11/03/23 23:52:31.89
地元の大内氏中興の祖大内弘世が京都に初めて行った時のこと。
「在京のあいだ、数万貫の銭貨、新渡の唐物等、美を尽くした奉行、
頭人、評定衆、傾城、田楽、猿楽、遁世者までこれを引き与えけるあいだ、
この人に増る御用人もあらじと、未だ見えたることもなき先に、誉めぬ人こそなかりけれ。
世上の毀誉は善悪にあらず、人間の用捨は貧福に在りとは、今の時をや申すべき。」
なんか後半部分でバカにされてないかい?
それともし需要があるようなら(ヤ○ザな)弘世と(ジャ○ア○)義弘の逸話を投下します。
450:日本@名無史さん
11/03/24 04:03:24.06
オオウチキター
451:日本@名無史さん
11/03/24 08:17:56.13
おっと打ち間違えた、「美を尽くした」ではなく「美を尽くして」だ
ちなみにこのとき正平19年(1354年)大内氏はまだ周防長門を治めているだけであり
莫大な利益をもたらした勘合貿易も朝鮮との貿易もやっていない。
さらに上京直前には南朝連合軍に惨敗を喫したばかり
そん中わざわざ京都まで行き大金をばらまくパフォーマンスを行ってる。
金の出所と南朝との戦の経緯はまた後程
452:日本@名無史さん
11/03/25 17:08:33.13
ソースは?
453:日本@名無史さん
11/03/26 00:51:17.46
「」の中の文章は太平記です。
他は大内氏研究の御薗生翁甫氏著「大内氏史研究」より
454:日本@名無史さん
11/03/30 02:39:54.96
安宅の関で、義経一行と知りつつも見逃してやった富樫泰家は男の中の男だよな。
黒澤明の古い映画「虎の尾を踏む男達」を観て感動したよ。
455:日本@名無史さん
11/03/30 23:23:43.69
そのとき義経を捕まえてしまったら、奥州藤原氏を攻める口実が・・・
456:日本@名無史さん
11/03/31 06:40:18.42
あれは藤原氏が義経殺して「悪いのは全部こいつだから」って責任全部押し付けようとしてたからなぁ。
457:日本@名無史さん
11/03/31 17:38:47.42
初めて聞いた
458:日本@名無史さん
11/04/01 01:59:47.28
責任というか義経追討を妥協そてもらおうとは考えていただろうな>藤原氏
459:日本@名無史さん
11/04/01 02:14:00.02
まあ勧進帳は作り話で、最初から義経を泳がせて奥州藤原氏もろとも
潰すつもりだった、というのが実情だろうな。頼朝のことだし。
460:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/01 19:06:21.28
>>459
よくそう言われてるけど、頼朝がわざと逃すように各地の武士に命じた史料は何もないからw
田舎御家人がそんな頼朝の真意を知らないで義経を見つけ出して討取ったらどうすんだww
461: 忍法帖【Lv=2,xxxP】
11/04/01 20:32:31.26
まあ秀衡死後に奥州が半分自滅してくれたのは結果論で、
義経逃亡時には、義経が秀衡の元に転がり込むのは頼朝には悪夢以外の何者でもなかったろう
462:日本@名無史さん
11/04/01 21:19:41.19
院宣をもらった義経が西国武士団の統合に成功し、
奥州藤原氏と気脈を通じて、東西から頼朝を挟撃する・・・
というのが頼朝にとって最悪のシナリオだったと思うが。
463:日本@名無史さん
11/04/01 21:41:48.31
このあたりの時代は、少し変わるだけでその後の歴史がひっくりかえってしまうぐらいだからifの妄想しがいがあるな
464:454
11/04/02 00:47:44.88
勧進帳には、実は続きがあって、
富樫泰家は、義経一行を逃した責任を問われて、加賀国守護を罷免されたので
出家して、平泉にいる義経に行った。
その後、加賀国に戻って、余生を全うした。没年齢はわからないが長寿だったそうだ。
白紙の紙を読み上げた弁慶も素晴らしいが、義経一行と知りつつも逃した富樫
男ぶりに感動しました。
465:454
11/04/02 00:51:33.84
あ、3行目タイプミスしました。
【誤】出家して、平泉にいる義経に行った。
【正】出家して、平泉にいる義経に会いに行って、実際に会った。
466:日本@名無史さん
11/04/02 13:47:30.59
>>462
西国武士団にこれっぽっちのコネもないのに無理だろ
467:日本@名無史さん
11/04/02 17:56:06.83
鎌倉武士団が西国武士団にこれっぽっちのコネもないのに平家を滅亡出来た件
468:日本@名無史さん
11/04/02 19:39:25.29
>>466
そう思う。
九州に行けなかった時点で終わっている。
一応、豊後大神氏の棟梁緒方惟義は迎える用意をしていた。
岡城はそのために築かれたという。
だが、義経がこないとわかると、あっさりすっとぼけた。
ちなみに緒方惟義はもともと平重盛の家人だったので、九州に落ちてきた平家は
重盛の息子・清経を遣わして助力を要請した。
だが、すでに重盛が死んで久しいことと仲の悪い宇佐神社が平家についていたともあり、
緒方惟義は助力を拒否、清経を追い返した。
悲観した清経は豊前沖で入水した。
469:日本@名無史さん
11/04/02 21:59:51.19
おお…
この時代の九州の話は面白いな
470:日本@名無史さん
11/04/03 11:48:28.49
最悪の悪夢は関東武士団の離反だろう
当時の頼朝支配体制が盤石だったとはとてもとても
471:日本@名無史さん
11/04/03 12:08:57.47
大友や島津や武藤を九州に送り込んだのも(実際には京都でとどまって代理人を送ったにせよ)、コネが無いから新たに構築しようって腹だったんだろうし
472:日本@名無史さん
11/04/03 12:46:14.36
う~ん島津さんもそこに入れちゃうのw
473:日本@名無史さん
11/04/03 15:22:45.52
>>470
支配体制とは微妙な勢力均衡の上に成り立つもので
盤石な支配体制など古今東西ひとつも存在しない。
474:日本@名無史さん
11/04/07 17:48:40.32
泰時は本当は頼朝の子だった
475:日本@名無史さん
11/04/07 19:43:42.56
徳川家康が、新田義重の子孫という方が、まだリアリティあるね
476:日本@名無史さん
11/04/09 12:20:38.63
>>369
ついでに言えば緒方惟義は、源範頼に軍船80隻を提供していたが、
おなじ大神氏系でも戸次氏は平家の軍に加わっていたりするんだよ。
平家追討という大義名分をえた緒方惟義は、積年の恨みを晴らすため宇佐神宮を焼き討ちした。
多数の宝物や古文書を奪ったという。(このとき奪った宝剣は、子孫の佐伯氏から伊勢神宮に奉納された)
しかし、頼朝から義経に加担していた(>>468)という疑いをかけられ、宇佐神宮を焼き討ちしたことを理由に
つみをとわれた。
しかし、功多きことを考慮しても死一等を減じて関東下野に流罪。
とはいえ、それなりに自由はあったようで現地で子供も残してる。
後に許され、豊後に帰国して死去した。
477:日本@名無史さん
11/04/09 12:47:34.27
すまん訂正
しかし、頼朝から義経に加担していた(>>468)という疑いと宇佐神宮を焼き討ちしたことを理由に
罪を問われた。
しかし、功多きことを考慮して死一等を減じて関東上野に流罪。
とはいえ、それなりの自由はあったようで現地で子供も残してる。
後に許され、豊後に帰国して死去した。
478:日本@名無史さん
11/04/12 17:25:06.44
平家物語や源平盛衰記ってどのくらい信用できるの?
479:日本@名無史さん
11/04/13 01:49:17.03
>>478
民明書房刊行書籍より、やや信頼がおける程度には。
480:日本@名無史さん
11/04/14 00:33:04.58
平家物語なくして平家政権を語れるの?
481:日本@名無史さん
11/04/14 01:45:10.57
>>478
琵琶法師さんを信用できないとでも言うのかい?
482:日本@名無史さん
11/04/18 01:36:07.03
まだ当事者の子供の世代がいるころから伝わってるんだから、あまりに露骨に変なコト言ってると
文句言われたと思うんだがな。
483:日本@名無史さん
11/04/18 05:46:10.98
頼家はキンタマを握り込まれて力が出なくなった隙に殺されてしまったのか、
握り潰されてしまったのか、もぎ取られてしまったのか、どれなのか気になる。
484:日本@名無史さん
11/04/18 08:18:13.68
一応絞殺でしょ
485:日本@名無史さん
11/04/18 20:34:30.40
頼家は馬鹿だったの?
それとも有能過ぎて殺されたの?
486:日本@名無史さん
11/04/18 22:20:21.75
バカとは言わんが、複雑な御家人同士のバランスを捌くほどの能力はなかったということだな。
487:日本@名無史さん
11/04/19 00:15:09.56
父頼朝の将軍独裁制をそのまま継承しようとして家臣の反発に会ったという説もある。
頼朝時代からの流れの中で見ないといけない。
頼家の個人的な素質を重視し過ぎるのはいかがなものかと。
488:日本@名無史さん
11/04/19 08:10:52.18
>>484
「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、
頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき。」
慈円の伝聞だと刺殺だそうだけど。一応、慈円は摂関家の子で天台座主で
関白太政大臣の後見を務め、幕府とも繋がりがあった有力者。
そんな有力な高位聖職者の耳にふぐりを取りなどして~なんて項目が入った
伝聞を確証なく吹き込む奴がいたとはあんまり・・・。
489:日本@名無史さん
11/04/19 10:45:46.55
そんだけ御所近辺では嫌われていたってことではあるまいか?>頼家
今回の管総理もあることないこと産経あたりに書かれてるし
それと同じ構造と予想
490:日本@名無史さん
11/04/19 11:51:13.44
>>489
逆。御所方というより慈円の立場、摂関家や叡山等が
北条家を嫌っていたか、もしくは中立だったって構造。
北条方の吾妻鏡こそが頼家のことを悪し様に書いてるし、
吾妻鏡ではただ頼家死去の報告があったと書かれてるだけ。
御所方が頼家を嫌っていれば当然の報いみたいな文句が
加わるはずだし、北条が暗殺したなんて書くかも怪しい。
頼朝家は協力的な存在で、御所方の権益を担保してくれる。
だから慈円は頼朝を褒めていた。
吾妻鏡記載の比企能員の変の前日に、なぜか頼家病死を
告げる使者が京都を訪れたと皇族や摂関家の他の成員の
記録に記載されてるし、胡散臭いのはどう見ても北条家側。
491:日本@名無史さん
11/04/19 13:40:33.94
>>488
「頸に緒をつけ」
訳文が間違ってるよ。
引用にある通り、首に緒(紐)をつけ、だから、首に絞めた紐を引いた絞殺。
逆に刺し殺すとはどこにも書いてない。
492:日本@名無史さん
11/04/19 13:45:52.55
>>489
鎌倉幕府北条氏は朝廷に源頼家が「病死した」と嘘の報告して、弟の源実朝を征夷大将軍に任命させた。
しかし、実はこの時頼家はまだ死んでおらず、修善寺に幽閉中だった。
その後、頼家は北条氏の手によって暗殺、都にはだいぶ後になってから知れ渡った。
朝廷の後鳥羽天皇やら慈円やらは当然、北条氏が嘘の報告をしたことを激怒。
北条氏がやった残虐な頼家殺害方法をわざわざ記したのは、それだけ慈円が北条氏に怒っていたということ。
493:日本@名無史さん
11/04/19 13:54:26.81
>>491
頼家入道を刺殺してけり。
URLリンク(www.st.rim.or.jp)
誤字入りまくりの原文 サシコロシテケリ
修禅寺ニテ又頼家入道ヲバ指コロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ。
頸ニヲヲツケ。フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ。
494:日本@名無史さん
11/04/19 18:55:42.62
当然首は鎌倉に送ったんだろ?
頼家を確かに殺しましたよという証拠に。
で、頼家の首は鎌倉のどこに埋めてあるの?
495:日本@名無史さん
11/04/19 19:39:53.49
頼家の首を斬り取り鎌倉に送って首実験したという記録はない。
頼家殺害は鎌倉幕府将軍実朝の許可を得たものではなくあくまでも暗殺で、
首を斬り取られていないのでは?
ちなみに源頼家の墓は母の北条政子が頼家のために修善寺に建立した指月殿にある。
496:日本@名無史さん
11/05/01 21:36:14.84
既出で有名かもしれんが鎌倉時代のちょっといい話
楠木正儀(正成の三男)と細川清氏率いる南朝の軍勢が京にまで進撃してきたとき、
佐々木道誉の部下はどうせ略奪の的になるのなら
敵に一片のなぐさみも残すまいと佐々木邸に火をかけようとしたが
佐々木道誉は「都随一の自分の邸は総大将の宿舎になるに決まっている」と一喝して止めさせ
邸内に豪華な食事と飾りつけを施したうえで
よろしく接待するよう厳命した二名の遁世者を残し、邸を去った。
邸に踏み込んだ楠木正儀は掠奪や放火にはやる部下をとめさせ
道誉のはからいに感服しつつ自分の宿舎とした。
その後北朝側が盛り返して京を奪回してきたとき、
正儀は佐々木邸に前にも勝る豪華な食事と接待のための者二名を残し、
さらに蔵には名刀と秘蔵の甲冑まで置いた上で京から撤退した。
京の人々は「正儀は道誉の古狸にまんまと刀と甲冑を盗られてしまったな」と
噂したという。
497:日本@名無史さん
11/05/01 21:37:58.20
>>496
スマン訂正、鎌倉じゃなくて室町だったな
498:日本@名無史さん
11/05/02 01:23:45.59
これは良い話だ。
499:日本@名無史さん
11/05/02 10:04:52.10
敵将の性格を知り尽くした道誉の策略の勝利だな
500:日本@名無史さん
11/05/02 10:32:19.20
俺はこういう話が読みたいんだよ
501:日本@名無史さん
11/05/05 05:32:33.08
つ「修善寺物語」
502:日本@名無史さん
11/05/05 06:10:01.97
つ「曽我物語」
503:日本@名無史さん
11/05/06 11:46:45.17
後醍醐天皇の乱交
後醍醐天皇は鎌倉幕府がダーーイ嫌い
何とかして幕府を潰してやろうと密かに計画
でもって、作戦会議をするんだけど、そのカ
モフラージュに乱交パーティをしまくった
「朝廷は遊んでばっかだよーん」というのを、
六波羅探題(幕府が統括している警察みたいなもん)
にアピールするためであります
その乱交パーティは飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ
スケスケの着物を若い女の子に着させてサービス
でもって、ひそかーーに倒幕作戦会議をしていた
のであります
が!倒幕計画に参加した男性が、妻にペロっとしゃべっちゃった
でもって、その妻が六波羅探題にタレこんだため、残念ながら計画はパーになってしまったのでした。そして隠岐に流され、兵庫の福厳寺にまで逃げてきて、楠木正成に迎えられるのでした。
504:日本@名無史さん
11/05/07 00:09:47.50
つまらん
505:日本@名無史さん
11/05/07 14:37:49.37
承久の乱がらみで逸話は何かありませんか?
