河内源氏を語るat HISTORY
河内源氏を語る - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
11/02/04 17:20:10
壷井八幡宮

3:日本@名無史さん
11/02/05 09:42:04
頼朝も尊氏も家康も河内源氏。

4:日本@名無史さん
11/02/05 16:40:03
家康も?

5:日本@名無史さん
11/02/05 16:40:59
我は八幡太郎三十七代が後胤 旭八幡 源尊義なり!


6:日本@名無史さん
11/02/05 16:47:23
>>4
新田氏だからね。

7:日本@名無史さん
11/02/05 17:20:33
世良田頼氏の嫁は足利義氏の娘

8:日本@名無史さん
11/02/05 20:01:26
吉良も?

9:日本@名無史さん
11/02/05 20:03:59
河内源氏って強いの?

10:日本@名無史さん
11/02/05 20:07:54
俺、河内源氏が街を破壊しつつ原発の方に歩いていくのを見たぜ!

11:日本@名無史さん
11/02/05 20:43:31
>>9
強いよ。源氏といえば河内源氏だもんね。

12:日本@名無史さん
11/02/05 21:09:10
>>11
なるほど



13:日本@名無史さん
11/02/06 05:50:49
河内源氏(笑)

14:日本@名無史さん
11/02/06 10:59:46
>>11
枕草子の源頼光は、清和源氏出身の河内源氏で、拠点にしていたのが、兵庫県川西市。
頼光のお供の源綱は、嵯峨源氏の光源氏のひ孫。
俺は、その子孫です。

15:日本@名無史さん
11/02/06 11:08:07
>>11
綱の子孫で松浦氏諸流の本家次男なので、リアル桃太郎、吉備津彦のお供の大彦命の奥州安倍氏・・鳥海三郎の子孫でもあります。
竹取物語の阿倍御主人と同じ大彦命繋がりで阿倍氏の血も入ってますね。

16:日本@名無史さん
11/02/06 11:15:02
安倍元総理と共通の祖先、琵琶法師の唄、源平合戦の壇ノ浦の合戦の章・・所業無常の鐘の音~の松浦太郎(安倍)高俊も祖先なので、源氏、源義経の話とも繋がりますね。

17:日本@名無史さん
11/02/06 13:55:55
>>14
幕末はどこで何をしてた家なの?

あと頼光は河内源氏じゃなくて、摂津源氏か多田源氏ね。

18:日本@名無史さん
11/02/06 18:29:01
>>17
昔、ウィキペディア辺りで、見つけた時、川西辺りの河内源氏辺りと掲載されてたので、てっきり河内と思ってましたが・・
摂津源氏辺りでしたか、教えていただき、ありがとうございます。
幕末は知りませんが、家の氏祖自体は、江戸初期の長崎出島で長崎代官の片腕と語られてるそうです。

なだいなだ - Wikipedia
著者: なだいなだ
Amazon.co.jp
夢をみた海賊(チャイルド本社)。角川書店 1978.6
猫と海賊(偕成社、絵:小幡堅)。出版年月 1995年
に出てくる、島谷市左衛門親子だそうですね。
この著書で、父:島谷市左衛門定重が松浦氏出身と記載されてるそうです。









19:日本@名無史さん
11/02/06 18:32:29

「長崎県大百科事典」
・島谷市左衛門 しまや いちざえもん ?~一六九〇(元禄三)
 泉州堺の人。江戸時代前期の探検家。オランダ人カスパル・スハルベルヘンによって遠近法
 測量術を伝えられた長崎奉行所与力・樋口清右衛門から「規矩元法」の伝授を受け、島谷流
 航海術に優れる。一六六九年(寛文九)末次平蔵の命で唐船を模した船を造り江戸に回航した。
 一六七五年(延宝三)幕命を受けて代官・伊奈忠易らを乗せて伊豆下田を出港し、小笠原諸島
 を調査・探検し珍獣、奇木を持ち帰り将軍に献上した。  
・末次平蔵政直 すえつぐへいぞうまさなお 長崎代官を務めた朱印船貿易家。
・末次船絵馬 現在は長崎市歴史民族資料館に寄託。
・スハンベルヘン 出島商館外科医。

・航海術
 島谷市左衛門定重は一六七〇年(寛文十)『オランダ系航海術』を著した。


 

20:日本@名無史さん
11/02/06 18:34:40
江戸中期の蝦夷地巡検随員に任命されて北海道を測量した最上徳内も島谷一族です。

行動の人・最上徳内、城山来る。
URLリンク(park19.wakwak.com)
最上徳内
URLリンク(umi-no-hon.officeblue.jp)

明治の島谷一族出身の有力者
島谷汽船㈱島谷武次(社長)
URLリンク(www.city.hakodate.hokkaido.jp)

因みに、戦時中の家の爺さんは、広島出身の満州帰りで、淡路島で漁師と成ったので、俺は、元漁夫の次男。








21:日本@名無史さん
11/02/06 18:54:35
江戸時代前期の能役者シテ方。島谷吉兵衛【しまや-きちべえ】
URLリンク(kotobank.jp)

今の芸能界では、エイベックスの松浦社長の島谷ひとみに松浦あやや、ZARDの坂井泉水(本名:蒲池幸子) 松田聖子(本名:蒲池法子)松田聖子の元亭主の神田正輝も松浦氏出身の氏族。

22:日本@名無史さん
11/02/06 19:45:42
最上徳内の歴史に出てくる、今に続く、島屋総家一族につてい・・

神戸市文書館 灘の酒造業
「島屋佐右衛門家声録」 (『金世交通史料集』七 吉川弘文館 昭和49年
URLリンク(www.city.kobe.lg.jp)

23:日本@名無史さん
11/02/06 19:57:16
「姓氏家系大辞典 第二巻」

・島谷 シマヤ シマタニ
 泉州の名族にこの氏あり。河盛仁平の女婿を島谷安三郎という。
 また銀座由緒書に「平銀見役、島谷八之助、島谷八次郎」等見え、また伊勢、志摩にも存す。


24:日本@名無史さん
11/02/07 05:21:28
安倍晋三は腐臭。

25:日本@名無史さん
11/04/06 07:11:38.28



26:日本@名無史さん
11/04/08 20:29:42.74
>>6
家康は自称だけどね
家康の先祖が河内源氏の得川氏の娘に
入り婿したことになっている

27:日本@名無史さん
11/04/08 22:04:23.02
>>9
河内源氏の鎌倉悪源太と鎮西八郎は強い
>>10
もう勘弁してくれ

28:日本@名無史さん
11/05/14 04:12:13.15
新田遠江又五郎経政が居る (元弘3年8月熊谷直経軍忠状・熊谷家文書)。彦五郎・又五郎は田島氏の諱名であろう。
この経政は、南北朝内乱初期に、陸奥南部で親類の相馬氏と共に活動する新田左馬亮経政である(相馬文書)。
また「新田左馬亮経政代田島小四郎」(相馬文書)という記述から、経政の代官として田島小四郎なる人物が派遣されている。
代官には普通一族の者がなる場合が多いから、この史料は経政か田島氏であることを裏書するものである。
ところがこの経政は、史料上では建武2年(1336)に姿を消し、暦応元年から岩松頼有が伊予国守護、その後備後国守護として活躍する。
岩松氏惣領家は岩松経家が建武2年に中先代(北条時行)の乱で戦死してから、岩松三郎直(正木文書22)国が跡を継いで活躍する。そのように考えると、
この岩松頼有は岩松経政(田島系)の出家した姿か、あるいはその後継者である可能性が強いが、
それを確定する史料がない。
 『新田町史』

29:日本@名無史さん
11/05/14 06:46:14.69
河内源氏は義家の子孫が栄えたが、摂津源氏で中世近世の有力な家は?

30:日本@名無史さん
11/05/14 20:36:07.24
河内姓に河内源氏はいないの?

31:日本@名無史さん
11/05/14 22:32:55.96
>>30
大河内氏→松平氏=徳川家

32:日本@名無史さん
11/05/15 01:39:49.21
ノーマル河内は関係ないのですね。
ありがとうございます。

33:日本@名無史さん
11/05/15 02:40:58.37
自称頼政の子孫ね
実際はどうだか

34:日本@名無史さん
11/05/15 03:47:44.28
松平は河内源氏吉良氏の家臣かな

35:日本@名無史さん
11/05/15 06:17:03.77
>>31
新田→得川→松平

36:日本@名無史さん
11/05/16 01:39:06.80
新田から得川が分家するも断絶
三河の土豪松平が得川を僣称

37:日本@名無史さん
11/06/05 08:58:27.41
>>29
あまり知らないね
多田の領地に残った直系子孫の多田院御家人達が再び日の目を見るのは幕末

38:sage
11/06/18 23:58:55.59
太田道灌の太田氏>駿河守広綱(頼政末子)流、
美濃守護土岐氏>伊豆守国房(頼光長男頼国六男)流くらい?
国房は義家と合戦になったらしいね。
その子の出羽守光国は、義忠暗殺事件で為義と共に義綱の追討に当たってる。


39:日本@名無史さん
11/06/19 00:24:57.14
太田氏や大河内氏は皇族将軍についてきた京武者が鎌倉で生き延びる為に有力御家人の家臣になったってとこかな。
頼政流かはともかく、頼光流というのは十分可能性あると思う。


話は変わるが為義と共に斬られた義朝の弟って子供いなかったの?

40:日本@名無史さん
11/06/19 01:57:23.72
>>39
斬られなかった鎮西八郎為朝には子供が出来ていてもよさそうだが、
だとしてもその後一緒に斬られたか。



41:日本@名無史さん
11/06/19 01:59:59.50
>>38
摂津源氏では、国房流の美濃源氏は勢力あったらしくちょろちょろ登場するね。

光国長男の光信は鳥羽院四天王のひとりで為義と合戦しかけてる。偽義親退治の逸話も。
弟の保元・平治の乱で活躍した光保は、義朝より官位が上ですな。

光信の子、出羽判官光長は頼政養子の兼綱らと共に以仁王追捕の検非違使だったが、
美濃で反乱を起こして義仲と入京、伯耆守に任じられた後、法住寺合戦で行綱らと共に
義仲と戦って敗れ斬首になってる。この間兄の伊賀守光基はなにしてたのかしらん。

42:日本@名無史さん
11/06/19 12:26:46.60
>>39
頼賢の息子や為朝の息子は八条院に仕えたらしい。
八条院が女院になったのは平治以降だからそれなりに生きていた模様。

43:日本@名無史さん
11/06/19 13:00:38.68
流刑ですんだ為朝流はともかく頼賢も子孫いたのか
年齢的には妥当だが幼児すら斬った信西が殺さなかったのは意外

44:日本@名無史さん
11/06/19 17:14:42.55
>>42 >>43
八条院の蔵人になった行家と一緒に令旨伝えてもよさそうなもんだけど、その頃には死んでたのかな?

45:日本@名無史さん
11/06/19 17:19:12.85
>>41
光基、光長は「源氏揃の巻」で最初に名が挙がってる。
この時点で実際に最も動員力のあった源氏て誰なのかな?。
頼政はじめとする京武者の動員力はたいしたことないよね。
美濃や近江の源氏は流人の頼朝よりよっぽど力あったんだろうけど、都に近かったこともあって早々に掃討されちゃったが。
甲斐源氏あたり?。あとは官位も含め「勢力」でいうと新田足利、佐竹あたりか?。

46:日本@名無史さん
11/06/19 20:31:10.80
源大夫判官季貞


豪族ではないな

47:日本@名無史さん
11/06/19 21:40:08.97
>>46
季貞は平家方だよね?

>>45 の源氏は頼朝より動員力あったろうね。頼朝も土佐に流刑になってたら目なかったぽい。
その場合、関東では平家寄りの新田佐竹や、義広もいて反平家方は瓦解?。義仲との関係も微妙。
源広綱は関東武士団と繋がりなさそうだし千葉常胤が頼隆を担ぎ出す?

義仲と平家の戦いが続くことになるか、富士川を甲斐源氏単独で勝利したとすると後白河は武田信義を引き上げ、
政治力ゼロの義経も利用して対抗か?

48:日本@名無史さん
11/06/24 00:32:58.37
>>47
なんで土佐なのさ

49:日本@名無史さん
11/06/25 12:16:16.47
>>29, >>38
明智光秀て土岐氏流だったような

>>47
佐竹も平家方だろ。

頼朝の後ろ盾なきゃ義経は率いる兵ないよ。
頼朝の替わりに担ぎ出されたとしても関東から平家の影響力排除できたらポイされそうだな。
甲斐源氏に合流して頭角現してくるシナリオか?


