10/10/16 19:28:01
吉田兼好は、北条時頼とか北条庶流や足利泰氏なんかを褒めまくってたような
昔はこんなに良かったみたいな感じで
186:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
10/10/16 20:48:11
すみません、一寸差し出がましすぎました。
>違う方向からの見方もあると面白さが際立つな。
でどうかご勘弁を。
>>185
時頼の味噌の話は、好きですね。
既出の松下禅尼の話も、好きですが。
187:>>176-177
10/10/16 21:38:01
>>186
全体的に>>15の対比として書きたかったのですが、見直してみるとそれが行き過ぎてしまっていますね
とりあえず嫌いではなかったのかも 反省です
あと、かたは者を浮浪者と訳したのは特に何かの考えがあってやった訳ではありません
浅慮でした
ただ徒然草の原文の文章を見る限り資朝を異様な人物として記述しようとしているのは確かなことではないでしょうか
上人の段でいえば西大寺の静然上人を『誠に徳たけたる有様』と書いているのに対し
犬を『浅ましく老いさらぼひて、毛はげたる』と描写し、それを内大臣に持っていくところに何やらあまり良くないものを感じます
為兼の段は>>182で指摘された通りそれを実際に見ながら口に出せる資朝の異質感を
最後の段は締めの『さもありぬべき事なり』を含めて不気味です
この『さもありぬべき事なり』は植木の愛好を辞めたことだけなのか、
それともかたは者を見て植木が気持ち悪いということに気付いた、というまで含めた全体的なことを指しているのかによって解釈が異なるのでしょうね
この徒然草は兼好が誰か人に見せるために、一説では邦良親王に宮廷の作法などを残すために書いたといわれています
その書物にわざわざ資朝の異様な面を書いたということは資朝は兼好にとっての『面白いが会いたくない人種』だったのでは?
188:日本@名無史さん
10/10/17 02:21:53
北条重時の遺訓
家来は公平に扱え。
宴会のとき、料理を多く取るな。
扇は安いものにしろ。
189:日本@名無史さん
10/10/17 09:20:21
しかし鎌倉武士の宴会料理って
少しも美味そうに思えないんだがw
190:日本@名無史さん
10/10/17 09:25:55
うちの近所はかまくらみちが多い、
風情があっていい
191:日本@名無史さん
10/10/17 09:34:00
鎌倉街道って誰がいつ作ったんだろ?
192:日本@名無史さん
10/10/17 10:05:35
うちの近所の伝鎌倉道の近くに殺人遺体が遺棄されてて、ただでさえ夜真っ暗なのにますます
通りにくくなった・・・
193:日本@名無史さん
10/10/17 10:06:27
当時の街道のほとんどが自然発生的に出来てる
はやりすたりもあるらしく、
すこし前まではやってたルートが何年か後には理由も無く人通りがなくなるとかもあった模様
194:日本@名無史さん
10/10/17 10:14:30
自然発生ってw
幅6m、両側に土手がある鎌倉街道が自然発生するのかよw
195:日本@名無史さん
10/10/17 12:27:58
上中下
もとまとのかまくらみちは、この三ルート。
うちは、上中が通る横浜戸塚
196:日本@名無史さん
10/10/17 16:08:11
>>194
それはあんたんちのとこの鎌倉街道でしょ
197:日本@名無史さん
10/10/17 17:53:11
万里の長城みたいに、一部は立派で、末端はなんかすごい粗雑なんじゃないの?
198:日本@名無史さん
10/10/17 23:07:24
兼好法師>仁和寺の坊主って、馬鹿ばっかし、そういっているようにしか思えないんですが。
石清水八幡宮に参るつもりが麓で引き返したヤシとか、宴会で調子に乗って鼎をかぶったら、
取れなくなって、死にそうな目に遭ったヤシに、可愛い稚児を誘ってピクニックに洒落込ん
だつもりが手配ミスで大喧嘩したり、笑うっきゃ無いような話ばかりなのも事実。
何か、いじめられたんでしようかね。
199:日本@名無史さん
10/10/19 03:48:40
仁和寺の坊主「幼女、幼女 (;´Д`)ハァハァ/lァ/lァ/ヽァ/ヽァ ノ \ア ノ \ア / \ ア / \ ア 」
200:日本@名無史さん
10/10/19 11:32:18
>>199
残念、稚児は男の子だ。10歳から15歳くらいの。
ハァハァしたり、ぱふぱふさせたり、は想像通りなんだけど。
201:日本@名無史さん
10/10/19 22:09:58
地名由来物、「夕顔瀬橋」
現在の岩手県盛岡市中心部を流れる北上川には、
「夕顔瀬橋」という名の橋が架かっている。
前九年の役も大詰め、厨川柵に追い詰められた安倍貞任は、源氏の軍勢を押しとどめるべく、
瓜に目鼻を描いた頭に藁人形の胴体をつけて甲冑を着せ、河原に並べて兵士に見せかけた。
…が、流れが想定以上に速くてうまく瓜を並べられなかったのか、
はたまた源氏の皆さんはそんな事一切気にしなかったのか、
結局渡河を阻止することはできず、奥州安倍氏は滅亡してしまった。
成功しなかったハリボテ作戦の悪い話。
202:日本@名無史さん
10/10/20 11:28:11
まあ源氏含め、頼朝配下の連中はそんなもん気にしないだろうなあ
恩賞出るなら濁流にも突っ込んで首取りに行くやつらだし
203:日本@名無史さん
10/10/20 16:13:19
>>202
某宇治川なんかがいい例かな。坂東武者を京の平家が恐れる理由の
片一方がそれだろね。
204:日本@名無史さん
10/10/20 16:54:24
坂東武者はいい意味でも悪い意味でも気性が荒いやつばっかだからなぁ
血族同士でガチな殺しあいとか日常茶飯事だし
205:日本@名無史さん
10/10/20 17:32:18
観応3年・正平7年(1352)のこと
5月の足利方による南朝方・男山攻略にて大いに戦功を現した山名師義は
幕府に対して恩賞を求めるため、政所執事・佐々木道誉にその取次ぎを願い出た。
ところが道誉、
師義が面会を求めるたびに
「今日は連歌の会席がありますので出来申さぬ。又後日」
「只今は茶会の最中でござる。また今度」
と、師義に一向に会おうとはしなかった。
この道誉の態度に師義はついに激怒、郷国である伯耆に帰ると父時氏と語らい
幕府に対して謀叛。先ず佐々木道誉の守護国出雲の守護代吉田秀仲を追放し出雲を接収、
更に国人たちを味方につけ、またたくまに出雲、伯耆、隠岐、因幡の4カ国を手中にした。
そして文和2年・正平8年(1353)6月には南朝方となって京に進軍。この南朝軍は
四条隆俊を将として楠木正儀、吉良満貞、石塔頼房等も加わり足利義詮率いる
足利幕府軍を撃破。
義詮は後光厳天皇を奉じて坂本から美濃垂井に逃走。この時近江堅田にいた
道誉の長男三郎秀綱も討死した。
佐々木道誉の嫌がらせ、高くつく。と言うお話。
206:日本@名無史さん
10/10/20 20:03:42
もし、「嫌がらせ道」とか「嫌がらせ検定」なんてあったら、不合格確実なレヴェル。
そんな程度のヤシしか政所執事を任せられなかった幕府の人材不足、ってことか?
207:日本@名無史さん
10/10/20 20:12:31
賄賂が足りなかったんじゃないの?
しかし、そんなことで反乱して、しかも成功しちゃうんだなw
どんだけ脆弱なんだ室町幕府の基盤はw
208:日本@名無史さん
10/10/20 21:33:00
これ、観応の擾乱で直義方についた師義が
幕府への復帰の斡旋を道誉に頼んだ話でもあるんだよね。
冷たく断られても仕方ない一面もある。
209:日本@名無史さん
10/10/20 21:43:49
だとしても、面子の潰し方が下手なんじゃないかとも思う。
旨く潰せば後腐れ無くて済むと思うけどね。
210:日本@名無史さん
10/10/20 22:11:07
>>204
昔、平家物語を読んだ時は坂東武者ってなんて強いんだと憧れたけど
性格がアレすぎて平家ドン引きしてたんだな
211:日本@名無史さん
10/10/20 22:33:18
最近は坂東人より河内人の方が残虐さは強調される傾向にあるな。
河内源氏なんてどれだけ悪く言われてるかw
212:日本@名無史さん
10/10/20 22:37:33
しかし鎌倉時代の社会は、庶民にとってはリアルにヒャッハーが日本を席巻した暗黒時代だ。
地頭なんて時代劇の悪代官が未だ可愛くなるような悪逆ばかり。
213:日本@名無史さん
10/10/20 22:43:25
つか中世の武士は頭にマッハで血が上るから困る
恩賞が足りないとか待遇が悪いとかならともかく、恥をかかされただけで去就を決める奴がゴロゴロいるからな
光秀や秀吉の我慢強さを見習えと・・・
214:日本@名無史さん
10/10/20 22:48:13
男衾三郎絵巻とか読んだことないけど
武士の館に近付いた庶民は問答無用でブチ殺されたってマジなのかなw
215:日本@名無史さん
10/10/21 00:09:42
三浦為次「矢を引き抜こうとして顔を踏んだら殺されかけました」
216:日本@名無史さん
10/10/21 01:07:37
ある時足利直義が、尊氏・直義兄弟の禅の師である夢窓疎石にこんな事を相談した
「私の政治を批評するものの中には、私があまりに善良であることを追求するために、
かえってそれが政道の害になり世の中が治まらないのだ、などという人も居ます。
この批評には耳をかたむけるべき部分があるでしょうか?」
これに夢窓疎石は答える
「善良…?
あなたは一体、何を勘違いされているのですか?
元弘以来のあなたが行ってきた罪業と、同じ時期に行った善行を比べてみなさい。
一体どちらが多いと思いますか!?
つい最近も御敵であるとして、あなたが滅ぼした人間がどれほど出ましたか!?
滅ぼされた者の跡に残る妻子眷属の想いは、一体どこに向かうと考えるのか!?
敵だけではありません!味方であってもあなたが合戦を行ない死んだ人々は
皆あなたの材業となるのです!
今もなお、あなたの口から目出度いこととして聞こえてくるのは、敵が多く滅んだ、
つまり、また罪業を重ねたということではありませんか!」
夢窓疎石はこのように、直義に対しても歯に衣を着せず直言した。
しかし直義も、あるいはそれ故にか、夢窓疎石への深い帰依は終生変わらなかったという。
夢窓疎石、足利直義を叱る。と言うお話。
217:日本@名無史さん
10/10/21 01:18:41
>>213
中華の文士なら憤死だな。
素直(?)に暴力に走るのが中世日本の文化だな。赤穂浪士もこの系譜だな。
218:日本@名無史さん
10/10/21 01:26:18
>>217
中国でも漢代あたりだと侮辱されたら切れて襲撃とかよくあるぜ。
蒙求にも載ってる雲台二十八将の祭遵とか有名。
219:日本@名無史さん
10/10/21 01:40:41
>>218
たしかに史記は任侠世界に片足突っ込んでる感じだしな
「地頭が百姓をいじめる」とかいう表現を見ると、
暴力が社会を支配してる感じがありありと伝わってきて、なんつーかドキドキするんだよな。
220:日本@名無史さん
10/10/21 01:49:18
孟嘗君「背が低いとか俺の事disった奴は皆殺しだぜ」
221:日本@名無史さん
10/10/21 07:57:39
清少納言「原作料請求来ますた」
藤原行成「俺に言うなよ」
222:日本@名無史さん
10/10/21 12:17:56
『男衾三郎絵詞』
「馬庭の末に生首絶やすな、切り懸けよ。
此の門外通らん乞食・修行者めらは用ある者ぞ、蟇目・鏑にて駆け立て駆け立て追物射にせよ」
『今昔物語集』巻14第10
「(陸奥国の壬生良門)弓矢を以て朝暮の翫として人を罰し、畜生を殺すを以て業とす。
夏は河に行て魚を捕り、秋は山に交はりて鹿を狩る」
『今昔物語集』巻19第14
「(讃岐国多度郡の源大夫)心極めて猛くして殺生を以、業とす。
日夜朝暮に山野に行て鹿・鳥を狩り、河海に臨て魚を捕る。
亦、人の頸を切り、足手を折らざる日は少なくこそありけれ」
マジでキチガイじみてるからやめろ
223:日本@名無史さん
10/10/21 12:48:47
>>222
鬼武蔵がかわいく見えるぞw
224:日本@名無史さん
10/10/21 14:27:02
戦国時代はやっぱ秩序回復期で倫理道徳の形成期だよな…
225:日本@名無史さん
10/10/21 14:31:27
鎌倉時代は何と言っても鎌倉党だやな
226:日本@名無史さん
10/10/21 18:17:28
男衾三郎絵詞って日本史の教科書に笠懸の写真が載ってるよね
227:日本@名無史さん
10/10/21 19:08:42
近頃は物騒になったなあ
228:日本@名無史さん
10/10/21 19:11:59
>>226
これか
URLリンク(upload.wikimedia.org)
男衾って八高線の駅にあるね。あそこが舞台か
229:日本@名無史さん
10/10/21 22:46:19
>>222
>>夏は河に行て魚を捕り
>>河海に臨て魚を捕る
ん?
