1:少名彦
例2:前大和王権(神武より前)への外洋からの外交政治影響力
例3:ワタツミの神と山幸の関係
例4:神功皇后の祖先
等々(まだアリソw)

あえてザックリ言うと、前出雲王権と燕の関係、前九州王権と斉の関係。
このあたりは架説考慮の想定範囲となっております。

37:レス長たらし毘古
12/10/21 13:13:16.95
さて、ザックリ総論ですが、

①前出雲王権そのまま大和王権説に立つと、「国譲り」が成り立ちません。
②前九州王権そのまま大和王権建設に立つと、「モモソ」の功績と子孫血脈を
明示する必要が高くなります。

しかし、古事記・日本書紀の当時の大和王権はそのどちらも嫌だったのです。
従って、前九州王朝の派遣皇族将軍の一人(これがイワレヒコ=神武)の
土着王権の大和王権を後に(結果論と併せて)正当化するワケです。
「いや、前出雲との関係は国譲りにて精算済み」「いや、前九州とは血縁は
ありますが、神武の子供の相続争いの件でカタはついてるよ」とこうなった。
と言う架説。

さて、テーマの卑弥呼は当方の架説では上記の何処に位置するか?
神武さまのご子孫のうち、感情的にもバックボーンも、前九州王権に近しい
お方。となり、これが当方はモモソさんと架説するワケです。

38:レス長たらし毘古
12/10/21 13:34:06.61
「イワレヒコ」は「タケウチスクネ」「ヤマトタケル」と同様、「役職名」

イワレヒコは、前九州王朝の「おまえさん、あの地域に行って、ここは
アマテラスさんの土地ですよと言って来なさい部隊」の天孫皇子将軍。
ですので、広義では、神武以前に前大和に派遣された数人の神様も、元々は
コレに含まれていたが、その業績は後代「一人の功績」とする必要が生じた。

従って、最後の代のイワレヒコだけが「神武」と規定されるようになった。
従って神武時代(広義で言えばウガヤフキアエズ時代も含まれる)は、一人
の存命時代だけとは限らず、短くて数代・長くて十数代に渡る可能性が高い。

コノハナサクヤヒメが登場されて現人神の子孫の寿命を縮めなくとも、
スッポリと「普通の暦」に納まる話なのである。
(これをヤヤコシクしたのが、武内宿禰時代。ここで、「神代は神的長寿
だった!説」が一旦主流になります。何故なら、武内氏は前出雲系であり、
人間(それが神であるならば)が数百年生きようが全く問題無い、と言う
歴史観に即していたからです)ここで、神武未前の「神様」のご寿命が
バビューンと引き伸ばされます。と言う架説。

(同様にその反対として、「むしろ神的長寿とされていた」前出雲系の
大人物の二人、堅い根の国のスサノウさんと出雲で兎と踊る大国主さんは
実際は普通のご長寿さんとも考えられます)

39:レス長たらし毘古
12/10/21 13:46:48.86
つまり、紀元前に数百年間に(代々の)大国主が「西日本の主」とする時代が
あり、そのため、当然大国主の子供(とその子孫)はたーくさん生じるワケ。
(これは古事記と相違無い話)
ここに、国譲りと後代呼ばれた「前出雲王権体制の崩壊」が到来します。
これは国譲りほどドラマチックな話ではなく。まず王権が致命的に内部分裂し
、その後は次第次第にゆっくりと前北九州王権と前大和王権が成長していった
だけの話かもしれません。

この状態が起源ゼロ年をまたいで、卑弥呼の時代までずっと継続します。
外使到来につき、「共立者」を出します。それが、前大和王権と前北九州王権
が強力にPUSHして共立した、モモソさまなのでーす。と言う架説。

だがしかし!モモピー勢力は、その後(ご存命中か、或は寿命死後か、或は
暗殺死後)に、崇神勢力(前出雲系)の一皇子に取って代わられます。
武内時代前後の数百年の間、「モモピー」は放送禁止用語となってしまい
ました。
そう、まるで現代において乞食(こじき)が放送禁止用語(だったっけ?w)
であるかのようにっ!!(ベベン、さあお立会いだ!)と言う架説。

40:卑弥呼は満州にいた
12/10/21 20:16:30.18
ベベンベンベン レス長たらし毘古の 浪曲なり

41:サガミハラハラ
12/10/21 20:39:32.73
>>21 半島と九州の間は民間の船(漁船含む)がかなり往来(もちろん天功次第)しています。
クヤ韓国の出航地固城に到着したら、対馬におうらいしている船に伝令を頼み、
対馬の王に船をだしてもらいます。

42:卑弥呼は満州にいた
12/10/21 21:38:01.72
何一つ 難問のない サガミハラ

43:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/21 22:03:48.41
>何一つ 難問のない サガミハラ

残念ながら、サガミハラ 編年では巻向に垂仁・景行の王宮が設定できない。
だから、カヤ韓国(任那)建国も不可能である。
応神誕生の年に神功渡海。
9月に集兵して、10月に渡海、それが縁で新羅は調(税)をヤマトに納めるようになる
渡海に軍事力行使は存在しないが、新羅は税を納める。
このためには、半島方面に大和の軍隊を受け入れる勢力が必要となる。
西晋が滅びた後では、そんな勢力は半島に存在しない。


44:太国 ◆yVAs7uaYlY
12/10/21 22:16:16.17
残念ながら、宿主編年では巻向に垂仁・景行の王宮が設定できない。

だから応神とウジノワキイラツコが各々2人もいるとか父が子より後即位
だとかの紀の狂ったような論を展開し、その日数計算は皆既日食が数日間
起こるというデタラメ計算をしておる。

宿主は日数の計算が出来ない。
出来ないから皆既日食の生起時間が数日間だとの計算値を出して自慢して
おる。ppp

45:日本@名無史さん
12/10/21 22:22:45.15
ちょすこい

46:日本@名無史さん
12/10/22 00:50:52.75
>>41
魏の船で来ればそんな面倒くさいことはいらないね。だいたい、民間の舟に頼んだからといって
対馬から迎えが来るわけはないわな。

47:日本@名無史さん
12/10/22 01:51:19.09
>>41
ねーねー、借金なんぼ残ってるの?

48:サガミハラハラ
12/10/22 08:06:34.33
魏使が使用したのは、魏の公孫氏攻めのさい半島を攻めた魏の軍船であったでしょう。
ですからソウル付近からのしゅっぱつです。
では、倭人伝のはとなると、これはかなり古いすくなくとも漢の時代の行程なのです。
宗主国の中国の使者のための用船です。拒否したら反逆とみなされます。

49:日本@名無史さん
12/10/22 12:32:40.08
>>48
じいさん、もう少し漢字使えよ。あんた、元小学校教諭だろ?

50:日本@名無史さん
12/10/22 12:49:27.07
こう言っちゃなんだけど、漢字使った方がいいのは「出発」くらいじゃね?
使おうと思えばもっと使えるけど、一般的に漢字を多く使うと文章が硬くなるよ
あえて平仮名を使うのも大事

本人が意識してるかどうかは知らんが

51:日本@名無史さん
12/10/22 16:00:34.06
ちんこ出したいです

52:日本@名無史さん
12/10/22 16:02:17.55
最近の子はどうもエネルギーが足りない気がする。
というよりも、自主性が足りないのだ。自分から何かを発していこうという
積極性が足りないのだ。いわゆる受動態人間だ。仕事でも何か言われたことしか
できないような人間が多い。マニュアル人間だ。なぜこうなってしまったのか?
大きな要因は入試だろう。入試のほとんどは問題が出され正解を導くものだ。
つまり正解が必ず存在しているのだ。しかしそれはあくまで入試だけのことであることに
気づいていない若者は多い。何でもそれが通用すると思っているのだ。
これは今日本社会の成長を妨げてはいないだろうか?
私はコンビニの店長をしている。そんなときあるバイトの高校生がいた。
その高校生はヨーグルトを売り場に並べているときにいきなりヨーグルトを近くにいた
お客さんに投げつけて言ったのだ。「あんた悪魔!火星に帰れ!」
私はそのお客さんが返して言った言葉を今でも覚えている。
「冷蔵庫売り場はどこですか?」・・・・・・・・・・・・
コンビニに冷蔵庫が売ってるわけないだろう!売ってたらおかしいだろう!
こいつは一体何者なん段ボール箱はこちらへ捨ててください。
わわかりましたか。わかったんなら返事をしてくだサイコショッカー召喚!
プレイヤーにダイレクトアタックリスマスはまだかなあ!はやくサンタさんから炊飯器100台もらいたいなあ。
どんどん!どんどん!おーい!こないだ貸した割り箸を返してくれーーー。
はやくしろーーーい。ドアを開けないなら警察を呼ぶぞー。
友達だからって容赦しないんだからナースステーションにお菓子でももってくか。
お世話になったし。し。し。シビアな日本社会に物申す!やつらを解放せよ!
おーい。ご飯できたよー
あっ。ご飯の時間になっちゃった。またあとで。じゃーねー。

53:日本@名無史さん
12/10/22 18:48:48.15
コンドハ俳句でなくてちんこかよ困ったお方だな

54:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/22 21:16:49.07
>というよりも、自主性が足りないのだ。自分から何かを発していこうという

ここも同じだろ。
誰かが、明治の初めに”倍年?”と言い出したら、倍年から抜け出せない。


55:卑弥呼は満州にいた
12/10/22 21:25:58.69
>>53
こらこら、>>52は私ではないぞ。文を見れば分るだろ。
私も、また変な奴が出てきたな、と思って見ていたのだ。

56:サガミハラハラ
12/10/22 23:03:11.11
>>49 ですから、平易な文で漢字が少ないのです。


57:日本@名無史さん
12/10/22 23:22:32.07
>>56
じゃあ、小学生にもわかる、株購入の入門書でも書いてくださいな。
そっちの方が、邪馬台国の話よりも、ずっと読者が増えるってもんですぜ?

58:日本@名無史さん
12/10/23 22:30:47.14
しょうがくせいでもわかる (やまたいこくとひみこのなぞ)ってほんをだせばいいんじゃね!

59:日本@名無史さん
12/10/24 00:02:36.15

>素戔烏尊居熊成峰而遂入於根國矣

これ本当に朝鮮かな~?
紀伊の熊野の地、出雲の熊野 等、諸説あるらしいが、
どうして熊成峰イコール朝鮮になるのだろうか?!

60:日本@名無史さん
12/10/24 00:05:26.02
ふたなりに誘導したがっているのが件のエロぢぢいだな

61:日本@名無史さん
12/10/24 02:14:20.17
断言法の限界

62:日本@名無史さん
12/10/24 17:58:57.54
>>57
株の入門書なら、九州王朝や河童に書かせた方がいいかもな

63:卑弥呼は満州にいた
12/10/25 09:10:31.12
くだらない 話題の続く 2ch

64:日本@名無史さん
12/10/25 10:27:54.83
>>17

李氏朝鮮の時代とでは治安も道路状況も違う。

65:日本@名無史さん
12/10/25 13:27:58.75
帯方郡から狗邪韓国に到るコースは倭人伝に明記してあるだろ。
船でまっすぐ南下しそれから東へ進んだんだよ。

66:日本@名無史さん
12/10/25 17:39:46.99
実際には東北であるが、倭人伝は東を東南とかいているから、東北に進むのに、東としているわけだ。

67:サガミハラハラ
12/10/25 20:21:29.51
>>64どのようにちがうのでしょうか?
できるだけ具体的におねがいします。

68:日本@名無史さん
12/10/26 00:08:09.20
卑弥呼って、ソープ嬢の源氏名だろ?

