12/04/06 15:20:54.80
阿雲(アズミ)、綿津見(ワタツミ)、穂高見(ホダカミ)
神武天皇ー彦火火出見、手研耳命、岐須美々命、神八井耳命、
研耳命 、彦八井耳命、綏靖天皇(神渟名川耳)
安曇族は、ミ・ミミ族である。
33:日本@名無史さん
12/04/06 20:57:05.40
>>32
チチダス・ミミ思い出したおっ!w
34:日本@名無史さん
12/04/07 11:49:19.00
>>33
わたしゃ、日吉ミミだねpp
35:日本@名無史さん
12/04/15 11:51:51.65
>>32
景行天皇が九州熊襲征討途中に討伐したとかいう豊地方駅館川・山国川の上流域の
ツチグモと蔑視表現されている縄文系原住民?残賊鼻垂族・耳垂族というのも
紀に記録されておるよ。
『残賊あり。一を鼻垂と曰ふ・・・・菟狭の川上に屯結めり。二を耳垂と曰ふ・・・・是れ、
御木の川上に居る。・・・』(日本書紀、景行天皇紀)
つまり『ミミ』は尊称美称とは限らないよ。
36:日本@名無史さん
12/04/16 00:24:55.71
>>32
>神武天皇ー彦火火出見・・・・・・
神武天皇と後世に名づけられた伊波禮毘古は、紀の一書では
『神日本磐余彦火火出見尊』とあり、祖父の山幸彦も彦火火出見。
つまり天孫瓊瓊杵の家系もミ・ミミ族なんだね。
37:日本@名無史さん
12/04/16 00:30:26.91
陶津耳もミミなんだが
38:日本@名無史さん
12/05/09 05:00:35.45
>>32
阿雲氏が新羅の王族の出というのは、根拠がある説なの?
395 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/05/07(月) 21:20:57.69
どちらも新羅の王族を祖とする。
出雲大社 その11
スレリンク(kyoto板:394-395番)
39:日本@名無史さん
12/05/16 21:37:35.99
>>11
鰐即ちサメを氏名とする和邇氏も、海人族の一派だったの?
34 :日本@名無史さん:2011/09/11(日) 18:45:04.60
>>27
和邇氏は原始的な水軍とか、河川交易をやっていたのではなかったか?
豪族について
スレリンク(history板:27-34番)
40:日本@名無史さん
12/05/17 04:48:57.69
>>38
海人族安曇氏の祖神志賀大明神こと安曇磯良が、鹿島・春日社の御祭神と
同一神なの?
413 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/05/10(木) 16:01:32.05
安曇磯良は、筑前国では志賀大明神。常陸国では鹿島大明神。大和国では
春日大明神とも称され、志賀島(シカノシマ)を鹿島と考える伝承が・・・・・・
出雲大社 その11
スレリンク(kyoto板:394-413番)
41:日本@名無史さん
12/05/17 21:50:15.12
辰韓人と弁辰人
魏志韓伝にみえる、辰韓と弁辰の人種的違いに関して考えてみたい。
現在半島南部の古代人骨に関して、勒島、煙台、礼安里などの資料が知られているが、
いまだに全体像と言えるものはわかっていないように思われる。
調査結果を見ると、日本の古墳並行期の礼安里は日本の渡来系とされる人骨にちかく、
弥生中期並行期の勒島は在来系とされる人骨と渡来系の中間、
縄文並行期の煙台は縄文人を思わせるものがあるという。
URLリンク(kaken.nii.ac.jp)
半島南部の種族的性格に関して、最も古い東夷の記録である魏志の韓伝はどのように記録しているか見てみよう。
まず前提として、韓伝の辰韓条と弁辰条について、イリヒコ氏の説をとる。
URLリンク(www.geocities.jp)
辰韓弁辰に関する人種的記述を見てみる。
辰韓:男女近倭、亦文身。
弁辰:其人形皆大。(衣服潔清)長髮。
弁辰については
弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、
のように、辰韓との対比によって表現している。
このことからするに、弁辰の人種的記述も辰韓に対する比較で書かれている可能性が高いのではないか。
そう考えると、辰韓人は弁辰人に比較して、長髮とは言えず人形も大きくないと言うことになる。
辰韓人が倭人に近いとすれば、倭人もまた弁辰人に比較して、長髮とは言えず人形も大きくないと言うことになろう。
42:日本@名無史さん
12/05/17 21:50:48.68
長髮とは言えないと言うことはどのように捕らえればよいだろう。
ここで文身に注目する。
倭人もまた中国人にとって文身を特徴とする人々であり、倭人伝において
