10/11/02 01:01:54
鎌倉時代くらいなら神威の影響力って貴族・武士・寺社問わずすごくあったと思うが
足利義教の時代まで下るとどうだろうかw
269:日本@名無史さん
10/11/02 01:08:10
>>268
戦国時代すら戦の駆け引きに迷ったときはくじを引いたぞ。
270:日本@名無史さん
10/11/02 01:09:49
神威とか信じてるなら殺そうとは思わないだろw
271:日本@名無史さん
10/11/02 01:10:04
神威といえば、この義教の時代くらいから裁判において鉄火起請が流行り始め、
江戸初期くらいまで続くな。
神威的なものの影響は強かったと考えるべきだろう。
272:日本@名無史さん
10/11/02 01:19:59
足利義教と織田信長っていろいろ似てるよね
顔も似てるし
URLリンク(upload.wikimedia.org)
273:日本@名無史さん
10/11/02 01:27:23
>>272
似てるねえ。
義教の時代まで下れば
「クジ引きが神威?バカじゃねーのw」って感じる人が少なからずいたんじゃないのか?
もちろん江戸時代ですら大半の人は神仏の罰を信じてたわけだが。
程度問題。
274:日本@名無史さん
10/11/02 01:28:03
>>272
いかん、殴られていろんなところから流血してるように見える…
275:日本@名無史さん
10/11/02 07:11:24
バサラ大名あたりは、神仏をバカにしながら出家したり、信じてるんだか信じてないんだか複雑な感じ
くじ引き自体の権威よりも、人手の入ったインチキじゃないかと思ってたのも居ただろうし。鎌倉公方とか
276:日本@名無史さん
10/11/02 07:41:07
>>272が田代まさしに見える不思議
277:日本@名無史さん
10/11/02 09:07:06
>>275
幕府の狙いは>>266だろうけど
幕府の権力が低下しているからこそ籤という手段になったわけだからね。
278:日本@名無史さん
10/11/02 21:28:17
足利幕府は創成期ですでに権力争いやらかしてる始末だからなぁ
むしろあれだけボロボロな出発で十何代も続いたのが不思議だ
279:日本@名無史さん
10/11/02 21:49:33
他に日本をまとめる権力が存在しなかったからな。
朝廷は完全に幕府の二号さんだったし。
280:日本@名無史さん
10/11/02 21:53:20
何だかんだで権力兼権威がないと、大名も寺社も庶民も困ったということではないか。
そういう社会構造だから公方が必要とされたと。
信長でさえ、積極的に幕府を潰そうとはしてないよね。
一旦追放した足利義昭を帰洛させようとしたり。
281:日本@名無史さん
10/11/02 22:17:27
他の時代だと、その名目的権威みたいな役回りは天皇・朝廷が担ってるよね。
この時代だけ変な三重構造になっている感が
282:日本@名無史さん
10/11/02 22:44:45
義満の代で南朝という創設以来の敵がなくなって
対南朝のための北朝のまとめ役という役割が終わってしまったからじゃないか>変な三重構造
283:日本@名無史さん
10/11/03 03:41:50
>>281
三重構造といえば、
朝廷→征夷大将軍(鎌倉幕府)→北条執権
が元祖でしょう。
もしもその執権が側近たちに政治を投げ出そうものなら
四重構造になるわけですが、
そういう時代もあったのですかね?
284:日本@名無史さん
10/11/03 03:57:10
朝廷系の鎌倉将軍って権威としての実態はどれぐらいあったの?
285:日本@名無史さん
10/11/03 04:06:55
>>283
つ 内管領
286:日本@名無史さん
10/11/03 07:33:46
>>285
得宗を加えると、もうわけがわからない
287:日本@名無史さん
10/11/03 14:10:06
朝廷→征夷大将軍(鎌倉幕府)→北条執権 →得宗 →内管領と理解していた
江戸時代も朝廷→征夷大将軍→老中→側用人
288:日本@名無史さん
10/11/03 14:45:51
>>287
それはちょっと違うような・・・
老中を通さずに将軍が自ら権力を施行するためにつくられたのが側用人制度だろう。
(by 大石慎三郎)
289:日本@名無史さん
10/11/03 14:45:52
>>287
朝廷→将軍→得宗≧執権→内管領としたほうがいいかな。
鎌倉末期になると執権ですら形骸化し、「得宗家」という一つの家が支配するようになる。
その得宗家の執事が内管領。
290:日本@名無史さん
10/11/03 15:38:07
おおまかな時代の流れで言うなら
頼朝~頼家~実朝~政子の時代
朝廷→征夷大将軍(尼御代)→(執権&大江広元)
泰時~時頼の時代
朝廷→征夷大将軍→執権&評定衆
貞時以降の時代
>>289
というのが通説と言ったところか
291:日本@名無史さん
10/11/04 19:15:30
現在ではほとんど見向きもされない曽我兄弟であるが、その異父姉らしき人物は二宮朝忠と結婚している。かの二宮尊徳の先祖である、という話は特に聞かない。
さて、曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討たんと富士へ向かう途中に、ばったりとこの義兄に出くわした
曽我十郎(兄)「義兄上に今回の目的を打ち明けたら、仲間になってくれるだろうか?」
曽我五郎(弟)「義兄なんて血縁もない他人だし、俺たちのような落ちぶれた人間の仲間に加わらないだろう。挨拶だけにしておこう」
そこで二人が軽く挨拶したところ
朝忠「どこへいくのだ?」
十郎「鎌倉殿の巻狩りを見て、末代までの語り草にしようと思いまして」
朝忠「やめておけ。そんな馬や恰好で行ったら恥をかくだけだぞ。俺もろくなものを揃えられなかったんで、風邪と言うことにして行かないことにしたよ
お前たちも俺のところへ来て、遊んで行け」
十郎「でも、せっかくだから行ってきます。帰りにはよりますから、御馳走してください」
これがこの義兄との今生の別れとなり当然、曽我兄弟の異父姉とも再会することはなかった。夫から、異父弟たちが帰りによると言っていたことを聞いたかどうかは
わからないが、事件の後で母とともに弟たちの死に泣き伏した。この姉は、後に曽我兄弟を弔うために寺を建立したという。
現在も二宮町にある知足寺であり、曽我兄弟と二宮夫妻のものと伝わる墓が並んでいる。
292:日本@名無史さん
10/11/05 17:20:47
元はといえば祐経の叔父かなんかが元凶じゃなかったっけ
祐経だけ悪者のように扱われて可哀想だよね。
293:日本@名無史さん
10/11/05 19:41:16
曾我兄弟の仇討ちって真の目的は頼朝暗殺とか言うよね
294:日本@名無史さん
10/11/05 19:59:20
北条による暗殺未遂事件
295:日本@名無史さん
10/11/05 20:08:59
俣野氏誰か語って!
296:日本@名無史さん
10/11/05 22:23:26
そのへんは推測しか出来ないよなあ
範頼は関わってただろうけど
297:日本@名無史さん
10/11/06 01:14:55
wikipediaの記述だと
>>祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。
>>押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
祐経カワイソス
298:日本@名無史さん
10/11/06 07:55:57
ネトラレっすか
299:日本@名無史さん
10/11/06 22:32:00
曾我兄弟の仇討ち、なんで昔はすっごい人気あったんだろう?
そして何故現代ではここまでマイナーになってしまったのか・・・
300:日本@名無史さん
10/11/06 23:44:19
大庭・岡崎による頼朝と北条の排除とも言われている。
この事件の後、なぜか大庭景義と岡崎義実の二人が出家し、源範頼は
粛清されてしまう。
301:日本@名無史さん
10/11/07 00:59:20
祐経の叔父からの因縁を見るにつれて
どうにもスカっとした仇討ちものにはならないよね。
領地押領、嫁略奪までされて、あの時代殺そうと思わないほうがおかしい。
明治期の文学者がテーマにしようとも思わなかったので廃れたんだろう。
302:日本@名無史さん
10/11/07 02:50:05
>>299
端的に言えば工藤兄弟のはごく私的な仇討であり、近代に入ってから仇討が禁止され、
その心情が徐々に理解されなくなったことが大きいのだろうな。
一方で忠臣蔵は主君や公、組織に対する「忠誠心」の話であり、
これは近代国家においても賞賛された徳目であって、容易に受け入れられたということがあるのだろう。
303:日本@名無史さん
10/11/07 03:36:30
いったんは祐経に諭されているのに仇討ちを諦めなかったというのが
イカにもDQN臭いし。
304:日本@名無史さん
10/11/07 08:01:51
もともとは嫡流だったはずの伊東祐親の父が早死にしたため、祖父が後妻の連れ子であった工藤祐継に本領を与えたことを不満に思ってた祐親が、工藤から
奪い返したことを考えたら、祐親も一方的に悪人にされるのは不本意だろうし。殺された河津祐泰(曾我兄弟の父)は、どう考えてもとばっちりだが
305:日本@名無史さん
10/11/07 20:19:46
あれ、とばっちりなの?
親子共々って感じじゃないの?
306:日本@名無史さん
10/11/08 02:51:33
URLリンク(ja.wikipedia.org)
307:日本@名無史さん
10/11/08 16:54:40
地元の行田市駒方 真言宗 遍照院の話
仁安元年(1166年)の春の事
平泉の城主である鎮府将軍 藤原秀衡は目の病に罹り少しも見えなくなってしまった。
色々な薬を試してみたが全く効果が無かった。
この事を聞いた南部の城主 盛岡信濃守は同国の三戸崎美濃次郎、出羽の城主 山形帯刀と相謀り、
盲目になった秀衡を幸とし、この虚に乗じて一戦交え、秀衡を亡き者にし奥州を手に取ろう
と軍勢を催したのである。
これを聞いた高館次郎は急いで秀衡に注進する。
秀衡は直ちに息子三人に命じて衣川の関に防戦を命じた。
一方、秀衡は守り本尊である信夫郷の薬師如来に心眼を立て、17日間の断食を成し、
心を込めて祈っていた。
すると、満願の日、目の病が治ったのである。
この事に秀衡の喜びは譬えるものなく勇みに勇んで衣川の関に至り、
南部の大敵を追い散らし大勝を得たのである。
そして、この天恵に秀衡は御禮として御堂を建立を思い立っていた。
308:日本@名無史さん
10/11/08 16:55:44
続き
時に仁安二年4月8日
丁度その日、秀衡は暁の御夢に如来からお告げを聞いた。
それは辰巳の方角に当たって、鎌倉街道の郷に有縁の地があるからその地へ祀れとの事であった。
すぐさま薬師如来を御輿に乗せ奉り秀衡が寵愛する牛に引かせ、
家臣の栗原五郎秀時に命じて御供させた。
旅の日を重ねて8月8日、忍の郷(現・行田市)の遍照院に着いた。
不思議なことに御輿を引いてきた牛が突然ぽっくり死んでしまったのだ。
またその夜、お供の栗原五郎と住職の圓慶は夢で
「この地こそ有縁の地である」というお告げを聞き、またその夢が両人とも同じである事に驚いた。
定めて御心に叶う場所に違いないと薬師の尊像をこの寺に安置し、
死んだ牛は南隅に埋め、印として若松を植えた。(秀衡松)
栗原五郎は国に帰りこの話を秀衡に言上した。
秀衡は大いに喜び本堂、庫裏、鎮棲、仁王門、大塔、山門と建て連ねたのであった。
309:日本@名無史さん
10/11/08 16:56:43
時代が進んで謙信が攻めて来たときに寺院は燃やされるが尊像は無事。
そして徳川から二十五石を賜り寛政5年に再建、現在に至る。
秀衡が持ってきた行基作とある木造薬師如来坐像は今もご健在
また、秀衡松と言われている若松も臨済宗大蔵寺(すぐ隣)でご健在
けどこの話を裏付ける明確な資料は無いんだけどね
それと下げるの忘れてすまん
310:添削くん
10/11/09 23:32:53
>>267
>最初は、「義信」
ちゃうちゃう。「義宣」(読みはヨシノブ)
>と名乗るつもりだったが、
ちゃうちゃう。実際に名乗ったのだよ。その後「義教」に改名。
余談だが彼の玄孫義昭は還俗後「義秋」と名乗ったが、
やはり縁起が宜しくないとかいう理由で改名。
秋の次は冬、っていう斜陽イメージ(?)が忌まれたのだろうか。
311:添削くん
10/11/09 23:34:47
ちなみに「義秋」さんからへんきを賜ったと思しき三淵秋豪は
非業の最期を遂げている。
312:日本@名無史さん
10/11/10 00:14:28
小早川秀秋・・・
まあ関係ないけどなw
313:日本@名無史さん
10/11/10 10:44:15
>>307
盛岡って江戸時代に入ってから成立した地名だと思ってたから、
「盛岡氏」というのがいたということにびっくりした。ありがとう。
大小を問わず、お寺や神社にある解説って
思わぬローカル情報を知ることができて面白いよね。
314:日本@名無史さん
10/11/10 11:16:10
>>313
福岡市や広島市は、黒田や福島が名付けた城下町
315:日本@名無史さん
10/11/10 11:51:33
>>314
広島は毛利輝元がつけた名前だ
316:日本@名無史さん
10/11/10 13:10:52
>>315
そうか、、
317:1/2
10/11/10 15:52:22
この話こっちの方がいいな、と思ったので転載
590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 03:32:13 ID:/HHeI23s
上杉禅秀の乱、始末記
応永二十三年(1416)、
先の関東管領、上杉禅秀による、鎌倉公方足利持氏襲撃により始まった、上杉禅秀の乱。
この関東での騒乱は、京にも大きな動揺を与えた。この乱に対し、禅秀討伐の方針が決まると、
将軍義持の弟、義嗣が逐電。高尾の神護寺にて出家するという事件が起こった。
一旦は帰宅を許されるも、その後義嗣は仁和寺に拘束。
将軍義持は近習、富樫満成らにこの事件の捜査を命じた。
捜査はいきなり大きな壁にぶつかる。管領の細川満元や畠山満家ら、有力大名による妨害が
行われたのだ。「今は禅秀の討伐が大切なのだ。こんな事件の究明は無益だ。」
しかし満成はひるまない。捜査を続けるうち、ついに、義嗣の近習から、
義嗣に対し細川満元、斯波義教、赤松義則らが「与力」している、という証言を引き出した。
前将軍足利義満に愛され、一時は義持に変わり将軍を継ぐとまで噂された、義嗣。
彼は前々からその「野心」を噂されていた。
その義嗣と、義持に敵対心を露にしていた足利持氏との繋がり。
逆に義持と上杉禅秀との繋がり。
義持派と反義持派の間で揺れる有力諸侯たち。
関東の乱に連動した、義嗣を中心とした京での陰謀…
事件は、その裏にある複雑な様相を除かせはじめていた。
318:日本@名無史さん
10/11/10 15:54:00
応永二十五年(1418)正月、義持はついに、義嗣を殺害させる。
この事件はこれで幕引きされた、誰もがそう思った。
だが、富樫満成の追求はとまらない。
6月、義嗣の陰謀に加わったものとして、畠山満家の弟、満則、山名時熙、土岐康政らの
名前が上がった。大規模な疑獄の全容が、暴かれようとしていた。
幕府は、強烈な緊張化に置かれた…、
ここで、この事件は急展開を迎える。
11月、将軍義持の下に、富樫満成こそがこの事件の黒幕である。そう言う直訴があった。
これに、義持は満成の逮捕を命じる。富樫満成は失脚したのだ。
満成は高野山に逃れるが、義持の命を受けた畠山満家の手のものに殺される。
こうして、この巨大な疑獄事件は幕を閉じた。
おそらく義持と畠山満家との間に、「手打ち」があったのだろう。幕府の動揺も、これにて治まった。
富樫満成は幕政の安定のための、生贄にされたのだ。
「知りすぎた男」の、悲劇の物語。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
319:日本@名無史さん
10/11/10 18:38:07
>>313
盛岡市の盛岡は江戸時代初期につけられた地名。それ以前は不来方。
デタラメ寺伝なんて信じるな。
320:日本@名無史さん
10/11/10 22:40:51
>>318
それ通説ね。
反対意見も紹介しよう。
義嗣は禅秀に共闘を持ちかけたらしいが、
禅秀としては、あわよくば義持の支持を得られるかも知れないのに
義嗣と組むメリットは何もないので応じなかった。
しかし幕閣の面々は、義持が禅秀を支援したら
義持不支持→義嗣擁立というシナリオも考えていたらしい。
それを察知した義持は持氏支持の旗幟を明らかにし、
義嗣擁立は不発に終わった、という説もあるね。
321:日本@名無史さん
10/11/10 23:21:08
>>320
あまりにも複雑で当時の関東と京都の通信事情でそんな事が可能だとは到底思えないが
322:日本@名無史さん
10/11/11 20:04:58
>>313
行田史譚(1958)から引用で元は忍名所図会だが
筆者も疑っているから信用しない方が良い。
一様、新編武蔵風土記稿では合戦の部分は省かれており
当の遍照院も同じように合戦の部分を省いて紹介している。(風土記稿の方を引用?)