506:日本@名無史さん
11/05/18 01:06:37.94
元暦年間のことだそうだ。
平氏亡びんとするとき、平氏の公達の一人に妾として寵愛された女が、子を抱え
近江国津田というところに落ち延びた。
この時の津田郷の長は、彼女を見るとその美しさにたちまち心奪われ、自らの家に置き、
それまでの妻を追いだしてこの女を新たに正妻とした。
長は女を深く愛し、二人の間には多くの子が出来た。
さて、その頃越前織田庄の神主は毎年、天下御祈祷の巻数を捧げるため上京しており、
その途中、いつもかの津田郷の長の家に宿泊した。
この神主が、長の家に子どもが沢山いるのを見て
「私は子を持っていないんだ、哀れと思って一人養子にいただけないだろうか?
養い育て私の跡を継がせ、老後を安らかにしたいのだよ。」
これに長は「お安いことです」と、唯一自分と血の繋がらない、女がここに来たとき連れていた
少年を神主に与えた。
神主は大喜びでその子を連れて越前帰国し、自分の跡を継がせた。
後に室町時代になって、この子の子孫から越前・尾張・遠江を領した斯波氏に使える者が出、
彼らは「織田」を名乗った。後に信長を排出する織田氏である。
信長記より、織田家発症の逸話である。
507:日本@名無史さん
11/05/18 04:42:04.85
>>506
>信長記より、織田家発症の逸話である。
織田家は病気かよw
織田が平氏なので征夷大将軍になれなかったって話はこの辺がでどころか。
508:日本@名無史さん
11/05/19 23:49:54.02
策士佐々木
宇治川の戦いのことである。義経軍に属していた佐々木高綱は梶原景季からこう言われた。
景季「何で俺がもらえなかった生食をあんたが乗っている!」←磨墨にこの人は乗っている。
高綱「アンタがもらえなかったと聞いたから盗んだ。」
景季「あ・・・・そうなんだ。納得」
戦いが始まり先陣争いとなったが、景季のほうがかなりリードしているというのを見て一言。
高綱「おーい!梶原殿!鞍の帯が揺るんでいるぞ!」
景季「なに!どこ?どこどこ?」
高綱「じゃーねーw」→先陣頂き
佐々木道誉のご先祖様もなかなかの策士ですなぁw
509:日本@名無史さん
11/05/20 00:01:56.60
>>507
出処もなにも、信長さんとこは正式な名乗りはちゃんと平氏でやってる。
朝廷関係では平信長。
510:日本@名無史さん
11/05/20 00:03:38.54
>>505うろ覚えだが承久の乱がらみで一つ。
承久の乱が起き、鎌倉から兵を発することとなった。
北陸道、中山道、東海道の三軍に分け進発したのだが、東海道の大将
北条泰時が戻ってきて父義時に聞いた。
泰時「省みるにこの戦、瀬田川で交戦するものと予想されます。ついては、
錦の御旗を立てて、上皇様が直接おいでになられた場合は如何にすればよいでしょうか?」
義時「うむ、よくぞ聞いた。儂もそれを気にしていたところである。
もし上皇様が戦場におわしたならば、・・・・」
義時「旗をたたみ、弓の蔓を切り、兜を脱いで跪き降伏せよ。」
以上。絶対嘘にしか見えない問答でした。どう考えても義時がこんな事言うわけがない。
511:日本@名無史さん
11/05/21 13:32:39.88
>>508
それには続きがある。
景季「おーい!佐々木殿!おまえの鞍の帯も揺るんでいるぞ!」
高綱「あっそう。じゃーねーw」→先陣頂き
512:日本@名無史さん
11/05/21 14:35:04.84
高綱の馬も、実は頼朝からもらったんだけど、景季から恨まれないようにするために、盗んだことにしたという前振りもあるけど
主君から、馬を盗むのは良いのか。二人と
513:日本@名無史さん
11/05/21 17:51:03.61
月マガでやってる漫画で
「私も盗めばよかったあーっ!」
って叫んでたのが笑ったw
514:日本@名無史さん
11/05/22 16:26:45.32
>>510
もし院が「出てくれば」そうしたと思うよ
出てきやしない、とは考えていたかもしれないけど
かなり義時としても追い詰められた状況だったはずだ
承久記なんかでも武田や小笠原があからさまに不穏なこと
(どっちにせよ勝った方につけばいい的なこと)
言ってたりするけど
この時点ではどっちに転んでもいいと思っている御家人は意外といたしね
515:日本@名無史さん
11/05/22 19:50:49.47
三浦為継と鎌倉景政の話が余りに有名とかwikipediaに書いてるのですが、そこまでなのかしら。
516:日本@名無史さん
11/05/23 16:34:05.50
「あまりに有名」で検索してみると
大して有名じゃない逸話を紹介するときに使われる表現みたいに見える
517:日本@名無史さん
11/06/01 05:17:23.92
では、あまりに有名なドジっ子天皇の話。
承久の乱から十年ほど経った貞永元年、後堀河帝の譲位により、
第1皇子、秀仁(四条天皇)がわずか2歳で即位した。
それからさらに10年後、仁治3年のある日のこと。
この四条天皇、天皇でありながらなかなかの悪ガキだったらしく、
父上皇の死後も悪さばかりしていた。
この日も近習や女房どもをすっ転ばせてやろうと、御所の廊下に滑石をまき、
物陰に隠れてワクワクしながら様子をうかがっていた。
しばらく後、隠れた帝を捜しに、いつものように女房達が御所内を回り始めた。
そして彼女たちは例の廊下を通ったのだが、誰一人として転ばない。
「あれれー?おっかしーぞ? 量が少なかったのかな?」
女房達が見えなくなると、四条天皇はひょこひょこと廊下にのぼり…
お約束通り、自らの仕掛けたトラップに引っかかってしまった。
見事に頭を打ち付けた帝。
打ち所が悪かったのか、なんとそのまま崩御されてしまったのだ。享年12。
当然子はなく、守貞系の血脈は彼で途絶えてしまった。
後鳥羽やら慈円の呪いだとか言われてたりもするけど、
今でいうバナナの皮レベルの悪戯で死んじゃった天皇がいるって知って
なんか皇室を身近に感じたよ。
518:日本@名無史さん
11/06/01 16:31:29.24
この天皇に子供がいたら南北朝の争いもなかったかもしれないんだな
519:日本@名無史さん
11/06/08 22:15:29.79
慈圓に呪われるようなことしたんだっけ?
12歳にしては幼稚な悪戯だな。天皇になりながら童貞で死んだのか。
昔の天皇より今の庶民のが幸福だな。
520:日本@名無史さん
11/06/09 02:58:54.82
慈円は後鳥羽の挙兵には反対してたけど、後鳥羽の孫の仲恭天皇は縁戚だから
仲恭まで廃位されて皇統が守貞系に移ったことを恨んでたとか。うろ覚えだけど。
一族の影響力が衰えること恐れたか、或いは17歳で不遇の死を遂げた仲恭を哀れんだのかも。
その辺が動機なんじゃない?
ていうか現代の庶民には30過ぎて童貞の奴もいるんだぞ畜生め
521:日本@名無史さん
11/06/09 10:03:09.82
>>520
呼んだ?
522:日本@名無史さん
11/06/10 23:33:35.06
鵯越の逆落としの時のこと。
義経「ものども!鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿が越えられる崖を馬が越えられぬ事などあり得ぬ!
我に続け!」
こうして、一騎又一騎と崖を降りる板東武者であったが、ただ一人はちがった。
畠山重忠「日頃、戦や騎馬で乗っているこの馬をこんな崖で怪我をさせ、大事に後れをとってはならない。
歩いておりよう。」
こうして彼は馬の腹帯を結び変えて鎧と結びつけ、ずり落ちないようにし
近くの木の枝を折り杖にして、馬の足をばたつかせないように結わえ付け、
馬を背負って降りていったという。
ちなみにこの人、「力持ち」としてその名を関東で知らぬ者はいなかったとか。
523:日本@名無史さん
11/06/11 05:11:58.59
嫌いじゃないぜ。そういう空気読めないけど凄い奴
524:日本@名無史さん
11/06/18 21:47:04.85
藤原忠通の息子の信円が、一乗院の門跡であった時のことだ。
信円が八月十五夜の美しい月を、中門で眺めていると、力仕
事や雑務に当たる法師達が
「おい、お前ら、今晩のような美しい月の夜、慈円様はどの
ような歌をお詠みになるだろうな」
と、弟の慈円について、言い合っているのが聞こえた。
これを聞いた信円は、ショックを受けた。居ても立っても
いられず、早速慈円に手紙を書いた。
「恐れながら、私の考えを残さず述べさせて頂きます。天台
座主として三千の僧徒の頂点に立つあなたともあろう人間が、
日々仏教を学び修行に励むのならともかく、毎日のように和
歌ふけっているのは、どういうことなんですか!こんなこと
が許されるわけがない。誠に遺憾です。私の寺の法師共まで
もが、昨日の月を見てあなたのことを噂しているのですよ?
世間ではどういう風に言われていることやら。しばらくの間、
歌は自重しなさい」
525:日本@名無史さん
11/06/18 21:47:37.14
摂関家の子弟として、兄として、弟がまるで遊びほおけてい
るように見られるのが、信円には非常に恥ずかしかったらし
い。こうして細かい忠告を書き上げ送ったのだった。
ほどなくして、慈円から返事が届いた。
「兄上のご忠告、嬉しく拝見しました」と書かれたその書状
には、しれっと一首の歌が添えられていた。
皆人に一のくせはあるぞとよ これをば許せ敷島の道
(誰にだって一つくらい執心する習慣くらいあるものなんで
すから、和歌の道くらい許してよね)
信円は「どうしようもねえな、こいつ」と言って、それから
は注意するのをやめたそうだ。
526:1
11/06/18 21:49:06.43
レスの数が500を超えたので、
そろそろまとめのことを考えてみようかと思っているのですが、どうでしょうか。
527:日本@名無史さん
11/06/18 22:31:50.95
お願いします。
まとめがあると書く方も気合が入りますゆえ
528:1
11/06/18 22:59:09.56
とりあえず、方法やツールについては検討中なのですが、
異存がないようでしたら、まとめを作らせて頂きたいと思っています
何か要望や意見などありましたら、少しよろしくお願いします
529:日本@名無史さん
11/06/23 23:55:04.44
楽しみにしています。
色々と大変でしょうが、よろしくお願いします。
530:1
11/06/26 22:23:11.14
まとめブログ、大体形ができましたので、公開します。
まだカテゴリーの分け方など、色々試行錯誤していますが、
アドバイス等ありましたらよろしくおねがいします。
URLリンク(kamamuroiw.blog.fc2.com)
記事は今月中には全部アップする予定ですが
投稿規制と付き合い付き合いやっていきます
531:日本@名無史さん
11/06/26 22:42:52.77
ありがとうございます。
できればコメント欄があった方がいいと思いますが難しいですかね。
私にはブログはよくわかりませんが
532:1
11/06/26 22:51:00.14
>>531
記事の左下端にあるCMをクリックするとコメント欄が出ます。
ちょっとわかりづらかったかもしれません……
すみません
533:日本@名無史さん
11/06/27 13:01:18.72
おお、待望のまとめブログが!
GJ!
534:日本@名無史さん
11/06/28 01:45:58.71
赤松氏に最盛期をもたらした義則の話というのは貴重かも。
その頃、都に化け物が出没し、住人は上下を問わず非常に難儀させられていた。
それは実際には人間であったが、まさに化け物の如く都中を馬で走り回っては
何もかもを手当たり次第に切り回るのだ。
しかも手に追えない強さであったから、誰も討ち取ること叶わなかった。
髪を長く乱し、まるで巨大な子供であるかのような姿をしたこの怪人を、
都人は「大わっぱ」と称して、恐れおののいていたのだった。
この有様を見かねた時の帝は、「大わっぱを従えることのできた者は、
天下にまたとない忠義の者である」と宣旨を発せられたが、
それでもこの怪人を容易に従えることは叶わない。
そこに、一人の漢が立ち上がる。
赤松三尺入道殿。
背の低さを京童にそう渾名されている赤松上総介義則、その人である。
「大わっぱ・・・。是非とも狙ってみたいものだ!」
535:日本@名無史さん
11/06/28 01:48:57.01
彼は舎弟をも連れず、ただ一騎で都のここかしこを駆け巡った。
すると天の引き合わせであろうか、御菩薩池(深泥池)の辺りで大わっぱと遭遇。
そして戦いが始まった。
激しく切り結び、馬上で渡り合う二人。
大わっぱの振るった太刀の切っ先が、義則をかすめる!
