12/12/05 22:16:10.84
源頼朝はいつも倹約を部下に指導してきた。ところが藤原俊兼が
美しく鮮やかな衣服を身に着けているのを見た頼朝は俊兼に命じて
その刀を取り、俊兼の着物の裾を断ち切った。
そして頼朝は「お前は働きのある男だというのに何故質素倹約を
履行しないのか。千葉常胤や土肥実平などのような者は鎧冑を
身に着けた武士で、礼儀作法を知らない。また、その領地はお前とは
比べものにならないほど大きいものだ。
つまり、彼らでさえ質素を実行して家を富まし、たくさんの士卒を
養っておるのだ。有事の時には功を立てようという志からである。
お前は何故それを考えないのか。」と俊兼を戒めたのであった。
(大日本史)
847:日本@名無史さん
12/12/15 14:32:59.36
礼儀作法を知らないのがなぜ質素倹約につながるんだ
848:日本@名無史さん
12/12/17 21:32:13.60
北条時宗は剛毅な人柄で幼い頃から弓を射るのが上手だった。
弘長中に鎌倉の極楽寺の屋敷で弓の大会が開かれた。この時、将軍が
小笠懸を見たいと言ったのだが、進んで引き受ける者はいなかった。
その時、北条時頼が「太郎が致しましょう。」と言った。当時の時宗は
十一歳であったが、馬に乗って出て見事に一発で命中させた。
見ていた多くの人々は歓喜の声をあげ、時頼もまた「この子は将来
きっと親の業を受け継ぎ、すぐれた者となるだろう。」と言った。
(日本外史)
849:日本@名無史さん
12/12/17 23:54:46.74
よくある眉唾ものの与太話だな。
850:日本@名無史さん
12/12/18 05:24:48.84
でも、時宗ならやりそうって思ってしまう。
はったりに強い=大舞台で強いって感じで。
851:日本@名無史さん
12/12/18 07:59:29.01
武家として日本で最高の英才教育を受けてたはずだしね
852:日本@名無史さん
12/12/19 13:38:36.00
その逸話、元は一度失敗して再チャレンジして成功させた話じゃなかったっけ?
853:日本@名無史さん
12/12/19 23:47:09.54
馬がいつもと違う馬でタイミングが狂ったけど
パルティアンショットで射抜いたって話もあるな。
854:日本@名無史さん
12/12/23 01:47:53.93
東北院は古い御跡で池山の景色など、すばらしく風流な場所だったので、
たびたび若い公卿殿上人が来ては琴・笛・歌などを楽しんだ所であった。
高倉院の時代、藤原実宗、藤原実家、中将泰道、隆房、平維盛・資盛、
源雅賢などはいつも打ち連れて遊ぶ人々であった。
治承の頃であろうか。月も花もさかりなる夜、例の人々は一緒に東北院で
遊んでいた。その日は景色もすばらしく優美で風情のある夜であった。
実宗は琵琶を弾き、資盛は箏を、泰道と維盛は笛を、隆房は笙の笛を
吹き合わせて、いつもより楽しい遊びとなった。
暁方程になって隆房、維盛、雅賢などは朗詠、催馬楽、今様をとりどりに
歌い、夜が明けるのを名残惜しんで「今宵は本当に心に残る遊びだ。」と
言い合った。彼らは「この中で誰が先に亡くなって偲ばれることになるの
だろう。」と言っていたのだが、
六、七年程経って思いもよらず世は乱れてあらぬ世となり、中でも特に若い、
将来も華やかであろうと思われた維盛兄弟が亡くなってしまった。残った
人々は口に出して酷く悲しんだ。年を経て東北院に集まってもあの夜の
ことを言い出して皆が袖を絞った。本当にさぞかし悲しいことであった。
(平家公達草子)
855:日本@名無史さん
13/02/19 09:36:42.14
逸話というより、昔話として読んでいただければ・・・。
赤松満祐は隣国の敵と和睦の後、互いに会盟せんと約して、15~6騎で国境へ向かっていった。
城を出ること3~4里、満祐はむこうの山に大蛇を見た。
十丈はあるかと思われるその大蛇は、山腹を横に這っており、
これに気付いて逃げ出した離れ牛を追いかけて呑み込んだのである。
満祐は「凄まじき有様だ」と馬を留め、守りを固めていたのだが、
