10/10/10 05:05:39
というわけで、最初だし派手なのがいいなと思うので太平記三大DQNこと、
三大婆娑羅の一角の有名な逸話から
とにかく色々あって、後醍醐天皇から離反した足利尊氏が湊川の戦いで勝利し、
後醍醐天皇の代わりに光明天皇が即位、北朝が成立した
尊氏に従い、共に後醍醐帝から離反した佐々木道誉は、その功績から
幕府の中枢で重んじられ、栄耀栄華を極める身となったが、
プライドが高く、教養もあって、頭がいいこの男は、
様々な事件を起こす「ばさら」の典型でもあった
彼のばさらを象徴する事件として語られるのがこの事件である
暦応3年、道誉の一族の若党達が、小鷹狩の帰りに妙法院の庭紅葉の枝を気に入り、
折って盗んだ
丁度その時、妙法院の門主は、御簾の中から庭のもみじの風情を楽しんでいたのであるが
突然の闖入者とその暴挙に驚き、坊官に命じてそれを注意させた
注意されたジャイアニズム全開のばさら共は、簡単にキレた
「じゃあもっとデカイ枝を貰ってやるぜ、ヒャッハー!」
そう言って、庭の大きな枝を折るばさら共
やめてー!とオロオロする門主を放ってはおけぬと、妙法院に滞在していた
屈強な山法師達が、この闖入者達を実力行使で追い出しにかかった
これには闖入者達もたまらず
「チクショー!オジ様に言いつけてやるんだからなー!これで終わると思うなよー!」
と、退場していった。これでめでたしめでたしといきたいが、ここからが問題なのである
自家の若党が侮辱を受けて帰った道誉は激怒した
え、これお前のうちのやつが悪くないか?とか言っていてはいけない
そんな理屈はこの時代通用しない。舐められたらおしまいなのである
3:日本@名無史さん
10/10/10 05:07:32
道誉は、すぐさま三百余騎を率いて妙法院を焼き討ちした
風の強い日でもあり、火はあっという間に燃え広がり全焼してしまった
門主は命辛辛逃げられたが、その弟子の若宮は、道誉の息子秀綱に、
板敷の下に追われ、その上を叩きつけられるという屈辱的な振る舞いを受けた
流石にこの暴挙は、多くの人の不興を買ったが、相手は幕府の中枢の人物であり
苦情を受けた朝廷も手をこまねいて、なんら対処ができない
ついに怒った妙法院の衆徒が、神輿を皇居に担ぎ込んで抗議しようという話になるにいたり
ようやく朝廷も、道誉を罰すっることに踏み切ったのである
でも、幕府が言うことを聞いてくれない
朝廷としてはこんな危険人物は出羽とか陸奥とか、
そういう遠いところに流してしまいたかったのだが、幕府は道誉の味方だから同意しない
結局、道誉はその一族ともども、上総の国に流されることになった
だが、おとなしく流されたりはしなかった
道誉が流人として都を発つその行列は、さながら狂乱のパレードのようであり
見物人たちはその豪華さと派手派手しさに目を見張った
見送りの若党二百余騎は、猿皮の衣装を身に纏い、手にウグイスの籠を持って付き従い
郎党は綺羅びやかな遊女を侍らせ、行く先々で盛大な酒宴を催しながら、
ピクニック気分で東下りと洒落込む風情であったのだ
お前流人じゃないのか、と突っ込むことが出来る人間は、もはやいない
華々しく都を発った道誉は、わずか数年のバカンスの後、再び幕政に復帰するのであった
そんな室町の悪(ワル)の話。
4:日本@名無史さん
10/10/10 10:08:11
猿皮は比叡山の守護神、山王権現のお使いが猿だから皮肉として身にまとったっつーのが印象的
5:日本@名無史さん
10/10/10 10:14:39
ついに立ったか。
期待してるよ!
6:日本@名無史さん
10/10/10 10:46:05
スレ立て乙です!
7:日本@名無史さん
10/10/10 10:56:17
>>1スレ立て乙
ところでこのスレは鎌倉・室町の武将の逸話だけ?
この時代辺りの公卿の逸話があっても面白いと思うんだが
8:日本@名無史さん
10/10/10 11:39:07
>>7
公卿・皇族・僧侶・一般庶民の逸話もありです
そうなると結構膨大じゃないかな
9:日本@名無史さん
10/10/10 12:04:30
>>1乙
やっぱ南北朝期のバサラ大名はやることが一々派手だな
10:日本@名無史さん
10/10/10 12:20:24
3大って、GODAIGO、師直、道誉?
11:日本@名無史さん
10/10/10 12:29:04
>>10
高師直・佐々木道誉・土岐頼遠じゃね?
GODIEGOはもう別格みたいな
12:日本@名無史さん
10/10/10 12:39:15
流人だと思ったら風流人だったでござる
13:日本@名無史さん
10/10/10 13:27:59
>>11ディエゴになっとるw
14:日本@名無史さん
10/10/10 13:32:12
どっかで言われてたけど
後醍醐とブッシュジュニアって似てるよねw
「太平」の名のもとに際限なく泥沼の戦争を繰り返すゴダイゴと
「フリーダム」のために他国に軍事介入してふたつの国家を滅ぼしたブッシュw
15:日本@名無史さん
10/10/10 13:51:52
>>8了解です
それではここで正中の変の後話でも
「日野資朝、覚悟を決めさせたのは…」1/2
日野資朝は後醍醐天皇の側近にして初期の倒幕計画の中心人物だった。
ところが資朝らの計画した倒幕計画は挙兵間近の所で土岐左近蔵人頼員が妻へ倒幕計画を話してしまい、幕府へことが露見してしまった。
幕府は六波羅探題に兵を集めこの倒幕計画に参加する手筈だった武将を次々と打ち果たした。
これが正中の変である。
さて、これに焦ったのは後醍醐天皇とその側近達である。すぐさま倒幕計画に加担した公卿を集め会議が行われた。
議題は誰が天皇の代わりに責任を取り、罰を受けるか。
しかし結論はなかなかでない。誰も自分が、とは言えなかったし、お前が責任とれ、とも言えなかった。
16:日本@名無史さん
10/10/10 13:53:28
「日野資朝、覚悟を決めさせたのは…」2/2
そんな時、この会議に参加していた後醍醐天皇の実質的な皇后である阿波廉子が動く。
「…資朝殿はどうお考えですか?」
この瞬間資朝は廉子の言いたいことの全てを悟った。なるほど、彼女は私に責任を取れとおっしゃっているのだろう、と。
資朝が覚悟を決めるまでにそんなに時間はかからなかった。
「この計画に参加した多治見四郎次郎・土岐伯耆十郎頼貞は私が仲間に引き入れたものでございます。
全ての責任は私がとりましょう。お上はまったく与り知らぬことにして私一人が罪を被ればいいのです。
その結果例え死罪になろうと本望でございます…」
そのあと、この資朝を哀れに思ったのか日野俊基も責任をとる、と帝に申し上げ受理された。
結局この二人が乱の首謀者として幕府に召し取られた。
幕府は最初、俊基は証拠不十分のため無罪・資朝は死罪一等のところを減じて佐渡への流罪とした。
しかしその6年後の1330年、再び後醍醐天皇が倒幕を企てるにあたり、俊基、資朝両名は幕府に死罪を命じられ、
俊基は鎌倉で、資朝は流罪先の佐渡で切られた。
この時、父の死に際を見ようと資朝の子供が京から佐渡まで行き、結局最期まで逢えずに終わる話もあるが、それはまた別の機会に。
17:日本@名無史さん
10/10/10 14:00:20
すいません、後醍醐天皇の元弘の変が発覚したのは1331年でしたね
そして資朝が切られたのは1332年でした
ど う し て こ う な っ た…
ちょっと樹海までいってきますorz
18:日本@名無史さん
10/10/10 14:12:21
まあ、首謀格っていえば、この二人は確かにそうなんだが、何か後味悪いよなあ
個人的には日野家は、資朝以外は後に北朝方についてるっていうのが面白いと思う
19:1/2
10/10/10 14:31:07
貞和5年(1349)6月のこと。
京は四条河原において、四条大橋建設の資金を得るための勧進田楽が行われた。
これには足利尊氏、二条良基、梶井宮尊院法親王など、当時の今日の貴顕も多く臨席、
また河原には100間(約180メートル)を超える長大な桟敷が作られ、大勢の群衆が集まりそこから見物した。
さて、この日の田楽の模様を太平記の記事より見てみよう
『両方の楽屋より中門口(田楽のオープニング曲)の鼓を鳴らし、音取(調子をあわせて)笛を吹き立てれば、
匂い薫蘭を催し、粧い紅粉を尽くしたる美麗の童八人、一様に金襴の水干を着して、東の楽屋より練出たれば(中略)
一のササラは本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉は道一、各神変の堪能なれば見物耳目を驚かす。』
当時の一流の名人が集まっての田楽は大いに盛り上がった。そのクライマックス、、
八、九歳ほどの猿の面をつけた童子がアクロバットな芸を見せた
『御幣を差上げて、赤地の金襴の打掛に虎皮の連貫を踏み開き、小拍子に懸けて、紅縁の反り橋を斜めに
踏み出たりけるが高欄に飛び上がり、左へ回り右へ曲り、跳ね返りては上がる』
この時である。熱狂の極みに達した観客たちは、桟敷で一斉に立ち上がり口々にわめき叫んだ
「ああ面白い!もう耐えられない!興奮のあまり死んでしまいそうだ、誰か助けて!」
20:2/2
10/10/10 14:32:00
これとほぼ同時であったという
桟敷が人々が一斉に立ち上がったため、その重圧によって将棋倒しに倒壊したのだ。
この将棋倒しに数えきれないほどの人々が巻き込まれ、押しつぶされた。
更にこの混乱の中、他人から刀などを奪おうとする者、それを見つけて斬りつける者、
争いに巻き込まれ刀傷を受け血まみれになる者、茶の湯を浴びて大やけどをする者、
それまでの田楽歓楽の情景からは一変、四条河原には、地獄絵図が現出した。
この事故、死者だけでも100名を超える大惨事となった。
この後間もなく、河原にこのような狂歌が立ったという
『田楽の 将棋倒しの桟敷には 王ばかりこそ登らざりけれ』
(桟敷の将棋(倒し)の現場には王(天皇)がおられなかった)
また、人々は「世の中がこのように田楽に熱狂するのは、何かよからぬことが起こる前触れではないか」
と囁きあったが、はからずもこの直後に。足利直義と高師直の対立が表面化、新たな騒乱、観応の擾乱が
起こる。
有名な四条河原勧進田楽、桟敷倒壊事件についてのお話。
21:日本@名無史さん
10/10/10 15:07:56
>>20
ひでえ…
行き過ぎたロックバンドのライブかよ
22:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/10 15:27:41
平安(中期)も入ればよかったのですが。
>大体院政期から応仁の乱くらいまでの逸話を語りましょう
ひとまず。
『小侍従が懺悔物語の事』
後白河院の御所で、公卿と女房数名が侍り、雑談に興じていた時のこと。
「各々、忘れがたい秘密の思い出というものがないか。あれば、懺悔も兼ね
てこの場にて開陳するがよかろう」という、仰せがあった。
そこで、院御自身から順に語られた後、小侍従という古女房の番となった。
彼女は往年は色恋で鳴らした人物であり、さぞやその手の話も多かろうと周
囲が注目する中、「おほく候ふよ」と言い、中でもとりわけ忘れがたい思い
出があるので、未練として悪道に堕ちるよりは話しておこうと言うには、
『ずいぶんと昔。ある所より車でお迎え頂いた時には、以前より恋焦がれて
いた方からのお申し出ということで、胸は高鳴り、月かげや風の冷たさとい
うものも、より一層感じられ、千々に心が乱れておりましたところ、落ち着
かぬままでも車は近づいて参りますもので、そのまま乱れた心を抱えて乗り
込み、あちらへ参りました。
23:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/10 15:29:29
さて先方へ行き着きまして、車寄せから入りますと、御簾の中から薫物のよ
き香りと共に、慕わしいあのお方が出て来られて、「なんと遅いこと」と仰っ
て、私を抱きとめ、共に一夜を過ごしたので御座います。
その後、鳥が鳴き、鐘が鳴ると共に家に帰らねばならなかった時の心といっ
たら、とんと上の空で。
うっかりしてあの方の衣を(事後に身につけた際に)着て帰ってしまったので
すが、それをとる使いが参った際には、「また別れるのか」と、一層物悲しく
思われたことで御座いました。』
流石は色好みの小侍従。周囲は感嘆したが、それで済まされないのが後白河院。
「うむ。真に耐え難かったであろうな。で、その相手は誰じゃ。」
小侍従も、はいそうですかと答えはしない。
「いえ、どうかご勘弁下さいませ。申し上げかねます。」
しかし、院も執拗にお訊ねになった。
「そこまで言わぬことには、懺悔になるまいが。」
そこで小侍従、微笑みながら言った。
「それでは、申し上げましょう。憶えておいででは御座いませんか。院が位
に就いておられました、その年のその月、あの方をお使いに、私を召されま
したこと、よもやご否定はなさいますまい。誤りが御座いましたか。」
そう言い終わると同時に、一同大爆笑。
院は居た堪れなくなって、お一人で奥へ逃げ込んでしまわれたそうな。
24:日本@名無史さん
10/10/10 15:56:15
エロバナw
…これはいい話?悪い話?
25:日本@名無史さん
10/10/10 16:09:34
後白河院のバツが悪い話だなw
覚えてなかったのか?