義則は眉の下に傷を受けながらも見事にこの怪人を切り伏せ、
凱旋を果たすのであった。
義則はこの恩賞として、因幡の智頭(ちず)、但馬の朝来(あさご)、摂津の中島を得るのだが、
その御教書を押し戴いた時、大わっぱに受けた傷の血が書面を染めたのであった。
この血の付いた御教書も、そのものズバリ「大わっぱ」と名付けられた怪人退治の太刀も
赤松家の重宝として大切に伝えられていった。
536:日本@名無史さん
11/06/28 01:50:06.17
しかし、これらの重宝は戦国時代、赤松義祐の時に失われる。
義祐とその子則房の和睦が成立し、義祐が三木城から本拠・置塩城に引き上げる際に
別所重宗に預けたところ、何と不慮の失火により、重宗の館ごと焼失してしまったのである。
「御家滅亡の凶相とみえたり」
義祐に仕えた得平定阿は、「赤松記」にこう書き残している。
537:日本@名無史さん
11/06/28 10:37:29.40
おお!三尺入道!赤松三代はめちゃくちゃカッコイイよなあ
個人的には四職の中で一番好きだ
後で弾けるけど、そこもまた
538:1
11/06/28 22:52:04.82
まとめに過去ログを全て収容しました
編集は毎週土曜にするつもりなので>>534の逸話などはその時収容します
面白い逸話をありがとうございます
539:日本@名無史さん
11/06/29 18:43:35.41
横須賀市文化財「一騎塚」(いっきづか)
和田合戦の時、義盛に加勢しようとこの地の武次郎義国(たけじろうよしくに)が、ただ一騎で鎌倉に馳せ参じて戦い、討ち死にした。
後、里人が哀れんで塚を築いて霊を弔ったという。
540:日本@名無史さん
11/07/01 14:29:57.12
この時期の鎌倉って、くしゃみしただけで死にそうだよな
541:日本@名無史さん
11/07/02 19:56:34.74
摂津国の多田と言う土地にの近くの村に役所があった。
ある時、人足が二人通りかかると関守が彼らを咎めた。
これに、先を歩いていた男が
「私はただの夫(ぶ)(人足)でございます」
と言うと関守
「忠信なれば、屋島の戦を語れ」
これに人足
「それはつぎの夫(継信)にお尋ね下さい」
そんな中世の笑い話
(醒睡笑)
542:日本@名無史さん
11/07/02 23:27:52.55
平清盛が高野山の根本大塔を再興して参拝の時、自分の丈夫な歯を1本自ら抜き取って、
奥の院(大師廟)に納め、次の歌を詠まれた
『高野山 おろす嵐のこわくとも このはは残せのちの世のため』
(醒睡笑)
543:日本@名無史さん
11/07/03 21:15:17.59
たしか金森長近の兄弟が、板倉重宗に言われて本にしたんだっけ>醒睡笑
544:日本@名無史さん
11/07/07 17:47:15.52
『斯波高経の失脚』
貞治五年八月、斯波高経とその子息、時の管領斯波義将は失脚し、
自領越前に閉塞した。
貞治元年、若干十三歳の義将が管領に就任し、父・高経がその補佐
として幕府官制のトップに立ってからわずか五年のことである。
当然と言うか何と言うか、この事件の黒幕は佐々木道誉であった。
高経の三男氏頼を娘婿とするなど、当初高経と道誉の関係は悪くは
無かった。
しかし細川清氏失脚後、高経が道誉娘婿の三男ではなく、四男義将
を管領にしたのがきっかけに、両者の関係は急速に悪化していたの
である。
545:日本@名無史さん
11/07/07 17:48:08.26
管領職に就いて以降、高経は急激に武家を締め付け始めた。税金を
引き上げだだけではなく、規則や約束の厳密化に励んでいたわけだ
が、御所工事が遅れたことを理由に赤松則祐の所領を召し上げる
など、峻厳な裁定が多くの武家の恨みを買い、貞治二年には既に、
道誉と高経の間に武力衝突があるのではないかという風聞が都を騒
がす程となっていた。
それでも数年は目立った衝突も無かったが、ある出来事をきっかけ
についにゴングが鳴ってしまう。
546:日本@名無史さん
11/07/07 17:48:42.04
かねてより工事は続けられていたものの、遅々として進まないでい
た京都五條の橋を、斯波家が僅か数日で渡してみせた。
それだけであれば何も問題は無かったのであるが、元々の工事責任
者は道誉であった。それを激励するためと言い斯波家が完成して見
せたのは、要は
「棟別(公共事業の税金)集めても、いつまでたっても橋がか
からないでは、みなが迷惑しますから、私達がチャッチャと橋をか
けてしまいました^^ 仕事が遅いのは困りますねえ、佐々木は何を
やっていたんですか? 遊んでいるにしても時間がかかりすぎます
よね?」
という嫌味である。
面子を潰された道誉は、当然怒り、速やかに彼らしい報復に出た。
547:日本@名無史さん
11/07/07 17:50:22.67
高経が取り仕切る将軍御所の花見の宴の日に、自分が企画した豪華
絢爛な花見の日程をぶつけたのだ。
京都中の連歌師・白拍子などのパフォーマーと家臣を引き連れ、
大野原の勝持寺を舞台に「花木の周りを石で囲み花瓶に見立て、
生きた桜を立花として演出し、その間に膨大な量の香をたきし
める」という前代未聞の宴は大評判となり、高経の催した花見は、
世間からすっかり忘れられた。
激しく面子を傷付けられた高経は、今度は明確に道誉を攻撃する。
税金の滞納を理由に道誉の守護職と所領を取り上げる強硬措置に出た。
この措置を受けて道誉は高経を良く思わない武士達を糾合し、将軍
義詮に高経・義将親子が謀反の疑いありとして、管領職解任を要請
した。高経は義詮に自分の正しさを訴えたが、義詮は目に涙を浮か
べ、高経を宥めながらも、道誉等の訴えを受け入れ、高経を更迭、
そして討伐軍を起こしたのだった。
548:日本@名無史さん
11/07/07 17:51:16.50
京を追われた高経は越前に下り、子の義将と共に篭城して抵抗した
が、翌年七月失意の中で病死した。
程なくして道誉の推挙により、新たな管領細川頼之が誕生する。
この頼之が、父の死後恩赦を受けて幕府に復帰した義将と、後に
政敵として凄まじい政争を繰り広げるのだが、その頃には道誉は既に
居ない。
佐々木道誉は高経の死から六年後、息子に後事を託し、近江で眠り
についている。
コミュ力が法律に勝つ、そんな話。
549:日本@名無史さん
11/07/07 21:30:18.03
規則を守るか空気を読むか、難しい問題だな
550:日本@名無史さん
11/07/07 22:04:26.09
歌が上手い奴がモテるなんて嘘だという話を一つ。
京極為兼は不細工だった。
そんな為兼が、内裏でとある女房をナンパした。
手を取って「今夜会ってくれないかな?」と言う為兼に、
女房は、
「ちょwwwお前の顔でかよwwww」
(御主のかほにてや)
と言い放った。
しかし、流石は為兼。
言われるやいなや
「さればこそよるとは契れ葛城の神も我が身も同じ心に」
(醜い顔だからこそ、その醜さを恥じて夜しか動かなかったという
葛城山の神のように、私も夜に会おうと言うのです)
と歌を返した。
流石は歌の名手である。
しかし為兼のナンパが成功したかどうかは、残っていない。
551:日本@名無史さん
11/07/08 08:06:57.62
>(御主のかほにてや)
なんという古風にて残酷な響き…^q^
古典の授業でこの逸話をすれば生徒にウケルな
552:日本@名無史さん
11/07/08 11:16:39.22
(ノД`)シクシク
553:日本@名無史さん
11/07/09 00:42:20.50
ただしイケメンに限るっていつからある概念なんだ……
554:日本@名無史さん
11/07/11 19:04:46.29
いい話でも悪い話でもないけれど一つ
南北朝の頃、大友氏初代能直から数えて九代目にあたる親世の話
大友親世は並びなき仁義の名将であった。
そんな彼が三歳の頃、父大友氏時にこんなことを言った。
「成人したときには、高祖という名前を付けてほしい」
それを聞いた氏時は、
「それは漢の帝王の名前じゃないか」
と言って笑った。
しかし、親世は黙って左の股を差し出した。
その雪のような肌には漢の高祖(劉邦)と同じように72個の黒子があり、
人々は親世を高祖の再来だと噂しあった。
その後北朝方として今川了俊らと共に南朝勢力と戦い九州平定に一役かった親世は、
出家した際に、高祖をひっくり返して祖高と号したのである。
(大友記)
555:日本@名無史さん
11/07/12 00:47:49.03
72個ってなんかの病気なんじゃないか?
556:日本@名無史さん
11/07/12 06:26:37.32
病気だとしても、それで皇帝になれるんならかかりたいな
557:日本@名無史さん
11/07/12 09:49:23.41
これ全身に七十二個じゃなくて、一部に七十二個あるんだろ?
癌とかじゃないのか
558:日本@名無史さん
11/07/12 15:05:07.63
仁義…なあ…大友にそういう印象が無いな
559:日本@名無史さん
11/07/12 16:45:15.43
蓮コラ状態じゃねえか
560:日本@名無史さん
11/07/12 21:12:08.15
>>557
そうはいっても、漢の高祖・劉邦は若い頃からそれを売りにしてたわけで。
別に健康に害があるようなもんじゃないだろう。
561:日本@名無史さん
11/07/13 17:24:52.44
>>550
そういうことも記録されてしまうんだなw
出典元を読んでみたいw
562:日本@名無史さん
11/07/13 18:48:07.12
>>561
出典「正徹物語」
ちなみにこの話の出所は為兼の弟子の今川了俊だと言われてる
「いついかなる時も歌心を忘れない師匠カッケー!」
って意味で残した逸話、らしい
が、微妙だよなw
563:日本@名無史さん
11/07/14 00:15:28.69
>>562
了俊も性格悪いからな。
564:日本@名無史さん
11/07/14 04:41:07.08
良い話の最後に『まぁ、創作ですけどね』を付けて台無しにするスレ。十五話目
スレリンク(mitemite板)l50
565:554
11/07/16 15:02:34.85
>>555>>557>>559
大友記の成立は寛永年間
親世ageのために劉邦の逸話を利用しただけだと思います
566:日本@名無史さん
11/07/16 18:35:18.98
足利義教は赤松満祐に暗殺された。
義教の首をはねた安積行秀は、その首を槍の穂先に掲げ、
満祐は長年の本懐を遂げたような面持ちであった。
義教の葬儀の数日前、相国寺の季瓊真蘂は奪われた義教の首を
取り返す為に死を賭して播磨へと向った。
彼は赤松出身の者として首を奪われた責任を果たそうとしたのだ。
しかし、細川持之はすでに満祐の使者を二度殺している。
敵方の真蘂は満祐に殺されてもおかしくはなかった。
まさに命がけの行動だったのである。
ところが、満祐は快く義教の首を返還してくれた。
満祐は真蘂の誠実さに感じ入ったのである。
そして後日、等持院で義教の葬儀が執り行われたのであった。
567:日本@名無史さん
11/07/17 00:01:17.39
>>566
満祐好きだけど、ますます惚れ込みそうだわ…
568:日本@名無史さん
11/07/17 01:14:43.89
赤松性具入道か
569:日本@名無史さん
11/07/20 13:45:31.81
岩清水八幡の願文の話は投下されてない?
ないなら、投下したいのだが……
570:日本@名無史さん
11/07/20 14:47:12.11
いいよ、いいよー
571:日本@名無史さん
11/07/20 17:47:47.16
携帯からだから、ちと読みにくいかも。
観応の擾乱で幕府を二分してあらそった尊氏直義兄弟だが、実際は仲はそれほど悪くはなかった。それを証明する文書が岩清水八幡宮に所蔵されている。
九州からの再起に成功し、京を奪還した尊氏は、岩清水八幡宮に願文を一通捧げた。それには、こう記されている。
『私はこの世で最高の名誉を得ました。今後は世の平穏を祈るため、出家するつもりです。つきましては、私の今後の幸福を全て弟の直義に与えてください』
観応の擾乱で権門の保護者として蜂起した直義と争う十数年前のことである。
短くてすまん。
572:日本@名無史さん
11/07/20 22:23:57.45
>>571
やっぱ、親バカが狂わせたのかな。
573:日本@名無史さん
11/07/20 22:42:53.97
四條畷合戦後に急激に成長した師直党を排除しようとして失敗。
生真面目で権門を保護して大規模愡領家での合議こそが正しい幕府の姿だと信じてた直義は師直党排斥のために挙兵したってのが観応の擾乱。
574:日本@名無史さん
11/07/21 01:17:12.72
このあたり直義が性急過ぎた面もあるからなあ
直義の方が正しかったとか、師直や尊氏が正しかったとか、どちらとも思えない
両者に非があって理がある中で
尊氏が直義と対立する道を選んだわけだけはよくわかるよ
そして尊氏が勝ってしまったんだから、仕方ないよな
575:日本@名無史さん
11/07/21 21:03:41.16
蓮如が親鸞のエピソードを語った話。
「親鸞上人が船酔いになられたことがあった。その時、聖人は
『歩いてゆける道のあるところは舟に乗るべきではないな』と仰せられた。
聖人はキノコの毒にあたられたこともあった。
その時は『キノコは食うべきではないな』と仰せられた。
高田の顕知はそれらを聞いてからは一生、舟に乗らずキノコも食べなかったそうだ。
そのように顕知は聖人がなにげなく言ったことを深く信じていたというのに
お前は私が心から願って教えることを中途半端に聞いて信じてくれぬのか(嘆息)」
576:日本@名無史さん
11/07/21 21:06:29.56
すまん誤字だ・・・
×顕知 ○顕智
577:日本@名無史さん
11/07/22 06:42:09.40
>>573
あくまで史実エピソードじゃなく創作でだが、直義が「泰時時代への回帰」を目指して、尊氏が「そんなものが今の時代に通用するわけがない」
みたいなキャラになってたのは、その辺りを広げたイメージか
578:日本@名無史さん
11/07/22 19:25:46.13
そういえば、伝源頼朝像は足利直義で、伝平重盛像が足利尊氏だという話があったが。
これって確定したの?
