12/01/14 01:18:29.07
大上様(義政母)に申し上げる次第です。私、山中高俊は四十年間検断(警察業務)の責務を果たしてきました。
西芳寺の荘主代が殺害されたときは、伊勢・伊賀まで賊を追いかけ、見事に討ち取りました。そのときは西芳寺からじきじきに恩賞を賜りました。
ですが、伴帯刀が悪事を企て、私に濡れ衣を着せて裁判を起こしました。畠山殿が管領のとき、伴一族は成敗を受けています。そのときの書状も持っています。
ですが、今回の裁判は調べもせずに本領の宇田村を没収されました。これは間違いです。きちんと調べなおして下しさい。
743:大名の権力争い、とばっちりを受ける地方の武士たち
12/01/14 01:18:59.96
もし、調べなおしていただけるならば、いよいよ我々一族は幕府のために忠節を尽くすことでしょう。謹んで言上いたします」
鈴鹿山道を代々警護する山中一族だが、管領が交代して就任している時期に一族の本領である宇田村付近の私有地を没収された。近隣豪族の伴一族が訴えたためだが、実はこの裁判は三年前に伴一族の言いがかりだと判決が下りているのである。
だが、この裁判を畠山持国が裁可したというだけで、細川勝元が判決を翻してしまったのだ。
結局、再審は行われずに山中一族は没落の道をたどることになるのであった。
義満のときとは違いすぎる、管領の自分勝手な振る舞いの話。
ちなみに、この裁判の結果をうらみに持っていた山中一族は応仁の乱で六角氏側として参戦。西軍側の近隣豪族の所領を攻撃することとなった。
乱文、スマヌ
744:日本@名無史さん
12/01/14 12:01:18.39
甲賀忍び棟梁で出てくる名だね中山さんと伴さんは
745:日本@名無史さん
12/01/23 01:00:01.80
おくり名修正のこと
承久の乱から20年後、隠岐島に流罪となった本院が崩御なさる。
朝廷は故院に「顕徳院」とおくり名したところ、都に夜な夜な
人魂が出たそうな。人々は「故院の祟り」と噂し、2年後朝廷はついに
故院へのおくり名を「後鳥羽院」と改めた。
すると人魂も治まり、故院の怒りは解けたということだ。
おくり名が変えられた帝は後鳥羽院が唯一である。
不遇な天子に贈られる「徳」の字が気に入らなかったのだろうか?
746:日本@名無史さん
12/02/01 19:01:45.48
「鎌倉武士のなんともいえぬ潔き気風の真髄となっているものもやはり平安時代の「あわれ知ること」である。
平安士女の生活と鎌倉武士の生活が相異なるから、その現れた事相はもちろん違う。
彼にあっては花鳥風月恋愛等に顕れたものが、これにあっては、軍陣の関係、忠孝の事蹟などに顕れたが、
その外相をおいて、その真生命について見るときには、同じ情韻が溢れているのである。
自分の詠歌を勅撰集に加えたいばかりで、死を決して落ち行く旅の路から戻ってきて、夜、和歌の師の門を叩いた平忠度もある。
足柄山の月の夜に笙の秘伝を伝えた新羅三郎もある。
落花に対して風を恨んだ源義家もある。
梅の花を箙に插して敵陣に突進した梶原景季もある。
熊谷直実が平敦盛を逃がそうとしたなども、みな鮮明に鎌倉武士の風尚を示すものである。
これらはむしろあまり鮮明すぎて、鎌倉武士の風尚を浅くするかと思わるる事例に過ぎぬ。
実に鎌倉武士は武健であった。(1/2)
747:日本@名無史さん
12/02/01 19:03:24.29
忠君の情が厚かった。
そしてその武勇や忠義に一種の気韻を与えて、花よりも美しからしめるものは、
この「あわれ知る」という気風であったのである。
武士道は決して文字の上の解釈で知られるものでもなく、理屈や教条で組立てられるものでもない。
理屈や条規は、ただその形体である。その真体、精神はただ身証体得するほかには、これを捉える術はないのである。
鎌倉武士のあいだに禅学の流行したのも、その原因はこの辺にあるのである。
このことについては、武士はいつ死ぬか分からぬから宗教によったのだろうとか、
在来の仏教が腐敗したから禅宗が流行ったとか、いろいろの解釈をする人があるけれども、
我は禅の直覚的悟道と武士道の真髄なる物のあわれ、物の心を知るということと同じ趣があると思う。」(堀維孝)『国民道徳に関する講和』稿本。大正二年(2/2)
748:日本@名無史さん
12/02/01 20:44:52.61
>>747
>忠君の情が厚かった。
>そしてその武勇や忠義に一種の気韻を与えて、花よりも美しからしめるものは、この「あわれ知る」という気風であったのである。
ものすごいお花畑脳内妄想だな。w
749:日本@名無史さん
12/02/02 01:59:52.70
>>747
これは、史実無視の精神論ってので、悪い話ですね。
750:日本@名無史さん
12/02/02 02:54:11.39
赤松満祐が義教を殺そうと思ったきっかけのひとつ。
赤松さんちのみっちゃんは、弟の則繁くんと仲が良かった。
ある日義教が、則繁くんの領地を召し上げて、別の赤松姓を持つ奴に
プレゼントするというじゃあないか!