26:日本@名無史さん
10/10/10 16:23:48
覚えきれないほどの相手と(ry
なんてうらやましい
27:日本@名無史さん
10/10/10 16:24:23
この時代、数百人とHする人なんて当たり前だからな
そりゃ憶えてないよw
28:日本@名無史さん
10/10/10 17:30:58
「日本史 ちょっといい話・悪い話」にした方が良かったのでは?
29:日本@名無史さん
10/10/10 17:32:25
>>28
昔そんなの立ったけどとりとめがなくてすぐ廃れた
30:日本@名無史さん
10/10/10 17:33:02
そりゃ範囲広すぎ。
奈良時代や平安時代の逸話は特に知りたくないのでこの方がいいです。
31:山内経俊の助命1/2
10/10/10 18:41:43
後白河法皇の子・以仁王は、源三位頼政とともに平家打倒の兵を挙げ、
諸国の源氏に令旨を送り、蜂起を促した
平治の乱以降20年余りの歳月を流人として伊豆で過ごした源頼朝も、これに応え兵を挙げた
挙兵に際し、頼朝は東国各地の豪族の動向を伺い、大庭景義、三浦義明、千葉常胤、上総広常等の
同心を確約したが、一度は滅亡したも同然の近江源氏の流人の青二才を侮る者も多く
大庭景親、伊藤祐親、志田義広など、多くの者がこれに応えず、平家方に付いたのだった
特に、頼朝の乳母兄弟でもあった山内経俊は
「頼朝が平家を討つなど、富士と背を比べ、鼠が猫を狩るようなもの」
と嘲笑する有様であった。
実際アクシデントが続き、算段も取れないまま挙兵した頼朝たちは
あまりパッとしない戦いの末に石橋山合戦で平家方に大敗する
山内経俊も、この合戦の最中に頼朝の姿を見つけ弓を射た
その弓は頼朝の鎧に突き刺さるが、命を奪うことは無く、頼朝は逃げおせた
大きな犠牲を払いながらも、悪運に恵まれ房総へ逃れた頼朝は
千葉氏、上総氏の援助を得て再挙、軍団を整えて武蔵へ進軍し、鎌倉に入った
そして平惟盛率いる討伐軍を富士川の戦いで破ったのである
32:山内経俊の助命2/2
10/10/10 18:42:35
こうなると、石橋山で頼朝に弓を引いた者たちは立つ瀬が無くなる
降伏した大庭景親は斬られ、伊藤祐親も自害する中、山内経俊も斬られることになった
この決定を聞いて慌てた経俊の母(頼朝の乳母)は、頼朝に助命を願いに参上した
頼朝は乳母の訴えに対して何も言わずに、石橋山で自身が着用した鎧を見せた
鎧の袖の、矢の巻口の上には、経俊の名がきっちり入った矢が見事に突き刺さっていた
乳母は言葉を失い、何も言わず退散した
ところが頼朝は、結局この経俊の命を助けてやるのである
しかも「役立たず」と罵りながら、何だかんだと官職につけ重用してゆくのだ
頼朝のツンデレぶりが伺える話であるが、いいか悪いかはわからなかったすまん
33:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/10 20:18:45
『鳥羽僧正、絵の描き様問答の事』
鳥羽僧正という人は、比類なき絵の名手であったが、その下にも絵描きの好
きな法師がいて、あまりに練習を重ねたものだから、最近は僧正にも劣らな
いほどの絵描きになっていた。
これには僧正もねたましくなり、どうにかして失点を見つけ出してやろうと
思っていたところ、法師が手元に置いていた自信作の中に、喧嘩の図があっ
て、相手に突き刺した刀の切っ先が、拳ごと背中へ出ているのを見つけた。
これはいい失点と思った僧正、早速法師に向けてこのことをあげつらう。
「お前さん、もう絵を描かぬ方がよかろう。人を突いたからといって、拳ま
で背中に出るなんてことが、あるものか。ありもしないことだ。
こんな心ばせなら、絵を描くべきではない。」
すると法師も反論する。
「そのことですが、これは絵の故実というやつでして。」
僧正、相手が言い終わる前に文句を言う。
「自分で決めた故実か。片腹痛いわ。」
だが、法師も動じない。
「私一人のものでは御座いません。昔の名人の描いた性交の図などを見てみ
ますと、性器の寸法は、とても実在するものの大きさでは御座いません。
なんで、現実にあんなものが存在する筈が御座いましょう。
ありのままを描いたら、興ざめであるからこそ、ああしたのです。
絵そらごととは、絵だけが表現しうるもの故に言われている言葉です。
事実と異なる描写は、貴方様の絵にも数多見受けられますが。」
この様に臆することなく言い放ったものだから、僧正も正論だと感じ、黙っ
てしまったという。
前半だけなら悪い話、オチがついたのでいい話(多分)。
34:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/10 21:31:46
『福原大相国禅門のわかがみの事』
平清盛という人は、若い頃実に立派な評判をとった人であった。
折悪しく、苦々しいことをしでかした者がいても、戯れであろうと思ってと
がめず、お愛想でつまらないことを言われても、笑ってやった。
どんな誤りをし、物をぶちまけ、呆れる真似をする者がいても、今更言って
も詮無いことであるとして、声を荒げる様なことはなかった。
冬の寒い頃には、傍に控えている者たちを己の衣で覆ってやり、朝早く目が
覚めた時には、まだ寝ている者たちを起こさずにおき、好きなだけ寝させて
おいてやった。
召使の末端に位置している様な者であっても、身内がやって来た目の前では、
欠かせない人材である様に扱われたので、そんな姿を身内に見せることが出
来た者たちは、おおいに面目をほどこし、心から喜んだ。
こういう情け深い人であったから、多くの者達が心服したのである。
ここでは若い頃の話とされており、晩年はそうではなかったのかという話に
なりそうですが、当時の因果応報の理から言うと、善因が善果に、悪因が悪
果になる筈なので、晩年まで「いい人」であったことにしてしまうと、熱病や
一門滅亡の原因がつかめないので、あえて若い頃としたものでしょう。
この話が本当なら、基本的な性格は変わらなかったのでは。
寝ている家来を起こさずにおくという話は、伊達政宗や徳川家治にもあります。
35:日本@名無史さん
10/10/10 21:37:35
あんまり一気に書かれても読めないので小出しにしてくれた方が・・・
36:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/10 21:44:15
『上達部案内を頼む事』
天福(1233~1234)の頃、ある上達部が、嵯峨の辺りに家を建てようと思い、
出歩いた末に、大覚寺の池の辺りで破子を開いていた。
するとそこに、杖にすがった老僧が一人で歩いて来たので、これ幸いと周囲
のことを訊ねてみると、これが驚くほど詳しい。
喜んだ上達部は酒を勧めてみるが(当時の僧侶は慣習で飲んでおり、俗人も
当然のこととしていた)、珍しく断酒していると言って飲まない。
それならばと破子を勧めてみると、斎(午前中しか食事をしない僧の掟)と
言って受け取らない。
全くもって、今時珍しい清僧であった。
そこで上達部、「それでは、後で必ず参れ。馴染みになって、嵯峨の案内を
頼もうではないか。」と言い、家と名を訊ねた。
すると老僧、「この辺の人は、左府の入道と申しております。」と言う。
それを聞いた上達部は肝をつぶし、破子も食べずに逃げ出した。
この老僧、前左大臣藤原隆忠(当時71~72歳)の出家した姿であり、当時は
大覚寺と号していた人物であった。
37:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/10 21:45:51
>>35
とりあえず、これで一旦打ち止めです。
38:日本@名無史さん
10/10/10 22:52:22
>>37乙
しかし>>32の逸話の山内経俊はきっとそれ以降ずっと陰でなんか言われ続けたんだろうなー
まぁ、自業自得だがw
39:日本@名無史さん
10/10/10 23:25:42
>昔の名人の描いた性交の図
見てみたい
40:日本@名無史さん
10/10/11 01:22:51
ひぎぃとか書かれてたりしてw
41:日本@名無史さん
10/10/11 02:05:25
スレ立て乙
とりあえず有名どころから
執権の母・松下禅尼
相模守北条時頼の母、松下禅尼はあるとき時頼を自宅に招いた。
そのおり、禅尼は自ら障子の破れを切り貼りし、修理していた。
これを見た兄の安達義景が、
「自分で直すことないんじゃない?器用な男がいるからそいつに任せようよ」
と言ったところ、禅尼は
J('ー`)し「その者だって私より上手ではないでしょう?」
と返して張り替えを続けた。
そこで義景は
「替えるなら全体を取り換えてしまえば、楽だし見栄えもいいのでは?」
と重ねて申しあげると、禅尼は
J('ー`)し「いずれそうするつもりですが、今日はわざとこうしているのです。
物は壊れたところを修理して使うものだと、若い人に教えようと思っています。」
と答えた。
この松下禅尼の教育を受けた息子が、幕政の安定と執権権力の強化に奔走した
北条経時・時頼の兄弟である。
42:日本@名無史さん
10/10/11 02:18:26
>>38
でもこいつこの後平家滅亡の時とかに、
義経と同じように頼朝に無断で官職を得てマジ切れされたりして
それでも何か許されて
梶原の排斥にも参加したりなんかして
実朝の時代になった1225年に89歳で死んでるんだぜw
43:日本@名無史さん
10/10/11 07:50:06
母方や乳母の縁者には甘かったと言われるけど、もっとうまく立ち回っていたら足利義兼や結城朝光みたいに子孫が繁栄できたんだろうね
44:日本@名無史さん
10/10/11 11:22:11
>>42
(●д゚)体質か…
45:日本@名無史さん
10/10/11 11:34:44
>>44
政宗みたいに一族の繁栄の礎築いたわけじゃないしな
頼朝が乳母の山内尼には甘かったというだけだと思われる
46:日本@名無史さん
10/10/11 11:48:28
なるほど。本人に能力や愛嬌があったわけじゃなく、
頼朝が本人自体は好きでもないけど乳母に恨まれるのが嫌で
仕方なく多めに見てやってただけって事か。
47:日本@名無史さん
10/10/11 12:04:27
比企尼の縁者
安達盛長・・・頼朝の側近、子孫は北条と組んだりして繁栄(後に滅亡)
河越重頼・・・義経の義父になったり厚遇されたけど、それが仇になって殺される。ただし所領なんかは河越尼(比企尼の娘)経由で子孫へ
平賀義信・・・御門葉(頼朝の一門扱い)の一人、息子は北条時政に将軍候補として担ぎ上げられそうになった平賀朝雅
比企能員・・・頼家の乳母を出したり、娘が頼家の側室になったりして栄える(直後に滅亡)
寒川尼の縁者
結城朝光・・・頼朝の側近、結城氏の先祖として北関東で栄える
と、他の乳母の娘婿や養子や息子なんかの繁栄ぶりに比べたら、命があるだけありがたいと思えというくらいの差があるかも
48:日本@名無史さん
10/10/11 12:50:16
隠岐を脱出した後醍醐天皇は兵庫の福厳寺に到着します。
そのとき頭痛を発し、近隣の薬仙寺の井戸水を飲むことで頭痛は治まりました。
そして薬仙寺は後醍醐天皇より、医王山の山号をいただきます。
ここで気になるのは、福厳寺の井戸水では無しに、他所から水を持って来させたことです。
神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。
49:三浦の犬
10/10/11 13:34:57
1213年、鎌倉幕府にて政所別当を務めた重鎮、和田義盛が
北條氏との政争の末、追い詰められて乱を起こす
世に言う和田の乱である
義盛は和田一族のみならず、横山党や波多野氏や、
三浦氏の筆頭格で、従兄弟で友人でもあった
三浦義村の同心を得、挙兵するが
義村が土壇場で華麗に寝返り、北條義時に通じ、やがて敗れた
そんな経緯があっての話なので、これはそれより後の話であろう
ある年の正月、
年賀の挨拶のために、多くの御家人達が将軍の御所を訪れていた
そんな中、三浦義村は早くから詰所に入り、上座に座っていた
ところが後からやってきた下総の千葉胤綱が、
堂々と多くの人間を無視すると、義村より上座に座りこんだのである
千葉胤綱はかなり若く、この出来事の時十代後半から二十代前半ほどだった
年齢からいっても官職からいっても明らかな非礼を受け
義村は怒って
「下総の犬は己の居場所も知らぬか」
と言い捨てた
だが言われた胤綱は平然とした顔で
「三浦の犬は友を食いますな」
と返した
和田の乱での義村の行為を皮肉ったのだ
『古今著聞集』にはこの後のことは書かれていないが
騒動になったという話が伝わっていないので
何とかその場は収まったのであろう
50:日本@名無史さん
10/10/11 18:46:56
>>32の山内経俊もそうだったが、
一般的イメージからしたら驚くくらい頼朝は、周囲から舐められていた。
平家滅亡直後の元暦二年、討伐に派遣さていた24人の御家人が、
頼朝に無断で任官を受けたのは、そういう空気の現れだったと言っていい
この24人に経俊もバッチリ名を連ねており
「官を好み、その要用無き事か。あわれ無益の事かな」
(意訳:官位が欲しくて欲しくてたまんないみたいですけど、
お前にそれだけの能があるかよ、官位カワイソー無駄じゃん)
という頼朝の生々しい罵声が残されている。
この時の頼朝はそうとうにキレていたらし、
同じく勝手に任官を受けた渋谷重助には
「度々の合戦に、心は甲にて有れば、前々の御勘当を免じ、
召し仕わるべきの処、衛府して頸を斬られぬるはいかに。
能く用意して加治に語らい、頸玉に厚く巻金をすべきなり。」
(意訳:今まで平家についたり木曽についたりウロウロしてたのを
結構使えるから黙って許してやっていたが、もう許せねえ
精々首っ玉斬られねえように、鍛冶屋に相談して金の首巻きでも作っとくんだな)
と、まるでヤクザのような文句を送り、
律儀に24人全員に「このフワフワ面!」「臆病声!」と罵声を連ねた締めには
「この外と雖も、永く城外の思いを停止せしむべきか」
(意訳:お前らもう都の外に出られると思うなよ?)
