YDNAで追う銅剣・銅鏡文化による古日本建国史at ARCHEOLOGY
YDNAで追う銅剣・銅鏡文化による古日本建国史 - 暇つぶし2ch335:LUNAMASK
11/05/17 12:48:55.95 7JkLDVU0
この大きな活断層は欧州と東洋に分かれ今も生きていると思います。
白組 源氏 徳川
紅組 平家 薩長土肥

336:出土地不明
11/05/17 12:58:48.71 dlWBe/42
わぉ~わぉ~わぉ~わぉ~
>>333
>>332 YES

とすると、海幸VS山幸戦争とは=奴国VS倭面土国(邪馬台国)=細形VS広型
=【カラスク北周りの白山・白犬犬戎】VS【カラスク南周りの秦氏・黒犬犬戎】となり
由来からすると【②扶余・高句麗・百済系】VS【③+④箕子朝鮮・辰韓(伽耶・新羅)系】となって
②の高句麗(白犬)と③+④の倭(黒犬)の対決は歴史的必然といえますね

記紀が海幸(白犬)と山幸(黒犬)を兄弟としたのは、こんな歴史的背景があったのでしょうか!?


337:LUNAMASK
11/05/17 13:07:56.57 7JkLDVU0
>>336 そのとおりです。

338:出土地不明
11/05/17 13:24:24.24 dlWBe/42
わぉ~わぉ~わぉ~
>>337
しかしこの兄弟、①海幸(白犬)が【ツングース語】と③山幸(黒犬)【オーストロアジアティック・広東・上海語】
と言語が大きく異なるし、Y遺伝子的にも文化的にも大きく異なる種族のようですね

LUNAMASK:2010/03/24(水) 10:53:47 ID:1tHWGidB
URLリンク(yamatai.cside.com)
九州の古代邪馬台国に侵入してきたスサノオ、細型利器族、左、の当初勢力範囲。
右は勝利した天孫族の最終布陣。スサノオは四隅突出型墳丘墓として出雲に
神やらいされ、天孫は吉備へと進む。

銅緑山(直線L) □細型銅剣
大井子(領域A)カラスク・鴨・尾張(=オークネフ=山戎=銅鐸文化人)
         ●琵琶型銅剣
         ▲支石墓 中広銅剣

339:LUNAMASK
11/05/17 13:35:08.91 7JkLDVU0
>>338 )【オーストロアジアティック・広東・上海語】 >これは徐福であり、秦・黒犬戎
とは違います。卑弥呼等は徐福ですね。吉野ヶ里から、大阪湾に向かうようですね。
非常に大きな集団で丹砂探査チームもあったようです。神武に八つ裂きにされて
いるようですね。

340:LUNAMASK
11/05/17 13:41:22.76 7JkLDVU0
>>338 秦氏が入ってくるのは応神朝で神武時代より1.5世紀も後のようです。
逆に海幸は非常に古く、おそらくは7千年前の喜界噴火の際に満州に移民した
西日本縄文人でしょう。バイカル湖ではグラスコフ文化時代に欧州に玉・宝貝
等を輸出しており、ギリシャ神話に出てくる極北人がこれだと思います。
URLリンク(en.wikipedia.org)
URLリンク(www.eupedia.com)

341:LUNAMASK
11/05/17 13:45:32.33 7JkLDVU0
>>339 神武が残虐なようですが、形見分けという言葉が残るように遺骸の各部位を
分骨のように分ける制度があり、グラスコフ文化には強く残るようです。

342:出土地不明
11/05/17 13:49:35.71 dlWBe/42
わぉ~わぉ~わぉ~
>>339
秦・黒犬戎の出自はなかなか把握しにくいですね

>>332 YESということなので非常に混乱するのですが、>>332の①に先立って先行渡来し
伽耶で③と合流したアルタイ語族ということかな

343:出土地不明
11/05/17 13:57:22.83 dlWBe/42
わぉ~わぉ~わぉ~わぉ~
>>340
URLリンク(yamatai.cside.com)

この分布状況が示しているのは神武時代より後かもしれませんが
応神朝よりはずっと以前のことですよね!!

この分布をもたらした細型と対立する中広型銅剣の種族の出自を問題にしているはずですが..