みっちゃん「どうしてじゃあああ! 則繁くんが何か悪いことしましたかあああっ!」
義教「ん……だってさ、こいつが『あそこの土地が欲しい』って言うんだもん」
こいつ、とは赤松姓を持つ若僧。
義教「僕達、ラブラブなんだよね~♪」
若僧「ラブラブですよ~上様ぁ~ん♪」
(て、てめええっ! おホモ達には今までの経由なんか考えず、土地を与えて行くのかよ!?)
帰宅してみっちゃん、則繁くんに事情を語る。
則繁「兄ちゃん! おれ、めっちゃ悔しいっす! 先代の義持様はともかく、今の義教様だって
こっちは今まで通り忠義をやってるんですよ! それが、あんなぷりんぷりんのケツのために
おれの領土を持っていかれるって、どうなんですか!? 許されないですよね!?」
みっちゃん「腹立つよなあ…いや、腹立つだけでは納まらんよ!」
かくしてみっちゃんは将軍暗殺す!を肝に銘じ、則繁くんも最高に協力したのである。
で、嘉吉の乱当日へ向かっていく。
という話を高校時代に読んだんだが、典拠はどういう書物でしょう?
この文章は25年ほど前に百科事典(結構詳しい奴)に載っていた文章をアレンジしました。
751:日本@名無史さん
12/02/04 05:07:18.56
ペルー日本大使公邸人質事件は茶番劇
URLリンク(akiba.geocities.jp)
URLリンク(3rd.geocities.jp)
室町幕府の成立を記念したパロディだった。
752:日本@名無史さん
12/02/05 01:03:39.22
>>750
赤松貞村というのが「こいつ」の姓名。
義教の大名統制策の一環であり、男色は
理由づけだと思われる。
有力な大大名である赤松氏が将軍の意のままになるチャンスだったのを
満祐が潰したというのが正解。
結局曾孫に幕府の存在基盤を危うくしてまでも大名統制に乗り出させる
結果をつくったのは、尊氏が外様大名に領地をあげ過ぎたことが原因。
そうしないと南朝に奔るから仕方ないのだけど。
義教は気の毒な人生だ。後醍醐の我がままに最後まで付き合わされて殺されて。
後南朝の掃討も義教の仕事だった。
753:日本@名無史さん
12/02/08 04:23:18.72
>>752
thanks!
「若僧」って書いたけど、若僧って年齢でもないな。
日本に封建制度は合わないんだろうか?
754:日本@名無史さん
12/02/08 13:00:22.54
>>753
合わなかったら800年も続かないと思うが
755:日本@名無史さん
12/02/08 14:12:48.13
現状をみると民主主義の方が合ってない気がする
756:日本@名無史さん
12/02/08 19:26:52.98
三権分立を提唱した人として教科書に載ってる人は、共和政治はすぐに堕落するから君主制の方が良いよ、みたいなことは言ってた
757:日本@名無史さん
12/02/08 20:06:58.99
モンテスキューはエリザベス女王とかがパトロンだったしな
758:日本@名無史さん
12/02/08 21:13:33.67
>>755
民主主義は出来てから200年ちょっとでもうガタが来てるからね。
高度に教育された大衆がいないと成り立たないんだよ。
本来君主の業務だった自己研鑽や修養を民衆に丸投げしたから。
本当の意味でのエリートがいないと成り立たないんだよ。民主制は。
759:日本@名無史さん
12/02/08 22:39:03.79
> 本来君主の業務だった自己研鑽や修養を民衆に丸投げしたから。
> 本当の意味でのエリートがいないと成り立たないんだよ。民主制は。
「本当の意味でのエリート」なんてのが存在した時代なんてないだろ?
妄想世界の中以外では。
760:日本@名無史さん
12/02/08 22:40:01.53
>>756
寡愚制に堕しなかった君主制なんてのも、存在したためしがないな。
761:日本@名無史さん
12/02/08 23:02:05.82
君主制にも民主制にもその他の政体でも官僚がいるから、官僚こそ国の頂点だろう。
事実、官僚機構が脆弱な室町幕府は、統治能力が他の時代に比して弱かった。
>>759
北条得宗家の義時-時宗までは立派な統治者だと思う。多分日本史上最高の。
762:日本@名無史さん
12/02/08 23:10:35.13
>>761
鎌倉幕府は室町幕府よりずっと官僚機構が惰弱なんだが。
そんなことも知らんのか
763:日本@名無史さん
12/02/08 23:24:13.95
惰弱なのか。俺は官僚個々人の内面については興味ないよ。
764:日本@名無史さん
12/02/09 06:27:32.40
あとは財政基盤でしょう
765:日本@名無史さん
12/02/21 23:08:08.22
中央区の風呂谷部落は楠寺で切腹した
楠木正成の遺体に献花し、埋葬した功績により
後醍醐帝より摂津国内の花の専売を認められた由緒ある、部落です。
明治までその特権は続きました。
最後の弾佐衛門を生んだ、住吉部落とは婚姻を結ぶ事の多かった部落です。
766:日本@名無史さん
12/04/12 19:21:45.39
>>761,763
鎌倉幕府と室町幕府では、幕府の権限の範囲、実権の強さにおいて、圧倒的に
鎌倉幕府<<室町幕府
なんだがなあ。
鎌倉幕府は権限の範囲が小さいから小規模で簡素な官僚機構でも充分に機能した。それだけだ。
767:日本@名無史さん
12/04/12 21:11:23.82
実権の強さってのはあくまで相対的なものだろ。
鎌倉幕府:御家人
室町幕府:鎌倉府・守護大名
どっちが強いかは自明だ
768:日本@名無史さん
12/04/12 22:50:01.55
室町幕府は理論上日本中の武士を統率し動員できるが、鎌倉幕府は御家人として幕府が把握している武士しか
統率できないし、非御家人武士の側にも幕府に従う義務はない。
769:日本@名無史さん
12/04/13 07:57:40.57
>>768
そのせいで国人衆を動員した守護に手こずるって話じゃないのか?