と、書き残されていたりする
実際には、少なくとも経俊は生きて都の外に出られたわけだが
金の首巻きを用意するよう言われた渋谷重助がどうなったのかは、残っていない
51:日本@名無史さん
10/10/11 18:59:12
一人ひとりの欠点をよ~く憶えてるな頼朝はw
それが大将の一番の心得なのかもね
52:日本@名無史さん
10/10/11 20:37:51
頼朝が粛清に走る気持ちが少しわかった気がする
53:日本@名無史さん
10/10/11 21:49:58
南北朝の争乱が始まる直前に花園上皇が皇太子(後の光厳天皇)に心得として書き残した書
があるが、その中身を纏めるとこんなもの。
・お前が天皇となってから、大規模な戦乱が起こるだろう。
・しかし、その戦乱に対して、後醍醐のように武力で立ち向かうのではなく、
100年後のために色々な屈辱に耐えて、ひたすら「真の学問」に励め。
自分の後継者に対して、「これからの将来は悲惨だが、ひたすら耐えろ」なんて書く辺り、
本気で状況を悲観していたんだなと思いますけど、現実は花園上皇の予言どおりにことが進む訳で。
かえすがえすも後醍醐天皇って、京都政界にとっても鎌倉にとってもトラブルメーカーだったんだな。
54:日本@名無史さん
10/10/11 21:53:18
>>53
しかし天皇家は今もやってることがそうかわらんね。
55:日本@名無史さん
10/10/11 21:54:48
>>53
というか鎌倉末期にもう無視できないほど社会矛盾が広がってたのは間違いなく、
幕府も朝廷も有効な手を打てなかったのも間違いない。
後醍醐以前にすでにトラブルは全国で勃発していた。
後醍醐はその社会矛盾の問題性の認識も対策も持っていた。
これはあの時代、後醍醐だけだったと言っていい。
ただ、いろいろな条件によりその実行が不可能だった。
56:日本@名無史さん
10/10/11 22:10:59
で、その実行不可能な現実を認識して無かったんだよな
57:日本@名無史さん
10/10/11 22:52:19
ジリ貧を避けようとしてドカ貧になる、な感じなんじゃないかな>後醍醐
とにかくやらなきゃ駄目なんだ的な。
まあ後醍醐がやらなくても誰かが乱を起こしただろう。
58:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/11 23:07:41
王莽みたいな人だったでしょう。>後醍醐
現実を理念に合せちゃいけません。
59:日本@名無史さん
10/10/12 00:06:00
>>57
それって百姓一揆に近いものがあるな。w
60:日本@名無史さん
10/10/12 09:49:46
百姓一揆は自分の生存権が犯されるからギリギリで立ち上がったものだが、
ゴダイゴは・・・
まあやりたいことやったから、いい人生だよね。
61:日本@名無史さん
10/10/12 10:00:39
でも子孫が....。
62:日本@名無史さん
10/10/12 12:33:19
院政期ってことは、ここ八幡太郎義家や、将門公はスレチになっちゃうのか
63:日本@名無史さん
10/10/12 18:08:22
有名な話だけど、太平記より
暦応元年(1338)の頃のことだそうだ。
この年の5月には北畠顕家、閏7月には新田義貞が討死し、翌年8月には後醍醐帝崩御。
南朝の勢力甚だしく衰え南北朝の戦乱の終結も遠くない、人々がそう思っていた頃である。
ある雨の日、一人の禅僧が仁和寺の六本杉で雨宿りをしていた。
すると、六本杉の上の方からなにやらヒソヒソとした声が聞こえる。
何事かと見ると、木の梢に人々が集い密談をしていた。
その中心は護良親王、彼を囲むように後醍醐帝の外戚、峰僧正春雅、南都の知教上人、
浄土寺の忠円僧正ら、みな、南北朝の動乱の中で死んだ人々である。
彼らが苦悶の表情で集合し、密謀を行っていたのだ
この謀議の中で、護良親王は足利直義の子として生まれ出ること、峰僧正は夢窓疎石の同門である
妙吉となって直義の政道の補佐をすること、知教は上杉重能・畠山直宗に乗り移り高師直・師泰兄弟を
亡き者とすること、逆に忠円は高師直・師泰兄弟の心に入れ替わって上杉・畠山を滅ぼすこと、
「これによって尊氏・直義兄弟の仲は裂かれ天下大乱となり我等は怨念を晴らすことが出来るであろう!」
この怪異があっておよそ10年後の貞和4年(1348)、足利直義と高師直の対立より始まり、
南北朝の動乱をさらに長引かせ、かつ複雑化させた『観応の擾乱』が起こる。
『観応の擾乱』を予告したとされる、太平記の記述である。
64:日本@名無史さん
10/10/12 20:26:06
観応の擾乱前には、様々な怪異があったとの記録が残されてるよね
当時の世間の不安感や、オカルティックな空気がよくわかる
65:日本@名無史さん
10/10/12 20:38:55
大塔宮はなぁ、足利をぶっつぶしたがったのはわかったけど性急すぎた感がある
勝手に親父の名前つかって兵を集めるとかさすがにないわ
66:日本@名無史さん
10/10/12 20:48:22
親王が令旨出しても問題ないだろ
URLリンク(www.vill.totsukawa.lg.jp)
親王でもない以仁王の令旨の方が問題
67:日本@名無史さん
10/10/12 21:38:55
>>66
問題大有り。
後醍醐の治世の根幹が「綸旨万能主義」なんだから、それに代わる様な
代物なんて後醍醐が認めることが出来ないもの。
だからこそ倒幕の功労者にも拘らず、護良を比叡山に返そうとした訳。
68:日本@名無史さん
10/10/12 21:39:36
>>62
えええ義家がスレチとか厳しいな…
戦国のほうも家光とか普通に扱われてるし、その辺は幅持たせればいいんじゃないか…
69:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/12 22:09:13
>>62
院政期なら、義家は問題ないでしょう。主に白河院の時代に活躍した人物ですし。
頼光や頼信は無理ですが。
70:日本@名無史さん
10/10/12 22:12:23
正成の話、籠城戦とかないですか?
敵兵に向かって糞尿をかけたとかそんなの
71:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/12 22:13:46
『知足院殿鷹狩の事』
かつては弓矢を用い、馬に乗って大型獣を対象に狩猟をしていた公家も、10
世紀以降は軍事貴族や非軍事貴族でありながら武を弄んだ一部の公家を除き、
狩と言えば専ら鷹狩を行う様になっていた。
これは久安6年(1150)8月20日、藤原忠実が語った話である。
「最近は、小鷹狩(秋に小鳥を捕える鷹狩)が盛んであるな。
我も幼少の頃はおおいに楽しんだもので、中でも13~14歳(約50年前)
の頃には、熱中しておったものだ。
ここから下った絵林という所で飛ばしたこともあったが、その時は鳶が二羽
飛び上がって来てな。
互い違いに鷹が飛んで、そのまま迷って下りて来て、我の笠の上に乗った事
があって、哀れに思ったことよ。
その後の事よ、『宇治大納言物語』(※)を女房が読んでいるのを聞いたのは。
『今は昔。鷹狩を好んでいた男がいて、ある時自身が雉となり、妻子と共に
北山の小屋に宿っていたのに気づいた。
そのまま野辺に出て餌をついばんでいた所、人が来て鷹犬を放ち、自分たち
を捕えようとする。
天にあっては鷹の爪を免れえず、地にあっては犬の顎から逃れられず。
なんとか自分と残った一羽の子が叢に逃げおおせたと思った時、鷹に襲われ
て、夢から覚めた。
男は飼っていた鷹犬を放つと、そのまま出家した、と語り伝えている。』
この話を聞いた翌日の朝、鷹を全て空に放ったよ。その後はやっておらん。」
※『宇治大納言物語』……>>33の鳥羽僧正覚猷の父、源隆国編纂とされる説話集。
『今昔物語集』との関連が予想されているが、中世に散逸して詳細は不明。
72:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/12 22:16:06
これより遡ること12日前の8月9日、忠実は「弓馬」のことを語っており、頼通
は歩射が得意であったのに、近代はそうではないと愚痴の様に述べています。
道長が歩射・乗馬を共に好んだことは有名ですが、彼らを先蹤としていた忠実
も、若い頃は血気盛んだったのかもしれません。
73:日本@名無史さん
10/10/12 22:17:31
>>62
純友と将門はちょっとなぁ…
でも八幡太郎義家は良いんじゃないかな?
鎌倉時代の始まりが1185(今はこれでいいんだよね?)からなんて教科書に縛られる必要はないでしょ
少なくとも公家にかわって武家が権力を掌握する時代からこのスレでおkってことにしない?
74:日本@名無史さん
10/10/12 23:15:41
>>73だが具体的には平忠盛あたりが落としどころだと思ってる
西暦でいうなら1100年代から
ちょっと広い?
75:日本@名無史さん
10/10/12 23:24:32
中世的な匂いが感じられればそれでいい
76:1です
10/10/12 23:24:56
院政期と書いたのは、個人的にその始まりを後三年の役と捉え
ゆるーい範囲で前九年も扱えるようにすればいいかと思って書いたのですが
ちょっと広すぎますかね?
戦国時代板の方がやや広めに、応仁の乱から天草の乱まで取っているので
これくらいかなと思っているのですが
77:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/12 23:29:08
後三条院からでよくありませんか。
更にゆるくとれば、11世紀後半以降ということで。
78:日本@名無史さん
10/10/12 23:34:54
まあネタが説話集からじゃあ
時代幅を広く取りたくもなるわなw
79:日本@名無史さん
10/10/12 23:47:22
今昔みたいな説話集だと逸話によっては全く違う年代だったりするから難しいよね
でもまぁ、前九年からで良いんじゃないかな?
後三条は院政への良い橋渡し役だったのは確かだけど院政を始めたかと問われれば?な訳だし
80:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/12 23:54:51
十二年合戦で思い出しましたので、今宵の〆に。
『後藤内軍物語の事』
白河院の御代。天喜5年11月の合戦において、源頼義に付き従った六騎の中に
いた藤原則明、通称後藤内は既に老齢であったが、院の御召に従い、往年の
合戦を物語る大役を仰せ付かっていた。
そこでまず言うには、
「故頼義朝臣の鎮守府をたちて、秋田城へつき侍りし時、薄雪降り侍りしに、
軍のをのこども」
とここまで言った時、院よりお言葉があった。
「うむ、もう宜しい。幽玄なる情景が浮かんで参った。もう、これ以上は不要。」
そうして、衣を下賜されたということである。
81:日本@名無史さん
10/10/13 00:01:50
>>70
正成が尻剥き出しにして糞しようとしたんだって。
ところが、ぢで正成の方が悲鳴をあげて引っ込んで、鎌倉方の失笑を買ったそうだ。
82:日本@名無史さん
10/10/13 00:05:21
>>80が結構綺麗な話だったのに>>81で台無しだよw
しかし今も昔も合戦話が人気だということは分かったが
まさか情景だけで衣をくれるとは思わなかっただろうなw
83:日本@名無史さん
10/10/13 00:05:38
手術のできない昔
進行した痔の治療法は存在しない。
生き地獄だっただろうな
84:日本@名無史さん
10/10/13 00:28:57
説話は安易。
ネタが引きやすいのは分かるが・・・
85:日本@名無史さん
10/10/13 01:17:03
>>82
俺、ご老体が長い長い思い出話のエンジンかけたのを察して
辟易したから「もうイイよ、もうイイよ、ご苦労さんありがとう」
したのかと思っちゃったw
86:日本@名無史さん
10/10/13 01:24:09
>>71
仏教に傾倒した公家の心情がわかるいい話しですね。
手塚仏陀にも似た話があったような・・・
87:日本@名無史さん
10/10/13 04:04:34
痔は苦しいな
自然治癒とかも当時では長引きそうだし
88:日本@名無史さん
10/10/13 04:16:36
>>87
ウンコした時痛みを感じるレベルになると自然治癒は不可能。
切るしかない。
戦前の徴兵検査でも痔だと不合格になるほど怖ろしい病気。
89:日本@名無史さん
10/10/13 08:09:29
江戸時代の大名では死因になった方もいるとか。
90:日本@名無史さん
10/10/13 10:08:12
痔で入院したことあるけど、悪化するとピクリとも動けなくなるよ。
気が狂っておかしくなっても不思議じゃない。
91:日本@名無史さん
10/10/13 10:43:58
またまたご冗談を
…え、マジで?
