12/08/08 10:03:03.82 o1hhT3qb
“東日本民族”の西日本への移動
URLリンク(www.geocities.jp)
4000年ごろ起こった気候の寒冷化は、比較的冷涼な植生に大きな打撃を与え、温暖な地域の植生にはあまり影響を及ぼさなかった。
その結果、上表に見るように東日本の人口は1000年間にほぼ半減した。
これは現代の我々が想像する以上の衝撃を当時の東日本縄文人に与えたに違いない。
もともと東日本人は、当初のバイカル湖人のときから自分たちの住む植生を変えることを好まなかった。
猛烈な勢いで、彼らバイカル湖人が細石刃文化を伴って流入した時も、亜寒帯針葉樹林いわゆるタイガ帯から、
さらに南(西日本地区)に進むことはなかった。
地球全体が温暖化した後も、照葉樹林帯には住まず、比較的冷涼な温帯落葉広葉樹林帯で豊かな採集狩猟民として生活してきた。
その彼らが森林の収量の激減に耐え切れず、約1万年近く足を踏み入れることを拒否してきた照葉樹林帯の西日本地区に移動してきたのである。
しかも上表に見るように10000人規模の移動は、
その後の弥生時代の渡来人規模、古墳時代の渡来人の規模と比べても、決して見過ごすことの出来ない規模である。
このとき、東日本のアク抜き技術などが西日本に伝わったといわれるが、
なにしろ西日本の人口に匹敵する規模の別の民族集団が流入したのであるから、
その文化的衝撃は計り知れないものであったろう。
日本人の二重構造の基層人とは
URLリンク(www.geocities.jp)
こういう [華北系古アジア人+江南人諸族の混成集団] という比較的少数の集団が疎らに分布していた北部九州へ、
東日本人の大量流入があった。
その規模は北部九州の既存の人口に匹敵するほどのものであったと推定される。
(九州全体で、既存人口5,300人に対し、流入は4,800人と推定される。)
北部九州基層人の民族・言語・文化の複合
URLリンク(www.geocities.jp)
北部九州では旧石器時代から住み着いていた華北系の集団に、南方の文化を持った江南地方の集団が流入し、
かなりのウエイトで南方の遺伝子を持った集団が形成されていた。
そこへまた、バイカル湖系の、すなわち北方の文化と遺伝子を持った東日本人がどっと押し寄せた。
おそらく北部九州の集団は、東日本縄文人を50%に近い割合で受け入れることで、南方的性質を弱め、
かなり“列島平準的な基層人”となったと言えるだろう。