言わんとするところはわかるが、肉食になれてる現代人にはピンとこない描写だな。
230:日本@名無史さん
10/10/21 23:49:26
現代人は食べることこそあれど自分で捕ったりはそれほど
231:日本@名無史さん
10/10/21 23:58:41
>>230
そうじゃない。
殺生を恐れていることがポイント。
232:日本@名無史さん
10/10/22 00:03:18
>>209
山名と佐々木は犬猿の仲なんだよ。
出雲源氏の嫡流である塩冶高貞を師義の親父の山名時氏にぶっ殺され
一時、出雲守護を山名に奪われたことで、同じ佐々木である道誉が
マジギレして出雲守護を取り返したという経緯があってな。
おまけに時氏は、中国で細川と領有争いしているという背景もある。
233:日本@名無史さん
10/10/22 12:26:44
>>203
平家自体出生ルーツは、武蔵坂東武者だからね。
将門時代は・・清盛時代から京・・関西
234:日本@名無史さん
10/10/22 12:31:57
>>211
河内源氏のルーツって総大将は大河内氏で足利将軍家の血筋だったんだろ・・嵯峨天皇?それとも、清和天皇?
235:日本@名無史さん
10/10/22 12:35:57
>>234の修正再レス
河内源氏の総大将は大河内氏で足利将軍家の血筋だったんだろ・・河内源氏のルーツって嵯峨天皇?それとも、清和天皇?
236:日本@名無史さん
10/10/22 13:40:50
>>233
清盛時代から京ってw
日本史勉強したほうがいいよw
237:日本@名無史さん
10/10/23 04:28:24
>>233
半可通
238:日本@名無史さん
10/10/25 23:29:48
>>205
佐々木導誉が政所執事やってたことってあったっけ?
239:日本@名無史さん
10/10/26 17:52:52
ふむ
240:日本@名無史さん
10/10/26 18:25:41
細川清氏といえば、足利将軍2代、足利義詮の執事として幕府を主導した大物である。
そんな清氏があるとき将軍義詮を、七百番の歌合に招こうとした。
この七百番というもの、七は縁起の良い数字であり、将軍義詮を寿ぐ、という意味合いの強い
歌合であったのだろう。
…が、これを聞いて黙っていられない男がいた。佐々木道誉である。
道誉は当時、清氏と関係を悪くしていた。
「清氏の奴め、そんな見え透いた歌合で将軍の心に取り入るか、そうはさせぬわ!」
道誉は清氏に先立って将軍義詮を招いた。しかもその内容は
七所を飾って七番菜(の料理)を整え、七百種の掛け物を積んで七十服の茶を用意した、
茶寄合の席であった。
清氏が企画した七の寿ぎを、これでもかと規模で圧倒したのである。
これを聞いた氏清は大いに憤り、道誉との対立は激化。ついには道誉の告発による
細川氏清の追放、氏清の南朝への降伏、氏清軍らによる南朝による京都攻略にまで至る。
佐々木道誉による、幕府執事細川氏清への嫌がらせについてのお話。
241:日本@名無史さん
10/10/26 19:35:28
>>93‐94
さて、その岡崎義実の息子である佐奈田義忠であるが、源頼朝の旗揚げの際には父ともども馳せ参じた。そして、石橋山の戦いにおいては、俣野景久と
取っ組み合いを演じることになり見事組み伏せたが、義忠の刀は血糊がこびり付いてなかなか抜けない。そこへ長尾定景がやってきたため逆に討ち取ら
れてしまう結果となった。
その後、頼朝が鎌倉へ入ると、定景は出頭してきた。そこで頼朝は彼を義忠の父、義実に預けた。普通ならここで、定景の首をはね義忠の無念を晴らす
ところであろうが、覚悟を決めた定景が毎日、経を唱えているをの聞いているうちに、息子を殺された恨みも消えたのか、頼朝へは「定景を討つことは、
かえって、義忠の成仏の妨げになります。ゆえに定景を許したいと思います」と報告した。
なお、この長尾定景という者は後年、源実朝を暗殺した公暁を討ち取った人物であり、かの上杉謙信の先祖でもある。もしも義実が、定景を殺していたら
後世の歴史は大きく変わっていたかもしれない
242:日本@名無史さん
10/10/26 20:20:46
>>240
佐々木道誉、こんどの嫌がらせは、どーよ?
243:日本@名無史さん
10/10/26 21:57:58
道誉…
244:日本@名無史さん
10/10/26 23:28:01
義仲の祐筆
木曾義仲の祐筆をつとめた、覚明という正体不明の怪僧がいる。
伝承によれば義仲の後見である中三権守兼遠の甥である。
兼遠の兄が保元平治の乱で活躍した海野幸親であり、その子の小太郎幸長が覚明の前身だという。
幸長は都に上り文章寮の学生となり、進士蔵人道広と名乗った。文章博士まで至ったという。
のち剃髪して最乗房信救と称して興福寺勧学院に身を置き、反平家を呼び掛ける以仁王の令旨に対する返書の中で、清盛を「平家の糟糠、武家の塵芥」と痛烈に批判している。世にいう「南都返牒」である。
これがたたって平家ににらまれ、なんと顔に漆を塗って面相を変え、新宮行家とともに逃亡。
次いで義仲の祐筆、大夫房覚明として姿を現す。「大夫」房と称する辺り、五位の身であったことを自負していたのかもしれない。
義仲の下ではおそらく参謀役を務めていたのだろう、上洛の軍中に在って叡山を味方につけるのに一役買っている(山門牒状)。
ところが、入洛した木曾軍からいつの間にか姿を消しており、義仲と何かあったのではないかと疑わせる。文も弁もたち、プライドも高かったであろう覚明の性格が、義仲と相容れなかったのではないか。
それからしばらくして、今度は信救得業と称して箱根山に現れる。得業とは学生の身分の一つであり、ここでも己の学識や身分に拘りが出ているようである。
箱根では頼朝の縁者の法要などに加わっているが、どうやら義仲の配下であったことがばれたらしい。曽我兄弟の敵討ちに関与していたとの説もあるので、頼朝にとって目障りな存在だったのだろう。
天下の鎌倉殿に睨まれたらおしまいである。ところがこの男、まだ生き続ける。
円通院浄寛と称して畿内に戻り、今度はあの法然房源空に帰依。次いで法然の弟子である親鸞が越後へ追われるとこれに同行し、浄土真宗の僧・西仏として北陸づたいに故郷信濃へと帰ってくるのである。
当時の海野氏の当主は左衛門入道幸氏。西仏にとって甥に当たる人物であった。
おそらくこの幸氏の庇護もあったのだろう。西仏はこの地に庵を結び、やがてその庵が東国における真宗の拠点、白鳥山康楽寺となるのである。
嘘のような話だが、康楽寺の縁起には「木曾註記大夫房覚明円通院浄寛西仏房」という長い長い名前が残されているという。
245:日本@名無史さん
10/10/26 23:46:46
>>240
清氏が途中から氏清になってるよw
で、その導誉の告発ってのが
導誉「義詮さま! 大変です! 清氏がこんなん書いてました!」
義詮「どれどれ見せてみよ。」
導誉が入手した清氏の願文には、あろうことか
「義詮がお亡くなりになって、基氏が降参して、
天下が俺様(清氏)のものになりますように」と書いてあった。
義詮「おのれ清氏! 許さん!」
かくて権勢を誇った清氏も、
将軍の追討を受ける身となり都を落ちていきましたとさ。
というお話。
246:日本@名無史さん
10/10/27 00:36:55
だれか日野資名の逸話教えてくれ
247:日本@名無史さん
10/10/27 05:49:37
北畠親子の話を~!!
248:日本@名無史さん
10/10/27 16:56:50
この頃の坊さんっておかしいのが多いよな。
常陸坊海尊ってまだ生きてるんだっけ?
249:144
10/10/27 20:50:14
>>248
常陸坊海尊は生き延びて不死になったという伝説がありますね。
昔々、光栄が出してた「伊忍道~打倒信長~」というゲームに敵キャラとして出てきて、大層びびったことを思い出しますた。
覚明には他にも逸話・伝承がたくさんありますが、
また折を見て。
とりあえずスレの燃料の足しにでもなれば幸いです。
250:244
10/10/27 20:51:33
>>249
名前まちがえた…244でした。
251:244
10/10/27 20:52:43
>>250
こんどはsage忘れた…orz
252:日本@名無史さん
10/10/28 23:40:57
その岡崎義実の逸話。
>>241にあるように息子である佐奈田義忠は、討ち死にしてしまった。
しかも、幼い息子を残して。
そんな幼い孫の行く末を案じた岡崎義実は、孫かわいさにとんでもない行動に出る。
その孫の母方の祖父・波多野義景が京に行っている間にその所領を横領したのである。
当然、母方の祖父・波多野義景は怒り訴訟になった。
岡崎義実の言い分は、こうだ。
「ワシが死んだ後、うちの孫に相続させてくれるかどうか心配なので、先にもらっただけです。
どうせ孫が相続するんだからかまわんでしょう」
当然、認められるわもなく岡崎義実の敗訴に終わった。
253:日本@名無史さん
10/10/29 02:41:00
>>236
いや、今、その辺を勉強してる所だから確かめたかっただけなのでW
てっことは、桓武時代から京で、坂東は、武家平氏の所領だっただけ?
254:日本@名無史さん
10/10/29 03:10:59
伊勢平氏とかで調べなされ
255:日本@名無史さん
10/10/29 04:14:39
岡崎義実は本当に癖の強いオッサンだよなw
どの逸話もどことなく素朴で何か憎めなくて俺は好き
坂東武者らしいよな
義経が頼朝に初めて会いに来たとき疑って追い返しかけたのもこの人だっけ
さっきの訴訟の後も政子に掛け合って孫の所領安堵してもらってたのに
結局滅んじゃうってのが侘しいが
256:日本@名無史さん
10/10/29 16:17:33
平塚の岡崎城の人か
すごい地元
257:日本@名無史さん
10/11/01 10:42:34
おお…
258:日本@名無史さん
10/11/01 12:40:23
戦国と違って書ける人が限られてるから
その人たちの動向次第でスレが止まってしまうのは弱点か…
259:日本@名無史さん
10/11/01 21:59:57
応永13年12月、国母である後小松天皇生母、三条巌子が危篤に陥った。
26日、見舞いに駆けつけた太政大臣足利義満はその容態が重篤であることを知り、
その後の段取りをつけ始める。
「国母様の死後、誰を新たな国母にするべきか。崇賢門院(勘解由小路仲仔)様に
お願いする方法もあるが、主上の祖母であられるのでいささか問題だ…。」
義満は言外に、自分の妻である日野康子を国母準ずる地位に立たせたい。
そう匂わせたのだ。
翌27日
義満は関白、一条経嗣と会見し、誰を国母にすべきか尋ねた。
経嗣は言う
「南御所(日野康子)様が准三宮宣下の儀を執り行えば、国母に準ずることに
何の支障もありません。」
これを聞いて義満、大変うれしそうな顔をした。
この日巌子は亡くなり、日野康子に准三宮の宣下が行われ、彼女が国母に準ずる事が
決められた。
一条経嗣はその日の日記にこう書いた。
『私もこんな阿諛追従をするようになってしまった。悲しいことだ。』
260:日本@名無史さん
10/11/01 22:14:47
悲しいな…
261:日本@名無史さん
10/11/01 22:23:56
しっかし、義満は公家っポイ。平氏もあっという間に公家っぽくなったし、
京都に本拠地を置くとこうなっちゃうものなのかな。
262:日本@名無史さん
10/11/01 23:26:17
出だしから終わりまでボロボロだった室町幕府で唯一強権を握った将軍
263:日本@名無史さん
10/11/01 23:56:44
同時に、これほど印象の悪い将軍も鎌倉以降では見当たらない
264:日本@名無史さん
10/11/02 00:38:55
室町将軍の全盛期は義満の孫の、悪将軍こと六代義教だろ。
265:日本@名無史さん
10/11/02 00:45:02
くじ引きで選ばれてるところで既に幕府の権威はかなり低下してる
じいさんの真似して有力大名の力を削ごうとしたら反対に殺されて終了
266:日本@名無史さん
10/11/02 00:52:47
>>265
籤は神威であり、義教は神威で選ばれたとしてむしろより強い強権を持つことが出来た。
267:日本@名無史さん
10/11/02 00:58:08
足利尊氏にしても義満にしても、代わりに泥をかぶる腹心の家臣・重臣いたけど
義教にははなくて、自分で直接やった。
出家した時点で、そんな家臣や重臣を持つ機会を失ったといえるんじゃないか。
そんな義教のこぼれ話。
最初は、「義信」と名乗るつもりだったが、それでは「世を忍ぶ」に
つながって縁起が悪いといって、「義教」になったという。
268:日本@名無史さん
10/11/02 01:01:54
鎌倉時代くらいなら神威の影響力って貴族・武士・寺社問わずすごくあったと思うが
足利義教の時代まで下るとどうだろうかw
269:日本@名無史さん
10/11/02 01:08:10
>>268
戦国時代すら戦の駆け引きに迷ったときはくじを引いたぞ。
270:日本@名無史さん
10/11/02 01:09:49
神威とか信じてるなら殺そうとは思わないだろw
271:日本@名無史さん
10/11/02 01:10:04
神威といえば、この義教の時代くらいから裁判において鉄火起請が流行り始め、
江戸初期くらいまで続くな。
神威的なものの影響は強かったと考えるべきだろう。
272:日本@名無史さん
10/11/02 01:19:59
足利義教と織田信長っていろいろ似てるよね
顔も似てるし
URLリンク(upload.wikimedia.org)
273:日本@名無史さん
10/11/02 01:27:23
>>272
似てるねえ。
義教の時代まで下れば
「クジ引きが神威?バカじゃねーのw」って感じる人が少なからずいたんじゃないのか?