92:日本@名無史さん
10/10/13 13:19:59
富士川の戦いに勝利し、佐竹討伐も終え、
ようやく鎌倉も一心地ついた治承5年6月19日
頼朝が三浦半島に行き納涼することになり、
三浦一族は一族を上げてこの歓待をすることになった
この納涼には頼朝以外にも上総の豪族で、
東国平定に大功のあった上総常広等も参上した
ところが、やがて頼朝が到着すると、
その場にいた者達はみな砂の上で平伏したが
広常だけは馬からすら下りずに礼をした
これに気付いた三浦一族の一人佐原義連は、さっそくこれを注意したが
広常は構わず
「わしは三代源氏に仕えておるが、公私共にこのような礼を取ったとこはない」
と言った
事実が、頼朝の武運の端を開いたのは広常の参戦であり
彼の協力が無ければ、今は無かったのは確かである
そういった理由から、広常の振る舞いを誰も窘めることができなかった
93:日本@名無史さん
10/10/13 13:21:55
何となく暗雲が立ち込めているわけだが、
ひとまずそこは揉め事が避けられ、一行は会場となる故・三浦義明の邸宅に向かった
義明の嫡子で、三浦の現当主三浦義澄は、贅を尽くして頼朝達を持て成し
酒も入って、中々いいムードになってきた
そんなムードの中、三浦一族の一人で、早くから頼朝に馳せ参じた者でもある
岡崎義実が、頼朝にその着用している水干を所望した
義実は、石橋山合戦で頼朝の死地を開くため討死した真田与一の父でもあり
本人も頼朝の為に熱い忠義を傾けてきた男でもあったから
頼朝はこれを許し、自分の水干を脱いで渡した
義実は受け取るや、喜んでこれを着用してみせた
94:日本@名無史さん
10/10/13 13:22:54
これが広常のカンに障った
「そのような美しい服は、この広常こそが着用するに相応しいところ
義実のような老いぼれが賞され、頂くのは思いもよらぬ」
この言いように義実も怒り
「広常にいくら功があると言っても、ワシの最初の忠義にいくら比べられるというのだ
比べられるとものでもあるまい」
と言い返した
忽ち場は騒然となり、二人の口論は加熱
「表へ出ろぉ!」「上等じゃコラァ!」と乱闘が始まりそうになったが
きっかけを作ってしまった頼朝は、窘め治める術を持たず
何も言わないまま黙ってその状況を見つめていた
と、ここに到着時に広常を窘めた佐原義連が走ってやってきた
義連はまず身内の義実を叱る
「この催しに義澄がどれだけ励んでいるか知っているでしょう
誰もぶち壊しになることなんか望んでいません
いい年して何をやってるんですか」
それから広常に物申した
「あなたの文句も、今話すことではない
申し上げたいことがあるならば、後日にして頂きたい」
とにかく、今この場で揉めるな!
そう言って、義連はその場をきちんと治めてみせ
頼朝もこの顛末に満足した
これから数年後、上総広常は頼朝の命で謀殺される
岡崎義実は幕府の片隅で忠勤を詰むが
うまい世渡りなどは出来ず、晩年は困窮し、
息子の菩提を弔うために北條政子に援助を頼み、老齢で死んだ
後にその子孫は和田の乱において和田方で戦い
岡崎氏は滅んでいる
95:日本@名無史さん
10/10/13 18:05:17
所行無常よのう・・・
96:日本@名無史さん
10/10/13 21:03:12
頼朝の死因は痔。
乗馬中、つい患部をマトモに刺激してしまい、悶絶して落馬。打ち所が悪くてそのまま逝ってしまった。
余りにも恥ずかしい死にざまに、吾妻鏡にも記載が憚られた。
97:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/13 21:09:54
【訂正】
>>71の(約50年前)は、(約60年前)の間違い。
【補足】
>>80の天喜5年は、1057年。
【余談】
>>80に見える源頼義の七騎落ち(後世毛利元就の七騎落ちなどコピーがいく
つも誕生する)で、頼義に付き従ったのは、源義家、藤原景道、清原貞廉、
藤原範季、大宅光任、藤原則明の6名。
彼らについて、後代の史料は次の様に述べている。
藤原景道→「源頼義朝臣、貞任等を攻むる時、七騎武者の随一なり」
大宅光任→「源頼義朝臣、奥州十二年合戦の時、七騎武者の第一なり」
今でいう、本家と元祖。
【更に余談】
光任の「第一」云云の記事は、同家の系図にある言葉。
一方、景道(藤原利仁の曾孫)が「随一」という記事が書かれたのは……
建久3年(1192)当時、頼朝の庶子(後の貞暁)が生まれたため、複数の有力者
が乳母の世話を頼まれたのだが、御台所(後の政子)の勘気を恐れる彼らは、
軒並み断りを入れて来た。
そこで出産に関わった景道の子孫景遠の息子、景国が担当になったのである
が、祖先が「随一」の武者と注記されたのは、この時であった。
その後果たして勘気を蒙るのであるが、御台所から逃げる武士に、御台所に
立ち向かって「先祖が勇者であった」と紹介された武士とは一体……。
98:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/13 21:11:24
【後鳥羽院放猪の事】
後鳥羽院は騎射・歩射・乗馬に堪能で、相撲や水練もお好みであり、大力を
発揮された方で、刀もお好きであった。
そんな武の面で知られる方であったが、歌人としてもまた一流。
当時随一の歌人であった藤原定家とも、当初は良好な関係であったが、何し
ろ双方ともに我が強かったものだから、やがて犬猿の仲に。
ついには承久の乱の時に定家が「紅旗征戎吾が事に非ず」と述べ、隠岐へ流罪
とされた院が定家は冷たいと愚痴をこぼされることになるのであるが、それ
よりずっと前、建仁2年(1202)当時から、両者の仲は冷えていた。
この年の夏は旱続きであったが、定家は次の様に述べている。
「雨は降らない。その上、近日は強盗が人を害している。先日も院の女房が
鳥羽路に於いて被害に遭ったそうであるが、対策はとられない。
院がおやりになることと言ったら、ただ「遊覧」に尽きる。
近日はしきりに神泉苑に行幸なさり、猪狩を楽しんでおられるとか。
しかしこの猪、神泉苑中を掘り返しては、蛇を食べているのである。
今こんなことになり、神竜(神泉苑に棲み、密教僧や陰陽師の祈雨の対象
とされていた善如竜王)の心は、如何なものであろうか。
世間の者たちは、(竜の眷属である蛇が食べられたせいで)旱になったと
言っているのだが。」
この猪、後鳥羽院が狩猟用に神泉苑に放たれたもの。
神泉苑には鹿が飼われており、律令時代には地方から献じられた瑞鹿が放た
れたこともありましたが、猪はまず出なかった筈です。
定家はこれ以外にも、近年は公家が弓矢を用いて大型獣を狩猟対象としてい
ることを苦々しく述べていますが、後鳥羽院への意識もあったのでは。
ちなみに、この「旱の原因は後鳥羽院」と暗に書いた四日後には雨が降り、
五日後には一日中止まない大雨となっています。
99:日本@名無史さん
10/10/13 21:24:44
単なる逸話紹介スレになってる希ガス
100:日本@名無史さん
10/10/13 21:25:53
>>99
基本そうじゃね?
何を期待してるんだお前は
101:日本@名無史さん
10/10/13 21:27:39
逸話貼るだけじゃなくてさ、逸話について雑談を楽しむのが逸話スレの趣旨だよ。
書いてもらえるのはありがたいが書き過ぎは感心しないな・・・
102:日本@名無史さん
10/10/13 21:48:02
>>100
いい話とか悪い話とかを期待してたんだが…
103:日本@名無史さん
10/10/13 21:52:17
無用の一言でスレの過疎化フラグが立ちました
104:日本@名無史さん
10/10/13 21:58:49
それ本スレで言ってこいよ
まあ何か流れが説話臭いのは否めないがな
105:日本@名無史さん
10/10/13 22:02:23
沙石集、古事談、十訓抄などなど新潮古典集成、岩波大系及び新大系に含まれてるような書物が出所の逸話には
もう飽きがきてます
あと吾妻鏡もベタベタですし
もう少しマイナーな書物からの逸話をお願いします
106:日本@名無史さん
10/10/13 22:04:06
つまらん奴がつまらんことを言い出してスレ終了
お前もなと言われるので、はいそうですと言っておくよ。
107:日本@名無史さん
10/10/13 22:07:36
>>104
説話が多い理由は、単純に引っ張ってくるのが楽だからでしょw
108:日本@名無史さん
10/10/13 22:19:55
戦国板の方針から言って小説とかでなけりゃ、何から引っ張って来てもいいとは思う
ていうか文句言うなら自分が探して来るってのが鉄則だぜ
もっと気楽にやろうよ
まだ始まったばっかなんだし
109:日本@名無史さん
10/10/13 22:20:32
ほんじゃあ朝倉宗賢の悪い話。
南北朝時代、斯波高経の配下の武将に朝倉宗賢というのがいた。
名前から分かるように、後の戦国大名朝倉家の祖にあたる男なのだが、
自分の居城の近くであり、越前でも大荘園である河口荘を侵略する事にした
ことが、この話の発端となる。
この河口荘。越前最大の港湾都市三国湊の後背地に位置する1100町あまりの大荘園であり、
経済的にも軍事的・政治的にも重要な所領であり、彼がほしがるのも無理はなかったのだが、
この大荘園の所有者は興福寺であり、当然の事ながら興福寺から幕府に対して「あいつなんとかしろ」
と抗議される事になる。
しかしながら、朝倉宗賢は斯波にとっては重要な戦力であり、そのためもあって訴訟は遅々として進まず
業を煮やした興福寺側は、最終手段である春日社の神木を奉じて入京し、朝廷と幕府に宗教的権威をもって
圧力をかけるに至る。
流石の斯波高経もこの一手にはどうしようもなく、せめてもの妥協案として、宗賢に河口荘の権益を一定度放棄させる
代償として、河内国鵜殿関を春日社造営料所に指定し、その管理を宗賢にさせることで、鵜殿関から挙がる利権を宗賢
に与えたのだが、宗賢は鵜殿関からの税を一切興福寺に払わない姿勢を示し、問題は長期化。
そしてこの事態に、佐々木道誉を初めとする反高経派の面々は、高経の失政を批判し、遂には高経の失脚並びに病死に
追い込む事に成功する。
なお、主人の失脚の原因となった宗賢は、主君高経が失脚すると、主君をあっさりと見捨てて道誉側につき、恩賞として、
越前国内に所在する所領を7ヵ所も将軍から拝領するわ、河口荘と鵜殿関の押領を続けるなどやりたい放題の限りを尽くしている。
そんな朝倉宗賢の悪いお話。
110:日本@名無史さん
10/10/13 22:42:12
>>108
探すもなにも説話のたぐい開くと
そんなのばかりだしなw
敷き写しして意味あるか?意味あると思ってる方もいるようだがな
111:日本@名無史さん
10/10/13 22:47:19
>>109
山野さんのように出典を明確して頂きたいのですが。
112:日本@名無史さん
10/10/13 22:56:13
>>110
ここは投下される逸話は、逸話なら何でも受け入れるスレだが
そのクオリティーは投下人次第で様々になるもんだ
投下人殺すようなことするなら自分でいい逸話落とした方がいいぜ
レスやコメントが付くか付かないか、反響があるかないか
それで十分だと思う
わざわざ排斥する必要は無いよ
そのうち流れが出来るだろ
まだ模索中だし
113:日本@名無史さん
10/10/13 22:58:26
朝倉もそうだけど、斯波氏の下にいたのは結構そうそうたるもんだよな
時々斯波氏の勢力が衰えなかったら、戦国時代どうなってたかと思うよw
114:日本@名無史さん
10/10/13 23:00:49
>>112
細かな注つきの十訓抄開いて逸話を敷き写しして
ちょこちょこ注もパクって敷き写しってかw
そないなことは益なしと思うとりますんで
遠慮しときますわw
115:日本@名無史さん
10/10/13 23:06:21
マイナーな書物からの敷き写しなら歓迎なんだがなw
そこそこの本読みなら誰でも知ってるような逸話を出されてもなァw
116:日本@名無史さん
10/10/13 23:08:16
>>114
別に114まで十訓抄で探す必要はないんだよ?
群書類従とかから探して来ればいいじゃない
地元の伝承だっていいし、114の面白い逸話投下待ってますよ
117:日本@名無史さん
10/10/13 23:16:43
>>116
それを期待してるのは俺やねんw
大系・新大系や集成あがりの逸話はいらんのやw
それ以外のものなら群書類聚からでも史籍集覧からでも史料大成からでもなんでもかまわんのや
(大系新大系集成にあるもののぞく)
くれぐれも出典明記で頼むわwよろぴく☆
118:日本@名無史さん
10/10/13 23:16:51
やっぱりそろそろ読者様が湧いたか
119:日本@名無史さん
10/10/13 23:18:24
スルーしろよ、どう考えてもアレだろ
120:117
10/10/13 23:18:45
山野はん
よろぴく☆頼みますわ☆
期待しとるさかい
121:日本@名無史さん
10/10/13 23:21:05
>>117
出典明記厨は一番嫌われる人種だな。
この手のスレを過疎にしたくて言っているとしか思えない。
出典を知りたきゃ自分で調べろ。それが勉強だ。
楽して教えてもらえると思うな。
122:日本@名無史さん
10/10/13 23:24:22
クレクレ厨が湧いたと聞いてきました
123:日本@名無史さん
10/10/13 23:24:39
>>121の出典は
Webと井沢、司馬、学研歴史群像w
124:日本@名無史さん
10/10/13 23:28:17
>>121
本人がはなから出典知らんようやから
土台無理な話やろw
125:日本@名無史さん
10/10/13 23:32:34
>>121
こういうのも湧くさ
あんまり触るな、嬉しがって騒ぐから
126:日本@名無史さん
10/10/13 23:35:14
前九年役の時のこと
八幡太郎義家は剛臆の席を定め、その日の戦における剛臆を調査し、
剛あるものは剛の席につかせ、臆した者は臆の席に置き、その剛臆によって
饗応を分けた。
剛の席での食事が3度に及ぶと、よく家職を守り武義の勤め正しければこそと、
これに褒美を与えて賞し、
臆の席につくのは3度までは許したが、3度を越えて臆の席に着いた者には
家職を忘れ俸禄を盗み、主恩を忘れたものでありその罪は深い、と
これを罰した。
その故に人々大いに武義第一と励んだ、とのことである。
八幡太郎義家の剛臆の席、と言うお話。
127:日本@名無史さん
10/10/13 23:38:23
おお、漫画日本の歴史でよんだ逸話だw
128:日本@名無史さん
10/10/13 23:39:53
>>127
出典明記しないとそうなる
129:日本@名無史さん
10/10/13 23:48:06
罰ってどういう罰なんだ?