579:日本@名無史さん
11/07/22 19:36:05.65
>>578
ほぼ。今はそっちが定説化してる。NHKの高校講座日本史でもそう解説してた。
580:日本@名無史さん
11/07/22 20:02:06.53
サンクス。
けっこう直義はイケメンだったんだな。
581:日本@名無史さん
11/07/23 23:11:36.96
その直義を烏帽子親に持つらしい東国武将・河越直重。
彼は延文四年十月、南朝と戦うため他の東国武将らと上洛した。
太平記によればこの上洛は大変なみものであったようで、
特に直重は30頭の馬を紫、紅、黄緑に水色、はては豹柄に
染め上げて練り歩いたという。
某婆娑羅が闊歩する京の住民も驚いた事だろう。
しかしこの話には続きがある。
十一月九日、直重の宿に群盗が乱入したのである。
被害は馬、財物、刀剣類が多数というものだった。
余りに目立つと狙われる。
そんな(都の治安が)悪い話。
582:日本@名無史さん
11/07/24 07:43:20.26
夜は真っ暗な時代だもんなあ
夜中に押し入られたら明かりもすぐにはつけられないし
大勢に襲われたらオワリだよな
でもそんな派手な馬盗んでも速攻で見つかりそうだけどw
583:日本@名無史さん
11/07/24 08:10:08.44
馬の柄がスマートフォンケースっぽいセンスだな……
昔から豹とかの柄好きな人いるんだ
584:日本@名無史さん
11/07/26 02:14:40.72
日蓮のネタ投下するわ。有名な奴。
日蓮がアッチコッチで田宗派を攻撃する辻説法をやったものだから、
とうとう鎌倉幕府は怒り狂い、日蓮を逮捕した。
幕府役人「いい加減にしなさい!アンタの辻説法で苦情がたくさん来てるんだ!」
日蓮「やめない。まず幕府が法華経に帰依しなさい!そうすれば外国から攻(以下略)」
役人「龍ノ口で打ち首だ!」
こうして龍ノ口処刑場で打ち首となったその時、にわかに空がかき曇り、
雷が落ち、日蓮のクビを切ろうとした刀が三つに割れたという。
コレにより日蓮は打ち首から島流しに変わった。・・・・のだが、
当然の事ながら雷が落ちた首切り役人は生きているので作り話だと言うことがわかる。
ちなみにこの話を熱心な創価学会員(すなわちキチガイ)に話を振ると嬉々とした顔をして
延々といらないことまで説明してくれるのでウザイ事極まりないのである。
585:日本@名無史さん
11/07/26 02:16:33.88
×田宗派
○他宗派
まとめにのせるときに、修正をお願いします。
586:日本@名無史さん
11/07/26 02:37:19.92
あれ、日蓮って死罪じゃなくて流罪だったと思うけど。
まあ、中世だと流罪=市民権剥奪だから、大概そのままリンチされて殺されるんだけどさ。
実質死罪相当の流罪を受けて、本当に流罪で済んだんだから、ぶっちゃけすげー運がいい。
その理解不能な幸運を説明するために、怪異現象が後で追加されたんだと思うぜ。
587:日本@名無史さん
11/07/26 22:05:02.11
>>584
立正校正会の後輩がいるんだけど、そいつも嬉々として語ってたぞ。
新しい人が入る度にファミレスに連れて行って洗脳しようとするんだ。
T県。
588:日本@名無史さん
11/07/26 23:27:29.26
南北朝の動乱の頃のことである。
京に、とある下級役人の一家があった。それなりに裕福な家であったという。
だが戦乱に巻き込まれ家も財産も失い、夫婦は9歳の男の子、7歳の女の子の二人を連れて都を落ちて行った。
10日ほども後、彼らは丹波国、思出河のほとりにたどり着いた。
ここまで道に落ちていた栗や柿を食べて何とか命をつないでいたが、妻子は疲れ果て、草原に倒れ伏した。
夫はこれを見かね、近隣の家から物乞いをして、何かしらの食べ物を手に入れようと考えた。
そしてある家を訊ねると中から侍姿の男達が出て来て、この夫を取り囲んだ
「このあたりは皆で用心をしている最中だというのに、お前のような胡乱な奴が物乞いをして歩いているとは!
さては貴様、夜討ち・野党の偵察に来たか、それとも宮方(南朝方)の廻文を持って廻っている者に違いない!拷問して白状させよ!」
夫は両手足を縛り上げられ、上下に揺すぶられ責めさいなまれた。
妻子は、夫の返って来るのを今か今かと待っていたが、いつまでたっても戻らないため、彼の身の上を
大変に心配していた。その時道行く人の、こんな会話が耳に入った
「かわいそうに。京の公卿の家に仕えているような40歳ばかりの人が、物乞いをしていたのを捕らえられ、上に下に
拷問をうけている。今はもう死んでしまっただろう。」
妻はこれを聞いて激しく嘆いた。そして
「あなたに遅れて死ねば、冥土の旅路を迷ってしまうでしょう。暫く待っていてください。」
妻は二人の子と共に、思出河の淵に身を投げた。
夫は疑いが晴れ解放され、近くの家で木の実などを求めて帰ってきた。が、荷物は残っているというのに
妻子の姿が見えない。これはどうしたことかと狂ったようにあたりを探す。と、
用水の取り入れ口のところに、変わり果てた妻と子の姿を見つけた。三人は手に手をとった姿で流れかかっていた。
夫は絶望し、彼女たち三人を抱き上げると、それと共に同じく川の淵に飛び込み、一緒に死んだ。
太平記にある、名も伝わらぬ一家の悲劇である。
589:日本@名無史さん
11/07/26 23:39:40.44
夏の心霊怪奇シリーズ
福原への遷都以来、怪奇現象があいついだという。
ある夜のことだが平清盛の寝室に、柱と柱の間が埋まってしまうほどの
巨大な顔が現れて清盛の顔を覗き込んだ。
しかし、清盛が少しも騒がずにキッと睨みつけるとスーッと消えてしまった。
また、ある晩のことだが、福原の御所には大木などないはずなのに
大木が倒れる音がして二、三千人ほどの笑い声がこだました。
人々は「天狗じゃ! 天狗の仕業じゃ!!」と噂しあった。
そこで昼五十人、夜百人の警備体制を敷き、魔除の矢も射させたが、
天狗のいない方角に射ると、どっと笑い声がする始末であった。
そしてある朝、起床した清盛が中庭を覗くと、どうしたことか
庭は無数のしゃれこうべで充満しているではないか。
しゃれこうべは動き回ってからからと音をたてている。
「おい! 誰かいないのか!」と清盛が呼んでも誰も来ない。
そうこうしているうちに、しゃれこうべはひとつの塊になって四、五十メートルもの
大きさに膨れ上がった。その中の大きなしゃれこうべに無数の大きな目玉が
現れて清盛を睨みつける。
清盛は落ち着いた様子で一歩も引かずに睨み返していた。
すると、あれ程恐ろしく大きかった怪物は跡形もなく消えてなくなってしまった。
590:589
11/07/27 00:14:32.38
>>589
>天狗のいない方角に射ると、どっと笑い声がする始末であった。
どっと笑ったのは天狗ね
591:日本@名無史さん
11/07/27 08:52:41.62
そりゃそうだろう、ドリフコントにあるおばちゃん笑いがしたら、逆に怖いけど
592:日本@名無史さん
11/07/29 22:05:01.56
りゃうスレ挙げ
593:日本@名無史さん
11/07/30 17:21:12.44
>>587
立正校正会も日蓮系だろ
594:日本@名無史さん
11/07/30 21:37:35.81
足利義教は些細なことでも気に入らなければ過酷に罰した。
ある時、1人の武将が義教に銘木の梅を献上した。
ところが、運搬の途中で梅の中枝が折れてしまった。
激怒した義教は運搬した植木師3人を投獄し、献上した武将の家臣
5人を指名手配した。家臣のうち3人は姿をくらまし、2人は自殺した。
また義教が伊勢参宮の旅に出た時、旅の最中に料理が振舞われた。
その時、義教は「不味い!」と頭にきて料理人として同行していた
近習を京に追い返した。近習は義教が帰京すると、恐々としながら出仕した。
案の定、近習は捕らえられ斬首された。
そして2年後、同じ理由で別の料理人が処刑された。
595:日本@名無史さん
11/08/01 14:43:41.53
信長は割と作られたり誇張されたりしている残虐エピソードも多いけど
万人恐怖さんはガチだからな。鎌倉府滅ぼしたとこまではともかくそれ以降は
やりすぎ
596:日本@名無史さん
11/08/02 19:43:15.99
座主時代になにか鬱憤がたまっていたのかな?
597:日本@名無史さん
11/08/05 08:15:53.53
というか実質幕府を衰退させた元凶だよな。万人恐怖
義持の代は関東の上杉禅秀の乱が一部飛び火して若干政争があった事と
北畠一族の教科書に載らないような小規模な反乱があったくらいで幕政全体としては
平和で将軍を長とする有力守護達による合議制という政体が完成してたのに
義教がそれらをぶっ壊した挙句自分は勝手に暗殺された。
義政の代になるともう手の施しようがなかったわけで
ボンクラでも義量が長生きしたら日本史は全く違った結末を迎えてたような
気がする。
598:日本@名無史さん
11/08/06 01:22:02.38
平忠盛は鳥羽上皇に寺を献上したことで一地方官から殿上人となった。
しかし、当然やっかみはあるもので殿上人たちは妬みから忠盛を暗殺しようとした。
ところが忠盛がわざと腰の短刀を見せつけ、武装した部下を引き連れているのを見ると
怖気づいて暗殺を諦めた。
暗殺に失敗した殿上人はやり方を変えて、忠盛の斜視をからかうなどのいじめを始めた。
そして、作法をわきまえていないから忠盛の地位を剥奪するべきだと上皇に訴えた。
しかし、忠盛は部下の行動は主人を思ってのことだ、短刀は銀箔をはった木刀だと
説明したため、かえって上皇は武士の鑑だ、と忠盛を誉めた。
599:日本@名無史さん
11/08/06 09:25:49.15
>>597
義政が、多少現実逃避気味でも、祖父の義満時代に回帰できるように頑張ってたって話もあるしね。義教は手本にできないやり方だったんだろうね
600:義教の時代、衆議が変質したのは 1
11/08/07 04:43:11.88
義教さんが出てきてるのでそれに関するエピソードをば
独裁者と呼ばれる義教だが、実は義教がそうなったのには一つのエピソードが関連している。
永享3年、関東の鎌倉府との京都扶持衆(上杉禅宗の乱で領地を失った武士達。京都のほうで保護していた)の取り扱いで対立関係が悪化。全面戦争を危惧した鎌倉府穏健派から、二階堂が使者として派遣されたときである。
「罰状(起請文の一種。このときは京都扶持衆ならびに親京都派大名への攻撃停止を誓う内容)を提出させるかどうか」という内容について衆議(大名衆議。宿老会議とも)にかけるよう指示したときである。
満済(義持、義教の政治諮問をしていた僧侶。『満済准后日記』という一級史料を残す)が管領斯波義淳を通して意見を集めると、集まった意見は「使者に謁見すべし」というものだった。
601:義教の時代、衆議が変質したのは 2
11/08/07 04:44:15.42
この内容(本筋は罰状提出の有無)に不信を持った満済は義淳に問い合わせた。すると後日こんな返事が返ってきた。
「この罰状提出についてはおかしいと思っています。とりあえず、大名には使者に会うかどうかだけ尋ねました」こんな返事が返ってきた。
これに驚いたのは満済である。潔癖症気味な上に曲がったこと(自分視点で)が大嫌いな義教にこんな返事を持っていけるはずがない。
「私が聞きたいのは、こんな事ではありません。今回の件で重要なのは罰状提出の有無です」再度使者を出した。だが、義淳は再度の衆議を行わなかった。
途方にくれた満済は義淳の意見と他の大名の意見を別にして義教に提出することにした。こうでもしないと、満済が叱られてしまう。
提出された二枚の意見書の内容はこうだった。
602:義教の時代、衆議が変質したのは 3
11/08/07 04:45:20.27
諸大名「罰状提出要求はもっともなことです。戦もしかたがありません」
義淳「罰状を出すかどうかは使者にあってから決めてください」
この意見書を見て、義教の決心は固まった。かつて、山門への出兵で諸大名の合意を得られなかったため苦い思いをした義教にとって、大名の合意はありがたかった。
「よし、罰状を提出しろと二階堂に伝えろ」
そう、義淳に命令したのだ。だが、伝わらなかった。義淳が伝えなかったのだ。
伝えろ。いやだ、伝えない。この押し問答が少し続いたとき、とうとう義教がキレた。それも、社交場であるはずの歌会で。
「あいつ普通じゃねぇぞ(尋常ニ在ラザルカ)」と吐き捨てたと『満済准后日記』に残っている
結局、この罰状提出については鎌倉方に通達され、鎌倉府対室町幕府の全面戦争に突入するのだが、今回は置いておく。
603:義教の時代、衆議が変質したのは 4
11/08/07 14:12:54.54
実は、このあと義教の時代の衆議に変化が発生する。
今までの「管領の管轄下で取りまとめた意見を上申する」形でなく「少数(というか実質二人)の大名に個人的に諮問する」形へと変化したのだ
その二人というのは武闘派で義教と意見があった山名時照と最終意見を義教にゆだねて、アドバイスに勤める畠山満家である。
この二人の意見は義教も重視していたらしく、他の大名の意見は「難儀」なのにこの二人の意見は諮問するよう満済に命令している記録が残っている。
ちなみに、この罰状事件のあと斯波義淳は重要諮問には一切呼ばれなくなっている。その上、義満の前例というだけで管領を辞めさせてもらえなかった。(行事を執り行った後、即辞めさせられた)
独裁者にも独裁に走るきっかけがあったよという話。
604:日本@名無史さん
11/08/07 15:14:42.98
こりゃひどい。将軍、実質的に無視されてるも同然じゃん
しかし満済さん、捏造はあかんよ
605:日本@名無史さん
11/08/07 15:34:26.92
斯波家ってこういう人多いよな
606:日本@名無史さん
11/08/07 16:37:45.86
>>604
携帯から失礼。満済は捏造はしていないです。最初罰状を要求するかどうかの是非を聞いたのに、議題を改変したのを送られて困った。
で、義淳に自分の意見とは別に大名の意見を集めて提出させるように言ったようです。これで、一応衆議は開催されたんですが、結果は文章の通りで……
>>605
義淳は義教とことごとく意見が合わなかったようです。義教の決定が気に入らないということで、裁判業務を放棄したりしてますし。
607:日本@名無史さん
11/08/07 16:50:41.64
連投失礼。文章が分かりづらくてすみません。
満済が提出したのは義淳以外の大名の意見を書き連ねたもののようです。義淳の意見とは別の紙に箇条書きして、提出しました。
衆議常連の大名に個別に使者を出して意見書を集めたようです。
これに合わせて義淳にも意見書を提出させました。
608:日本@名無史さん
11/08/07 19:11:16.99
>>606 いやいや高経も義詮に諫言が多くて嫌われてたらしいし
義将も反義満で義持に色々入れ知恵していたらしい。
結局なまじ分家筆頭なばかりに本家に対して妙な敵対心というか対抗心があり過ぎるんだよな。
609:日本@名無史さん
11/08/07 20:40:33.48
「嘉吉の乱・備前口の戦い(1)」
赤松満祐が将軍義教を弑逆してから2ヶ月余り、ようやく幕府軍と赤松軍との戦闘が開始された。
山名教清率いる5千余りは、大物浦(尼崎市)から播磨灘を漕ぎ渡って備前牛窓に上陸、
赤松教久、小寺、上原、薬師寺、永良ら3700騎が籠もる三石城に攻め寄せた。
8月23日、幕府軍はさしたる抵抗も受けぬまま一の木戸、二の木戸を突破するが、
三の木戸に責めかからんとしたその時、城内の太鼓が突如打ち鳴らされ、
赤松軍の中から選抜された弓の名手200人余りが雨あられの如く矢を射掛けてきた。
深入りしすぎた幕府軍は防御の術も無く、射返そうにも矢を射尽し、補給を断たれ、
散々に破れて備前福岡へ引き退いのだった。
翌日、幕府軍は大河・吉井川に二重三重に乱杭を打ち、陣幕を張って赤松軍を待ち受けていた。
案の定、赤松軍の夜襲があり、激しい戦いが繰り広げられたが、やがて我先にと退きはじめ、
「卑怯やど!六波羅勢!今日も逃げる気ぃか!おびんたれ(臆病)やのぉ~!」
などと罵られる声にも何も言い返さず、ただ、陣幕の中からのみ弦音高く射返すのみの幕府軍であった。
赤松軍はこの陣の外面に並んで、夜明けから日が傾くまでひたすら矢を射続けていたのだが
敵が一人も立ち向かってこないので、これは何かの策略に違いないと勘ぐり、
揃って三石城に引き上げていった。
実はこの陣幕の中には藁束が山のように積み上げられていたのだ。
幕府軍の将兵は藁束にビッシリと刺さった赤松軍の矢を回収すると
「昨日は奴らに出し抜かれ、矢種を絶やしてしまったが、今日は思い通りに敵をおびき寄せ、
数万の矢を取り返してやったぞ!」と大喜びしたのである。
(赤松盛衰記)
610:日本@名無史さん
11/08/07 21:02:47.42
「嘉吉の乱・備前口の戦い(2)」
8月25日は幕府軍の方が攻め寄せた。
その軍の中から連銭葦毛の駒に赤銅の鞍・鐙、紺糸威の鎧兜の武者が進み出て、盾を叩き、大音声を張り上げた。
「敵陣の輩、よぉく聞け!清和天皇9代の後胤、河内国に隠れなき和田野大五郎敏輝とは我のことなり!