もちろん江戸時代ですら大半の人は神仏の罰を信じてたわけだが。
程度問題。
274:日本@名無史さん
10/11/02 01:28:03
>>272
いかん、殴られていろんなところから流血してるように見える…
275:日本@名無史さん
10/11/02 07:11:24
バサラ大名あたりは、神仏をバカにしながら出家したり、信じてるんだか信じてないんだか複雑な感じ
くじ引き自体の権威よりも、人手の入ったインチキじゃないかと思ってたのも居ただろうし。鎌倉公方とか
276:日本@名無史さん
10/11/02 07:41:07
>>272が田代まさしに見える不思議
277:日本@名無史さん
10/11/02 09:07:06
>>275
幕府の狙いは>>266だろうけど
幕府の権力が低下しているからこそ籤という手段になったわけだからね。
278:日本@名無史さん
10/11/02 21:28:17
足利幕府は創成期ですでに権力争いやらかしてる始末だからなぁ
むしろあれだけボロボロな出発で十何代も続いたのが不思議だ
279:日本@名無史さん
10/11/02 21:49:33
他に日本をまとめる権力が存在しなかったからな。
朝廷は完全に幕府の二号さんだったし。
280:日本@名無史さん
10/11/02 21:53:20
何だかんだで権力兼権威がないと、大名も寺社も庶民も困ったということではないか。
そういう社会構造だから公方が必要とされたと。
信長でさえ、積極的に幕府を潰そうとはしてないよね。
一旦追放した足利義昭を帰洛させようとしたり。
281:日本@名無史さん
10/11/02 22:17:27
他の時代だと、その名目的権威みたいな役回りは天皇・朝廷が担ってるよね。
この時代だけ変な三重構造になっている感が
282:日本@名無史さん
10/11/02 22:44:45
義満の代で南朝という創設以来の敵がなくなって
対南朝のための北朝のまとめ役という役割が終わってしまったからじゃないか>変な三重構造
283:日本@名無史さん
10/11/03 03:41:50
>>281
三重構造といえば、
朝廷→征夷大将軍(鎌倉幕府)→北条執権
が元祖でしょう。
もしもその執権が側近たちに政治を投げ出そうものなら
四重構造になるわけですが、
そういう時代もあったのですかね?
284:日本@名無史さん
10/11/03 03:57:10
朝廷系の鎌倉将軍って権威としての実態はどれぐらいあったの?
285:日本@名無史さん
10/11/03 04:06:55
>>283
つ 内管領
286:日本@名無史さん
10/11/03 07:33:46
>>285
得宗を加えると、もうわけがわからない
287:日本@名無史さん
10/11/03 14:10:06
朝廷→征夷大将軍(鎌倉幕府)→北条執権 →得宗 →内管領と理解していた
江戸時代も朝廷→征夷大将軍→老中→側用人
288:日本@名無史さん
10/11/03 14:45:51
>>287
それはちょっと違うような・・・
老中を通さずに将軍が自ら権力を施行するためにつくられたのが側用人制度だろう。
(by 大石慎三郎)
289:日本@名無史さん
10/11/03 14:45:52
>>287
朝廷→将軍→得宗≧執権→内管領としたほうがいいかな。
鎌倉末期になると執権ですら形骸化し、「得宗家」という一つの家が支配するようになる。
その得宗家の執事が内管領。
290:日本@名無史さん
10/11/03 15:38:07
おおまかな時代の流れで言うなら
頼朝~頼家~実朝~政子の時代
朝廷→征夷大将軍(尼御代)→(執権&大江広元)
泰時~時頼の時代
朝廷→征夷大将軍→執権&評定衆
貞時以降の時代
>>289
というのが通説と言ったところか
291:日本@名無史さん
10/11/04 19:15:30
現在ではほとんど見向きもされない曽我兄弟であるが、その異父姉らしき人物は二宮朝忠と結婚している。かの二宮尊徳の先祖である、という話は特に聞かない。
さて、曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討たんと富士へ向かう途中に、ばったりとこの義兄に出くわした
曽我十郎(兄)「義兄上に今回の目的を打ち明けたら、仲間になってくれるだろうか?」
曽我五郎(弟)「義兄なんて血縁もない他人だし、俺たちのような落ちぶれた人間の仲間に加わらないだろう。挨拶だけにしておこう」
そこで二人が軽く挨拶したところ
朝忠「どこへいくのだ?」
十郎「鎌倉殿の巻狩りを見て、末代までの語り草にしようと思いまして」
朝忠「やめておけ。そんな馬や恰好で行ったら恥をかくだけだぞ。俺もろくなものを揃えられなかったんで、風邪と言うことにして行かないことにしたよ
お前たちも俺のところへ来て、遊んで行け」
十郎「でも、せっかくだから行ってきます。帰りにはよりますから、御馳走してください」
これがこの義兄との今生の別れとなり当然、曽我兄弟の異父姉とも再会することはなかった。夫から、異父弟たちが帰りによると言っていたことを聞いたかどうかは
わからないが、事件の後で母とともに弟たちの死に泣き伏した。この姉は、後に曽我兄弟を弔うために寺を建立したという。
現在も二宮町にある知足寺であり、曽我兄弟と二宮夫妻のものと伝わる墓が並んでいる。
292:日本@名無史さん
10/11/05 17:20:47
元はといえば祐経の叔父かなんかが元凶じゃなかったっけ
祐経だけ悪者のように扱われて可哀想だよね。
293:日本@名無史さん
10/11/05 19:41:16
曾我兄弟の仇討ちって真の目的は頼朝暗殺とか言うよね
294:日本@名無史さん
10/11/05 19:59:20
北条による暗殺未遂事件
295:日本@名無史さん
10/11/05 20:08:59
俣野氏誰か語って!
296:日本@名無史さん
10/11/05 22:23:26
そのへんは推測しか出来ないよなあ
範頼は関わってただろうけど
297:日本@名無史さん
10/11/06 01:14:55
wikipediaの記述だと
>>祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。
>>押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
祐経カワイソス
298:日本@名無史さん
10/11/06 07:55:57
ネトラレっすか
299:日本@名無史さん
10/11/06 22:32:00
曾我兄弟の仇討ち、なんで昔はすっごい人気あったんだろう?
そして何故現代ではここまでマイナーになってしまったのか・・・
300:日本@名無史さん
10/11/06 23:44:19
大庭・岡崎による頼朝と北条の排除とも言われている。
この事件の後、なぜか大庭景義と岡崎義実の二人が出家し、源範頼は
粛清されてしまう。
301:日本@名無史さん
10/11/07 00:59:20
祐経の叔父からの因縁を見るにつれて
どうにもスカっとした仇討ちものにはならないよね。
領地押領、嫁略奪までされて、あの時代殺そうと思わないほうがおかしい。
明治期の文学者がテーマにしようとも思わなかったので廃れたんだろう。
302:日本@名無史さん
10/11/07 02:50:05
>>299
端的に言えば工藤兄弟のはごく私的な仇討であり、近代に入ってから仇討が禁止され、
その心情が徐々に理解されなくなったことが大きいのだろうな。
一方で忠臣蔵は主君や公、組織に対する「忠誠心」の話であり、
これは近代国家においても賞賛された徳目であって、容易に受け入れられたということがあるのだろう。
303:日本@名無史さん
10/11/07 03:36:30
いったんは祐経に諭されているのに仇討ちを諦めなかったというのが
イカにもDQN臭いし。
304:日本@名無史さん
10/11/07 08:01:51
もともとは嫡流だったはずの伊東祐親の父が早死にしたため、祖父が後妻の連れ子であった工藤祐継に本領を与えたことを不満に思ってた祐親が、工藤から
奪い返したことを考えたら、祐親も一方的に悪人にされるのは不本意だろうし。殺された河津祐泰(曾我兄弟の父)は、どう考えてもとばっちりだが
305:日本@名無史さん
10/11/07 20:19:46
あれ、とばっちりなの?
親子共々って感じじゃないの?
306:日本@名無史さん
10/11/08 02:51:33
URLリンク(ja.wikipedia.org)
307:日本@名無史さん
10/11/08 16:54:40
地元の行田市駒方 真言宗 遍照院の話
仁安元年(1166年)の春の事
平泉の城主である鎮府将軍 藤原秀衡は目の病に罹り少しも見えなくなってしまった。
色々な薬を試してみたが全く効果が無かった。
この事を聞いた南部の城主 盛岡信濃守は同国の三戸崎美濃次郎、出羽の城主 山形帯刀と相謀り、
盲目になった秀衡を幸とし、この虚に乗じて一戦交え、秀衡を亡き者にし奥州を手に取ろう
と軍勢を催したのである。
これを聞いた高館次郎は急いで秀衡に注進する。
秀衡は直ちに息子三人に命じて衣川の関に防戦を命じた。
一方、秀衡は守り本尊である信夫郷の薬師如来に心眼を立て、17日間の断食を成し、
心を込めて祈っていた。
すると、満願の日、目の病が治ったのである。
この事に秀衡の喜びは譬えるものなく勇みに勇んで衣川の関に至り、
南部の大敵を追い散らし大勝を得たのである。
そして、この天恵に秀衡は御禮として御堂を建立を思い立っていた。
308:日本@名無史さん
10/11/08 16:55:44
続き
時に仁安二年4月8日
丁度その日、秀衡は暁の御夢に如来からお告げを聞いた。
それは辰巳の方角に当たって、鎌倉街道の郷に有縁の地があるからその地へ祀れとの事であった。
すぐさま薬師如来を御輿に乗せ奉り秀衡が寵愛する牛に引かせ、
家臣の栗原五郎秀時に命じて御供させた。
旅の日を重ねて8月8日、忍の郷(現・行田市)の遍照院に着いた。
不思議なことに御輿を引いてきた牛が突然ぽっくり死んでしまったのだ。
またその夜、お供の栗原五郎と住職の圓慶は夢で
「この地こそ有縁の地である」というお告げを聞き、またその夢が両人とも同じである事に驚いた。
定めて御心に叶う場所に違いないと薬師の尊像をこの寺に安置し、
死んだ牛は南隅に埋め、印として若松を植えた。(秀衡松)
栗原五郎は国に帰りこの話を秀衡に言上した。
秀衡は大いに喜び本堂、庫裏、鎮棲、仁王門、大塔、山門と建て連ねたのであった。
309:日本@名無史さん
10/11/08 16:56:43
時代が進んで謙信が攻めて来たときに寺院は燃やされるが尊像は無事。
そして徳川から二十五石を賜り寛政5年に再建、現在に至る。
秀衡が持ってきた行基作とある木造薬師如来坐像は今もご健在
また、秀衡松と言われている若松も臨済宗大蔵寺(すぐ隣)でご健在
けどこの話を裏付ける明確な資料は無いんだけどね
それと下げるの忘れてすまん
310:添削くん
10/11/09 23:32:53
>>267
>最初は、「義信」
ちゃうちゃう。「義宣」(読みはヨシノブ)
>と名乗るつもりだったが、
ちゃうちゃう。実際に名乗ったのだよ。その後「義教」に改名。
余談だが彼の玄孫義昭は還俗後「義秋」と名乗ったが、
やはり縁起が宜しくないとかいう理由で改名。
秋の次は冬、っていう斜陽イメージ(?)が忌まれたのだろうか。
311:添削くん
10/11/09 23:34:47
ちなみに「義秋」さんからへんきを賜ったと思しき三淵秋豪は
非業の最期を遂げている。
312:日本@名無史さん
10/11/10 00:14:28
小早川秀秋・・・
まあ関係ないけどなw
313:日本@名無史さん
10/11/10 10:44:15
>>307
盛岡って江戸時代に入ってから成立した地名だと思ってたから、
「盛岡氏」というのがいたということにびっくりした。ありがとう。
大小を問わず、お寺や神社にある解説って
思わぬローカル情報を知ることができて面白いよね。
314:日本@名無史さん
10/11/10 11:16:10
>>313
福岡市や広島市は、黒田や福島が名付けた城下町
315:日本@名無史さん
10/11/10 11:51:33
>>314
広島は毛利輝元がつけた名前だ
316:日本@名無史さん
10/11/10 13:10:52
>>315
そうか、、
317:1/2
10/11/10 15:52:22
この話こっちの方がいいな、と思ったので転載
590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 03:32:13 ID:/HHeI23s
上杉禅秀の乱、始末記
応永二十三年(1416)、
先の関東管領、上杉禅秀による、鎌倉公方足利持氏襲撃により始まった、上杉禅秀の乱。
この関東での騒乱は、京にも大きな動揺を与えた。この乱に対し、禅秀討伐の方針が決まると、
将軍義持の弟、義嗣が逐電。高尾の神護寺にて出家するという事件が起こった。
一旦は帰宅を許されるも、その後義嗣は仁和寺に拘束。
将軍義持は近習、富樫満成らにこの事件の捜査を命じた。
捜査はいきなり大きな壁にぶつかる。管領の細川満元や畠山満家ら、有力大名による妨害が
行われたのだ。「今は禅秀の討伐が大切なのだ。こんな事件の究明は無益だ。」
しかし満成はひるまない。捜査を続けるうち、ついに、義嗣の近習から、
義嗣に対し細川満元、斯波義教、赤松義則らが「与力」している、という証言を引き出した。
前将軍足利義満に愛され、一時は義持に変わり将軍を継ぐとまで噂された、義嗣。
彼は前々からその「野心」を噂されていた。
その義嗣と、義持に敵対心を露にしていた足利持氏との繋がり。
逆に義持と上杉禅秀との繋がり。
義持派と反義持派の間で揺れる有力諸侯たち。
関東の乱に連動した、義嗣を中心とした京での陰謀…
事件は、その裏にある複雑な様相を除かせはじめていた。
318:日本@名無史さん
10/11/10 15:54:00
応永二十五年(1418)正月、義持はついに、義嗣を殺害させる。
この事件はこれで幕引きされた、誰もがそう思った。
だが、富樫満成の追求はとまらない。
6月、義嗣の陰謀に加わったものとして、畠山満家の弟、満則、山名時熙、土岐康政らの
名前が上がった。大規模な疑獄の全容が、暴かれようとしていた。
幕府は、強烈な緊張化に置かれた…、
ここで、この事件は急展開を迎える。
11月、将軍義持の下に、富樫満成こそがこの事件の黒幕である。そう言う直訴があった。
これに、義持は満成の逮捕を命じる。富樫満成は失脚したのだ。
満成は高野山に逃れるが、義持の命を受けた畠山満家の手のものに殺される。
こうして、この巨大な疑獄事件は幕を閉じた。
おそらく義持と畠山満家との間に、「手打ち」があったのだろう。幕府の動揺も、これにて治まった。
富樫満成は幕政の安定のための、生贄にされたのだ。
「知りすぎた男」の、悲劇の物語。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
319:日本@名無史さん
10/11/10 18:38:07
>>313
盛岡市の盛岡は江戸時代初期につけられた地名。それ以前は不来方。
デタラメ寺伝なんて信じるな。
320:日本@名無史さん
10/11/10 22:40:51
>>318
それ通説ね。
反対意見も紹介しよう。
義嗣は禅秀に共闘を持ちかけたらしいが、
禅秀としては、あわよくば義持の支持を得られるかも知れないのに
義嗣と組むメリットは何もないので応じなかった。
しかし幕閣の面々は、義持が禅秀を支援したら
義持不支持→義嗣擁立というシナリオも考えていたらしい。
それを察知した義持は持氏支持の旗幟を明らかにし、
義嗣擁立は不発に終わった、という説もあるね。
321:日本@名無史さん
10/11/10 23:21:08
>>320
あまりにも複雑で当時の関東と京都の通信事情でそんな事が可能だとは到底思えないが
322:日本@名無史さん
10/11/11 20:04:58
>>313
行田史譚(1958)から引用で元は忍名所図会だが
筆者も疑っているから信用しない方が良い。
一様、新編武蔵風土記稿では合戦の部分は省かれており
当の遍照院も同じように合戦の部分を省いて紹介している。(風土記稿の方を引用?)