770:日本@名無史さん
12/04/16 18:43:11.64
寺門(寺の内部昇格)出身の天台座主の、異様な在任期間の短さ
28代明尊 長暦2年(1038)補任して三日目に、山門大衆の反対で辞任。
34代覚円 承暦元年(1077)2月5日補任。山門大衆が騒いで翌日辞任。
39代増誉 長治2年(1105)2月14日補任。翌日辞任。
44代行尊 保安4年(1123)12月18日補任。6日後辞任。
47代覚猷(鳥獣戯画で有名) 保廷4年(1138)補任。3日後辞任。
50代覚忠 応保2年(1162)2月1日補任。2日後辞任。
60代公顕 文治6年(1190)3月4日補任。4日後辞任。
公顕以降、流石にもうこのシステムはダメだと考えたか、寺門出身の座主はなくなり、摂家門跡、宮門跡の時代となる。
戦後の総理大臣どころではない、寺門出身天台座主の在位の短さのお話。
771:日本@名無史さん
12/04/16 21:36:49.58
>>770
寺門出身は園城寺(三井寺)出身という意味ではありませぬか。
というわけで山門(比叡山)から攻撃を受けたと。
772:日本@名無史さん
12/04/18 13:18:49.00
座主=守護大名、行人(大衆)=被官、国人にあてはめればそんなでもないと思うが
773:日本@名無史さん
12/04/18 22:13:10.42
普通に考えれば、寺門=園城寺の出身ということでしょうね。
実際皆園城寺の人だし。
774:日本@名無史さん
12/04/25 00:32:51.43
能
775:日本@名無史さん
12/06/01 21:33:16.11
今川了俊は亡き兄の範氏を思いやって、範氏の二男の泰範を駿河の守護に譲った。しかし、将軍義満に讒言して了俊の失脚の原因を作ったのがこの泰範と言われており、了俊は自らの人の良さを悔いたという
776:日本@名無史さん
12/06/09 19:52:09.52
大友氏の菩提寺である万寿寺は、豊後最初の禅寺であると言われる。
その経緯はというと、嘉元3(1305)年鎌倉にいた大友家五代当主貞親は、
北条貞時と謁見した際、寺院を建立し僧侶を安んじたことがあるかどうかを
尋ねられた。答えに窮した貞親は、小寺を造り100人の僧侶を擁していると嘘をついてしまった。
しかし貞時はこれを信じ、周囲の者も大いに感心したという。
恥じた貞親はその後豊後に戻り、徳治元(1306)年、博多承天寺の直翁智侃を招き、彼を開山とし一寺を造るに至り、
程なくして100人の僧侶を擁する寺院となった。
時は下り天正10年、第22代当主大友義統が家臣への領地配布のために
万寿寺に放火し廃寺とするのはまた別のお話。
777:日本@名無史さん
12/06/09 20:27:58.68
義統ェ・・・
778:日本@名無史さん
12/06/11 06:14:28.11
一応江戸時代に立て直されて、寺自体はいまでもあるのね
779:日本@名無史さん
12/06/11 21:42:59.07
鎌倉・室町のちょっといい話・悪い話のまとめサイトってちゃんと機能してるの?
もし管理人見てるなら教えてくれ
780:日本@名無史さん
12/06/12 00:08:24.36
コンピュータ様が人間を統治するべきなんだよ。
ZAP!ZAP!ZAP!