50:日本@名無史さん
11/06/25 19:01:07.21
>>48
頼朝の同母弟希義が土佐に流刑になっていたからじゃね?
この兄弟の流刑先(伊豆、土佐)が逆になっていた可能性があったかも。

51:日本@名無史さん
11/06/25 19:07:49.26
>>45
挙兵を期待されたのは、「源氏」だけだったのかな?
円城寺の一部や南都も平氏と戦ったし、
八条院領を管理する非源氏系武士団にも令旨が行ったと見る向きがある。
(小山氏など)

52:日本@名無史さん
11/06/25 21:40:38.79
>>47
広綱と血縁的に近い有綱は頼朝の挙兵直前まで伊豆にいたらしい。
しかし危険が迫って奥州に逃亡。
有綱の祖父頼政が長期間伊豆知行国主だった為、
伊豆の豪族の中には頼政一族と
私的な主従関係を結んでいた者もいた模様。
その関係で有綱が伊豆にいたと思われる。
また、頼政は下総の下河辺氏(下河辺荘も八条院領)とも主従関係を結んでいたらしい。
鎌倉幕府並みの組織化はできなかっただろうが、
頼政派が坂東で割拠できる可能性があったかも知れない。

53:日本@名無史さん
11/06/25 22:42:25.00
>>47 >>49
勲功第一頼朝、第二義仲、第三行家 → 第一義仲、第二信義、第三行家になって信義も受領したか。
しかし信義には頼朝ほどの政治力も野心も無さそうだから義仲は史実より存えたろうけど、
京は平家に奪還されたかもね。その後はどうなるかわからん。
史実より僅差の兵力での義仲と信義傘下の義経との合戦とかあったかも。

54:日本@名無史さん
11/06/25 23:24:13.70
>>52
頼政派では富士川→佐竹成敗後ポイされそう。>>47 >>49 の流れぢゃね?
うまく坂東武士団手懐けたとすると広綱、有綱らで伊豆、駿河、武蔵あたり受領して
平家、義仲、甲斐源氏と四すくみ状態か。義経は史実と逆に有綱の武将になってる。

55:日本@名無史さん
11/06/26 10:57:35.93
新田義重にも兵が集まってると妄想してみる。


56:日本@名無史さん
11/06/26 15:36:12.24
>>55
義重は自立していた、とあるけどどうするつもりだったんだろ?
義重は清盛婿の所領を管理していたし、
甲斐源氏と頼朝の挙兵直後の状況を都にご注進している。

57:日本@名無史さん
11/06/26 17:04:05.29
元々義重の主な敵は藤姓足利氏でこの時足利忠綱は源氏方勢力の多かった上野国府まで攻めこんでいる。
義仲と足利に挟まれてうまく身動きできなかったのでは

58:日本@名無史さん
11/06/26 18:04:17.51
>>45
八条院に仕えていて行家の甥だからといって
行動を共にする必然性はなかったんじゃないかな?
元々為義系は政治方向バラバラだし。
八条院領を預かる武士の中にも藤姓足利氏みたいに平家寄りがいた。
蜂起計画は八条院グループ内でも以仁王近辺のごく一部のみにしか
当初の計画は知らされなかったのではないだろうか?
機密重視を考えて知らされなかった可能性もあるだろう。

59:日本@名無史さん
11/06/26 22:02:48.90
足利忠綱は令旨が届かなかったのにキレて平家側に走ったんぢゃなかったっけ?

60:日本@名無史さん
11/06/26 22:40:36.67
源季貞
清和源氏でありながら平家に組みし、同族に弓ひいた男

61:日本@名無史さん
11/06/26 23:49:08.35
>>59
「吾妻鏡」にはそう書いてあるけど、実際はもっと欲得まみれだったかも。
忠綱は宇治川渡河のあと平家に恩賞をねだってそれが同族の反感を買ったりしている。
その頃は平家官軍、以仁王と頼政は反逆者だから官軍について恩賞を貰おう位の思惑だったんじゃないかな?
本領では下野では小山氏、上野では新田氏との抗争を抱えていたから頼朝についたその後の行動は彼ら逆をついただけかも?
もしくは、藤姓足利氏が元々平家寄りだったから小山が頼朝を結果として選択したとか。

62:日本@名無史さん
11/06/27 00:57:03.15
>>60
清和源氏に同族だから協力するという発想があるのか?
源氏の敵は平氏という認識が当時からあったのだろうか?
平忠盛の烏帽子親は源義家の息子の源義忠だった。
志田義広が志田荘を立荘するにあたっては美福門院に近かった
池禅尼や当時常陸介だった平頼盛の斡旋があった。
同族の誼よりも自分の利害関係が優先される世の中で、
血縁的に遠い同族が味方としてがっちり組むという発想自体無かったのではないだろうか?

補足だが、
従来源平の対立が勃発の一つの要素として見られていた平治の乱は実は院近臣は天皇親政派の
政治抗争が乱の大きな要因であって平清盛は当初中立勢力で源義朝を従えていた藤原信頼は
清盛が敵に回るとは考えていなかったと見られているし
今まで「源平合戦」と捉えられていたものが現在は「治承寿永の乱」と称されるようになり
「源平」という氏族同士の戦いという面だけでは捉えられなくなってきている。

63:日本@名無史さん
11/06/27 14:53:36.41
ただし季貞はその義忠の系統だった気もするけど、利害優先ですな。
多くの関東武士団からして平氏てことになってる。


64:日本@名無史さん
11/06/27 16:11:17.28
基本的に
「源家」 対 「平家」 の戦いかな

あとはそれぞれの利害対立。


65:日本@名無史さん
11/06/27 17:48:24.55
>>64
その源家って誰を指すの?
頼朝?義仲?
頼政?
武田信義?
山本義経?源光長?
それとも他源氏?

66:日本@名無史さん
11/06/27 18:14:21.08
義忠流は義忠暗殺後母方の実家の平忠盛の保護を受けているから家臣になってもおかしくない

67:日本@名無史さん
11/06/27 20:04:46.65
>>65
>>64 は「基本的に」と断ってる。
頼朝あるいは義家嫡流を自認する義朝の一族でしょ。

>>55 >>56
義重んとこには令旨来なかったの?
(または頼朝・甲斐源氏の挙兵後に来た?)

挙兵の状況ご注進するくらいなら
行家(?)斬って報告した方がポイント高そうだけど。
そうはしなかったとすると単に日和ってた
or/and >>56 のような状況だった可能性の方が高そう。
吾妻鏡の「自立の志あり」てどうなのかね。

68:日本@名無史さん
11/06/27 20:19:55.16
>>67
なるほど。
ただ結果的には頼朝が平家を滅ぼしたけど、
挙兵直後は挙兵した源氏全体の盟主じゃないよね。
義仲は言うに及ばず、武田信義や安田義定は同盟関係。
畿内は頼朝の意向に従ったわけでもなさそうだし。
(「玉葉」を読むと近江源氏は武田信義とはつながりがあったようだが)
結果を見ると源家対平家だが経過をみるとそう言い切れなさそう。
初期挙兵勢力のうち九州、四国(希義以外)、寺社(熊野は微妙だが)は明らかに源氏とは無関係。

69:68
11/06/27 20:28:41.30
>>68の内容は>>64に対する感想です。

70:日本@名無史さん
11/06/27 20:36:22.45
>>67
どこかの本のうろ覚えの記憶だが
令旨は八条院領の住人で平家寄りでない武士や
頼政に個人的繋がりのある武士を中心に配られたのではないかとの見解がある。
その見解に従うと、平重盛に従っていた新田義重は令旨配布リストから除外されていた可能性もあるのではないだろうか?

71:日本@名無史さん
11/06/27 21:30:51.98
平安時代は、清和源氏対桓武平氏だろう。正し、末期の清盛の時代には、平氏側近が嵯峨源氏の松浦氏が安倍氏水軍として組みしたがったが、源氏にも、桓武平氏の流れを組む伊勢平氏が清和源氏に組み従ってたりで、勢力争いが複雑化してたようだね。
だから、後の鎌倉幕府以降の、武士時代には、出身問わない形を取ったからな‥。

72:日本@名無史さん
11/06/27 21:41:59.49
だから、戦国武将の縁組みも複雑化しルーツ桓武平氏なのに源氏と成ってる武将が結構居たようだしね。
例、桓武平氏の平良兼→永井氏=大江氏→長州毛利氏。
大友氏は、藤原氏だけど、戦いや勢力争いで源氏方を取り込んで行き、大友氏さえ、頼朝の乳母筋の島津氏に取り込まれりと‥

73:日本@名無史さん
11/06/27 21:59:13.71
>>71
平安時代は清和源氏対桓武平氏

意味がわからん。

武家棟梁が成立するのは義朝、清盛以降だし。(元木説の受け売りだけど)

保元以前に源氏と平家の対立があった?

74:日本@名無史さん
11/06/27 22:08:09.94
それと嵯峨源氏と清和源氏を同系統扱いするのもどうかな?
あくまでも臣籍降下するときに「源」姓を賜ったという共通項を持つに過ぎない。
その嵯峨源氏と清和源氏を同一視する論理はずっと公卿を排出し続けた村上源氏と、
受領止まりで穢れを産む武士と蔑まされた清和源氏を同一視するのに等しい。

75:日本@名無史さん
11/06/27 22:40:42.33
>>71
>後の鎌倉幕府以降の、武士時代には、出身問わない形を取ったからな

あなたがどのような意味合いでこの文章を書かれたのかわかりませんが
鎌倉幕府においては出身というか父方の経歴というのが重要視されていました。
例えば、御家人が「滝口」に推挙されるばあい、その御家人の父方の直系の祖先に
「滝口」経験者がいたかどうかが審査されましたし、
任官される場合も父方の先祖のその官位の任官前例が調べられていたようです。
このような事を見ても、少なくとも鎌倉幕府においては
出身が問われないということは無かったのではないかと思われます。

>>74
少なくとも鎌倉時代においては「源氏」の氏長者は公家で家格の高い「村上源氏」で
清和源氏ではないですね。
平安鎌倉期における家格では 村上源氏>>>>>>清和源氏ですね。

76:日本@名無史さん
11/06/28 00:30:25.02
>>72
大友氏さえ、頼朝の乳母筋の島津氏に取り込まれりと‥

乳母筋って比企尼‐丹後内侍?
だったら藤原氏だよ。
系図では比企掃部允藤原遠宗は、京武者藤原遠義の弟遠光の孫となっているので、大友氏とは極近い同族。


77:日本@名無史さん
11/06/28 10:36:28.22
>>72
毛利は確かに大江広元の子孫を称しているけど、平氏とは関係ないのでは。
大江は氏(姓)で毛利は名字。広元の姓は先祖から大江。大江広元の名乗りは源頼朝同様姓+諱。
毛利元就(名字+諱)の公的名乗りは大江元就(姓+諱)。
何で大江姓の毛利の出地があなたが主張する平姓永井になるんですか?

78:日本@名無史さん
11/06/28 22:00:21.42
>>73
> 武家棟梁が成立するのは義朝、清盛以降だし。(元木説の受け売りだけど)

もっと古い世代の学者である安田元久氏なんかも、武家棟梁の成立は義朝以降と言ってるよ。

> 保元以前に源氏と平家の対立があった?
平忠常の乱の追討使の座を巡って源頼信と平直方が争っているけど、あれはポスト争いだからね。
しかもその両者は後に姻戚関係を結んでいるし。

79:日本@名無史さん
11/07/31 00:08:16.48
>>47, >>52 - >>55

> 頼朝も土佐に流刑になってたら目なかったぽい。
> その場合、関東では平家寄りの新田佐竹や、義広もいて反平家方は瓦解?。

挙がってる平家方源氏(?)では、反平家方を「瓦解」させるまでは行かないような。
義重からすると、義広は足利忠綱と組んでるし佐竹と新田も仇敵だよね。

ただ頼朝がいないと野木宮合戦も起こらなかったかもしれんので
義広・忠綱(+行家)ラインが義仲と結んで(少なくとも北関東では)主導件握ったかも。

で、孤立してる義重は武田とは近いようなので、こちらと結んで義仲・義広に抵抗か。

行家は頼政一党方に付くかな?そもそも義広・忠綱ラインが成立したかもわからんが。

80:日本@名無史さん
11/07/31 03:50:21.21
志田義広はよく平家時代生きていられたな

81:日本@名無史さん
11/07/31 11:08:53.13
「平家にあらずんば人にあらず」という状況にはなったが、
粛清されたのは義朝の一派(藤原信頼方)でしょ。
都の権力争いとは無縁だったろうが義広はむしろ反義朝派だろうし、
義朝と近かった新田義重さえ平家に近づいて生きてる。


82:日本@名無史さん
11/07/31 21:20:47.30
そのまま京武者になるのあきらめ田舎の在庁官人になって年貢納めてたらOK


83:日本@名無史さん
11/08/19 21:54:43.48
>>56 >>70
そもそも「ご注進」といっても、義重は頼朝挙兵時京に居ったのを頼朝討たす為に清盛が国許に戻したんぢゃなかった?
(結局兵は集めても動かなかったようだが報告はしたと)
そんなんで、令旨の配布先になるとはおもえない。
甥の足利義兼には、八条院は荘園主で蔵人も勤めたから声かけそうだけど。

で、その令旨伝えてた行家、こんとき頼政に取り立てられこちらも八条院の蔵人になったそうだが
当時罪人か何かじゃないの。んなことして八条院や頼政は怪しまれなかったのかな?
配布先にだけ伝えてた?


