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東日本縄文社会の崩壊
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環境考古学の安田喜憲によると、6,000年前ごろ気候最適期にあった縄文文化は、
縄文後期に入る4,000年前ごろから冷涼化に見舞われ、縄文晩期に入る3,000年前ごろには厳しい寒冷化・乾燥化に見舞われた。
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上図で黄緑色で示した暖温帯落葉広葉樹林が寒冷化によって壊滅的打撃を受けたことが分かる。
東日本地区の、高い生産力を誇ったドングリの森林は、その生産力を大幅に減じることとなったのである。
一方、西日本地区の照葉樹林は気温に対する適応性が大きいのであろう。ほとんど気温変化の影響を受けていない。
中部山岳の八ヶ岳山麓文化圏とも言える縄文中期の繁栄は、4,000年前ごろ突然崩壊し、
5,500年前ごろから1,500年間も繁栄し続けた最北の巨大な縄文都市・三内丸山もこの時期に突然放棄されることになった。
すでに1万年以上も続いていた縄文社会が、急速に崩壊を始めたといっていいだろう。
東西文化の融合をもたらした 東日本人の南下
当時の縄文人は、地球規模で起こった気候の寒冷化など知る由もなく、
自分の住む地域で、局地的に異常気象が頻発することを、いぶかしんでいたことだろう。
安田の言う縄文後・晩期の寒冷化は、安定的で、且つ高い生産性を誇ってきた東日本の森林が、
主要食料・ドングリなどの堅果類の供給を、突然、何年かに一度激減させるというような、異常な事態を引き起こしていた。
しかもこの異常な事態は繰り返し襲って来た。
この“自然が作り出した凶作”は東日本の縄文人に、かってない決断を迫ったに違いない。
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縄文時代の人口は、縄文中期にピークに達している。それも95%以上が東日本に偏在した。
その東日本(東北を除く)が冷涼化・寒冷化による森林の生産力の低下で、人口が半減してしまった。
特に中部の山岳地域では3分の1以下に激減した。その一方で注目に値するのは、
東日本に較べて極めて人口密度の低かった西日本で、低レベルながら人口が“倍増”したことである。
特に四国などは、200人から2,700人へと13.5倍の規模に膨れ上がっている。
また九州は実数においてほぼ5,000人に近い大幅な増加を示している。
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このような縄文後期における西日本地区の人口増加は、西日本が寒冷化しなかったからでも、
照葉樹林の生産性が急に上がったからでもない。
またこの期間に、大陸や半島方面から大量の渡来があったからでもない。
唯一つ考えられる理由は、豊かな森を失ったことを実感した東日本人が、西日本地区に南下、流入した結果であろう。
たとえば殆ど無人島であった四国地方に、
或いはアカホヤ火山灰から再生した南九州の空白地帯に東日本人が流入した可能性は十分ありうると考える。
東日本人の南下、西日本地区への流入、それも既存の西日本縄文人と同規模以上の流入が事実であったとすると、
旧石器時代以来、かなり独立した集団であった東日本の縄文人と西日本の縄文人が、
縄文後期に、東と西の文化を融合させたということになる。
おそらく互いの言語・語彙が共通化するようなことも起こったであろうし、なによりも遺伝子の融合が進んだであろう。
すなわち、日本列島の西部地区には、文化的にも民族的にも列島平準的な、新たな西日本人が誕生していたと言って過言ではないだろう。
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この時期に西日本地区と同様、沖縄中・南部の人口が急増しているのである。
その原因が東日本縄文人の流入であったとしたら、アイヌ人と琉球人が遺伝学的に同祖であるという有力な学説とも整合性を持つことになる。