781:日本@名無史さん
12/06/14 18:53:17.19
2chにも、このような良スレがあるんだなぁ。
782:日本@名無史さん
12/06/16 12:56:34.61
もうこのスレ落とそうぜ
>>779
更新が4月くらいで止まってるし機能してないな
どうせ糞管理人もどっかに消えたんだろ
783:日本@名無史さん
12/06/16 20:55:02.79
そんな二元論にこだわらなくても
まったり行こうぜ
784:日本@名無史さん
12/06/18 08:42:56.93
昔、小学校の時に渡された歴史の史料集に乗っていた逸話(うろ覚え)
「源頼朝は挙兵の前夜、自分に従っていた御家人達を一人ずつ呼んで、「あなただけが頼りだ
よろしく頼む」と言いました。御家人たちは大層喜び、士気は大いに上がったそうです。
しかし頼朝が本当に頼りにしていたのは北条○○(名前が思い出せない、時政?)だけでした」
785:日本@名無史さん
12/06/18 12:27:41.24
>>784
挙兵だって頼朝は乗り気でなかったと思う。
頼朝はある時期から「神輿」になることを許容した。
差し詰め昭和天皇のように。そのはけ口が女だった。
786:日本@名無史さん
12/06/18 13:36:45.79
昭和天皇はむしろ乗り気だったのでは
787:日本@名無史さん
12/06/18 19:27:50.76
>>784
たぶん、近代になってから作られた、創作系のお話し。
昔の歴史教科書には、そのての創作物が数多く載せられてた。
>>786
開戦決定までは乗り気じゃなかったみたいだね。
決定後は積極派らしい言動が主だったらしいが。
まあ、戦うことが決定した以上は、戦時体制に水を差してしまうのが最悪だから、
ひょっとすると本心を隠しただけかもしれん。
あるいは、軍部から上がってきた誤った情報を信じてしまって、
勝てると思い込んでただけかもしれん。
公開された情報はことごとく、政治的意図を持った物ばかりだから、
本心から乗り気だったのか、そういう演技(ポーズ)だったのかは判断不可能だな。
788:日本@名無史さん
12/06/18 20:25:20.56
昭和天皇は勝てないという思いは持っていたと聞く
ただし政治に容喙するのを自重した結果あのようなことに。
スレチなのでsage
789:日本@名無史さん
12/06/18 21:47:36.20
天皇の御意についてはよくわからん
弟君の三笠宮様が歴史の生き証人だが、ご高齢のうえ、
今は御子息を失ったショックでお疲れと聞いているからなあ
790:日本@名無史さん
12/06/18 21:52:21.78
まだ生きていたんだよな。びっくりした。
でも、あの表情は軽い痴呆だな。
791:日本@名無史さん
12/06/19 00:06:14.72
>ただし政治に容喙するのを自重した結果
一見すると絶対君主制の如く見える憲法に惑わされがちだけど、
実際の制度上は、天皇が政治に口出しする機会はほとんどゼロという形になっていたはず。
実際の諸々の政治機構でも、天皇の口出しを受けない前提の運用が基本で、
主流派方針に不平を持つ人間が天皇大権を利用しようと秘密工作しない限り、
通常は天皇の御意などというものが漏れ聞こえることもなかったはず。
って、鎌倉室町のスレでやる話じゃなかったな、すまん。
792:日本@名無史さん
12/06/19 01:07:45.90
>>791
sageよう。
>天皇の口出しを受けない前提の運用が基本
これを破ったのが226の時でこれは相当後悔があった…
とかいい加減にせいと怒られそうなんで鎌倉のころの話。
将軍実朝のころのこと、前将軍頼家の子を立てて謀反を企てた一味に渋河刑部兼守なる御家人がいた。
捕えられ明日処刑と言う時に和歌十首を二階堂の荏柄天神社に奉納したところ将軍の目にとまり命は助かったと言う。
教養は時に身を助けるという話。
793:日本@名無史さん
12/06/19 02:39:36.21
>>792
>教養は時に身を助けるという話
オレ、安心したわ!
794:日本@名無史さん
12/06/19 16:12:22.96
>>791
アメリカとの戦いは乗り気じゃないが
中国との戦いは乗り気
宜昌のときは直接支持を下した
795:日本@名無史さん
12/06/24 12:28:44.36
>>794 アメリカは文明国だから日本がとやかく言う相手ではない
当時の支那は混乱の極みで、国民党は腐敗
このような政権を打倒することこそ支那人民のためになる
支那への干渉は正義
796:日本@名無史さん
12/06/24 14:26:03.77
>>795
侵略のためなら、理由は何でもよかったんだしなぁ(笑)
797:日本@名無史さん
12/06/24 15:08:48.20
>>795-796
君達はこの鎌倉室町スレで何をしようとしているのかね
798:日本@名無史さん
12/06/24 16:11:02.34
>>796
侵略なんかしとらんわ
799:日本@名無史さん
12/06/24 17:35:08.86
鎌倉時代のスレなんですが
君らは元寇の話でもしとるん?
800:日本@名無史さん
12/06/24 17:57:58.40
>>798
○カの典型がキタ━━┌(_Д_┌ )┐━━!!
801:日本@名無史さん
12/06/24 18:21:23.85
右と左って本当にどこでも喧嘩できるね
802:日本@名無史さん
12/06/24 18:53:31.13
>>796
チョンは故郷に帰れ!
コミンテルンにけしかけられて、日本を侵略して日本人を奴隷化しようと企む蒋介石の野望を打ち砕く防衛戦争だ!
803:日本@名無史さん
12/06/24 19:03:32.83
>>802
妄想乙です! もう、バ○かと!
日本をつぶす気かと・・・!(笑)
804:日本@名無史さん
12/06/24 19:34:14.49
とりあえず「大東亜戦争への道」を読むといいよ
時系列で何が起きたかを淡々と書いてるだけの本だが
どういう経緯で日本が戦争に引きずり込まれたかよくわかるから
最初に手を出してきたくせに
嘘八百こいて自分を被害者に見せかける中国のやり方は
戦前も今の尖閣諸島問題でも全く変わってない
805:日本@名無史さん
12/06/24 19:52:43.33
>>804さんへ。
>>803です。
冷静なあなたを尊敬します。
ご教示の「大東亜戦争への道」を読んでみることにします。
では、これで!