344:LUNAMASK
11/05/17 14:11:48.40 7JkLDVU0
>>342
秦・徐等はYing姓ですが、始皇帝は制圧した巴蜀・呉越民を徐福に下賜しているので
この辺がなかなか難しいですね。宗像等の三女神思想はスキタイのものです。
>>中広型は遼寧銅剣文化ですね。応神朝より前です。応神朝になるともはや鉄器
とか金細工の時代ですね。この中広形は着順からすると箕子朝鮮ですね。

345:LUNAMASK
11/05/17 15:18:10.62 7JkLDVU0
>>340
ヘロドトスが極北人の住みかを共に中央アジアの民族であるマサゲタエとイッセドネス
の彼方としていることから、極北人はシベリアに住んでいたようである。ヘラクレスは
アルテミスの黄金の角を持つ雌の赤鹿を極北の地に求めた。雌であって角の生えた
鹿はトナカイだけであり、極北と言うのは極地乃至は亜北極を示唆している。J.D.P.
Boltonはイッセドネスの居住地をアルタイ南西山麓としたが、これに続いてCarl P.
Ruckは極北を北部新疆に入るジュンガリア・ゲートの彼方とし、極北人とは多分中国
人であろうとした。
URLリンク(en.wikipedia.org)
プロト・ギリシャ語・話者のステップからの到着についてはほとんどなにもわかってい
ない。ミケーネ文化は前1650年頃にはじまり、ステップ文化が移動してきたことははっ
きりしている。ミケーネ語とプロト・インドイラン語は密接な関係にあり、これら言語の
分離は非常に遅く前2500-2000年頃であったと見られる。考古学的に見ると、ミケーネ
の二輪車、槍先、銅剣、その他青銅器具は、そのノマド戦士の非常に大きな移動能力
で知られるロシア北方森林ステップのセイマトゥルビノ文化(前1900-1600年頃)と驚く
べき類似性を示している(セイマトゥルビノ・サイトは遠くはモンゴリアでも出土して
いる)。従って、ミケーネ人は前1900-1650年頃ロシアからギリシャに降臨し、その地で
原住民と混交し新たに新しく独自のギリシャ文化を創造した可能性が強いのである。
URLリンク(www.eupedia.com)

346:LUNAMASK
11/05/17 15:23:27.57 7JkLDVU0
↑ここでいうセイマトゥルビノ文化と言うのが↓
>>334 URLリンク(users.hartwick.edu)
このすっきり、くっきり思想が細型銅剣・聞く銅鐸の背後にあったが、これが
中原の饕餮紋に象徴される殷青銅器設計思想、センギョク思想の影響下で
見る銅鐸へと変身する。ここにも天孫降臨のようなプロセスがあったのだろう。

347:出土地不明
11/05/17 15:24:05.43 9QCuSU3e
◆貫頭衣(かんとうい) 【KANTOUI】


貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。



【貫頭衣 (かんとうい)】一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、
そこから頭を貫いて(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる
原始的な衣服の形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

348:出土地不明
11/05/17 15:25:05.25 9QCuSU3e





古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)




349:LUNAMASK
11/05/17 15:27:46.46 7JkLDVU0
>>345
「ギリシア伝説で,篤(あつ)くアポロンを崇拝する〈極北人〉。
北風(ボレアス Boreas)のかなた(ヒュペル hyper)の四時光明に輝く国で至福の生を
送っていると考えられた。前5世紀の歴史家ヘロドトスがアポロン誕生の聖地デロス島
の住民の話として伝えるところによれば,かつてヒュペルボレオイは2人の乙女に
アポロンへの供物を持たせてデロス島へ送り出したが,乙女たちが帰国しなかった
ため,以後は麦わらに包んだ供物を国境まで運んで隣国人に渡し,それをまた次の
隣国人に転送してくれるようにと頼んだ。こうして供物は次から次へと転送されて
アドリア海岸に達し,ついでギリシアのエペイロス地方からマリス湾,海を渡って
エウボイア島,最後にテノス島を経てデロス島に着いたという。ここに記された供物の
旅は,ヨーロッパではバルト海にしか産しない琥珀が青銅器時代のギリシア世界にも
たらされたときの交易路,いわゆる〈琥珀の道〉の記憶をとどめるものであろうと考えら
れている。」