ぶたれたりするのか、こういうのは
130:日本@名無史さん
10/10/13 23:54:45
羞恥プレイなんだけどドMには効果なさそう
131:日本@名無史さん
10/10/13 23:57:24
ID出ないから荒らしがやりたい放題
132:日本@名無史さん
10/10/14 00:04:37
>>98
紅旗征戎て平家追討の時の話と思ってた
133:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/14 00:12:56
前九年なら、頼義だと思うのですが。
義家が剛臆の席を設けた話は、『奥州後三年記』にありますね。
しかし、こちらでは三度までは許した云云は無いので、>>126氏のものとは、
どうも出典が異なるらしい。以下後日譚。
【末割四郎討死の事】
鏑矢の音に耳をふさいで臆の席に置かれた将は五人あったが、その中の一人
が、末割四郎惟弘であった。
彼は臆の席に置かれたことを恥じ、直後の合戦で酒飯をたらふく口にすると
真っ先に飛び出したのだが、鏑矢に首を射られ、討死する。
喉からは、口に入れたばかりであった飯がこぼれだした。
周囲の者は慙愧したが、義家は悲しみながらも言った。
「生半可な者が、一時的に励もうとして先に出ると、必ず死ぬことはこの様
である。
食らった物は、腹の中に入らず、喉に留まっておった。
やはり、臆病な者であったわ。」
134:日本@名無史さん
10/10/14 00:17:45
臆病だと交感神経が昂ぶるから
飯を噛んだり飲み込んだり消化したりできないんだな~
喉に飯が詰まった状態で走るのはメチャ苦しそうだw
135:日本@名無史さん
10/10/14 00:19:32
義家と言えば・・奥州安倍氏と奥州藤原北家の話だね。
136:日本@名無史さん
10/10/14 00:19:51
「おのれ見返してやる!」→出撃
って完全に死亡フラグだよね・・・
137:日本@名無史さん
10/10/14 00:21:57
郷里の銘菓の紹介文より。
時は南北朝の争乱の最中、南朝の長慶天皇は、現在の岩手・青森県境付近にやってきていた。
南朝方の武将の中にも北朝に下るものが少なくないこの頃、はるばるこんなところまで流れ着いてしまったのだ。
身の回りのものも十分でない中、当然食事にも事欠く。
困っていたところ、家臣の赤松何某という者がそば粉と胡麻を練り、兜に塗りつけて焼いて差し出し、
一同はそれを食べて空腹を凌いだという。
他にも諸説あるらしいですが、地元で一番有名なのがこの説。
今はそば粉ではなく小麦粉を使うのが主流になっている、南部煎餅の始まりの話。
138:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/14 00:25:13
>>132
『明月記』に出て来るのは、治承の時です。ただ、後年本人が加筆した可能性あり。
承久の乱の折にも、この言葉を使用しています。
その治承の頃に、面白い話を書いているので、ものの序に引用しておきます。
「夜になり、明月が輝いていた。都は閑散として、車馬の音も聞かれぬ。
逍遥して六条院の辺りに出ていたところ、夜も半ばになって、天空に光物
が出現した。
大きさは鞠ぐらいで、色は燃えているかの様であり、躍るかの様に移動し
て未申から丑寅へ移動すると、瞬時に破裂した様は、あたかも炉が砕けたか
の様であった。
そして、そのまま空中に火を散らして消えてしまった。
もしや、大流星であろうか。驚きかつ怪しんだ。大夫忠信の青侍たちと共
に、目撃したことである。」
『明月記』には、日食の予想や、超新星爆発らしき現象の記述もありますね。
この話、今ならUFO騒ぎになりそうです。
139:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/14 00:26:33
>>137
なかなか聞かないお話です。
既に紹介されたどのお話も面白いですが、聞く機会が稀という点で、楽しめました。
ありがとうございます。
140:日本@名無史さん
10/10/14 00:36:42
>>138
明月記の超新星爆発の部分の話が原文→現代語訳→英語訳されて試験に出たことが昔あったなw
定家はホント当時では鬼才だったんだろうね
和歌の上手いし日記も高く評価されてるし…
141:日本@名無史さん
10/10/14 00:39:53
大河ドラマを一覧チャートにしてみた・・。
大河ドラマ「聖徳太子」
敏達天皇 3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)
大河ドラマ「大化改新」
孝徳天皇 2年春正月甲子朔(西暦645年)
古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」
695年(持統天皇9年)-775年(宝亀6年) 吉備真備
映画「竹取物語」かぐや姫伝説
安倍御主人(みうし)は、文武天皇のもとで、右大臣をつとめます(在職大宝元年3.21~大宝3年閏4月1日)。
アニメ「源氏物語千年紀」光源氏の時代
・嵯峨天皇-源融
源融(みなもと の とおる、弘仁13年(822年) - 寛平7年8月25日(895年9月21日))は、嵯峨天皇の12男。官位は侍従、右衛門督。大納言などを歴任し、従一位左大臣にいたる。別名河原左大臣。死後正一位を追贈された。
・仁明天皇-源光
源光 (公卿) (みなもと の ひかる) - 承和12年6月2日(845年7月9日) - 延喜13年3月12日(913年4月21日)) 源光 (僧侶) (げんこう) なお、『源氏物語』の主人公光源氏の姓名は「源光」ではない。
142:日本@名無史さん
10/10/14 00:42:06
大河ドラマ「風と雲と虹と」
平将門 - 平安時代中期の武将。生年不詳、西暦903年、916年とする説がある。没年940年。
大河ドラマ「平家物語」
映画「陰陽師」「陰陽師Ⅱ」
安倍 晴明(あべ の せいめい、延喜21年1月11日(921年2月21日) - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)
アニメ「お伽草子」羅生門の安倍清明
源頼光の四天王、源綱、源貞光、卜部、金太郎らの土蜘蛛の勾玉奪還、酒天童子退治がある。
大河ドラマ「炎立つ」藤原と安倍忠頼から安倍貞任らと、対する、清和源氏との戦い。
安倍忠頼 878年「元慶の乱」に活躍。
永承の頃(1046年-1052年)安倍頼時(頼良)
安倍貞任。永承6年(1051年)
安倍宗任 (あべ の むねとう、長元5年(1032年) - 嘉承3年2月4日(1108年3月18日))鳥海三郎とも呼ばれる。安倍貞任の弟。
大河ドラマ「義経」
源義経(牛若丸)は、平治元年(1159年)源義朝と常盤との間に、義朝の九男、今若、乙若につづく常盤の第三子として誕生。
死没文治5年閏4月30日(1189年6月15日)享年31
大河ドラマ「北条時宗」
大河ドラマ「太平記」
足利尊氏 嘉元3年7月27日(1305年)から延文3年4月30日/正平13年(1358年6月7日)
大河ドラマ「花の乱」
大河ドラマ「風林火山」
大河ドラマ「織田信長」
大河ドラマ「豊臣秀吉」
大河ドラマ「毛利元就」
大河ドラマ「徳川家康」
大河ドラマ「徳川三代」
大河ドラマ「八代将軍 徳川吉宗」
大河ドラマ「徳川慶喜」
歴史年表順にしてみました。
143:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/14 00:48:01
>>134
江戸時代に好きな蕎麦を食べてから処刑されることを許された人間がいたの
ですが、首が切られた後に血と共に蕎麦がぶちまけられたもので、目撃者は
しばらく蕎麦が食べられなかったそうです。
この場合も、同じことですね。多分、末割と同じ話は何例もあったのでは。
>>140
それはまた、面白い試験ですね。
>奇才
お説ごもっとも。
荷風や魯山人などと同じで、面白いが会いたくない人種ですが。
144:日本@名無史さん
10/10/14 00:53:36
>>143
ほうほう
>荷風や魯山人などと同じで、面白いが会いたくない人種ですが。
もしや藤原定家の悪い話でもお持ちかな?
ちなみに自分が一番面白いけど会いたくない人物一位は一休さんだったり
これ以上はスレチだから言わないけど
145:日本@名無史さん
10/10/14 00:57:57
一番面白いけど会いたくない人物って俺はいったい何を書いてるんだ…orz
お詫びに逸話を一つ
「狐、島津の吉祥獣になる」
島津氏の吉祥獣が狐なのは有名な話
「狐の嫁入り」と称される天気雨は鹿児島では吉兆として扱われ、鹿児島には多くの稲荷神社が存在している
慶長の役での四川の戦いでは狐の導きにより勝利したという言い伝えがあるほど
(ちなみに義久から義弘・忠恒宛ての、朝鮮役を労う手紙に「狐が出てくるような霊験は毎度の事ですが」っていう記述があったりするw)
では何故狐が島津の吉祥獣なのだろうか?
そこには島津家初代、島津忠久の出生に深く関係していた
島津家初代、島津忠久は比企能員の妹の丹後局が源頼朝との間に出来た子であるといわれている
この丹後局の妊娠に源頼朝の正妻であった北条政子は激怒
丹後局は妊娠したお腹のまま鎌倉を追われ僅かな付き従う者と共に西国へと落ち伸びなければならなくなった
その道中、摂津国の住吉大社についたころ、夜になって宿を探すが、妊娠した婦人を泊めてくれる家なんてそうそうあるものではない
今夜は野宿か…、そう諦めていた時
丹後局「う、生まれるっ!」
従者の人達「な、なんだってぇー!」
146:日本@名無史さん
10/10/14 01:02:01
なんと丹後局、ここで産気づいてしまった
あたりは真っ暗、しかもその内に大雨まで降ってきた
仕方なく住吉大社の社殿の瑞垣の中に入り、その辺の石の上にうずくまる丹後局
これでは生まれてくる子供を取りだすところか丹後の局の命も危うい
絶体絶命、とその時だった
突然、あたりが光に包まれる
従者「こんな時に狐火がっ! これでもう大丈夫だ!」
こうして狐火の加護のおかげか丹後局は無事に男の子を生み、それが島津家の祖、忠久となるのであった…
ちなみに雨が島津家で吉兆とされているのは忠久が生まれて時もまだ雨が降っていたからだそうで
出典は「山田聖栄自記」
山田聖栄とは島津家に五代に渡り仕え、また室町幕府第六代将軍、足利義教の弟大覚寺義昭を将軍の指図により殺害した人である
ツッコミどころ
・まず書かれた年代が忠久が死んだだいぶあと
・なんでいきなり狐が出てきたかわからない
・てか住吉神社の神様に感謝しろよ…
147:日本@名無史さん
10/10/14 01:18:08
江戸時代に新井白石が諸大名の由来について書いた藩翰譜があるけど
それを書くにあたり各大名家から出自の資料を取り寄せた
「うちの初代は頼朝公の落胤です(キリッ)」って言われたときどんな反応だったか気になる
他の大名家も多少の捏造はあったにせよ、源氏の棟梁の子孫っていうのは流石にやり過ぎ
な気もする。
148:日本@名無史さん
10/10/14 01:22:14
尚寧王「途中で王朝が何度か交代したけど、うちの初代は源為朝の落胤です(キリッ)」
149:日本@名無史さん
10/10/14 01:26:48
秋田「うちは長脛彦の子孫です(キリッ
150:日本@名無史さん
10/10/14 01:30:40
秀吉の天皇ご落胤説よりは信じられる位のレベルの作り話
151:日本@名無史さん
10/10/14 01:49:03
諏訪氏「うちは建御名方神の子孫です(キリッ」
・・・ありかも
152:日本@名無史さん
10/10/14 06:33:04
池田だったけか?
「ウチは今、作らせていますから(キリッ)」
153:日本@名無史さん
10/10/14 06:52:28
池田「うちのご先祖は・・・林羅山に作ってもらってるところです(ニヤソ」
154:日本@名無史さん
10/10/14 08:32:31
脇坂安治「「北南それとも知らずこの糸の ゆかりばかりの末の藤原」
鎌倉・室町から離れちゃったか
155:日本@名無史さん
10/10/14 08:36:51
高山「うちの先祖はアダムです(キリッ)」
156:日本@名無史さん
10/10/14 08:45:03
秋月「うちは後漢霊帝の子孫、つまり後漢光武帝とか尭帝の子孫でもあります(キリッ)」
157:日本@名無史さん
10/10/14 09:18:29
鎌倉にある源頼朝の墓って江戸時代に島津重豪が島津の家紋とか入れて
勝手に造ったもんなんだよなw
島津忠久の墓も近くにちゃっかり造ってるし
まあ毛利も隣に先祖?の大江広元と毛利季光の墓を造っちゃってるけどw
158:日本@名無史さん
10/10/14 09:25:27
頼朝公が築き、大江広元が確固たるものとした武家政権たる幕府を、
自称頼朝公の子孫の島津と、自称大江広元の子孫の毛利が潰した、と
159:日本@名無史さん
10/10/14 09:53:41
毛利はガチじゃなかっけ?
160:日本@名無史さん
10/10/14 10:11:08
>>158
毛利は自称じゃなくてガチガチのガチだぞ?