84:日本@名無史さん
11/08/27 09:59:17.97
「源氏」は「チンギス・カン」

URLリンク(s1.shard.jp)

「元王朝」もまた、「源王朝」だった。

( URLリンク(park.geocities.jp) )

85:日本@名無史さん
11/08/27 23:55:14.54
>>84
名字の由来
URLリンク(office-maeta.jp)
■ 嵯峨源氏の起り
桓武天皇の次の嵯峨天皇は皇子と皇女を合わせて32人の臣籍降下を行ったが、これら全てに「源」の名字を与えた。
これが嵯峨源氏の始まりであるが、ではどうして源という名字を与えたか?
それは中国の北魏の太武帝が同族の河西王の子「賀」を西平侯に任じた時に、「卿(あなた)と朕(わたし)とは家系の源が同じである。
そこで今より源を氏とせよ」と言って源姓を与えたのに倣った。
佐賀源氏を遠祖する名字:  渡辺(摂津国西成郡渡辺村)・松浦(九州肥前)・宇久・五島(長崎五島列島福江島)



86:YAP?
11/09/05 11:33:00.31
 鮮卑拓跋部の北魏の漢化政策の際に、鮮卑諸氏に漢人風の姓を与えた時に、宗室の諸家に与えられた
姓(と言うよりも本当は氏」だろうが)の一つが「源」だ。これは、皇帝家が「元」氏を称したのと
関連し、多分音が近い(音通かどうか調べていないが)のも、この字が選択された理由だろう。

 しかし、父系制氏族社会で、しかも氏族外婚制の鮮卑族で、「百世通婚せず」と言われた
分出した各姓の関係と、日本の一応父系制氏族社会では有るが、異母兄妹婚をも許容するような
社会での「源氏」の位置付けは違う。

87:日本@名無史さん
11/09/18 11:51:23.60
河内源氏の嫡流の壷井家は続いてるみたいだね。壷井八幡宮の鳥居に名前掘ってあったよ

88:日本@名無史さん
11/09/19 16:01:56.62
兵庫川西の猪名川は摂津源氏の本家、落人の里、皮剥の集りですが、

89:日本@名無史さん
11/09/19 21:13:18.21
>>88
多田源氏の末裔達は多田神社で同族会をつくってますので、はい。

90:日本@名無史さん
11/09/19 21:42:52.88
親平家の義忠流源氏

91:日本@名無史さん
11/09/20 21:27:18.96
>>88
あのな、無知な捏造する前に、時代のギャップをどう説明するか、又、ソース揚げて
時代遍歴とターゲットと捏造したいターゲットのクロスポイントを、しっかり煮詰めてからレスれよW
そんな、バレバレなアホらしい捏造、相手にされないけどねW
B層集落のB落とは、将門の乱の時代に渡来していた、高句麗帰化の西宮神社の氏子や巫女の傀儡子の集落がB落の起源とされている。
即ち、B層とは、各神社の氏子と巫女を指している。
宮司や新主は、平民より上武家よりしたの立場の人。
その下の層は、おのずと知れる訳だ。
源氏と平氏が現れた時代は
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))と
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月8日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。
平将門の生年は9世紀終わり頃から10世紀初めとされるが、正確な生年は不詳である。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされる事から、903年とする[2]。884年頃とする説もある[3]。







92:日本@名無史さん
11/09/20 21:53:23.44
嵯峨天皇、 源氏長者が、(源)融〔嵯峨源氏へ〕 、兄が(源)信〔嵯峨源氏へ〕

嵯峨天皇の嫡子が、仁明天皇・・
嫡子が・・文徳天皇、清和天皇、貞純親王、(源)経基〔清和源氏へ〕
弟が・・光孝天皇、宇多天皇、敦実親王、(源)雅信〔宇多源氏へ〕
だから、嵯峨源氏は、孫。
清和と宇多は、曾曾曾曾孫。
嵯峨源氏、光源氏モデル融は、枕草子の渡辺綱や松浦氏の祖。
八幡太郎の義家が頼朝と義経の祖←後、頼朝死後の末代は、平貞盛を祖とする伊勢平氏、北條政子の命により暗殺され頼朝末代は、滅亡。
賀茂二郎の義綱が新田と足利の祖←足利は、新田と仲違えし、新田は、楠木と共に足利に破れ、足利幕府の祖。
徳川幕府の家康も、賀茂二郎の義綱の末裔。
嵯峨天皇の弟筋、桓武平氏は、桓武天皇の第6皇子、葛原親王。
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─国香─貞盛
平氏始祖の【平】高望王は、曾孫。

将門の系譜
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─良将─【相馬】将門
清盛の系譜
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─国香─貞盛─維衡─正度─正衡─正盛─忠盛─清盛
鎌倉幕府、北條政子の系譜
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─国香─貞盛─維将─維時─直方─聖範─時直─【北条】時家─時方─時政─【源】頼朝室入り、頼朝の妻:政子

93:日本@名無史さん
11/09/20 21:55:21.83
清和源氏 > 摂津源氏の時代は、家祖:源頼光
摂津源氏は、もっぱら京で活動する武士であり、公家の日常に奉公する機会も多く、武はもとより文や和歌に長じた。
源頼光は、満仲伝来の本拠地を相続したが、その後武家源氏の主流は、頼光の弟の頼信にはじまり東国へ勢力を扶植し、武家の棟梁となった河内源氏のものとなり、子孫が繁栄した。
後の征夷大将軍は、源氏ではもっぱら河内源氏の流れから出ている。

摂津源氏で名の残る武士は、源頼光以外では、源仲政と、その子で、平治の乱の後、唯一生き残った源氏の長老の源頼政だろう。
頼政は、摂津国の渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠地とする滝口武者である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党とする。彼は父の仲政と同じく馬場を号した。
「朝家の守護」と称された満仲、頼光の流れを汲む摂津源氏は、代々、大内守護(宮中護衛。近衛部隊の前身のようなもの)の任に就いた。
多田を基盤とする系統で名前が残っているのは、鹿ケ谷での謀議を密告したとされる多田行綱(源行綱)。
行綱は源平合戦では源義経軍の一翼の多田源氏棟梁として活躍。
そのため、後に源頼朝から疎まれ、多田の所領を没収される。

摂津源氏
URLリンク(ja.wikipedia.org)



94:日本@名無史さん
11/09/20 22:38:06.61
摂津が開発され、集落形成は、清盛の時代以降。
忍=傀儡子が仕えたのは、武家源氏や平氏だから、その膝元の皮革売りの傀儡子の集落=情報交換場所が在って普通だろう。
人里離れた忍の郷は、拠点=隠れ家。

95:日本@名無史さん
11/09/20 22:40:43.04
傀儡子
URLリンク(ja.wikipedia.org)

96:日本@名無史さん
11/09/20 23:09:26.60
要するに、忍びとは、アルカイダと似た組織だったって事。
今は、戦勝国アメリカの工作員なだけ。
経団連らも、生き残る為に、渋々追従してきたが、日本経団連に成ってからは、似非ユダヤ追随で開き直ったヤクザ的組織。
トップが、東電などの官僚天下り組織だしね。

97:日本@名無史さん
11/09/20 23:11:39.38
高句麗からの傭兵=傀儡子=忍

98:日本@名無史さん
11/09/21 01:17:30.52
皇族>公家>僧侶・宮司>武家

99:日本@名無史さん
11/09/21 01:48:25.59
>>98
織田信長の時代までな・・
信長以降武家に僧兵悉く打たれてからは、皇族>公家>武家>僧侶・宮司


100:日本@名無史さん
11/09/21 13:16:13.90
>>93
知行を失った後は多田院御家人になったんだよ。幕末は多田隊ね。

101:日本@名無史さん
11/09/24 15:05:54.98
>>91
あのな、説ばかり唱えてオマエはその時代に生きていたのかボケ、
川西、猪名川は皮剥の本場なのは間違いないやろ、現実を知れノータリンw

102:日本@名無史さん
11/09/25 07:29:17.63
源義家に通じるように整備させた徳川家康

URLリンク(2nd.geocities.jp)

将軍になるには清和源氏でなければならなかった。

( URLリンク(park.geocities.jp) ) 

103:日本@名無史さん
11/09/25 12:41:54.90
>>101
【政治】B型で短絡的・松本龍前復興相が退院 「知恵を出さないやつは助けない」発言で引責辞任★2
スレリンク(newsplus板:325-345番)
>>325-345を観てみW



104:日本@名無史さん
11/09/25 12:45:06.27
>>101
【政治】B型で短絡的・松本龍前復興相が退院 「知恵を出さないやつは助けない」発言で引責辞任★2
スレリンク(newsplus板:325-345番)
>>325-345のレスは、俺だがねっ!WW

105:日本@名無史さん
11/09/25 19:17:35.74
>>102
家康は、三河の2人先輩と同じ源氏になりたかっただけだろ
難しく考えすぎなんだよ


源頼朝
・生誕地:不明
*母親の実家である藤原館(愛知県岡崎市)で生まれた可能性あり

・墓所等:滝山寺(愛知県岡崎市)
*母親の実家の菩提寺、歯とあごひげが埋め込まれた等身大の聖観音像あり


足利尊氏
・生誕地:不明
*足利宗家の大門屋敷(愛知県岡崎市)、母親の実家の日名屋敷(愛知県岡崎市)で生まれた可能性あり

・墓所等:八剣神社(愛知県岡崎市)内に墓


徳川家康
・生誕地:岡崎城(愛知県岡崎市)

・墓所等:大樹寺(愛知県岡崎市)

106:YAP?
11/09/25 21:37:00.30
既に家康の祖父の松平清康が、世良田次郎三郎清康と称しており、
新田氏族世良田・徳川流に仮託していたから、家康はその路線を
継承しただけだ。

107:日本@名無史さん
11/09/25 22:08:10.08
松平清康も源氏になりたかっただろ


↓三河はこれだから


源頼朝
・生誕地:不明
*母親の実家である藤原館(愛知県岡崎市)で生まれた可能性あり

・墓所等:滝山寺(愛知県岡崎市)
*母親の実家の菩提寺、歯とあごひげが埋め込まれた等身大の聖観音像あり


足利尊氏
・生誕地:不明
*足利宗家の大門屋敷(愛知県岡崎市)、母親の実家の日名屋敷(愛知県岡崎市)で生まれた可能性あり

・墓所等:八剣神社(愛知県岡崎市)内に墓



育ちの悪い全国のカッペが色々考えすぎなんだよ
源氏ばかりの勝ち組三河で、単純に源氏になりたかっただけ

108:日本@名無史さん
11/09/25 22:11:38.94
元弘の変当時の足利一族

【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)                                         
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)             
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城      

【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の屋敷                            
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷                            

【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷                        
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城) 

【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領家)の屋敷                   
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷                     

【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15~20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西尾城)               
・奥州吉良一族(奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)          
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷                   
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)              
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷 

109:日本@名無史さん
11/09/25 22:32:44.54
松平は鴨ちゃん

110:征明仁大将軍
11/09/30 13:07:27.24
什麼狗屁的源賴朝,織田信長,豊臣秀吉,德川家康 全部靠邊站。。。。
足利義滿在馬背上打倒後醍醐天皇,用兵馬一統天下,成為太政大臣,
手握天下兵權,是歴代征夷大将軍的典范

111:征明仁大将軍
11/09/30 15:00:43.12
>>106
德川 原作 得川
家康改得川為德川

112:日本@名無史さん
11/09/30 18:27:26.82
日光東照宮、何故日光なんだろうか?


栃木県日光市
【日光山満願寺】
・源頼朝の推挙により従兄弟の寛伝(母親の兄の息)が別当に
・満願寺の別当は、勝長寿院の別当、鶴岡八幡宮の供僧に自動的になった

【日光東照宮】


愛知県岡崎市
【滝山寺】
・源頼朝の従兄弟の寛伝(母親の兄の息)が、一族の菩提寺で僧侶
・頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像を制作

【滝山東照宮】



この辺は田吾作にはわからないだろうね



113:日本@名無史さん
11/09/30 18:58:42.72
源氏

114:YAP?
11/10/02 17:21:29.63
松平清康(清孝)が、世良田を書したのって、南北朝期に初期に武家方
、つまり足利側の三河守護に、新田氏族里見系大島氏が任命されているので、
足利一門を僭称するのはまずいが、清和源氏として有名な新田氏の中で、
武家方であって、尚且つ、子孫が没落した(つまり本物の子孫が文句を
言ってくる可能性がない)と言う条件で、世良田氏を選択したのだとすれば、
清康も凄いが、そうではないとすると、多少は根拠があったのだろう。
 世良田善政は、上総守護(上総も鎌倉時代の足利氏の守護領国だ)から
足利基氏に、粛清されている。

115:日本@名無史さん
11/10/03 02:25:31.80
松平は貴姓に憧れた悪党あがりの土豪。

赤松や楠木の三河版

116:日本@名無史さん
11/10/03 06:38:14.08
松平は皇室領だったから

松平郷の最初の開拓者は、源頼朝のひいおじいさん藤原季兼
季兼が皇室に寄進後は荘官として三河源氏の足助氏、足助氏からは源頼家に室(源為朝のまご娘)を出し、生まれた子供が公暁
次が源氏(源義経)とつながりが深い三河鈴木氏
その次が松平氏

松平氏をただの山の中にいた土豪とか言っちゃう人は、わかっていない人なんだろうね



117:YAP?
11/10/03 12:18:02.18
114 の世良田「善」政は、「義」政の誤変換だ。訂正する。

 松平氏には、東国からの浪人だと言う伝承は、有ったのだろうと思う。


118:日本@名無史さん
11/10/03 22:03:03.06
松平信光の嫁はんが一色満範の娘だとすると、義家頼義義国の遺伝子は家康に確実に入っている



119:YAP?
11/10/10 20:00:30.75
 伊勢氏の被官と為っていた松平氏の過去から考えると、京の清和源氏諸流の動向や
偽系図を作ったときの反発も予想できただろうな。

 京都松平氏は、有徳人として、高利貸活動をやっていたから、借金のカタに系図を飾る
、つまり、誰かに金を貸して、その養子になる格好で、清和源氏入りも可能だったはずだが、
そうではない、関東の世良田氏の末裔を称したところから見ると、何らかの家系伝承はあったのだろう。

 安城松平氏の宗家に当たる岩津松平氏は、結構盛んに在京活動をしていたから、
京都でのコネは十分にあり、資金力もあったから、在京活動では適当な系図の必要性も
認識していたと思う。

120:日本@名無史さん
11/10/11 00:53:16.53
松平が新田の末裔ならば始めから源氏を名乗るだろう
家康が源氏を名乗ったのは征夷大将軍宣下とほぼ同時という事実をもって
源氏説は否定できるのでは

121:日本@名無史さん
11/10/11 01:08:40.87
>>119
>京都松平氏は、有徳人として、高利貸活動をやっていたから、借金のカタに系図を飾る
>、つまり、誰かに金を貸して、その養子になる格好で、清和源氏入りも可能だったはずだが、

池田氏族系統
池田大作辺り臭いねW

122:YAP?
11/10/12 10:59:51.79
家康が、「藤原」姓奥川氏を最初に称した一件だな。

 しかし、祖父の清康が、「世良田」を称したのを踏まえての「徳川」名乗りだ。
また、(記憶が間違っているかもしれないが)岩津松平氏の祖信光が、
「源信光」を称してなかったか?