323:320
10/11/11 20:25:51
ごめんごめん。うろ覚えでいい加減なこと書いちゃった。
「関東謀叛彼亜相所為」という『看聞御記』の記述以来、
「彼亜相」(義嗣)と禅秀が通じていたと見るのが通説だけど、
禅秀としては、あわよくば義持の支持を得られるかも知れないのに
義嗣と組むメリットは何もない。
義嗣は寧ろ持氏との共闘を模索していた。
と指摘されたのが山家浩樹氏。
324:日本@名無史さん
10/11/11 20:31:09
>>323
仮説のための仮説としか言い用がないな。時代性を無視しているとしか見えない。
325:320
10/11/11 20:31:48
因みに『中古日本治乱記』には
義嗣は持氏に期待したのに、
あっさり禅秀に敗れたので「だめだこりゃ」(超現代語訳)ってことで
次には九州勢を利用しようと構想したとある。
まぁ、信頼性の程はあれなんだが。。
326:日本@名無史さん
10/11/13 00:32:08
富樫満成って義持の側室に手を出したのがバレて消されたんじゃなかったっけ?w
それも俗説か
327:日本@名無史さん
10/11/14 13:29:54
>>464
以前、八王子城から北高尾縦走して終点を高尾山にしたが、
大きめのザックとトレッキングポールが浮いてて恥ずかしかった・・・
それ以来、高尾山口を出発地点にすることにした。
328:日本@名無史さん
10/11/14 17:32:50
うむ。327の恥ずかしさ、嫌というほど伝わってくるぞ。
329:日本@名無しさん
10/11/16 15:54:20
>>261
公家っぽいと言われても、アレが正装なんだし。
平氏(平家)は初めから公家。
330:日本@名無史さん
10/11/16 18:09:45
殿上人になったのは、忠盛が最初じゃなかった?
331:日本@名無史さん
10/11/17 18:52:36
江戸時代、河内と大和の境にある金剛山のあたりに、『南北(なぎ)の明神』と号する社があった。
その社の主神は楠木正成であり、左右には孫氏、呉氏が祀られていた。
これはかつて楠木正成が常に
「我が天下に武功を立る事は孫呉のおかげである」
と言っていたことから、このような形で社が作られたのだという。
楠木正成を祀った南北明神についてのお話。
332:日本@名無史さん
10/11/17 18:55:08
331に追加
この南北明神は「南木神社」として、いまも金剛山の麓、千早赤阪村に
鎮座されている。
URLリンク(minkara.carview.co.jp)
333:日本@名無史さん
10/11/21 14:12:26
貞方をば、門前に引すへ、千葉介して謀叛の子細を尋らる。一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。
我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」と、たりふし申されければ、千葉介、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」
と申されしかども、鎌倉殿、「朝敵の最なり。とう<きれ。」との給へば、千葉介、此上は力及ばずとてたゝれけり。
やがて七里ヶ浜にして、すでに敷皮のうへに引居たれども、おもひもきらず、「あはれ、千葉介は身内とこそきゝつるに、などや貞方をば申助給はぬやらん。」とて、
起ぬふしぬなげきて、もだへこがれ給へば、幡谷刑部少輔切手にてありしが、太刀のあてどもおぼえねば、をさへて掻頸にぞしてける。見ぐるしかりし有様なり。
大の男の肥え太りたるが、首は取られて、むくろのうつぶさまに伏したる上に、すなご蹴かけられて、折ふし村雨の降りかかりたれば、背みぞにたまれる水、血まじりて紅を流せり。目も当てられぬ有様なり。
334:日本@名無史さん
10/11/21 21:16:23
?
335:日本@名無史さん
10/11/22 10:06:09
これ戦国板にも貼ってあったが....。
336:日本@名無史さん
10/11/22 12:20:33
つまりどういうことなんだ
337:日本@名無史さん
10/11/22 21:34:08
新田貞方が関東の旧南朝方勢力に決起を促すも露見して、千葉兼胤に捉えられてからの顛末。
貞方は親戚筋の千葉兼胤に助命を願い、兼胤も一応は鎌倉公方の足利満兼に一応は取り成してみるも鎌倉公方の意向は処刑。
結局、祖父・新田義貞ゆかりの七里ガ浜で斬首されることとなったのだけど、
「千葉兼胤は親戚のはずなのに、どうして俺を助けてくれないんだ。」
と醜態をさらしたので、首切り役の幡谷刑部少輔は押さえつけて首を掻き切った。
太っていた貞方の首を取られた遺体には、(おそらく最期の醜態への侮蔑として)砂が蹴りかけられており、雨で周辺に血が流れて目も当てられない様子であった。
新田貞方斬首のグロい光景の描写ですね。
338:日本@名無史さん
10/11/23 11:18:10
>>337
俺様のご先祖を馬鹿にするとは!
339:日本@名無史さん
10/11/23 11:24:26
>一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。
>我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」
現代の政治家答弁にも通じる、何と言う見苦しい言い訳w
ってか言い訳にすらなってないw
>「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」
「こんなバカ、生かしても意味ねーからぶっ殺しちまえ」という意味か。
酷過ぎだが、千葉介に同意w
340:日本@名無史さん
10/11/23 23:27:46
>>339
文脈的にたぶん逆の意味。
>千葉介、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」と申されしかども、
千葉介(兼胤)は「あれほど出来の悪いやつ、助けてやってもどうってことない(から殺さなくていいんじゃね?)。」と申し上げたけれど、
>鎌倉殿、「朝敵の最なり。とう<きれ。」との給へば、
鎌倉公方は「あいつは朝敵の極みだぞ、早く斬ってしまえ。」とおっしゃったので、
>千葉介、此上は力及ばずとてたゝれけり。
千葉介はこれ以上は無理と判断して立たれた。
となる。
助命しようとする理由も酷いけどねw
助ける気あんまりないけど、親戚筋だから形だけでも助命のお願いしとかないと体裁悪いからしてみました、って印象を受けた。
341:日本@名無史さん
10/11/24 01:24:13
千葉氏は敵である新田義貞の娘を正妻としていたんだな
342:日本@名無史さん
10/11/27 15:40:19
これあの人の最後の改造版だ
343:日本@名無史さん
10/11/27 16:21:00
平宗盛?
344:日本@名無史さん
10/11/27 21:45:05
だって下総千葉氏は元南朝方だもん。
北朝は九州千葉氏
貞胤は金沢氏の婿だったのに逃げてきた金沢一族を虐殺してる。
かっては上総一族の生き残りも始末したし
新田も捕虜にした娘を犯したのかもしれない
345:日本@名無史さん
10/11/27 22:32:40
この時代、王朝文学がちょっぴり復活したから好き。
346:日本@名無史さん
10/12/01 00:30:09
ふむ
347:日本@名無史さん
10/12/01 08:09:26
千葉氏の北斗信仰、、独特?
348:日本@名無史さん
10/12/01 09:12:26
妙見信仰=北斗信仰だから特に珍しくはないかと
349:日本@名無史さん
10/12/03 10:48:39
_,---、__
/´´ ヽ ヽ `ヽ
_ィィ--イ`Y _/ ___| | `i
_//二`ヽ \ノ 〉、\___r'__|__|_ ,!、 かまくらケーキ!
_//─ヽ ,| | `ヽ イ=、__ ,",,_、= ヽ ノ|
|_==, ___,ィ´ ,,| (、 || ´゚` } {' ゚` |. ..| おいしいでござる。
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../-イ /ヘ、 / ヽ\ ノ、 ,,||,E l'___||__}l::ll .|| |
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/ ',. |xx >、__> - ィ ノ / /
/ ヘ. |x/ ./ ヽ--イ >''´.イ
|ヽ、_ Y . // ``──''""´´///
350:日本@名無史さん
10/12/03 16:39:46
伊豆で、源頼朝が平家打倒の兵を挙げたころ、遠く西国伊予で、
河野通清・通信父子が呼応するかのごとく、反平家の兵を挙げた。
が、なにしろ、瀬戸内一帯は親平家の豪族ばかりである。
たちまち、平家方の奴可入道西寂に居城を攻められ、河野通清は討ち死。
その時、城にいなかった、通信は母の実家(備後沼田)に逃れ、復讐の機をうかがう。
西寂が波方(沼田の対岸)に来たことを聞いた通信は漁民に変装し、西寂の宴に侵入、
酔っていた西寂を捕らえ、父通清の墓前に引き立てる。
父の墓前にて復讐を果たそうとしたのだが、なにしろ、西寂は酔っている、
トイレが近い。
我慢ならんとばかり、通清の墓に小便を。
父の墓前で、といらん演出をしたばかりに、父の墓に小便をかかえられたという、
河野通信のバツの悪い話。
351:日本@名無史さん
10/12/04 08:16:12
そんな逸話が21世紀の世まで残ってるなんて…
当時はよっぽど馬鹿にされたんだろうな
352:日本@名無史さん
10/12/04 10:12:48
この後で、鋸を使って西寂の首を切ったという話もあるようだが本当なら、それが原因で怒り心頭だったのかもな
353:日本@名無史さん
10/12/04 11:20:03
>河野通信
つう…しん…
354:日本@名無史さん
10/12/04 13:46:21
その読み方も間違いじゃないよね
355:日本@名無史さん
10/12/04 15:28:08
まあもしかしたら、銀行とか鉄道とかそんな感じの名前の人もいたかもね
356:日本@名無史さん
10/12/05 00:00:18
浜村通信がまっさきに思い浮かんでしまった
357:日本@名無史さん
10/12/12 01:27:56
保守
358:日本@名無史さん
10/12/12 01:52:15
何だか最近勢いなくなっちゃったね
初期の逸話を読むのが追いつかないほどの活気はどこ行った?
山野氏カムバックプリーズ!