323:320
10/11/11 20:25:51
ごめんごめん。うろ覚えでいい加減なこと書いちゃった。
「関東謀叛彼亜相所為」という『看聞御記』の記述以来、
「彼亜相」(義嗣)と禅秀が通じていたと見るのが通説だけど、
禅秀としては、あわよくば義持の支持を得られるかも知れないのに
義嗣と組むメリットは何もない。
義嗣は寧ろ持氏との共闘を模索していた。
と指摘されたのが山家浩樹氏。
324:日本@名無史さん
10/11/11 20:31:09
>>323
仮説のための仮説としか言い用がないな。時代性を無視しているとしか見えない。
325:320
10/11/11 20:31:48
因みに『中古日本治乱記』には
義嗣は持氏に期待したのに、
あっさり禅秀に敗れたので「だめだこりゃ」(超現代語訳)ってことで
次には九州勢を利用しようと構想したとある。
まぁ、信頼性の程はあれなんだが。。
326:日本@名無史さん
10/11/13 00:32:08
富樫満成って義持の側室に手を出したのがバレて消されたんじゃなかったっけ?w
それも俗説か
327:日本@名無史さん
10/11/14 13:29:54
>>464
以前、八王子城から北高尾縦走して終点を高尾山にしたが、
大きめのザックとトレッキングポールが浮いてて恥ずかしかった・・・
それ以来、高尾山口を出発地点にすることにした。
328:日本@名無史さん
10/11/14 17:32:50
うむ。327の恥ずかしさ、嫌というほど伝わってくるぞ。
329:日本@名無しさん
10/11/16 15:54:20
>>261
公家っぽいと言われても、アレが正装なんだし。
平氏(平家)は初めから公家。
330:日本@名無史さん
10/11/16 18:09:45
殿上人になったのは、忠盛が最初じゃなかった?
331:日本@名無史さん
10/11/17 18:52:36
江戸時代、河内と大和の境にある金剛山のあたりに、『南北(なぎ)の明神』と号する社があった。
その社の主神は楠木正成であり、左右には孫氏、呉氏が祀られていた。
これはかつて楠木正成が常に
「我が天下に武功を立る事は孫呉のおかげである」
と言っていたことから、このような形で社が作られたのだという。
楠木正成を祀った南北明神についてのお話。
332:日本@名無史さん
10/11/17 18:55:08
331に追加
この南北明神は「南木神社」として、いまも金剛山の麓、千早赤阪村に
鎮座されている。
URLリンク(minkara.carview.co.jp)
333:日本@名無史さん
10/11/21 14:12:26
貞方をば、門前に引すへ、千葉介して謀叛の子細を尋らる。一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。
我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」と、たりふし申されければ、千葉介、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」
と申されしかども、鎌倉殿、「朝敵の最なり。とう<きれ。」との給へば、千葉介、此上は力及ばずとてたゝれけり。
やがて七里ヶ浜にして、すでに敷皮のうへに引居たれども、おもひもきらず、「あはれ、千葉介は身内とこそきゝつるに、などや貞方をば申助給はぬやらん。」とて、
起ぬふしぬなげきて、もだへこがれ給へば、幡谷刑部少輔切手にてありしが、太刀のあてどもおぼえねば、をさへて掻頸にぞしてける。見ぐるしかりし有様なり。
大の男の肥え太りたるが、首は取られて、むくろのうつぶさまに伏したる上に、すなご蹴かけられて、折ふし村雨の降りかかりたれば、背みぞにたまれる水、血まじりて紅を流せり。目も当てられぬ有様なり。
334:日本@名無史さん
10/11/21 21:16:23
?
335:日本@名無史さん
10/11/22 10:06:09
これ戦国板にも貼ってあったが....。
336:日本@名無史さん
10/11/22 12:20:33
つまりどういうことなんだ
337:日本@名無史さん
10/11/22 21:34:08
新田貞方が関東の旧南朝方勢力に決起を促すも露見して、千葉兼胤に捉えられてからの顛末。
貞方は親戚筋の千葉兼胤に助命を願い、兼胤も一応は鎌倉公方の足利満兼に一応は取り成してみるも鎌倉公方の意向は処刑。
結局、祖父・新田義貞ゆかりの七里ガ浜で斬首されることとなったのだけど、
「千葉兼胤は親戚のはずなのに、どうして俺を助けてくれないんだ。」
と醜態をさらしたので、首切り役の幡谷刑部少輔は押さえつけて首を掻き切った。
太っていた貞方の首を取られた遺体には、(おそらく最期の醜態への侮蔑として)砂が蹴りかけられており、雨で周辺に血が流れて目も当てられない様子であった。
新田貞方斬首のグロい光景の描写ですね。
338:日本@名無史さん
10/11/23 11:18:10
>>337
俺様のご先祖を馬鹿にするとは!
339:日本@名無史さん
10/11/23 11:24:26
>一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。
>我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」
現代の政治家答弁にも通じる、何と言う見苦しい言い訳w
ってか言い訳にすらなってないw
>「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」
「こんなバカ、生かしても意味ねーからぶっ殺しちまえ」という意味か。
酷過ぎだが、千葉介に同意w
340:日本@名無史さん
10/11/23 23:27:46
>>339
文脈的にたぶん逆の意味。
>千葉介、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」と申されしかども、
千葉介(兼胤)は「あれほど出来の悪いやつ、助けてやってもどうってことない(から殺さなくていいんじゃね?)。」と申し上げたけれど、
>鎌倉殿、「朝敵の最なり。とう<きれ。」との給へば、
鎌倉公方は「あいつは朝敵の極みだぞ、早く斬ってしまえ。」とおっしゃったので、
>千葉介、此上は力及ばずとてたゝれけり。
千葉介はこれ以上は無理と判断して立たれた。
となる。
助命しようとする理由も酷いけどねw
助ける気あんまりないけど、親戚筋だから形だけでも助命のお願いしとかないと体裁悪いからしてみました、って印象を受けた。
341:日本@名無史さん
10/11/24 01:24:13
千葉氏は敵である新田義貞の娘を正妻としていたんだな
342:日本@名無史さん
10/11/27 15:40:19
これあの人の最後の改造版だ
343:日本@名無史さん
10/11/27 16:21:00
平宗盛?
344:日本@名無史さん
10/11/27 21:45:05
だって下総千葉氏は元南朝方だもん。
北朝は九州千葉氏
貞胤は金沢氏の婿だったのに逃げてきた金沢一族を虐殺してる。
かっては上総一族の生き残りも始末したし
新田も捕虜にした娘を犯したのかもしれない
345:日本@名無史さん
10/11/27 22:32:40
この時代、王朝文学がちょっぴり復活したから好き。
346:日本@名無史さん
10/12/01 00:30:09
ふむ
347:日本@名無史さん
10/12/01 08:09:26
千葉氏の北斗信仰、、独特?
348:日本@名無史さん
10/12/01 09:12:26
妙見信仰=北斗信仰だから特に珍しくはないかと
349:日本@名無史さん
10/12/03 10:48:39
_,---、__
/´´ ヽ ヽ `ヽ
_ィィ--イ`Y _/ ___| | `i
_//二`ヽ \ノ 〉、\___r'__|__|_ ,!、 かまくらケーキ!
_//─ヽ ,| | `ヽ イ=、__ ,",,_、= ヽ ノ|
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〉ヽ、| ヽ `ヽ ヽ | | ',
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/ ',. |xx >、__> - ィ ノ / /
/ ヘ. |x/ ./ ヽ--イ >''´.イ
|ヽ、_ Y . // ``──''""´´///
350:日本@名無史さん
10/12/03 16:39:46
伊豆で、源頼朝が平家打倒の兵を挙げたころ、遠く西国伊予で、
河野通清・通信父子が呼応するかのごとく、反平家の兵を挙げた。
が、なにしろ、瀬戸内一帯は親平家の豪族ばかりである。
たちまち、平家方の奴可入道西寂に居城を攻められ、河野通清は討ち死。
その時、城にいなかった、通信は母の実家(備後沼田)に逃れ、復讐の機をうかがう。
西寂が波方(沼田の対岸)に来たことを聞いた通信は漁民に変装し、西寂の宴に侵入、
酔っていた西寂を捕らえ、父通清の墓前に引き立てる。
父の墓前にて復讐を果たそうとしたのだが、なにしろ、西寂は酔っている、
トイレが近い。
我慢ならんとばかり、通清の墓に小便を。
父の墓前で、といらん演出をしたばかりに、父の墓に小便をかかえられたという、
河野通信のバツの悪い話。
351:日本@名無史さん
10/12/04 08:16:12
そんな逸話が21世紀の世まで残ってるなんて…
当時はよっぽど馬鹿にされたんだろうな
352:日本@名無史さん
10/12/04 10:12:48
この後で、鋸を使って西寂の首を切ったという話もあるようだが本当なら、それが原因で怒り心頭だったのかもな
353:日本@名無史さん
10/12/04 11:20:03
>河野通信
つう…しん…
354:日本@名無史さん
10/12/04 13:46:21
その読み方も間違いじゃないよね
355:日本@名無史さん
10/12/04 15:28:08
まあもしかしたら、銀行とか鉄道とかそんな感じの名前の人もいたかもね
356:日本@名無史さん
10/12/05 00:00:18
浜村通信がまっさきに思い浮かんでしまった
357:日本@名無史さん
10/12/12 01:27:56
保守
358:日本@名無史さん
10/12/12 01:52:15
何だか最近勢いなくなっちゃったね
初期の逸話を読むのが追いつかないほどの活気はどこ行った?
山野氏カムバックプリーズ!