69:日本@名無史さん
12/10/26 18:34:29.65
>>66
だから、地形が回転したんだってば

70:メ
12/10/26 23:23:59.57
あした、吉野ヶ里行ってきます。
10/27~10/28は入園無料日だって!

URLリンク(www.yoshinogari.jp)

71:卑弥呼は満州にいた
12/10/27 09:08:11.00
あらため君 けふは楽しい ピクニック
あらため君 お手手つなひで 吉野ケ里

72:日本@名無史さん
12/10/27 09:47:24.91
九州歴史資料館に行くつもりだったが、
吉野ケ里にもちょっと寄ってみようかな。

73:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/27 11:03:52.39
倭国はもと倭奴国。
倭奴國王位継承の女王卑弥呼と新たに王位を授けられた邪馬臺國倭王。

書記は万世1系を主張しているが、王位継承に混乱がある。それが、神功渡海の年に死んだ仲哀と
その帰国時の内戦に隠されている。
王墓とできる古墳の数は、書記の天皇の数より多い。
畿内残留組が負けて、渡海派が天皇位をつないだことになっているが、はたしてそうであろうか?
大和残留倭王と渡海派倭奴國王位継承。


74:日本@名無史さん
12/10/27 20:02:53.09
>>69
方角って呼び方は違っても世界中一緒だから
それだけ大きな変動があったら文書に残ってるだろ

75:日本@名無史さん
12/10/27 20:10:27.25
馬王堆漢墓から出土した地図は南が上になってるな

76:日本@名無史さん
12/10/27 20:42:15.48
海を隔てた東側にある、別種の倭人のクニ、ってのが記述されてるじゃん

77:日本@名無史さん
12/10/28 15:18:21.51
フォッサマグナを見れば回転してるのは明らかだろ?

78:日本@名無史さん
12/10/28 17:06:49.24
そんな大きな変化があれば
○○の大地震以来、方角が変ったと記録に残るだろ
或いは、○○年の○○日より方角が変ったと
方角が変るってそんなにどうでもいいような事だと思うのか?

79:日本@名無史さん
12/10/28 18:11:19.13
地震がなきゃ回転しないのか?
100~200年かけてゆっくり90度回転したとしたら、おまえの言うような記録は残らんぜよ。

80:日本@名無史さん
12/10/28 18:17:40.31
じゃぁそれを証明しないとな
証明出来るの?

あと仮に0.5度ずつ約200年でもいいけど
結構でかいよ
プラス10年で5度だ


81:日本@名無史さん
12/10/28 18:33:57.76
>>80
先に持論の根拠と反論の根拠を示せ。
「結構デカい」の感覚基準も理解でき無いんだよな。
それに、「結構デカい」から、有り得ないのか?そういう考え方は、去年の3.11で淘汰されたもんだと思ってたよ。www

82:日本@名無史さん
12/10/28 18:48:21.91
オレが根拠示すの?

0.5度ずつ動いて約200近くそれが続く
まずありえるかって事じゃね
ありえた例はあんの?
発見されてないって事は考えにくいって事とほぼ同義なんだよ

83:日本@名無史さん
12/10/28 19:03:56.59
>>82
先に言った者が不利、って世界の理屈だなぁw
「こう考えることが合理的です。」って論から始まる話も嘘も、全部一緒だね!味噌も糞も一緒とはこういうことかw

他人の説を否定したいなら、他人も同意してくれそうな根拠が必要だぞ。根拠無く否定するだけなら馬鹿でもできる。

84:日本@名無史さん
12/10/28 19:08:34.33
>発見されてないって事は考えにくいって事とほぼ同義なんだよ

よく見ると、これって笑えるww。
発見され難いから、学問って、必死に考えるんだろ?


85:日本@名無史さん
12/10/28 19:45:16.48
東日本大震災で、気づくほど大幅に方角が変わった場所ってあるんかね?

86:日本@名無史さん
12/10/28 19:51:08.39
90度変るのがそんなに簡単な事だと思ってるの?
先に言うとか、学問とか言う前に、それが記録にも残らずひっそり出来ますなんて
ある日宇宙人がやってきて変更しましたと言ってる事が変らないじゃん

87:日本@名無史さん
12/10/28 19:59:21.32
>>93
記録に残らず、地形が短期間で90度回転するとういう例を示せばいいだけじゃね
そこまで自信あんなら論文なり出てるんだろ
無い物は誰もだせんよ

88:日本@名無史さん
12/10/28 20:11:00.75
無理だという証拠を出せば終わる話だよな?

89:日本@名無史さん
12/10/28 20:15:16.32
悪魔の証明は無理

90:日本@名無史さん
12/10/28 20:17:41.54
>>88

具体的には、どんな証拠がでればいいの?

91:日本@名無史さん
12/10/28 20:26:44.04
実際には東南だから東南と書いているわけだ。素直に東南に進めばいいんだよ。


92:日本@名無史さん
12/10/29 03:09:01.41
何だこれ飛鳥昭雄説かww

93:日本@名無史さん
12/10/29 11:20:56.45
最近は何人か、そうゆう主張をしているよ。

94:日本@名無史さん
12/10/29 16:20:19.99
誰にも知られずに、ある日突然90度変化するって?
もしくは100年~200年かけて90度変化するって?

95:日本@名無史さん
12/10/29 16:39:42.92
「日本列島 90度」で検索してみた
たしかに居るな
只、オレの検索の仕方が悪いのかもしれないけど
やたら、ムーとか占いとか一緒に出てくるHPなんだけど・・・

96:日本@名無史さん
12/10/29 16:47:40.37
畿内から遣使したことが明らかな推古朝でも
「隋書」は倭国の位置を「百済新羅東南」と記してるからなあ

邪馬台国南九州説の人は、推古天皇の頃でも
倭国の都は南九州にあったとしているんだっけ?

97:日本@名無史さん
12/10/29 16:48:27.38

いなかった!
もしくは勘違い



98:日本@名無史さん
12/10/29 17:02:22.59
邪馬台国南九州説の人は少ないでしょ。



99:日本@名無史さん
12/10/29 17:16:14.36
聖徳太子、天多利思比孤説は、昔から別人説が根強い。

隋書と記紀の記録が全部食い違っている。
そもそも、国書の代表者も、推古帝なら食い違っているなど。

まだ文字の普及が完全でなく、余り記録が残っていなかったのかもしれないが。


100:日本@名無史さん
12/10/29 17:21:27.65
時代の新しい隋書に間違いがいっぱいあるなら
古い時代の倭人伝はなおさらあやしいなあ
それから厩戸皇子の事績とされるもののいくつかは
蘇我馬子がやったんじゃね

101:日本@名無史さん
12/10/29 19:38:31.39
元々、魏志倭人伝の章なんてオマケなんじゃないの
誰もそんなとこ気にしないって部分

102:日本@名無史さん
12/10/29 20:10:48.04
>>100
> 時代の新しい隋書に間違いがいっぱいあるなら
> 古い時代の倭人伝はなおさらあやしいなあ


日本には馬がいないと書いている点が特にあやしい。



103:日本@名無史さん
12/10/29 20:25:21.73
元々日本にいたならともかく
生きてる馬を連れてくるのは大変なんじゃね?
とはいっても、最低5世紀位には連れてきてはいるのだろうけど

104:日本@名無史さん
12/10/29 21:13:23.00
少なくとも日本は縄文時代の貝塚からは、
馬の骨が出てきている形跡はないんで、
野生でいた可能性はなかろう。

105:日本@名無史さん
12/10/29 21:33:07.21
ふーん、
じゃあ、どんな動物の骨が出て来てるの?それ以外の動物は日本にいなかったってことでいいの?

106:日本@名無史さん
12/10/29 21:35:42.36
ふーん、どんな動物の骨が出て来てるの?それ以外の動物は日本にいなかったってことでいいの?

107:日本@名無史さん
12/10/29 21:38:58.34
ふーん、どんな動物の骨が出て来てるの?
それ以外の動物は日本にいなかったってことでいいの?

108:日本@名無史さん
12/10/29 22:19:27.86
こいつはなんで、この程度で動揺してんの?

109:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/29 22:28:15.46
238年には馬がいなかった、239年に馬を輸入したら、馬はいないとはいえない。
”牛馬”と書いて”ウマ”と読む。
最初に輸入された動物を”うま”と読んでしまった。
次に”牛”が輸入されたとき、”ウッ”っと声が詰まってしまった。
仕方がないので”牛”を”ウの主”=ウシと呼ぶことにした。


110:日本@名無史さん
12/10/29 22:56:42.51
中国人に動物見せると全部食べちゃうから、だいじなのは隠してたと思うよ

111:日本@名無史さん
12/10/29 22:57:06.96
唐松山にザブトン1枚~!

112:日本@名無史さん
12/10/29 23:25:47.73
そそ中国人に動物見せると全部食べちゃうから、だいじなのは隠してたと思うよ

113:日本@名無史さん
12/10/29 23:51:32.30
スサノオが馬の皮を剥いでるし、アマテラスやスサノオのころは五穀の誕生のころの話だから
日本に馬がいなかったら、高天原はどっか他所の国になっちまう
探せ!馬の骨!
因みに、東北の「おしらさま」伝説に、「馬の皮剥ぎ」と「機織」が共通するエピソードがあるらしい


114:日本@名無史さん
12/10/30 04:51:09.65
古事記は8世紀初頭だから
馬が輸入されてから200年位経ってる可能性がある

115:日本@名無史さん
12/10/30 05:40:56.92
>>113

> スサノオが馬の皮を剥いでるし


高天原=任那日本府と解釈することも可能。

116:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 10:57:16.94
みんなわかっていないなあ
倭人伝がなぜ存在するか?この意味がわかっていない。
東夷のなかに特別にたてられた条項として倭人伝がある。つまり、魏・晉にとっての観心寺
として
倭人伝は存在するのである。

神功渡海とは、晋の冊封体制への参加、半島で警察軍として存在する。
そこへ至るまでの経過が書かれているのが倭人伝である。
つまり、魏の関与により、邪馬台国ことヤマトは倭国の盟主となり、西晋滅亡後は、半島の盟主となる。
盟主となったヤマトは巨大古墳造りに没頭し、高句麗に敗れるところとなる。

ド田舎の邪馬台国が倭国の盟主となるまでを描いたのが倭人伝である。
この間に、牛馬の輸入活用は必須なのだ。


117:日本@名無史さん
12/10/30 10:58:44.92
観心寺って何宗すか

118:日本@名無史さん
12/10/30 11:07:00.82
やっぱ唐松山のザブントとれ!

