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平安時代、桓武天皇より征夷大将軍に任命されて蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂を祖とし、
その子孫が代々田村郡を領してきたとされる。
だが、応永期までの田村荘(田村庄)領主であった田村庄司家は藤原姓であり、
それ以後に田村庄司職を奪取したとみられる三春田村氏は、
田村義顕が大元帥明王社に奉納した大般若経に平義顕とあり、
同様に田村清顕発行文書には平清顕とあることから、平姓と考えられる。
政宗は、宗顕に対して「伊達家の領有となったため、所領回復も容易であろう」と伝える一方、
伊達家臣白石宗実へは「宗顕が上洛し秀吉に直訴しても、田村領有は浅野長吉の意見に従っており、
清顕より田村家の名跡を渡された神文血判もあるため心配ないが、油断するな」と述べ、
所領回復運動をつぶす構えを見せている。
この清顕の神文血判は、前述したように政宗の「御子」誕生時に田村家督を渡すことを示していると考えられるが、
政宗はこれを自分に名跡を渡されたとする理論をもって田村領有を正当化しようとし、
結果的に奥州仕置を利用して田村領を乗っ取った形になる。
この政宗の裏切りとも思える行為に宗顕以下、田村家中の失望と憤懣は大きかった。
宗顕は、政宗の庇護の申し出を断り、牛縊定顕と名乗って伊具郡金山村に隠棲している。
政宗より与えられた「宗」の字を改めたところからも、政宗への憤懣を見て取ることができる。
後に愛姫の招きにより仙台藩領白石に居し、白石城主片倉景綱の姉である片倉喜多の名跡を継いだ。