14/04/19 01:55:59.50 Xp0EJfmI
>>122-123
あんたがそもそも文明主義に基づく中華隷属主義じゃし、関東の方が近畿や中国地方より
中華朱子学化しとるよ。
URLリンク(www.valdes.titech.ac.jp)
「明が満洲族に侵略されます。朱子学を正統としていた漢民族の王朝が、夷狄に征服されたら
一大事です。明から何回も救援の要請が来ましたが、幕府が対応に困っているうちに、明は滅亡して
しまいました。日本人を母にもつ鄭成功が台湾に拠って抵抗し、江戸の人気を博したのもこの頃
です。亡命者も多く、なかでも王族の血をひく朱舜水という学者は、日本の儒学に大きな影響を
与えました。
朱子学はなぜ、正統論をそれほど問題にするのか。それは、朱子学が成立した当時の中国(宋)
自体が、存亡の危機にあったからです。宋の皇帝は金に捕らえられ、国土の半分を奪われました。
南宋では抗戦派と和平派が対立しましたが、朱子は抗戦派でした。文天祥(宰相)や岳飛(将軍)の
活躍も空しく、やがて南宋は元に滅ぼされます。この時代、儒学は「君臣の義」に基づいた、
かずかずの英雄的人物を生み出したのです。
朱子学は、政治を絶対化しますが、それは(夷狄の)政権を絶対化しないためです。夷狄や
逆臣が政権を取っても、それは「天」の意思(政治の原則)に反すると考える。
江戸時代、中国は日本にとって、世界の中心=憧れの的でした。中国人に生まれなかったことを
生涯の不覚と悔しがる儒学者もいました。中国が儒学のモデルとなるのは、ソ連がマルクス主義の
モデルとなったり、アメリカが民主主義のモデルとなったりするのと同じです。日本の事情を一切
無視して、特定の外国にモデルを求めて憧れる思想を、慕夏主義といいます。
中国ではしばしば王朝が交替するのに、日本で天皇の正統な支配が途切れず続いているのはなぜか。
それは天皇が中国人だからだ、という説が唱えられました。林羅山は、「天皇は呉の太伯の子孫で
ある」という南北朝の僧円月の説を紹介し、賛成しています。
このように林家が天皇中国人説をとったのに対し、山鹿素行やまがそこうは、中朝論を唱え
ました。明が滅亡し、清に支配されて「畜類の国」となってしまったいま、日本こそが儒学の
正統だというのです。そこで素行は、日本を「中国」と呼びます。」
URLリンク(blog.goo.ne.jp)
「明の滅亡がもたらした衝撃は、朝鮮だけでなく、日本にも来ていたのだ。朝鮮に、我こそ
真の中華という意識が生まれたのと平行して、日本でも中朝論が生まれ、尊王思想から、
八紘一宇につながっていく、原形となった。維新後、ないし大陸での日本の活動の底流に、
中朝論を位置づけると、歴史がずいぶんと分かりやすくなる。
日本の中国制圧が成功していたら、(長年経過する内に)単に日本が中国になっただろう
(満州が清となり、中国と一体化したように)。アジアで覇を競うとは、そういう意味なのだろう。
こういう話なら、秀吉の唐入りを想起せねばなるまい。まるでデジャビュだが、そこで興味深いのは
江戸時代が「戦後」だったという話。当時は慕夏主義、今の戦後は、慕米主義だそうだが。」
URLリンク(45ryouma.jugem.jp)
「朱熹は、今でいう中国江西省の出。中国東北部の民族である「女真(ジュルチン)族」によって、
宋は圧迫を受けていた。女真族は、半農半猟民族の部族だったため、戦が強かった。この武力に
よって建国されたのが「金」である。この金よって、北宋は潰されたが、宋国王の弟・康王は
日をおかずして「南宋」を興す。しかし、この南宋も常に、金によって脅かされていた。そんな
時代に生まれた朱熹。生まれながらにして、攘夷思想を持っていたとしても不思議ではない。
その朱熹が儒教を再構築しなおした。それが朱子学である。それまであった孔子の解釈は
不十分であるとした。新しい注釈を施したのである。これを、それ以前の古注にたいし、
新注という。朱熹は、女真族に対して、文明を意識した。金が野蛮な連中の国家であるという
思いと、憎しみが強い。秩序への執着があった。」
ネット右翼の攘夷主義も、文明の立場に立ちたい、中華人になりたいだけで同じじゃが。