806:日本@名無史さん
12/06/26 01:17:23.56
近、現代史好きなやつは、大体変なやつが多いよ。
807:日本@名無史さん
12/06/28 16:55:06.02
話の投下が少なそうなので小話をば
洋の東西を問わず、弓の技術を鍛えまくると腕の形が左右非対称になるという話があるが、
与一の名で知られている弓の名手・那須宗隆に至っては
鍛え過ぎて腕の形どころか長さ自体が左右非対称になっていたらしい。
808:日本@名無史さん
12/07/01 00:40:12.96
伝承で残るってのは見た目でわかるくらいっつーことかね
809:日本@名無史さん
12/07/05 09:13:25.88
転載
> 851 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 21:52:44.76
> 後三年の役における源義家の戦後処理
>
> 4 千任丸の舌
> 次ぎに、千任丸が召し出された。
> 義家は言った。「先日、矢倉の上で言ったことを、今、もう一度言ってみろ。」
>
> 千任は、頭を垂れて何も言わなかった。「その者の舌を切れ」と義家は命じた。
>
> すると、源直という者が、千任に近寄って、手でその舌を引出そうとした。
> 義家は、激怒しながら、
> 「虎の口に手を入れるのは、愚かなことだ。」と言って、源直を追い払った。
> 特に力自慢の兵を幾人か呼び寄せ、その中からとっておきの猛者を選んだ。
> その者に焼けた鉄を掴む金ばさみを取らせ、舌を挟んで抜くように命じた。
> ところが、千任は歯を食いしばって口を開こうとしない。
> 猛者は、金ばさみで歯を突き破り、ついにその舌を引き出し、これを切ってしまった。
>
> 千任の舌を切り終わると、縛り上げて、木の枝につり下げ、足を地に着かない程にして、その足の下に、武衡の首を置いた。
> 千任は、泣きながら足を縮めて、何とか主人の首を踏まないように我慢をした。しかししばらくして、力尽き、足を下げて、ついに主人武衡の首を踏んでしまったのであった。
>
> URLリンク(www.st.rim.or.jp)
810:日本@名無史さん
12/07/06 08:03:53.61
義家は平安時代だろ
811:日本@名無史さん
12/08/01 00:04:27.56
義家ってこういうのあるからイメージ悪いなあ
頼朝が義家の真似して泰衡の額に五寸釘うったんだっけか
812:日本@名無史さん
12/08/04 10:36:42.68
>>810
このスレ、院政期は範疇。んで、後三年の役は白河院の院政期。
813:日本@名無史さん
12/08/22 19:50:02.37
>>811
源義家は、衝突した美濃源氏の館を焼き討ちしましたとさ。
814:日本@名無史さん
12/08/22 21:11:14.35
聖人君子で名を成したわけじゃないんだし、なんでそんな事でイメージ悪くするかね?
815:日本@名無史さん
12/08/23 00:32:07.43
清和源氏は完全に戦闘民族だよなー
RPGとかの悪の帝国のキャラがそのまま務まるレベル
816:日本@名無史さん
12/08/23 01:15:19.36
>>814
敗者に対して情けを掛けず虐待するのは、日本人のメンタルと
合わない気がする。
817:日本@名無史さん
12/08/23 01:16:30.37
そんなメンタルは江戸期以降のものだし
818:日本@名無史さん
12/08/23 20:17:54.65
(~)
γ´⌒`ヽ
{i:i:i:i:i:i:i:i:}
( ´・ω・`) 北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。
/ >‐ 、-ヽ すなわち自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。
/丶ノ、_。.ノ ._。) その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。
. 〈 、〈Y ,ーiー〈ト 頼山陽などは、まだ眼孔が小さいわい。おれも幕府瓦解のときには、
\_ξ ~~~~~~Y せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあったっけ。
|__/__|
|、,ノ | 、_ノ
819:日本@名無史さん
12/08/23 21:07:25.44
>>814
だが結局源氏嫡流は断絶したのであった。
820:日本@名無史さん
12/08/23 21:16:47.59
断絶したのは河内源氏頼朝流だけだが
821:日本@名無史さん
12/08/23 23:53:01.72
ら、頼朝流?
822:日本@名無史さん
12/08/23 23:55:34.39
で、良い話悪い話はどうなってんだ。
揚げ足取りしかいねえじゃねえか
823:日本@名無史さん
12/08/24 01:06:29.92
817のような何故このスレにいるのか
誰にも理解できない門外漢のいるスレで
何言ってんだ?
824:日本@名無史さん
12/08/24 16:48:16.90
NHK BSプレミアム『桃源紀行 七つの幸せ"鎌倉編"』
出演レポーター・ナレーター:アンジェリカ
●放送日:2012年8月14日
19:30~
アンジェリカオフィシャルブログ
寝ても覚めても夢の中
URLリンク(ameblo.jp)
825:日本@名無史さん
12/10/08 20:21:50.03
「国宝神護寺三像とは何か」を読みましたか?