119:日本@名無史さん
12/10/30 11:14:37.25
つーか唐松山にしては上の文章はよく書けてると思うけどな
3世紀当時の半島はいくら「朝鮮にいた」が頑張ったとしても
小国乱立状態で邑君レベルの首長が大勢いた状態
倭国の方が国としてのまとまりや派兵力はあったと考えてもいいかもしれない
とすれば晋は倭国に半島の警察力を期待したというのは考えられることだな

120:日本@名無史さん
12/10/30 11:15:23.54
半島の盟主にはなれないから、東進し、列島の盟主へと転換した。

121:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 11:21:04.24
共立女王卑弥呼は、乱のあるところに立てられた。
そして、従わない国々の平定中に卑弥呼・男王と相次いで死ぬ。
時代は、庄内式土器が九州に持ち込まれた時期である。
この時期を書紀で設定するのであれば、景行の九州遠征しか存在しない。
つまり、ここに景行を設定できるか?に尽きる。

この場合 崇神は2世紀末へ引っ越す必要がある。
崇神5、6年疫病=後漢193年冷夏飢饉=新羅192、3年倭人大餓。ここまで引き上げることができる。


122:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 11:24:00.17
任那建国 三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.…己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.
其乃仇衝失位去國.…自建安四年己卯(209年)始造.逮今上御圖三十一載,大康二年丙辰.凡
八百七十八年.…國亡之後,代代稱號不一.新羅第三十一,政明王卽位.開耀元年辛已.號爲金官京.
置太守.
欽明天皇二年(五四一)四月◆夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)伽耶に援軍を送る。
魏志東夷伝 238年には、狗邪韓国(金官伽耶、任那)は存在する。
つまり、任那からの朝貢はこれ以前でなければ成立しない。
239年以降の半島は魏が管理する。


123:日本@名無史さん
12/10/30 11:30:25.97
魏の終わりの頃は、半島をなんとか統治する形にもなったが、
晋になってからは、そうも行かなくなって来た。
まあ、晋自体も命脈尽きるわけだが。

124:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 11:40:25.73
仲哀9年神功渡海 是以。新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
神功渡海の記事を見てわかるとおり渡海時に武力を使える状態ではない。
にもかかわらず、新羅は倭国に調(税)を納めるようになる。
この調の大半が“鉄”である。つまり、半島南部の唯一の王である新羅(辰王)が代表になっている。
考古学で見れば、桜井茶臼山から椿井大塚の時代になる。
三角鏡と大量の鉄器副葬。三角鏡に彫られた“景初3年・正始元年”銘はその根源がそこにあることを示す。


125:日本@名無史さん
12/10/30 11:47:24.51
>>121
中国が飢饉だから日本列島も飢饉という発想、おかしくないですか
現代でも大陸の自然災害が日本に連動するというのは、台風くらいなものだし
中国で干ばつだから日本も干ばつというのは、無いと思うよ

126:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 12:14:03.32
>中国が飢饉だから日本列島も飢饉という発想、おかしくないですか

だから、同じ時空で新羅が同じことを言っている。
そして、考古学は、弥生後期後半の出来事として何を言っているか?
唐子・鍵遺跡の放棄は?
近江伊勢遺跡は?(ここは大物主の居住区)
青谷上寺地遺跡の人骨は食人をあらわす。




127:日本@名無史さん
12/10/30 12:15:48.95
>>117
高野山真言宗

128:日本@名無史さん
12/10/30 12:28:38.63
>青谷上寺地遺跡の人骨は食人をあらわす。

嘘こくでねえ

129:日本@名無史さん
12/10/30 12:53:13.44
>>120
> 半島の盟主にはなれないから、東進し、列島の盟主へと転換した。


戦国時代の佐竹が、強大な後北条と戦うのは不利と考えて、東北地方への進出を狙ったようなもんだな。

130:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 13:19:46.75
歴史時代の気候変動に関する研究の展望
URLリンク(www.geog.or.jp)

年輪降水量
URLリンク(osaka.yomiuri.co.jp)

残念ながら下の”年輪降水量”のページがなくなったみたいだ。
このグラフを見ればその時代(193年)が日本でどのような気候であったかが目で見られたが・・・

>青谷上寺地遺跡の人骨は食人をあらわす。
人骨が分解されて一括にして捨てられる。これは何を表すか?
考察してごらんよ。
弥生後期後半に放棄された遺跡は多い。その中で青谷上寺地遺跡は放棄されていない、ただ洪水で人骨放棄直後に埋没する。
半島において、飢饉に食人はつきものである。
大陸中国において四足で食さないものは机だけ。

後漢書志第十五 五行三 大水 水變色 大寒 雹 冬雷 山鳴 魚孽 蝗
庶徵之恆寒。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。 [一]袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。讖曰:『寒者,小人暴虐,專權居位,無道有位,適罰無法,又殺無罪,其寒必暴殺。』」
. . . . . . . . . . . . . . . . . .
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。 [一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」
. . . . . . . . . . . . . . . . . .
ここで、「適罰無法,又殺無罪,其寒必暴殺。」「刑罰慘也。」は何をあらわす?

答えは、「食人」である。


131:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 13:25:11.51
>晋になってからは、そうも行かなくなって来た。

266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。仲哀9年 渡海。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
東夷九種は東夷9国となる。
280年。281年。282年。286年馬韓等。287年。288年。289年。290年。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。東夷校尉を離れた文淑を東夷が尋ねる。
304年 建武元年六月 東夷校尉崔毖,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
308年 永嘉の乱始まる。
312年 新羅(神功38年)倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず?
316年 西晋滅ぶ。 仁徳4年 課役の停止
317年 倭は朝廷(崔毖)に従わない。奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年丁丑
319年 太興2年 鮮卑慕容廆襲遼東,東夷校尉、平州刺史崔毖高句驪。


132:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 15:05:01.15
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。
291年 永平元年三月東夷校尉文淑, (改元元康)是歲,東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)

伝・京都府京田辺市上狛古墳出土・元康元年銘入り対置式神獣鏡
伝世品 291年製作の鏡?
呉が滅び西晋が起こった直後のもの。 神獣鏡模様は上の二面とまったく同じ。
多数の滑石臼玉(かっせきうすだま)とガラス玉を伴う。 副葬された年代は400年代以降か?

291年の東夷に倭国は含まれる。


133:日本@名無史さん
12/10/30 15:18:26.88
>>129
当初は、むしろ半島進出の方を強く望んでいただろう。特に鉄資源。
東へは、土地と人的資源の利用。

134:日本@名無史さん
12/10/30 15:43:58.46
>>133

鉄製の剣があるとないとでは大違いだからね。

135:日本@名無史さん
12/10/30 15:51:24.07
鉄っていっても現代と同じもんでもなし
それに現状でも鉄の遺物が発見されるのでって
福岡の次に福井じゃなかったけか?
最初の本格的な製鉄と言われてるのも広島とかそっちの方だしな
出雲のタタラ製鉄がどう発展したかだろうな

136:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 16:21:46.79
欽明天皇二年(五四一辛酉)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔(24代眞興王)元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代
孫仇衝王之降于當國也.
・・・己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年(210年) 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ
仇衝朝末〔欽明天皇二年541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。

崇神世とは、崇神5年=後漢193年(新羅192年)~新羅209年=崇神58年であるから、
崇神世 187年~220年におさまる数字の中にしか存在できない。
そして、“鉄”を求めて、吉備などの国々が垂仁の元へ集合する。
景行は九州へ遠征する←3世紀半ば、北部九州に畿内の庄内式土器が持込まれる。


日本の製鉄は、任那(金冠伽耶)を失った6世紀半ば以降である。
半島の鉄が流入する限り、国内での製鉄は必要がない。


137:日本@名無史さん
12/10/30 17:03:17.84
>>135
熊本と比較できるのか?

138:日本@名無史さん
12/10/30 17:07:28.92
>>137
何を比較したいのか分らん

139:日本@名無史さん
12/10/30 17:43:53.43
弥生時代の鉄の出土物は、博多湾あたりを中心にして、
ほぼ距離に反比例して、鉄の出土が減っていく。

4世紀から5世紀、出雲を中心とする山陰で、
製鉄が始まり、古墳時代に一気に鉄の出土が増加する。

140:日本@名無史さん
12/10/30 17:49:01.94
違うみたいよ

福岡の次は福井
確かにその次位に熊本と大分はくるけど、福井のが多いみたい
後、意外と長野、千葉も多い
基本的に発見出来てるかだからね

141:日本@名無史さん
12/10/30 18:05:27.32
福井? 丹後の間違いじゃね

142:日本@名無史さん
12/10/30 18:10:39.53
福岡県で鉄器が1000近く出ているわけだが、
福井の数値が見当たらんな。

資料があったらよろしく。

ただし、鉄滓を除く。
福岡では鉄滓は遺跡の半数程度から出るので、
カウントされていない。

143:日本@名無史さん
12/10/30 18:17:40.94
福岡、佐賀が鉄の出土が多いのは、大陸からの鉄の輸入が
容易だったからだろう。

熊本も非常に多いが、この鉄は、唐津経由で入手したものか、
それとも、天草長崎経由の航路を持っていたのか。

位置的には熊本から離れている唐津が、
同じ肥の国であるのは、偶然ではないだろう。

144:日本@名無史さん
12/10/30 18:22:32.96
横からだが、福井というか丹後も合わせた若狭湾沿岸と考えた場合は
鉄器出土量は多い 
古代にあっては県境はそれほど意味がないし
ただ丹後と嶺北は別集団のような感じだが
増えてくるのは弥生後期からだな

これは日本海を渡って半島と交渉する独自ルートか壱岐あたりで
鉄を入手するルートがあったためだろう
資料は広島大のもの
URLリンク(iup.2ch-library.com)

145:日本@名無史さん
12/10/30 18:23:07.02
>>143

> 熊本も非常に多いが、この鉄は、唐津経由で入手したものか、
> それとも、天草長崎経由の航路を持っていたのか。


おそらく唐津ではないか。

146:日本@名無史さん
12/10/30 18:30:43.23
弥生後期に航路が開発されて、
日本海側沿岸に渡るルートが開発されてもおかしくない。

その過程で発達したのが、出雲や丹後かもしれないな。

特に重要なのは、出雲付近で、製鉄が始まったこと。

交易の過程で、人の出入りは度々あっただろうが、
製鉄までこぎつけられたのは、鉄鉱石の存在と、
豊富な木炭原料に恵まれたからだろう。

147:日本@名無史さん
12/10/30 18:38:20.80
例えば丹後の中期後葉の奈具岡遺跡から総量8kgあまりの鉄の出土があり
遺跡単位で言えばこの時期としては最大級だろう
これらの鉄がもたらされた理由はおそらく玉製品の見返りとしてで
日本海沿岸は玉製品工房が連なる形になっていた
鉄は玉に穿孔するための鉄錐その他に用いられた

URLリンク(www5d.biglobe.ne.jp)

148:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 19:10:17.05
> 熊本も非常に多いが、この鉄は、唐津経由で入手したものか、
> それとも、天草長崎経由の航路を持っていたのか。

3世紀に入ると、鉄の輸入ルートは倭奴国だけでは管理できなくなっている
呼子から西へのルートは管理できていない。
つまり、倭奴国の最大のライバルは熊本。
この時代に日本海側ルートも確立している。その中間に青谷上寺地遺跡がある
多分渡来人が中心になっている。そして丹後に気比大神がくる
ホ34130 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり

この直後にみまな建国が有り、ヤマトが鉄器分与の中心となる。
垂仁(216~239年)
魏使の目にとまった、邪馬台国である。


149:日本@名無史さん
12/10/30 19:16:39.63
筑紫国と、肥国の戦いが、
吉野ヶ里から鳥栖の遺跡に残る、戦で亡くなった遺体となって、
痕跡を残しているといえるだろう。

150:日本@名無史さん
12/10/30 20:05:25.05
ヒント:砂鉄

わかった?