359:日本@名無史さん
10/12/12 23:53:26
ものぐさ太郎
360:日本@名無史さん
10/12/13 00:01:03
規制にひっかかっているとか
361:日本@名無史さん
10/12/13 01:47:19
>>147
直火はだめだってw
>>150
子供って好きだよねw
うちの子も、子のつれてくる友達もみんなおいしいってってるわw
362:日本@名無史さん
10/12/13 01:52:38
ひどい誤爆だw
363:日本@名無史さん
10/12/13 01:55:45
いいママだなぁw
364:日本@名無史さん
10/12/14 01:25:08
楠木正行が安倍川沿いで足利軍と戦った時の事
足利軍一万は安倍川沿いに楠木軍を求めて連日、行軍していた
その日は朝からみぞれが降り、強い風も出てきて、足利軍の足並みは乱れがちとなった。
敵はどこから攻めてくるかわからない。先をいく兵士たちはぬかるむ川沿いを用心深く進むが、後続は多少の気楽さもあり急かしながら進んでいた。
足利軍の将である山名時氏や細川顕氏らは
「隊列を乱すな!敵はどこから攻めてくるかわからんのだ」
と兵を叱咤するが効果がない。と思った時だった。川向こうの林に人が動くのが見えた
「敵だ!」
隊列の中央の誰かが言ったとき、先をいく一隊は足元ばかりを見て行軍していた為に大混乱となった
そこに正行率いる楠木軍精鋭一千が川の上手から斬り込んだからたまらない
その地に暗い足利軍は、算を乱して逃げ場を求め、川の下手の渡辺橋を渡り始めた
すると突然、橋桁が崩れた。楠木軍が崩れるように仕掛けをしておいたのだ
川の中に落ちていった鎧武者たちは武具を付けていて泳ぐことも出来ない。中には川底に沈む者もいた。足利軍の大敗北である。
これを見て楠木軍は手をうって喜び、足利軍の不様ぶりを囃し立てた
暫くしてその様子を眺めていた正行が馬を飛ばして渡辺橋まできた。そして家臣に言った。
「味方が溺れかかっているぞ。みなで力を合わせて救うのだ!」
楠木軍の兵たちは怪訝な顔をして正行を見た、その顔には
(川で溺れているのは敵の兵たちではありませんか)
と書いてあった。実際、そう口にする者もいた。これに正行は言った。
「我々に刃向かわない者が、どうして敵なのだ」
「者ども早く救え」
正行の強い言葉にハッとなっあ楠木軍は、腕を伸ばし木を差し出して溺れかける足利軍の兵を次々と助けた。
助けられた兵たちの多くは、次の戦いでは楠木軍に参加したという
365:日本@名無史さん
10/12/14 03:09:41
これはちょっといい話なのか悪い話なのか?判断に迷うなw
366:日本@名無史さん
10/12/14 04:29:49
ヨーロッパっぽい話だな。
出典は何? 読んでみたい。
367:日本@名無史さん
10/12/14 07:58:39
>>366
忠臣小楠公物語
368:日本@名無史さん
10/12/14 19:37:30
>助けられた兵たちの多くは、次の戦いでは楠木軍に参加したという
ねーよw
369:日本@名無史さん
10/12/23 00:42:24
ふー、
370:日本@名無史さん
10/12/26 23:40:58
>>368
武将がほいほい寝返る時代だからなw
371:日本@名無史さん
11/01/02 03:39:55
あけおめい
372:日本@名無史さん
11/01/05 02:59:03
ことよろう
373:日本@名無史さん
11/01/13 00:38:46
動かないなぁ
374:日本@名無史さん
11/01/13 03:52:21
いまはもう動かない阿蘇惟直
375:日本@名無史さん
11/01/14 01:38:37
北条義時の色恋話
北条義時、そう!鎌倉幕府2代目執権にて超冷徹な官僚としても有名だった男である。
が、彼があるとき大変なことになっていた・・・・・・・
義時「ハァ~・・・・・・・」
同僚「?どうされました?」
義時「あ・・・いや、何でもござらぬ。はぁ~」
おかしい、仕事に手が着いていないのである。
で、そのころ鎌倉殿の女中陣はと言うと、超美人で有名な姫の前が・・・
姫の前「義時様から・・・・『恋文』が、この前は歌でしたが・・・」
女中仲間「それで、お返事は?」
姫の前「断りの返事を書きました。迷惑なのです!」
どうも義時さん、この頃ストーカー化していたらしいのです。
しかも・・・・・
義時「あぁ・・・姫の前殿のがちらついて・・・仕事ができん!」
恋患いの方向で・・・・
376:日本@名無史さん
11/01/14 01:54:10
義時の色恋話その2
さて、義時がこの調子では同僚を通じて話が行くべき所に行ったのか?それとも
もしかしたら女中の皆さんの方向から、別の意味で行ってはいけないところ、つまり
天下最凶のお姉さまのところを経由してお姉さまの亭主の所に行ったか?
鎌倉殿「義時が恋患い?仕方ないなぁ、義時を呼んでこい!」
こうして、鎌倉殿のところにでてきた義時は面前に起請文がおかれ、
鎌倉殿「この
『姫の前の嫁にした暁には絶対に離婚しません』と言う起請文
にサインしろ、そうすれば俺が結婚の口を利いてやる。
相手は比企一族の娘だから北条家的にも悪くはないだろう。」
義時「サインします!喜んでサインします!」
こうして、『離婚しません』と誓った上で結婚することが出来た義時君であった。
こんな、当時の常識では考えられないある意味恥ずかしい『義時の恋患い』を
キッチリ記録に遺す吾妻鏡も大概だが・・・・・・・
しかし!
比企の乱のときに、義時君、姫の前と離婚したらしいんですよ。
所詮紙っぺらですか、起請文なんて。
377:日本@名無史さん
11/01/14 01:56:58
かわいいw
けどストーカーって言葉が普及したのここ15年くらいか?
それまでは愛の形として認められてたのかな。
378:日本@名無史さん
11/01/14 12:33:44
甲斐源氏の有力者、安田義資。
幕府に仕える女官に恋をした。
それで恋文を出したんだが、それを見つけた梶原景時。
「今は鎌倉殿の母上の法事時期。こんな時期にこんなものを出すとは、風紀を乱した。けしからん」と
安田義資は死罪。
そして>>375>>376の事件が起こる。
それを聞いておさまらないのは、父親の安田義定。
「うちの息子は、死罪なのに、なぜ義時はいいんじゃ!納得いかん(以下 略 」と
こぼした。
それを聞いた梶原景時。
「安田義定に謀反の疑いあり」と告発。
たちまち幕府の大軍が安田義定の屋敷を取り囲み、安田義定は自刃。
リストラ候補者は、くしゃみひとつでも理由になるという教訓
ちなみに安田義定の甥の一条忠頼は、「態度がデカイ・生意気」というだけの理由で
粛清されている。
379:日本@名無史さん
11/01/14 18:41:10
>>377
どうも義時さん、恋文をたくさん出したようです。
しかも、吾妻鏡には恋患いが原因で仕事が手に付かなかったと記録されているようです。
いくら正直な吾妻鏡担当の記録係が揃っていたとは言え、何もそこまで書かなくても、
もう少し考えてやれよと思うのですが・・・・
380:日本@名無史さん
11/01/18 00:18:55
>>376
姫の前は朝時、重時の母親なんだよね。で、義時と離縁後に
京都の公家の妻になっていたはず
>>378
甲斐源氏の場合、大きな勢力を持ちながら頼朝の家人という意識が希薄だったみたいだし、
そういうあたりが頼朝に警戒されたみたいだね。
381:日本@名無史さん
11/01/19 19:44:04
鎌倉式懲罰とは
懲罰、武士でコレを喰らえば切腹、出家、隠居、押し込め、領地没収、叱責などがある。
そんな鎌倉のある日、平家も滅亡した直後のことである。壇ノ浦の戦いを含めた戦後処理で
忙しい頃のことである。
夜須さんと言う御家人が幕府ににやって来て言うことには、
夜須「壇ノ浦での私の戦果に関する恩賞が何もありません。どうなりましたか?」
どうも夜須さんの戦功に関する音沙汰が無かったようである。鎌倉殿はそれを聞き、
壇ノ浦の戦いに出した梶原景時に聞いてみた。
景時「夜須?そんな御家人知りません。いませんでしたよ。」
夜須「ウソつけゴルァ!」
どうも景時さん「シラネ」と報告してしまったので、夜須さんと裁判になりまして、
最終的に「夜須さんは壇ノ浦の戦いに参加して手柄を立てた」と言うことが証明された。
こうなると景時さんに「懲罰発生」となる。とうとう正式な懲罰が決定した。
頼朝「梶原景時くん、罰として鎌倉中の道を作り、街を整備しなさい。」
こうして罰として道路工事を命じられた梶原景時さんは、若宮大路を始めとする
今に続く鎌倉市の道路を建設するハメになったとさ。何故わかるか?それは、
吾妻鏡にしっかり記録されているからだ!
というわけで、鎌倉市の道路整備関係者と土建屋は梶原景時さんに感謝するように。
382:日本@名無史さん
11/01/19 21:40:27
これ罰なのか?
全部景時の私財を投入してやれってのなら結構大変な罰だけど
一介の御家人が鎌倉の道路を建設するほどの財力持ってたらそれもそれで問題になりそうだが
しかし景時ってやけに頼朝から重用されたよね
畠山重忠とか小山朝光とかにもこんなことしてた
そりゃ、頼朝が死んだあと殺されるわ
383:日本@名無史さん
11/01/19 22:19:43
北条高時。
鎌倉幕府執権にして実力者。そして最後の得宗家当主である。
そして、田楽、闘犬が好きだった男である
ある時その高時が酒を飲んで踊り始めた。
ところが踊り始めるとどこからか田楽法師がたくさんでてきて
歌い始めた。
「天王寺の や 妖霊星を見ばや」
謡の内容といい、田楽法師達といい、不思議なこともある物だと家臣が覗くと
そこには、嘴の生えた者、獣の化けた者が高時を中心にして田楽を踊っているではないか。
驚いて踏み込んでみたところそれらの物の怪は、すでに姿を消し、あとには動物の足跡と
酔ってその時の記憶がない高時がいたという。
後に家臣が学者に聞いてみたところ、天王寺には聖徳太子の書いた予言書があり、
天下大乱が起きるとき「妖霊星」が現れると言う答えが返ってきた。
後醍醐天皇の討幕運動直前のことである。
384:日本@名無史さん
11/01/19 22:34:01
未来記は面白いよな~
385:日本@名無史さん
11/01/19 23:49:44
>>382
やっぱ、石橋山で、飯田家義とともに、頼朝をこつそり救ったという、、
386:日本@名無史さん
11/01/21 00:20:37
>>382
当然私財を投じてだよ。
ただ種明かしをすれば、景時は地元鎌倉の有力者だから、遠くから家来や労働者を
連れてくるよりは大変じゃなかった。
387:日本@名無史さん
11/01/21 01:30:30
>>386
鎌倉党です。
上杉謙信を生んだのも鎌倉党。
鎌倉幕府は、鎌倉党、三浦党の
中に、伊豆の似非平氏が乗っ取りにきたのです。
388:日本@名無史さん
11/01/21 23:25:01
>>386
もっといえば、村長さんの寄り合い所帯の鎌倉幕府の中で
行政というものと和歌漢籍などの教養を理解出来るのが
景時と阿野全成しかいなかったという悲しい現実がある。
全成は前職の三井寺のお坊さんとしても出世していたらしいし。
389:日本@名無史さん
11/01/22 00:52:19
幕末ものより吾妻鏡のほうが、よっぽど現代人の教訓になりそうだ。
390:日本@名無史さん
11/01/22 07:54:23
>>388
地味な弟だけど、戦場に出すよりも有効な使い道がある貴重な身内だったんだな>全成
391:日本@名無史さん
11/01/22 08:55:21
>>388
大江広元さんは?
392:日本@名無史さん
11/01/22 17:08:14
鎌倉時代のこと
その当時の鎌倉執権より青砥左衛門(あの落とした銭を大金を使って探しだした逸話で
有名な御家人である)に、
「夢に、『左衛門の忠誠に対し加増すべき!』との神示があった故、加増申し渡す」
との命があったが、左衛門はこれを即座に断った。
これには加増を伝えに来た使者
「いかなる理由があっても、加増褒賞あるべき事を断るというのは愚昧かつ非礼ではないか!」
と、批判したが、左衛門答えて
「武辺、その他手柄があった上での加増であればありがたい事である、だが夢のお告げをもって
加増を給わることがあれば、今後仮に『青砥左衛門の頚を刎ねるべし』と夢のお告げがあれば、
頚を刎ねられねばならぬ。」
と、遂にこの加増を受けなかったという。
393:日本@名無史さん
11/01/23 09:55:01
この逸話、どっかで聞いた事があるような....。
394:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
11/01/23 11:02:32
>>391
三善や二階堂(藤原南家)や伊賀(秀郷流)もそうですね。
二階堂は『吾妻鏡』でも武士ではなく、文士として寓された例がある。
室町から微妙に外れるので、このついでに書いておきますか。
天正10年6月2日の早朝のことである。
その日、本能寺に桂川の鮎を届けに来た者がいたが、そのついでに妙なこと
を伝えてきた。
明智日向守が、丹波から兵を引き連れてきたが、道すがら京へ向かう者は切
り殺しているというのである。
近習もこの話を聞いて不審がったが、前夜信長は囲碁と将棋を楽しんで夜半
まで起きており、起こすことがためらわれたので、夜が明けたら何事か分か
るであろうということで、済ませてしまった。
翌朝訪れた運命は、言うまでもない。
395:日本@名無史さん
11/01/24 00:16:59
>>394
天正の話なら戦国ちょっと悪い話の方に投下していいと思います
396:日本@名無史さん
11/01/24 16:28:48
ふむ
397:日本@名無史さん
11/01/25 20:39:39
江戸中期ころのこと。
医師が同僚を引き連れ薬草取に出たとき、新田大明神という新田義興の墓のある場所(今の
大田区矢口町の新田神社)で、召し連れていた小僧が草を取ったが、その時同伴の者たちが
それを止めさせるような事もしなかった。
宿舎に帰ると、その小僧が突然奇怪なことを言い出した
『我が住む所の草を取れることに憎さよ!』
このように罵り叫ぶ。一同大いに驚き、その場所でとった草をすべて元の場所に戻すと、
小僧はすぐに元に戻った。
英雄の怒気は凝然(留まって動かないこと)するというから、後世このように神異を
起こすこともあるのだろうと、当時の評判であった(耳袋)
珍しい(?)新田義興の神異譚
398:日本@名無史さん
11/01/26 00:23:34
>>397
新田義興の怨霊噺は、江戸時代には非常にメジャー。
近松門左衛門の心霊矢切の渡しなんかで庶民はみんな知っていた。
399:日本@名無史さん
11/01/26 14:05:55
源頼朝の富士大巻狩の時、彼の嫡子頼家は12歳にして初めて鹿を射た。
これに頼朝は大いに喜び、梶原景高(景時次男)を使いとして御台所、北条政子に
その事を伝えた。
これを聞いた政子は、しかし少しも喜ばず
「武家の嫡男が狩場において鹿や鳥を得るなどというのは、そのように緊急に報告するほどの
珍しいことではないでしょう?」
これに使者は面目を失って退出した、という。
400:日本@名無史さん
11/01/26 14:15:35
八幡太郎義家の教えに、「武家の五つの道」というものがあった。
一には、究途(道を極めること)を知る
二には、卑賤をわきまえよ
三には、道理を先立てよ
四には、国土を知れ
五には、掟を違えず
以上五つを武家の守るべき道である、としていたと言う。
401:日本@名無史さん
11/01/26 18:15:18
>>398
曾我物語と同じく、太平記の後半エピソードって現代では忘れ去られてるわな
402:日本@名無史さん
11/01/26 19:41:45
母の愛とは?