826:日本@名無史さん
12/10/09 08:46:22.21
戦国スレと違って過疎ってるな。
みんな中世は興味無いんかな?
827:日本@名無史さん
12/10/09 11:47:09.47
>>826
戦国時代と違って、現代の似非日本人では理解できない破天荒な人達が多すぎてついて行けないから。
828:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
12/10/10 21:56:49.61
「日本史総合」の方がよかったかもしれませんね。
料理スレも最近まで江戸時代限定で書き込みにくかった。
829:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
12/10/10 22:05:28.28
>>685
別当寺のことでは。
>>706
『真言伝』の中で、病の時も飲酒しないことが美談となっているぐらいですから。
(室町時代の往来物には、五辛を薬とすることの是非を問答したものがある。)
平安後期の「起請文」の中にも、「杯を重ねない」と書かれています。
社交上必要な場合もあったので、なかなか非難もしがたいといいますか、そういう
のも当時の現実ですので、今から悪くは言えませんね。
法華八講も、僧侶が俗人に接待で酒を飲まされたのがきっかけで創始されています。
830:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
12/10/10 22:12:54.34
>平安後期の「起請文」の中にも、「杯を重ねない」と書かれています。
言うまでもありませんが、これを書いたのは僧侶ですよ。
起請文を「 」付きにしたのは、後代の定型がまだ完成されていないので。
『松屋筆記』は『宋高僧伝』の例を僧侶を酒で供養した例の初見としています。
成立年代は、平安初期の供養・飲酒を記す『三宝絵』の方がやや早いですが。
831:日本@名無史さん
12/10/11 17:22:55.67
>>826
まとめが機能してないのもあるかも
832:日本@名無史さん
12/10/14 01:06:52.86
>>826
ぶっちゃけ、学問板だから敷居が高いのよ。戦国板みたいに 雑談で盛り上がったり、後世(江戸中期以降)出典の俗説めいた逸話を出すのも気が引けるし
833:日本@名無史さん
12/10/14 07:53:31.73
日本史板もどこも俗論と雑談だらけだと思うが…
834:日本@名無史さん
12/10/14 10:32:19.67
学問板のくせに敷居が高いとか誤用しちゃうのかよwwwwwwwwwwwwwwwwww
835:日本@名無史さん
12/10/22 18:24:37.02
>>812
院政期も可ということで
白川院が休んでいた時にうなされていたことがあった。
「適当な武具を枕元に置いておけ」との言葉があり、
源義家にそれを取り寄せたので、義家は黒塗りの檀弓を一張差し上げた。
それを枕元に立ててからはうなされることもなくなり、院は感心した。
院が「この弓は前九年の役に持っていったものか」と尋ねたところ、
義家はよく覚えていない旨を答えたので、上皇は自分の活躍を自慢しない
義家の謙虚さを感じ、それもまたしきりに感心したということである。
(宇治拾遺物語)
836:日本@名無史さん
12/10/22 22:18:39.99
にきにきにんにんっ!
837:日本@名無史さん
12/10/23 07:59:01.49
日本人の謙遜の美徳の歴史半端ねぇ
838:日本@名無史さん
12/10/26 00:41:00.79
>>832
ぶっちゃけあっちは小説レベルの眉唾な話も普通にガンガン出てくるが
こっちは一応学問板としてのプライドからか信憑性が低いと書きづらいのもあるんかね
839:日本@名無史さん
12/10/29 02:24:48.52
ばさら大名の服装などがわかる絵ってどんなものがありますか?
なかなかそれっぽいのが見つからないんですが。
ネットではゲームの絵ばっかり出てくるし、良い本もなかなか見つからなくて…。
佐々木道誉も地味な坊さんっぽい絵しかわからず…。
840:日本@名無史さん
12/10/29 22:51:11.49
神護寺三像は、絵絹が日本産であったとしても、足利3人衆で揺るがないね。
841:日本@名無史さん
12/10/31 02:23:07.47
尊胤法親王は後伏見天皇の皇子で、天台座主まで務めた宮であるが、
正平一統が崩壊した後、南朝方によって吉野山中の柴の庵に幽閉され、
それを山本三郎という者が命を受けて厳重に監視していた。
2ヶ月程経って、親王の病態が日増しに悪くなるという噂が立ち、
親王は「峯を通る山伏でもいないか、病気退散の祈祷をさせたい」