359:日本@名無史さん
10/12/12 23:53:26
ものぐさ太郎
360:日本@名無史さん
10/12/13 00:01:03
規制にひっかかっているとか
361:日本@名無史さん
10/12/13 01:47:19
>>147
直火はだめだってw
>>150
子供って好きだよねw
うちの子も、子のつれてくる友達もみんなおいしいってってるわw
362:日本@名無史さん
10/12/13 01:52:38
ひどい誤爆だw
363:日本@名無史さん
10/12/13 01:55:45
いいママだなぁw
364:日本@名無史さん
10/12/14 01:25:08
楠木正行が安倍川沿いで足利軍と戦った時の事
足利軍一万は安倍川沿いに楠木軍を求めて連日、行軍していた
その日は朝からみぞれが降り、強い風も出てきて、足利軍の足並みは乱れがちとなった。
敵はどこから攻めてくるかわからない。先をいく兵士たちはぬかるむ川沿いを用心深く進むが、後続は多少の気楽さもあり急かしながら進んでいた。
足利軍の将である山名時氏や細川顕氏らは
「隊列を乱すな!敵はどこから攻めてくるかわからんのだ」
と兵を叱咤するが効果がない。と思った時だった。川向こうの林に人が動くのが見えた
「敵だ!」
隊列の中央の誰かが言ったとき、先をいく一隊は足元ばかりを見て行軍していた為に大混乱となった
そこに正行率いる楠木軍精鋭一千が川の上手から斬り込んだからたまらない
その地に暗い足利軍は、算を乱して逃げ場を求め、川の下手の渡辺橋を渡り始めた
すると突然、橋桁が崩れた。楠木軍が崩れるように仕掛けをしておいたのだ
川の中に落ちていった鎧武者たちは武具を付けていて泳ぐことも出来ない。中には川底に沈む者もいた。足利軍の大敗北である。
これを見て楠木軍は手をうって喜び、足利軍の不様ぶりを囃し立てた
暫くしてその様子を眺めていた正行が馬を飛ばして渡辺橋まできた。そして家臣に言った。
「味方が溺れかかっているぞ。みなで力を合わせて救うのだ!」
楠木軍の兵たちは怪訝な顔をして正行を見た、その顔には
(川で溺れているのは敵の兵たちではありませんか)
と書いてあった。実際、そう口にする者もいた。これに正行は言った。
「我々に刃向かわない者が、どうして敵なのだ」
「者ども早く救え」
正行の強い言葉にハッとなっあ楠木軍は、腕を伸ばし木を差し出して溺れかける足利軍の兵を次々と助けた。
助けられた兵たちの多くは、次の戦いでは楠木軍に参加したという
365:日本@名無史さん
10/12/14 03:09:41
これはちょっといい話なのか悪い話なのか?判断に迷うなw
366:日本@名無史さん
10/12/14 04:29:49
ヨーロッパっぽい話だな。
出典は何? 読んでみたい。
367:日本@名無史さん
10/12/14 07:58:39
>>366
忠臣小楠公物語
368:日本@名無史さん
10/12/14 19:37:30
>助けられた兵たちの多くは、次の戦いでは楠木軍に参加したという
ねーよw
369:日本@名無史さん
10/12/23 00:42:24
ふー、
370:日本@名無史さん
10/12/26 23:40:58
>>368
武将がほいほい寝返る時代だからなw
371:日本@名無史さん
11/01/02 03:39:55
あけおめい
372:日本@名無史さん
11/01/05 02:59:03
ことよろう
373:日本@名無史さん
11/01/13 00:38:46
動かないなぁ
374:日本@名無史さん
11/01/13 03:52:21
いまはもう動かない阿蘇惟直
375:日本@名無史さん
11/01/14 01:38:37
北条義時の色恋話
北条義時、そう!鎌倉幕府2代目執権にて超冷徹な官僚としても有名だった男である。
が、彼があるとき大変なことになっていた・・・・・・・
義時「ハァ~・・・・・・・」
同僚「?どうされました?」
義時「あ・・・いや、何でもござらぬ。はぁ~」
おかしい、仕事に手が着いていないのである。
で、そのころ鎌倉殿の女中陣はと言うと、超美人で有名な姫の前が・・・
姫の前「義時様から・・・・『恋文』が、この前は歌でしたが・・・」
女中仲間「それで、お返事は?」
姫の前「断りの返事を書きました。迷惑なのです!」
どうも義時さん、この頃ストーカー化していたらしいのです。
しかも・・・・・
義時「あぁ・・・姫の前殿のがちらついて・・・仕事ができん!」
恋患いの方向で・・・・
376:日本@名無史さん
11/01/14 01:54:10
義時の色恋話その2
さて、義時がこの調子では同僚を通じて話が行くべき所に行ったのか?それとも
もしかしたら女中の皆さんの方向から、別の意味で行ってはいけないところ、つまり
天下最凶のお姉さまのところを経由してお姉さまの亭主の所に行ったか?
鎌倉殿「義時が恋患い?仕方ないなぁ、義時を呼んでこい!」
こうして、鎌倉殿のところにでてきた義時は面前に起請文がおかれ、
鎌倉殿「この
『姫の前の嫁にした暁には絶対に離婚しません』と言う起請文
にサインしろ、そうすれば俺が結婚の口を利いてやる。
相手は比企一族の娘だから北条家的にも悪くはないだろう。」
義時「サインします!喜んでサインします!」
こうして、『離婚しません』と誓った上で結婚することが出来た義時君であった。
こんな、当時の常識では考えられないある意味恥ずかしい『義時の恋患い』を
キッチリ記録に遺す吾妻鏡も大概だが・・・・・・・
しかし!
比企の乱のときに、義時君、姫の前と離婚したらしいんですよ。
所詮紙っぺらですか、起請文なんて。
377:日本@名無史さん
11/01/14 01:56:58
かわいいw
けどストーカーって言葉が普及したのここ15年くらいか?
それまでは愛の形として認められてたのかな。
378:日本@名無史さん
11/01/14 12:33:44
甲斐源氏の有力者、安田義資。
幕府に仕える女官に恋をした。
それで恋文を出したんだが、それを見つけた梶原景時。
「今は鎌倉殿の母上の法事時期。こんな時期にこんなものを出すとは、風紀を乱した。けしからん」と
安田義資は死罪。
そして>>375>>376の事件が起こる。
それを聞いておさまらないのは、父親の安田義定。
「うちの息子は、死罪なのに、なぜ義時はいいんじゃ!納得いかん(以下 略 」と
こぼした。
それを聞いた梶原景時。
「安田義定に謀反の疑いあり」と告発。
たちまち幕府の大軍が安田義定の屋敷を取り囲み、安田義定は自刃。
リストラ候補者は、くしゃみひとつでも理由になるという教訓
ちなみに安田義定の甥の一条忠頼は、「態度がデカイ・生意気」というだけの理由で
粛清されている。
379:日本@名無史さん
11/01/14 18:41:10
>>377
どうも義時さん、恋文をたくさん出したようです。
しかも、吾妻鏡には恋患いが原因で仕事が手に付かなかったと記録されているようです。
いくら正直な吾妻鏡担当の記録係が揃っていたとは言え、何もそこまで書かなくても、
もう少し考えてやれよと思うのですが・・・・
380:日本@名無史さん
11/01/18 00:18:55
>>376
姫の前は朝時、重時の母親なんだよね。で、義時と離縁後に
京都の公家の妻になっていたはず
>>378
甲斐源氏の場合、大きな勢力を持ちながら頼朝の家人という意識が希薄だったみたいだし、
そういうあたりが頼朝に警戒されたみたいだね。
381:日本@名無史さん
11/01/19 19:44:04
鎌倉式懲罰とは
懲罰、武士でコレを喰らえば切腹、出家、隠居、押し込め、領地没収、叱責などがある。
そんな鎌倉のある日、平家も滅亡した直後のことである。壇ノ浦の戦いを含めた戦後処理で
忙しい頃のことである。
夜須さんと言う御家人が幕府ににやって来て言うことには、
夜須「壇ノ浦での私の戦果に関する恩賞が何もありません。どうなりましたか?」
どうも夜須さんの戦功に関する音沙汰が無かったようである。鎌倉殿はそれを聞き、
壇ノ浦の戦いに出した梶原景時に聞いてみた。
景時「夜須?そんな御家人知りません。いませんでしたよ。」
夜須「ウソつけゴルァ!」
どうも景時さん「シラネ」と報告してしまったので、夜須さんと裁判になりまして、
最終的に「夜須さんは壇ノ浦の戦いに参加して手柄を立てた」と言うことが証明された。
こうなると景時さんに「懲罰発生」となる。とうとう正式な懲罰が決定した。
頼朝「梶原景時くん、罰として鎌倉中の道を作り、街を整備しなさい。」
こうして罰として道路工事を命じられた梶原景時さんは、若宮大路を始めとする
今に続く鎌倉市の道路を建設するハメになったとさ。何故わかるか?それは、
吾妻鏡にしっかり記録されているからだ!
というわけで、鎌倉市の道路整備関係者と土建屋は梶原景時さんに感謝するように。
382:日本@名無史さん
11/01/19 21:40:27
これ罰なのか?
全部景時の私財を投入してやれってのなら結構大変な罰だけど
一介の御家人が鎌倉の道路を建設するほどの財力持ってたらそれもそれで問題になりそうだが
しかし景時ってやけに頼朝から重用されたよね
畠山重忠とか小山朝光とかにもこんなことしてた
そりゃ、頼朝が死んだあと殺されるわ
383:日本@名無史さん
11/01/19 22:19:43
北条高時。
鎌倉幕府執権にして実力者。そして最後の得宗家当主である。
そして、田楽、闘犬が好きだった男である
ある時その高時が酒を飲んで踊り始めた。
ところが踊り始めるとどこからか田楽法師がたくさんでてきて
歌い始めた。
「天王寺の や 妖霊星を見ばや」
謡の内容といい、田楽法師達といい、不思議なこともある物だと家臣が覗くと
そこには、嘴の生えた者、獣の化けた者が高時を中心にして田楽を踊っているではないか。
驚いて踏み込んでみたところそれらの物の怪は、すでに姿を消し、あとには動物の足跡と
酔ってその時の記憶がない高時がいたという。
後に家臣が学者に聞いてみたところ、天王寺には聖徳太子の書いた予言書があり、
天下大乱が起きるとき「妖霊星」が現れると言う答えが返ってきた。
後醍醐天皇の討幕運動直前のことである。
384:日本@名無史さん
11/01/19 22:34:01
未来記は面白いよな~
385:日本@名無史さん
11/01/19 23:49:44
>>382
やっぱ、石橋山で、飯田家義とともに、頼朝をこつそり救ったという、、
386:日本@名無史さん
11/01/21 00:20:37
>>382
当然私財を投じてだよ。
ただ種明かしをすれば、景時は地元鎌倉の有力者だから、遠くから家来や労働者を
連れてくるよりは大変じゃなかった。
387:日本@名無史さん
11/01/21 01:30:30
>>386
鎌倉党です。
上杉謙信を生んだのも鎌倉党。
鎌倉幕府は、鎌倉党、三浦党の
中に、伊豆の似非平氏が乗っ取りにきたのです。
388:日本@名無史さん
11/01/21 23:25:01
>>386
もっといえば、村長さんの寄り合い所帯の鎌倉幕府の中で
行政というものと和歌漢籍などの教養を理解出来るのが
景時と阿野全成しかいなかったという悲しい現実がある。
全成は前職の三井寺のお坊さんとしても出世していたらしいし。
389:日本@名無史さん
11/01/22 00:52:19
幕末ものより吾妻鏡のほうが、よっぽど現代人の教訓になりそうだ。
390:日本@名無史さん
11/01/22 07:54:23
>>388
地味な弟だけど、戦場に出すよりも有効な使い道がある貴重な身内だったんだな>全成
391:日本@名無史さん
11/01/22 08:55:21
>>388
大江広元さんは?
