10/10/13 22:20:32
ほんじゃあ朝倉宗賢の悪い話。
南北朝時代、斯波高経の配下の武将に朝倉宗賢というのがいた。
名前から分かるように、後の戦国大名朝倉家の祖にあたる男なのだが、
自分の居城の近くであり、越前でも大荘園である河口荘を侵略する事にした
ことが、この話の発端となる。
この河口荘。越前最大の港湾都市三国湊の後背地に位置する1100町あまりの大荘園であり、
経済的にも軍事的・政治的にも重要な所領であり、彼がほしがるのも無理はなかったのだが、
この大荘園の所有者は興福寺であり、当然の事ながら興福寺から幕府に対して「あいつなんとかしろ」
と抗議される事になる。
しかしながら、朝倉宗賢は斯波にとっては重要な戦力であり、そのためもあって訴訟は遅々として進まず
業を煮やした興福寺側は、最終手段である春日社の神木を奉じて入京し、朝廷と幕府に宗教的権威をもって
圧力をかけるに至る。
流石の斯波高経もこの一手にはどうしようもなく、せめてもの妥協案として、宗賢に河口荘の権益を一定度放棄させる
代償として、河内国鵜殿関を春日社造営料所に指定し、その管理を宗賢にさせることで、鵜殿関から挙がる利権を宗賢
に与えたのだが、宗賢は鵜殿関からの税を一切興福寺に払わない姿勢を示し、問題は長期化。
そしてこの事態に、佐々木道誉を初めとする反高経派の面々は、高経の失政を批判し、遂には高経の失脚並びに病死に
追い込む事に成功する。
なお、主人の失脚の原因となった宗賢は、主君高経が失脚すると、主君をあっさりと見捨てて道誉側につき、恩賞として、
越前国内に所在する所領を7ヵ所も将軍から拝領するわ、河口荘と鵜殿関の押領を続けるなどやりたい放題の限りを尽くしている。
そんな朝倉宗賢の悪いお話。