と望むので、警護の武士たちがあちこちに散らばって探した結果、
その翌日に尊そうな山伏を3人連れて来た。親王はたいそう喜んで、
枕元に招いて祈祷をさせたところ、2日程で全快したというので、
山伏にお布施を賜った。そして武士たちにも祝賀の酒を賜ったので、
彼らは夜の更けるまで歌い騒いでいた。
山伏たちは暁にも出発しようというので、まだ暗いうちに立ち去った。
するとその日の昼頃であったろう、急に「宮がいらっしゃらぬ」と騒ぎ立ち、
慌ててあちこちの関所に人を走らせて山伏を追わせたが、すでにその前に
関を通り抜けて、夜には興福寺に着いていたとか。これは、親王の門弟・
律師元祐という者がかねがね計略を練り、自ら山伏姿に身をやつし、
それも親王の身を潜ませるには十分な大きさの笈を背負っていって、
まんまと連れ出していたことが後で分かった。それからは皇居の監視を
一層厳しくしたので、さまざまな計略があっても成功しなかったという。
842:日本@名無史さん
12/11/02 22:40:28.27
様々な計略って何やったんだろ。
しかしこういうことを一度やると本当に病気の時に信用してもらえなくて不便だろうな。
843:日本@名無史さん
12/11/26 21:33:52.56
あげ
844:日本@名無史さん
12/12/01 21:41:45.19
五月五日に賀茂の競馬を見ました。私(吉田兼好)の乗っていた牛車の前に
見物人が立ちふさがったので降りて近づいたが、人が多くて行けなかった。
そんな時に向こうの家の木に登って、枝の又に腰掛けて見物している僧がいた。
彼は枝につかまったままぐっすり眠っていて、落ちそうになって目を覚ますことが
何度もあった。その様子を見た人がこれを馬鹿にして笑い「大馬鹿者だ。
こんな危ない枝の上で安心して眠れるわけがないだろ。」と言った。
それを聞いて私は心にふと思いつくまま「私たちが死ぬ時はいまかもしれない。
それを忘れて見物などをして一日を過ごしている。この僧よりも愚かなことをして
いるともいえるのに…。」と言った。
すると前にいる人たちが「誠にその通りです。私たちが一番の愚か者です。」と、
皆が後ろを振り返って「こちらへどうぞ。」と場所を空けて下さった。
これほどの道理は誰だって思いつくはずのことだが、時機が時機だけに思いがけなく
ハッとしたのかもしれない。人は木や石ではないから場合によっては物に感じることも
ないわけではない。(徒然草)
845:日本@名無史さん
12/12/02 03:16:24.38
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
というところですかね
846:日本@名無史さん
12/12/05 22:16:10.84
源頼朝はいつも倹約を部下に指導してきた。ところが藤原俊兼が
美しく鮮やかな衣服を身に着けているのを見た頼朝は俊兼に命じて
その刀を取り、俊兼の着物の裾を断ち切った。
そして頼朝は「お前は働きのある男だというのに何故質素倹約を
履行しないのか。千葉常胤や土肥実平などのような者は鎧冑を
身に着けた武士で、礼儀作法を知らない。また、その領地はお前とは
比べものにならないほど大きいものだ。
つまり、彼らでさえ質素を実行して家を富まし、たくさんの士卒を
養っておるのだ。有事の時には功を立てようという志からである。
お前は何故それを考えないのか。」と俊兼を戒めたのであった。
(大日本史)
847:日本@名無史さん
12/12/15 14:32:59.36
礼儀作法を知らないのがなぜ質素倹約につながるんだ
848:日本@名無史さん
12/12/17 21:32:13.60
北条時宗は剛毅な人柄で幼い頃から弓を射るのが上手だった。
弘長中に鎌倉の極楽寺の屋敷で弓の大会が開かれた。この時、将軍が
小笠懸を見たいと言ったのだが、進んで引き受ける者はいなかった。
その時、北条時頼が「太郎が致しましょう。」と言った。当時の時宗は
十一歳であったが、馬に乗って出て見事に一発で命中させた。
見ていた多くの人々は歓喜の声をあげ、時頼もまた「この子は将来
きっと親の業を受け継ぎ、すぐれた者となるだろう。」と言った。
(日本外史)
849:日本@名無史さん
12/12/17 23:54:46.74
よくある眉唾ものの与太話だな。
850:日本@名無史さん
12/12/18 05:24:48.84
でも、時宗ならやりそうって思ってしまう。
はったりに強い=大舞台で強いって感じで。
851:日本@名無史さん
12/12/18 07:59:29.01
武家として日本で最高の英才教育を受けてたはずだしね
852:日本@名無史さん
12/12/19 13:38:36.00
その逸話、元は一度失敗して再チャレンジして成功させた話じゃなかったっけ?