350:LUNAMASK
11/05/17 16:11:38.33 7JkLDVU0
>>342 ↓ここにあるAflyayunが秦氏の祖かなと考えているんですが。
Tazhetdin Yalsygul 1767-1838による犬戎始祖Takhmuraza系図
Takhmuraza
Kakhraman - Katil 子ではなく兄かも
Mervan
Aflyayun イラク ダビデの盟友 (在位:前1000年 - 前961年頃)。
Akhli-Khak
ダビデ教徒 天使教又は真理宗 黒犬宗 黒犬 オベリスク
Akratis Yosh宗 ダマスカス建設
Karamush 神牛宗 穀倉地帯
Aflyamun クリミア、マグリブの王
Kinan
Efratim ソロモンの盟友 ソロモン (在位紀元前965年 - 紀元前925年頃)。
Takhlaish 神犬宗 ソロモン後160年目に生存 強盗殺人
シラーズに墓地
Makhlashi 神犬宗 ホレズム イリア派に改宗
Emkash   ホレズム
Taglanysh トルケスタン征圧 ユダヤ教徒

351:LUNAMASK
11/05/17 16:52:03.50 7JkLDVU0
>>343
URLリンク(www.yu-ji.com)
天日矛ですが、垂仁が居住地として出石か淡路をと薦めるとそれは自分が決めること
と言ってますが、この発言は辰王を意識しています。極東の王ですね。ですから
この銅矛の範囲は当時として実際の権力を持っていた、つまり、銅戈とか、中広より
上位であった、つまり、衛氏朝鮮系権力者だと思います。URLリンク(yamatai.cside.com)
↑これはそれより古いが非力であり、おそらく箕子朝鮮かなって考えてます。
ではまた。明天見!

352:出土地不明
11/05/17 17:48:13.30 dlWBe/42
わぉ~わぉ~わぉ~
>>351とすると、この①衛氏朝鮮系の天日矛と激しく戦った伊和大神は
②細型の出雲系と③中広型の箕子朝鮮系のどちらだったんでしょうね~??

353:出土地不明
11/05/17 23:21:09.89 dlWBe/42
わぉ~わぉ~わぉ~
>>352

Part24
LUNAMASK:2011/05/11(水) 12:35:57.85 ID:gFTHrjfh
神功に付いては天日矛(新羅・琵琶型)との関連が言われています。
夫与の細型とは違うと言うことになります。


>>313
>春日 鹿島・香取 出雲・氷川 祇園 金毘羅/三輪 ・・・細形銅剣・夫与系
>高良 宗像 宇佐 厳島 住吉 愛宕 秋葉 恵比寿・戎 ・・・神功系
>稲荷 白山 天神 山王・日吉・御岳権現・・・犬戎・匈奴・チュルク系

やはり神功系は箕子朝鮮→馬韓→辰韓の琵琶型・甕棺支石墓文化人のアメノヒボコ・アカルヒメ・田道間守のO3かな!!
URLリンク(ja.wikipedia.org)

354:LUNAMASK
11/05/18 10:27:32.16 yBa5P/ey
>>352 ②細型の出雲系です。
>>353 神功系は箕子朝鮮→馬韓→辰韓の琵琶型のアメノヒボコ系だが、アカルヒメ・
田道間守はO3の徐福系で、蘇州夜曲等が似合いそうなのでは。

355:LUNAMASK
11/05/18 10:31:05.89 yBa5P/ey
アカル姫の歌↓
URLリンク(www.youtube.com)

356:LUNAMASK
11/05/18 11:11:34.96 yBa5P/ey
>>351 URLリンク(www.yu-ji.com)
赤実線/銅剣/倭奴出雲国
赤破線/平形銅剣/葦原中国
平型銅剣は出雲が葦原中国に対し、かつて出雲が銅鐸圏に展開したような政治・
経済影響力を確保しようとしたもので、これが但馬の伊和大神/葦原しこおの勢力。
これに乗ったのが天雅彦で、暗殺される。

357:LUNAMASK
11/05/18 11:14:01.40 yBa5P/ey
こうした倭国乱を克服する卑弥呼は神功皇后と酷似している。

358:LUNAMASK
11/05/18 11:39:17.96 yBa5P/ey
参考
『海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 朝鮮語: Haedongjegukgi)は、李氏朝鮮領議政
(宰相)申叔舟(Sin Sukju)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。
1471年(成宗2年)刊行された。

日本は最も久しく、其つ大なり。其の地は黒龍江の北に始まり、我が済州の南に至
り、琉球と相接し、其の勢甚だ長し。その初は、処処に衆を保ち、おのおの自ら国をつ
くる。周の平王四十八年、其の始祖の狭野は兵を起こして誅討し、初めて州群を置く。
大臣おのおの占めて文治するも、中国の封建のごとくは統属甚しからず。習性は強悍
にして剣槊(武術)に精なり。舟楫に慣れ、我れと海を隔てて相望む。之を撫するに其
の道を得ば、則ち朝鮮は礼を似てし、其の道を失えば、則ち輒ち肆に剽窃せん。