この大蛇はどうしたことか、山を下るごとに次第に細く小さくなり、
麓に達した時には2尺ばかりの小蛇になってしまった。
そして、この小蛇は、舞い降りた鳶に掴み上げられ、辻堂の上で裂かれて食われてしまった。
満祐はこの様子をつらつらと見て、
「大蛇の時は牛さえ呑んだというのに、小蛇となれば鳶にさえ食われてしまった。
儂が数千騎を従え、いくつもの城に拠っているときなら大蛇が牛を呑むがごとくだが、
今、15~6騎で敵に出会うということは、小蛇が鳶に会うということに等しいではないか。」
と、会盟の場に行くべきではないと判断し、帰城したそうだ。
(播陽因果物語(播陽万宝知恵袋))
856:日本@名無史さん
13/02/20 23:50:54.95
大蛇は災害の象徴とかいうけど関係あんのかな
857:日本@名無史さん
13/02/23 18:56:58.60
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858:日本@名無史さん
13/03/15 08:01:42.95
【裸祭】オンスイ!オンスイ!半裸の勇ましい若者たちが寒さに耐えて何度も川に…/飯田市・時又初午はだか祭り(画像あり)
スレリンク(mnewsplus板)
859:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN
既出かもしれないが……
室町の初め、泉州堺の遊廓に、美人ではあるが一風変わった遊女がいた。
もとは武家の娘だったのだが、旅の途中で山賊にかどわかされて堺の遊廓に売り飛ばされたという。
遊女となった彼女は、前世の不徳を嘆き、自らの源氏名を「地獄太夫」と名乗り
地獄変相図を繍った衣を身に纏い、風流・今様を歌いながらも心に仏名を唱えた。
こんな変わり者の遊女の話を聞いたら決して放っておけない坊主がいる。
怪僧・一休宗純である。
地獄太夫を見た一休は、その場で、
聞きしより 見るに勝れる 地獄かな
それに対して、地獄太夫が付けた下の句が、
生き来る人の 落ちざらめやも
一休はその場ですぐに地獄太夫を仏弟子にしたという。
その地獄太夫の辞世と言われるのがこれ↓
我死なば 焼くな埋めるな 野に捨てよ 飢ゑたる犬の 腹を肥やさむ
860:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN
仏弟子にした、じゃなくて、手籠めにした、の間違いでは?w
861:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN
>我死なば 焼くな埋めるな 野に捨てよ 飢ゑたる犬の 腹を肥やさむ
なんという帷子辻
862:日本@名無史さん
13/12/10 19:10:44.42
あいかわらずまとめ働いてないな
一年以上前のコメントがまだ承認待ちだよw
863:日本@名無史さん
13/12/13 21:48:03.54
北条泰時の禁酒の話
あれを語ってるのが酒宴の席だというのが笑うところ
864:日本@名無史さん
13/12/15 02:32:03.72
多分2つの話がごっちゃになっていると思う。今原典にあたれない状態なので
どなたか補足を望む。
鎌倉幕府のお偉いさんが、夜中にこっそり台所に忍び込み、酒を呑もうとした。
アテは味噌。
そこにたまたま出くわした下働きの奴が、「さすがにそれでは…」と鮭の干物を
差し出した。
お偉いさん大喜び。
鮭の干物のことを「楚割」と表現してあったような…。
最近スーパーでそれを売ってるんで、思いだした。燗酒で柔らかくするとうまいそうな。
しかし、こうして記憶を書きだしてみると、落語のネタにありそうだw
865:日本@名無史さん
13/12/21 20:25:07.26
書籍名の手掛かりは?
866:日本@名無史さん
13/12/24 01:39:07.77
>>864
中学校時代の国語便覧で見覚えがあったから引っ張り出してみた
>>『徒然草』に北条時頼が素焼きの小皿に乗った味噌を肴に酒を酌み交わした話がある
うーん、鮭も出ないし一人酒でもないようだし、違うかな