151:日本@名無史さん
12/10/30 20:56:53.96
九州中部は阿蘇の褐鉄鉱と大分の菱鉄鉱だろ、たたら製鉄以前の製鉄
半島からの職人さんたちの職場だ


152:日本@名無史さん
12/10/30 21:51:48.62
たたらも、高品質のケラ(玉鋼)を少量作る作る場合と、中級品のズク(銑鉄)を作る操業がある。

元岡遺跡は、中品質の銑鉄を大量に作る高炉。

目的によって適する手法が変わってくる。

153:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/30 22:02:28.48
西区の元岡・桑原遺跡群の元岡古墳群(7世紀中ごろ)で西暦570年に製造したことを示すとみられる
「庚寅(こういん)」など19文字の銘文が象眼という技法で刻まれた鉄製の大刀が出土したと発表した。

元岡遺跡の製鉄も541年を超えることはできないだろう。
欽明天皇二年(五四一)四月◆夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。


154:サガミハラハラ
12/10/30 22:08:46.10
熊本の鉄は阿蘇山北谷のリモナイトを原料としています。

155:日本@名無史さん
12/10/30 22:39:39.56
>>151
古代の朝鮮半島では褐鉄鉱などによる製鉄は行われていなかったらしい。

156:日本@名無史さん
12/10/30 22:39:43.13
大陸と違って日本には鉄器、青銅器ほぼ同時期(やや鉄器の方が早い)に入って来ている
鉄器は青銅器にような威信財ではない、見た目も高級感がなく、農民も使う石器に代わる実用品だ
九州上半分での出土状況を見てもわかるように、中小集落で遺棄された状態での発見が多い
たたら製鉄が本格化する以前は、国が流通を管理している状態ではない


157:日本@名無史さん
12/10/30 22:49:12.73
鉄器と銅器が同時にやってきたのはなぜか?
それは、それまで、日本海を渡る船がなかったということだ。
少なくとも、金属器文化を伝えるほどの大規模な交流がなかった。

では、だれば日本に鉄器と青銅器を伝えたのか?
それが徐福の集団だ。


158:日本@名無史さん
12/10/30 22:53:40.15
雑学だけは豊富だなぁw
で、露天掘り?
こういう点にも注目しないと生かされない。

159:サガミハラハラ
12/10/30 23:18:15.02
熊本のリモナイト(褐鉄鉱)は今でも露天掘りです。
地下から鉄分を含んだ水がわいてきて、それが参加して堆積しているのです。
田んぼの土もリモナイトでできています。

160:日本@名無史さん
12/10/30 23:20:54.04
>>157
>それまで、日本海を渡る船がなかったということだ
んなこたあなかろ、日本の黒曜石は石器時代に海を渡ってるし、縄文時代も往ったり来たりしてるし


161:日本@名無史さん
12/10/31 00:24:48.06
古代史のサイトで、有名な人で、質問に必ず答えてくれる博識な方のやってるサイト、どこですかね

162:日本@名無史さん
12/10/31 00:39:01.76
>>148
「分与の中心」は、昔ながらの関西病。

163:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/31 11:22:14.14
>分与の中心」は、昔ながらの関西病。

書紀の主張する年代だ。

崇神天皇 189年~216年 211年みまな建国 
垂仁天皇 217年~239年 216年みまなより朝貢
伊支馬=イクメ=垂仁、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守。
景行天皇 240年~261年 邪馬台国倭王
成務天皇 262年~265年   
仲哀天皇 266年~274年 
神功皇后 275年~343年 渡海が縁で新羅から調(税)が納められる。
応神天皇 344年~384年 
仁徳天皇 313年~399年 神功三九年大歳を元年とする。

任那建国は崇神末ころであり、魏が半島を管理するそれ以前だ
つまり、魏はみまな建国に関与した邪馬台国に倭王位を授ける。
倭奴国女王卑弥呼ではこころもとないということだ。


164:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/31 11:25:41.86
時空の設定
神武 土器で第Ⅴ様式の始まり。
崇神 新羅192,3年を同5,6年とする。(後漢193年を同5年とする場合は、開化の治世が
1年延び、崇神の治世が1年減る。)
崇神6年 弥生後期後半 唐古・鍵遺跡などが放棄される。
崇神11年 異俗多帰 2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
崇神12年 寒暑失序。疫病多起。百姓蒙災。この記事は後漢183年~193年にあたる。
崇神58年頃 任那(狗邪韓国、金官伽耶)建国。新羅209年、三国遺事211年。
考古学:3世紀初めの大型建物=珠城宮。中期は日代宮。
垂仁末を239年の朝貢。伊支馬=イクメ=垂仁、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守。
景行時代 大倭は伊都国に1大率を置く。壹與=五百野姫。庄内式が九州へ。
箸墓は最初の大王墓、布留0式。
神功元年のあづないの罪は、273年の日食。
326年 神功52年七支刀。
仁徳87年 399年を以て巨大古墳の築造は終わる。
履中6年2月の記事を404年帯方界での敗戦、戦士の捜索記事とする。
允恭3年 新羅の医師は、413年高句麗、倭国の東晋への朝貢の後。


165:日本@名無史さん
12/10/31 12:08:57.50
>>163

> 伊支馬=イクメ=垂仁、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守。


この人が健康果実を入手したのは済州島ではないかという説があるなあ。

166:日本@名無史さん
12/10/31 12:48:58.66
あれは果実を持ち帰ったんじゃないよ、新しい暦だ。

167:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/31 14:39:51.03
健康果実は、書紀の翻訳ミス。
たしかに、新しい種籾や果実のなる木を取り入れようとはした。
その隣にある文字の翻訳ミス。

ホ37202      あくるハル ヤヨヒにかえる
ホ37203      タシマモリ トキシクカグツ←時至9ヶ月24日後
ホ37204      フソヨカゴ カクのキヨサホ
ホ37205      カグヨサホ もちきたるマに
ホ37206      キミまかる ミヤゲなかばを
ホ37207      ワカミヤえ なかばをキミの
ホ37208      ミササキに さゝげもふさく
ホ37209      これゑんと はるかにゆきし
ホ37210      トコヨとは カミのかくれの
ホ37211      をよびなき フリをなじむの
ホ37212      トトセぶり あにをもひきや
ホ37213      しのぎゑて さらかえるとは

田道間守は出発(垂仁90年)から10ヶ月弱で帰国だ
だから、あくる春9ヶ月24日後であり、
向こう(魏)では皇帝の死は暦に及ばないのに、垂仁の暦は10年が経過と書いてある。


168:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/31 14:43:12.02
カクのキヨサホ  果実の木4さお
カグヨサホ   果草4さお


169:日本@名無史さん
12/10/31 19:27:41.95
即位元年の干支は参考値に留めた方がいいよ

170:日本@名無史さん
12/10/31 20:45:44.84
邪馬台国は山口県

171:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/31 20:46:44.52
倭国の暦法と時刻制度
URLリンク(www.furutasigaku.jp)
古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。

これが、古代の暦なのだ。
例えば中国では、BC154年に朔旦冬至を置き、BC153年からこれと同じまわしを使う。
しかし、狭義(365.2422日)の朔旦冬至は少しずつ移動する。その度に潤年を動
かすのは、しんどい。よって、中気という考えを取り入れ、この閏のまわしの束縛から
のがれる。
日本の暦は、古い状態のまま使われ続けるのであるが、神武以前から使われている暦は、
仲哀天皇元年(壬申一九二)閏十一月乙卯朔。この数字の延長線上にある。
この暦は、神功・応神紀までであり、
仁徳天皇八七年(己亥三九九)春正月戊子朔。
仁徳天皇八七年(己亥三九九)冬十月癸未朔。この潤年を越すことができない。
この暦は、
安閑天皇元年(甲寅五三四)閏十二月己卯朔。から過去にたどることができる。
つまり、仁徳紀に狭義の朔旦冬至を求めることができる。
続く


172:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/31 20:49:03.63
中国の暦は、1年目をBC153年に置いている。
57年・58年・59閏・60年・61年・62閏・63年・64年・65閏・66年・67閏・68年
69年・70閏・71年・72年・73閏・74年・75閏
このまわしが
418年・419年・420閏・421年・422年・423閏・424年・425年・426閏・427年
428閏・429年・430年・431閏・432年・433年・434閏・435年・436閏
このあたりまで使われ、19年7潤が守られていた。19年7潤を積み上げれば
1年目をBC153年に置いていることが把握できる。

それを元に日本の暦を考えると
仲哀天皇元年(壬申一九二)閏十一月
仁徳天皇八七年(己亥三九九)◆八十七年春正月戊子朔
仁徳天皇八七年(己亥三九九)◆冬十月癸未朔 潤年である。(閏9月まで)
安閑天皇元年(甲寅五三四)◆閏十二月己卯朔

仲哀元年閏十一月は、仁徳八七年を超えることはできない。
安閑天皇元年(甲寅五三四)◆閏十二月の暦は、仁徳八七年をクリヤーする。
であるならば、仁徳天皇紀に求めることができるはずである。
続く

173:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/31 20:50:50.73
“朔”は29.530597日の倍数である。
“年”は365.2422日の倍数である。
この“年”と“朔”の倍数が整合するところに、狭義の“朔旦冬至”が存在する。
BC153年 朔旦冬至の翌春正月元旦(102243.557)
313年 仁徳元年春正月,丁丑朔 (272104.5402)
325年 仁徳13年閏12月。(朔旦冬至の年)
326年 仁徳14年1月壬辰朔(推定)(276829.4362)
安閑天皇元年(甲寅五三四)◆閏十二月己卯朔壬午。
535年 安閑二年春正月,戊申朔壬子 (353166.0372)
延暦三年(七八四)十一月戊戌朔。勅曰。十一月朔旦冬至者。是歴代之希遇。(閏9月の年)
785年 延暦4年1月丁酉朔(444475.1384)
BC153年から785年までは342231.581日で11589.05月936.999年である。
BC153年から326年までは、174585.9日で5912.034月478.000年である。

つまり、安閑元年閏十二月の暦は、326年 仁徳25年閏12月から数えられる暦である。
もう少し正確に言えば、313年神功皇后摂政三九年(己未二三九)大歳己未。この年を
仁徳天皇元年(癸酉三一三)元年春正月丁丑朔己卯。とする暦である。
その狭義の朔旦冬至は325年 (仁徳13年閏12月)、にある。


174:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/31 21:08:51.87
つまり、暦のはじめが326年仁徳14年にあるから、この数字は動かすことができない。
では、引き伸ばされた神武から成務までの暦はどうか?
仲哀天皇元年(壬申一九二)閏十一月の暦は、仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)に閏12月が来る。
その数字上に、垂仁天皇元年(壬辰前二九)十一月壬申朔。の年が来る。(閏12月の年)
垂仁天皇二年(壬辰前二八)二月辛未朔。の前に閏月がある。
垂仁天皇元年 ホ35012 ミヨのハツ アキアにをくれ フユおさめ(秋、太陽に遅れが発覚、冬至日の修正)
垂仁天皇元年は、暦の最終年であり、閏12月の年なのである。

つまり、この数字から、古代の暦の使い方を推理すれば、19年7潤の空白年を何度差し
込もうとも、太陰暦の本質に変わりは出ない。


175:卑弥呼は満州にいた
12/10/31 21:35:24.32
唐松山の本質に変わりはない。

176:正統派論客
12/10/31 23:48:35.27
唐変木は相変わらず進歩しとらんの~。

177:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/31 23:52:37.90
いや~ 朝鮮氏には感謝しているんだよ。
ネット朝鮮史を持ち出して、時空を少し変えなければ、各史が整合しないことを宣伝してくれたから
非常にやりやすくなった。
半島の歴史だけなら奈勿大聖神帝紀に合わせて、引き下げれば、各書が整合することを言ってくれたから
日本書紀に整合させるのであれば、奈勿大聖神帝紀の干支1巡引き上げて整合させれば、日本書紀と整合する
ことを言いやすくなった。
ほんと感謝。


178:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/10/31 23:55:21.37
書記 より19*n回の空白年(増し)を差し引く、正朔である。19年=6940日=1章が基本。
天皇   西暦    増し 
神武天皇 42年~63年 3章 手研耳による空白年を含む。
綏靖天皇 64年~77年 1章
安寧天皇 78年~
懿徳天皇    ~93年 3章 安寧、懿徳は同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年~119年 3章
孝安天皇 120年~145年 4章
孝霊天皇 146年~164年 3章
孝元天皇 165年~183年 2章
開化天皇 184年~188年 3章-2年(増55年) 開化、崇神は同じ暦
崇神天皇 189年~216年 2章+2年(増40年) 
垂仁天皇 217年~239年 4章
景行天皇 240年~261年 2章
成務天皇 262年~265年 3章 成務、仲哀は同じ暦の可能性が有る。 
仲哀天皇 266年~274年 0章
神功皇后 275年~343年
応神天皇 344年~384年 

仁徳天皇 313年~399年 神功三九年大歳を元年とする。
履中天皇 400年~405年 
反正天皇 405年~411年
允恭天皇 412年~453年 同4年盟神探湯。 


179:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/01 00:29:18.17
神武元年がどこにあるか理解できたか?
それは、弥生後期の始まるところであり、第Ⅴ様式土器の始まりでもある。
つまり、畿内全体が大きく動くのだ。
ホ30020 ナガスネヒコは ヤマサキに カワフネこはむ モノヌシが うたんとすれば
ヰツセミコ をそれタガより ゆくツクシ クシミカタマは ヲシクモと ナガスネうてば
にけゆくを をひてカハチに とゝまりて タケチノコリと アウヱモロ ヤマトのソフに
ふせがしむ モノヌシかえり ヲシクモは カハチにゆきて ヲシホより カスガをまねき
ヒラヲカの ヤシロまつりて カミとなる ツクシのタネコ モをおさめ ヨカミまつりて
アウヱモロ カワチをかねて おさめしむ ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを
つくりかえ コシネのクニも サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの
クラヒなる

大物主は近江だ。近江の伊勢遺跡の繁栄は、この弥生後期の始まりであり、その衰退は、後漢193年にある。


180:日本@名無史さん
12/11/01 01:28:17.18
>>178
倭の五王はどう考えるの

181:日本@名無史さん
12/11/01 01:37:53.28
大物主は近江とかw

182:日本@名無史さん
12/11/01 04:30:48.72
>>178
あなたの考えだと、倭の五王のうち、讃・珍・済の3人の王が允恭天皇ということになる

183:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/01 16:06:47.90
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。

崇神天皇 189年~216年 戊寅(186年?)・垂仁天皇 217年~239年・景行天皇 240年~261年 
成務天皇 262年~265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年~274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。 
神功皇后 275年~343年 
応神天皇 344年~384年 甲午・・・366年甲午 軽島の明宮=秋津遺跡(3世代分)
365年 応神22年 難波大隅宮
仁徳天皇 313年~399年 丁卯・・・399年丁卯・・・難波高津宮 
履中天皇 400年~405年 壬申・・・404年壬申・・・404年帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年~411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年~453年 甲午・・・428年?  413年東晋へ朝貢
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。倭王賛から珍へ
安康天皇 454年~456年 珍・済  元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年~479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
雄略天皇十四年(庚戌四七〇)正月。身狹村主青等共呉國使。
清寧天皇 480年~484年  
顕宗天皇 485年~487年  
賢天皇 488年~498年  
武烈天皇 499年~506年
継体天皇 507年~533年 丁未・・・(499年?)

倭の五王は、難しいぞ。
まだ正解は得ていないのだが 書くか・・・

184:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/01 16:26:00.93
倭の五王が、なぜ難しいかというと、
神功渡海の年に仲哀が死ぬ、渡海軍の帰京時に内乱となる。
まず、このへんの記事がない。
つまり、筑紫の女王壱与のあとはだれか?
ヤマト倭王を引き継いだのはだれか?

内乱以後の情勢は、
河内の画文帯神獣鏡勢力は衰退し、かわって、摂津方面に大型前方後円墳に三角鏡の勢力
が勢いを付ける。
では、秋津遺跡は誰の宮か?3世代は欲しいところだが、インギョウ4年のクガダチで書き換えられている。
大王墓とできる大型古墳は天皇の数より多い。
例えば
国内をヤマト倭王系が、
海外を倭奴国王系が引き継いで、両勢力が河内や摂津に宮を構えた場合どうなるか?

まあ、むずかしい。


185:日本@名無史さん
12/11/01 17:22:53.19
允恭天皇はかなり頑張った王様のように思える。

186:卑弥呼は満州にいた
12/11/01 17:33:52.32
唐松山の投稿は、まあ、むずかしい。

187:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/01 18:03:32.67
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。
これ以後は空白だ。
もし、2王体制で、片方の記事しか掲載されず、允恭天皇の世継ぎも即位していなかったら?
倭王に空白はない。
2王体制は十分考えられる。


188:日本@名無史さん
12/11/01 18:09:56.23
>>187

> 倭王に空白はない。


飯豊女王みたいに、「天皇代行」でしのいだ可能性も否定出来ない。

189:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/01 18:58:15.03
>まあ、むずかしい。

卒論用の出血大サービスだから文句を言うな。
暦なんざ“1章を19年7潤とし、6940日。
4章につき、1日を減ずる。これで、1年平均365.25日の暦の完成。
この19年を横に並べ、縦に積み上げれば、1000年くらい簡単に積み上がる。
精査したければ、1ヶ月29.5306日でも使って横に表示させれば良い。

つまり、私の書き込みは、誰でも再検証できる。
暦を使用した日本書紀の分析はほとんどされてこなかったから、卒論にもできるということなんだよ。
まあ、ネックは百済王家だ。
奈勿大聖神帝紀 (訂正 前回の記載は数字が間違っているかも?)
307年丁卯 赤土(赤兎:精妙)二月先今儒礼崩 九月以康世女千康妻夫余太子吉须(367年)
323癸未・神功四九己巳・7年(AD383)正月里子(水羊=癸未)祭を行った。千熊長彦
☆338戊戌・神功六四甲申・8年(AD384)正月牧神(木神=甲申)祭を行った。夫余谨须殂
枕流立其母阿尒执政遣千世吊之
阿花王は年“年少”で辰斯に王位を奪われる。阿花王の年は年少(5歳以上15歳以下)とみる。

近仇首が嫁をもらうのが307年(367年) 翌年枕流が生まれたとして、その20年後に阿花が生まれる
338戊戌・神功六四甲申時点で、10歳の阿花となる、年少である。
(367年)に嫁をもらって、(AD384)では、阿花はよくて乳幼児か? 年少にはならない。

書紀の主張を正しいとすれば、奈勿王は引き上げられるしかない。
この場合、広開土王碑の文言は正しいとなる。
日本書紀と広開土王碑は正しい。

190:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/01 19:12:13.33
>飯豊女王みたいに、「天皇代行」でしのいだ可能性も否定出来ない。

むむ、想定外だ。

これまで、暦は履中までは、だいじょうぶと言われてきたが、仁徳紀に朔旦冬至を設定できる
ということは大きい。
神功・応神紀に仁徳87年をつなぐ必要がない。
神功・応神紀は74年差であり、120年差の百済本紀は書紀の干支を使用している。

191:日本@名無史さん
12/11/01 19:29:23.22
記と紀で天皇崩御の年がまったくちがうのに、紀の年号をいくらいじっても仕方あるまい。

192:日本@名無史さん
12/11/01 19:32:51.65
干支の元年と、年齢は、適当なんだよ。舎人親王君も太安万侶君も

193:日本@名無史さん
12/11/01 19:47:26.50
>>191
エロまともなことゆうひともたまにはおるもんだな

194:日本@名無史さん
12/11/01 20:29:09.06
オナニーばっかりしてないで、卑弥呼の話しようぜ

195:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/01 21:02:01.95
>>191さんへ
>>183な。

>>192さんへ
書紀にはなぜ干支が振られているか?
半分は嘘をつくときのアリバイとしてある。
そして、残りの半分は、正しい年を割り出すために存在する。

正しいかどうかを判断するために、考古学がある。
だから、纏向から、垂仁・景行を追い出した編年は間違いである。
もうすこし正確に言えば、纏向の始まりは2世紀末であり、2世紀末に崇神が居る。


196:レス長たらし毘古
12/11/01 23:26:10.55
>>178
>開化天皇 184年~188年 3章-2年(増55年) 開化、崇神は同じ暦
>崇神天皇 189年~216年 2章+2年(増40年)

えーと、これに関しては横槍とか批判とかでなく、単なる感想ですので流して
頂いてもちろん構いませんが、古事記を読むにつれ、「またの名を」と言う
表記が毎回とても気になります。
で、そこでなんですが、この「またの名を」の読み方を、こう考えてみるのは
如何だろうか?と言う(またしても思いつきの架説で申し訳無いが)のは
どうだろうか?

