12/11/05 21:30:23.35 0
>>586>>588
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九州の弥生人には北部・西北部・南部離島で形質や生業の差が顕著にあって、
西北九州弥生人は形質が縄紋人に近く、縄紋人が弥生文化を受容して成立した集団と考えられるようだが、
言語もその時に弥生語=日本語族に乗り換えたのか、縄紋語(仮)のままだったのか、どっちだろうね?
(日本語族=縄紋語とする論者も多いが、今は採らない)
弥生語またはそのクレオールに乗り換えたとしても、その後の西北部集団と北部集団の交流が希薄だったならば、
分岐してから風土記の時代までに数百年~千年以上経っていることになるから、
「其の言語は俗人に異なり」とされてもおかしくはないだろうね。
蝦夷に熟蝦夷・麁蝦夷・都加留の三種がいたとされるように、九州縄紋人の末裔も、
弥生化の程度が地域ごと・集団ごとに違っていたのかもしれない。
ただ、もしも日向神話が史実の反映ならば、皇室の祖先はおそらく古墳時代まで日向(西都原か?)にいて
近隣の土着系豪族と通婚を繰り返していたってことになるから、また話が違ってくるかも。