赤松党に名を得たる薬師寺左馬助こそ、国中に類なき強兵と伝え聞く。いざ、力量の雌雄を決せん!」
「聞き及びし和田野大五郎とは汝のことか!五畿内を震え上がらすその力、聞き知っておるぞ!
いざ、互いに目ざましき勝負をしようぞ!」と応ずる卯の花威の鎧兜、月毛の駒に銀覆輪の鞍鐙の赤松方の武者、
薬師寺左馬助である。
薬師寺は8尺の柄の付いた80斤の大斧、和田野は1丈あまりの八角の鉄棒を軽々と振り上げ、振り回し、
双方打ち込み、受け流す凄まじい戦いが始まった。
その仁王が荒ぶるがごとき勢いに、馬は怒って馳せ散らすので、
互いに馬から飛び降りて、斧と鉄棒を入れ違えながら戦い続けたが決着が付かなかった。
やがて両人は左右に分かれる。
611:日本@名無史さん
11/08/07 21:06:02.80
「いかに薬師寺殿!汝と我とは同等の力量と見える。
もし我が汝を討ち取れば赤松方の片腕を抜くようなもの、汝が我を討てば幕府方の片腕を抜くようなもの。
両人のうちどちらかが生き残れば一方の大きな悩みとなろう。
敢えて両人ともここで刺し違え、冥土の旅に行くべきだと思うが、どうだろうか?」
この和田野の言葉に薬師寺は微笑を浮かべ、
「我も望むところである。汝のような勇猛の士を敵陣に置く時は、味方の憂悩限りなし。汝の言うとおり、共に死のうぞ。
しかしながら、その前に、敵味方の軍兵に暇乞いの力技を見せようではないか!」
と、大斧を引っさげて敵陣に割って入り、散々に投げ打ったから、幕府軍の武者どもは首を割られるもの、
脚や腕を切られるもの、片時の間に40~50人が打ち倒され死に果てた。
一方の和田野も、薬師寺に負けじと赤松方に割って入り、鉄棒を縦横無尽に振り回したので、敵う相手は一人も無く、
眉間・腰骨をことごとく打ち折られ、こちらも40~50人が即死した。
この勇者達の働きには敵も味方も感動し、畏怖を生じない者はなかった。
そして散々暴れまわった両人は、一息入れるようなことも無く、すばやく両手を広げてむんずと組み、
互いの腰刀で刺し違えると、同じ枕に死したのである。
この二人の有様に「共に惜しむべき豪勇であったのに」と称嘆せぬ者は一人もいなかった。
(赤松盛衰記)
612:日本@名無史さん
11/08/07 21:22:26.60
え。これっていい話?
613:日本@名無史さん
11/08/08 21:24:43.80
なんでともに死んじゃうのwww
ますらおボーイズ・ラブぶっとびすぎwww
614:日本@名無史さん
11/08/08 22:02:25.43
なんつうか、現代的な感覚では計り知れない逸話だなw
615:尊氏と直義の性格
11/08/12 03:11:06.29
室町幕府成立直後、武士の間で八朔の節会にあわせて贈り物をすることが流行していた。
当然ながら武士達の間では将軍である尊氏と弟で執政の直義の両名に贈り物をするという流れになる。だが、節会が終了しても二人の手元には贈り物は無かった。
というのも、直義はこれは賄賂に当たるとして受け取りを拒否し差出人の名前を控えるだけ。尊氏も受け取りはするものの、別の誰かが贈り物を届けると自分の受け取ったものを気前よく与えたためであった。
律儀で几帳面な直義と鷹揚で武士にわけ隔てなく接する尊氏の、それぞれの性格をよく示した話。
616:日本@名無史さん
11/08/12 07:22:40.41
へぇ、この時代でも賄賂に神経質になるんだ
将軍の弟で執政なら賄賂なんてバンバンもらっちゃえですぅ状態だと思うけど
それとも単に直義の性格的なものなのかな
617:日本@名無史さん
11/08/12 07:25:04.87
あ、名前欄に尊氏と直義の性格ってあるねw
武士たるもの、物で心は動かんぞというきまじめタイプだったのかな
618:日本@名無史さん
11/08/12 18:22:02.99
直義の潔癖はガチ
酒や豪華な食事もアウト
音楽や踊りに浮かれるのもアウト
綺麗な女の子にうつつを抜かすのもアウト
一つ一つ言っていることは立派なんだが窮屈だよな
619:日本@名無史さん
11/08/12 20:13:33.73
乱世向きじゃ無いね。道誉や師直に人気が出るわけだ。
620:日本@名無史さん
11/08/12 22:38:11.34
直義さん、嫌いじゃないんだが汚い所が目立つんだよな
護良親王刺したりとか高兄弟の始末とか。もうちょいきれいにやれんのかと
621:日本@名無史さん
11/08/13 03:03:42.31
院に矢を射かけて斬首された土岐頼遠だったが、武門の間では貴賤を問わずこの話題で持ちきりだった。
『土岐のような功あるものでさえ、院とやらに矢を射かけて死を賜った。院に行き逢うてさえ下馬せねば
ならぬなら、将軍に行き逢うたら土下座して這いつくばって歩き回るのだろうか?』と言う者もいて、
院と将軍の上下関係が錯倒しているところに、社会秩序の崩壊を見て取れるのである。
ある日、武士の一団が洛外で、40歳くらいの貧乏公家の乗る牛車に出くわした。
『すわ、あれは正しく院とか申す怪物ぞ。土岐のようなものでさえ無様な死を食らうのだ。
者ども、下馬し道を譲るのだ』と主人が促す。同じように武士の姿を見た公家も狼藉を怖れ、
車を停めて道に這いつくばって武士に道を譲る。あまりにも動揺したため烏帽子が転げ落ち、
随分とみっともない姿だったそうな。
土岐の狼藉と斬首は公武の末端にまで膾炙していたと言う話。
622:日本@名無史さん
11/08/13 13:12:55.66
序列が
将軍>>>土岐の兄貴>>>俺等
な世界に突如「院」とかいうのが現れて、
俺等の兄貴を殺っちまった!
ってノリなのか……
もののけ姫の天朝様の書き付け思い出すな
623:日本@名無史さん
11/08/13 16:17:40.76
正成・顕家・義貞すでに亡く、ついには後醍醐帝も崩御し、北朝の勢いが盛んであった頃のことである。
嵯峨から都へ帰る途中の禅僧が、夕立に逢い、困って仁和寺の六本杉の下で雨宿りを始めた
ところが雨は一向に止む気配が無く、日も暮れてしまったため、お堂の側で夜を明かすことにした
本堂の縁に座りながら、禅僧が静かに読経し時間を過ごすと
やがて月が美しい夜空の彼方、愛宕山や比叡山の方の虚空から、輿に乗った者たちが、六本杉の上に降り立ち集い始めた
それぞれの席が定まると、いつしか虚空に張られていた幕が吹き上がり、中に座っているものの姿が見える
そこにいたのは、後醍醐帝の外戚の僧春雅や、奈良の智教上人、浄土寺の忠円僧正など、
後醍醐帝の側近であった者たちであった
皆、顔はそのままだが、目が光り、嘴があったり、羽が生えていたり、すっかり天狗になってしまっている
「しまった、天狗の世界に迷い込んでしまったのか」
と肝を冷やしていると、また空から車が降りて来る
乗っていたのは鎌倉で足利直義に殺害されたはずの、護良親王であった
624:日本@名無史さん
11/08/13 16:20:55.74
しばらくすると天狗達は銀の銚子に金の杯を持って、酒を飲みはじめた
護良親王が最初に杯をとり、左右に会釈してから三度飲むと、続いて順々に杯を回しのみする。
しかし楽しそうな様子ではなく、しばらくすると天狗達は苦しそうに悶え始め、頭から黒煙を出して気絶し、死んでしまった
「これが天狗道の苦患というやつか、熱く溶けた鉄を日に三度飲ませられるというが……」
しかし禅僧が奮えていると、二刻ほどして天狗達はまた生き返った
生き返った僧上春雅が、苦しげに息をしながら
「さて、この世の中を、どうやって騒がせてやろうか」
と言った
それに末座の忠円僧正が進み出て
「それはたやすいこと。あの足利直義は、他人の妻を犯さないという戒めを保ち、
俗人で自分ほど禁戒を守っている者はいないと思い上がっている
そこにつけ込んで、我等が大塔宮が直義めが妻の腹に入って、男児としてお生まれになられるのです
更にあの夢窓国師に従う僧侶の中に、妙吉というものがいる
奴は己の学問修業の未熟を自覚せず、己ほど学問のある人間はいないとやはり思い上がっている
春雅僧正はその心に入り込み、政治に関わり邪法をお広めあれ
私自身は足利家の執事の高兄弟の心に取り付き、上杉と畠山を討って、尊氏直義兄弟の仲を裂きましょう
さすれば再びの大合戦。
しばらくは見物というものです」
その言葉に天狗共は熱狂し、「素晴らしい計画」と騒いでいたが、やがて幻のように消えてしまったという
さて直義の妻は、この後懐妊して実際男児を産んだ
しかしこの男児は病気にかかり、わずか三歳でこの世を去った
そして直義は尊氏の庶子を養子とし育て始める
高一族は権勢を誇り驕り始め、その処遇をめぐり、尊氏と直義は激しい対立を繰り広げる
天狗達が予言したごとく、大きな戦が再び始まるのであった。
625:日本@名無史さん
11/08/14 03:15:24.10
せっかく生まれ変わったのに3歳で死んだのかw
運の悪い話?w
626:日本@名無史さん
11/08/14 07:45:13.50
光厳上皇の第2皇子である弥仁親王は、兄である崇光天皇が若年で即位したことで、行く行くは出家する身であった。
ある時、人相見が親王の相を見て『何と尊貴なお顔でいらっしゃる。やがて至尊の位にお即きになるだろう』と占った。
その後足利家の内紛により南朝の天皇のみが正統とされ、崇光も退位し、人相見の言葉は忘れ去られていた。
ところが暫くして南軍が都に踏み込み、光厳、光厳、崇光の三上皇を拉致したのでたまらない。北朝は急いで弥仁を連れ戻し、
三種の神器も無いまま天皇に立てた。これが後光厳である。出家準備のため洛中の寺にいて無事だったのだ。時に齢15。
ところがこの天皇は在位中に南軍が度々都に押し寄せ、その都度近江や、遠く美濃まで蒙塵している。
人々は流石の人相見も天皇になってからのことは分からないのだと噂したそうな。
627:日本@名無史さん
11/08/14 07:55:43.98
>>626
光厳、光厳、崇光の三上皇 ×
光厳、光明、崇光の三上皇 ○
しかし北朝の天皇の名はすざまじい。
正統王家の人間による王家再興を意味する
『光』の字をここまで用いるとは。
例:後漢の光武帝
光孝天皇(小松の帝)
後小松天皇など
628:日本@名無史さん
11/08/14 11:26:53.73
>>627
でも後円融天皇だけ元ネタを知らないんだよね。
平安時代に冷泉流と円融流で両統迭立してた時に、
結局円融流で一本化されたことにちなんでるのかな。
629:日本@名無史さん
11/08/14 22:59:18.37
しかし尊氏も相当な奴だよな。正平一統なんて北朝に対する裏切り行為じゃん
敵方の親玉の後醍醐の菩提寺立てるとかも意味がわからん
楠木正儀たちが上皇たちを連れ去ったあと、取り返しもせずに勝手に新しい奴立てるし
尊氏の政治的な動きってアクロバティックすぎてついついけん
630:日本@名無史さん
11/08/14 23:05:18.78
>>629
だから兄が弟に勝ったんだろうな。
政治は、恥知らずになれなかったものが、結局負けるゲームだから。
631:日本@名無史さん
11/08/14 23:06:23.05
>>629
>楠木正儀たちが上皇たちを連れ去ったあと、取り返しもせずに勝手に新しい奴立てるし
それこそ木像で良いんじゃね扱いで
632:日本@名無史さん
11/08/15 00:19:32.66
兵庫県たつの市揖西町(いっさいちょう)中垣内では、奇祭として知られる「さいれん坊主」が行われている。
さいれん坊主は「祭礼坊主」がなまったものと言われ、長い竹竿の先に細長い提灯を付けたものに灯を入れ
悲しげな鉦や太鼓の音色に合わせて大勢の参加者が輪になって、境内をくるくると回り続けるという祭りである。
城山城(木山城)の南口に位置する井関三神社と恩徳寺で、数百年にわたって行われているこの奇祭は、
表向きは雨乞いの祭りと称しつつ、内実は表立っては弔うことが許されなかった者たち、
即ち、嘉吉の乱で命を散らせた赤松満祐以下の将兵の供養を目的として行われてきたものであるという。
この「さいれん坊主」は今年もまた、8月13~14日の2日間にわたり、地元の人々の手によって
賑やかに執り行われた。
633:日本@名無史さん
11/08/15 10:58:27.26
最近大河ドラマの太平記を見たが、足利直冬って結局どうなったの?
