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【後鳥羽院放猪の事】
後鳥羽院は騎射・歩射・乗馬に堪能で、相撲や水練もお好みであり、大力を
発揮された方で、刀もお好きであった。
そんな武の面で知られる方であったが、歌人としてもまた一流。
当時随一の歌人であった藤原定家とも、当初は良好な関係であったが、何し
ろ双方ともに我が強かったものだから、やがて犬猿の仲に。
ついには承久の乱の時に定家が「紅旗征戎吾が事に非ず」と述べ、隠岐へ流罪
とされた院が定家は冷たいと愚痴をこぼされることになるのであるが、それ
よりずっと前、建仁2年(1202)当時から、両者の仲は冷えていた。
この年の夏は旱続きであったが、定家は次の様に述べている。
「雨は降らない。その上、近日は強盗が人を害している。先日も院の女房が
鳥羽路に於いて被害に遭ったそうであるが、対策はとられない。
院がおやりになることと言ったら、ただ「遊覧」に尽きる。
近日はしきりに神泉苑に行幸なさり、猪狩を楽しんでおられるとか。
しかしこの猪、神泉苑中を掘り返しては、蛇を食べているのである。
今こんなことになり、神竜(神泉苑に棲み、密教僧や陰陽師の祈雨の対象
とされていた善如竜王)の心は、如何なものであろうか。
世間の者たちは、(竜の眷属である蛇が食べられたせいで)旱になったと
言っているのだが。」
この猪、後鳥羽院が狩猟用に神泉苑に放たれたもの。
神泉苑には鹿が飼われており、律令時代には地方から献じられた瑞鹿が放た
れたこともありましたが、猪はまず出なかった筈です。
定家はこれ以外にも、近年は公家が弓矢を用いて大型獣を狩猟対象としてい
ることを苦々しく述べていますが、後鳥羽院への意識もあったのでは。
ちなみに、この「旱の原因は後鳥羽院」と暗に書いた四日後には雨が降り、
五日後には一日中止まない大雨となっています。