392:日本@名無史さん
11/01/22 17:08:14
鎌倉時代のこと
その当時の鎌倉執権より青砥左衛門(あの落とした銭を大金を使って探しだした逸話で
有名な御家人である)に、
「夢に、『左衛門の忠誠に対し加増すべき!』との神示があった故、加増申し渡す」
との命があったが、左衛門はこれを即座に断った。
これには加増を伝えに来た使者
「いかなる理由があっても、加増褒賞あるべき事を断るというのは愚昧かつ非礼ではないか!」
と、批判したが、左衛門答えて
「武辺、その他手柄があった上での加増であればありがたい事である、だが夢のお告げをもって
加増を給わることがあれば、今後仮に『青砥左衛門の頚を刎ねるべし』と夢のお告げがあれば、
頚を刎ねられねばならぬ。」
と、遂にこの加増を受けなかったという。
393:日本@名無史さん
11/01/23 09:55:01
この逸話、どっかで聞いた事があるような....。
394:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
11/01/23 11:02:32
>>391
三善や二階堂(藤原南家)や伊賀(秀郷流)もそうですね。
二階堂は『吾妻鏡』でも武士ではなく、文士として寓された例がある。
室町から微妙に外れるので、このついでに書いておきますか。
天正10年6月2日の早朝のことである。
その日、本能寺に桂川の鮎を届けに来た者がいたが、そのついでに妙なこと
を伝えてきた。
明智日向守が、丹波から兵を引き連れてきたが、道すがら京へ向かう者は切
り殺しているというのである。
近習もこの話を聞いて不審がったが、前夜信長は囲碁と将棋を楽しんで夜半
まで起きており、起こすことがためらわれたので、夜が明けたら何事か分か
るであろうということで、済ませてしまった。
翌朝訪れた運命は、言うまでもない。
395:日本@名無史さん
11/01/24 00:16:59
>>394
天正の話なら戦国ちょっと悪い話の方に投下していいと思います
396:日本@名無史さん
11/01/24 16:28:48
ふむ
397:日本@名無史さん
11/01/25 20:39:39
江戸中期ころのこと。
医師が同僚を引き連れ薬草取に出たとき、新田大明神という新田義興の墓のある場所(今の
大田区矢口町の新田神社)で、召し連れていた小僧が草を取ったが、その時同伴の者たちが
それを止めさせるような事もしなかった。
宿舎に帰ると、その小僧が突然奇怪なことを言い出した
『我が住む所の草を取れることに憎さよ!』
このように罵り叫ぶ。一同大いに驚き、その場所でとった草をすべて元の場所に戻すと、
小僧はすぐに元に戻った。
英雄の怒気は凝然(留まって動かないこと)するというから、後世このように神異を
起こすこともあるのだろうと、当時の評判であった(耳袋)
珍しい(?)新田義興の神異譚
398:日本@名無史さん
11/01/26 00:23:34
>>397
新田義興の怨霊噺は、江戸時代には非常にメジャー。
近松門左衛門の心霊矢切の渡しなんかで庶民はみんな知っていた。
399:日本@名無史さん
11/01/26 14:05:55
源頼朝の富士大巻狩の時、彼の嫡子頼家は12歳にして初めて鹿を射た。
これに頼朝は大いに喜び、梶原景高(景時次男)を使いとして御台所、北条政子に
その事を伝えた。
これを聞いた政子は、しかし少しも喜ばず
「武家の嫡男が狩場において鹿や鳥を得るなどというのは、そのように緊急に報告するほどの
珍しいことではないでしょう?」
これに使者は面目を失って退出した、という。
400:日本@名無史さん
11/01/26 14:15:35
八幡太郎義家の教えに、「武家の五つの道」というものがあった。
一には、究途(道を極めること)を知る
二には、卑賤をわきまえよ
三には、道理を先立てよ
四には、国土を知れ
五には、掟を違えず
以上五つを武家の守るべき道である、としていたと言う。
401:日本@名無史さん
11/01/26 18:15:18
>>398
曾我物語と同じく、太平記の後半エピソードって現代では忘れ去られてるわな
402:日本@名無史さん
11/01/26 19:41:45
母の愛とは?
源平の合戦が終わったとは言え、鎌倉の権力基盤がまだ固まりきれていないとき、
源義経と源行家がつるんで頼朝に対して反旗を翻した。
もちろん失敗したので、今度は京都に北条時政が乗り込んで、関係者の尋問を始めた。
当然義経の母親の常磐御前は尋問の筆頭である。当然呼び出されたのだが、
何と常磐御前、息子をかばうどころか義経の事について
素直にぺらぺらしゃべってしまったという。それも余計なことまで。
この人母親としての自覚がなかったんじゃないだろうか?
それでも生きながらえたのは、婚家の一条家のおかげか?
それとも、北条時政の娘婿2号機(1号機は頼朝)にして
鎌倉幕府の官僚になっていた息子の阿野全成(今若丸)のおかげか?
まさか北条時政が娘婿2号機のために尋問に手心を加えたんじゃ無かろうな?
403:日本@名無史さん
11/01/27 11:08:44
>>394
山野さん
戦国時代板に兄弟スレがあるので、
そちらもよろしくです
404:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
11/01/28 07:14:35
>>399
東国支配を示すための一大軍事イベントでの晴れ姿が重要であったのに、田
舎出の政子が意義を理解できなかったから、という解釈もありますね。
もっとも、『吾妻鏡』では政子が肯定的に描写されている様ですので、少な
くとも当時の編纂者は、そのまま美談として受け止めたらしい。
>>402
>素直にぺらぺらしゃべってしまったという。それも余計なことまで。
「母并妹等」を拘束して所在を問うたところ、石倉だと判明しただけという
記事が『玉葉』にありますが、これだけだと母が喋ったのかも分かりません
し、『吾妻鏡』での記事も、至って簡略なものです。
これだけで
>この人母親としての自覚がなかったんじゃないだろうか?
以下はあんまりな気が。私の見落としのせいかもしれませんが。
>>403
何しろ、既出か否かの確認がなかなか大変なものですから。
しかし、DQN四天王の島津の歌(いつはりもがな)の解釈は、あれでいい
のでしょうか。
405:山田廼案山子 ◆kMBuLEbO42
11/01/29 20:17:12
>東国支配を示すための一大軍事イベントでの晴れ姿が重要であったのに、田
>舎出の政子が意義を理解できなかったから、という解釈もありますね。
意義を理解できなかったとすれば、この件の三ヵ月後に盛大に祝われた政子の甥の扱いが謎になる件
北条泰時・経時は鹿を獲物とする矢口祭を行なっており、北条氏にとっても狩猟は重要な政治文化だった。
ところが、室町期には鳥を獲物とする矢開の故実が流布し、室町殿も雀を獲物として矢開を行なっている。
そうした鳥の故実は室町期に形成されたのではなく、北条得宗家において創始されていたと考えられ、
近世の故実書が引用する徳治二年(1307)の矢開の日記によれば、得宗家で雀の矢開が行なわれていた。
武家首長の矢開は中世に一貫してみられたが、その獲物は十三世紀後半以降、鹿から鳥へと変化していたのである。
武家首長の公家化という面だけでなく、武家文化の変容についても考えてみることが重要であろう。
この研究成果の一部は、2005年11月、「武家の狩猟と矢開の変化」と題して、史学会(東京大学)第103回大会日本史部会(中世)において発表されている。
406:日本@名無史さん
11/02/01 23:02:50
そうするのがよいですよね。
407:403
11/02/07 22:02:09
>>404
まとめブログに言って武将名と逸話に関する語句でサイト内検索すればOK
それでも既に出た逸話なら謝れば良いですw
408:日本@名無史さん
11/02/08 17:20:14
えびなむかしばなしより
鎌倉時代の初め、現在の神奈川県海老名市上今泉にある秋葉山中に
白雲という老人が、世を避け、人目を忍んで暮らしていた。
白雲は中国から帰化した人で毎年春秋の二期、大山丹沢の山波がくっきりと澄む天地晴明の日を選んで
胡服に着替え、故国の空に向かって一心に読経するのを行事としていた。
また、仲秋名月の夜には、わざわざ天壇を築き、同族の者たちの参加に老人は胸をはずませる。
いよいよその刻限になると五十人、時には百人もの人たちがどこからともなく風のように集まって来て、
かの天壇にひざまづき狂気のように読経をする。
そしてその果ては遠い故国をしのんでか、一同声を立てて泣き叫ぶのであった。
その声は辺りの森に陰にこもって空恐ろしくせい惨な雰囲気をかもし出すのであった。
やがてそれが静まったかと思うとこの人たちの群は霧のようにかき消えてしまうのだった。
正治二年(1200)のこと、かねてから白雲たちのこの行動を快く思っていなかったこの地の地頭は、
一族と村人を率いて白雲の草庵を急襲し彼を殺害してしまった。
そればかりでなく、白雲が守っていた墳墓を掘り返し、埋蔵されていた宝鏡、宝剣、神玉を取り出し私物化してしまったのである。
この宝鏡については「神鏡、景初年中(237~239)と伝ふ」(鷹倉社寺考)とあるから、
中国は魏の時代に製作されたものに違いあるまい。ひょっとするとかの有名な三角縁神獣鏡であったかも知れない。
この暴挙はたちまち幕府の知るところとなった。
国王の墓をあばき、その縁に当たる者を斬殺した罪は軽くないと、地頭とその一族は捕らえられて
鎌倉の刑場の露と消えた。
なお、これに加担した里人もことごとく滅ぼされる羽目となった。
この後、村人たちはその怨霊の報いを恐れて秋葉山中に足を踏み入れる者は一人もなかったという。
さらに後年これらの諸霊を慰めるため石の祠一つを建て、近くの寺の常泉院持ちとしたというが、
それらしいものは今日見当たらない。
409:日本@名無史さん
11/02/08 19:12:21
村人が幕府を恐れる理由はわかったが怨霊関係ねえ
410:日本@名無史さん
11/02/11 12:27:39
この時代はそういうのにまだぎりぎりリアリティがある
411:日本@名無史さん
11/02/11 16:03:27
宋どころか金も滅んでないのになんで東国に大陸人が?
412:日本@名無史さん
11/02/13 22:18:39
なんか風魔の小太郎っぽいな
413:日本@名無史さん
11/02/13 22:41:20
神奈川県海老名市というと地頭は海老名氏だな
414:日本@名無史さん
11/02/14 13:05:33
わかりやすいな
415:日本@名無史さん
11/02/14 16:51:44
wiki読んでみるとあの辺の出身ってだけで海老名市あたりの地頭に任命されたって事はないみたいだが
416:日本@名無史さん
11/02/14 17:54:44
鎌倉遺文16037 関東下知状案 東寺百合文書ミ
可令早源季直領知相模国下海老名郷内在家、并播磨国矢野庄
例名内浦分地頭職〈四至堺名字分限載譲状〉事、
右、任親父海老名四郎左衛門尉季景法師〈法名仏然、〉 文永元年八月
廿一日・今年九月廿一日譲状等、可令領掌之状、依仰下知如件、
弘安九年十一月廿三日
相模守平朝臣在判
陸奥守平朝臣在判
417:日本@名無史さん
11/02/14 17:54:54
ふむ
418:日本@名無史さん
11/02/16 04:42:07
えびなさんスレ?
419:日本@名無史さん
11/02/16 16:23:28
>>416
> 任親父海老名
wwwww
420:日本@名無史さん
11/02/16 22:27:26
>>419
?
421:日本@名無史さん
11/02/17 00:12:44
折角なので赤穂郡誌の海老名さんネタ。
頼朝の富士の裾野での狩りに従った海老名弾正。
その幾日目かの夜、弾正の夢に白狐が現れ、「明日の狩りではどうか私を射ないでほしい。
もし射るようなことがあれば、その時はお前を祟ってやるぞ!!」と告げた。
弾正は夢の中で「分かった」とうなずいたのだった。
そして翌日、やっぱり現れた白狐。毛並みも形も弾正の夢の通り。
頼朝は、この獲物に喜んだが、誰もそれを射ようとはしないではないか。
「あれを射るのだ!弾正!」
頼朝の命だが、昨夜の夢のこともあって、弾正は矢を放つのを躊躇していた。
その様子に激怒した頼朝!
「狐より先に、弾正を射殺してしまえ!!」と周囲の者達を恫喝し始めた。
こうなっては仕方ない・・・。
弾正は一矢で白狐を射殺。
頼朝は笑顔を浮かべ、「よくやった!褒美を取らせる!
備前のコジマか、那波(なば)のオオシマか、お前の望む方を与えよう。」
「小島と大島・・・。そりゃもちろん小島より大きい大島の方がいいだろ!」
そう考えて弾正は大島の方を望んだ。
こうして海老名氏は、広大で肥沃な備前の児島ではなく、
播磨国矢野荘(相生市)の湾奥に浮かぶちっぽけな島・大島を領することになったのである。
422:日本@名無史さん
11/02/17 02:11:00
なんだそのじわじわくる話w
423:日本@名無史さん
11/02/17 08:15:11
凄い微妙だが結構痛い呪いw
424:日本@名無史さん
11/02/17 09:33:11
というかその選択ミスは狐のせいなのか?w
425:日本@名無史さん
11/02/17 10:06:16
「ミノオワリ」を思い出した。頼朝なりのジョークなのか。
426:日本@名無史さん
11/02/17 17:11:58
つうか狐のほうも下っ端じゃなく頼朝の夢に出ろよって思うけどなw
427:日本@名無史さん
11/02/19 14:48:54
>>400
義家公の家訓とは珍しい。
出典を教えてください
428:日本@名無史さん
11/02/19 22:12:56.97
>>421
それは幕府を嫌っている人間が作った伝説だろう
429:日本@名無史さん
11/02/20 09:15:15.44
仮にそうだったとして何が狙いだったんだ。その幕府を嫌っている人間は。
430:日本@名無史さん
11/02/20 14:07:55.80
西国の百姓たちは、鎌倉時代に地頭になった鎌倉御家人の
荒々しい強権支配に苦しんでいたからね。
その恨みがこういう伝説を生んだんだよ。
431:日本@名無史さん
11/02/22 23:19:34.43
後世の人の、こんな小さな島に何でわざわざ関東から?