161:日本@名無史さん
10/10/14 10:48:01
>>159
>>160
島津に合わせて併記しただけ
>>157でも先祖?と書いてるしまあいいかと思った(責任をなすりつける)
162:日本@名無史さん
10/10/14 10:53:00
毛利も先祖が平城天皇になったり、天の穂日になったりと幕府に系図を提出するたびに変わるんだから
胡散臭い
163:日本@名無史さん
10/10/14 11:11:35
徳川配下の酒井も北条(きたじょう)も大江広元の子孫だね。
しかも北条は通字が広だし
164:日本@名無史さん
10/10/14 11:36:23
血統的な繋がりがあるかないかを別にすれば毛利が大江広元の子孫って事で問題ないでしょ
そもそも大江広元自体詐称してまで子孫を名乗る程優れた人とも思えんし
昔は今より評価が高かったかもしれんが
165:日本@名無史さん
10/10/14 11:42:33
大友氏初代の能直も頼朝の御落胤説を言われているが、実際はアッーだった模様。
「無双の御寵仁」by「吾妻鏡」
166:日本@名無史さん
10/10/14 11:45:33
>>165
何でも衆道と結びつけるなよ。ちょっと親しければ熱愛扱いのワイドショー脳じゃないんだから。
167:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/14 12:19:33
>>144
悪いというか、強情な話ならありますね。今、まとめたものが手元に無いのですが。
もっとも、強情ならでは大業もならなかったのかもしれません。
>鹿児島には多くの稲荷神社が存在している
稲荷と狐が結びつくのは、南北朝時代頃からの様ですから、それ以降の信仰か。
>雨が島津家で吉兆とされているのは
江戸時代前期の狩野派の絵師、木村探元が雨の描かれた旗を描いていますね。
>>147
大名としては残りませんでしたが。
長宗我部「うちのご先祖は始皇帝です」
大内「百済王です(李朝との交易以降に言い出したらしい)」
ついで
羽田元首相「うちの先祖は秦氏で、先祖は始皇帝です」
168:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/14 12:21:16
>>162
それは毛利ではなく、それより前、院政期の大江氏に原因があります。
多分大江匡房が言い出したことだと思いますが、彼より前の系図では先祖は
土師氏で菅原氏と同祖としていました。
土師氏の祖は、天穂日命(江戸時代七福神に入れた例あり)です。
ところが、菅原氏が栄えていた時代には、格上の菅原氏と同祖であることを
誇っていたのが、匡房の時代になって両氏の力関係が逆転すると、大江氏の
先祖は土師氏ではなく、平城天皇の子の阿保親王と言い出している。
そして、菅原氏は出世せず、大江氏は出世すべき血筋と主張しました。
毛利氏の系図が一定しなかったのは、その為でしょう。
毛利が大江氏であることは、疑うことはないだろうと思います。
もっとも、血統的には広元が藤原氏、ないしは中原氏であった可能性がある
のですが。
169:日本@名無史さん
10/10/14 12:24:25
毛利は周辺が、源範頼の子孫だの土肥実平の子孫が居るしね
170:日本@名無史さん
10/10/14 12:27:12
>>166
あながちガセとも言い切れない説だよ。
171:日本@名無史さん
10/10/14 13:30:27
>>169
土肥…って、あー小早川か
頼朝の旗揚げの時から従ってたのになんとも不運な一族だ
172:日本@名無史さん
10/10/14 17:15:03
江戸時代に入っても根っこの部分にぶれが有ると言う事は
キチンとした家伝が有るのではなく調べて系図を書いたと言うこと
周囲の家も毛利本家に調子を合わせただけかも
173:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/14 22:33:38
>>169
吉田の資料館へ行くと地図が表示されていますが、元就が生涯に関わった
児玉・熊谷・武田・小早川・吉川と、どれも「相模周辺地図」があれば間に
合うくらい、先祖が密集していますね。
小早川は、景平が信濃の名族平賀氏出身だと言いますが。
平賀氏は『太平記』にも登場しており、少年時代にこれを愛読していた平賀
源内も、その子孫と伝えているというのは、この板なら今更か。
174:日本@名無史さん
10/10/14 22:51:48
>>173
京都周辺地図があれば
彼らのもっと昔の先祖が集中してますよw
175:日本@名無史さん
10/10/15 10:39:32
確かにそうともいえる
176:日本@名無史さん
10/10/15 22:22:51
ここでそこそこ有名な逸話を投稿して流れを変えてみる
「『日野資朝なんて大っきらい!!』」 1/2
>>15で忠臣、そして貧乏くじをひかされた人物として紹介された日野資朝
しかしそんな彼を公然とバッシングする書物が残ってる
その書物とは…皆さんご存知『徒然草』
このスレにいる大抵の方はご存知かと思うが、作者の吉田兼好は大の後醍醐天皇嫌いであった
だから当然、その後醍醐天皇の一番の側近を良い風に書くはずがない
177:日本@名無史さん
10/10/15 22:24:32
「『日野資朝なんて大っきらい!!』」 2/2
兼好<ねぇ、ねぇ、聞いた?! あの日野資朝って奴の話?
この前西大寺の静然上人が参内なさった時、その上人を見た西園寺内大臣が
西園寺<いやー、静然上人は実に尊いお姿だなぁヽ(=´▽`=)ノ
兼好<って、仰ったらしいんだけど、それを横で聞いてた日野資朝なんて行ったと思う?!
資朝<ただ歳とってるだけだろwwwwo(^▽^)oキャハハハ
兼好<ホントに信じられないよね! しかも翌日歳をとってもうヨボヨボな老犬を内大臣の家まで連れて行って
資朝<ほらこの犬、とても徳が高い姿をしてるでしょう?wwwこの犬あなたにあげますからwwwwプププッ (*^m^)o==3
兼好<だって! もうホントDQNとしか言えないよね?!
でも資朝って他にもあるんだよ! 為兼大納言入道が六波羅に召し取られた時も彼が連行される様子をみて
資朝<羨ましいなぁ…この世に生まれたからにはあんな風にならなくては面白くないなぁ…( 'ェ')ジッ
兼好<もうホント後醍醐天皇の側近って変な奴らばっかり! きっと後醍醐天皇と同じような奴らが集まってるんだろうね!
しかも民に全然優しくない! この前なんか東寺で雨宿りしていた浮浪人が皆で集まって暖をとっていたのを見て
資朝<キモイお…(;´Д`A ```
兼好<って言った後家に帰って自分が集めている植木を全部捨てちゃったんだって!
なんでも植木の形がさっき見た浮浪者達を彷彿とさせるからだとか!
もう為政者としてというか人間としてもダメなやつだよ!
※ちょっと大げさに書いたところもありますが大体これでニュアンス的には合ってるはず
太平記の資朝と徒然草の資朝、ど う し て こ う 違 う の か
178:日本@名無史さん
10/10/15 22:31:13
吉田兼好「人間、みっともない姿は晒したくないから40前に死にたいものだ」
179:日本@名無史さん
10/10/16 01:44:04
兼好嫌いな人間ばっかだしなw
180:日本@名無史さん
10/10/16 01:59:54
嫌いな人ばっかりだから世を捨てるんだよw
181:日本@名無史さん
10/10/16 02:06:33
兼好を並び替えて、嫌子と名乗ろう(儒家っぽいけど)
182:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/16 17:28:53
>>177
そこでいう浮浪者=片輪であった様ですね。
奇形にした樹木や異常な岩を愛でるのは、奇形の人間を愛好するのとどう違うのか。
そういう問いかけをなした上で、思い切ってそれまでの財産を捨てたと考えれば、
一種の賞賛がなされていると受け止めたのですが。
評言が、「さもありぬべき事なり」ですし。
「為政者としてというか人間としてもダメなやつ」と言う批判は、本文に無い。
なお、この話の肝は、植木もまた片輪であったという点です。
単に浮浪者としたのでは、『王子と乞食』の乞食が差別用語だというので、
『王子と子供』に題名を変更したというぐらい、意味が通じなくなります。
これを「当時の貴族階級の障害者に対する差別意識」の例と言った人もいますが、
どうでしょう。
一般的な視点からの差別ではなく、資朝個人の目と気づきを述べたお話。
>生まれたからにはあんな風にならなくては面白くないなぁ
「罪なくして配所の月」を見たいとは、よく言われたこと。
単に名所で月を見るのではなく、理不尽な世の中に身を置くという悲劇性も
好まれた様ですが、この場合も為兼の境遇(無辜)を意識して言ったものだ
と、思ったのですが。
ただ、それを実際に見ながら口に出せるのは、やはり常人ではない。
とはいえ、この場合の常人ではないというのは、そう悪い意味ではないかと。
老い犬にせよ、為兼連行にせよ、東寺と違って評言はありませんが、特に否定
も肯定もされず、興味深い一例として挙げられていると感じました。
嫌いだから書いたという見方には、逆にそういう受け取り方もあるのかと、び
っくりしたぐらいです。
183:日本@名無史さん
10/10/16 17:37:18
山野無双
184:日本@名無史さん
10/10/16 18:26:39
違う方向からの見方もあると面白さが際立つな。
俺も>>176-177みたいに考えてたから成程と思った。
185:日本@名無史さん
10/10/16 19:28:01
吉田兼好は、北条時頼とか北条庶流や足利泰氏なんかを褒めまくってたような
昔はこんなに良かったみたいな感じで
186:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/16 20:48:11
すみません、一寸差し出がましすぎました。
>違う方向からの見方もあると面白さが際立つな。
でどうかご勘弁を。
>>185
時頼の味噌の話は、好きですね。
既出の松下禅尼の話も、好きですが。
187:>>176-177
10/10/16 21:38:01
>>186
全体的に>>15の対比として書きたかったのですが、見直してみるとそれが行き過ぎてしまっていますね
とりあえず嫌いではなかったのかも 反省です
あと、かたは者を浮浪者と訳したのは特に何かの考えがあってやった訳ではありません
浅慮でした
ただ徒然草の原文の文章を見る限り資朝を異様な人物として記述しようとしているのは確かなことではないでしょうか
上人の段でいえば西大寺の静然上人を『誠に徳たけたる有様』と書いているのに対し
犬を『浅ましく老いさらぼひて、毛はげたる』と描写し、それを内大臣に持っていくところに何やらあまり良くないものを感じます
為兼の段は>>182で指摘された通りそれを実際に見ながら口に出せる資朝の異質感を
最後の段は締めの『さもありぬべき事なり』を含めて不気味です
この『さもありぬべき事なり』は植木の愛好を辞めたことだけなのか、
それともかたは者を見て植木が気持ち悪いということに気付いた、というまで含めた全体的なことを指しているのかによって解釈が異なるのでしょうね
この徒然草は兼好が誰か人に見せるために、一説では邦良親王に宮廷の作法などを残すために書いたといわれています
その書物にわざわざ資朝の異様な面を書いたということは資朝は兼好にとっての『面白いが会いたくない人種』だったのでは?
188:日本@名無史さん
10/10/17 02:21:53
北条重時の遺訓
家来は公平に扱え。
宴会のとき、料理を多く取るな。
扇は安いものにしろ。
189:日本@名無史さん
10/10/17 09:20:21
しかし鎌倉武士の宴会料理って
少しも美味そうに思えないんだがw
190:日本@名無史さん
10/10/17 09:25:55
うちの近所はかまくらみちが多い、
風情があっていい
191:日本@名無史さん
10/10/17 09:34:00
鎌倉街道って誰がいつ作ったんだろ?
192:日本@名無史さん
10/10/17 10:05:35
うちの近所の伝鎌倉道の近くに殺人遺体が遺棄されてて、ただでさえ夜真っ暗なのにますます
通りにくくなった・・・
193:日本@名無史さん
10/10/17 10:06:27
当時の街道のほとんどが自然発生的に出来てる
はやりすたりもあるらしく、
すこし前まではやってたルートが何年か後には理由も無く人通りがなくなるとかもあった模様
194:日本@名無史さん
10/10/17 10:14:30
自然発生ってw
幅6m、両側に土手がある鎌倉街道が自然発生するのかよw
195:日本@名無史さん
10/10/17 12:27:58
上中下
もとまとのかまくらみちは、この三ルート。
うちは、上中が通る横浜戸塚
196:日本@名無史さん
10/10/17 16:08:11
>>194
それはあんたんちのとこの鎌倉街道でしょ
197:日本@名無史さん
10/10/17 17:53:11
万里の長城みたいに、一部は立派で、末端はなんかすごい粗雑なんじゃないの?
