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京都盆地は五世紀に朝鮮半島からの渡来まではいぜんとした氾濫原であった。
渡来人最初の村は東山の麓に祇園社を祭る高句麗の人々の八坂村、衣笠山の麓に北野社を祭る秦氏の北野村、さらに南東の方には同じく秦氏の深草村、西の方には太秦村という村々であった。
そしてこの村々の人々は盆地の開発に助け合った。開発は治水を前提としなければならぬ。葛野川に大堰をつくって水量を調節し堤防を築いて水田を造成した。
平安楽土はまさしく渡来人たちが長い間の苦闘の末につくり上げたものであった。
(林屋辰三郎・石川県出身)