11/12/28 21:39:43.35
中間子論の本筋を離れて考えるならば、湯川理論が陽の目を見たことには、かなり
偶然がさいわいしていた。R研からO大学に移った坂田は、湯川と共同で中間子論の
検討にあたった。ところが驚いたことに、調べ直した結果では中性子と陽子とには
反発力しか得られない。湯川がはじめに発表した理論では途中で計算を誤って都合の
よい結果をだしていたわけだ。それでは湯川中間子論は本質的に間違っていたので
あろうか。だがこの事に気づいたその年、既に宇宙線中にそれらしき粒子が見つかって
いた。細部はともかく、理論の大筋は違っていない。それならば、解決の道はかならず
ある筈だ。
湯川理論を救う道は沢山あった。そのいずれが正しいのか。最終的判定ができたのは
ずっとのちの1951年(昭和26年)になってからである。それによると、中間子はやはり
スピンは0であるが、最初の予想とは少しばかり性質の違ったものだった。
(『素粒子論の世界』片山泰久 講談社ブルーバックス)