人皇の始祖は神武天皇なり。名は狭野。地神の末主彦瀲尊の第四子。母は玉依姫。
俗に海神の女(むすめ)と称す。庚午の歳を似て生まれる。周の幽王十一年なり。
四十九年戊午、大倭州に入り、尽く中洲の賊衆を除く。五十二年辛酉正月庚申、
初めて天皇を号す。百十年己未、国都を定む。在位七十六年。寿百二十七。

孝霊天皇。孝安天皇の太子なり。元年は辛未。七十二年壬午、秦の始皇帝、徐福を
遣わし、海に入り仙福(不老不死の薬)を求めしむ。遂に紀伊州に至りて居す。在位
七十六年。寿百十五。

崇神天皇。開化天皇の第二子なり。元年は甲申。始めて璽剣を鋳す。近江州に大湖
を開く。六年己丑、始めて天照大神を祭る。天照大神は地神の始主なり。俗に日神と
称す。今に至るまで四方共に之を祭る。七年庚寅、始めて天社・国社・神戸を定む。
十四年丁酉、伊豆国船を献ず。十七年庚子、始めて諸国に令して船を造らしむ。在位
六十八年。寿百二十。是の時、熊野権現神始めて現る。徐福死して神と為り、国人今
に至るまで之を祭る。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

359:LUNAMASK
11/05/18 13:08:28.80 yBa5P/ey
『海東諸国紀』の現代的解釈によって修正すると↓

倭は最も久しく、其つ大なり。其の地は黒龍江の北、バイカル湖、に始まり、我が済州
の南に至り、琉球と相接し、其の勢甚だ長し。その初は、処処に衆を保ち、おのおの自
ら国をつくる。
東漢、恒霊之間倭国乱る。其の始祖の狭野は兵を起こして誅討し、初めて州群を置
く。大臣おのおの占めて文治するも、中国の封建のごとくは統属甚しからず。習性は
強悍にして剣槊(武術)に精なり。舟楫に慣れ、我れと海を隔てて相望む。之を撫する
に其の道を得ば、則ち朝鮮は礼を似てし、其の道を失えば、則ち輒ち肆に剽窃せん。

人皇の始祖は神武天皇なり。名は狭野。地神の末主彦瀲尊の第四子。母は玉依姫。
俗に海神の女(むすめ)と称す。中平の頃、大倭州に入り、尽く中洲の賊衆を除く。

孝霊天皇。孝安天皇の太子なり。秦の始皇帝、徐福を遣わし、海に入り仙福(不老
不死の薬)を求めしむ。その裔、孝霊の御宇に、遂に紀伊州に至りて居す。

崇神天皇。開化天皇の第二子なり。元年は甲申。始めて璽剣を鋳す。近江州に大湖
を開く。六年己丑、始めて天照大神を祭る。天照大神は地神の始主なり。俗に日神と
称す。今に至るまで四方共に之を祭る。七年庚寅、始めて天社・国社・神戸を定む。
十四年丁酉、伊豆国船を献ず。十七年庚子、始めて諸国に令して船を造らしむ。
是の時、熊野権現神始めて現る。徐福之裔、神農・蚩尤を神と為し、国人今に至るま
で之を祭る。

360:LUNAMASK
11/05/18 13:14:05.85 yBa5P/ey
>>359
崇神宮殿跡、大神神社の前、からはタタラのかなくそが出土していると大神神社
宮司がその著書「大神神社」で述べている。

361:出土地不明
11/05/18 13:35:48.33 IJpMjO/Z
◆熟寿司、馴れ寿司、馴鮓、熟鮨(なれずし) 【NAREZUSHI】


なれずしの登場は8C。文献時代に入って100年以上もなれずしを
表す「鮓」「鮨」といった漢字自体がないところから見て、
遣唐使がこれらの漢字とともに中国から輸入してきたものと思われる。



日本における文献初見は『養老令』(718年)の「賦役令」で、鰒(アワビ)鮓、
貽貝(イガイ)鮓のほかに雑鮨が見える[40]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

魚肉の貯蔵形態としてのなれずし(鮓)は東南アジアに点々と見られ、
中国では鮓(サ)、台湾の高砂族ではトマメ、トワメ、カンボジアでは
ファーク(phaak)、タイではプラ・ハー、プラ・ラー、ボルネオの
イバン族ではカサム(kassam)、陸ダヤク族ではトバ(tobah)と呼ばれる[4]。
この他にもラオスやフィリピンルソン島の一部、中国南部の苗族などのものが
知られている。中国では河南の非漢人文化に発し、徐々に華北地方にも広がり
南宋時代に大流行した
URLリンク(ja.wikipedia.org)