つまり、Aの立場、Bの立場、Cの立場から見て、「その人」は、当然
最低でも合計三つ以上「多様な名前」がありうるワケで。古事記での顕著な
例は、大国主などが、「またの名」のスーパーヒーローだったりします。が。

このレトリックは、まず「三つの立場」から見た「一人の人物」の「複数名」
と言う方法論が用いられます。(これが大国主パターンね)
そして、もしそれとは真逆のケースがあるとしたら?と言う架説ね。古事記に
おける、実に偉大にしてヤヤコシイ人物に、時々このレトリックが用いられて
おるんじゃなかろうか?と邪推するワケですよ。

その一種が先日私がここでも触れた、「役職説」で解釈される人々、
(例:神武or武内宿禰orヤマトタケル、等々)もそうなのですが、これとは
また少し異質な物として、崇神&開化も、このレトリック(の真逆)が働いて
おるんじゃなかろうかと。。。

197:レス長たらし毘古
12/11/01 23:41:30.17
つまりですな。

【一類】その人の持っている「またの名」を、全て「その人だよ」と明記して
全部紹介しているパターン・・・これが大国主のパターン

【二塁】「またの名表記はわからない」が「どうやらこの人一個人」の逸話を
全て紹介しているパターン・・・これが神武やヤマトタケルのパターン

こう考えてみるワケですわ。でですね。今回ピックアップした崇神&開化
の場合ですが、これをですね「同一人物」の「またの名A」&「またの名B」
であったと架説するんですわ。
ま、しかしこれだと、基本的に想定年代は「短く」なる可能性が高いので、
私個人はコレにはあまり乗り気ではないですが、興味のアル方がもし
いらっしゃったら、試しにこの解釈で古事記を読み解いて見るのは如何?

勿論、古事記においては、崇神は開化のお子さんになっているワケですから
そんな筈はアリエマセンがね。だがしかし、崇神のおかーさんの系譜だけ
ピックアップしてみると、、、(ま、これは先述済なのでここでは割愛)
つまりですな、「開化とその奥さんの一人の子が崇神である」ってトコだけ
を懐疑する場合、崇神=開化(実は同一人物の二つの名前説!?)の架説
方程式は浮かび上がって来るワケでし。
(そして、古事記での開化の血脈と崇神の血脈も、「ほぼ符号」するワケ)

さて、これは嘘か真か?レス長より頭がいいと自認する方は、是非この真偽
をお裁き召され♪

198:レス長たらし毘古
12/11/01 23:53:12.03
うーむ、今日もまたやってしまった。。。誤字訂正とおわび

>>196
>ヤヤコシイ人物に、時々このレトリックが用いられて ・・・誤
→ヤヤコシイ人物に、時々これとは真逆のレトリックが用いられて ・・・正

>>197
>【二塁】「またの名表記は・・・ ・・・誤
→【二類】「またの名表記は・・・ ・・・正

199:レス長たらし毘古
12/11/02 00:03:06.96
で、本日のしめです。

私個人は、同一人物架説も別人親子定説もどちらも否定する気もありません。
ハイ。どちらも捨て去るには惜しい話だからです。
だがしかし、この邪推によって、最低でも20年前後、最多では40年前後、暦の
数値はこの場所にて変動する可能性がある、とだけ述べて話をヤヤコシクして
本日は留めておきましょう。
ちなみに、私個人は卑弥呼と呼ばれた女性はモモソ(あたりの人)だっ!って
立場ですので、まあ、そこはかとな~く察してたもれ、と申し上げ候。

200:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/02 00:15:27.85
取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)冬十月甲子。遷干伊勢國渡遇宮。是時倭太神。著穗積臣遠祖大水口宿禰。而誨之曰。・・・故其天皇短命也。是以。今汝御孫尊。悔先皇之不及而愼祭。則汝尊壽命延長。

ここで、大水口宿禰は、開化が短命だったと悔やみを言っているのだ。
つまり、崇神12年までは、毎年記事がある(12年が経過した)であるにもかかわらず
崇神の子作りはこの後である。
崇神は開化の短命をうけ幼くして即位している。


201:レス長たらし毘古
12/11/02 00:40:24.44
しめのしめ(略してしめしめ?)
う~ん、思ったとおり(とゆーか自分で言ったワケだから仕方ないが)誤解が
発生してしまいそうなので、更にココで追記。

同一人物説も親子二人説も、実情が実際どうだったか?はここで追究する気は
まだないのね。

それに、当方の架説の真髄は、そこから更にパラレルして、モモソ=開化説
なワケなので。(あ、これを言うと前問の解答編になってしまいそうだがw)

開化は女帝であり、これはそもそも先帝逝去の為にあわてて立てたお立場
って架説なんです。(つまり推古天皇パターンでの後継ですな)
ところが後代、これが「女帝」である事を①知らないで/或は、②隠して
開化を「一代の男の大王である」と規定してしまったが為に(但し、この歴史
学説は五王の時代~蘇我馬子の間の時代、の間に「そうなって」しまった)
「卑弥呼」は記紀から拾えなくなっておしまいになられはったんねんねぇ。。

モモソ(=開化)が、若くして不遇にも怪死してしまった(その逸話が日本
書紀にて紹介される)のは、(死因の真偽は兎も角、死亡確認の基礎データと
しては)ほぼ間違いないでしょうし、崇神大王が前代の開化大王と「全くの
別人である」とは、少なくとも古事記からは断じる事は不可能です。ここは
前提認識として共通して頂いて構わないし、私個人もそこから脱する気は、
(よっぽどの証拠でも無い限り)ありません。

モモソ=開化=卑弥呼、これが記紀と魏志倭人伝によって、「全て別人」と
認識され、その誤った認識のまま歴史規定されます。それこそが、大失敗の
元と言えましょう。嗚呼歴史の悲しさ。

モモソが九州の東北部で魏の外交官と謁見しただけの架説なんですがねぇ。。

202:レス長たらし毘古
12/11/02 01:01:19.31
さて、何を言ってるのかトンとわからない方もいらっしゃると思いますので、
ずーっと前に述べた古事記における「毘」の字の当方の架説を再度ここで
ご披露。(常連さんは読み飛ばして構いません)

当方は、カナリ前ここで、「毘売」と「日売」と「比売」(どれもヒメと解
されてますが)との古事記での使われ方の違いに関して一考の架説を述べさせ
て頂きましたが、その時の架説の結論は、あえて短く言うと「比売」は全体を
通して、お立場がそれほど高くない女性で、お立場がある程度の女性は、
神話時代からしばらく「毘売」と呼ばれ、それが次第にインフレを起こし、
ビッグバンを起こし、最後は「日売」と改められ、めでたしめでたし。と、
こう言う流れでございました。(あくまでも古事記でねん♪)

その流れの中でモモソはまさしく、毘売のインフレが発生するピークであり、
神功の代前後から、これが旧に日売に取って代わられたかの如く成り代わられ
ます。この流れ、ここまではよござんすか?

そこでだす、本日の話題の焦点にフォーカスを当て、ズームインします。
開化大王だけが、彦名が「ビビコ」なんです、「毘毘古」。アレレ???

ハイ。もうお察しいただけましたね?「アヤシイ」んですw奇しくも、開化
様は、モモソさんとは同世代(である可能性が少なくとも古事記では)。
てなもんやで、開化さまは実は女帝架説、が繰り広げられたのが大昔の当方の
世迷言なんですねー。え?常連さんには耳にタコでした?それはスミマセン。

つまりですね!大和の銀座に、一流のチャバレー「卑弥呼」があって。。。
本当はママだった開化=モモソが、後代、経営者は男の開化であったとされ、
モモソはそのお店の単なるチーママだったかのように書き換えられ。。。

203:レス長たらし毘古
12/11/02 01:25:22.67
なぜ、五王時代にチャバレー「卑弥呼」は、男の経営者とチーママがいるお店
と書き換えられたか?そう、察しのいい人は、もう気付きましたね?

「女王」が中国大陸において、当時は「あまり好ましくない統治形態」と
規定されたから、それを意識しての対応策だったのかもしれません。

チャバレー「卑弥呼」の本店は、当方の架説では「淡路島」となっております
が、勿論架説段階ですので、異論はおおいに対論してみたいと思います。
ま、それはともあれ、本店が淡路、支店が九州東北部、このチャバレー勢力図
において、最も西の果てにて、チャバレー「卑弥呼」は、魏の代理外交官を
接待します。みかじめ払うから、南のアラクレ者達をナントカシテクレ、てな
下心もあったのかもしれませんね。

ところがこのミカジメ戦略も功をなさず、チャバレー「卑弥呼」はママの怪死
と共に内部分裂(ま、元々「共立」でしたから、ある意味仕方ありません)
してしまいます。後代の歴史家(特に聖徳太子までの方々)は困った事で
しょう。なんせ、散逸した歴史逸話の「ドレを信じたら良いの?」かが全く
わかりません。

苦労の末に、より正史と思われるものは、家系図だけ、とし、より物語性の
高い逸話群を、その家系図にピッタリあてはまる物だけを表記します。

ピッタリ当てはまらない物はどうなったかって?そう、古事記では極力それを
排除してしまいましたが、逆にそれを補足しようと無理して頑張っちゃったの
が、ベストセラー日本書紀!

204:卑弥呼は満州にいた
12/11/02 09:14:34.49
内容より おもろい文章が売り物の レス長たらし毘古

205:日本@名無史さん
12/11/02 22:48:53.37
age

206:日本@名無史さん
12/11/03 00:29:00.18
非常に劣情けを催す質問
卑弥呼はSEXしただろうか
SEXしたとすれば、妹とする台与が卑弥呼
の子ではないだろうかと劣情はふくらむ。



207:日本@名無史さん
12/11/03 04:31:19.29
年齢はなれ過ぎぽいから実の子はないんじゃね

208:日本@名無史さん
12/11/03 11:13:36.50
                    Λ_Λ
                    < `∀´ > トンスル飲むニダヨ
                   \    /   
                    |⌒I │
                    (_) ノ
             ______ _..レ__    ___
            /r''''''i i'''''ヽ|`i i'''ヽ`'i  i'´r.⌒ヽ|
                 | |    | L,丿丿 ヽ、_`''ヽ,
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             朝鮮総連 ブロードキャスティング システム


209:日本@名無史さん
12/11/03 20:37:46.43
孫かもよ

210:日本@名無史さん
12/11/04 15:07:22.78
    ,、    /7       ,-、
    ( <.    | l      //´
    ヽ\,.ィ´ .ニニェ‐、//
      >、<゜> < 。>) 〈
     // ´ ノ( 、_, )ヽ ヘヘ.  嫌なら  見るな!フジテレベ!
     | l  ノ、 __!!,.、 | l
     ヘヘ.   ヽニニソ  ././
       ヽヽヘ、____,,..ィ,ン′
         `''‐---‐''´
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    ヽ\,.ィ´ .ニニェ‐、//
      >、<。> <゜>) 〈
     // ´ ノ( 、_, )ヽ ヘヘ.  嫌なら  見るな!フジテレベ!
     | l  ノ、 __!!,.、 | l

211:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/04 21:04:37.73
URLリンク(www.bell.jp)
、『令集解』(りょうのしゅうげ)という880年頃書かれた「養老令」の解説書で、田の測量法として「高麗法」という言葉があり、「今の大尺は高麗の5尺になる」と記載されているという。

新井氏作成の表では、・・・次に示された古韓尺(26.7cm)の場合と比較すると、圧倒的に後者の適合度が高い。こうした分析の結果、纒向遺跡の建物や建物配置には古韓尺が適用されていたと、新井氏は力説される。

古韓尺による計算値は歩(26.7cmx6尺=1.60m)で示してある。

3世紀前半の建物は、垂仁の珠城宮であり、
その直前に任那からもたされた寸法なのである。


212:日本@名無史さん
12/11/05 19:07:03.18
卑弥呼は漢字を学んでいただろうか。

213:日本@名無史さん
12/11/05 20:15:53.40
魏と外交をするからには有る程度漢字を学んでいたのは間違い無い。したがっ
て邪馬台国の遺跡からは漢字を書いたものが見つかるはずだ。いまだにどこか
らも発見されていない。マキムクからも。
邪馬台国はまだまだその姿を現してはいない。

214:日本@名無史さん
12/11/05 20:26:10.06
>>213
その時代は三国志の時代で戦乱を避けて
九州あたりに流れついた蜀や呉の文化人、職人
は多かったと思う。 その人達が漢字を広めたのではないか
と思うし、邪馬台国からシナへ行っていて少しは漢文やっていただろう
とおもったんですが未発見とは不思議です。

215:日本@名無史さん
12/11/05 20:40:22.29
伊都国で魏からの物品を集約していたなら
そこでは漢字が使われてたと思われるけどね
ただ当時の文書は木簡か竹簡、あとは絹の布に書かれた物とかだから
これは残りにくい



216:日本@名無史さん
12/11/05 20:47:26.37
太安万侶の墓から木簡が出たとか・・・。
そこまで時代が下らないと酸性土壌では溶けてしまうのかな。

217:日本@名無史さん
12/11/05 20:52:54.11
「室見川の銘板」とかしらんの?

