【鎌倉北条氏】~その門流・子孫・残党・被官~at HISTORY
【鎌倉北条氏】~その門流・子孫・残党・被官~ - 暇つぶし2ch23:日本@名無史さん
13/01/19 18:31:11.39
>>21
族滅は武家社会では普通。族滅したら、綺麗に消え去るのもまた普通。
中国の三族皆殺し並に、日本の滅びた武家は綺麗に消え去っている。

例えば、平清盛、武田信玄、豊臣秀吉、陶晴賢、菊亭晴季など、綺麗さっぱり
族滅された系譜は少なくない。

24:日本@名無史さん
13/01/19 18:36:17.59
あと、日本は残党の追捕も非常に厳しい。源義賢みたいに、息子だけでも
逃がすことに成功した(源仲家、義仲)のは非常に稀有な例。むろん、義賢
自身は妻、娘、父、弟、甥、姪らとともに処刑されている。普通はそこで終わる
のが、日本、というより三族皆殺しが当たり前の東アジアでは常識。

25:日本@名無史さん
13/01/19 21:38:47.13
平家の落人伝説は日本各地にありますが

26:日本@名無史さん
13/01/20 08:03:14.59
>>25
義経のジンギスカン伝説と同じ。平家関係者が余りにも徹底的に掃討された
ため、そういう伝説が残ったということ。怨霊信仰の強い日本らしいが、逆に
そう言う伝説が残るぐらい何も残らなかった証明でもある。

27:日本@名無史さん
13/01/23 09:10:58.63
>>23
平清盛・・・・頼盛の池流

武田信玄
弟の河窪信実・・・・子孫は旗本
次男・海野信親・・・子孫は高家      
五男・仁科盛信・・・子の信基・信貞の子孫は現存
七男(六男とも)・信清・・・上杉家に仕える(上杉家一門・高家衆筆頭)

陶晴賢
祖父・弘護の弟、弘詮の孫・元弘は毛利氏に仕える
系譜関係は不詳なれど一族の隆満も毛利氏に仕える

菊亭晴季
子の季持以降、明治維新まで今出川は公卿として続く

なにドヤ顔で「綺麗に消え去るのもまた普通」とかw
お前が無知なだけやんwww

28:日本@名無史さん
13/01/25 09:09:34.13
南北朝に北条氏の残党がたくさん反乱起こしてるじゃん

29:日本@名無史さん
13/01/25 09:18:22.82
>>23
菊亭晴季は族滅させられてないw
晴季自体、流罪になっただけで殺されてないし
子孫は今でも生きてるよ

30:日本@名無史さん
13/01/25 14:02:11.06
>>23
直接血がつながっているわけではないが、
秀吉の正室ねねの兄弟の系統は小大名として明治維新を
迎えているが?後、秀吉の養子の系統で秀勝(何人目か忘れた)
の系統も生き残ってるぞ。つうか母親が江だから大河ドラマにも
そのエピソード出ててだろww

31:日本@名無史さん
13/01/25 18:09:57.65
>>30
羽柴秀勝(豊臣秀次の弟)は女系が残っている
豊臣秀次も女系は残っている
平清盛だって女系は残ってるんだよな

23は男系が絶えた一族と言いたいのか?
それにしたって菊亭は現在まで男系が残っている
現在の当主は男系女子だが

32:日本@名無史さん
13/01/25 20:05:35.24
族滅・・・一族をすべて滅ぼすこと。

>>23は一族全てが滅んだと言ってるが無知なだけw

33:日本@名無史さん
13/02/02 09:34:01.32
鎌倉北条氏って時政以前の系図なんかは良く判らないらしいが、
案外伝承どおり、平直方流じゃないのかな?と思える。

平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流であり、
従五位下の京の軍事貴族として公卿の警護みたいな仕事をしていた。

平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭
し活躍し始める時期でもある。当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り
新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。

平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、
その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。

事実、平忠盛は当時は異例の高待遇である内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たち
による闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す
機転によって彼らの襲撃を防ぎ、鳥羽上皇から賞された事(殿上闇討事件)が有った。
それ以外でも武士でありながら出世を重ねる忠盛に対して公家による襲撃事件が多数あった。

この平盛方処刑により盛方流は没落、これで貞盛流嫡流だった直方流の都での評価は地に
落ちたと思う。盛方流は、都に居られなくなり、盛方の弟である阿多美聖範の家筋に平直
方流の当主の座は移ってしまう。そしてこれが伊豆北条氏の直接の家祖として考えても良
いのではないだろうか。