123:YAP?
11/10/12 11:04:38.49
上の↑「奥川氏」は、勿論「徳川氏」の誤記だ。

 PCがちゃんとキー・ボードの打鍵を拾ってくれないのか、良く一文字
抜けて変換されてしまうのだ。済まん。

124:日本@名無史さん
11/10/12 23:45:37.81
松平氏は、あくまで被支配階級の出身だお(´-ω-`)

家系図を糊塗しただけの賤民だぉ

125:日本@名無史さん
11/10/13 10:39:12.05
賀茂氏・・・

126:日本@名無史さん
11/10/13 14:07:00.74
三河鈴木氏でしょ
一色氏から河内源氏の血も入り、水野氏が満政流なら、源氏である事に間違いない

127:YAP?
11/10/14 00:45:58.74
松平氏は、賎民出自かもしれないが、京都松平氏は、近江の日野家領の庄官を務めていたり、
有徳人として京で高利貸を行なっていたり、室町幕府逸事の伊勢氏の有力被官として、
伊勢氏の申次衆などにもなってたのだから、応仁の乱の前には、既に有力な土豪として、
扱われえいた事は間違いない。

128:日本@名無史さん
11/10/14 07:56:30.63
>>125
賀茂氏は名門だお

129:日本@名無史さん
11/10/14 18:30:34.39
松平郷の主は
足助氏(三河源氏、満政流)→鈴木氏(三河鈴木氏)→松平氏
松平氏の出自については、鈴木さんが知っているはずなんだよ
あとは三河伴氏の設楽氏、富永氏、実は三河伴氏と思われる中条氏



130:日本@名無史さん
11/10/15 02:58:29.05
有力な土豪であったとは言えそうだが河内源氏の血を引くと
言うのは無理筋だな

131:日本@名無史さん
11/10/15 07:29:04.77
鎌倉幕府の4代目将軍は、源頼朝の姉妹の血を引いている理由で将軍になった

家康は一色満範の血を引いていると言う事は、一色公深、一色範氏(母親が今川国氏の娘)、一色範光、一色詮範のみならず
満頼信、源頼義、源義家、源義国、足利義康、足利義兼、足利義氏、足利泰氏のみならず
吉良長氏(今川国氏の父親)、今川国氏(娘の一人が一色公深の室)の血を引いている



132:日本@名無史さん
11/10/15 08:27:01.46
伊勢氏家臣の中では席次高い方だったんか

133:日本@名無史さん
11/10/15 19:11:33.53
松平氏って、実際、三河国のなかでどういうポジションだったの?

守護代ではないとしても、最有力な戦力だったようだし。
そういう位置づけって他の国では珍しいよね。

134:日本@名無史さん
11/10/15 21:21:16.15
最初、藤原氏とか言ってたのは、伊勢氏が三河でプラプラしていた藤原氏だったからかな
足利宗家に鎌倉連れていかれると、伊勢氏と名前を変えたから


135:日本@名無史さん
11/10/15 21:47:20.42
伊勢氏は平家とおなじ貞盛流伊勢平氏でそ。

136:日本@名無史さん
11/10/15 22:28:08.38
初代伊勢氏の伊勢俊継、三河にはいた頃は藤原俊継と自分で言っていたでしょ
豊田に所領があって、三河でプラプラしていた
その時に斯波家氏や長瀬四郎とかの足利一門と知り合い、足利宗家に近習するようになったワケだな
伊勢氏も元々は三河つながりよ



137:日本@名無史さん
11/10/15 23:50:51.42
平家の親類であることを避けたとか?
将門の子孫を名乗っている武家がひとつもないのと同じようにさ

138:日本@名無史さん
11/10/16 01:10:44.25
>>118 >>131
松平信光室が、一色満範の娘らしいという説のソースってご存知ですか?

「三河松平一族」って本は読んだことあるけど、そこまでは言ってなかったような。
(一色宗義の娘となってたように記憶してますが、一色宗義って系図に乗ってないし、どんな関係なんだろう?と思った記憶があります。)
 一色満範の旧名とかなのだったら合点もいきますが…


139:日本@名無史さん
11/10/16 01:16:07.71
恥ずかしながら、wikiですわw



140:YAP?
11/10/16 02:59:59.19
 伊勢氏って、確か鎌倉時代の足利氏の上総守護代だったと思うが、
三河出自ではないだろう。
伊勢氏は、やはり平氏でいいだろう。

141:日本@名無史さん
11/10/16 03:54:42.31
上総守護代の人、系図に出てこないでしょ、俊継の孫の代みたいだが
伊勢氏の出自は謎で有名だが、活動を記録を残した一番古い資料では三河で藤原氏と名乗っている




142:日本@名無史さん
11/10/16 08:42:09.46
松平に母系で一色の血が入っていたとしても松平を河内源氏とは言えないだろ



143:日本@名無史さん
11/10/16 08:50:10.01
伊勢氏一族の伊勢新九郎(北条早雲)は、自家の遠祖を桓武平氏関氏と語ってる。

144:日本@名無史さん
11/10/16 09:11:06.20
>>137
一応相馬家が
>将門の子孫を名乗っている
けどね。
だいぶ後世になってからだけどね。

145:日本@名無史さん
11/10/16 21:54:28.81
伊勢氏が仮冒したのは事実で、田舎の寺の記録でバレた
伊勢俊継と俊継の父親、父親の弟、父親の弟の息子が揃いも揃って藤原と言っていた
伊勢平氏も眉唾だな
北条早雲が伊勢氏の可能性はあるわな、家来に足利被官で三河系の富永氏がいるから



146:日本@名無史さん
11/10/16 22:07:25.55
早雲が伊勢一族なのは確定だろ
関氏や伊勢氏は山木氏に近い侍大将級一門

147:日本@名無史さん
11/10/17 06:54:50.95
伊勢氏の称桓武平氏が仮冒なら、称藤原氏だって仮冒と言えてしまうわけ。

伊勢平氏祖の平維衡は伊勢国神郡で同族・平致頼(良兼流)と何度も所領を巡って合戦を起こしてるし、その間伊勢守にも任官しているので伊勢との縁は深い。
その過程で当然同国の有力在地豪族と姻戚関係を築いていったと考えるのが自然だろう。
中世伊勢氏はおそらく伊勢国造の伊勢直(中臣氏族)が母体氏族であり、貞盛流平氏を婿に取り込むことで桓武平氏流伊勢氏が成立したのだと考えられる。

但し、このような事例は中世伊勢氏に限ったことではなく、受領階級ならみな過程を辿っているのだが(受領階級は当然全国各国を赴任して回るので)。

伊勢氏の称藤原氏は母体氏族である「原」伊勢氏が中臣氏族である由縁からか、或いは藤姓伊勢氏流・川島氏(北家山蔭流)との姻戚関係が推測されるのではないか?

因みに伊勢三郎義盛がこの系統と言われる。

148:147一部訂正
11/10/17 06:58:03.70
受領階級ならみな過程を辿っているのだが(×)

受領階級ならみな同じ過程を辿っているのだが(○)

149:日本@名無史さん
11/10/17 07:18:45.29
ただし、伊勢平氏祖・維衡が貞盛四男というのは無理がありすぎる。
西暦930~40年代頃に活躍したのが父貞盛だが、
維衡の活動期間は西暦1000年前後から1010年くらいまでのこと。
その間6~80年もの開きがあるので、間に2、3世代は入らないとおかしくはある。


150:YAP?
11/10/17 12:47:21.91
(北条?)早雲が、伊勢新九郎盛時の後身だと言うのは、もはや定説だろう。
彼が、姉の子今川氏親の擁立に貢献し、今川一門に準じて、一門の席次第三位か何かだった
筈だ。その伊豆・相模討ち入りも、京の管領細川氏の動きと連動していた事も
現在の常識だろう。黒田基樹氏の著書に書いてある。
河内源氏とは関係ないから、ここらで伊勢氏の話は止めたい所だが、足利貞氏の上総守護代
伊勢弾正忠宗継の名が、伊勢氏系図に見えないからといって、京都の伊勢氏が
その支流であることは、まず間違いないだろう。

151:日本@名無史さん
11/10/17 18:18:07.91
何度も仮冒していては、信用ゼロだ

伊勢氏については
初代伊勢氏の伊勢俊継は、三河で藤原俊継と名乗り、足利一門及び足利被官と交流していた
鎌倉に移り住み、伊勢氏に姓を変えた
正しい事はこれだけ

下向話が胡散臭い上杉氏も、何か似ている
上杉氏も三河にいた藤原氏だろうな、三河にあった屋敷は重房の前からの所領だろう





152:日本@名無史さん
11/10/17 18:20:07.86
宝賀厨が来てるな

153:日本@名無史さん
11/10/17 19:01:56.73
むしろ三河厨だな。
足利関連の話になるとどこにでも湧いてくるw


154:日本@名無史さん
11/10/17 19:02:00.92
伊勢氏って伊勢平氏と関係ないのか?

155:日本@名無史さん
11/10/17 21:06:33.98
伊勢と言えば在原業平だろ。

156:日本@名無史さん
11/10/17 21:12:51.98
中世前期に
>仮冒
もあるまいよ。
称氏姓の変更、複数の氏祖記録があることを以て即「仮冒、冒姓」と決めつけるのも
宝賀及び宝賀信者の悪い癖だ。

そのクセ、称桓武平氏の部分だけ「仮冒」とするのも恣意的もいいところ(宝賀一派は伊勢氏の称桓武平氏、称藤原氏の双方をひっくるめて「仮冒としている)。


☆宝賀の論調

・招婿婚の無視
・地方下向貴族(源平藤橘他)の末裔の行方を無視
・系図混乱の要因が「仮冒」一択
・少しでも矛盾があれば「古代豪族の末裔であろう」




157:日本@名無史さん
11/10/18 09:28:55.64
早雲は氏素性不明の一介の素浪人で今川の食客、伊豆の混乱に乗じて国を切り取った乱世の奸雄、
戦国の風雲児、これが定説。

158:日本@名無史さん
11/10/18 15:00:36.42
>>156
宝賀は斯波家長が高経実子で無いと考える理由を年齢的にありえないとか言いやがってから全く信用できない
16歳で子持ちは現代でもいます

159:日本@名無史さん
11/10/18 20:10:47.74
北条早雲と言えば、小田原城 小田原城といえば大森氏 


大森氏
藤原伊周→忠周→高橋惟康(伊勢新二郎)→親康 →大森親家(初代大森氏)



大森一族の祖で三河国額田郡高橋庄と関連が深い人物がいるからである。
すなわち、大森葛山の祖・高橋惟康について、「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」と上記「姉小路系図」に註記される。
高橋庄は高橋郷(現豊田市高橋辺り)を中心に豊田市域の北部中央、矢作川中流を挟む一帯から尾張国境に及ぶ庄域をもった大荘園であり、十一世紀頃の開発とされる。
安元二年(1176)二月日の八条院領目録に庁分御荘として参河国高橋・参河国高橋新庄があげられる。
はじめの下司・地頭職は開発領主高橋(藤原)氏から長田氏に移り、元暦元年には頼朝の御家人小野成綱に同職が移ったとみられている








160:日本@名無史さん
11/10/18 20:18:56.95
源頼信のお兄さんである 源頼光は土蜘蛛退治、鬼退治で有名ですね。


161:日本@名無史さん
11/10/18 20:47:54.68
大森氏
藤原伊周→忠周→高橋惟康(伊勢新二郎)→親康 →大森親家(初代大森氏)

藤原実範→女子→高橋惟康(伊勢新二郎)→親康 →大森親家(初代大森氏)


参考
藤原実範→季兼(高橋荘開拓者)→季範(初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝




高橋惟康(伊勢新二郎)と初代藤姓熱田大宮司の藤原季範は従兄弟


162:日本@名無史さん
11/10/20 14:57:06.73
wikiに為義は義家の孫でなく子だとあるんだけど
尊卑分脈の信頼性って低いの?