という思いが、話を膨らませたんじゃないかな。
ちなみに、赤松円心が狩りを行った際に海老名氏が狐を退治し、
その祝いとして大島城を賜ったという話もあるそうです。
その赤松円心にも、これまたぶっ飛んだ民話が伝わっているんですな。
432:日本@名無史さん
11/02/22 23:23:23.47
上郡町に河野原(こうのはら)という地区がある。
赤松地区に隣接し、最寄り駅は智頭急行「河野原円心」駅。
駅の近くには、赤松円心や、則祐らの木像が納められた「宝林寺」が建つ、そんな場所に伝わる民話。
今は昔、5月の穏やかな陽気の中、千種川に張り出した岩の上に腰掛け、
釣り糸を垂れながら、コックリコックリと船を漕いでいる男がいた。
稀代の謀将赤松円心、その人である。
しばらくまどろんでいた円心は、足の指に違和感を感じて目を覚ました。
小さな蛇が近付き、足の親指を舐めていたのだ。
円心は気にも留めずに釣りを再開したのだが、蛇は見る間に大きくなり、足の指全部を咥えてしまった。
さすがは円心、動じるどころか、「奇怪な事だ」とその様子を見ていると、蛇はさらに大きくなって、
今度は踵まで飲み込んでしまった。
さすがは円心、これでも動ぜずに様子を見ていたのだが、蛇はますます大きくなって、
脛、そして股までも飲み込んでしまった。
さすがの円心も、こうなってはもう許せない。
「ごーわく(業沸く)のぉ~~!!」とばかり、腰の刀を抜いて大蛇の頭に斬り付けると
大蛇は血を吹いて、左へグルグルと廻りながら水底に沈んでいった。
この時から、この渕だけ左渦が巻いて流れるようになり、
「左渦の腰掛岩の所には決して入るな」と言われるようになったという。
う~ん、どこから突っ込んでいいのやら・・・。
433:日本@名無史さん
11/02/23 13:05:05.05
凄いのか凄くないのかよくわからん蛇だ。
434:日本@名無史さん
11/02/27 15:06:53.24
>>431
海老名氏って矢野庄の地頭で、大島とかいう小さな島の地頭ではないでしょ?
435:日本@名無史さん
11/02/28 00:20:48.09
>>434
大島は居城ですね。
今は陸繋島になって、寺が建ってます。
海老名氏は赤松氏に従って白旗城篭城戦に参加してるけど、その際に大島城は落城。
戦国期には、大島城とわずか数段の田畑を龍野赤松氏に安堵してもらうまでに落ちぶれ、
江戸期には庄屋になってる。
436:日本@名無史さん
11/02/28 15:57:35.09
>>421は海老名氏の没落後に作られたのかな。
437:日本@名無史さん
11/03/01 00:23:48.98
>>421
頼朝を悪く言っているところが興味深い。
438:日本@名無史さん
11/03/01 18:50:57.11
諏訪神社下社の大祝・金刺盛澄は木曾義仲と縁が深かった為、頼朝に捕らえられ、
死刑を待つ身として梶原景時に預けられていた。
盛澄の武士としての才覚を惜しんだ景時は、頼朝や諸将の前で流鏑馬を披露する
機会をあたえた。
「八つ的を射てみよ」
頼朝の命で引き出された荒馬を、盛澄は試し乗りをすることなく乗りこなし、
次々と的を射抜いていく。頼朝の要望に応え、何度も繰り返すうちに、ついには
用意されていたすべての的を射抜いてしまった。
「割れた的を射てみよ」
二つに割れ、小さくなった的も盛澄は正確に射抜いていく。これを見た諸将は
感嘆の声を上げ、盛澄を賞賛した。
「的の串を射てみよ」
頼朝のさらなる命にも盛澄は動ずること無く、すべての的の串を射抜く。
しかも矢は串の上五寸を均等に貫いていた。
諏訪大明神の御神威に感服した頼朝は、盛澄を助命し、帰国を許された盛澄は
景時の厚意に感謝し馬場に梶原塚を建てたという。
439:日本@名無史さん
11/03/01 23:54:02.39
似たような話が吾妻鏡にあるぉ
440:日本@名無史さん
11/03/03 00:50:51.97
今も昔もムチャ振りには即応できなきゃいけないんだなあ
441:日本@名無史さん
11/03/03 20:12:55.79
波多野か河村で、同じ話があるね
442:日本@名無史さん
11/03/05 13:19:43.01
大庭景義が、かくまっていた甥っ子をそれで助け、なおかつ所領も取り戻してやったという話だな。
弟は助けられなかったが、この人もなかなか強かだな。
443:日本@名無史さん
11/03/05 13:23:44.57
>>441
>>442の話にあるのが河村で、波多野の一族。
444:日本@名無史さん
11/03/05 19:57:57.44
>>443を訂正。
大庭景義が、かくまっていた甥っ子は、松田(波多野)有常だった。
445:日本@名無史さん
11/03/07 22:13:45.89
>>444
大庭景久がウチの実家付近に住んでた
横浜戸塚区俣野
446:日本@名無史さん
11/03/09 15:16:21.62
回覧板まわしてたような表現に和んだ
447:日本@名無史さん
11/03/13 13:36:15.11
>>394
まとめサイトにも出ていないようなので、
その逸話を戦国時代板に転載してもいいですか?
448:日本@名無史さん
11/03/13 15:34:04.24
>>388
三井寺(園城寺)は弟の円成
全成は醍醐寺
449:日本@名無史さん
11/03/23 23:52:31.89
地元の大内氏中興の祖大内弘世が京都に初めて行った時のこと。
「在京のあいだ、数万貫の銭貨、新渡の唐物等、美を尽くした奉行、
頭人、評定衆、傾城、田楽、猿楽、遁世者までこれを引き与えけるあいだ、
この人に増る御用人もあらじと、未だ見えたることもなき先に、誉めぬ人こそなかりけれ。
世上の毀誉は善悪にあらず、人間の用捨は貧福に在りとは、今の時をや申すべき。」
なんか後半部分でバカにされてないかい?
それともし需要があるようなら(ヤ○ザな)弘世と(ジャ○ア○)義弘の逸話を投下します。
450:日本@名無史さん
11/03/24 04:03:24.06
オオウチキター
451:日本@名無史さん
11/03/24 08:17:56.13
おっと打ち間違えた、「美を尽くした」ではなく「美を尽くして」だ
ちなみにこのとき正平19年(1354年)大内氏はまだ周防長門を治めているだけであり
莫大な利益をもたらした勘合貿易も朝鮮との貿易もやっていない。
さらに上京直前には南朝連合軍に惨敗を喫したばかり
そん中わざわざ京都まで行き大金をばらまくパフォーマンスを行ってる。
金の出所と南朝との戦の経緯はまた後程
452:日本@名無史さん
11/03/25 17:08:33.13
ソースは?
453:日本@名無史さん
11/03/26 00:51:17.46
「」の中の文章は太平記です。
他は大内氏研究の御薗生翁甫氏著「大内氏史研究」より
454:日本@名無史さん
11/03/30 02:39:54.96
安宅の関で、義経一行と知りつつも見逃してやった富樫泰家は男の中の男だよな。
黒澤明の古い映画「虎の尾を踏む男達」を観て感動したよ。
455:日本@名無史さん
11/03/30 23:23:43.69
そのとき義経を捕まえてしまったら、奥州藤原氏を攻める口実が・・・
456:日本@名無史さん
11/03/31 06:40:18.42
あれは藤原氏が義経殺して「悪いのは全部こいつだから」って責任全部押し付けようとしてたからなぁ。
457:日本@名無史さん
11/03/31 17:38:47.42
初めて聞いた
458:日本@名無史さん
11/04/01 01:59:47.28
責任というか義経追討を妥協そてもらおうとは考えていただろうな>藤原氏
459:日本@名無史さん
11/04/01 02:14:00.02
まあ勧進帳は作り話で、最初から義経を泳がせて奥州藤原氏もろとも
潰すつもりだった、というのが実情だろうな。頼朝のことだし。
460:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/01 19:06:21.28
>>459
よくそう言われてるけど、頼朝がわざと逃すように各地の武士に命じた史料は何もないからw
田舎御家人がそんな頼朝の真意を知らないで義経を見つけ出して討取ったらどうすんだww
461: 忍法帖【Lv=2,xxxP】
11/04/01 20:32:31.26
まあ秀衡死後に奥州が半分自滅してくれたのは結果論で、
義経逃亡時には、義経が秀衡の元に転がり込むのは頼朝には悪夢以外の何者でもなかったろう
462:日本@名無史さん
11/04/01 21:19:41.19
院宣をもらった義経が西国武士団の統合に成功し、
奥州藤原氏と気脈を通じて、東西から頼朝を挟撃する・・・
というのが頼朝にとって最悪のシナリオだったと思うが。
463:日本@名無史さん
11/04/01 21:41:48.31
このあたりの時代は、少し変わるだけでその後の歴史がひっくりかえってしまうぐらいだからifの妄想しがいがあるな
464:454
11/04/02 00:47:44.88
勧進帳には、実は続きがあって、
富樫泰家は、義経一行を逃した責任を問われて、加賀国守護を罷免されたので
出家して、平泉にいる義経に行った。
その後、加賀国に戻って、余生を全うした。没年齢はわからないが長寿だったそうだ。
白紙の紙を読み上げた弁慶も素晴らしいが、義経一行と知りつつも逃した富樫
男ぶりに感動しました。
465:454
11/04/02 00:51:33.84
あ、3行目タイプミスしました。
【誤】出家して、平泉にいる義経に行った。
【正】出家して、平泉にいる義経に会いに行って、実際に会った。
466:日本@名無史さん
11/04/02 13:47:30.59
>>462
西国武士団にこれっぽっちのコネもないのに無理だろ
467:日本@名無史さん
11/04/02 17:56:06.83
鎌倉武士団が西国武士団にこれっぽっちのコネもないのに平家を滅亡出来た件
468:日本@名無史さん
11/04/02 19:39:25.29
>>466
そう思う。
九州に行けなかった時点で終わっている。
一応、豊後大神氏の棟梁緒方惟義は迎える用意をしていた。
岡城はそのために築かれたという。
だが、義経がこないとわかると、あっさりすっとぼけた。
ちなみに緒方惟義はもともと平重盛の家人だったので、九州に落ちてきた平家は
重盛の息子・清経を遣わして助力を要請した。
だが、すでに重盛が死んで久しいことと仲の悪い宇佐神社が平家についていたともあり、
緒方惟義は助力を拒否、清経を追い返した。
悲観した清経は豊前沖で入水した。
469:日本@名無史さん
11/04/02 21:59:51.19
おお…
この時代の九州の話は面白いな
470:日本@名無史さん
11/04/03 11:48:28.49
最悪の悪夢は関東武士団の離反だろう
当時の頼朝支配体制が盤石だったとはとてもとても
471:日本@名無史さん
11/04/03 12:08:57.47
大友や島津や武藤を九州に送り込んだのも(実際には京都でとどまって代理人を送ったにせよ)、コネが無いから新たに構築しようって腹だったんだろうし
472:日本@名無史さん
11/04/03 12:46:14.36
う~ん島津さんもそこに入れちゃうのw
473:日本@名無史さん
11/04/03 15:22:45.52
>>470
支配体制とは微妙な勢力均衡の上に成り立つもので
盤石な支配体制など古今東西ひとつも存在しない。
474:日本@名無史さん
11/04/07 17:48:40.32
泰時は本当は頼朝の子だった
475:日本@名無史さん
11/04/07 19:43:42.56
徳川家康が、新田義重の子孫という方が、まだリアリティあるね
476:日本@名無史さん
11/04/09 12:20:38.63
>>369
ついでに言えば緒方惟義は、源範頼に軍船80隻を提供していたが、
おなじ大神氏系でも戸次氏は平家の軍に加わっていたりするんだよ。
平家追討という大義名分をえた緒方惟義は、積年の恨みを晴らすため宇佐神宮を焼き討ちした。
多数の宝物や古文書を奪ったという。(このとき奪った宝剣は、子孫の佐伯氏から伊勢神宮に奉納された)
しかし、頼朝から義経に加担していた(>>468)という疑いをかけられ、宇佐神宮を焼き討ちしたことを理由に
つみをとわれた。
しかし、功多きことを考慮しても死一等を減じて関東下野に流罪。
とはいえ、それなりに自由はあったようで現地で子供も残してる。
後に許され、豊後に帰国して死去した。
477:日本@名無史さん
11/04/09 12:47:34.27
すまん訂正
しかし、頼朝から義経に加担していた(>>468)という疑いと宇佐神宮を焼き討ちしたことを理由に
罪を問われた。
しかし、功多きことを考慮して死一等を減じて関東上野に流罪。
とはいえ、それなりの自由はあったようで現地で子供も残してる。
後に許され、豊後に帰国して死去した。
478:日本@名無史さん
11/04/12 17:25:06.44
平家物語や源平盛衰記ってどのくらい信用できるの?
479:日本@名無史さん
11/04/13 01:49:17.03
>>478
民明書房刊行書籍より、やや信頼がおける程度には。
480:日本@名無史さん
11/04/14 00:33:04.58
平家物語なくして平家政権を語れるの?
481:日本@名無史さん
11/04/14 01:45:10.57
>>478
琵琶法師さんを信用できないとでも言うのかい?
482:日本@名無史さん
11/04/18 01:36:07.03
まだ当事者の子供の世代がいるころから伝わってるんだから、あまりに露骨に変なコト言ってると
文句言われたと思うんだがな。
483:日本@名無史さん
11/04/18 05:46:10.98
頼家はキンタマを握り込まれて力が出なくなった隙に殺されてしまったのか、
握り潰されてしまったのか、もぎ取られてしまったのか、どれなのか気になる。
484:日本@名無史さん
11/04/18 08:18:13.68
一応絞殺でしょ
485:日本@名無史さん
11/04/18 20:34:30.40
頼家は馬鹿だったの?
それとも有能過ぎて殺されたの?