218:日本@名無史さん
12/11/05 20:53:24.52
極度に乾燥したものとかあるいは水に浸かってたものは残るだろう
纏向遺跡でも矢板や木製仮面を始め木製品は大量に出てる
九州でもそう
ただ漢字はない

219:日本@名無史さん
12/11/05 20:58:35.50
>>217
「ここに古代王朝ありき」1979年朝日新聞社刊169頁以下に詳しい。
延光四年〈125年〉の銘のあるもの。

220:日本@名無史さん
12/11/05 21:01:25.74
視点を変えて
例えば、縄文土器の文様は何等かの文字記号ではないかと言われている
弥生後期の邪馬台国にそれらしきものはなかったのだろうか。
何故文字云々かといえばあれだけの国々を連合させるには祭祀やミコ
だけではなく記録をする文字があったのではとこだわるわけで・・・。
しかも、九州はその時代(3世紀中頃)の先進地域だったから。

221:日本@名無史さん
12/11/05 21:05:41.59
銅鐸や絵画土器もけっこう多く出てるけど
絵や文様としか言えないんじゃね
体系のある絵文字のようなものが出ればもっと話題になるはず
数をあらわす突起がつけられた土器はある

222:日本@名無史さん
12/11/05 21:10:36.53

自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ     ←いまココ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

223:日本@名無史さん
12/11/05 21:26:28.19
古事記に天皇の祖先は南九州高千穂峰だって書いてあるんだから、それでいいだろ

224:日本@名無史さん
12/11/05 21:33:35.24
ミコ的な能力で君臨し、軍隊も直属だったらしい卑弥呼
は、性的な欲望をきたしたとき、ある程度自由にまぐわいをしていたのではないですかね。

225:日本@名無史さん
12/11/05 21:40:17.41
「まぐわい」は「目合ひ」で目を見合わせることだな
卑弥呼は見てはならない女王だったようだから
男が性交の後に殺されたとかあるかもな

貝輪とかを大量につけた状態で発掘された
女性の例もあるから
案外介助なしには日常生活もできなかったかもしれん

226:日本@名無史さん
12/11/05 22:29:21.75
普通に考えると箸墓古墳に副葬品として文字の書かれた青銅器くらいある

227:日本@名無史さん
12/11/06 11:19:23.89
決定版!やらせブームの作り方!!

1 数の原理
操作可能なランキングは全て操作
売り上げは自社買いで伸ばす
人気の根拠を数値に求め、スポンサーへのプレゼンに使用
動画サイトはとにかく再生回数を増す
それらの数値を総合して「売れている感」をバックに
メディアで煽っていく

1-2白痴の量産
洗脳し易い環境を維持していくため、あらゆる手段を使い、愚民を増やし続けることに努める。合法、非合法は問わない

2 安価主義
極めて安いギャラ、権利関係等の無償提供によりメディアへの敷居を下げ
大量露出による継続的刷り込み作業を可能にする

3 資金調達
税金を毟り取る
政府が出資する文化推進枠などの補助金を全部横取りし、工作資金に使う
(文化推進枠は元々、政府と広告代理店が税搾取の為に作ったオブラート)


228:日本@名無史さん
12/11/06 19:21:31.69
魏志倭人伝
邪馬台国は戦乱続きで民は疲れ切っていた
んで、ミコをもってきて連合国となった。
というけど、当時、我が国はそんなに戦にあけくれていたのかいな
という疑問がある。
 大量の人骨が埋葬された跡が発掘されていない
 なんといっても、白髪三千丈の国で書いた報告書
                       以上がそのわけ。

229:日本@名無史さん
12/11/06 19:51:27.70
邪馬台国の首都と聖地
URLリンク(saisentannomizude-zennojyunkanwo.blogzine.jp)


230:日本@名無史さん
12/11/06 20:00:31.94
>>229
いいところじゃん。

231:日本@名無史さん
12/11/07 07:48:59.18
>>229

ナスカとかティオワカンもそうだが
上空に住んでいた(と思われていた)神霊や祖先から識別しやすい地形を
選んだ可能性はたしかにある。

232:日本@名無史さん
12/11/07 16:09:53.35
邪馬台国時代は、神様は絶対に居る、神様に捧げ物をしないといけない、
災害も豊作も神様のせい、魔物が取り付く、お祓いすると取れる

そういう時代だったので、現代人が邪馬台国時代を知るには、
ある程度トンデモ思考に寛容な方向にいかないといけない

233:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/07 16:24:58.23
URLリンク(imgnews.naver.com)
新羅が倭国に属したりもしたという言及が新しく現れた大きな課題であり、
これをどのように受け入れるかによって歴史学界で論議が広がることがありうると付け加えた。

新羅が倭国に属すのは、神功49年の半島占拠からであり、4世紀末の高句麗の南下により、
高句麗の属国となる。
允恭天皇三年(甲寅四一四)正月辛酉朔。遺使求良醫於新羅。
413年に、倭と高句麗は、和平を結ぶ。この時には、新羅は高句麗の傘下にある。


234:日本@名無史さん
12/11/07 16:27:12.61
>>233
東夷の覇者、安東大将軍倭国王ですね

235:日本@名無史さん
12/11/07 19:18:24.52
卑弥呼は初期道教だったと言われているよ。
それに土俗的なもの、自然崇拝ーをミックスしたのでは。

236:日本@名無史さん
12/11/07 19:29:29.63
魏志に「葬儀のあと川で禊を行う」とあるのは、
黄泉の死者の国から出た伊邪那岐の行動そのものであり、これは神道だよ

237:日本@名無史さん
12/11/07 19:34:02.70
>>236

ただ、ミソギは古代中国でも行われていた。

秦の皇帝もやっている。

238:日本@名無史さん
12/11/07 20:04:28.99
魏書でいう「鬼道」というのは、初期道教というらしい。
しかし、書いた人は、中華思想から、自国の宗教以外考えなかった
とも言えるので、自然崇拝、あとで道教プラスではないかと。
神道って変幻自在だから多宗教の影響でいかようにも変化するし
卑弥呼の時代には戒律のようなものはなかったからはっきり神道とは
言えないのでは・・・。 ハレとケの観念はあったかも。


239:日本@名無史さん
12/11/07 20:12:40.82
初期道教という言い方はおかしいという気がするな
道教の基本となる神仙思想はもっとはるか以前からあった
秦の始皇帝の時代に徐福が奉じていたのが神仙思想で
三国志の時代には民間信仰としてかなりの広まりがあったはずだ
この場合の初期というのは太平道などの教団道教の初期という意味合いだろう

240:日本@名無史さん
12/11/07 20:15:49.45
それから三国志時代の公的な宗教は儒教で
三国それぞれで国教としての扱いを受けていたはずだ
三国志自体も、○○はその死後に家族が食うに困るほどの清貧を貫いたとか
○○は敵地を占領した後も墓荒らしや略奪をしなかったなどと
儒教的な道徳観に基づいて書かれている

241:日本@名無史さん
12/11/07 20:23:46.50
伊勢神宮(内宮)から鶴と亀が造形されている兵庫県生野へ伸びる生命の樹(カバラ)
の中央ライン上に 千ヶ峰(兵庫県)という山がありますが、このカバラの先を追っていくと、
中国遼寧省鞍山市にある 千山 に行き着きます。 ここは高句麗があったところであり、
その千山は、道教の本山でもあります。
千ヶ峰と千山 卑弥呼と道教 地上絵の数々がカバラの法則通りに並んでいることと、
私が中国の千山に3年前に連れて行かれていて、昨年も又呼ばれて行ったことが、
偶然では済まされない事実です。 何か得体のしれないものに動かされています。
URLリンク(saisentannomizude-zennojyunkanwo.blogzine.jp)

242:日本@名無史さん
12/11/07 20:27:41.82
伊勢神宮は天武天皇がかなりの道教的なしかけを施している
とは言える

243:日本@名無史さん
12/11/07 21:05:05.90
親公孫氏だった連中があわてふためき、責任逃れで、年老いた女性を代表にした。
日本的象徴権力の創出である。


244:日本@名無史さん
12/11/07 21:19:16.22
倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼説だと、当然魏志の倭国の信仰は、神道でしかない

245:日本@名無史さん
12/11/08 00:12:33.05
>>243
つか卑弥呼の共立は公孫氏まっさかりの頃だろ

246:サガミハラハラ
12/11/08 00:35:49.97
公孫度が遼東での牽制をほこるようになったのは、189年に遼東太守に任命されてからである。
卑弥呼の即位年は183年と確定している。
よって、卑弥呼の即位と公孫氏は全く関係ない。

247:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/08 02:43:02.30
倭人伝の存在理由は、西晉時代にある。
西晉時代に倭は、半島に1大卒を置く。当然晉の要請による渡海だ。
つまり、魏・晉に仕えた軍隊としては、最初であり、後に不耐ワイ(百済)も軍隊編成されるが
それは、永嘉の乱に対応するためである。


248:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/08 02:48:24.63
卑弥呼の共立は、238年魏使による、朝貢の要請に応えるためだ。
だから、それ以前の乱・暦年無主・共立とこれは、魏使の見聞でもある。
238年以前に卑弥呼が共立されていたのであれば、必要のない文言である。


249:日本@名無史さん
12/11/08 03:35:37.63
巫女パワーというのが眉唾で、次のトヨも同じ。
先進的な交易国家群で、結構な文明社会だったと思うけどねえ。

250:日本@名無史さん
12/11/08 04:57:41.03
公孫氏と邪馬台国は多少の音信はあったが、結果的に記録に残らなかった可能性はある。

251:日本@名無史さん
12/11/08 05:04:59.22
そりゃ~帯方郡に行ったり来たりしたら郡治で公孫氏に会うわな

252:卑弥呼は満州にいた」
12/11/08 08:35:01.67
サガミハラ 卑弥呼即位は 183

何一つ 難問のない サガミハラ

253:日本@名無史さん
12/11/08 19:41:26.43
台与をトヨと読むなら
邪馬台はヤマトでいのに、何故ヤマタイ?