853:日本@名無史さん
12/12/19 23:47:09.54
馬がいつもと違う馬でタイミングが狂ったけど
パルティアンショットで射抜いたって話もあるな。
854:日本@名無史さん
12/12/23 01:47:53.93
東北院は古い御跡で池山の景色など、すばらしく風流な場所だったので、
たびたび若い公卿殿上人が来ては琴・笛・歌などを楽しんだ所であった。
高倉院の時代、藤原実宗、藤原実家、中将泰道、隆房、平維盛・資盛、
源雅賢などはいつも打ち連れて遊ぶ人々であった。
治承の頃であろうか。月も花もさかりなる夜、例の人々は一緒に東北院で
遊んでいた。その日は景色もすばらしく優美で風情のある夜であった。
実宗は琵琶を弾き、資盛は箏を、泰道と維盛は笛を、隆房は笙の笛を
吹き合わせて、いつもより楽しい遊びとなった。
暁方程になって隆房、維盛、雅賢などは朗詠、催馬楽、今様をとりどりに
歌い、夜が明けるのを名残惜しんで「今宵は本当に心に残る遊びだ。」と
言い合った。彼らは「この中で誰が先に亡くなって偲ばれることになるの
だろう。」と言っていたのだが、
六、七年程経って思いもよらず世は乱れてあらぬ世となり、中でも特に若い、
将来も華やかであろうと思われた維盛兄弟が亡くなってしまった。残った
人々は口に出して酷く悲しんだ。年を経て東北院に集まってもあの夜の
ことを言い出して皆が袖を絞った。本当にさぞかし悲しいことであった。
(平家公達草子)
855:日本@名無史さん
13/02/19 09:36:42.14
逸話というより、昔話として読んでいただければ・・・。
赤松満祐は隣国の敵と和睦の後、互いに会盟せんと約して、15~6騎で国境へ向かっていった。
城を出ること3~4里、満祐はむこうの山に大蛇を見た。
十丈はあるかと思われるその大蛇は、山腹を横に這っており、
これに気付いて逃げ出した離れ牛を追いかけて呑み込んだのである。
満祐は「凄まじき有様だ」と馬を留め、守りを固めていたのだが、
この大蛇はどうしたことか、山を下るごとに次第に細く小さくなり、
麓に達した時には2尺ばかりの小蛇になってしまった。
そして、この小蛇は、舞い降りた鳶に掴み上げられ、辻堂の上で裂かれて食われてしまった。
満祐はこの様子をつらつらと見て、
「大蛇の時は牛さえ呑んだというのに、小蛇となれば鳶にさえ食われてしまった。
儂が数千騎を従え、いくつもの城に拠っているときなら大蛇が牛を呑むがごとくだが、
今、15~6騎で敵に出会うということは、小蛇が鳶に会うということに等しいではないか。」
と、会盟の場に行くべきではないと判断し、帰城したそうだ。
(播陽因果物語(播陽万宝知恵袋))
856:日本@名無史さん
13/02/20 23:50:54.95
大蛇は災害の象徴とかいうけど関係あんのかな
857:日本@名無史さん
13/02/23 18:56:58.60
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;;:::..::..*.....(''',,o) ..:+;.::.: ∧∧
'''"""''"`''""`"""''''''" カリカリキタ━━━(゚∀゚)━━━ !!!!!
858:日本@名無史さん
13/03/15 08:01:42.95
【裸祭】オンスイ!オンスイ!半裸の勇ましい若者たちが寒さに耐えて何度も川に…/飯田市・時又初午はだか祭り(画像あり)
スレリンク(mnewsplus板)
859:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN
既出かもしれないが……
室町の初め、泉州堺の遊廓に、美人ではあるが一風変わった遊女がいた。
もとは武家の娘だったのだが、旅の途中で山賊にかどわかされて堺の遊廓に売り飛ばされたという。
遊女となった彼女は、前世の不徳を嘆き、自らの源氏名を「地獄太夫」と名乗り
地獄変相図を繍った衣を身に纏い、風流・今様を歌いながらも心に仏名を唱えた。
こんな変わり者の遊女の話を聞いたら決して放っておけない坊主がいる。
怪僧・一休宗純である。
地獄太夫を見た一休は、その場で、
聞きしより 見るに勝れる 地獄かな
それに対して、地獄太夫が付けた下の句が、
生き来る人の 落ちざらめやも
一休はその場ですぐに地獄太夫を仏弟子にしたという。
その地獄太夫の辞世と言われるのがこれ↓
我死なば 焼くな埋めるな 野に捨てよ 飢ゑたる犬の 腹を肥やさむ
860:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN
仏弟子にした、じゃなくて、手籠めにした、の間違いでは?w
861:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN
>我死なば 焼くな埋めるな 野に捨てよ 飢ゑたる犬の 腹を肥やさむ
なんという帷子辻
862:日本@名無史さん
13/12/10 19:10:44.42
あいかわらずまとめ働いてないな
一年以上前のコメントがまだ承認待ちだよw
863:日本@名無史さん
13/12/13 21:48:03.54
北条泰時の禁酒の話
あれを語ってるのが酒宴の席だというのが笑うところ
864:日本@名無史さん
13/12/15 02:32:03.72
多分2つの話がごっちゃになっていると思う。今原典にあたれない状態なので
どなたか補足を望む。
鎌倉幕府のお偉いさんが、夜中にこっそり台所に忍び込み、酒を呑もうとした。
アテは味噌。
そこにたまたま出くわした下働きの奴が、「さすがにそれでは…」と鮭の干物を
差し出した。
お偉いさん大喜び。
鮭の干物のことを「楚割」と表現してあったような…。
最近スーパーでそれを売ってるんで、思いだした。燗酒で柔らかくするとうまいそうな。
しかし、こうして記憶を書きだしてみると、落語のネタにありそうだw
865:日本@名無史さん
13/12/21 20:25:07.26
書籍名の手掛かりは?
866:日本@名無史さん
13/12/24 01:39:07.77
>>864
中学校時代の国語便覧で見覚えがあったから引っ張り出してみた
>>『徒然草』に北条時頼が素焼きの小皿に乗った味噌を肴に酒を酌み交わした話がある
うーん、鮭も出ないし一人酒でもないようだし、違うかな