163:日本@名無史さん
11/10/20 16:15:23.07
系譜類では最も高いものだが何せん300年近く前の人物だからな
まあ為義の場合、蔭位狙いな気がするが

164:日本@名無史さん
11/10/20 20:23:12.87
>>159


165:日本@名無史さん
11/10/20 20:34:07.67
義朝と義康、頼朝と義兼はセット
為義が義家の孫だと一世代ずれる


166:日本@名無史さん
11/10/20 20:43:48.31

腐ジャニオタ雑談中w


URLリンク(jbbs.livedoor.jp)

【J/U/N/E/談話室】

かつて土星に存在したJUNE小説板とその後継サイトを心より愛する人のための場所です



167:日本@名無史さん
11/10/21 01:33:42.65
>>159
三河国額田郡高橋庄

荘官は足助氏
頼家の妾は足助重長の娘(源為朝の孫娘)


源為朝→女子(足助重長の室)→女子(足助重長の娘)→公暁

源為朝→義兼→義氏→泰氏


義兼の実父が源為朝だとすると、公暁は義氏の従兄弟の子供と言うことになる


168:日本@名無史さん
11/10/22 05:35:20.06
そのものずばり、
『河内源氏』という本が出版された?

169:日本@名無史さん
11/10/22 22:37:23.65
■藤原季兼■三河四郎大夫、乙見冠者

・高橋荘、高橋新荘、乙見荘の開拓者
・源頼朝の曾祖父


【高橋荘領主】
・高橋惟康(伊勢新二郎、藤原季兼の妹の息)→高橋親康→高橋親家(大森親家、初代大森氏)→長田忠致(源義朝を暗殺)

・高橋一族は源義朝を暗殺した長田一族に追い出されたワケだな

【高橋新荘領主】
足助重長(娘が源頼家の室、娘の息は公暁)→以後室町時代初期まで足助一族、高橋新荘内の松平郷には松平氏

【乙見荘領主】
藤原季兼→藤原季範→藤原範忠→嫡流と寛伝、娘婿の足利義兼、足利義氏が三河守護になって以降は全域に足利一族・足利被官

・足利義兼には乙見荘菅生郷が与えられ、郷司職に高階惟長
・高階惟長の孫の高重氏の代に事実上高一族の所領になった
・高階惟長、高重氏の子孫は勿論、高師直・高師泰である



170:YAP?
11/10/23 01:05:51.15
元木泰雄『河内源氏』(中公新書)だね。
 いい本だ。

171:日本@名無史さん
11/10/26 00:42:44.85
河内のおっさんだけど何か質問ある?

172:YAP?
11/10/26 00:57:50.59
↑のヒト、まさか元木氏の論敵、河内祥輔氏だったりして・・・。

173:日本@名無史さん
11/11/01 18:37:29.04
■藤原季兼■三河四郎大夫、乙見冠者(乙見は三河国乙見荘に由来)
・高橋荘、高橋新荘、乙見荘の開拓者
・源頼朝と足利義兼の母方の曾祖父

■藤原季範■額田冠者(額田は三河国額田郡に由来)、初代藤姓熱田大宮司
・二人の娘(1人は養女(長男範忠の娘))が源義朝と足利義康に嫁ぐ、源頼朝と足利義兼の母方の祖父、

【高橋荘領主】
・高橋惟康(伊勢新二郎、藤原伊周の孫、藤原季兼の妹の息)→高橋親康→高橋親家(大森親家、初代大森氏)→長田忠致(源義朝を暗殺)

*高橋一族は、長田一族が乗り込んできた後も高橋荘にとどまったが、のちに駿河国大森に移り住む

【高橋新荘領主】
・足助重長(娘(源為朝の孫)が源頼家の室、息は公暁)→以後室町時代初期まで足助一族、その後三河鈴木氏(松平郷には松平氏)

【乙見荘領主】
・藤原季兼→藤原季範→藤原範忠→藤原忠季(嫡男)、寛伝、足利義兼→藤原忠兼→藤原忠成(海東忠成、幕府政所別当 大江広元の息)

*寛伝の所領は66郷
*足利義兼(母親の実父は藤原範忠)には乙見荘菅生郷が与えられ、郷司職に高階惟長(室は大江広元の娘(藤原忠成の姉もしくは妹))
*高階惟長の孫の高重氏の代に事実上高一族の所領になり、高師直・高師泰に受け継がれた

174:日本@名無史さん
11/11/01 19:37:20.83
【高橋荘】

■源頼朝
・猿投神社:藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築 、当神社には源氏八領の薄金の大鎧あり

■足利尊氏
・長興寺:三河利生塔、全国66ヶ国2島の利生塔の一つ

【高橋新荘】

■源頼朝
・平勝寺:元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・普賢院:寺領寄進

■足助重長
・黍生城

■足助重秀
・飯盛山城



175:日本@名無史さん
11/11/01 19:42:44.87
【乙見荘】
■藤原季範
・蓮華寺:造営、仏性燈油料として恵那河内(米河内)郷を寄進
■藤原範忠
・滝山寺:本堂建替え(滝山寺にとって二度目)

■寛伝
・滝山寺:惣持禅院の建立、頼朝の歯と鬚が胎内に納められた等身大の聖観音像を安置

■源頼義
・長瀬八幡宮:創建

■源頼朝
・滝山寺:伽藍造営、頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像あり

■源範頼
・上地八幡宮:創建

■源義経
・妙大寺:創建

■足利義兼
・真福寺:法華堂造営

■足利義氏
・滝山寺:本堂建替え(滝山寺にとって三度目)、北条政子と源実朝の遺骨を分骨
・高隆寺:七堂伽藍造営
・萬徳寺:元は足利義氏亭

■足利頼氏
・真福寺:証菩提院造営
・滝山寺:一切経蔵の経会料所寄進

176:日本@名無史さん
11/11/01 19:44:00.45
【乙見荘】つづき

■足利貞氏
・滝山寺:如法堂造営

■足利尊氏
・真福寺■持地院建立
・滝山寺■寺領寄進
・高隆寺■義氏の時代から続く七堂伽藍完成
・天恩寺■足利尊氏遺言の寺、3代将軍足利義満建立、4代将軍足利義持の祈願所
・満性寺■太子信仰、足利尊氏弓矢の守護神、伽藍造営
・総持寺■高一族屋敷跡に高師泰(高師直の兄)の娘が建立、足利尊氏と足利義詮の支援あり
・長瀬八幡宮■社殿(火災による消失)復興、板倉氏(足利一族)を神主に
・糟目犬頭神社■庇護(百貫文寄進)、北朝側の三河鈴木氏ゆかり、新田義貞の首塚あり
・八剣神社■足利尊氏の墓あり、すぐ近くに大門屋敷(足利宗家の屋敷)があった

177:日本@名無史さん
11/11/03 22:11:20.81
↑なにを貼ってるんですか?説明ないとわかりません!

178:日本@名無史さん
11/11/04 11:47:22.79
家康は周辺が源氏だらけの恵まれた境遇だったよね


光明寺
岡崎市矢作町加護畑69にある時宗の寺。鏡立山、帝守院。本尊薬師如来。寺伝では大同年中(806~810)の創建で大治2年(1127)再興された天台宗の寺で、5世清観の弘安2年(1279)に時宗に転じたという。
また8世観鐘は新田義貞の落胤、9世浄開の永享12年(1440)には長阿弥(徳川有親)、徳阿弥(同親氏)父子来訪などの源氏との関係をいう伝承もある


糟目犬頭神社(新田義貞首塚)
犬頭神社(岡崎市宮地町)の拝殿に向かって右側の蓮池の中に、樹木で覆われた島があり、南朝の忠臣で上和田(宮地町のすぐ北)城主・宇都宮泰藤(大久保氏の先祖)が、延元3年(1338)、
足利尊氏によって京都に晒されていた新田義貞の首を奪い返してここに埋め、その首を隠すために下の様な犬頭伝説を流布させ、犬頭霊社を祭ったと伝えられています。


179:日本@名無史さん
11/11/04 12:00:52.24
源行家
・五井城(愛知県蒲郡市)
五井城は、文治年間に源新宮十郎行家によって築かれた。その後、戦国時代には鵜殿氏の居城であったが、松平信光の七男忠景が城主となり五井松平氏の祖となった。


源範頼
・茂松城(愛知県豊川市)
三河守であったころの居城


源範円(源範頼の息、吉見氏の祖)
・正法寺(愛知県豊川市)
了信坊(源範円)が中興、鎌倉時代初期には、源範頼の息子範円(のりかど、はんえん)が太子堂に居住した。
貞永元年(1232年)9月1日、浄土真宗の開祖親鸞が関東から帰京する際、聖徳太子像を拝むため太子堂を訪れた。
このとき範円は親鸞に教化されて弟子となり、名を了信坊に、寺を太子山上宮院正法寺に改め、天台宗から浄土真宗に改宗した


足利義満
・御馬城(愛知県豊川市)
1369年に足利義満が細川頼之に命じて、細川頼有に築かせた



源氏のスター軍団の足跡をなぞっただけだからな


180:日本@名無史さん
11/11/04 14:08:57.24
義忠流源氏
反源氏の家柄

181:日本@名無史さん
11/11/05 00:32:02.56
河内源氏なんて所詮多田源氏の分家だろ
ダサいよ

182:日本@名無史さん
11/11/15 00:46:24.82
足利義清 (矢田判官代)
URLリンク(ja.wikipedia.org)

>なお、矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しいと思われる。



三河 矢田郷前城(愛知県西尾市上矢田町郷前)
URLリンク(www.geocities.jp)

>足利一門の矢田判官義清、義実が居住した地と云う


183:日本@名無史さん
11/11/15 00:49:21.22
URLリンク(www.keiganji.net)

桂岩寺の歴史

桂岩寺は、開創以来657年(平成19年現在)となる格式と歴史・由緒を誇るお寺です。

開山から現在で三十二代目となり、代々の住職はもとより、お殿様の庇護を受けたり、檀信徒の助力によって、浄土念仏道場の拠点として、宗門ばかりではなく、この地方に於きましても重きをなしてまいりました。
当山の開山、照璟光山慧珉大和尚は、大本山円福寺(当時・京都)第五世の法主「善偉堯恵上人」の直弟子で、当地に留錫の時、領主の三州戸ケ崎の城主、戸ケ埼次郎義宗郷が深く上人の高徳を崇めて帰依し、
四十四石の荘園を寄付して一宇を創建され、さらに永く上人を当地に留めるべく、後村上天皇の正平五年(1350、北朝、観応元年)三月に本堂庫裡等を新築落成して上人を開山として菩提寺と定め、三河国深草派十二本寺の随一とせられました。

義宗郷は、矢田判官義清の孫、広沢判官義実郷の子息で、明徳四年(1393)六月二十七日、道目記の合戦で戦死されたため当山に葬り、開山上人が引導、焼香、「源徳院殿慶巌善公大居士」と号し、武具を納めてハ幡官を勧請して「若宮八幡」と称しました。
義宗郷の戦死の翌日、夫人の富波姫は夫を慕って自害されたと云います。

また姫は長刀の名手で、敵に向って勇ましく戦い、三十数人の首級をあげて戦死したとも伝えられている。「雷光院殿玉岩清心太禅定尼」と号し、同じく当山に埋葬されています。



184:日本@名無史さん
11/11/15 00:51:49.69
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)

戸ヶ崎城跡(西尾市戸ヶ崎町城山)

碧海台地が南方に張り出した小高い場所にあります。北方を除いて三方が湿地であり、天然の要害をなしていたようです。農道に沿って土塁?切岸?状の高台が残っていますが、土砂の採取や耕作地化などによりかなり改変されており、遺構として認めてよいのか判断に苦しみます。
最下段の画像は、城跡から東北、八ツ面山方面を望んだものです。

戸ヶ崎氏は足利氏の一族であり、城主戸ヶ崎次郎義宗は13世紀あるいは14世紀の人物ではないかといわれ、生存時期は明確ではありません。矢田に城館を構えていた矢田判官義清の孫といわれ、戸ヶ崎の地に移り築城しました。吉良氏の被官であったと考えられます。
義宗が創建し墓も残る桂岩寺(西尾市上矢田町)の縁起によると、明徳4年(1393)の道目記合戦で討ち死にしたことになっています。なお戸ヶ崎氏が分流した一族に前期荒川氏(後期荒川氏は吉良一族の荒川氏)がいます。

[参考文献:西尾の文化財散歩 西尾市教育委員会 S58]


185:日本@名無史さん
11/11/15 00:56:11.28
URLリンク(www.rctoyota.ac.jp)
細川郷


>豊田市の南端に近く位置する現在の「幸(さいわい)町」には「隣松寺(りんしょうじ)」という創建が承和10年(843年)の古刹があり、
その境内墓苑には細川初期3代、すなわち初代義季、2代俊氏、3代公頼と、初代義季の弟義宗の計4基の墓が現存する



>初代義季の弟義宗

186:日本@名無史さん
11/11/27 21:15:35.19
義経の子孫名乗る豪族って聞かないな
鞍馬氏とかいそうなのに

187:日本@名無史さん
11/11/27 23:43:58.85
>>186
おいおいW
義経と静御前は、
説1.奥州にて、鎌倉の追っ手により、妊婦の静御前共々、殺害。
説2.奥州より北陸へ逃れ親子共々焼き討ちに遭い焼死。
だから、居たらおかしいだろうW