源平の合戦が終わったとは言え、鎌倉の権力基盤がまだ固まりきれていないとき、
源義経と源行家がつるんで頼朝に対して反旗を翻した。
もちろん失敗したので、今度は京都に北条時政が乗り込んで、関係者の尋問を始めた。
当然義経の母親の常磐御前は尋問の筆頭である。当然呼び出されたのだが、
何と常磐御前、息子をかばうどころか義経の事について
素直にぺらぺらしゃべってしまったという。それも余計なことまで。
この人母親としての自覚がなかったんじゃないだろうか?
それでも生きながらえたのは、婚家の一条家のおかげか?
それとも、北条時政の娘婿2号機(1号機は頼朝)にして
鎌倉幕府の官僚になっていた息子の阿野全成(今若丸)のおかげか?
まさか北条時政が娘婿2号機のために尋問に手心を加えたんじゃ無かろうな?
403:日本@名無史さん
11/01/27 11:08:44
>>394
山野さん
戦国時代板に兄弟スレがあるので、
そちらもよろしくです
404:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte
11/01/28 07:14:35
>>399
東国支配を示すための一大軍事イベントでの晴れ姿が重要であったのに、田
舎出の政子が意義を理解できなかったから、という解釈もありますね。
もっとも、『吾妻鏡』では政子が肯定的に描写されている様ですので、少な
くとも当時の編纂者は、そのまま美談として受け止めたらしい。
>>402
>素直にぺらぺらしゃべってしまったという。それも余計なことまで。
「母并妹等」を拘束して所在を問うたところ、石倉だと判明しただけという
記事が『玉葉』にありますが、これだけだと母が喋ったのかも分かりません
し、『吾妻鏡』での記事も、至って簡略なものです。
これだけで
>この人母親としての自覚がなかったんじゃないだろうか?
以下はあんまりな気が。私の見落としのせいかもしれませんが。
>>403
何しろ、既出か否かの確認がなかなか大変なものですから。
しかし、DQN四天王の島津の歌(いつはりもがな)の解釈は、あれでいい
のでしょうか。
405:山田廼案山子 ◆kMBuLEbO42
11/01/29 20:17:12
>東国支配を示すための一大軍事イベントでの晴れ姿が重要であったのに、田
>舎出の政子が意義を理解できなかったから、という解釈もありますね。
意義を理解できなかったとすれば、この件の三ヵ月後に盛大に祝われた政子の甥の扱いが謎になる件
北条泰時・経時は鹿を獲物とする矢口祭を行なっており、北条氏にとっても狩猟は重要な政治文化だった。
ところが、室町期には鳥を獲物とする矢開の故実が流布し、室町殿も雀を獲物として矢開を行なっている。
そうした鳥の故実は室町期に形成されたのではなく、北条得宗家において創始されていたと考えられ、
近世の故実書が引用する徳治二年(1307)の矢開の日記によれば、得宗家で雀の矢開が行なわれていた。
武家首長の矢開は中世に一貫してみられたが、その獲物は十三世紀後半以降、鹿から鳥へと変化していたのである。
武家首長の公家化という面だけでなく、武家文化の変容についても考えてみることが重要であろう。
この研究成果の一部は、2005年11月、「武家の狩猟と矢開の変化」と題して、史学会(東京大学)第103回大会日本史部会(中世)において発表されている。
406:日本@名無史さん
11/02/01 23:02:50
そうするのがよいですよね。
407:403
11/02/07 22:02:09
>>404
まとめブログに言って武将名と逸話に関する語句でサイト内検索すればOK
それでも既に出た逸話なら謝れば良いですw
408:日本@名無史さん
11/02/08 17:20:14
えびなむかしばなしより
鎌倉時代の初め、現在の神奈川県海老名市上今泉にある秋葉山中に
白雲という老人が、世を避け、人目を忍んで暮らしていた。
白雲は中国から帰化した人で毎年春秋の二期、大山丹沢の山波がくっきりと澄む天地晴明の日を選んで
胡服に着替え、故国の空に向かって一心に読経するのを行事としていた。
また、仲秋名月の夜には、わざわざ天壇を築き、同族の者たちの参加に老人は胸をはずませる。
いよいよその刻限になると五十人、時には百人もの人たちがどこからともなく風のように集まって来て、
かの天壇にひざまづき狂気のように読経をする。
そしてその果ては遠い故国をしのんでか、一同声を立てて泣き叫ぶのであった。
その声は辺りの森に陰にこもって空恐ろしくせい惨な雰囲気をかもし出すのであった。
やがてそれが静まったかと思うとこの人たちの群は霧のようにかき消えてしまうのだった。
正治二年(1200)のこと、かねてから白雲たちのこの行動を快く思っていなかったこの地の地頭は、
一族と村人を率いて白雲の草庵を急襲し彼を殺害してしまった。
そればかりでなく、白雲が守っていた墳墓を掘り返し、埋蔵されていた宝鏡、宝剣、神玉を取り出し私物化してしまったのである。
この宝鏡については「神鏡、景初年中(237~239)と伝ふ」(鷹倉社寺考)とあるから、
中国は魏の時代に製作されたものに違いあるまい。ひょっとするとかの有名な三角縁神獣鏡であったかも知れない。
この暴挙はたちまち幕府の知るところとなった。
国王の墓をあばき、その縁に当たる者を斬殺した罪は軽くないと、地頭とその一族は捕らえられて
鎌倉の刑場の露と消えた。
なお、これに加担した里人もことごとく滅ぼされる羽目となった。
この後、村人たちはその怨霊の報いを恐れて秋葉山中に足を踏み入れる者は一人もなかったという。
さらに後年これらの諸霊を慰めるため石の祠一つを建て、近くの寺の常泉院持ちとしたというが、
それらしいものは今日見当たらない。
409:日本@名無史さん
11/02/08 19:12:21
村人が幕府を恐れる理由はわかったが怨霊関係ねえ
410:日本@名無史さん
11/02/11 12:27:39
この時代はそういうのにまだぎりぎりリアリティがある
411:日本@名無史さん
11/02/11 16:03:27
宋どころか金も滅んでないのになんで東国に大陸人が?
412:日本@名無史さん
11/02/13 22:18:39
なんか風魔の小太郎っぽいな
413:日本@名無史さん
11/02/13 22:41:20
神奈川県海老名市というと地頭は海老名氏だな
414:日本@名無史さん
11/02/14 13:05:33
わかりやすいな
415:日本@名無史さん
11/02/14 16:51:44
wiki読んでみるとあの辺の出身ってだけで海老名市あたりの地頭に任命されたって事はないみたいだが
416:日本@名無史さん
11/02/14 17:54:44
鎌倉遺文16037 関東下知状案 東寺百合文書ミ
可令早源季直領知相模国下海老名郷内在家、并播磨国矢野庄
例名内浦分地頭職〈四至堺名字分限載譲状〉事、
右、任親父海老名四郎左衛門尉季景法師〈法名仏然、〉 文永元年八月
廿一日・今年九月廿一日譲状等、可令領掌之状、依仰下知如件、
弘安九年十一月廿三日
相模守平朝臣在判
陸奥守平朝臣在判
417:日本@名無史さん
11/02/14 17:54:54
ふむ
418:日本@名無史さん
11/02/16 04:42:07
えびなさんスレ?
419:日本@名無史さん
11/02/16 16:23:28
>>416
> 任親父海老名
wwwww
420:日本@名無史さん
11/02/16 22:27:26
>>419
?
421:日本@名無史さん
11/02/17 00:12:44
折角なので赤穂郡誌の海老名さんネタ。
頼朝の富士の裾野での狩りに従った海老名弾正。
その幾日目かの夜、弾正の夢に白狐が現れ、「明日の狩りではどうか私を射ないでほしい。
もし射るようなことがあれば、その時はお前を祟ってやるぞ!!」と告げた。
弾正は夢の中で「分かった」とうなずいたのだった。
そして翌日、やっぱり現れた白狐。毛並みも形も弾正の夢の通り。
頼朝は、この獲物に喜んだが、誰もそれを射ようとはしないではないか。
「あれを射るのだ!弾正!」
頼朝の命だが、昨夜の夢のこともあって、弾正は矢を放つのを躊躇していた。
その様子に激怒した頼朝!
「狐より先に、弾正を射殺してしまえ!!」と周囲の者達を恫喝し始めた。
こうなっては仕方ない・・・。
弾正は一矢で白狐を射殺。
頼朝は笑顔を浮かべ、「よくやった!褒美を取らせる!
備前のコジマか、那波(なば)のオオシマか、お前の望む方を与えよう。」
「小島と大島・・・。そりゃもちろん小島より大きい大島の方がいいだろ!」
そう考えて弾正は大島の方を望んだ。
こうして海老名氏は、広大で肥沃な備前の児島ではなく、
播磨国矢野荘(相生市)の湾奥に浮かぶちっぽけな島・大島を領することになったのである。
422:日本@名無史さん
11/02/17 02:11:00
なんだそのじわじわくる話w
423:日本@名無史さん
11/02/17 08:15:11
凄い微妙だが結構痛い呪いw
424:日本@名無史さん
11/02/17 09:33:11
というかその選択ミスは狐のせいなのか?w
425:日本@名無史さん
11/02/17 10:06:16
「ミノオワリ」を思い出した。頼朝なりのジョークなのか。
426:日本@名無史さん
11/02/17 17:11:58
つうか狐のほうも下っ端じゃなく頼朝の夢に出ろよって思うけどなw
427:日本@名無史さん
11/02/19 14:48:54
>>400
義家公の家訓とは珍しい。
出典を教えてください
428:日本@名無史さん
11/02/19 22:12:56.97
>>421
それは幕府を嫌っている人間が作った伝説だろう
429:日本@名無史さん
11/02/20 09:15:15.44
仮にそうだったとして何が狙いだったんだ。その幕府を嫌っている人間は。
430:日本@名無史さん
11/02/20 14:07:55.80
西国の百姓たちは、鎌倉時代に地頭になった鎌倉御家人の
荒々しい強権支配に苦しんでいたからね。
その恨みがこういう伝説を生んだんだよ。
431:日本@名無史さん
11/02/22 23:19:34.43
後世の人の、こんな小さな島に何でわざわざ関東から?
という思いが、話を膨らませたんじゃないかな。
ちなみに、赤松円心が狩りを行った際に海老名氏が狐を退治し、
その祝いとして大島城を賜ったという話もあるそうです。
その赤松円心にも、これまたぶっ飛んだ民話が伝わっているんですな。
432:日本@名無史さん
11/02/22 23:23:23.47
上郡町に河野原(こうのはら)という地区がある。
赤松地区に隣接し、最寄り駅は智頭急行「河野原円心」駅。
駅の近くには、赤松円心や、則祐らの木像が納められた「宝林寺」が建つ、そんな場所に伝わる民話。
今は昔、5月の穏やかな陽気の中、千種川に張り出した岩の上に腰掛け、
釣り糸を垂れながら、コックリコックリと船を漕いでいる男がいた。
稀代の謀将赤松円心、その人である。
しばらくまどろんでいた円心は、足の指に違和感を感じて目を覚ました。
小さな蛇が近付き、足の親指を舐めていたのだ。
円心は気にも留めずに釣りを再開したのだが、蛇は見る間に大きくなり、足の指全部を咥えてしまった。
さすがは円心、動じるどころか、「奇怪な事だ」とその様子を見ていると、蛇はさらに大きくなって、
今度は踵まで飲み込んでしまった。
さすがは円心、これでも動ぜずに様子を見ていたのだが、蛇はますます大きくなって、
脛、そして股までも飲み込んでしまった。
さすがの円心も、こうなってはもう許せない。
「ごーわく(業沸く)のぉ~~!!」とばかり、腰の刀を抜いて大蛇の頭に斬り付けると
大蛇は血を吹いて、左へグルグルと廻りながら水底に沈んでいった。
この時から、この渕だけ左渦が巻いて流れるようになり、
「左渦の腰掛岩の所には決して入るな」と言われるようになったという。
う~ん、どこから突っ込んでいいのやら・・・。
433:日本@名無史さん
11/02/23 13:05:05.05
凄いのか凄くないのかよくわからん蛇だ。
434:日本@名無史さん
11/02/27 15:06:53.24
>>431
海老名氏って矢野庄の地頭で、大島とかいう小さな島の地頭ではないでしょ?