486:日本@名無史さん
11/04/18 22:20:21.75
バカとは言わんが、複雑な御家人同士のバランスを捌くほどの能力はなかったということだな。
487:日本@名無史さん
11/04/19 00:15:09.56
父頼朝の将軍独裁制をそのまま継承しようとして家臣の反発に会ったという説もある。
頼朝時代からの流れの中で見ないといけない。
頼家の個人的な素質を重視し過ぎるのはいかがなものかと。
488:日本@名無史さん
11/04/19 08:10:52.18
>>484
「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、
頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき。」
慈円の伝聞だと刺殺だそうだけど。一応、慈円は摂関家の子で天台座主で
関白太政大臣の後見を務め、幕府とも繋がりがあった有力者。
そんな有力な高位聖職者の耳にふぐりを取りなどして~なんて項目が入った
伝聞を確証なく吹き込む奴がいたとはあんまり・・・。
489:日本@名無史さん
11/04/19 10:45:46.55
そんだけ御所近辺では嫌われていたってことではあるまいか?>頼家
今回の管総理もあることないこと産経あたりに書かれてるし
それと同じ構造と予想
490:日本@名無史さん
11/04/19 11:51:13.44
>>489
逆。御所方というより慈円の立場、摂関家や叡山等が
北条家を嫌っていたか、もしくは中立だったって構造。
北条方の吾妻鏡こそが頼家のことを悪し様に書いてるし、
吾妻鏡ではただ頼家死去の報告があったと書かれてるだけ。
御所方が頼家を嫌っていれば当然の報いみたいな文句が
加わるはずだし、北条が暗殺したなんて書くかも怪しい。
頼朝家は協力的な存在で、御所方の権益を担保してくれる。
だから慈円は頼朝を褒めていた。
吾妻鏡記載の比企能員の変の前日に、なぜか頼家病死を
告げる使者が京都を訪れたと皇族や摂関家の他の成員の
記録に記載されてるし、胡散臭いのはどう見ても北条家側。
491:日本@名無史さん
11/04/19 13:40:33.94
>>488
「頸に緒をつけ」
訳文が間違ってるよ。
引用にある通り、首に緒(紐)をつけ、だから、首に絞めた紐を引いた絞殺。
逆に刺し殺すとはどこにも書いてない。
492:日本@名無史さん
11/04/19 13:45:52.55
>>489
鎌倉幕府北条氏は朝廷に源頼家が「病死した」と嘘の報告して、弟の源実朝を征夷大将軍に任命させた。
しかし、実はこの時頼家はまだ死んでおらず、修善寺に幽閉中だった。
その後、頼家は北条氏の手によって暗殺、都にはだいぶ後になってから知れ渡った。
朝廷の後鳥羽天皇やら慈円やらは当然、北条氏が嘘の報告をしたことを激怒。
北条氏がやった残虐な頼家殺害方法をわざわざ記したのは、それだけ慈円が北条氏に怒っていたということ。
493:日本@名無史さん
11/04/19 13:54:26.81
>>491
頼家入道を刺殺してけり。
URLリンク(www.st.rim.or.jp)
誤字入りまくりの原文 サシコロシテケリ
修禅寺ニテ又頼家入道ヲバ指コロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ。
頸ニヲヲツケ。フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ。
494:日本@名無史さん
11/04/19 18:55:42.62
当然首は鎌倉に送ったんだろ?
頼家を確かに殺しましたよという証拠に。
で、頼家の首は鎌倉のどこに埋めてあるの?
495:日本@名無史さん
11/04/19 19:39:53.49
頼家の首を斬り取り鎌倉に送って首実験したという記録はない。
頼家殺害は鎌倉幕府将軍実朝の許可を得たものではなくあくまでも暗殺で、
首を斬り取られていないのでは?
ちなみに源頼家の墓は母の北条政子が頼家のために修善寺に建立した指月殿にある。
496:日本@名無史さん
11/05/01 21:36:14.84
既出で有名かもしれんが鎌倉時代のちょっといい話
楠木正儀(正成の三男)と細川清氏率いる南朝の軍勢が京にまで進撃してきたとき、
佐々木道誉の部下はどうせ略奪の的になるのなら
敵に一片のなぐさみも残すまいと佐々木邸に火をかけようとしたが
佐々木道誉は「都随一の自分の邸は総大将の宿舎になるに決まっている」と一喝して止めさせ
邸内に豪華な食事と飾りつけを施したうえで
よろしく接待するよう厳命した二名の遁世者を残し、邸を去った。
邸に踏み込んだ楠木正儀は掠奪や放火にはやる部下をとめさせ
道誉のはからいに感服しつつ自分の宿舎とした。
その後北朝側が盛り返して京を奪回してきたとき、
正儀は佐々木邸に前にも勝る豪華な食事と接待のための者二名を残し、
さらに蔵には名刀と秘蔵の甲冑まで置いた上で京から撤退した。
京の人々は「正儀は道誉の古狸にまんまと刀と甲冑を盗られてしまったな」と
噂したという。
497:日本@名無史さん
11/05/01 21:37:58.20
>>496
スマン訂正、鎌倉じゃなくて室町だったな
498:日本@名無史さん
11/05/02 01:23:45.59
これは良い話だ。
499:日本@名無史さん
11/05/02 10:04:52.10
敵将の性格を知り尽くした道誉の策略の勝利だな
500:日本@名無史さん
11/05/02 10:32:19.20
俺はこういう話が読みたいんだよ
501:日本@名無史さん
11/05/05 05:32:33.08
つ「修善寺物語」
502:日本@名無史さん
11/05/05 06:10:01.97
つ「曽我物語」
503:日本@名無史さん
11/05/06 11:46:45.17
後醍醐天皇の乱交
後醍醐天皇は鎌倉幕府がダーーイ嫌い
何とかして幕府を潰してやろうと密かに計画
でもって、作戦会議をするんだけど、そのカ
モフラージュに乱交パーティをしまくった
「朝廷は遊んでばっかだよーん」というのを、
六波羅探題(幕府が統括している警察みたいなもん)
にアピールするためであります
その乱交パーティは飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ
スケスケの着物を若い女の子に着させてサービス
でもって、ひそかーーに倒幕作戦会議をしていた
のであります
が!倒幕計画に参加した男性が、妻にペロっとしゃべっちゃった
でもって、その妻が六波羅探題にタレこんだため、残念ながら計画はパーになってしまったのでした。そして隠岐に流され、兵庫の福厳寺にまで逃げてきて、楠木正成に迎えられるのでした。
504:日本@名無史さん
11/05/07 00:09:47.50
つまらん
505:日本@名無史さん
11/05/07 14:37:49.37
承久の乱がらみで逸話は何かありませんか?
506:日本@名無史さん
11/05/18 01:06:37.94
元暦年間のことだそうだ。
平氏亡びんとするとき、平氏の公達の一人に妾として寵愛された女が、子を抱え
近江国津田というところに落ち延びた。
この時の津田郷の長は、彼女を見るとその美しさにたちまち心奪われ、自らの家に置き、
それまでの妻を追いだしてこの女を新たに正妻とした。
長は女を深く愛し、二人の間には多くの子が出来た。
さて、その頃越前織田庄の神主は毎年、天下御祈祷の巻数を捧げるため上京しており、
その途中、いつもかの津田郷の長の家に宿泊した。
この神主が、長の家に子どもが沢山いるのを見て
「私は子を持っていないんだ、哀れと思って一人養子にいただけないだろうか?
養い育て私の跡を継がせ、老後を安らかにしたいのだよ。」
これに長は「お安いことです」と、唯一自分と血の繋がらない、女がここに来たとき連れていた
少年を神主に与えた。
神主は大喜びでその子を連れて越前帰国し、自分の跡を継がせた。
後に室町時代になって、この子の子孫から越前・尾張・遠江を領した斯波氏に使える者が出、
彼らは「織田」を名乗った。後に信長を排出する織田氏である。
信長記より、織田家発症の逸話である。
507:日本@名無史さん
11/05/18 04:42:04.85
>>506
>信長記より、織田家発症の逸話である。
織田家は病気かよw
織田が平氏なので征夷大将軍になれなかったって話はこの辺がでどころか。
508:日本@名無史さん
11/05/19 23:49:54.02
策士佐々木
宇治川の戦いのことである。義経軍に属していた佐々木高綱は梶原景季からこう言われた。
景季「何で俺がもらえなかった生食をあんたが乗っている!」←磨墨にこの人は乗っている。
高綱「アンタがもらえなかったと聞いたから盗んだ。」
景季「あ・・・・そうなんだ。納得」
戦いが始まり先陣争いとなったが、景季のほうがかなりリードしているというのを見て一言。
高綱「おーい!梶原殿!鞍の帯が揺るんでいるぞ!」
景季「なに!どこ?どこどこ?」
高綱「じゃーねーw」→先陣頂き
佐々木道誉のご先祖様もなかなかの策士ですなぁw
509:日本@名無史さん
11/05/20 00:01:56.60
>>507
出処もなにも、信長さんとこは正式な名乗りはちゃんと平氏でやってる。
朝廷関係では平信長。
510:日本@名無史さん
11/05/20 00:03:38.54
>>505うろ覚えだが承久の乱がらみで一つ。
承久の乱が起き、鎌倉から兵を発することとなった。
北陸道、中山道、東海道の三軍に分け進発したのだが、東海道の大将
北条泰時が戻ってきて父義時に聞いた。
泰時「省みるにこの戦、瀬田川で交戦するものと予想されます。ついては、
錦の御旗を立てて、上皇様が直接おいでになられた場合は如何にすればよいでしょうか?」
義時「うむ、よくぞ聞いた。儂もそれを気にしていたところである。
もし上皇様が戦場におわしたならば、・・・・」
義時「旗をたたみ、弓の蔓を切り、兜を脱いで跪き降伏せよ。」
以上。絶対嘘にしか見えない問答でした。どう考えても義時がこんな事言うわけがない。
511:日本@名無史さん
11/05/21 13:32:39.88
>>508
それには続きがある。
景季「おーい!佐々木殿!おまえの鞍の帯も揺るんでいるぞ!」
高綱「あっそう。じゃーねーw」→先陣頂き
512:日本@名無史さん
11/05/21 14:35:04.84
高綱の馬も、実は頼朝からもらったんだけど、景季から恨まれないようにするために、盗んだことにしたという前振りもあるけど
主君から、馬を盗むのは良いのか。二人と
513:日本@名無史さん
11/05/21 17:51:03.61
月マガでやってる漫画で
「私も盗めばよかったあーっ!」
って叫んでたのが笑ったw
514:日本@名無史さん
11/05/22 16:26:45.32
>>510
もし院が「出てくれば」そうしたと思うよ
出てきやしない、とは考えていたかもしれないけど
かなり義時としても追い詰められた状況だったはずだ
承久記なんかでも武田や小笠原があからさまに不穏なこと
(どっちにせよ勝った方につけばいい的なこと)
言ってたりするけど
この時点ではどっちに転んでもいいと思っている御家人は意外といたしね
515:日本@名無史さん
11/05/22 19:50:49.47
三浦為継と鎌倉景政の話が余りに有名とかwikipediaに書いてるのですが、そこまでなのかしら。
516:日本@名無史さん
11/05/23 16:34:05.50
「あまりに有名」で検索してみると
大して有名じゃない逸話を紹介するときに使われる表現みたいに見える
517:日本@名無史さん
11/06/01 05:17:23.92
では、あまりに有名なドジっ子天皇の話。
承久の乱から十年ほど経った貞永元年、後堀河帝の譲位により、
第1皇子、秀仁(四条天皇)がわずか2歳で即位した。
それからさらに10年後、仁治3年のある日のこと。
この四条天皇、天皇でありながらなかなかの悪ガキだったらしく、
父上皇の死後も悪さばかりしていた。
この日も近習や女房どもをすっ転ばせてやろうと、御所の廊下に滑石をまき、
物陰に隠れてワクワクしながら様子をうかがっていた。
しばらく後、隠れた帝を捜しに、いつものように女房達が御所内を回り始めた。
そして彼女たちは例の廊下を通ったのだが、誰一人として転ばない。
「あれれー?おっかしーぞ? 量が少なかったのかな?」
女房達が見えなくなると、四条天皇はひょこひょこと廊下にのぼり…
お約束通り、自らの仕掛けたトラップに引っかかってしまった。
見事に頭を打ち付けた帝。
打ち所が悪かったのか、なんとそのまま崩御されてしまったのだ。享年12。
当然子はなく、守貞系の血脈は彼で途絶えてしまった。
後鳥羽やら慈円の呪いだとか言われてたりもするけど、
今でいうバナナの皮レベルの悪戯で死んじゃった天皇がいるって知って
なんか皇室を身近に感じたよ。
518:日本@名無史さん
11/06/01 16:31:29.24
この天皇に子供がいたら南北朝の争いもなかったかもしれないんだな
519:日本@名無史さん
11/06/08 22:15:29.79
慈圓に呪われるようなことしたんだっけ?
12歳にしては幼稚な悪戯だな。天皇になりながら童貞で死んだのか。
昔の天皇より今の庶民のが幸福だな。
520:日本@名無史さん
11/06/09 02:58:54.82
慈円は後鳥羽の挙兵には反対してたけど、後鳥羽の孫の仲恭天皇は縁戚だから
仲恭まで廃位されて皇統が守貞系に移ったことを恨んでたとか。うろ覚えだけど。
一族の影響力が衰えること恐れたか、或いは17歳で不遇の死を遂げた仲恭を哀れんだのかも。
その辺が動機なんじゃない?
ていうか現代の庶民には30過ぎて童貞の奴もいるんだぞ畜生め
521:日本@名無史さん
11/06/09 10:03:09.82
>>520
呼んだ?
522:日本@名無史さん
11/06/10 23:33:35.06
鵯越の逆落としの時のこと。
義経「ものども!鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿が越えられる崖を馬が越えられぬ事などあり得ぬ!