188:日本@名無史さん
11/11/27 23:45:01.82
説と言うか、史実。

189:日本@名無史さん
11/11/28 00:25:00.24
それでも平家や秀頼のように自称末裔が現れんものかと

190:日本@名無史さん
11/11/28 06:53:47.41
佐藤基治の女(つまり継信・忠信兄弟の姉妹)と義経が結ばれて、その間に安居丸という子ができ、その子孫が南北朝時代に南朝側で戦って戦死した佐藤基信であるという伝承ならある。
なお佐藤基信自体は実在の人物で、伊勢佐藤氏の祖かそれに近いところにいた人物。
伊勢佐藤氏が南北朝期以降に残した文書は国の重要文化財に指定されてる。


191:日本@名無史さん
11/11/29 21:03:19.21
元木泰雄の「河内源氏」を読んだ素人だけど、初期の源氏の棟梁の年齢(生没年)は
天皇の系図並に信じられないな。満仲が87歳、頼信が81迄生きたというのも信じ難い
けど一番信じられないのは頼義が家督を継いだ時が60過ぎで、それから前九年合戦に
赴いた点と子沢山の癖に長男の義家が生まれたのが51歳の折だという点。記録がない
から伝承に過ぎないだろうけどもう一代くらい間にあるか、頼義が生まれたのがもっと
後なのか。

192:日本@名無史さん
11/11/30 05:06:53.73
頼義はマザーコンプレックスでその前半生は女嫌いで通っていたから。
年を取ってやっとその女嫌いが薄らいで来たんだろう。前九年の戦を経験したのも何らかの影響を与えているかもな。

満仲はありゃ息子じゃないだろう。

193:日本@名無史さん
11/11/30 12:02:13.96
母親に捨てられたんやっけ
この時代でも離婚は珍しくなくいとおもうんだが

194:日本@名無史さん
11/11/30 21:36:35.93
そういえば、何かに義朝は為義28歳の時の子だけど、それまで男子がいなかったのは不自然という内容が書かれた本を読んだ記憶がある。

195:日本@名無史さん
11/12/01 02:50:30.92
政宗もけっこう齢いってから子供うんでたけど
正室との男子は33才でだろ、結婚21年でやっとかよって
まあ、一時不仲な時期があったのもあるが

196:日本@名無史さん
11/12/01 21:00:45.01
>>192
確かに、満仲は源経基の子じゃないね。
つまり、清和源氏は嘘。天皇の血筋じゃない。

197:日本@名無史さん
11/12/01 21:09:57.15
当時正親司で管理されてなかったのかな五世以内だろ
臣籍降下したら、その子孫の記載はやめんのかな

198:日本@名無史さん
11/12/04 23:50:20.07
石川氏の子孫ってまだ壷井にいるのかな?

199:日本@名無史さん
11/12/08 22:18:26.06
源大夫判官に襲われたからな

200:日本@名無史さん
11/12/09 00:04:52.51
>>196
清和源氏じゃなくて、息子の陽成天皇の子孫でしょ。
御所の庭を馬に乗って暴れたり、乳兄弟を撲殺したりしたため、
藤原氏にさまざまな圧力かけられて、退位させられたんだし。


201:日本@名無史さん
11/12/09 07:45:22.18
経基は清和天皇の子で
満仲は陽成天皇の子。満仲は素行が悪かったので経基へ養子に出したという真相?
まるで清盛、御落胤説だな

202:日本@名無史さん
11/12/10 10:31:46.17
>>200
その頃、藤原基経ってのも居るよね。
藤原 基経(ふじわら の もとつね、承和3年(836年) - 寛平3年1月13日(891年2月24日))は、平安時代前期の公卿。
藤原北家・藤原長良の三男。幼名は手古。
従一位、摂政関白太政大臣、贈正一位。堀川大臣(堀河大臣)と号する。
漢風諡号は昭宣公、国公は越前公。
摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。
陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。
次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。
天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。

元慶7年(883年)11月、宮中で天皇の乳母(紀全子)の子・源益が殺される事件が起きた。
それが本当に殺人事件なのか、あるいは過失致死といった類の事故なのかは明らかではなく、また犯人も不明とされたが、宮中では陽成天皇が殴り殺したのだと噂された。
この事件の直後、馬好きの陽成天皇が厩を禁中につくり、卑位の者に世話をさせ、飼っていた事実が明らかになる。
基経は宮中に入り、天皇の取り巻きと馬を放逐させた。
陽成天皇は後の記録には暴君として描かれており、それによると天皇は蛙を捕え、蛇を捕え、または犬と猿を闘わせて喜び、人を木に登らせて墜落死させたという。
元慶8年(884年)、基経は天皇の廃立を考え、仁明天皇のときに廃太子された恒貞親王に打診したが、既に出家していた親王から拒否された。
そこで仁明天皇の第三皇子の時康親王が謙虚寛大な性格であったので、これを新帝と決めた。
時康親王の母は藤原総継の娘・沢子で、基経の母・乙春とは姉妹であり、基経は時康親王の従兄弟にあたる。
公卿を集めて天皇の廃位と時康親王の推戴を議したところ、左大臣源融(嵯峨天皇の第12皇子)は自分もその資格があるはずだと言いだした。
基経は姓を賜った者が帝位についた例はないと退け、次いで参議藤原諸葛が基経に従わぬ者は斬ると恫喝に及び、廷議は決した。公卿会議の決定を持って、陽成天皇に退位を迫った。
孤立した年少の天皇に、抗する術はなかった。

藤原基経 - Wikipedia
URLリンク(ja.wikipedia.org)








203:日本@名無史さん
11/12/10 14:52:59.66
経基自身の武勇はどうなん
将門に敗れた普通の中級貴族って印象だが
純友残党狩りの際は武勇見せたの

貞盛秀郷のオマケの名声&家格ゲット?


204:日本@名無史さん
11/12/10 15:34:36.58
経基に「武勇」なんてないと言っていい。
武蔵介として赴任していた東国では将門との手打ちの宴の席で、武蔵武芝の手下が軍勢率いて国衙にやってきたのを自分を殺しに来たと勘違いして都に逃げ帰ったヘタレ。
権守興世王の方は堂々とやり過ごしたのにね。
純友討伐戦では純友の部下1人だかを生け捕りにしたということだが、それは純友自体が既に死に体になって以降のことで「戦功」と言えるほどのものではないし、どうもその「お手柄」も本当に経基自体の手柄なのか怪しい節がある。
思うに、東国で大失態を演じてそのヘタレっぷりが評判になった経基にはもう後がないことから、お雇いスタッフを雇って、純友部下を捕縛したのは9割方そいつの「演出」なのではないかと思う。
つまりは「お殿様のお手柄」という「既成事実」づくりの臭いがプンプンする。



205:日本@名無史さん
11/12/10 21:09:29.41
話が一気につまらなくなったなw




206:日本@名無史さん
11/12/10 21:32:25.70
>>205
そりゃすまんかったねえ。
それじゃあ代わりにあんたが
>話

>一気に
面白くしてくれよw


207:日本@名無史さん
11/12/12 01:19:34.66
清和天皇って病弱なのに子供だけは多かったらしいな。
桓武天皇の様にカリスマは無い。

208:日本@名無史さん
11/12/12 07:49:00.05
清和天皇といい経基王といいなんとなく草食系で短命なイメージなのだが、
世に言う清和源氏というと満仲から義家まで獰猛で長命だからな。
義朝、為朝、義経、義貞なども短命だが勇猛なイメージだ。
なんで最初の二代だけが草食系のイメージなのか? 不思議だよな。

209:日本@名無史さん
11/12/12 11:23:01.39
>>207
清和天皇の時代にはまだ明確な摂関家というのもなかったため、
そこらじゅうの貴族が一攫千金を夢見て娘を入内させ、
清和天皇一人で女性30人ぐらいを相手にしていたらしいよ。
清和天皇が短命だったのも若いころからのセックスの強要だといわれてるくらい。
清和天皇は27歳で退位するとさっさと出家して、死ぬまでの4年間ほどは
女性と寝所をともにしなかったんじゃなかったかな。
たしか、退位後は大勢いる妃たちとの間に子供が生まれていないはず。

210:日本@名無史さん
11/12/12 16:00:43.36
>>208
経基は生年がはっきりしないんじゃ?
45歳没説と65歳没説があり、短命だったかどうかはよく分からない。
鎮守府将軍にまで登っており、肉食系といった感じだ。


211:日本@名無史さん
11/12/12 19:14:16.49
経基は一般的な受領貴族が戦乱に巻き込まれた中で無理矢理成長させられた感じだな


212:日本@名無史さん
11/12/15 18:03:17.86
「成長」したのか?

213:日本@名無史さん
11/12/17 05:36:55.35
清和天皇は、藤原北家と天皇家の度重なる近親婚のせいで、知的な障害というか、「幽玄の人」のようなちょっと不気味な人物だったらしい。
更に藤原北家と近親婚となった清和天皇と基経妹、高子の子供、陽成天皇がハチャメチャになるのは、有る意味仕方がないかと。
高子は、清和天皇とは不仲で、結婚前は在原業平や、源憲定?のような賜姓の元皇族との浮き名をながして、のちに后の地位を降ろされている。
聖なる王として祭祀を司る天皇が、罪もなく戦争でもないのに人間を殺傷することは、さすがの基経も無理だと考えて、陽成天皇を下ろしたが
人を殺す業を背負った陽成天皇の皇子、貞純親王から武家の源氏が生まれるのは意味深だなと、個人的に思った。

214:日本@名無史さん
11/12/17 07:22:47.65
あ、訂正、
高子の密通相手→東光寺の僧

陽成の子貞純親王→陽成の弟
誤認があったので訂正。
経基が陽成の子か、貞純親王の子かは論議があるようす。

215:日本@名無史さん
11/12/17 10:22:27.43
やっぱ経基と満仲は実の親子じゃないんじゃないの。
年齢も下手すりゃ逆転してるらしいし。
でどっちかが陽成源氏でもう片方が清和源氏。
もともとが武力嗜好でかつうだつの上がらなかった満仲が、
偶然武名があがっちゃった経基に頼み込んで養子になったとか。
猶子か、あるいは僭称かもしれない。

216:日本@名無史さん
11/12/17 14:05:58.45
>>214
>経基が陽成の子か
なんて誰が言ってんの?
陽成源氏説で一般に言われてるのは陽成の子・元平親王の男子説だが。

217:日本@名無史さん
11/12/17 18:11:52.70
てかね、経基陽成源氏説の唯一の「物証」が頼信が誉田八幡宮に奉納したとかという『頼信告文』の「写し」だけなんだよ。

その「告文」そのものが胡散臭いとする連中と、いや確かに「写し」ではあるけど内容は信用に足るものだとする連中とに学界が真っ二つに割れているというのが現状。

また、それと経基-満仲間の年齢矛盾とは別の話。
例え陽成源氏だとしても、経基-満仲間の親子矛盾は解消されない。


218:日本@名無史さん
11/12/17 19:11:31.72
満仲実父説のある親王は経基と同母兄弟?

219:日本@名無史さん
11/12/17 23:04:02.29
経基は二世源氏だから親王でないだろ。
経基『王』だし。

220:日本@名無史さん
11/12/18 09:31:05.66
って言うかたぶん満仲の享年87が間違いなんだろうな。
20歳くらい若いんじゃないの。930年頃誕生とか。
それだと初見時に30歳くらいってことになるし。
頼光(948ないし954年誕生)の親としてあり得ない年齢でもないし。


221:日本@名無史さん
11/12/18 20:27:12.76
俺は満仲は逆に系図(尊卑分脈)通りの生年月日で良いと思うね。
分脈の編者・洞院公定は親子の年齢矛盾を知ってて敢えて載せている節がある。
源氏の世だから表だっては経基-満仲間の年齢矛盾を書けないが、今と違い当時は西暦がないからよほど注意深く精査しないと生年の矛盾に気付かない。
だからこそ公定は元々自身は気付いていた年齢矛盾をそのまま掲載したのだろう。

東国での経緯から、どうみても武将として有能とは思えない経基が、対純友戦では何とか純友の部下を捕まえるという「戦果」を上げることが出来たのは、
東国の国司(武蔵介)をクビになり、次の対純友戦に追補副使として派遣されるまでの間にそれなりに優秀な人材と知己を得ることができ、それをブレーンにつけることに成功したからだろう。

伝承に過ぎないが、純友軍と激戦を演じた九州地方には、対純友戦のとき満仲は九州の大将陣山で戦勝祈願をしたとの言い伝えがある。
俺は案外この伝承は信じられるのではないかと思う。


222:日本@名無史さん
11/12/18 21:15:13.91
だいたいが所謂清和源氏初期は嫡男との年齢差がやけに大きい場合があったり、
妙に高齢だったりして、ほんまかいなって思うことがある。
下手すりゃ孫じゃん、とか、下手しなくても孫じゃんって場合も。
>>221のようなケースはともかく、
系図とかで時々あきらかに元号の書き間違いだろうってのはあるな。
父親の方が息子より2、300年後に死んだことになってたり。
逆算すると祖父と孫が同年生まれってことになってたり。

223:日本@名無史さん
11/12/19 02:50:59.76
貴族の系図でもたまに、甥っ子や孫を猶子(養子)にして「蔭位の制」の恩恵にあずかれるようにしたのを書き忘れていたりすると、年の離れた親子が出来上がって、研究者が修正してたりするけどなあ。陽成は退位をせまられた恥ずかしい天皇だから俺なら養子に入っちゃうかな。