435:日本@名無史さん
11/02/28 00:20:48.09
>>434
大島は居城ですね。
今は陸繋島になって、寺が建ってます。
海老名氏は赤松氏に従って白旗城篭城戦に参加してるけど、その際に大島城は落城。
戦国期には、大島城とわずか数段の田畑を龍野赤松氏に安堵してもらうまでに落ちぶれ、
江戸期には庄屋になってる。
436:日本@名無史さん
11/02/28 15:57:35.09
>>421は海老名氏の没落後に作られたのかな。
437:日本@名無史さん
11/03/01 00:23:48.98
>>421
頼朝を悪く言っているところが興味深い。
438:日本@名無史さん
11/03/01 18:50:57.11
諏訪神社下社の大祝・金刺盛澄は木曾義仲と縁が深かった為、頼朝に捕らえられ、
死刑を待つ身として梶原景時に預けられていた。
盛澄の武士としての才覚を惜しんだ景時は、頼朝や諸将の前で流鏑馬を披露する
機会をあたえた。
「八つ的を射てみよ」
頼朝の命で引き出された荒馬を、盛澄は試し乗りをすることなく乗りこなし、
次々と的を射抜いていく。頼朝の要望に応え、何度も繰り返すうちに、ついには
用意されていたすべての的を射抜いてしまった。
「割れた的を射てみよ」
二つに割れ、小さくなった的も盛澄は正確に射抜いていく。これを見た諸将は
感嘆の声を上げ、盛澄を賞賛した。
「的の串を射てみよ」
頼朝のさらなる命にも盛澄は動ずること無く、すべての的の串を射抜く。
しかも矢は串の上五寸を均等に貫いていた。
諏訪大明神の御神威に感服した頼朝は、盛澄を助命し、帰国を許された盛澄は
景時の厚意に感謝し馬場に梶原塚を建てたという。
439:日本@名無史さん
11/03/01 23:54:02.39
似たような話が吾妻鏡にあるぉ
440:日本@名無史さん
11/03/03 00:50:51.97
今も昔もムチャ振りには即応できなきゃいけないんだなあ
441:日本@名無史さん
11/03/03 20:12:55.79
波多野か河村で、同じ話があるね
442:日本@名無史さん
11/03/05 13:19:43.01
大庭景義が、かくまっていた甥っ子をそれで助け、なおかつ所領も取り戻してやったという話だな。
弟は助けられなかったが、この人もなかなか強かだな。
443:日本@名無史さん
11/03/05 13:23:44.57
>>441
>>442の話にあるのが河村で、波多野の一族。
444:日本@名無史さん
11/03/05 19:57:57.44
>>443を訂正。
大庭景義が、かくまっていた甥っ子は、松田(波多野)有常だった。
445:日本@名無史さん
11/03/07 22:13:45.89
>>444
大庭景久がウチの実家付近に住んでた
横浜戸塚区俣野
446:日本@名無史さん
11/03/09 15:16:21.62
回覧板まわしてたような表現に和んだ
447:日本@名無史さん
11/03/13 13:36:15.11
>>394
まとめサイトにも出ていないようなので、
その逸話を戦国時代板に転載してもいいですか?
448:日本@名無史さん
11/03/13 15:34:04.24
>>388
三井寺(園城寺)は弟の円成
全成は醍醐寺
449:日本@名無史さん
11/03/23 23:52:31.89
地元の大内氏中興の祖大内弘世が京都に初めて行った時のこと。
「在京のあいだ、数万貫の銭貨、新渡の唐物等、美を尽くした奉行、
頭人、評定衆、傾城、田楽、猿楽、遁世者までこれを引き与えけるあいだ、
この人に増る御用人もあらじと、未だ見えたることもなき先に、誉めぬ人こそなかりけれ。
世上の毀誉は善悪にあらず、人間の用捨は貧福に在りとは、今の時をや申すべき。」
なんか後半部分でバカにされてないかい?
それともし需要があるようなら(ヤ○ザな)弘世と(ジャ○ア○)義弘の逸話を投下します。
450:日本@名無史さん
11/03/24 04:03:24.06
オオウチキター
451:日本@名無史さん
11/03/24 08:17:56.13
おっと打ち間違えた、「美を尽くした」ではなく「美を尽くして」だ
ちなみにこのとき正平19年(1354年)大内氏はまだ周防長門を治めているだけであり
莫大な利益をもたらした勘合貿易も朝鮮との貿易もやっていない。
さらに上京直前には南朝連合軍に惨敗を喫したばかり
そん中わざわざ京都まで行き大金をばらまくパフォーマンスを行ってる。
金の出所と南朝との戦の経緯はまた後程
452:日本@名無史さん
11/03/25 17:08:33.13
ソースは?
453:日本@名無史さん
11/03/26 00:51:17.46
「」の中の文章は太平記です。
他は大内氏研究の御薗生翁甫氏著「大内氏史研究」より
454:日本@名無史さん
11/03/30 02:39:54.96
安宅の関で、義経一行と知りつつも見逃してやった富樫泰家は男の中の男だよな。
黒澤明の古い映画「虎の尾を踏む男達」を観て感動したよ。
455:日本@名無史さん
11/03/30 23:23:43.69
そのとき義経を捕まえてしまったら、奥州藤原氏を攻める口実が・・・
456:日本@名無史さん
11/03/31 06:40:18.42
あれは藤原氏が義経殺して「悪いのは全部こいつだから」って責任全部押し付けようとしてたからなぁ。
457:日本@名無史さん
11/03/31 17:38:47.42
初めて聞いた
458:日本@名無史さん
11/04/01 01:59:47.28
責任というか義経追討を妥協そてもらおうとは考えていただろうな>藤原氏
459:日本@名無史さん
11/04/01 02:14:00.02
まあ勧進帳は作り話で、最初から義経を泳がせて奥州藤原氏もろとも
潰すつもりだった、というのが実情だろうな。頼朝のことだし。
460:名無しさん@お腹いっぱい。
11/04/01 19:06:21.28
>>459
よくそう言われてるけど、頼朝がわざと逃すように各地の武士に命じた史料は何もないからw
田舎御家人がそんな頼朝の真意を知らないで義経を見つけ出して討取ったらどうすんだww
461: 忍法帖【Lv=2,xxxP】
11/04/01 20:32:31.26
まあ秀衡死後に奥州が半分自滅してくれたのは結果論で、
義経逃亡時には、義経が秀衡の元に転がり込むのは頼朝には悪夢以外の何者でもなかったろう
462:日本@名無史さん
11/04/01 21:19:41.19
院宣をもらった義経が西国武士団の統合に成功し、
奥州藤原氏と気脈を通じて、東西から頼朝を挟撃する・・・
というのが頼朝にとって最悪のシナリオだったと思うが。
463:日本@名無史さん
11/04/01 21:41:48.31
このあたりの時代は、少し変わるだけでその後の歴史がひっくりかえってしまうぐらいだからifの妄想しがいがあるな
464:454
11/04/02 00:47:44.88
勧進帳には、実は続きがあって、
富樫泰家は、義経一行を逃した責任を問われて、加賀国守護を罷免されたので
出家して、平泉にいる義経に行った。
その後、加賀国に戻って、余生を全うした。没年齢はわからないが長寿だったそうだ。
白紙の紙を読み上げた弁慶も素晴らしいが、義経一行と知りつつも逃した富樫
男ぶりに感動しました。
465:454
11/04/02 00:51:33.84
あ、3行目タイプミスしました。
【誤】出家して、平泉にいる義経に行った。
【正】出家して、平泉にいる義経に会いに行って、実際に会った。
466:日本@名無史さん
11/04/02 13:47:30.59
>>462
西国武士団にこれっぽっちのコネもないのに無理だろ
467:日本@名無史さん
11/04/02 17:56:06.83
鎌倉武士団が西国武士団にこれっぽっちのコネもないのに平家を滅亡出来た件
468:日本@名無史さん
11/04/02 19:39:25.29
>>466
そう思う。
九州に行けなかった時点で終わっている。
一応、豊後大神氏の棟梁緒方惟義は迎える用意をしていた。
岡城はそのために築かれたという。
だが、義経がこないとわかると、あっさりすっとぼけた。
ちなみに緒方惟義はもともと平重盛の家人だったので、九州に落ちてきた平家は
重盛の息子・清経を遣わして助力を要請した。
だが、すでに重盛が死んで久しいことと仲の悪い宇佐神社が平家についていたともあり、
緒方惟義は助力を拒否、清経を追い返した。
悲観した清経は豊前沖で入水した。
469:日本@名無史さん
11/04/02 21:59:51.19
おお…
この時代の九州の話は面白いな
470:日本@名無史さん
11/04/03 11:48:28.49
最悪の悪夢は関東武士団の離反だろう
当時の頼朝支配体制が盤石だったとはとてもとても
471:日本@名無史さん
11/04/03 12:08:57.47
大友や島津や武藤を九州に送り込んだのも(実際には京都でとどまって代理人を送ったにせよ)、コネが無いから新たに構築しようって腹だったんだろうし
472:日本@名無史さん
11/04/03 12:46:14.36
う~ん島津さんもそこに入れちゃうのw
473:日本@名無史さん
11/04/03 15:22:45.52
>>470
支配体制とは微妙な勢力均衡の上に成り立つもので
盤石な支配体制など古今東西ひとつも存在しない。
474:日本@名無史さん
11/04/07 17:48:40.32
泰時は本当は頼朝の子だった
475:日本@名無史さん
11/04/07 19:43:42.56
徳川家康が、新田義重の子孫という方が、まだリアリティあるね
476:日本@名無史さん
11/04/09 12:20:38.63
>>369
ついでに言えば緒方惟義は、源範頼に軍船80隻を提供していたが、
おなじ大神氏系でも戸次氏は平家の軍に加わっていたりするんだよ。
平家追討という大義名分をえた緒方惟義は、積年の恨みを晴らすため宇佐神宮を焼き討ちした。
多数の宝物や古文書を奪ったという。(このとき奪った宝剣は、子孫の佐伯氏から伊勢神宮に奉納された)
しかし、頼朝から義経に加担していた(>>468)という疑いをかけられ、宇佐神宮を焼き討ちしたことを理由に
つみをとわれた。
しかし、功多きことを考慮しても死一等を減じて関東下野に流罪。
とはいえ、それなりに自由はあったようで現地で子供も残してる。
後に許され、豊後に帰国して死去した。
477:日本@名無史さん
11/04/09 12:47:34.27
すまん訂正
しかし、頼朝から義経に加担していた(>>468)という疑いと宇佐神宮を焼き討ちしたことを理由に
罪を問われた。
しかし、功多きことを考慮して死一等を減じて関東上野に流罪。
とはいえ、それなりの自由はあったようで現地で子供も残してる。
後に許され、豊後に帰国して死去した。
478:日本@名無史さん
11/04/12 17:25:06.44
平家物語や源平盛衰記ってどのくらい信用できるの?
479:日本@名無史さん
11/04/13 01:49:17.03
>>478
民明書房刊行書籍より、やや信頼がおける程度には。
480:日本@名無史さん
11/04/14 00:33:04.58
平家物語なくして平家政権を語れるの?
481:日本@名無史さん
11/04/14 01:45:10.57
>>478
琵琶法師さんを信用できないとでも言うのかい?
482:日本@名無史さん
11/04/18 01:36:07.03
まだ当事者の子供の世代がいるころから伝わってるんだから、あまりに露骨に変なコト言ってると
文句言われたと思うんだがな。
483:日本@名無史さん
11/04/18 05:46:10.98
頼家はキンタマを握り込まれて力が出なくなった隙に殺されてしまったのか、
握り潰されてしまったのか、もぎ取られてしまったのか、どれなのか気になる。
484:日本@名無史さん
11/04/18 08:18:13.68
一応絞殺でしょ
485:日本@名無史さん
11/04/18 20:34:30.40
頼家は馬鹿だったの?
それとも有能過ぎて殺されたの?