男子無大小皆黥面文身。(中略)夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
と記述され、倭人の文身は倭水人(海人族)の潜水漁法と関連付けられ、また中国南方の斷髮文身と結び付けられている。
おそらく中国人にとって、文身は斷髮を連想させるものではなかったか。
それゆえに弁辰の長髮という記述が出てくるのでは無いだろうか。
実は韓伝に引かれた魏略に下記のような記述がある。
「我等漢人、名戸來、我等輩千五百人伐材木、爲韓所撃得、皆斷髮爲奴、積三年矣。」
これは辰韓廉斯[金齒]がその邑を出たところで出合った、漢人戸來の言葉とされている。
戸來らは韓に捕まり、斷髮してその奴となったのである。
状況からしてこの韓は辰韓であろう。
この伝説がどの程度信憑性があるかは分からないが、中国人の想念の中で辰韓人と斷髮が結び付けられていたことを物語るものであろう。
43:日本@名無史さん
12/05/17 21:51:13.31
では人形が大きくないとはどのような実態を示すのだろうか。
弥生人の人骨研究から、弥生人には在来系(縄文系)と渡来系の二種類があると言われている。
韓伝で倭と呼ばれている人はどちらに属するのだろうか。
文身に対する倭人伝の記述からするに、ここで倭人を代表しているのは、倭水人と呼ぶべき人々であろう。
日本では北西九州型弥生人が在来系と呼ばれる人々で、壱岐の人骨もこれに属する。
倭水人として倭人の特徴を代表したのは、在来系(縄文系)の人々ではなかったろうか。
これに対して弁辰狗邪国と思われる金海には、礼安里に代表される人々がいて、これは渡来系弥生人に似ているとされる。
これらのことから、三世紀の半島南部には、日本の在来系と渡来系に相当する二種類の人々がいたことが想像される。
縄文期の結合式釣針の分布は、北西九州から半島日本海側に広がっている。
半島日本海側といえば辰韓の中心「斯盧」=「新羅」=「慶州」を思い起こす。
縄文期からこの地域は縄文人と交流があったとすれば、辰韓人が縄文形質に似た人々であっても不思議はないだろう。
またおそらく弁辰人は、それとは見た目の異なる、渡来系弥生人の形質に似た人々であったのかもしれない。
44:日本@名無史さん
12/07/25 06:51:21.43
>>32
安曇族は、越後姫川沿いを山越え南下し、安曇野へ到達したらしいね。
その目的は、信濃の黒曜石入手だったと推測されているらしいね。
45:日本@名無史さん
12/07/26 18:37:26.31
>>44
能登に志賀町安津見があり、この勢力でしょうね。でも、穂高神社の「祭神」
「御船祭り」から、そんなに古くなないと思います。能登で取れる「えごのり」
が、安曇野の一部「エゴ・イゴ」、博多の「おきゅうと」として食べられているので、
同じ安曇でしょうけどね。
46:日本@名無史さん
12/08/30 21:03:49.90
>>44
千国街道を南下し、安曇野に入植したのですね。
”安曇野は本来小谷から始って佐野坂峠、仁科三湖を経て、大町、池田松川までを北安曇郡といい、
有明、穂高、豊科(現安曇野市)を南安曇郡として行政区分されているが佐野坂峠を越えて白馬、
小谷(おたり)までを安曇野という訳である。このルートを日本海の糸魚川まで千国街道が縦断して
いて塩尻に至る。この街道は塩の道として有名・・・・持ち込んだ殖産は生糸と水銀や製鉄の技術・・・”
奴国 2011/1/23(日) URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
47:日本@名無史さん
12/08/30 22:22:08.76
>>45
推古天皇三十二年四月
「壬戌以観勒僧為僧正以鞍部徳積為僧都即日以阿曇連闕名為法頭 」
(阿曇連を以って法頭とす。)
孝徳天皇白雉四年
「或本於五年七月云僧旻法師臥病於阿曇寺於是天皇幸而問之仍執其手曰若法師今日亡者朕従明日亡 」
(或る本に、僧旻法師、阿曇寺に臥病す。)
蘇我馬子が、推古天皇に葛城県を賜らんことを願い出た時に、阿曇連が使者となっている。
蘇我氏の仏教が百済であり、阿曇の新羅仏教を吸収して飛鳥仏教が花開いたのだろう。
48:日本@名無史さん
12/08/30 23:36:58.00
>>39
和邇氏ばかりか、葛城氏も海人族だったの?
”葛城氏は黒潮海人族で紀氏や和邇氏等の海人族と関係が深く、難波、紀伊を結ぶ
海難要路を確立し、西日本や海外との積極的な交渉・・・・・・”
2011.05.26 安曇氏・資料(南方神話と古代日本)
URLリンク(nigihayahi91.blog65.fc2.com)