224:日本@名無史さん
11/12/20 01:43:32.22
経基は偶然の産物
やる夫キャラ

225:日本@名無史さん
11/12/21 20:11:50.99
藤原道長を中心に描かれた「大鏡」に源満仲が清和源氏であることが書かれてあるから、
陽成源氏である可能性は低いんじゃなかったか。
当時の源満仲クラスが系譜詐称できるほど貴族社会で特別待遇だったとも思えんし。

226:日本@名無史さん
11/12/21 21:15:44.82
「大鏡」が書かれた時代がね、ちょっと新しいんだ。

227:日本@名無史さん
11/12/21 22:01:00.55
>>204
「いまだ兵の道になれず」というやつだよね。源氏の始祖というけどこの人の
キーワードといえばやっぱりこれだな

>>222
頼義・義家も50才くらい離れてるんだっけ

228:日本@名無史さん
11/12/22 00:53:47.47
>>223
平貞盛がやりまくったやつか

229:日本@名無史さん
11/12/22 13:36:20.10
経基
通説では、清和天皇(850~881)の孫、
貞純親王(873?~916)の子。
陽成天皇(869~949)の孫で、
元平親王(?(894とも)~958)の子とも。
どちらにしても誕生時は二世王(皇孫)である。

その後臣籍降下して源朝臣経基となったのか、
生涯経基王だったのか判然としない。
臣籍降下の時期も、晩年とも、839年以前とも。

938年武蔵介任官、939年従五位下叙位。
と言うことは、それ以前は六位と思われる。

それ以前に臣籍降下していれば、皇孫であっても、
六位と言うこともあり得なくはないが、
まだ王で有ったとした場合、六位というのは不審。
規定上二世王は従四位下に叙されるはずである。
三世王(皇曾孫)は従五位下、六位は四世以下の王(皇玄孫)。
この時期まだこの制度が崩れていなかったとすると、
経基王は四世以下の王だったことになる。

経基の生没年はいくつ仮説があり判然としないが、
経歴からいって920年頃以前の誕生は確実だろう。
貞純親王や元平親王親王の曾孫がそんなに早く誕生とは、
ちょっと考えにくい。
経基王は文徳天皇か光孝天皇の玄孫だった。
そう言う可能性すら有るのではないか?

230:日本@名無史さん
11/12/22 13:37:09.29
参考
元平親王は、元良親王(890~943)の同母弟であり、
おそらく890年代前半頃の誕生なのだろう。
894年誕生は当たらずと言えども遠からじ?

231:日本@名無史さん
11/12/22 19:11:26.61
頼信は仮に968年誕生でないにしても、
せいぜい970年代始めの誕生だろうな。
987年左兵衛少尉任官、どう考えても15歳程度以上だろう。
この時期はまだこのクラスの貴族の10歳以下任官はないだろうし。
ってことは仮に没時81歳ではなかったとしても、
70代後半くらいにはなってたんだろう。

232:日本@名無史さん
11/12/22 20:19:17.95
源経基には同母弟に源経生がいるのだが、
兄弟の父・貞純親王が西暦916年没なんだな。
つまり、西暦917年生まれの経基はギリギリセーフとしても、「同母弟」経生の誕生は精子バンクでも存在しない限りあり得ないと。


233:日本@名無史さん
11/12/22 22:14:33.78
そもそも経生は実在の人物なのか?
系図以外に生存の証拠あったかな?
実在だとしても本当に同母弟なのか?
実は異母弟だとか、兄だとかってことも
経基の生年は914年等もっと早いとの説もある。
まあ、あと双子ってこともある。
経生が親王の子で、経基は別系かも。あるいは反対。
理屈つけるとしたらこんなところか。

経基について多分間違いないのは、
官歴から見て、870年頃以後920年頃以前誕生。
皇裔なのは確かだと思われる。
となると時期的に桓武天皇の子孫ではあるだろう。
桓武以後のどの天皇の子孫かはともかく。
さすがにそれ以前の皇族が残っているとは考えにくい。

234:日本@名無史さん
11/12/22 23:22:04.47
まったく・・・


・系図に記載される生没年を書き換えたり、

・先祖を色々な天皇に入れ換えたり、

・系図に記載がある人物の存在を無かったことにしたり、

・etc・・・


↑の全てをやらないと矛盾が無くならない清和源氏ってどんだけ胡散臭いんだよw


235:日本@名無史さん
11/12/22 23:26:45.97
>>226
「大鏡」だいたい成立が後三条天皇の時代だろ?
後三条即位を願望する内容で終わっている。
だけど、その時代、清和源氏はまだまだ摂関家の犬、受領階級に過ぎない。
武士の話も出てこないじゃないか。

236:日本@名無史さん
11/12/23 01:29:43.10
父及び息子双方への矛盾から単純に経基の生年が間違えてるだけでは
片方のみならともかく

237:日本@名無史さん
11/12/23 11:16:05.97
堂上菅原氏も初期に変なところがある。
それ以前はともかく古人から道真までの四代と、
道真の子の高視まではいいとして、
高視の子が怪しい。

高視(876~913、38歳)、道真の嫡男。
文時(899~981、83歳)、高視の三男とされる。
雅規(919~979、61歳)、高視の長男とされる。
なんて人名辞典にあるわけだけど。
父親の没後6年、弟の誕生の20年後に生まれる、
そんな人物が居るのでしょうか?
この雅規の流れが堂上菅原氏なわけで、
堂上菅原氏、ホントは道真の子孫じゃないかも?
それでも古人と道真の系譜は確かなので、
古人系なら仮に詐称でも罪は軽いけど、
出雲氏系とかの別系菅原氏とかかも?

ひとつありうるのは雅規の没年天元2年が、
天延2年(974年)か、天禄2年(971年)、
どちらかの誤りかも?
それだと逆算で生年が911年か914年となり、
ぎりぎりあり得なくもない。
天徳2年(958年)没だと経歴と矛盾するようだ。

これでも、文時との兄弟順の矛盾は残るが、
嫡男だったので、兄弟順は無視して長男?

高視の没年が間違いか、雅規は実は高視の孫、
そっちの方が有りそうだけど。

238:日本@名無史さん
11/12/23 13:22:49.07
そう言えば、
945年誕生の道真の長男(とされる)高視は876年誕生とされ、
道真32歳の時の子と言うことになる。
確か時平は基経が30代後半の時の子だし。
30前後で長男誕生は、さほど不自然でもないかも?
それ以前に女子はいるかもしれないし、
認知してない子くらいはいるんじゃないの。

239:日本@名無史さん
11/12/23 14:10:29.72
藤原摂関家や上流貴族以外は記録ルーズだからな

240:日本@名無史さん
11/12/23 19:19:30.23
満仲と頼義は、それぞれ、ある時点で60代だったとか、70くらいとかって、
証言もあるらしくて、それに従うと10かそこらは若かったことになるらしい。
まあ、本当の年齢は藪の中ってことなんだろうな。

241:日本@名無史さん
11/12/23 19:32:34.76
他人の記録に残る程の価値も無かった
公的記録は蔭位及び出仕時期で代わるからな
江戸は地元でも記録が残ってるから判るが公式記録のみだと凄いことになる

242:日本@名無史さん
11/12/24 11:11:09.73
源朝臣満仲
さすがに満仲の源朝臣姓は間違いないだろう。
賜姓時期がいつかという問題はあるだろうが。

912年誕生が一応通説のようだ。
初見は960年、通説に従うとこの時49歳。
記事内容から成人していたのは間違いないだろう。

987年出家、この時60余歳とも言われる。
丁度60歳なら余はつかないだろうし、
68、9なら70歳近くと書かれるだろうから、
61~66歳と見て922~927年誕生、
概ね925年前後、と考えることも出来る。
これだと初見時、39歳から34歳。
十分活動できる年代ではある。

活動年代のみから推定してみると、
900年頃~935年頃の誕生ではあるだろう。

243:日本@名無史さん
11/12/24 11:14:59.17
源朝臣頼義
通説は988年誕生。
父頼信は968年誕生とされるので一応問題はない。

没年が承保2年(1075)と、永保2年(1081)の
2説があり、享年も81歳と88歳の2説が有る。
通説は、承保2年88歳で没ということになる。
まあ承保と永保は書き間違いやすいと思われるので、
永保は転記ミスかも知れないけど。

とにかく、上記の組み合わせで逆算される生年は、
988年、995年、1002年の三通り。
このどれであっても、一応経歴とは矛盾しない。
親子関係としてもあり得ない年代ではない。

活動年代のみから推定してみると、
985年頃~1010年頃の誕生ではあるだろう。

244:日本@名無史さん
11/12/24 13:47:29.61
経基
890年代、又は914か917誕生とされる。
間違いなく活動していたのは、940年前後だけ。
870頃~920頃誕生の可能性有り。
満仲
一応通説では912年誕生。920年代中頃誕生とも。
900年頃~935年頃の誕生ではあるだろう。
頼光
948(通説)ないし954誕生とされる。
980年以後の活動と1021年死去はほぼ間違いなし。
940年頃~960年頃の誕生は間違いないだろう。
頼信
968(通説)ないし974誕生。
987年左兵衛少尉任官から974年はないと思う。
経歴から965頃~972頃以前と思われ、
968年誕生は信用して良いのでは?
頼義
988(通説)か995か1002誕生。
985年頃~1010年頃の誕生ではあるだろう。
義家
1039誕生が通説。
経歴から見るともう少し年長の可能性はある。
とは言え、1106年没は確実なので。
1020年より前の誕生ってことは無いだろう。
経歴的に1040年頃以前誕生も確実。

多少重なる部分もあるけど、
一応親子兄弟順に活動はしている。
ただ系図ってものは、適当な活動時期の人物を、
適当につないで作った場合もあるよな。
特に古い部分は。

245:日本@名無史さん
11/12/24 21:35:25.98
生没年を調べて意味あんのか。
養子が入ってたら意味なかろうに。

246:日本@名無史さん
11/12/25 11:00:10.37
どこか1ヶ所だけ直せば辻褄が合うというならともかく、
あっちをこうしてこっちをああしてを延々とやんないと辻褄が合わないなんてどう考えてもおかしいよ。



247:日本@名無史さん
11/12/25 12:26:05.56
源経基の生年を訂正すればとりあえず辻褄はあうんじゃなかったか。
清和天皇(850~881)の第六皇子だという貞純親王が
870年代生まれであることはかなり自然。
経基の系譜をここに求めるのならば、経基を890年代生まれとすれば
満仲との年齢逆転も解消できる。

248:日本@名無史さん
11/12/28 21:47:24.55
>>247
>経基を890年代生まれとすれば
満仲との年齢逆転も解消できる

それもおかしい。
それだと2世源氏である経基は、40代後半の938年になって初めて受領でもない国司の次官にあたる武蔵介に任官し、
50歳くらいになって初めて貴族の最末端にあたる従五位下に叙されたことになってしまう。
「イマダツハモノノミチニネレズ」と坂東の諸豪族から青二才扱いされたのもこの年代でのこと。

元々、臣籍降下というのは、8世紀初頭に施行されて以来1世紀を経て律令制が行き詰まってしまい、数が多くなった皇族を食わすことが出来なくなったが故に、大量に皇族を臣下に落としていったことに始まる。
つまり、「お前らこれからは税で養ってもらう側から税を稼ぐ側に変われ」
との方針転換。
特に9世紀初頭の嵯峨帝の頃以降この傾向はより一段と強まる。

以上の経緯から、臣下に降下させた存在である経基を50歳近くになるまで遊ばせておいたなんて不自然極まりないことなんだよ。


249:日本@名無史さん
11/12/29 01:50:22.53
いや、だとするとだな、経基王が源姓を賜って臣籍降下となったのが40代後半になってということも考えうるということにはならないだろうか?

250:日本@名無史さん
11/12/29 09:13:05.16
二世王の叙位はかなり高齢になってからの場合もあるようだ。
なまじ初叙の位階が従四位下と高い上に、
当時は二世王が多すぎて希少性もないし。
いつまでも叙位されないから自ら臣籍降下を願ったのかも。
二世源氏の初叙の位階は特段の規定がないようだ。
なにか基準はあったのだと思うが。
実例は六位?(以下?)と従五位下があるようだ。
四世王並で正六位上が基準で、一部特例が従五位下なのかな?
ただし、経基が当時源氏だったのか王だったのと言う問題が。
本当に二世王で臣籍降下前なら六位ってことはないと思うが。
賜姓後なら、一世源氏でも文章生を経る経歴で六位はあったようだ。
そう言う場合は六位から五位をとばして一気に四位に進んでるけど。
あくまでも文章生を経るための方便か?