486:日本@名無史さん
11/04/18 22:20:21.75
バカとは言わんが、複雑な御家人同士のバランスを捌くほどの能力はなかったということだな。
487:日本@名無史さん
11/04/19 00:15:09.56
父頼朝の将軍独裁制をそのまま継承しようとして家臣の反発に会ったという説もある。
頼朝時代からの流れの中で見ないといけない。
頼家の個人的な素質を重視し過ぎるのはいかがなものかと。
488:日本@名無史さん
11/04/19 08:10:52.18
>>484
「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、
頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき。」
慈円の伝聞だと刺殺だそうだけど。一応、慈円は摂関家の子で天台座主で
関白太政大臣の後見を務め、幕府とも繋がりがあった有力者。
そんな有力な高位聖職者の耳にふぐりを取りなどして~なんて項目が入った
伝聞を確証なく吹き込む奴がいたとはあんまり・・・。
489:日本@名無史さん
11/04/19 10:45:46.55
そんだけ御所近辺では嫌われていたってことではあるまいか?>頼家
今回の管総理もあることないこと産経あたりに書かれてるし
それと同じ構造と予想
490:日本@名無史さん
11/04/19 11:51:13.44
>>489
逆。御所方というより慈円の立場、摂関家や叡山等が
北条家を嫌っていたか、もしくは中立だったって構造。
北条方の吾妻鏡こそが頼家のことを悪し様に書いてるし、
吾妻鏡ではただ頼家死去の報告があったと書かれてるだけ。
御所方が頼家を嫌っていれば当然の報いみたいな文句が
加わるはずだし、北条が暗殺したなんて書くかも怪しい。
頼朝家は協力的な存在で、御所方の権益を担保してくれる。
だから慈円は頼朝を褒めていた。
吾妻鏡記載の比企能員の変の前日に、なぜか頼家病死を
告げる使者が京都を訪れたと皇族や摂関家の他の成員の
記録に記載されてるし、胡散臭いのはどう見ても北条家側。
491:日本@名無史さん
11/04/19 13:40:33.94
>>488
「頸に緒をつけ」
訳文が間違ってるよ。
引用にある通り、首に緒(紐)をつけ、だから、首に絞めた紐を引いた絞殺。
逆に刺し殺すとはどこにも書いてない。
492:日本@名無史さん
11/04/19 13:45:52.55
>>489
鎌倉幕府北条氏は朝廷に源頼家が「病死した」と嘘の報告して、弟の源実朝を征夷大将軍に任命させた。
しかし、実はこの時頼家はまだ死んでおらず、修善寺に幽閉中だった。
その後、頼家は北条氏の手によって暗殺、都にはだいぶ後になってから知れ渡った。
朝廷の後鳥羽天皇やら慈円やらは当然、北条氏が嘘の報告をしたことを激怒。
北条氏がやった残虐な頼家殺害方法をわざわざ記したのは、それだけ慈円が北条氏に怒っていたということ。
493:日本@名無史さん
11/04/19 13:54:26.81
>>491
頼家入道を刺殺してけり。
URLリンク(www.st.rim.or.jp)
誤字入りまくりの原文 サシコロシテケリ
修禅寺ニテ又頼家入道ヲバ指コロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ。
頸ニヲヲツケ。フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ。
494:日本@名無史さん
11/04/19 18:55:42.62
当然首は鎌倉に送ったんだろ?
頼家を確かに殺しましたよという証拠に。
で、頼家の首は鎌倉のどこに埋めてあるの?
495:日本@名無史さん
11/04/19 19:39:53.49
頼家の首を斬り取り鎌倉に送って首実験したという記録はない。
頼家殺害は鎌倉幕府将軍実朝の許可を得たものではなくあくまでも暗殺で、
首を斬り取られていないのでは?
ちなみに源頼家の墓は母の北条政子が頼家のために修善寺に建立した指月殿にある。
496:日本@名無史さん
11/05/01 21:36:14.84
既出で有名かもしれんが鎌倉時代のちょっといい話
楠木正儀(正成の三男)と細川清氏率いる南朝の軍勢が京にまで進撃してきたとき、
佐々木道誉の部下はどうせ略奪の的になるのなら
敵に一片のなぐさみも残すまいと佐々木邸に火をかけようとしたが
佐々木道誉は「都随一の自分の邸は総大将の宿舎になるに決まっている」と一喝して止めさせ
邸内に豪華な食事と飾りつけを施したうえで
よろしく接待するよう厳命した二名の遁世者を残し、邸を去った。
邸に踏み込んだ楠木正儀は掠奪や放火にはやる部下をとめさせ
道誉のはからいに感服しつつ自分の宿舎とした。
その後北朝側が盛り返して京を奪回してきたとき、
正儀は佐々木邸に前にも勝る豪華な食事と接待のための者二名を残し、
さらに蔵には名刀と秘蔵の甲冑まで置いた上で京から撤退した。
京の人々は「正儀は道誉の古狸にまんまと刀と甲冑を盗られてしまったな」と
噂したという。
497:日本@名無史さん
11/05/01 21:37:58.20
>>496
スマン訂正、鎌倉じゃなくて室町だったな
498:日本@名無史さん
11/05/02 01:23:45.59
これは良い話だ。
499:日本@名無史さん
11/05/02 10:04:52.10
敵将の性格を知り尽くした道誉の策略の勝利だな
500:日本@名無史さん
11/05/02 10:32:19.20
俺はこういう話が読みたいんだよ
501:日本@名無史さん
11/05/05 05:32:33.08
つ「修善寺物語」
502:日本@名無史さん
11/05/05 06:10:01.97
つ「曽我物語」
503:日本@名無史さん
11/05/06 11:46:45.17
後醍醐天皇の乱交
後醍醐天皇は鎌倉幕府がダーーイ嫌い
何とかして幕府を潰してやろうと密かに計画
でもって、作戦会議をするんだけど、そのカ
モフラージュに乱交パーティをしまくった
「朝廷は遊んでばっかだよーん」というのを、
六波羅探題(幕府が統括している警察みたいなもん)
にアピールするためであります
その乱交パーティは飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ
スケスケの着物を若い女の子に着させてサービス
でもって、ひそかーーに倒幕作戦会議をしていた
のであります
が!倒幕計画に参加した男性が、妻にペロっとしゃべっちゃった
でもって、その妻が六波羅探題にタレこんだため、残念ながら計画はパーになってしまったのでした。そして隠岐に流され、兵庫の福厳寺にまで逃げてきて、楠木正成に迎えられるのでした。
504:日本@名無史さん
11/05/07 00:09:47.50
つまらん
505:日本@名無史さん
11/05/07 14:37:49.37
承久の乱がらみで逸話は何かありませんか?
506:日本@名無史さん
11/05/18 01:06:37.94
元暦年間のことだそうだ。
平氏亡びんとするとき、平氏の公達の一人に妾として寵愛された女が、子を抱え
近江国津田というところに落ち延びた。
この時の津田郷の長は、彼女を見るとその美しさにたちまち心奪われ、自らの家に置き、
それまでの妻を追いだしてこの女を新たに正妻とした。
長は女を深く愛し、二人の間には多くの子が出来た。
さて、その頃越前織田庄の神主は毎年、天下御祈祷の巻数を捧げるため上京しており、
その途中、いつもかの津田郷の長の家に宿泊した。
この神主が、長の家に子どもが沢山いるのを見て
「私は子を持っていないんだ、哀れと思って一人養子にいただけないだろうか?
養い育て私の跡を継がせ、老後を安らかにしたいのだよ。」
これに長は「お安いことです」と、唯一自分と血の繋がらない、女がここに来たとき連れていた
少年を神主に与えた。
神主は大喜びでその子を連れて越前帰国し、自分の跡を継がせた。
後に室町時代になって、この子の子孫から越前・尾張・遠江を領した斯波氏に使える者が出、
彼らは「織田」を名乗った。後に信長を排出する織田氏である。
信長記より、織田家発症の逸話である。
507:日本@名無史さん
11/05/18 04:42:04.85
>>506
>信長記より、織田家発症の逸話である。
織田家は病気かよw
織田が平氏なので征夷大将軍になれなかったって話はこの辺がでどころか。
508:日本@名無史さん
11/05/19 23:49:54.02
策士佐々木
宇治川の戦いのことである。義経軍に属していた佐々木高綱は梶原景季からこう言われた。
景季「何で俺がもらえなかった生食をあんたが乗っている!」←磨墨にこの人は乗っている。
高綱「アンタがもらえなかったと聞いたから盗んだ。」
景季「あ・・・・そうなんだ。納得」
戦いが始まり先陣争いとなったが、景季のほうがかなりリードしているというのを見て一言。
高綱「おーい!梶原殿!鞍の帯が揺るんでいるぞ!」
景季「なに!どこ?どこどこ?」
高綱「じゃーねーw」→先陣頂き
佐々木道誉のご先祖様もなかなかの策士ですなぁw
509:日本@名無史さん
11/05/20 00:01:56.60
>>507
出処もなにも、信長さんとこは正式な名乗りはちゃんと平氏でやってる。
朝廷関係では平信長。
510:日本@名無史さん
11/05/20 00:03:38.54
>>505うろ覚えだが承久の乱がらみで一つ。
承久の乱が起き、鎌倉から兵を発することとなった。
北陸道、中山道、東海道の三軍に分け進発したのだが、東海道の大将
北条泰時が戻ってきて父義時に聞いた。
泰時「省みるにこの戦、瀬田川で交戦するものと予想されます。ついては、
錦の御旗を立てて、上皇様が直接おいでになられた場合は如何にすればよいでしょうか?」
義時「うむ、よくぞ聞いた。儂もそれを気にしていたところである。
もし上皇様が戦場におわしたならば、・・・・」
義時「旗をたたみ、弓の蔓を切り、兜を脱いで跪き降伏せよ。」
以上。絶対嘘にしか見えない問答でした。どう考えても義時がこんな事言うわけがない。
511:日本@名無史さん
11/05/21 13:32:39.88
>>508
それには続きがある。
景季「おーい!佐々木殿!おまえの鞍の帯も揺るんでいるぞ!」
高綱「あっそう。じゃーねーw」→先陣頂き
512:日本@名無史さん
11/05/21 14:35:04.84
高綱の馬も、実は頼朝からもらったんだけど、景季から恨まれないようにするために、盗んだことにしたという前振りもあるけど
主君から、馬を盗むのは良いのか。二人と
513:日本@名無史さん
11/05/21 17:51:03.61
月マガでやってる漫画で
「私も盗めばよかったあーっ!」
って叫んでたのが笑ったw
514:日本@名無史さん
11/05/22 16:26:45.32
>>510
もし院が「出てくれば」そうしたと思うよ
出てきやしない、とは考えていたかもしれないけど
かなり義時としても追い詰められた状況だったはずだ
承久記なんかでも武田や小笠原があからさまに不穏なこと
(どっちにせよ勝った方につけばいい的なこと)
言ってたりするけど
この時点ではどっちに転んでもいいと思っている御家人は意外といたしね
515:日本@名無史さん
11/05/22 19:50:49.47
三浦為継と鎌倉景政の話が余りに有名とかwikipediaに書いてるのですが、そこまでなのかしら。
516:日本@名無史さん
11/05/23 16:34:05.50
「あまりに有名」で検索してみると
大して有名じゃない逸話を紹介するときに使われる表現みたいに見える
517:日本@名無史さん
11/06/01 05:17:23.92
では、あまりに有名なドジっ子天皇の話。
承久の乱から十年ほど経った貞永元年、後堀河帝の譲位により、
第1皇子、秀仁(四条天皇)がわずか2歳で即位した。
それからさらに10年後、仁治3年のある日のこと。
この四条天皇、天皇でありながらなかなかの悪ガキだったらしく、
父上皇の死後も悪さばかりしていた。
この日も近習や女房どもをすっ転ばせてやろうと、御所の廊下に滑石をまき、
物陰に隠れてワクワクしながら様子をうかがっていた。
しばらく後、隠れた帝を捜しに、いつものように女房達が御所内を回り始めた。
そして彼女たちは例の廊下を通ったのだが、誰一人として転ばない。
「あれれー?おっかしーぞ? 量が少なかったのかな?」
女房達が見えなくなると、四条天皇はひょこひょこと廊下にのぼり…
お約束通り、自らの仕掛けたトラップに引っかかってしまった。
見事に頭を打ち付けた帝。
打ち所が悪かったのか、なんとそのまま崩御されてしまったのだ。享年12。
当然子はなく、守貞系の血脈は彼で途絶えてしまった。
後鳥羽やら慈円の呪いだとか言われてたりもするけど、
今でいうバナナの皮レベルの悪戯で死んじゃった天皇がいるって知って
なんか皇室を身近に感じたよ。
518:日本@名無史さん
11/06/01 16:31:29.24
この天皇に子供がいたら南北朝の争いもなかったかもしれないんだな
519:日本@名無史さん
11/06/08 22:15:29.79
慈圓に呪われるようなことしたんだっけ?
12歳にしては幼稚な悪戯だな。天皇になりながら童貞で死んだのか。
昔の天皇より今の庶民のが幸福だな。
520:日本@名無史さん
11/06/09 02:58:54.82
慈円は後鳥羽の挙兵には反対してたけど、後鳥羽の孫の仲恭天皇は縁戚だから
仲恭まで廃位されて皇統が守貞系に移ったことを恨んでたとか。うろ覚えだけど。
一族の影響力が衰えること恐れたか、或いは17歳で不遇の死を遂げた仲恭を哀れんだのかも。
その辺が動機なんじゃない?
ていうか現代の庶民には30過ぎて童貞の奴もいるんだぞ畜生め
521:日本@名無史さん
11/06/09 10:03:09.82
>>520
呼んだ?
522:日本@名無史さん
11/06/10 23:33:35.06
鵯越の逆落としの時のこと。
義経「ものども!鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿が越えられる崖を馬が越えられぬ事などあり得ぬ!
我に続け!」
こうして、一騎又一騎と崖を降りる板東武者であったが、ただ一人はちがった。
畠山重忠「日頃、戦や騎馬で乗っているこの馬をこんな崖で怪我をさせ、大事に後れをとってはならない。
歩いておりよう。」
こうして彼は馬の腹帯を結び変えて鎧と結びつけ、ずり落ちないようにし
近くの木の枝を折り杖にして、馬の足をばたつかせないように結わえ付け、
馬を背負って降りていったという。
ちなみにこの人、「力持ち」としてその名を関東で知らぬ者はいなかったとか。