634:日本@名無史さん
11/08/15 11:10:44.88
いくえ不明
635:日本@名無史さん
11/08/16 18:16:38.63
尊氏・義詮に敗れた後は、あっさり山名大内に見限られてなんか不憫だよな
636:日本@名無史さん
11/08/17 15:54:58.47
赤松満祐に擁立されてたやつは、マジで直冬の孫なの?
637:日本@名無史さん
11/08/17 18:03:26.39
『建内記』に「直冬子孫」、『東寺執行日記』に「兵衛助殿御孫」とある。
638:日本@名無史さん
11/08/17 23:48:48.48
>>629
あれは魔王後醍醐の怨霊対策もあるから
639:日本@名無史さん
11/08/18 06:31:04.86
>>629
自分が殺したやつを弔う寺とか作ってるのは、120%恨まれてるよなー、って自覚がある時の
怨霊対策だよ、中近世までの日本じゃ。
毛利家が大内家の祭祀を続けていた例とか。
640:日本@名無史さん
11/08/18 11:08:09.25
亡くなる直前に直義に官位おくってるのも
なんとなくそういう行動に見えて
太平記の毒殺疑惑に信憑性を感じてしまう
641:日本@名無史さん
11/08/18 14:11:21.29
そう考えると、足利義満が急死したのちに
『鹿苑寺太上法皇』の称号を贈って来た朝廷も怪しいな。
642:日本@名無史さん
11/08/18 17:53:59.57
義満と直義じゃ状況違うからなあ
643:日本@名無史さん
11/08/18 19:38:48.26
>>639
尊氏が豆腐メンタルってのは、結構言われてるよね
644:日本@名無史さん
11/08/19 03:36:06.14
七国峠の供養松
相模の土屋と吉沢そして生沢の土地を治めていた土屋三郎宗遠という武士があった。
宗遠には子がなかったので、姉の桂が嫁いだ、隣接した岡崎の在、岡崎四郎義実に頼み、義実の次男、
次郎義清を養子に貰い受け跡継ぎとした。
ところがそこから、宗遠の実子の弥次郎忠光と三郎宗光が生まれてしまった。
しかし養子の次郎義清とこの兄弟の関係はよく、特に弥次郎忠光とは実の兄弟以上の仲の良さで、
よく近くの七国峠で語り合っていたという。
さて、治承4年(1180)8月23日、源頼朝挙兵。世にいう石橋山合戦が起こる。
土屋三郎宗遠は成長した息子たちと共には頼朝に味方し参戦。しかしご存知のように、この挙兵は惨めな惨敗と成る。
頼朝の軍は崩壊し、土屋一族にも危機が迫る。
が、この時弥次郎忠光が一人敵に突進。父と兄を救うため奮戦し、最期は矢に当たり討ち死にした。
その後、頼朝は勢力を盛り返し、ついに平氏を滅ぼり鎌倉幕府を成立させる。
西国を転戦していた義清は、土屋に帰ってから鬱々と過ごしていた。そして毎日のように、忠光との想い出のある
七国峠に行っては、彼の討ち死にした石橋山のほうを見て涙を流していたという。
養父の宗遠もこれを見て心を痛め、想い出の多い土屋から鎌倉へと移住した。
数年後、義清は鎌倉に置いて大学助に出世したが、建暦3年(1213)5月、「和田の乱」に参戦し、流れ矢にあたり
戦死した。
土屋宗遠は息子たちの死に悄然とし、再び土屋へ帰りそこで隠棲をした。
そして息子や戦死した家来たちの霊を弔うため、思い出多い七国峠に松の木を植え、後世の人が自分のような悲しい思いをしないように、と祈った。
やがてこの松は大木に成長し、「七国の供養松」と呼ばれ、村人たちや通行する人びとに親しまれ、
峠を越える人は、かならずここで休息したのだという。
今はもうない。
「七国の供養松」という逸話である。
645:日本@名無史さん
11/08/19 14:41:21.01
えぇ話や
三郎宗光は?
646:日本@名無史さん
11/08/20 09:15:06.27
>>627
光厳、光明等の北朝天皇の「光」は後漢光武帝や光仁、光孝といった諸天皇の
「光」とは意味あいがまったく違うでしょう?もともとが諡号じゃないし、両統迭立
下で「正系」を主張していた家が、傍系の出自を意味する「光」の諡号を選ぶこと
はあり得ない。
647:日本@名無史さん
11/08/20 16:12:30.05
それでは連続する『光』の字に込められた意図は何だったろうね。
光厳-光明-崇光-後光厳-後円融-後小松-称光と続く。
648:日本@名無史さん
11/08/20 18:27:06.42
某系のさらに某系の後花園には光がない。
光が某系というのは俗説。
649:日本@名無史さん
11/08/20 18:55:40.90
要するに偽物だということなんじゃないの?光の字すら憚られるほどの。
後花園が偽物だと考えると、後南朝の抵抗が継続した理由も説明がつく。
650:日本@名無史さん
11/08/20 21:52:00.57
後花園天皇は、実家である伏見宮の立場からは「わが家こそが嫡流である
崇光院の直系であり、後光厳流こそが傍系」ということになっているし、
後小松院の方の立場では自分の猶子、「後光厳流」の皇子として継承した
ことになっている。
(実際、実父である後崇光院を「父」として扱わないようにという遺言を残して
いる。)どちらの立場でも「光」の諡号を贈ることはあり得ない。
そもそも、その種の意味を込めた諡号は、順徳あたりまでで、その後は江戸
時代の光格天皇まで贈られていないはず。
北朝の光厳院、光明院というのは寺院の名前から来た追号のはずです。
651:日本@名無史さん
11/08/21 14:03:12.64
康治二年(1143年)8月5日の夜のことである
藤原頼長のもとに来客があった
頼長の客と言ってもそっちの話ではなく、共に学究に励む学者仲間の来客であった
その男は、自身の境遇に絶望して慟哭し、頼長も共に涙を流した
頼長は気を晴らすため、彼に笙を吹かせ、その音色でお互いの心を慰めた
帰り際に男は言った
「私はこの通り不運な男で、ろくな地位も職もありません
もし私が世をはかなみ、出家したのならば
世間は私の才能が優れているばかりに、天がそれを滅ぼしたと思い
学問を敬遠するようになるでしょう
そうならないためにも、どうかあなたは学問もやめないで下さい」
頼長は涙を流し「決して忘れない」と答えた
男は翌年出家し、信西と称した。
652:日本@名無史さん
11/08/22 07:31:43.47
どんな人なのかと思ってwikipeったら出家後がかなりの黒幕っぷりでワロタ
学問の才ってより相当の切れ者じゃん、純情エピソード似合わんw
653:日本@名無史さん
11/08/22 09:38:47.04
でも自分で「私の才能が優れているばかりに」と言うあたりはさすがだ
654:日本@名無史さん
11/08/22 11:01:47.48
うわあああ、この2人仲良かったんだ。
655:日本@名無史さん
11/08/22 12:05:02.34
頼長死後その墓をあばかせたのが信西だろ?
仲良かったの?
656:日本@名無史さん
11/08/23 13:55:44.06
藤原通憲、幼時に高階家に婿入りしたため高階通憲とも。出家して信西と号す。
この男が出家に至った理由は、自己の能力に自負があるも、家格の面でそれが宮廷で生かせないから。
つまり自己顕示欲が極端に強く、頼長と同質の人間であると言える。この種の人間が
同一の舞台に立てば、並立できずに潰し合うことは容易に想像できる。頼長が通憲の
出家時に寛大に接したのも、自己のその優越する立場あってのことに過ぎない。つまりは憐憫である。
657:日本@名無史さん
11/08/26 14:06:21.18
マサカド復活age
658:日本@名無史さん
11/09/01 19:51:36.94
康治二年(1143年)って忠通にようやく男子(基実)が生まれた年だから、
自分の摂関家の後継者としての前途に不安を感じていたはず。
そういう時期なら、不遇の通憲(信西)と共感が生まれてもおかしくないと思う。
…一瞬だけ、だったかもしれないけどね。
659:日本@名無史さん
11/09/02 03:02:18.77
応永年間のことだという
信濃国善光寺念仏堂には48人の時宗の僧がいたが、彼らは戒律を破ったということで追放され、
善光寺は新たに鎌倉の極楽寺から律宗の僧を招いた。
ところが、である。その時から念仏堂の井戸に白蛇が現れ、律宗の僧たちを悩ませた。
そしてある夜、僧たちの夢に一人の老僧が現れた。
彼はいう
「自分は清い流れではなく、濁った水に棲みたいのだ。」
律僧らは問う
「私たちがここにいることは、如来の本意に背くのですか!?」
「そうだ」
ここで僧たちの目が覚めた。
この不思議な出来事により、追放された時宗の僧たちは再び、善光寺念仏堂に戻ることができた、
ということである
(善光寺縁起)
660:日本@名無史さん
11/09/02 11:29:20.84
>>659
それで追放された僧が戻してもらえたのがいいね。
戻って来ても戒律を破ったのだろうか?
「破ってくれ」と言われて戻る方も変な気分あね。
661:日本@名無史さん
11/09/02 16:47:21.82
>>660
何かの罠だと思うよな>「破ってくれ」と言われて
662:日本@名無史さん
11/09/03 14:46:21.15
「赤松円心の旗印」
倒幕の兵を挙げ、一人奮戦して天下に義勇を轟かせていた赤松円心は、ある時、苦戦に陥った。
日に7戦するも配下は次々と敗走し、馬は倒れ、ついには主従7騎を残すのみ。
これでは雲霞の如く押し寄せる六波羅勢に勝つことなど出来ようはずもない。
追い詰められた円心は、三男・則祐と一緒に自害することを覚悟した。
覚悟を決めはしたものの、やはり諦め切れなかったか、南に見える男山八幡宮に合掌すると
「この戦いでもし勝利を得られたならば、一寺を建立して百僧を置き、その神助に報いる所存です。」
と請願を行った。
そして、お告げが下された。
「北条の旗印は鱗型。つまり水である。赤松の旗印は左巴。これも水である。水と水との戦いに勝敗は無い。
ゆえに、その紋に水を総べる大竜を書き加えたならば、勝利は間違い無いであろう!」
これを聞いた円心は、早速左三つ巴の紋の上に大竜を書き加えて出陣、遂に大勝利を得ることができた。
その後、天下に龍興り虎疲れ、建武4年、足利尊氏が入洛を果たしたのも円心親子の力によるものである。
そもそも龍というのは寺の塔に書くべきもの。お告げはまさしく理に叶ったものだったのだ。
こうして円心は佐用荘苔縄に法雲寺を創建し、高僧・雪村友梅を開山住持に迎えたのであった。
(雪村大和尚道行記)
663:日本@名無史さん
11/09/05 00:09:52.91
赤松氏の家紋・左三つ巴は時計回りの渦巻きのもの。
上郡町宝林寺(円心館)には円心の生前に還暦を記念して作られ、
江戸時代に彩色された円心の寿像(木像)があるけど、
この像の袈裟の部分にも家紋が描かれてます。
しかし、肩の部分に反時計回りのもの(右三つ巴)が混じっており、
現地で聞いた話だと、これが原因で国の文化財の指定を見送られたんだそうな。
でも現在、ネットなんかで赤松氏の家紋として紹介されているものは、
反時計回りのものが大部分を占めてるような・・・。
664:日本@名無史さん
11/09/05 12:20:17.62
建武3年(1336)2月11日、足利尊氏は摂津豊島河原合戦で新田義貞・北畠顕家の連合軍に敗北し、足利軍全体も危機に陥った。その日の深夜、赤松円心は尊氏の御前に参上し申し上げる
「今回、例え敵を打ち破り都に攻め上ったとしても、味方は疲弊しその戦果を維持するのは難しいでしょう。しばらく御陣を西国にお移しになって、軍勢に休息を与え、馬を休ませ弓箭干戈の用意をした上で、再び
上洛なさるべきです。
およそ合戦においては旗こそ大切です。官軍は錦の御旗を先頭に立てていますが、味方にはこれに対抗する旗が無いので朝敵のように見られます。
ところで持明院殿(後伏見院)は天子の正当でおわしますから、先代(北条氏)の滅亡後の状況について、その御叡慮が心良いはずがありません。急いで院宣を戴き、我らも錦の御旗を先頭に立てるべきなのです!
