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観応3年・正平7年(1352)のこと
5月の足利方による南朝方・男山攻略にて大いに戦功を現した山名師義は
幕府に対して恩賞を求めるため、政所執事・佐々木道誉にその取次ぎを願い出た。
ところが道誉、
師義が面会を求めるたびに
「今日は連歌の会席がありますので出来申さぬ。又後日」
「只今は茶会の最中でござる。また今度」
と、師義に一向に会おうとはしなかった。
この道誉の態度に師義はついに激怒、郷国である伯耆に帰ると父時氏と語らい
幕府に対して謀叛。先ず佐々木道誉の守護国出雲の守護代吉田秀仲を追放し出雲を接収、
更に国人たちを味方につけ、またたくまに出雲、伯耆、隠岐、因幡の4カ国を手中にした。
そして文和2年・正平8年(1353)6月には南朝方となって京に進軍。この南朝軍は
四条隆俊を将として楠木正儀、吉良満貞、石塔頼房等も加わり足利義詮率いる
足利幕府軍を撃破。
義詮は後光厳天皇を奉じて坂本から美濃垂井に逃走。この時近江堅田にいた
道誉の長男三郎秀綱も討死した。
佐々木道誉の嫌がらせ、高くつく。と言うお話。