198:日本@名無史さん
10/10/17 23:07:24
兼好法師>仁和寺の坊主って、馬鹿ばっかし、そういっているようにしか思えないんですが。
石清水八幡宮に参るつもりが麓で引き返したヤシとか、宴会で調子に乗って鼎をかぶったら、
取れなくなって、死にそうな目に遭ったヤシに、可愛い稚児を誘ってピクニックに洒落込ん
だつもりが手配ミスで大喧嘩したり、笑うっきゃ無いような話ばかりなのも事実。
何か、いじめられたんでしようかね。
199:日本@名無史さん
10/10/19 03:48:40
仁和寺の坊主「幼女、幼女 (;´Д`)ハァハァ/lァ/lァ/ヽァ/ヽァ ノ \ア ノ \ア / \ ア / \ ア 」
200:日本@名無史さん
10/10/19 11:32:18
>>199
残念、稚児は男の子だ。10歳から15歳くらいの。
ハァハァしたり、ぱふぱふさせたり、は想像通りなんだけど。
201:日本@名無史さん
10/10/19 22:09:58
地名由来物、「夕顔瀬橋」
現在の岩手県盛岡市中心部を流れる北上川には、
「夕顔瀬橋」という名の橋が架かっている。
前九年の役も大詰め、厨川柵に追い詰められた安倍貞任は、源氏の軍勢を押しとどめるべく、
瓜に目鼻を描いた頭に藁人形の胴体をつけて甲冑を着せ、河原に並べて兵士に見せかけた。
…が、流れが想定以上に速くてうまく瓜を並べられなかったのか、
はたまた源氏の皆さんはそんな事一切気にしなかったのか、
結局渡河を阻止することはできず、奥州安倍氏は滅亡してしまった。
成功しなかったハリボテ作戦の悪い話。
202:日本@名無史さん
10/10/20 11:28:11
まあ源氏含め、頼朝配下の連中はそんなもん気にしないだろうなあ
恩賞出るなら濁流にも突っ込んで首取りに行くやつらだし
203:日本@名無史さん
10/10/20 16:13:19
>>202
某宇治川なんかがいい例かな。坂東武者を京の平家が恐れる理由の
片一方がそれだろね。
204:日本@名無史さん
10/10/20 16:54:24
坂東武者はいい意味でも悪い意味でも気性が荒いやつばっかだからなぁ
血族同士でガチな殺しあいとか日常茶飯事だし
205:日本@名無史さん
10/10/20 17:32:18
観応3年・正平7年(1352)のこと
5月の足利方による南朝方・男山攻略にて大いに戦功を現した山名師義は
幕府に対して恩賞を求めるため、政所執事・佐々木道誉にその取次ぎを願い出た。
ところが道誉、
師義が面会を求めるたびに
「今日は連歌の会席がありますので出来申さぬ。又後日」
「只今は茶会の最中でござる。また今度」
と、師義に一向に会おうとはしなかった。
この道誉の態度に師義はついに激怒、郷国である伯耆に帰ると父時氏と語らい
幕府に対して謀叛。先ず佐々木道誉の守護国出雲の守護代吉田秀仲を追放し出雲を接収、
更に国人たちを味方につけ、またたくまに出雲、伯耆、隠岐、因幡の4カ国を手中にした。
そして文和2年・正平8年(1353)6月には南朝方となって京に進軍。この南朝軍は
四条隆俊を将として楠木正儀、吉良満貞、石塔頼房等も加わり足利義詮率いる
足利幕府軍を撃破。
義詮は後光厳天皇を奉じて坂本から美濃垂井に逃走。この時近江堅田にいた
道誉の長男三郎秀綱も討死した。
佐々木道誉の嫌がらせ、高くつく。と言うお話。
206:日本@名無史さん
10/10/20 20:03:42
もし、「嫌がらせ道」とか「嫌がらせ検定」なんてあったら、不合格確実なレヴェル。
そんな程度のヤシしか政所執事を任せられなかった幕府の人材不足、ってことか?
207:日本@名無史さん
10/10/20 20:12:31
賄賂が足りなかったんじゃないの?
しかし、そんなことで反乱して、しかも成功しちゃうんだなw
どんだけ脆弱なんだ室町幕府の基盤はw
208:日本@名無史さん
10/10/20 21:33:00
これ、観応の擾乱で直義方についた師義が
幕府への復帰の斡旋を道誉に頼んだ話でもあるんだよね。
冷たく断られても仕方ない一面もある。
209:日本@名無史さん
10/10/20 21:43:49
だとしても、面子の潰し方が下手なんじゃないかとも思う。
旨く潰せば後腐れ無くて済むと思うけどね。
210:日本@名無史さん
10/10/20 22:11:07
>>204
昔、平家物語を読んだ時は坂東武者ってなんて強いんだと憧れたけど
性格がアレすぎて平家ドン引きしてたんだな
211:日本@名無史さん
10/10/20 22:33:18
最近は坂東人より河内人の方が残虐さは強調される傾向にあるな。
河内源氏なんてどれだけ悪く言われてるかw
212:日本@名無史さん
10/10/20 22:37:33
しかし鎌倉時代の社会は、庶民にとってはリアルにヒャッハーが日本を席巻した暗黒時代だ。
地頭なんて時代劇の悪代官が未だ可愛くなるような悪逆ばかり。
213:日本@名無史さん
10/10/20 22:43:25
つか中世の武士は頭にマッハで血が上るから困る
恩賞が足りないとか待遇が悪いとかならともかく、恥をかかされただけで去就を決める奴がゴロゴロいるからな
光秀や秀吉の我慢強さを見習えと・・・
214:日本@名無史さん
10/10/20 22:48:13
男衾三郎絵巻とか読んだことないけど
武士の館に近付いた庶民は問答無用でブチ殺されたってマジなのかなw
215:日本@名無史さん
10/10/21 00:09:42
三浦為次「矢を引き抜こうとして顔を踏んだら殺されかけました」
216:日本@名無史さん
10/10/21 01:07:37
ある時足利直義が、尊氏・直義兄弟の禅の師である夢窓疎石にこんな事を相談した
「私の政治を批評するものの中には、私があまりに善良であることを追求するために、
かえってそれが政道の害になり世の中が治まらないのだ、などという人も居ます。
この批評には耳をかたむけるべき部分があるでしょうか?」
これに夢窓疎石は答える
「善良…?
あなたは一体、何を勘違いされているのですか?
元弘以来のあなたが行ってきた罪業と、同じ時期に行った善行を比べてみなさい。
一体どちらが多いと思いますか!?
つい最近も御敵であるとして、あなたが滅ぼした人間がどれほど出ましたか!?
滅ぼされた者の跡に残る妻子眷属の想いは、一体どこに向かうと考えるのか!?
敵だけではありません!味方であってもあなたが合戦を行ない死んだ人々は
皆あなたの材業となるのです!
今もなお、あなたの口から目出度いこととして聞こえてくるのは、敵が多く滅んだ、
つまり、また罪業を重ねたということではありませんか!」
夢窓疎石はこのように、直義に対しても歯に衣を着せず直言した。
しかし直義も、あるいはそれ故にか、夢窓疎石への深い帰依は終生変わらなかったという。
夢窓疎石、足利直義を叱る。と言うお話。
217:日本@名無史さん
10/10/21 01:18:41
>>213
中華の文士なら憤死だな。
素直(?)に暴力に走るのが中世日本の文化だな。赤穂浪士もこの系譜だな。
218:日本@名無史さん
10/10/21 01:26:18
>>217
中国でも漢代あたりだと侮辱されたら切れて襲撃とかよくあるぜ。
蒙求にも載ってる雲台二十八将の祭遵とか有名。
219:日本@名無史さん
10/10/21 01:40:41
>>218
たしかに史記は任侠世界に片足突っ込んでる感じだしな
「地頭が百姓をいじめる」とかいう表現を見ると、
暴力が社会を支配してる感じがありありと伝わってきて、なんつーかドキドキするんだよな。
220:日本@名無史さん
10/10/21 01:49:18
孟嘗君「背が低いとか俺の事disった奴は皆殺しだぜ」
221:日本@名無史さん
10/10/21 07:57:39
清少納言「原作料請求来ますた」
藤原行成「俺に言うなよ」
222:日本@名無史さん
10/10/21 12:17:56
『男衾三郎絵詞』
「馬庭の末に生首絶やすな、切り懸けよ。
此の門外通らん乞食・修行者めらは用ある者ぞ、蟇目・鏑にて駆け立て駆け立て追物射にせよ」
『今昔物語集』巻14第10
「(陸奥国の壬生良門)弓矢を以て朝暮の翫として人を罰し、畜生を殺すを以て業とす。
夏は河に行て魚を捕り、秋は山に交はりて鹿を狩る」
『今昔物語集』巻19第14
「(讃岐国多度郡の源大夫)心極めて猛くして殺生を以、業とす。
日夜朝暮に山野に行て鹿・鳥を狩り、河海に臨て魚を捕る。
亦、人の頸を切り、足手を折らざる日は少なくこそありけれ」
マジでキチガイじみてるからやめろ
223:日本@名無史さん
10/10/21 12:48:47
>>222
鬼武蔵がかわいく見えるぞw
224:日本@名無史さん
10/10/21 14:27:02
戦国時代はやっぱ秩序回復期で倫理道徳の形成期だよな…
225:日本@名無史さん
10/10/21 14:31:27
鎌倉時代は何と言っても鎌倉党だやな
226:日本@名無史さん
10/10/21 18:17:28
男衾三郎絵詞って日本史の教科書に笠懸の写真が載ってるよね
227:日本@名無史さん
10/10/21 19:08:42
近頃は物騒になったなあ
228:日本@名無史さん
10/10/21 19:11:59
>>226
これか
URLリンク(upload.wikimedia.org)
男衾って八高線の駅にあるね。あそこが舞台か
229:日本@名無史さん
10/10/21 22:46:19
>>222
>>夏は河に行て魚を捕り
>>河海に臨て魚を捕る
ん?
言わんとするところはわかるが、肉食になれてる現代人にはピンとこない描写だな。
230:日本@名無史さん
10/10/21 23:49:26
現代人は食べることこそあれど自分で捕ったりはそれほど
231:日本@名無史さん
10/10/21 23:58:41
>>230
そうじゃない。
殺生を恐れていることがポイント。
232:日本@名無史さん
10/10/22 00:03:18
>>209
山名と佐々木は犬猿の仲なんだよ。
出雲源氏の嫡流である塩冶高貞を師義の親父の山名時氏にぶっ殺され
一時、出雲守護を山名に奪われたことで、同じ佐々木である道誉が
マジギレして出雲守護を取り返したという経緯があってな。
おまけに時氏は、中国で細川と領有争いしているという背景もある。
233:日本@名無史さん
10/10/22 12:26:44
>>203
平家自体出生ルーツは、武蔵坂東武者だからね。
将門時代は・・清盛時代から京・・関西
234:日本@名無史さん
10/10/22 12:31:57
>>211
河内源氏のルーツって総大将は大河内氏で足利将軍家の血筋だったんだろ・・嵯峨天皇?それとも、清和天皇?
235:日本@名無史さん
10/10/22 12:35:57
>>234の修正再レス
河内源氏の総大将は大河内氏で足利将軍家の血筋だったんだろ・・河内源氏のルーツって嵯峨天皇?それとも、清和天皇?
236:日本@名無史さん
10/10/22 13:40:50
>>233
清盛時代から京ってw
日本史勉強したほうがいいよw
237:日本@名無史さん
10/10/23 04:28:24
>>233
半可通
238:日本@名無史さん
10/10/25 23:29:48
>>205
佐々木導誉が政所執事やってたことってあったっけ?
239:日本@名無史さん
10/10/26 17:52:52
ふむ
240:日本@名無史さん
10/10/26 18:25:41
細川清氏といえば、足利将軍2代、足利義詮の執事として幕府を主導した大物である。
そんな清氏があるとき将軍義詮を、七百番の歌合に招こうとした。
この七百番というもの、七は縁起の良い数字であり、将軍義詮を寿ぐ、という意味合いの強い
歌合であったのだろう。
…が、これを聞いて黙っていられない男がいた。佐々木道誉である。
道誉は当時、清氏と関係を悪くしていた。
「清氏の奴め、そんな見え透いた歌合で将軍の心に取り入るか、そうはさせぬわ!」
道誉は清氏に先立って将軍義詮を招いた。しかもその内容は
七所を飾って七番菜(の料理)を整え、七百種の掛け物を積んで七十服の茶を用意した、
茶寄合の席であった。
清氏が企画した七の寿ぎを、これでもかと規模で圧倒したのである。
これを聞いた氏清は大いに憤り、道誉との対立は激化。ついには道誉の告発による
細川氏清の追放、氏清の南朝への降伏、氏清軍らによる南朝による京都攻略にまで至る。
佐々木道誉による、幕府執事細川氏清への嫌がらせについてのお話。
241:日本@名無史さん
10/10/26 19:35:28
>>93‐94
さて、その岡崎義実の息子である佐奈田義忠であるが、源頼朝の旗揚げの際には父ともども馳せ参じた。そして、石橋山の戦いにおいては、俣野景久と
取っ組み合いを演じることになり見事組み伏せたが、義忠の刀は血糊がこびり付いてなかなか抜けない。そこへ長尾定景がやってきたため逆に討ち取ら
れてしまう結果となった。
その後、頼朝が鎌倉へ入ると、定景は出頭してきた。そこで頼朝は彼を義忠の父、義実に預けた。普通ならここで、定景の首をはね義忠の無念を晴らす
ところであろうが、覚悟を決めた定景が毎日、経を唱えているをの聞いているうちに、息子を殺された恨みも消えたのか、頼朝へは「定景を討つことは、
かえって、義忠の成仏の妨げになります。ゆえに定景を許したいと思います」と報告した。
なお、この長尾定景という者は後年、源実朝を暗殺した公暁を討ち取った人物であり、かの上杉謙信の先祖でもある。もしも義実が、定景を殺していたら
後世の歴史は大きく変わっていたかもしれない
242:日本@名無史さん
10/10/26 20:20:46
>>240
佐々木道誉、こんどの嫌がらせは、どーよ?
