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建武3年(1336)2月11日、足利尊氏は摂津豊島河原合戦で新田義貞・北畠顕家の連合軍に敗北し、足利軍全体も危機に陥った。その日の深夜、赤松円心は尊氏の御前に参上し申し上げる
「今回、例え敵を打ち破り都に攻め上ったとしても、味方は疲弊しその戦果を維持するのは難しいでしょう。しばらく御陣を西国にお移しになって、軍勢に休息を与え、馬を休ませ弓箭干戈の用意をした上で、再び
上洛なさるべきです。
およそ合戦においては旗こそ大切です。官軍は錦の御旗を先頭に立てていますが、味方にはこれに対抗する旗が無いので朝敵のように見られます。
ところで持明院殿(後伏見院)は天子の正当でおわしますから、先代(北条氏)の滅亡後の状況について、その御叡慮が心良いはずがありません。急いで院宣を戴き、我らも錦の御旗を先頭に立てるべきなのです!
去年の合戦で我々は利を失いましたが、あれは大将軍の星(金星)が西にあった為です。そのため関東から御発向の合戦の際には味方に利が無かったのです。
今度西国から攻め上がれば、我々の軍勢は洛中の大将軍の星の方に向かうことになるので、御本意を達することが出来るでしょう。
先ず、四国には細川が下向するとよいでしょう。中国の摂津播磨は、この円心が守ります。鎮西は太宰筑後入道妙恵(少弐貞経)の子の三郎(頼尚)と将監の二人が、今ここに供奉しています。
その上妙恵は以前将軍(尊氏)から御教書を賜っていますし、きっと忠誠を尽くすでしょう。
大友左近将監(貞載)は去年7月、京で結城親光によって討たれ、家督の千代松丸は幼少のため、一族家人数百人が当陣に伺候しています。
将軍が中国四国九州の軍勢を従え、時日をおかずに御帰洛できることは疑いありません。まずは、摩耶城の麓までお越しください。」
円心はこれを再三にわたって申し上げたため、尊氏はついに夜中、瀬川の陣を退き、十二日卯の刻(午前6時頃)に兵庫に入った。 しかし下御所(足利直義)は一旦それに従い退いたが、再び戻って摩耶の麓に陣して、
何とかして都に攻め入って命を捨てようとしている様子であった。しかし尊氏が説得したため、兵庫に帰った。
同日、酉の刻(午後6時頃)から、誰が始めるともなく船に乗り始めた。非常にあわただしい様子であったという。
以上『梅松論』より、尊氏の九州下向決断の模様である