縄文・アイヌ・弥生・渡来人学7at GEO
縄文・アイヌ・弥生・渡来人学7 - 暇つぶし2ch306:白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
14/04/23 01:21:23.25 o/c54WQF
>>271-274
秦人そのものも元来、華夏人じゃ無ぁ、チベット系要素の強いの西戎牧畜民じゃけどのう。
URLリンク(www.geocities.jp)
祖先が周王八代孝王に、羊を飼うのがうまいことを認められて、土地をもらったことが始まりと
されているようだ。このことから見るに、秦は牧畜民族であり、かつまた、平王の護衛をしていた
ことから軍事的な面でも秀でていたことが分かる。事実、秦の祖先であるとされている、悪来も
武力に秀でていた。
始皇帝の時代には都はすでに咸陽におかれていたが、もともとはもっと西方にあった。
牧畜にしがみついていた時代が長く、」
ほいから、日本の秦氏は、五胡時代のチベット系前秦の可能性の方が
強い。もちろん秦氏の氏族連合は、移住先のツングース、百済系新羅系も混じっとるけど。
過去スレにも書いちょろうに。
スレリンク(geo板:407番)
URLリンク(www.mekong.ne.jp)
「前秦とは歴史上の呼び方で、建国者であるチベット系の民族の王である
符建は国号を「大秦」と定めました。
『日本書紀』に応神天皇14年のとき、弓月君(ユツキノキミ)が百済より
移民を率いて来たことが記されています。弓月君は「移民集団は新羅に
阻まれて加羅の国に留まっている」と応神天皇に苦情を訴えました。
『新撰姓氏録』には弓月君は融通王と見え、秦始皇帝の子孫とされています。
融通王は結局、127県の百姓という大集団を率いて倭国に移住し、彼等は
秦氏と呼ばれ、これは秦始皇帝の子孫というよりも、大帝国が瓦解した後の前秦の
王族集団と考える方が適切ではないでしょうか。」
前秦テイ族の東方移住は、こっちのも挙げとこう。
URLリンク(ameblo.jp) 
「苻堅は非常な理想主義者で、民族的差別を行わないということで、自分たちの本拠である
関中に、東にいた鮮卑を移し、逆に東へは氐(テイ、チベット系)族を移すということを行いました。」


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