去年の合戦で我々は利を失いましたが、あれは大将軍の星(金星)が西にあった為です。そのため関東から御発向の合戦の際には味方に利が無かったのです。
今度西国から攻め上がれば、我々の軍勢は洛中の大将軍の星の方に向かうことになるので、御本意を達することが出来るでしょう。
先ず、四国には細川が下向するとよいでしょう。中国の摂津播磨は、この円心が守ります。鎮西は太宰筑後入道妙恵(少弐貞経)の子の三郎(頼尚)と将監の二人が、今ここに供奉しています。
その上妙恵は以前将軍(尊氏)から御教書を賜っていますし、きっと忠誠を尽くすでしょう。
大友左近将監(貞載)は去年7月、京で結城親光によって討たれ、家督の千代松丸は幼少のため、一族家人数百人が当陣に伺候しています。
将軍が中国四国九州の軍勢を従え、時日をおかずに御帰洛できることは疑いありません。まずは、摩耶城の麓までお越しください。」
円心はこれを再三にわたって申し上げたため、尊氏はついに夜中、瀬川の陣を退き、十二日卯の刻(午前6時頃)に兵庫に入った。 しかし下御所(足利直義)は一旦それに従い退いたが、再び戻って摩耶の麓に陣して、
何とかして都に攻め入って命を捨てようとしている様子であった。しかし尊氏が説得したため、兵庫に帰った。
同日、酉の刻(午後6時頃)から、誰が始めるともなく船に乗り始めた。非常にあわただしい様子であったという。
以上『梅松論』より、尊氏の九州下向決断の模様である
665:日本@名無史さん
11/09/06 18:27:05.73
>>664
徹底的に尊氏を新田が追いかけていればね。このやり取りが本当にあったかはともかく。
西国で再建を図る事例は平家にあるので、それに従えば徹底的に叩くべきだった。
平家は天子を擁していても負けた。新田の凡将ぶりが目に見えるし、
顕家との連合軍である点、天も尊氏の味方と見える。これが楠木なら違う結果になったろう。
666:日本@名無史さん
11/09/06 22:41:40.49
>>665
南朝方もダメージが大きかったのだし、
北畠は奥州にすぐに帰った。
楠木某とかいう何処の馬の骨だかわからん者に誰が従う?
守護としての役目もマトモに務められないような香具師に。
667:日本@名無史さん
11/09/08 13:33:05.24
正和年間(1312~16)の事である
東寺領・丹波国大山荘(現・兵庫県篠山市)では、東寺から排斥された寺僧厳増が現地の代官と組み
荘園内に乱入し、追部、狼藉、苅田、刈畑、討入、奪取といった悪党行動を行った。
さらには荘内の西田井村百姓がこのに従い東寺への年貢の支払いを止めるなどの行動に出、大山荘は
まさに分裂状態となった。
この時である
荘内の一井谷の住人であり、沙汰人(荘園領民の指導部)である藤原家安は、自らの計略により
他所より軍勢と兵糧を集め、厳増に対し私戦を行った。
この家康の行動により厳増の勢力は鎮圧され、大山荘から悪党行為は根絶された。
藤原家安は大山荘を救ったのである。
家安はこの働きに対して、東寺よりの「御恩」を求めた。
ところが
「御恩」どころか、東寺は家安より沙汰人の資格を剥奪。さらに東寺への忠節を重ねて契約させた。
厳増を打ち破った家安の実力と武力を恐れたのだ。
丹波国大山荘・厳増騒動の顛末である
(東寺百合文書)
668:日本@名無史さん
11/09/09 21:02:45.49
武士が台頭するまでは僧侶が公家と並ぶ権力だったんだなあ
公家がひょいひょい出家しちゃうのは看板ちょっと替える程度のもんなんだろな
僧侶が政治的権力持ってたのは奈良から江戸時代までかな?
だとしたら現代の葬式坊主の状態のほうが短いわけか
669:日本@名無史さん
11/09/09 21:55:26.90
>>668
江戸時代で権力があった僧って崇伝や天海くらいまでじゃないかな。
実質的には軍事的、経済的な裏付けがあった戦国までだと思う。
670:日本@名無史さん
11/09/09 23:49:32.26
>>669
江戸時代は個人的に権力者に取り入って力持った道鏡タイプはいたけど
あくまで権力者の寵があってこそで自身が力持っていたわけじゃないからね
671:日本@名無史さん
11/09/10 02:53:42.85
江戸時代は寺社奉行の統制下で政治組織の末端に組み込まれちゃってたからね。
勝手に新しいことを始められない状態。
だからこそ、明治の廃仏毀釈につながっちゃったわけだが。
672:日本@名無史さん
11/09/10 11:03:51.16
刀伊の入寇での藤原隆家や後三年の役での源義家と同じパターンかよ...。
673:日本@名無史さん
11/09/10 11:13:14.17
>>672
藤原隆家はすでに高位高官に達していて、特別な賞を受ける立場には
ないし、良くも悪くも処遇は変わっていないと思うけどね。
源義家に関しては、純粋に自家の勢力を伸ばすための私戦だった上、
陸奥守としての所定の納入分を納めなかったために相応の処分をされ
ただけという話だったと思うが。
674:日本@名無史さん
11/09/10 11:14:21.90
>>672
藤原隆家はすでに高位高官に達していて、特別な賞を受ける立場には
ないし、良くも悪くも処遇は変わっていないと思うけどね。
源義家に関しては、純粋に自家の勢力を伸ばすための私戦だった上、
陸奥守としての所定の納入分を納めなかったために相応の処分をされ
ただけという話だったと思うが。
675:日本@名無史さん
11/09/10 19:14:23.44
そこから左遷されてたんじゃなかったか隆家は
少なくとも功績に対して何もしなくていい理由にはならないでしょ
676:日本@名無史さん
11/09/10 20:37:56.97
>>675
左遷などされていないでしょ?普通に任期が終わって帰京しただけのはず。
すでに正二位中納言まで上がっているし、過去にあれだけの問題を起こして
いる以上、昇進ということにはならんでしょう。
672の件に通じるのは、現地の武士を賞するようにという権帥の上申への議定
の話だと思うけど、こちらは最終的には賞することで決していますね。
677:日本@名無史さん
11/09/16 16:18:40.33
相模国淵野辺村に、足利直義の家臣である淵辺義博という武士がいた。
中先代の乱の際、鎌倉に幽閉されていた護良親王を暗殺したことでも歴史に名を残した武士である。
時に、淵野辺村の境川沿いに、龍池という広い池があった。
ここにはいつごろか巨大な龍が棲みつき人や家畜を襲い、村人たちは恐ろしさに逃散する有様であった。
時の幕府はこの龍を退治する勇者を募集、ここに名乗りでたのが淵辺義博であった。
彼は得意の強弓を携え池の畔に立って龍を待った。
にわかに雷鳴轟き、風雨巻き上がり池が二つに避けた!と思うとそこから立ち上がる巨大な柱、
それは見る間に龍となり巨大な口を真っ赤に開き、淵辺に向かって襲いかかった!
淵辺は弓に鏑矢をつがえ、龍の鋭い二つの眼光の、真ん中をめがけそれを放った。
矢は、違わず龍の眉間を貫く。
絶叫と共に、龍の体は3つに分れて飛び散った。
幕府は龍を退治した淵辺の労をねぎらい、龍池を埋め立てその土地は淵野辺村の人々に
分け与えられた。
そして退治された龍の怨念を静めるため、龍の頭が落ちた場所に「龍頭寺」、胴体の落ちた場所に「龍胴寺」、
尾の落ちた場所に「龍尾寺」が建立されたという。
この三寺の内現存しているのは龍像寺だけだが、そこにはこのと時の矢じりと、龍骨の一部が保存されて
いるという。
淵辺義博は建武2年(1335)12月5日、足利直義軍と新田義貞軍が衝突した駿河手越河原の戦いにおいて、
直義方の敗軍の中、直義が逃げ落ちる時間を作るため、彼の身代わりとなって壮絶な討ち死にをした。
淵辺義博の龍退治、という伝説である
(相模原昔話)
678:日本@名無史さん
11/09/20 20:57:16.07
宝治元年(1247)6月5日の宝治合戦において、三浦泰村・光村兄弟は北条時頼によって討伐され、
頼朝旗揚げ以来の幕府の大勢力であった三浦氏は、ここに滅びる。
が、三浦氏のうちでも、傍流である佐原氏の三浦盛時は北条時頼に従い、この合戦においても
宗家に対し刃を向けた。
この三浦盛時は宝治合戦でも妙に目立つ人で、合戦直前にその前兆とされる怪魚の死体が漂着したことを
報告したり、合戦当日は北条時頼邸への到着を遅刻し、屋敷の堀を乗り越えて入ってきたのを北条時頼に見られ、
驚いた時頼から鎧を賜る、などといったことをしている。
そんな三浦盛時であったが、北条の覚えめでたい彼は合戦後、北条の許可を得て「三浦介」を名乗り
三浦宗家を継いだ。ここに新たな三浦宗家、佐原流三浦氏が始まる。
およそ280年後、永正13年(1516)。
三浦道寸(義同)・義意親子は籠城の末、新井城にて自刃。佐原流三浦氏はここに滅亡した。
彼らを滅ぼしたのは後世に言う北条早雲。すなわち伊勢盛時である。
盛時に始まり盛時によって終わるという、佐原流三浦氏の奇縁についての話である。
679:日本@名無史さん
11/09/22 09:30:32.75
修学旅行でお馴染の京都天竜寺の庭は南北朝時代の作庭の名僧、夢窓疎石
足利高氏からも後醍醐天皇もからも愛され足利義政には手本にされた、ちょっちゅ いいボーズ
680:日本@名無史さん
11/10/03 01:47:08.03
応永23年4月25日の夜の事である。
京の北野社に怪鳥が現れた。
これの鳴き声は大きな竹をひしいだ時のようで、その音の大きさに北野社の社頭までもが鳴動した。
怪鳥は二股の杉に留まって鳴き、夜になって詣でる人たちの肝を潰した。
この時、北野社の宮司の一人が弓を以ってこれを射落とした。
近づいて見れみれば、この怪鳥、頭は猫、胴体は鶏、尾は蛇であり、眼は爛々と輝いていたという。
まさしく稀代の怪鳥であった。
この事は室町殿・足利義持に注進され、これを射た宮司は御感に預かり、練貫一重、太刀一振りを
下されたとのことである。
ちなみに怪鳥の遺骸は、河に流されたのだという。
(看聞日記)
681:日本@名無史さん
11/10/03 11:48:19.86
神社にも僧兵が居たっていう話か。
682:日本@名無史さん
11/10/03 11:50:52.62
いや、たいていの神社はお寺の下部組織だから
683:日本@名無史さん
11/10/03 17:03:23.74
なんだよ、怪鳥のことは話題にしないのかよ。
これって、源三位頼政の鵺と同類だろ。
684:日本@名無史さん
11/10/03 19:38:42.84
>>681
神人じゃないの?
685:日本@名無史さん
11/10/03 19:49:55.78
>>682
ものすごい誤解してない?
686:日本@名無史さん
11/10/05 01:44:33.83
しっかし、もののけ話ばっかりだな。当時の人間がいかにそれを信じ込んでいたのか
ということが、よく現れているというかなんというか。
加持祈祷だの呪詛だの、ファンタジーな世界だよなぁ。
687:日本@名無史さん
11/10/05 07:03:39.05
今でもそうじゃない?
ほら2chよくいるじゃん、見えない敵と戦ってる人。
688:日本@名無史さん
11/10/05 12:56:44.45
今のアニメも魔法使いとかロボットとか、有り得ないほどリア充な学校生活とかの描写が出てくるけど、
千年後には、千年前の連中はこんなの信じてたんだな~、とか言われちゃうの?
689:日本@名無史さん
11/10/05 13:24:05.64
東寺百合文書って萌え要素あるの?
690:日本@名無史さん
11/10/07 18:45:12.52
>>689
毎晩オカズにしてる
691:日本@名無史さん
11/10/12 13:23:56.60
文明14年6月25日、右京兆細川政元は、河内の畠山義就に鷹を贈った。
義就はこれを大いに喜んだという。
香川氏がこの奉行をし、山本というものが使者に赴いたと云々されている。
この事について、誰も政元の意図を理解できなかった。
そのため、夢のお告げがあったためだ、とも言われた。
(大乗院寺社雑事記)
後の明応の政変等にも繋がりそうな、細川政元の怪しい動きについての逸話である。
692:日本@名無史さん
11/10/13 14:05:38.76
政元の行動力の高さはすごいよなあ
正直こういう上司は嫌だw
693:日本@名無史さん
11/10/13 21:07:15.13
政元がホモでなかったら、細川京兆家も違った歩みをしただろう。分裂は痛い。
694:日本@名無史さん
11/10/20 00:22:16.93
応永十七年六月二十九日、鎌倉公方足利幸王丸(持氏)の評定始めがあったが、幸王丸は未だ
元服前であったので、御出座はなかった。
ここで幸王丸の祖父、二代目鎌倉公方であった左馬頭氏満の三男・満隆は、幸王丸の伯父であり
幸王丸の父満兼の舎弟であって、この頃鎌倉の新御堂殿と称していた。
鎌倉公方の連枝一族のことでもあり、東国の貴賎は皆彼を畏れ敬い、大名緒侍からも尊敬を受け、
彼らの時々の訪問、折節の拝礼が絶えることがなく、門前は常に賑わっていた。
そんな状況だったのに、何が不満だったのだろうか、満隆は陰謀を企てた。
満隆が内々に軍勢を招き、諸大将と語らっている。そんな情報を知った幸王丸は、密かに上杉長基の
鎌倉山内の邸宅に入り、そこから近習の近藤五郎を満隆のもとに派遣して、陰謀の真贋を詰問した。
これに満隆は大いに驚き、「そのような陰謀は全くない!考えたこともない!これはただ、
人々が勝手に言っている、私への讒言に違いない、どうか私の言うことを信じて下さい!」
と、数通の起請を書いて提出、これに幸王丸も、「さては世間の虚説であったか」と、
九月三日に帰座し、疑いも溶けたという。
後の上杉禅秀の乱に繋がる、足利満隆陰陰謀事件の顛末である
(鎌倉管領九代記)
695:日本@名無史さん
11/10/21 20:31:32.20
基氏以降の鎌倉府ってずっとこんな感じだよな……
基氏が早死にしなかったら違っただろうか
696:日本@名無史さん
11/10/23 22:10:07.04
永享七年(1435)の永享の乱で滅亡した鎌倉公方、足利持氏の遺児、安王丸、春王丸を結城氏朝が
擁立し永享12年(1440)挙兵した、世に言う結城合戦。
結城城は堅固であったが、翌嘉吉元年(1441)5月の幕府軍による総攻めによってついに陥落。
安王丸、春王丸兄弟も敗亡した。
この結城合戦が終わると、安王丸、春王丸兄弟の乳母が捕縛され京へと連行され、
そこで厳しい取調べを受けた
「持氏には10人余りの子があった!安王丸、春王丸以外は何処へ落ちたのか!?