我に続け!」
こうして、一騎又一騎と崖を降りる板東武者であったが、ただ一人はちがった。
畠山重忠「日頃、戦や騎馬で乗っているこの馬をこんな崖で怪我をさせ、大事に後れをとってはならない。
歩いておりよう。」
こうして彼は馬の腹帯を結び変えて鎧と結びつけ、ずり落ちないようにし
近くの木の枝を折り杖にして、馬の足をばたつかせないように結わえ付け、
馬を背負って降りていったという。
ちなみにこの人、「力持ち」としてその名を関東で知らぬ者はいなかったとか。
523:日本@名無史さん
11/06/11 05:11:58.59
嫌いじゃないぜ。そういう空気読めないけど凄い奴
524:日本@名無史さん
11/06/18 21:47:04.85
藤原忠通の息子の信円が、一乗院の門跡であった時のことだ。
信円が八月十五夜の美しい月を、中門で眺めていると、力仕
事や雑務に当たる法師達が
「おい、お前ら、今晩のような美しい月の夜、慈円様はどの
ような歌をお詠みになるだろうな」
と、弟の慈円について、言い合っているのが聞こえた。
これを聞いた信円は、ショックを受けた。居ても立っても
いられず、早速慈円に手紙を書いた。
「恐れながら、私の考えを残さず述べさせて頂きます。天台
座主として三千の僧徒の頂点に立つあなたともあろう人間が、
日々仏教を学び修行に励むのならともかく、毎日のように和
歌ふけっているのは、どういうことなんですか!こんなこと
が許されるわけがない。誠に遺憾です。私の寺の法師共まで
もが、昨日の月を見てあなたのことを噂しているのですよ?
世間ではどういう風に言われていることやら。しばらくの間、
歌は自重しなさい」
525:日本@名無史さん
11/06/18 21:47:37.14
摂関家の子弟として、兄として、弟がまるで遊びほおけてい
るように見られるのが、信円には非常に恥ずかしかったらし
い。こうして細かい忠告を書き上げ送ったのだった。
ほどなくして、慈円から返事が届いた。
「兄上のご忠告、嬉しく拝見しました」と書かれたその書状
には、しれっと一首の歌が添えられていた。
皆人に一のくせはあるぞとよ これをば許せ敷島の道
(誰にだって一つくらい執心する習慣くらいあるものなんで
すから、和歌の道くらい許してよね)
信円は「どうしようもねえな、こいつ」と言って、それから
は注意するのをやめたそうだ。
526:1
11/06/18 21:49:06.43
レスの数が500を超えたので、
そろそろまとめのことを考えてみようかと思っているのですが、どうでしょうか。
527:日本@名無史さん
11/06/18 22:31:50.95
お願いします。
まとめがあると書く方も気合が入りますゆえ
528:1
11/06/18 22:59:09.56
とりあえず、方法やツールについては検討中なのですが、
異存がないようでしたら、まとめを作らせて頂きたいと思っています
何か要望や意見などありましたら、少しよろしくお願いします
529:日本@名無史さん
11/06/23 23:55:04.44
楽しみにしています。
色々と大変でしょうが、よろしくお願いします。
530:1
11/06/26 22:23:11.14
まとめブログ、大体形ができましたので、公開します。
まだカテゴリーの分け方など、色々試行錯誤していますが、
アドバイス等ありましたらよろしくおねがいします。
URLリンク(kamamuroiw.blog.fc2.com)
記事は今月中には全部アップする予定ですが
投稿規制と付き合い付き合いやっていきます
531:日本@名無史さん
11/06/26 22:42:52.77
ありがとうございます。
できればコメント欄があった方がいいと思いますが難しいですかね。
私にはブログはよくわかりませんが
532:1
11/06/26 22:51:00.14
>>531
記事の左下端にあるCMをクリックするとコメント欄が出ます。
ちょっとわかりづらかったかもしれません……
すみません
533:日本@名無史さん
11/06/27 13:01:18.72
おお、待望のまとめブログが!
GJ!
534:日本@名無史さん
11/06/28 01:45:58.71
赤松氏に最盛期をもたらした義則の話というのは貴重かも。
その頃、都に化け物が出没し、住人は上下を問わず非常に難儀させられていた。
それは実際には人間であったが、まさに化け物の如く都中を馬で走り回っては
何もかもを手当たり次第に切り回るのだ。
しかも手に追えない強さであったから、誰も討ち取ること叶わなかった。
髪を長く乱し、まるで巨大な子供であるかのような姿をしたこの怪人を、
都人は「大わっぱ」と称して、恐れおののいていたのだった。
この有様を見かねた時の帝は、「大わっぱを従えることのできた者は、
天下にまたとない忠義の者である」と宣旨を発せられたが、
それでもこの怪人を容易に従えることは叶わない。
そこに、一人の漢が立ち上がる。
赤松三尺入道殿。
背の低さを京童にそう渾名されている赤松上総介義則、その人である。
「大わっぱ・・・。是非とも狙ってみたいものだ!」
535:日本@名無史さん
11/06/28 01:48:57.01
彼は舎弟をも連れず、ただ一騎で都のここかしこを駆け巡った。
すると天の引き合わせであろうか、御菩薩池(深泥池)の辺りで大わっぱと遭遇。
そして戦いが始まった。
激しく切り結び、馬上で渡り合う二人。
大わっぱの振るった太刀の切っ先が、義則をかすめる!
義則は眉の下に傷を受けながらも見事にこの怪人を切り伏せ、
凱旋を果たすのであった。
義則はこの恩賞として、因幡の智頭(ちず)、但馬の朝来(あさご)、摂津の中島を得るのだが、
その御教書を押し戴いた時、大わっぱに受けた傷の血が書面を染めたのであった。
この血の付いた御教書も、そのものズバリ「大わっぱ」と名付けられた怪人退治の太刀も
赤松家の重宝として大切に伝えられていった。
536:日本@名無史さん
11/06/28 01:50:06.17
しかし、これらの重宝は戦国時代、赤松義祐の時に失われる。
義祐とその子則房の和睦が成立し、義祐が三木城から本拠・置塩城に引き上げる際に
別所重宗に預けたところ、何と不慮の失火により、重宗の館ごと焼失してしまったのである。
「御家滅亡の凶相とみえたり」
義祐に仕えた得平定阿は、「赤松記」にこう書き残している。
537:日本@名無史さん
11/06/28 10:37:29.40
おお!三尺入道!赤松三代はめちゃくちゃカッコイイよなあ
個人的には四職の中で一番好きだ
後で弾けるけど、そこもまた
538:1
11/06/28 22:52:04.82
まとめに過去ログを全て収容しました
編集は毎週土曜にするつもりなので>>534の逸話などはその時収容します
面白い逸話をありがとうございます
539:日本@名無史さん
11/06/29 18:43:35.41
横須賀市文化財「一騎塚」(いっきづか)
和田合戦の時、義盛に加勢しようとこの地の武次郎義国(たけじろうよしくに)が、ただ一騎で鎌倉に馳せ参じて戦い、討ち死にした。
後、里人が哀れんで塚を築いて霊を弔ったという。
540:日本@名無史さん
11/07/01 14:29:57.12
この時期の鎌倉って、くしゃみしただけで死にそうだよな
541:日本@名無史さん
11/07/02 19:56:34.74
摂津国の多田と言う土地にの近くの村に役所があった。
ある時、人足が二人通りかかると関守が彼らを咎めた。
これに、先を歩いていた男が
「私はただの夫(ぶ)(人足)でございます」
と言うと関守
「忠信なれば、屋島の戦を語れ」
これに人足
「それはつぎの夫(継信)にお尋ね下さい」
そんな中世の笑い話
(醒睡笑)
542:日本@名無史さん
11/07/02 23:27:52.55
平清盛が高野山の根本大塔を再興して参拝の時、自分の丈夫な歯を1本自ら抜き取って、
奥の院(大師廟)に納め、次の歌を詠まれた
『高野山 おろす嵐のこわくとも このはは残せのちの世のため』
(醒睡笑)
543:日本@名無史さん
11/07/03 21:15:17.59
たしか金森長近の兄弟が、板倉重宗に言われて本にしたんだっけ>醒睡笑
544:日本@名無史さん
11/07/07 17:47:15.52
『斯波高経の失脚』
貞治五年八月、斯波高経とその子息、時の管領斯波義将は失脚し、
自領越前に閉塞した。
貞治元年、若干十三歳の義将が管領に就任し、父・高経がその補佐
として幕府官制のトップに立ってからわずか五年のことである。
当然と言うか何と言うか、この事件の黒幕は佐々木道誉であった。
高経の三男氏頼を娘婿とするなど、当初高経と道誉の関係は悪くは
無かった。
しかし細川清氏失脚後、高経が道誉娘婿の三男ではなく、四男義将
を管領にしたのがきっかけに、両者の関係は急速に悪化していたの
である。
545:日本@名無史さん
11/07/07 17:48:08.26
管領職に就いて以降、高経は急激に武家を締め付け始めた。税金を
引き上げだだけではなく、規則や約束の厳密化に励んでいたわけだ
が、御所工事が遅れたことを理由に赤松則祐の所領を召し上げる
など、峻厳な裁定が多くの武家の恨みを買い、貞治二年には既に、
道誉と高経の間に武力衝突があるのではないかという風聞が都を騒
がす程となっていた。
それでも数年は目立った衝突も無かったが、ある出来事をきっかけ
についにゴングが鳴ってしまう。
546:日本@名無史さん
11/07/07 17:48:42.04
かねてより工事は続けられていたものの、遅々として進まないでい
た京都五條の橋を、斯波家が僅か数日で渡してみせた。
それだけであれば何も問題は無かったのであるが、元々の工事責任
者は道誉であった。それを激励するためと言い斯波家が完成して見
せたのは、要は
「棟別(公共事業の税金)集めても、いつまでたっても橋がか
からないでは、みなが迷惑しますから、私達がチャッチャと橋をか
けてしまいました^^ 仕事が遅いのは困りますねえ、佐々木は何を
やっていたんですか? 遊んでいるにしても時間がかかりすぎます
よね?」
という嫌味である。
面子を潰された道誉は、当然怒り、速やかに彼らしい報復に出た。
547:日本@名無史さん
11/07/07 17:50:22.67
高経が取り仕切る将軍御所の花見の宴の日に、自分が企画した豪華
絢爛な花見の日程をぶつけたのだ。
京都中の連歌師・白拍子などのパフォーマーと家臣を引き連れ、
大野原の勝持寺を舞台に「花木の周りを石で囲み花瓶に見立て、
生きた桜を立花として演出し、その間に膨大な量の香をたきし
める」という前代未聞の宴は大評判となり、高経の催した花見は、
世間からすっかり忘れられた。
激しく面子を傷付けられた高経は、今度は明確に道誉を攻撃する。
税金の滞納を理由に道誉の守護職と所領を取り上げる強硬措置に出た。
この措置を受けて道誉は高経を良く思わない武士達を糾合し、将軍
義詮に高経・義将親子が謀反の疑いありとして、管領職解任を要請
した。高経は義詮に自分の正しさを訴えたが、義詮は目に涙を浮か
べ、高経を宥めながらも、道誉等の訴えを受け入れ、高経を更迭、
そして討伐軍を起こしたのだった。
548:日本@名無史さん
11/07/07 17:51:16.50
京を追われた高経は越前に下り、子の義将と共に篭城して抵抗した
が、翌年七月失意の中で病死した。
程なくして道誉の推挙により、新たな管領細川頼之が誕生する。
この頼之が、父の死後恩赦を受けて幕府に復帰した義将と、後に
政敵として凄まじい政争を繰り広げるのだが、その頃には道誉は既に
居ない。
佐々木道誉は高経の死から六年後、息子に後事を託し、近江で眠り
についている。
コミュ力が法律に勝つ、そんな話。
549:日本@名無史さん
11/07/07 21:30:18.03
規則を守るか空気を読むか、難しい問題だな
550:日本@名無史さん
11/07/07 22:04:26.09
歌が上手い奴がモテるなんて嘘だという話を一つ。
京極為兼は不細工だった。
そんな為兼が、内裏でとある女房をナンパした。
手を取って「今夜会ってくれないかな?」と言う為兼に、
女房は、
「ちょwwwお前の顔でかよwwww」
(御主のかほにてや)
と言い放った。
しかし、流石は為兼。
言われるやいなや
「さればこそよるとは契れ葛城の神も我が身も同じ心に」
(醜い顔だからこそ、その醜さを恥じて夜しか動かなかったという
葛城山の神のように、私も夜に会おうと言うのです)
と歌を返した。
流石は歌の名手である。
しかし為兼のナンパが成功したかどうかは、残っていない。
551:日本@名無史さん
11/07/08 08:06:57.62
>(御主のかほにてや)
なんという古風にて残酷な響き…^q^
古典の授業でこの逸話をすれば生徒にウケルな
552:日本@名無史さん
11/07/08 11:16:39.22
(ノД`)シクシク
553:日本@名無史さん
11/07/09 00:42:20.50
ただしイケメンに限るっていつからある概念なんだ……
554:日本@名無史さん
11/07/11 19:04:46.29
いい話でも悪い話でもないけれど一つ
南北朝の頃、大友氏初代能直から数えて九代目にあたる親世の話
大友親世は並びなき仁義の名将であった。
そんな彼が三歳の頃、父大友氏時にこんなことを言った。
「成人したときには、高祖という名前を付けてほしい」
それを聞いた氏時は、
「それは漢の帝王の名前じゃないか」
と言って笑った。
しかし、親世は黙って左の股を差し出した。
その雪のような肌には漢の高祖(劉邦)と同じように72個の黒子があり、
人々は親世を高祖の再来だと噂しあった。
その後北朝方として今川了俊らと共に南朝勢力と戦い九州平定に一役かった親世は、
出家した際に、高祖をひっくり返して祖高と号したのである。
(大友記)
555:日本@名無史さん
11/07/12 00:47:49.03
72個ってなんかの病気なんじゃないか?