251:日本@名無史さん
11/12/31 07:03:43.37
やっぱりおかしい。

初叙が従五位下で、それは将門謀反の密告の功によるもの、
ということは経基は既に武蔵介に任官した後、職場を放り投げて都に逃げ戻ったあと、ということになるのだから。

(受領でもない)国司次官の座に皇族のままで任官するなんてちょっと考えられないから、当然経基が武蔵介に任官したのは源姓を賜姓された後のことでしょ。

ハタチそこそこで賜姓清和源氏を賜った若き経基の辿ったちょっと情けない事跡と考えた方がどうみても自然。
そして、「有能な」次代・満仲との間に年齢矛盾があるというのは、
汚名返上のために経基は有能で老練な実務武官官僚を側近につけ、
上で誰かも述べていたようにやがてそのまま養子にしたとでも考えた方がよほどしっくりくる。

トンビは鷹を生まないよ。


252:日本@名無史さん
12/01/01 01:17:13.03
満仲養子説の場合は、満仲の弟たちは経基実子って考えるの?
実在が怪しげな人物も混じってるかもしれないけど、
少なくとも満政(10世紀末ー11世紀初活動)と、
満季(970前後活動、1005年以前没)の二人は、
実在してるよね。
経歴を見る限りでは、満季はともかく、
満政は満仲と相当年齢差がありそうだけど。

253:日本@名無史さん
12/01/01 16:51:00.15
3人は同母兄弟だから
実際には満仲を代表とする“経基サポートグループ”ということだったんだろうな。

経基の補佐役である満仲。
同母弟である満政・満季は、そんな兄・満仲の仕事を更に補う役割を果たしていた。
つまり、総体的には“満仲族”による経基支援体制。

経基はそんな満仲を養子にしたんだから、一族を挙げて兄・満仲の仕事をサポートしていた満政・満季兄弟をもまとめて養子にしたということなんだろう。


254:日本@名無史さん
12/01/01 17:35:26.31
それはあまり前例がないだろ
さすがに説得力がない
やはり経基の生没年誤表記が可能性として高い

255:日本@名無史さん
12/01/01 20:04:05.29
>>254
>誤記
と簡単に言うけどね、それは一体どういった類いの
>誤記


『尊卑分脈』の編者である洞院公定の「誤記」?

それとも、公定が諸氏の系図を編纂するに当たって集めたであろう足利、佐竹、小笠原、武田など清和源氏諸氏の系図そのものにそもそも「誤記」が有った、との意味?

そしてもし前者の意味で言っているなら、何故その「誤記」を載せた洞院公定や洞院家の人々は、
時の権力者である足利氏や、その他の佐竹氏や小笠原氏や武田氏などの清和源氏諸氏から、自分たち清和源氏の正統性に疑問符をつけられかねないような系図を掲載されたことに対して強く抗議を受けないの?

『尊卑分脈』は間違いに対しては、絶えず洞院家の人々によって訂正や改訂を繰り返されてもいるんだよ。

特に摂関家や、鎌倉、室町と二時代に渡って武家長者を出したような権門の家に対しては公定はいっそう意を砕いて編纂している。

だから『分脈』の平安時代、鎌倉時代の項は一等史料扱いになっているんだ。

なのに清和源氏初期の二代に渡る「誤記」だけは、どうしてそのまま時代を越えて通ってしまっているのだろうか?

ふつうに考えればそれは、
訂正したくてできない理由が有ったから、
とするのが筋というものなんだよ。

256:日本@名無史さん
12/01/01 20:19:54.35
それと
>前例
などに構っていられる事態ではないだろう。
何しろ国家に対する反逆という、それこそ
>前例
のない事態に関連して起こったことだ。
その事態の端緒でミソをつけて笑い者にされた経基なんかは特に、悠長に前例に構ってられる余裕なんてなかったってことだ。

繰り返すが
トンビが鷹を生むようなことは無いんだよ。

257:日本@名無史さん
12/01/01 20:55:59.26
べつに誤表記と思われるところはそこだけじゃないだろ

258:日本@名無史さん
12/01/05 01:00:25.89
将門の乱って経基が悪いんだよな

259:日本@名無史さん
12/01/05 19:48:20.92
>>258
原因の一つではあるなw
自分で火をつけておいて謀反の兆しありもないもんだ。
挙句の果てにそれを出世の足がかりにしたんだからなあ・・・

260:日本@名無史さん
12/01/05 20:53:57.94
そして(あくまでも系譜上のこととはいえ)その経基の子孫が、
中世を通してずっと武門の長になるんだから世は無常w

261:日本@名無史さん
12/01/05 21:16:31.99
>>258
興世王とどっちが悪質だろ

262:日本@名無史さん
12/01/05 21:40:54.12
経基は悪質というか、屁たれのくせに運がいいだけな気がするが・・・。

263:日本@名無史さん
12/01/05 21:43:59.42
でも鎌倉幕府は実質上平家政権だ。

264:日本@名無史さん
12/01/06 00:01:25.17
>>262
経基ほどではないが、
のちに源氏と並ぶ武門の棟梁になる平貞盛(平清盛等の祖)や、藤原為憲だって将門に連戦連敗の戦下手だよ。
将門と渡り合えるだけの骨があったのは藤原秀郷だけ。

265:日本@名無史さん
12/01/06 00:47:08.63
貞盛は関東捨てて京武者として生きる道探してたし
為憲はそもそも武士ですらない

266:日本@名無史さん
12/01/06 00:51:24.31
貞盛はわりと活躍してると思うが。


267:日本@名無史さん
12/01/06 01:09:17.13
>>266
立ち回るのはね。
秀郷を見方に引き入れたりとか。

でも>>264で述べた通り、将門との戦そのものは秀郷が参戦するまでは連戦連敗だよ。


268:日本@名無史さん
12/01/06 06:59:53.32
経基は将門貞盛秀郷らに遅れをとってたのにぜうまく武門になれたの?

269:日本@名無史さん
12/01/06 16:04:12.76
壷井を相続した石川氏はどうなったの?

270:日本@名無史さん
12/01/06 21:17:54.66
>>268
東国で及第点つけられた者たち(藤原秀郷、平貞盛、平公雅ら)はそこまでで良し。
以後子孫たちは武門の家として取り立てる。

東国で落第点だった者たち(源経基、橘遠保ら)は西国に回す。そこで純友討伐に功績を残すことがラストチャンス。
それが出来れば以後子孫たちは(ry)

てな感じ。


271:日本@名無史さん
12/01/06 21:56:41.56
次に安和の変で秀郷流を追い落とし、坂東平氏内紛に付け込んで棟梁になるって感じか。
なんかいつも悪役だね。

272:日本@名無史さん
12/01/06 21:58:50.04
河内源氏はなんで関東にいったんですか?

273:日本@名無史さん
12/01/06 22:51:49.42
ある意味落ちこぼれたからじゃないの。
都の出世競争に負けたんでしょ。
しょせん庶流なわけだし。
経基流清和?源氏の嫡流は本来摂津源氏だし。
頼朝が成功してなけりゃ、清和源氏の嫡流とかお笑いぐさの世界。

274:日本@名無史さん
12/01/06 23:08:13.45
>>273
いや、義家の時代にすでに摂津源氏をしのいでいた。

275:日本@名無史さん
12/01/06 23:21:29.93
>>274
その時代の河内源氏と摂津源氏はどんな関係なんですか?敵ですか?

276:日本@名無史さん
12/01/07 09:46:09.14
つーか、関東にいくかどうかの問題より、受領になって財産をたくわえ、在庁官人と誼を結び、荘園をうまく統治して反乱を防ぎ税をきちんと納めることが
武官が中央に期待され、また本人らが生き抜いていくための方法論だったんじゃね?

平家が義親追討で一気に中央での地位を確立していったあと、豊かな播磨守をはじめとして一族の者が続々
西国の受領に任じられて経済基盤を築いていったのは落ちこぼれたというより評価されてのことだし

277:日本@名無史さん
12/01/07 09:48:23.63
河内源氏が関東に行ったの?河内源氏の亜流が関東に行ったの?

278:日本@名無史さん
12/01/07 10:17:59.89
>ある意味落ちこぼれ
たっていうのは、表現としてある意味当たってる。

天皇家や藤原氏の庶流や、藤原氏の台頭により影の薄くなった貴族たちにとっては、地方に下向する受領階級になるのが、貴族として生きるギリギリの線だったわけだし。

いや、そのギリギリの線からもこぼれ落ちた貴族(元貴族)も多かった。
将門や純友はまさにそうした存在で、だからこそ彼らは貴族社会への復権をかけて国家への反逆を結構したという側面がある。



279:日本@名無史さん
12/01/07 10:18:02.96
関東に行ったってより東北を押さえるための出兵に一応成功したけど
実質的に支配権を確立することには失敗したんで坂東平氏と組んで関東に拠点を置いたって感じだろ。
それ以降も東北にこだわってるし。

280:日本@名無史さん
12/01/07 10:19:26.11
結構した× → 決行した○

281:日本@名無史さん
12/01/07 10:43:29.57
>>277
坂東へいったのは、頼信がはじめらしいです。
たしかに兄、頼光や頼親より不遇ですが、道長の下、東国の受領を歴任してます。
忠常の乱平定に活躍して、以後、頼信の系統が坂東のおさえとしての信頼をえたのかもしれませんね

282:日本@名無史さん
12/01/07 10:45:33.78
頼朝は祖先として頼義を重視した、ようなことをどこかで読んだことがあるけど、
それだと佐竹や武田あたりと同列ってことになっちゃわない?
義家を重視すると、足利あたりがうざかったってこと?

283:日本@名無史さん
12/01/07 10:54:04.00
不思議なことに清和源氏は、
桓武平氏や秀郷&利仁流の武門藤原氏などと違って、兵の家成立以降もあまり積極的に郡司富豪などの在地豪族に婿入りしていないんだな。

どうもそれまでの招婿婚とは違ったやり方で精力を扶植させようとしてたのか?
母系制から父系制への、いわば「イヘ→家」へのパラダイム転換期とぶつかってしまったからなのか?

摂津や河内という、伴造or帰化人系技能官人の本拠地だったところを受け継いでいることから見ると、
平氏や藤原氏など他の軍事貴族が、国造に系譜を引く郡司富豪層に積極的に婿入りして勢力の拡大を図ったのと違い、
清和源氏は、中央近くにいる伴造や帰化人など技能官人系豪族たちとの結びつきによって、家を発展させようとした節が伺える。

その為、他の軍事貴族に比べて坂東や奥羽への進出も遅れてしまった。

頼義晩年から義家の頃にかけて慌てて奥羽進出を図るが、それも裏目に出て失敗するし。
あるいはもっと単純に、ヘタレ経基の汚名を負った東国の地には最初のうちは中々進出できなかっただけ、ということなのかもしれないがw

284:日本@名無史さん
12/01/07 10:56:55.62
三位以上の公卿とそれ以下の貴族とは明確に差があるだろ
まず家格がないとなれないし、家格があっても母方の財産基盤があり、すで公卿になっている親や親戚の助けがなければ
なれない。また政争にも勝たないといけない。
家格がないものが、なりあがるには当時は反乱での武功をたてるか、寺をたてるとか、都づくりとか一大事業を担当するかのどっちか。

285:日本@名無史さん
12/01/07 10:59:22.32
>>282
そうだよ。
だから武田なんかは、
(頼義の子孫ならば)「一門さらに優劣なし」
と切って捨てた。

頼朝はそんな状態から自身の家だけが飛び抜けた存在とするために涙ぐましい努力をしてる。

286:日本@名無史さん
12/01/07 11:01:30.68
>>282
それは、鎌倉御家人が重代相伝の家臣ではなかったから、故実に基づいて家臣化する理由にしたということ。
たとえば、前九年の役に、我が祖先は頼義公に対し、このような逸話がありましたー、
ってことで、鎌倉府でのその逸話にのっとるかたちで、職の補任に預かるというようなことをした。

287:日本@名無史さん
12/01/07 11:08:49.96
>>283
そんなことはないよ、
義平などのように、母親の地位が低く、中央とも結びついていないと、
荘園で家人として勢力拡大にはげんでいく傾向にあっただけ
その他、義国もそうだし、義朝ももともとそういう立ち位置だった。

288:日本@名無史さん
12/01/07 11:11:25.24
>>287
だからそれは「兵の家」成立以後ぐっと後になってからのことでしょ。



289:日本@名無史さん
12/01/07 11:15:09.22
>>286
そそ。
「後付け」なんだよね。
(源家の側も御家人の側も)互いに「そうだったんだということにしときましょ」ということになった。

290:日本@名無史さん
12/01/07 11:17:40.77
>>288
家の成立というのはあくまで、ある職を家が継承していくことを言っているわけであって
在地化とかはあまり関係ないと思われ

291:日本@名無史さん
12/01/07 11:32:42.08
>>290
だから「兵の家=軍事貴族」という「家職化」だろ!

軍事に特化した家になった以上、職掌上最も大切な兵はどこから調達する?
一番手っ取り早いのは前時代からの系譜を引く郡司富豪層と一体化することだろうが!
現に桓武平氏や武門藤原氏はそれをやっている。
なのに清和源氏には不思議とそれが無い、若しくは極めて希薄だと言っているんだよ。

これでは都での警備程度ならともかく、正規兵を率いての反乱平定戦などできはしない。
そのための訓練だって覚束無い。

そして案の定、前九年役で、清和(河内)源氏はその戦下手を露呈する。



292:日本@名無史さん
12/01/07 12:12:53.68
>>291
ちなみに
>鎌倉御家人が重代相伝の家臣ではなかった
という事実は、平氏にもあてはまるよ

前九年の役も陸奥で戦ったのは主に現地の清原の兵だし
だからこそ戦後の一番得をしたのは中央から派遣されない地方領主ではじめて鎮守府将軍となった清原氏なわけなんだし。
戦後、頼義、義家も栄転するとは言っても、清原氏までは及ばないよ
そして頼朝にほろぼされるまで繁栄した。

在庁官人や荘園領主は基本、地元から動けないのが源平合戦までの流れ。
平治の乱は畿内周辺に受領をもってた平家一門が特異的に勝てた。

というのが「河内源氏」という本には書かれているよ


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