34:日本@名無史さん
13/02/02 09:35:03.19
>>33の続き)

処刑された盛方の弟の阿多美聖範は伊豆阿多美郷に土着し開発領主としてこの地域を開発した。
阿多美四郎を名乗り伊豆北条氏の通字である四郎が始めて登場する。罪人となった平盛方の
実子は聖範が引き取り、阿多美郷の領主を引継ぐ。

聖範の実子である平時方は、当初は阿多美郷和田里に居住して和田太夫四郎と名乗っていたが、
処刑された盛方にかわって直方流を継いで都に上がり宮仕えを始める。
平時方は、処刑された盛方とは違い、順調に出世し上総介や肥後守を勤めた。そして晴れて
伊豆守に任命され伊豆の国司となる。この時期の国司は国元には赴任せず代理人を派遣して
国司業務を代行させたが、平時方は父の聖範や盛方の子らが居る伊豆に赴任して在国の国司
として三島の国府庁舎で国司業務をこなした可能性が高い。またその方が地元の事情が判り
国元での影響力を行使し易く、国司業務がはかどる、という事もあったであろう。

国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ近くにある北条郷に土着し氾藍原の
開発領主となってしまう。俗姓も平から北条に改め、都での平直方流軍事貴族としてのキャリア
を捨て東国武士として伊豆北条氏の歩みを始める。また、平忠盛の意向を呑んだ可能性もある

もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、父や盛方の実子が居る伊豆で
のんびりやっていた方が、都での軍事貴族として出世競争にあせくせするよりマシだ。 と言う判断が、
時方に有ったのかもしれない。

また平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流の地位を継承してきたが、
盛方の忠盛襲撃事件関与により直方流の没落が決定的となり、忠盛-清盛流が貞盛
流の嫡流の座を引継ぐ事になった。
その為に盛方処刑後に直方流を継いだ時方は、貞盛流の嫡流の座を忠盛に明け渡し
平の姓ではなく北条を名乗り伊豆に土着し東国の御家人としての歩を始めたのだろう。

35:日本@名無史さん
13/02/03 10:17:44.51
阿多美聖範が引き取った平盛方の実子の諱や子孫は伝わっているの?
「平時方が伊豆守に任命された」という典拠は何ですか?
どなたか教えてたもれ

36:日本@名無史さん
13/02/03 16:53:40.61
>>33>>34
いい線いってるんじゃないの?
典拠明示して論文書いてみたら?

ただ一つ疑問がある
それは、そんなに由緒正しい家柄ならはっきり系図に明記すればいいのにね。
時政以前のは系図が何であんなにぐちゃぐちゃんなんだ?
時政の父親さえ系図によってバラバラ。いやしくも鎌倉幕府執権の父親がだぜ。

37:日本@名無史さん
13/02/03 21:17:35.99
北条時政の系図はばらばらなのは確か。
URLリンク(blog.goo.ne.jp)

でも、これ見たらわかるけど、桓武平氏のほうでも
家督相続はすんなりいかず、直系で継承されてないということですな。

38:日本@名無史さん
13/02/03 21:19:22.87
河内源氏のほうでも、源義家以降の家督相続は
直系ではすんなり継承されていない。

39:日本@名無史さん
13/02/03 21:41:34.56
武家なんてそんなもんだろ
長男が家督を継ぐなんて江戸時代以降の話だべ

40:日本@名無史さん
13/02/03 23:17:47.14
平貞盛の嫡流は長男の平維将
この子孫の嫡流が平直方流であり、
そこから熊谷氏、北条氏が出ている。
ちなみに、熊谷氏の系統が平直方流の本来の嫡流だったが
>>33であるように、同族でライバルだった
伊勢平氏六波羅流の平忠盛(清盛の親父)に敗れ衰退、
かわりに直方流で傍流だった北条氏の系統が嫡流になる。

平貞盛の三男の維衡の子孫が伊勢平氏になり、
平清盛を生み出した六波羅流は、伊勢平氏の中でも本来は傍流に当たる一族だった。

41:日本@名無史さん
13/02/03 23:22:06.96
大仏、金澤、赤橋、名越
他にある?

42:日本@名無史さん
13/02/03 23:29:35.61
猿飛びサスケとか

43:日本@名無史さん
13/02/04 09:29:45.87
それにしても、鎌倉北条氏の桓武平氏仮冒疑惑がネットにでまわっているなw
でも、この説をぶちまけた人って、あのオッサンだけで
かなり偏った見方をする人なんだけどな。


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