556:日本@名無史さん
11/07/12 06:26:37.32
病気だとしても、それで皇帝になれるんならかかりたいな
557:日本@名無史さん
11/07/12 09:49:23.41
これ全身に七十二個じゃなくて、一部に七十二個あるんだろ?
癌とかじゃないのか
558:日本@名無史さん
11/07/12 15:05:07.63
仁義…なあ…大友にそういう印象が無いな
559:日本@名無史さん
11/07/12 16:45:15.43
蓮コラ状態じゃねえか
560:日本@名無史さん
11/07/12 21:12:08.15
>>557
そうはいっても、漢の高祖・劉邦は若い頃からそれを売りにしてたわけで。
別に健康に害があるようなもんじゃないだろう。
561:日本@名無史さん
11/07/13 17:24:52.44
>>550
そういうことも記録されてしまうんだなw
出典元を読んでみたいw
562:日本@名無史さん
11/07/13 18:48:07.12
>>561
出典「正徹物語」
ちなみにこの話の出所は為兼の弟子の今川了俊だと言われてる
「いついかなる時も歌心を忘れない師匠カッケー!」
って意味で残した逸話、らしい
が、微妙だよなw
563:日本@名無史さん
11/07/14 00:15:28.69
>>562
了俊も性格悪いからな。
564:日本@名無史さん
11/07/14 04:41:07.08
良い話の最後に『まぁ、創作ですけどね』を付けて台無しにするスレ。十五話目
スレリンク(mitemite板)l50
565:554
11/07/16 15:02:34.85
>>555>>557>>559
大友記の成立は寛永年間
親世ageのために劉邦の逸話を利用しただけだと思います
566:日本@名無史さん
11/07/16 18:35:18.98
足利義教は赤松満祐に暗殺された。
義教の首をはねた安積行秀は、その首を槍の穂先に掲げ、
満祐は長年の本懐を遂げたような面持ちであった。
義教の葬儀の数日前、相国寺の季瓊真蘂は奪われた義教の首を
取り返す為に死を賭して播磨へと向った。
彼は赤松出身の者として首を奪われた責任を果たそうとしたのだ。
しかし、細川持之はすでに満祐の使者を二度殺している。
敵方の真蘂は満祐に殺されてもおかしくはなかった。
まさに命がけの行動だったのである。
ところが、満祐は快く義教の首を返還してくれた。
満祐は真蘂の誠実さに感じ入ったのである。
そして後日、等持院で義教の葬儀が執り行われたのであった。
567:日本@名無史さん
11/07/17 00:01:17.39
>>566
満祐好きだけど、ますます惚れ込みそうだわ…
568:日本@名無史さん
11/07/17 01:14:43.89
赤松性具入道か
569:日本@名無史さん
11/07/20 13:45:31.81
岩清水八幡の願文の話は投下されてない?
ないなら、投下したいのだが……
570:日本@名無史さん
11/07/20 14:47:12.11
いいよ、いいよー
571:日本@名無史さん
11/07/20 17:47:47.16
携帯からだから、ちと読みにくいかも。
観応の擾乱で幕府を二分してあらそった尊氏直義兄弟だが、実際は仲はそれほど悪くはなかった。それを証明する文書が岩清水八幡宮に所蔵されている。
九州からの再起に成功し、京を奪還した尊氏は、岩清水八幡宮に願文を一通捧げた。それには、こう記されている。
『私はこの世で最高の名誉を得ました。今後は世の平穏を祈るため、出家するつもりです。つきましては、私の今後の幸福を全て弟の直義に与えてください』
観応の擾乱で権門の保護者として蜂起した直義と争う十数年前のことである。
短くてすまん。
572:日本@名無史さん
11/07/20 22:23:57.45
>>571
やっぱ、親バカが狂わせたのかな。
573:日本@名無史さん
11/07/20 22:42:53.97
四條畷合戦後に急激に成長した師直党を排除しようとして失敗。
生真面目で権門を保護して大規模愡領家での合議こそが正しい幕府の姿だと信じてた直義は師直党排斥のために挙兵したってのが観応の擾乱。
574:日本@名無史さん
11/07/21 01:17:12.72
このあたり直義が性急過ぎた面もあるからなあ
直義の方が正しかったとか、師直や尊氏が正しかったとか、どちらとも思えない
両者に非があって理がある中で
尊氏が直義と対立する道を選んだわけだけはよくわかるよ
そして尊氏が勝ってしまったんだから、仕方ないよな
575:日本@名無史さん
11/07/21 21:03:41.16
蓮如が親鸞のエピソードを語った話。
「親鸞上人が船酔いになられたことがあった。その時、聖人は
『歩いてゆける道のあるところは舟に乗るべきではないな』と仰せられた。
聖人はキノコの毒にあたられたこともあった。
その時は『キノコは食うべきではないな』と仰せられた。
高田の顕知はそれらを聞いてからは一生、舟に乗らずキノコも食べなかったそうだ。
そのように顕知は聖人がなにげなく言ったことを深く信じていたというのに
お前は私が心から願って教えることを中途半端に聞いて信じてくれぬのか(嘆息)」
576:日本@名無史さん
11/07/21 21:06:29.56
すまん誤字だ・・・
×顕知 ○顕智
577:日本@名無史さん
11/07/22 06:42:09.40
>>573
あくまで史実エピソードじゃなく創作でだが、直義が「泰時時代への回帰」を目指して、尊氏が「そんなものが今の時代に通用するわけがない」
みたいなキャラになってたのは、その辺りを広げたイメージか
578:日本@名無史さん
11/07/22 19:25:46.13
そういえば、伝源頼朝像は足利直義で、伝平重盛像が足利尊氏だという話があったが。
これって確定したの?
579:日本@名無史さん
11/07/22 19:36:05.65
>>578
ほぼ。今はそっちが定説化してる。NHKの高校講座日本史でもそう解説してた。
580:日本@名無史さん
11/07/22 20:02:06.53
サンクス。
けっこう直義はイケメンだったんだな。
581:日本@名無史さん
11/07/23 23:11:36.96
その直義を烏帽子親に持つらしい東国武将・河越直重。
彼は延文四年十月、南朝と戦うため他の東国武将らと上洛した。
太平記によればこの上洛は大変なみものであったようで、
特に直重は30頭の馬を紫、紅、黄緑に水色、はては豹柄に
染め上げて練り歩いたという。
某婆娑羅が闊歩する京の住民も驚いた事だろう。
しかしこの話には続きがある。
十一月九日、直重の宿に群盗が乱入したのである。
被害は馬、財物、刀剣類が多数というものだった。
余りに目立つと狙われる。
そんな(都の治安が)悪い話。
582:日本@名無史さん
11/07/24 07:43:20.26
夜は真っ暗な時代だもんなあ
夜中に押し入られたら明かりもすぐにはつけられないし
大勢に襲われたらオワリだよな
でもそんな派手な馬盗んでも速攻で見つかりそうだけどw
583:日本@名無史さん
11/07/24 08:10:08.44
馬の柄がスマートフォンケースっぽいセンスだな……
昔から豹とかの柄好きな人いるんだ
584:日本@名無史さん
11/07/26 02:14:40.72
日蓮のネタ投下するわ。有名な奴。
日蓮がアッチコッチで田宗派を攻撃する辻説法をやったものだから、
とうとう鎌倉幕府は怒り狂い、日蓮を逮捕した。
幕府役人「いい加減にしなさい!アンタの辻説法で苦情がたくさん来てるんだ!」
日蓮「やめない。まず幕府が法華経に帰依しなさい!そうすれば外国から攻(以下略)」
役人「龍ノ口で打ち首だ!」
こうして龍ノ口処刑場で打ち首となったその時、にわかに空がかき曇り、
雷が落ち、日蓮のクビを切ろうとした刀が三つに割れたという。
コレにより日蓮は打ち首から島流しに変わった。・・・・のだが、
当然の事ながら雷が落ちた首切り役人は生きているので作り話だと言うことがわかる。
ちなみにこの話を熱心な創価学会員(すなわちキチガイ)に話を振ると嬉々とした顔をして
延々といらないことまで説明してくれるのでウザイ事極まりないのである。
585:日本@名無史さん
11/07/26 02:16:33.88
×田宗派
○他宗派
まとめにのせるときに、修正をお願いします。
586:日本@名無史さん
11/07/26 02:37:19.92
あれ、日蓮って死罪じゃなくて流罪だったと思うけど。
まあ、中世だと流罪=市民権剥奪だから、大概そのままリンチされて殺されるんだけどさ。
実質死罪相当の流罪を受けて、本当に流罪で済んだんだから、ぶっちゃけすげー運がいい。
その理解不能な幸運を説明するために、怪異現象が後で追加されたんだと思うぜ。
587:日本@名無史さん
11/07/26 22:05:02.11
>>584
立正校正会の後輩がいるんだけど、そいつも嬉々として語ってたぞ。
新しい人が入る度にファミレスに連れて行って洗脳しようとするんだ。
T県。
588:日本@名無史さん
11/07/26 23:27:29.26
南北朝の動乱の頃のことである。
京に、とある下級役人の一家があった。それなりに裕福な家であったという。
だが戦乱に巻き込まれ家も財産も失い、夫婦は9歳の男の子、7歳の女の子の二人を連れて都を落ちて行った。
10日ほども後、彼らは丹波国、思出河のほとりにたどり着いた。
ここまで道に落ちていた栗や柿を食べて何とか命をつないでいたが、妻子は疲れ果て、草原に倒れ伏した。
夫はこれを見かね、近隣の家から物乞いをして、何かしらの食べ物を手に入れようと考えた。
そしてある家を訊ねると中から侍姿の男達が出て来て、この夫を取り囲んだ
「このあたりは皆で用心をしている最中だというのに、お前のような胡乱な奴が物乞いをして歩いているとは!
さては貴様、夜討ち・野党の偵察に来たか、それとも宮方(南朝方)の廻文を持って廻っている者に違いない!拷問して白状させよ!」
夫は両手足を縛り上げられ、上下に揺すぶられ責めさいなまれた。
妻子は、夫の返って来るのを今か今かと待っていたが、いつまでたっても戻らないため、彼の身の上を
大変に心配していた。その時道行く人の、こんな会話が耳に入った
「かわいそうに。京の公卿の家に仕えているような40歳ばかりの人が、物乞いをしていたのを捕らえられ、上に下に
拷問をうけている。今はもう死んでしまっただろう。」
妻はこれを聞いて激しく嘆いた。そして
「あなたに遅れて死ねば、冥土の旅路を迷ってしまうでしょう。暫く待っていてください。」
妻は二人の子と共に、思出河の淵に身を投げた。
夫は疑いが晴れ解放され、近くの家で木の実などを求めて帰ってきた。が、荷物は残っているというのに
妻子の姿が見えない。これはどうしたことかと狂ったようにあたりを探す。と、
用水の取り入れ口のところに、変わり果てた妻と子の姿を見つけた。三人は手に手をとった姿で流れかかっていた。
夫は絶望し、彼女たち三人を抱き上げると、それと共に同じく川の淵に飛び込み、一緒に死んだ。
太平記にある、名も伝わらぬ一家の悲劇である。
589:日本@名無史さん
11/07/26 23:39:40.44
夏の心霊怪奇シリーズ
福原への遷都以来、怪奇現象があいついだという。
ある夜のことだが平清盛の寝室に、柱と柱の間が埋まってしまうほどの
巨大な顔が現れて清盛の顔を覗き込んだ。
しかし、清盛が少しも騒がずにキッと睨みつけるとスーッと消えてしまった。
また、ある晩のことだが、福原の御所には大木などないはずなのに
大木が倒れる音がして二、三千人ほどの笑い声がこだました。
人々は「天狗じゃ! 天狗の仕業じゃ!!」と噂しあった。
そこで昼五十人、夜百人の警備体制を敷き、魔除の矢も射させたが、
天狗のいない方角に射ると、どっと笑い声がする始末であった。
そしてある朝、起床した清盛が中庭を覗くと、どうしたことか
庭は無数のしゃれこうべで充満しているではないか。
しゃれこうべは動き回ってからからと音をたてている。
「おい! 誰かいないのか!」と清盛が呼んでも誰も来ない。
そうこうしているうちに、しゃれこうべはひとつの塊になって四、五十メートルもの
大きさに膨れ上がった。その中の大きなしゃれこうべに無数の大きな目玉が
現れて清盛を睨みつける。
清盛は落ち着いた様子で一歩も引かずに睨み返していた。
すると、あれ程恐ろしく大きかった怪物は跡形もなく消えてなくなってしまった。
590:589
11/07/27 00:14:32.38
>>589
>天狗のいない方角に射ると、どっと笑い声がする始末であった。
どっと笑ったのは天狗ね
591:日本@名無史さん
11/07/27 08:52:41.62
そりゃそうだろう、ドリフコントにあるおばちゃん笑いがしたら、逆に怖いけど