254:日本@名無史さん
12/11/08 20:08:41.52
日本語発音で解こうとするからでしょ
中国の昔の音で解釈したら

255:日本@名無史さん
12/11/08 20:18:16.05
もっと勉強してから口を出せよ。

256:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/08 20:20:44.54
ホケの山までの同向式画文帯神獣鏡は、公孫氏の鏡であろう。
であるならば、誰があいだを取り持ったか?
天日矛ではないかと考えているのだが。

257:日本@名無史さん
12/11/08 20:27:18.69
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258:日本@名無史さん
12/11/08 20:31:37.52
倭人伝のテキストとしては南宋紹煕本以降では邪馬「壹」国だが
より古い後漢書、北史、梁書、太平御覧引用の魏志、隋書などでは
邪馬「臺」国となっていて
これと同様の問題が台与にもあるだろう
だからヤマタイの国名とト(イ)ヨの読みの問題は分けて考えた方がよい

259:日本@名無史さん
12/11/08 20:32:18.37
邪馬台国は倭人伝では正確には邪馬壹国。
これは今の日本語読みではやまいちこくだけど、
当時の中国の読み(上古音が近いと思われる)では、邪馬壹は
イヤマルエツトウであり、現代の日本人が聞けばヤマトと聞こえる。

260:日本@名無史さん
12/11/08 20:35:24.46
びょおきのやまゐだな

261:日本@名無史さん
12/11/08 20:50:38.47
山口!
ニグモーグルとかいう外人もそう言ってたぞ!

262:日本@名無史さん
12/11/08 22:11:50.21
おもしろい話をきかせてもらって、
楽しいずら、ここは。

263:日本@名無史さん
12/11/08 22:23:55.33
佐竹氏の家祖、新羅三郎義光(源義光)は、陸奥守鎮守府将軍として前九年の役を戦い、その武勇を天下に知られた源頼義の三男である。
八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光と呼ばれることの方が多い。
源氏は全て渡来系。というより、八幡(宇佐)と新羅と賀茂は、兄弟国だったことが分かる。

 

264:日本@名無史さん
12/11/09 01:05:48.32
>>263
つまり新羅はもともと倭人系だった、と
たしかに日本に地理的に最も近い以上そうだった可能性は高いし、新羅の初期の王は倭人だったというし

265:日本@名無史さん
12/11/09 04:52:33.71
>>259
イヤマルエツトウ
「ル」はどこから来たん?「ウ」とは何やね?
せめてローマ字で書いてくれや

266:日本@名無史さん
12/11/09 11:37:00.33
壹にもt音があるよね。
iti

yamaiti
邪馬壹国
ヤマティ国

267:日本@名無史さん
12/11/09 13:59:36.99
┌───────┐
│ 朝日新聞. 東京本社編集局. │
└───────┘
    .  .   ┌─人_从_人_人_从_人人_从_人_人_从_人人_从_人_人_
.  .  .  .   |彡 ) おるぁ!!2ch対策室!! アク禁解除されたぞ!!
.   .  .∧,_,,∧  | Y⌒YY⌒) 徹夜じゃ!! 気合い入れていくぞっ!!!
      (=@Д@) ..|   .|   Y⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒
      ( O   ).つ|)  |
 ̄ ̄ ̄ ̄し―-J  |  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 国策だ!!            ヒキコモリニートが!!        ウヨ氏ね! ウヨ氏ね!
    なぜこのタイミングで!!             陰謀だ!!          ニート部落民が!!
 カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧     カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧ 
     <`Д´l|;>.        (@∀@l|)        (@∀@=)        (@∀@jl) ハァハァ…
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 /旦|―||// /|  /旦|―||// /|  /旦|―||// /|  /旦|―||// /|
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 | しゃっきり.. |三|/  | 過剰演出 |三|/  .| アサヒるw |三|/ . | 編集局員(49).|/
                 政権交代!
   ネトウヨ! ネトウヨ!        政権交代!    謝罪セヨ! 賠償セヨ!   私は悲しいのです・・
 カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧     カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧
     (@∀@l|)        (@∀@l|)       (・∀・l|;)=>       <゚ ー ゚#> ハァハァ…
   _| ̄ ̄||_ )__    ._| ̄ ̄||_ )__     _| ̄ ̄||._)__    _| ̄ ̄||_.)_
 /旦|―||// /|  /旦|―||// /|  /旦|―||// /|  /旦|―||// /|
 | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |
 |   K Y  .|三|/  .| フルタチるw |三|/  .| NYTオオニシ |三|/  | アジここ. |三|/

268:日本@名無史さん
12/11/09 14:28:29.30
>>266

> ヤマティ国


ミキティみたいでおもろいw

269:日本@名無史さん
12/11/09 19:46:34.90
ヤマトというのは耶国の街(都)の意味だってどこかに書いてあった

270:日本@名無史さん
12/11/10 08:11:53.30
このスレに中国語の発音出来る人っているの?

271:日本@名無史さん
12/11/10 09:44:05.78
現代中国語ならいるだろうけど、倭人伝の頃のは
上古恩か中古音かわからず中国人研究者でも発音がわからない漢字がある

272:日本@名無史さん
12/11/10 09:48:14.81
例えば「夏侯惇」の「惇」は「トン」説と「ジュン」説
「曹植」の場合は「植」が「ショク」または「チ」と中国でも研究が分かれている

273:日本@名無史さん
12/11/10 09:51:44.86
じゃあ、邪馬台国とか卑弥呼とか台与も不明?

274:日本@名無史さん
12/11/10 10:00:22.97
で、結果として、どうなったわけ?
ジャワ大国でおk?

275:日本@名無史さん
12/11/10 10:04:12.14
>>273
それはある程度わかるが、そもそも後代の写本の三国志が陳寿が記したとおりなのか不明
例えばトルファンで発掘された晋代の写本と、現代のテキストになることが多い「紹煕本」では
1192字中画数の同じでない漢字が416字で全体の1/3を越える
また同一の箇所で「紹煕本」と異なる用語がが40句もある

276:日本@名無史さん
12/11/10 10:14:27.91
日本語だって平安、鎌倉と時代時代で語法が変わってるのは
ちょっと古文を勉強すればすぐわかる
中国語の場合は写本であっても使われる漢字が時代によって
異体字になったり偏が省略されたりしているのだ
むろん誤記もある

277:日本@名無史さん
12/11/10 16:39:35.93
結局、何を確かな根拠にしていいか不明ってこと?

278:日本@名無史さん
12/11/10 16:42:11.15
古田の「邪馬壹国」論のようなものが出てくる素地は常にあるということだな
ただ表記における用字の変遷はある程度わかる
それに対して古代の発音のほうは難しい

279:日本@名無史さん
12/11/10 16:43:46.93
>>273

卑弥呼は当時の中国語では「ペメハ」とも読めるそうだが、そういう名前の倭人がいたとは考えにくい。

280:日本@名無史さん
12/11/10 17:35:36.15
ペメハ (笑)

pimiɤua くらいだな。倭語は「ヒミワ」か。

281:日本@名無史さん
12/11/10 17:46:25.29
卑弥呼は日の巫女だろうね

日本書紀では、天皇を日の巫女と呼ぶから、卑弥呼は天皇だろうね

282:日本@名無史さん
12/11/10 17:47:14.17
まちがった、日本書紀では天皇を、「日の御子」と呼ぶ。

283:日本@名無史さん
12/11/10 17:53:07.23
>>279
中国人でも厳しくね?

284:日本@名無史さん
12/11/10 18:12:06.84
> 卑弥呼は日の巫女だろうね

うなぎは鵜が難儀するからうなぎだろうね

285:日本@名無史さん
12/11/10 18:15:57.03
難儀は漢語だけどね

286:日本@名無史さん
12/11/10 19:08:48.83
今の読み方、ヤマタイ国やヒミコは本当はどのような発音をするか判らないの
で、学問の研究を進める上で仮にこのように読みましょうと学会で定めている。
本当の発音は今でも判っていない。読み方を根拠に論じることは意味が無い。

287:日本@名無史さん
12/11/10 19:26:22.39
ヤマタイという読み方は学会で定めたなどという高級なものじゃない。
新井白石が当時の北京音を調べてみたにすぎない。
いずれにしても何の根拠にもならない。

288:日本@名無史さん
12/11/10 20:56:27.24
たとえばですよ、視点を変えれば、秀吉の妾の茶々が死んで、妹の江が徳川に嫁いで幕府を牛耳ることになる。
宗女のほうは、血がつながっているけれど、政権も政都は移動した。
こういうことだ。

289:日本@名無史さん
12/11/10 21:06:01.91
    ,、    /7       ,-、
    ( <.    | l      //´
    ヽ\,.ィ´ .ニニェ‐、//
      >、<゜> < 。>) 〈
     // ´ ノ( 、_, )ヽ ヘヘ.  嫌なら  見るな!フジテレベ!
     | l  ノ、 __!!,.、 | l
     ヘヘ.   ヽニニソ  ././
       ヽヽヘ、____,,..ィ,ン′
         `''‐---‐''´
    ( <.    | l      //´
    ヽ\,.ィ´ .ニニェ‐、//
      >、<。> <゜>) 〈
     // ´ ノ( 、_, )ヽ ヘヘ.  嫌なら  見るな!フジテレベ!
     | l  ノ、 __!!,.、 | l
      >、<゜> <。>) 〈
     // ´ ノ( 、_, )ヽ ヘヘ.  嫌 なら 見るな!フジテ~~!
     | l  ノ、 __!!,.、 | l

290:日本@名無史さん
12/11/10 21:37:20.98
そういう馬鹿話は飽きた。

291:日本@名無史さん
12/11/11 13:17:36.15
箸墓古墳は、倭迹迹日百襲媛命の陵墓で、、倭迹迹日百襲媛命は卑弥呼
ではないかと近頃いわれているけど。

292:日本@名無史さん
12/11/11 13:37:09.34
そういう馬鹿話はやめろ。何度言われても分からないのか。

293:日本@名無史さん
12/11/11 13:48:37.17
歴代天皇の母は、近江の息長氏の出身。
浅井家の娘 茶々、江も息長氏後を引く宗女だったのだ。

294:唐松山 ◆V0F34EbmQA
12/11/11 14:28:32.62
>箸墓古墳は、倭迹迹日百襲媛命の陵墓で・・・

纏向は、箸墓古墳築造を以て絶頂期を迎え、布留0期はなんとか持ちこたえたが
その後、5世期を迎えるまで、ほぼ無人の地(人々の活躍しない)であった。
つまり、書紀の記事を信用しない。
よって、倭迹迹日百襲媛命が存在した事実もない と。
だから、箸墓古墳は卑弥呼にすることができる。
言いたいことがわからん。

295:日本@名無史さん
12/11/11 14:31:25.50
倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼
で、箸墓古墳に埋葬された。

296:日本@名無史さん
12/11/11 14:36:42.10
箸墓が布留0なら280~300年頃のものと思うね

297:日本@名無史さん
12/11/11 14:43:05.45
壱与墓だね


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