居所を白状すれば恩賞を与える。…だが隠すのなら拷問をするぞ!」
乳母は言った
「私は、安王丸様、春王丸様以外のことは一切知りません!」
そこで幕府の奉行たちは彼女に『水火ノ責ニ及』んだ。
それでも乳母は一切口を割らず、終には舌を噛み切り、自ら死んだという。
(上杉憲実記)
697:日本@名無史さん
11/10/27 11:58:44.35
乳母の子に注ぐ愛情は時に実子以上だよなあ
698:日本@名無史さん
11/10/28 00:38:10.01
>>697
長じて将軍なり大名になれば、一族の立身に直結する点もあると思う。美談だけではないよ。
699:日本@名無史さん
11/10/29 00:05:58.35
応永23年(1416)12月
『聞いた所によれば、押小路亜相(足利義嗣・将軍義持弟、義満次男)の反逆が露見したとのことである。
関東の反乱(上杉禅秀の乱)も亜相の為だそうだ。
亜相は比叡山や南都の興福寺とも一味していたようである。わが園城寺は亜相からの回文を
幕府の見参に入れた。
ところで現在亜相がおられる臨光院の宿舎に、盗人が忍び入ったとの事。
この者は軒の格子を切り破っていた所を番衆に見つけられたが、逃げ延びたということだ。
これは亜相を盗み出すためであったと取りざたされている。
これによって亜相の周りの警備は厳重となり、今後怪しい者があれば、見つけ次第殺害せよと
下知されたとのことである。』
(看聞日記)
上杉禅秀の乱が、京にもたらした影響についての記録である。
700:日本@名無史さん
11/11/11 02:50:10.45
割と有名だけどまとめになかったので
鎌倉中期、東大寺の別当を務めたほどの高名な学僧で、宗性という人物がいる
華厳宗を代表する名僧で、法然や親鸞などが活動し始める中、いわゆる旧仏教の最高に力を尽くした
そんな彼は30代も半ばを過ぎたころ、よりいっそう仏道に励むために5つの誓願を立てた
一.四十一歳以後は、つねに笠置寺に籠るべきこと。
二.現在までで、95人である。男を犯すこと100人以上は、淫欲を行うべきでないこと。
三.亀王丸以外に、愛童をつくらないこと。
四.自房中に上童を置くべきでないこと。
五.上童・中童のなかに、念者をつくらないこと。
このうち二と三は要するに
「今まで稚児95人とヤりましたが、生涯に100人以上犯さないよう誓います。
そういうわけで、これからは亀王丸きゅんだけを愛します」
親鸞の女色を戒律違反と責め立てた宗性だが、ショタ相手なら100人までは大丈夫だったようだ
参考:松尾剛次『破戒と男色の仏教史』
701:日本@名無史さん
11/11/11 13:28:09.31
堂々と誓願しちゃうくらいに普通のことだったのか
「欲」ではあったけど「罪」じゃないからおkってとこか
702:日本@名無史さん
11/11/11 13:36:34.29
衆道はむしろ仏道にとって良いことだという感覚だった。
703:日本@名無史さん
11/11/11 21:48:53.66
ヤリチンは死ね
704:日本@名無史さん
11/11/12 02:08:51.92
ホモは1000人切りザラだって言うしな
女と違って、男同士は両方が無差別に相手を求めるから
705:日本@名無史さん
11/11/12 09:10:00.00
いや、戒律で同性・異性・獣、全部アウトだって書かれてるから
706:日本@名無史さん
11/11/12 18:28:12.94
宗性と言えばこれも。
敬白
一生涯ないし盡未来際断酒のこと
右、酒はこれ放逸の源、衆罪の基なり。
しかるに生年十二歳の夏より、四十一歳の冬にいたるまで、愛して多く飲み、
酔いて狂乱す。
つらつらその犯すところの過を思うに、定めてその悪道の業をなす。
先非をかえりみるごとに、深く後悔をいたす。今より以後、盡未来際、
永くこれを禁断し、さらに受用するべ からず(ただし、如法真実難治のときを
除くなり)。願わくはこの善根をもっ て、願わくは今の功徳によって、
現世久しく余算を持し、身に病看なくして仏法を学び、当生必ず兜率に詣で、
慈尊に眼礼し、恵解を開かん。
仁治四年正月一 日、これを始む。
権律師宗性 生年 四十二
(12歳から41歳になるまで酒飲みまくったけどこれからは生涯禁酒すること
を誓う。でも酒は薬でもあるから病気のときは飲むけどね。)
これ以前から度々禁酒の起請文を書いているため、これが守られたかどうか
定かではないw
707:日本@名無史さん
11/11/13 08:19:30.67
ただのDQN自慢な気がしてきたなw
芸能人の俺も昔はワルだった~的な
708:日本@名無史さん
11/11/13 10:45:58.08
禁酒しても般若湯はやめないとかでわ?w
709:日本@名無史さん
11/11/18 12:42:06.69
永享5年(1433)7月24日
洛中に坂本の馬借が乱入してくるという風聞があり、山名時煕に幕府奉行から河原などに伏せ野伏を
置くようにという沙汰が発せられた。これは夜中のことであったので、家臣たちは遅々として集まらず
仕方がなく、先ず集まった少数だけ派遣すると報告し。深夜午前1時頃、少勢を出動させた。
するとこの山名勢が大原辻において、馬借の集団300人ばかりに出くわした。
対して山名勢は5,60人ほどであったという。
しばらく双方睨み合っていたが、山名方のものが
「お前たちは何者か!?敵か味方か!?」
と尋ねると、馬借の方から
「味方のわけがないだろう!」(何事に味方にては候べき)
という返答と同時に矢が放たれた。
そこで山名方からも一斉に矢が放たれ、即座に2,3人を射倒した。
そうして矢戦の後、馬借の一団は山名方に向かって襲いかかってきたが、山名方はこれを
尽く弓をもって射払い、馬借たちは退散した。
山名方には一人の負傷者もなかったという。
(満済准后日記)
訓練された武士と、素人の馬借一揆との戦闘力の差を良く表した逸話であろう。
710:日本@名無史さん
11/11/18 20:54:40.02
やっぱり馬借は気が荒いなあ
711:日本@名無史さん
11/11/18 21:40:22.37
どうして馬借の癖に騎馬戦しないで矢戦?
負けるに決まってるじゃないか
712:日本@名無史さん
11/11/19 04:03:37.02
そりゃあ馬借は「馬に乗せる」仕事であって「馬に乗る」武士では無いからでは
713:日本@名無史さん
11/11/19 22:46:49.17
馬に乗らずに調子に乗ったのが敗因ですかな
714:日本@名無史さん
11/11/20 02:27:52.58
あれ?騎馬より弓の方がはるかに強いんじゃないの?
715:日本@名無史さん
11/11/20 10:13:38.54
むしろ馬借が洛中に乱入を企てた理由が気になる。徳政狙いか?
716:日本@名無史さん
11/11/24 14:49:52.74
伏見宮貞成親王の愉快な貴重な室町時代の記録「看聞日記」より、
応永25年(1418)8月晦日の記事
『晴れ。野遊びに出かける。
田向常良三位、庭田重有朝臣、田向長資朝臣、壽蔵主などと相伴して蒼玉庵へと行った。
ところがそこの坊主が留守であった。
そこで敷地内の栗林に入って栗を拾った。もちろん無許可で。
面々、大いに悪行を成した。
それから楊柳寺に行き、ここの庵に顔を出す前に本尊である観音像を拝見していると、そこに坊主がやってきて、
盃事となった。思わず三献も酌み交わしてしまった。
このあと帰宅。
その後蒼玉庵の坊主が、酒を少し持参して
「知らなかったとは言え私が留守の間にお尋ねになったとか、恐れ入り申し上げます」
などと言いに来た。
そこで対面し
「こちらこそ栗拾いの乱暴狼藉、すまなかった。」
と謝り、盃を与える。すると退出していった。』
なんとも伸びやかな、室町時代の皇族の遊びの風景である。
717:日本@名無史さん
11/11/24 20:37:33.82
栗拾いごときで乱暴狼藉なのか
日記に書けない様な悪い事したんじゃないの?
718:日本@名無史さん
11/11/24 21:17:46.05
>>717
わざと大げさに言ったジョークだよ。
719:日本@名無史さん
11/11/24 22:32:57.99
現代でいう未成年の飲酒、喫煙ぐらいのことなんじゃないかな
多分この人が現代に生まれてたらブログかtwitter辺りで自爆しちゃって炎上しちゃうんだろうな
720:日本@名無史さん
11/11/26 03:35:40.49
ていうか当たり前のように酒持ってきてるなこの坊主
721:日本@名無史さん
11/11/26 20:22:33.47
般若湯
722:日本@名無史さん
11/11/27 00:43:18.41
つーか中世の銘酒の生産地といえば寺社だぞ。
寺社はそれを販売して金稼いでた。
723:日本@名無史さん
11/11/27 09:59:14.26
現代の寺社のイメージは、江戸時代や明治時代以降に定着したものだろうしね
724:日本@名無史さん
11/11/27 15:27:29.47
そもそも神仏習合期の寺社では、坊主と神主は兼業されており、
彼らは神に対し「御神酒」を差し上げる必要があるのだ。
725:日本@名無史さん
11/12/12 15:44:22.38
あ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
本当にh抜かねらや和末亜ぬやわー。呂な日ぬたに雪見様基地機だに言わん波やぬ針、和マヌやわ。
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愛がなら浜な沙汰は姉ライや高谷伽耶。新たの白湯쀒נב효효효효효っら픂퐆푶픂풒픞표やな。でもちょっとトゥルリンゲていてもブワジュギ~
ぬら彩奈棚しまさタサ裏や鮎なさやさならアラleは沙汰またさやな白湯'çaõ白湯穴や否熱美優沼アヤあり得な島さへありタラ荒尾や生は馬•嗎。
原油話庵は兄エア他沙汰し、はリオ無はアラ日は金原荒谷暢気久皮膚さ八幡は逢たは場に棚あり荒畑は差は間様かなあ谷田八幡的たえ。觧?
また硬い粥ぬんん無鮎泡アマ泡川かを乾き、話なユダヤな罠間様やSIM絢爛たる鬨贒=田畑腹たる多羅について舞まあ身釜か湯屋にかやかも又マカや何もかもハマスやな。
726:日本@名無史さん
11/12/14 10:33:16.12
>>725
浪の下にも都の候ぞ
727:日本@名無史さん
11/12/14 21:46:32.58
ああ、そういうことか。>>725はインスマスの住人だったんだな。
ちょっと米軍に頼んで関門海峡に魚雷打ち込んでもらってくる。
728:日本@名無史さん
11/12/15 07:28:52.58
何かの呪文かと思ったよ
729:日本@名無史さん
11/12/15 22:11:35.61
太平記巻八・妻鹿孫三郎勇力事
『年の頃二十歳ばかりの若武者が、ただ一騎駆け寄ってきて、引き上げる途中の
妻鹿孫三郎と組み討ちをしようと近づき、鎧の袖に取り付いた。
これを孫三郎は物ともせず、長い腕を繰り出し、この若者の鎧の総角を掴んで、左手一本でそのまま持ち上げた。
その状態のまま馬を三町(約300メートル)ばかり駆けた。
そして左手で掴み上げていたこの鎧武者を、馬上で右手にポイとパスし、そして右手で「えい」と投げた。
するとこの投げられた武者は、孫三郎の後に続いていた馬武者6騎の上を飛んでいき、深田の泥の中に、
体が見えぬほど埋まってしまった。』
太平記に何人か出てくる化物のうちの一人、妻鹿孫三郎についての記事である。
730:日本@名無史さん
11/12/15 23:09:29.03
投げ打ち、ね
人間には不可能
731:日本@名無史さん
11/12/16 01:33:23.92
人間やめれば可能ってことだろ?
732:日本@名無史さん
11/12/16 07:23:45.28
早く人間になりたい!
733:日本@名無史さん
11/12/23 23:21:59.81
妻鹿(めが)長宗の一族、人並み外れた怪力の男ばかり17人の軍団。
実に恐ろしそうだ・・・。
16人は六波羅勢に討たれてしまうけど。
734:日本@名無史さん
11/12/23 23:26:09.46
「依藤惟次の亡霊」
嘉吉の乱の時、城山城後詰のために白旗城を出陣した依藤(よりふじ)太郎左衛門(惟次)。
しかし、到着を待たずに城山城は落城、赤松満祐は自害したのである。
間に合わなかった依藤は、揖西郡千本村という所の辻堂に力なく走り上って腹を掻き切った。
しかし、はらわたを庭前の楠に投げつけ、眼を見開き歯を食いしばっていたところを
たまたま通りかかった美作小原城主・新免弾正に見つけられ、首を取られて手柄とされてしまった。
新免は時の人に「ひろい首也」と誹られている。
さて、依藤太郎左衛門は旧知の者によって弔われたのだが、その者が
「梓弓はりまの方の人とえは松より藤の名こそ高けれ」
という歌を詠んで掲げたところ、依藤の亡霊は怒り狂って悪霊と化し、里の民を悩ましはじめた。
これは堪らない。
そこである僧を頼んで改めて弔った上、この歌を
「あつさ弓播磨の方の人とえは松により藤の名こそ高けれ」
と直したところ、亡霊の怒りはようやく鎮まったのである。
(播磨鑑)
主家想いの亡霊というのも、なかなかに難儀なものですなあ。