243:日本@名無史さん
10/10/26 21:57:58
道誉…
244:日本@名無史さん
10/10/26 23:28:01
義仲の祐筆
木曾義仲の祐筆をつとめた、覚明という正体不明の怪僧がいる。
伝承によれば義仲の後見である中三権守兼遠の甥である。
兼遠の兄が保元平治の乱で活躍した海野幸親であり、その子の小太郎幸長が覚明の前身だという。
幸長は都に上り文章寮の学生となり、進士蔵人道広と名乗った。文章博士まで至ったという。
のち剃髪して最乗房信救と称して興福寺勧学院に身を置き、反平家を呼び掛ける以仁王の令旨に対する返書の中で、清盛を「平家の糟糠、武家の塵芥」と痛烈に批判している。世にいう「南都返牒」である。
これがたたって平家ににらまれ、なんと顔に漆を塗って面相を変え、新宮行家とともに逃亡。
次いで義仲の祐筆、大夫房覚明として姿を現す。「大夫」房と称する辺り、五位の身であったことを自負していたのかもしれない。
義仲の下ではおそらく参謀役を務めていたのだろう、上洛の軍中に在って叡山を味方につけるのに一役買っている(山門牒状)。
ところが、入洛した木曾軍からいつの間にか姿を消しており、義仲と何かあったのではないかと疑わせる。文も弁もたち、プライドも高かったであろう覚明の性格が、義仲と相容れなかったのではないか。
それからしばらくして、今度は信救得業と称して箱根山に現れる。得業とは学生の身分の一つであり、ここでも己の学識や身分に拘りが出ているようである。
箱根では頼朝の縁者の法要などに加わっているが、どうやら義仲の配下であったことがばれたらしい。曽我兄弟の敵討ちに関与していたとの説もあるので、頼朝にとって目障りな存在だったのだろう。
天下の鎌倉殿に睨まれたらおしまいである。ところがこの男、まだ生き続ける。
円通院浄寛と称して畿内に戻り、今度はあの法然房源空に帰依。次いで法然の弟子である親鸞が越後へ追われるとこれに同行し、浄土真宗の僧・西仏として北陸づたいに故郷信濃へと帰ってくるのである。
当時の海野氏の当主は左衛門入道幸氏。西仏にとって甥に当たる人物であった。
おそらくこの幸氏の庇護もあったのだろう。西仏はこの地に庵を結び、やがてその庵が東国における真宗の拠点、白鳥山康楽寺となるのである。
嘘のような話だが、康楽寺の縁起には「木曾註記大夫房覚明円通院浄寛西仏房」という長い長い名前が残されているという。
245:日本@名無史さん
10/10/26 23:46:46
>>240
清氏が途中から氏清になってるよw
で、その導誉の告発ってのが
導誉「義詮さま! 大変です! 清氏がこんなん書いてました!」
義詮「どれどれ見せてみよ。」
導誉が入手した清氏の願文には、あろうことか
「義詮がお亡くなりになって、基氏が降参して、
天下が俺様(清氏)のものになりますように」と書いてあった。
義詮「おのれ清氏! 許さん!」
かくて権勢を誇った清氏も、
将軍の追討を受ける身となり都を落ちていきましたとさ。
というお話。
246:日本@名無史さん
10/10/27 00:36:55
だれか日野資名の逸話教えてくれ
247:日本@名無史さん
10/10/27 05:49:37
北畠親子の話を~!!
248:日本@名無史さん
10/10/27 16:56:50
この頃の坊さんっておかしいのが多いよな。
常陸坊海尊ってまだ生きてるんだっけ?
249:144
10/10/27 20:50:14
>>248
常陸坊海尊は生き延びて不死になったという伝説がありますね。
昔々、光栄が出してた「伊忍道~打倒信長~」というゲームに敵キャラとして出てきて、大層びびったことを思い出しますた。
覚明には他にも逸話・伝承がたくさんありますが、
また折を見て。
とりあえずスレの燃料の足しにでもなれば幸いです。
250:244
10/10/27 20:51:33
>>249
名前まちがえた…244でした。
251:244
10/10/27 20:52:43
>>250
こんどはsage忘れた…orz
252:日本@名無史さん
10/10/28 23:40:57
その岡崎義実の逸話。
>>241にあるように息子である佐奈田義忠は、討ち死にしてしまった。
しかも、幼い息子を残して。
そんな幼い孫の行く末を案じた岡崎義実は、孫かわいさにとんでもない行動に出る。
その孫の母方の祖父・波多野義景が京に行っている間にその所領を横領したのである。
当然、母方の祖父・波多野義景は怒り訴訟になった。
岡崎義実の言い分は、こうだ。
「ワシが死んだ後、うちの孫に相続させてくれるかどうか心配なので、先にもらっただけです。
どうせ孫が相続するんだからかまわんでしょう」
当然、認められるわもなく岡崎義実の敗訴に終わった。
253:日本@名無史さん
10/10/29 02:41:00
>>236
いや、今、その辺を勉強してる所だから確かめたかっただけなのでW
てっことは、桓武時代から京で、坂東は、武家平氏の所領だっただけ?
254:日本@名無史さん
10/10/29 03:10:59
伊勢平氏とかで調べなされ
255:日本@名無史さん
10/10/29 04:14:39
岡崎義実は本当に癖の強いオッサンだよなw
どの逸話もどことなく素朴で何か憎めなくて俺は好き
坂東武者らしいよな
義経が頼朝に初めて会いに来たとき疑って追い返しかけたのもこの人だっけ
さっきの訴訟の後も政子に掛け合って孫の所領安堵してもらってたのに
結局滅んじゃうってのが侘しいが
256:日本@名無史さん
10/10/29 16:17:33
平塚の岡崎城の人か
すごい地元
257:日本@名無史さん
10/11/01 10:42:34
おお…
258:日本@名無史さん
10/11/01 12:40:23
戦国と違って書ける人が限られてるから
その人たちの動向次第でスレが止まってしまうのは弱点か…
259:日本@名無史さん
10/11/01 21:59:57
応永13年12月、国母である後小松天皇生母、三条巌子が危篤に陥った。
26日、見舞いに駆けつけた太政大臣足利義満はその容態が重篤であることを知り、
その後の段取りをつけ始める。
「国母様の死後、誰を新たな国母にするべきか。崇賢門院(勘解由小路仲仔)様に
お願いする方法もあるが、主上の祖母であられるのでいささか問題だ…。」
義満は言外に、自分の妻である日野康子を国母準ずる地位に立たせたい。
そう匂わせたのだ。
翌27日
義満は関白、一条経嗣と会見し、誰を国母にすべきか尋ねた。
経嗣は言う
「南御所(日野康子)様が准三宮宣下の儀を執り行えば、国母に準ずることに
何の支障もありません。」
これを聞いて義満、大変うれしそうな顔をした。
この日巌子は亡くなり、日野康子に准三宮の宣下が行われ、彼女が国母に準ずる事が
決められた。
一条経嗣はその日の日記にこう書いた。
『私もこんな阿諛追従をするようになってしまった。悲しいことだ。』
260:日本@名無史さん
10/11/01 22:14:47
悲しいな…
261:日本@名無史さん
10/11/01 22:23:56
しっかし、義満は公家っポイ。平氏もあっという間に公家っぽくなったし、
京都に本拠地を置くとこうなっちゃうものなのかな。
262:日本@名無史さん
10/11/01 23:26:17
出だしから終わりまでボロボロだった室町幕府で唯一強権を握った将軍
263:日本@名無史さん
10/11/01 23:56:44
同時に、これほど印象の悪い将軍も鎌倉以降では見当たらない
264:日本@名無史さん
10/11/02 00:38:55
室町将軍の全盛期は義満の孫の、悪将軍こと六代義教だろ。
265:日本@名無史さん
10/11/02 00:45:02
くじ引きで選ばれてるところで既に幕府の権威はかなり低下してる
じいさんの真似して有力大名の力を削ごうとしたら反対に殺されて終了
266:日本@名無史さん
10/11/02 00:52:47
>>265
籤は神威であり、義教は神威で選ばれたとしてむしろより強い強権を持つことが出来た。
267:日本@名無史さん
10/11/02 00:58:08
足利尊氏にしても義満にしても、代わりに泥をかぶる腹心の家臣・重臣いたけど
義教にははなくて、自分で直接やった。
出家した時点で、そんな家臣や重臣を持つ機会を失ったといえるんじゃないか。
そんな義教のこぼれ話。
最初は、「義信」と名乗るつもりだったが、それでは「世を忍ぶ」に
つながって縁起が悪いといって、「義教」になったという。
268:日本@名無史さん
10/11/02 01:01:54
鎌倉時代くらいなら神威の影響力って貴族・武士・寺社問わずすごくあったと思うが
足利義教の時代まで下るとどうだろうかw
269:日本@名無史さん
10/11/02 01:08:10
>>268
戦国時代すら戦の駆け引きに迷ったときはくじを引いたぞ。
270:日本@名無史さん
10/11/02 01:09:49
神威とか信じてるなら殺そうとは思わないだろw
271:日本@名無史さん
10/11/02 01:10:04
神威といえば、この義教の時代くらいから裁判において鉄火起請が流行り始め、
江戸初期くらいまで続くな。
神威的なものの影響は強かったと考えるべきだろう。
272:日本@名無史さん
10/11/02 01:19:59
足利義教と織田信長っていろいろ似てるよね
顔も似てるし
URLリンク(upload.wikimedia.org)
273:日本@名無史さん
10/11/02 01:27:23
>>272
似てるねえ。
義教の時代まで下れば
「クジ引きが神威?バカじゃねーのw」って感じる人が少なからずいたんじゃないのか?
もちろん江戸時代ですら大半の人は神仏の罰を信じてたわけだが。
程度問題。
274:日本@名無史さん
10/11/02 01:28:03
>>272
いかん、殴られていろんなところから流血してるように見える…
275:日本@名無史さん
10/11/02 07:11:24
バサラ大名あたりは、神仏をバカにしながら出家したり、信じてるんだか信じてないんだか複雑な感じ
くじ引き自体の権威よりも、人手の入ったインチキじゃないかと思ってたのも居ただろうし。鎌倉公方とか
276:日本@名無史さん
10/11/02 07:41:07
>>272が田代まさしに見える不思議
277:日本@名無史さん
10/11/02 09:07:06
>>275
幕府の狙いは>>266だろうけど
幕府の権力が低下しているからこそ籤という手段になったわけだからね。
278:日本@名無史さん
10/11/02 21:28:17
足利幕府は創成期ですでに権力争いやらかしてる始末だからなぁ
むしろあれだけボロボロな出発で十何代も続いたのが不思議だ
279:日本@名無史さん
10/11/02 21:49:33
他に日本をまとめる権力が存在しなかったからな。
朝廷は完全に幕府の二号さんだったし。
280:日本@名無史さん
10/11/02 21:53:20
何だかんだで権力兼権威がないと、大名も寺社も庶民も困ったということではないか。
そういう社会構造だから公方が必要とされたと。
信長でさえ、積極的に幕府を潰そうとはしてないよね。
一旦追放した足利義昭を帰洛させようとしたり。
281:日本@名無史さん
10/11/02 22:17:27
他の時代だと、その名目的権威みたいな役回りは天皇・朝廷が担ってるよね。
この時代だけ変な三重構造になっている感が
282:日本@名無史さん
10/11/02 22:44:45
義満の代で南朝という創設以来の敵がなくなって
対南朝のための北朝のまとめ役という役割が終わってしまったからじゃないか>変な三重構造
283:日本@名無史さん
10/11/03 03:41:50
>>281
三重構造といえば、
朝廷→征夷大将軍(鎌倉幕府)→北条執権
が元祖でしょう。
もしもその執権が側近たちに政治を投げ出そうものなら
四重構造になるわけですが、
そういう時代もあったのですかね?
284:日本@名無史さん
10/11/03 03:57:10
朝廷系の鎌倉将軍って権威としての実態はどれぐらいあったの?
285:日本@名無史さん
10/11/03 04:06:55
>>283
つ 内管領
286:日本@名無史さん
10/11/03 07:33:46
>>285
得宗を加えると、もうわけがわからない
287:日本@名無史さん
10/11/03 14:10:06
朝廷→征夷大将軍(鎌倉幕府)→北条執権 →得宗 →内管領と理解していた
江戸時代も朝廷→征夷大将軍→老中→側用人
288:日本@名無史さん
10/11/03 14:45:51
>>287
それはちょっと違うような・・・
老中を通さずに将軍が自ら権力を施行するためにつくられたのが側用人制度だろう。
(by 大石慎三郎)
289:日本@名無史さん
10/11/03 14:45:52
>>287
朝廷→将軍→得宗≧執権→内管領としたほうがいいかな。
鎌倉末期になると執権ですら形骸化し、「得宗家」という一つの家が支配するようになる。
その得宗家の執事が内管領。
290:日本@名無史さん
10/11/03 15:38:07
おおまかな時代の流れで言うなら
頼朝~頼家~実朝~政子の時代
朝廷→征夷大将軍(尼御代)→(執権&大江広元)
泰時~時頼の時代
朝廷→征夷大将軍→執権&評定衆
貞時以降の時代
>>289
というのが通説と言ったところか
291:日本@名無史さん
10/11/04 19:15:30
現在ではほとんど見向きもされない曽我兄弟であるが、その異父姉らしき人物は二宮朝忠と結婚している。かの二宮尊徳の先祖である、という話は特に聞かない。
さて、曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討たんと富士へ向かう途中に、ばったりとこの義兄に出くわした
曽我十郎(兄)「義兄上に今回の目的を打ち明けたら、仲間になってくれるだろうか?」
曽我五郎(弟)「義兄なんて血縁もない他人だし、俺たちのような落ちぶれた人間の仲間に加わらないだろう。挨拶だけにしておこう」
そこで二人が軽く挨拶したところ
朝忠「どこへいくのだ?」
十郎「鎌倉殿の巻狩りを見て、末代までの語り草にしようと思いまして」
朝忠「やめておけ。そんな馬や恰好で行ったら恥をかくだけだぞ。俺もろくなものを揃えられなかったんで、風邪と言うことにして行かないことにしたよ
お前たちも俺のところへ来て、遊んで行け」
十郎「でも、せっかくだから行ってきます。帰りにはよりますから、御馳走してください」
これがこの義兄との今生の別れとなり当然、曽我兄弟の異父姉とも再会することはなかった。夫から、異父弟たちが帰りによると言っていたことを聞いたかどうかは
わからないが、事件の後で母とともに弟たちの死に泣き伏した。この姉は、後に曽我兄弟を弔うために寺を建立したという。
現在も二宮町にある知足寺であり、曽我兄弟と二宮夫妻のものと伝わる墓が並んでいる。