362:LUNAMASK
11/05/18 16:02:00.91 yBa5P/ey
>>356 >>351 URLリンク(www.yu-ji.com)
辰國(Jin;辰)是朝鮮半島南部的部落通稱。辰國被認爲是三韓的前身,
其都城可能在漢江之南。在《山海經・海内北經》:“蓋國在鉅燕南,倭北,
倭屬燕。”蓋國大體上與辰國位置相當。
辰國被認爲是像後來的三韓一樣的部落聯盟式的國家。從辰國與衛滿朝鮮長期共存
並意圖突破衛滿朝鮮的阻撓派特使到漢朝的角度上看,辰國可能有穩定的國家政權
漢武帝因衛滿朝鮮阻止辰國等鄰近小國入漢朝貢,于公元前109年(元封二年)
發兵遠征朝鮮。滅亡衛滿朝鮮後,辰國發展成爲三韓部落。從考古上看,
辰國是遼甯青銅器文化的外延,其中忠清道,全羅道發現的遼甯青銅器爲最多。
三韓中的辰韓與弁辰沿用了辰國的名字。馬韓曾宣稱自己是辰國之王。
最早關于辰國的記載爲《後漢書》認爲三韓之地“皆古之辰國也”,而《三國志》
“辰韓者,古之辰國也。”。而同樣的三國志卷30《魏書・東夷傳》中有記載:
“辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,
馬韓割其東界地與之。有城柵,其言語不與馬韓同”,所以辰韓與辰國的關系
就變得無法査證,而辰國被稱爲古國,其究竟存在于什摩時候也有待考證。
也有觀點認爲,在衛滿滅亡箕子朝鮮後,箕子朝鮮的准王逃亡馬韓部落建立的國家
被稱爲辰國,其地理位置也大體相當。[3] 而與日本國起源有關的一種假説
騎馬民族征服王朝説認爲辰國的王是屬于扶余族的系統,辰國滅亡後,
末裔成爲日本的皇室祖先。
在詩經中辰也是指殷,辰國就是商族國家。
URLリンク(zh.wikipedia.org)
銅戈、つまり、九州型/大阪湾型は殷系箕子朝鮮/辰国由来。オシホミミか。
従い銅矛その他中広が遼寧式青銅器を非殷系衛氏朝鮮系、ニニギ、天日矛
とすることができる。

363:LUNAMASK
11/05/18 16:06:11.19 yBa5P/ey
承前
自言古之亡人避秦役來適韓國、ここでいう秦役とは仙薬獲得指令と解釈できる。
このグループは忠清道に上陸してきた徐福グループであり、箕子・衛満朝鮮とは
別のグループ。

364:LUNAMASK
11/05/18 16:10:13.23 yBa5P/ey
>>362
>而與日本國起源有關的一種假説騎馬民族征服王朝説認爲辰國的王是屬于扶余族
>的系統,辰國滅亡後, 末裔成爲日本的皇室祖先。
これは応神朝に入朝する百済系移民のこと。

365:LUNAMASK
11/05/18 16:21:13.63 yBa5P/ey
>>359
>崇神天皇。開化天皇の第二子なり。元年は甲申。始めて璽剣を鋳す。近江州に
>大湖を開く。六年己丑、始めて天照大神を祭る。天照大神は地神の始主なり。
>俗に日神と称す。
この記述と伊勢遺跡における政教分離傾向を考えると崇神政権は、卑弥呼の
親魏政策が徐福的であるのはさておき、近江政権であり、基本的に細形銅剣
文化であったことが窺える。但し、時代はまさに鉄器時代に移行しようとしており
波乱含みであったと言えよう。

366:LUNAMASK
11/05/18 16:26:28.99 yBa5P/ey
考古学的にも大和は河内と違い伝統的に出雲・聞く銅鐸の勢力圏であったとされる。
卑弥呼の銅鏡フェチとか、神仙へののめり込みは孝霊時代に入ってきた徐福
グループの影響ではなかっただろうか。

367: 忍法帖【Lv=13,xxxPT】
11/05/18 17:58:15.28 ShCLrwTw
test

368:出土地不明
11/05/19 12:43:01.70 5W4YcyHC
◆鵜飼(うかい) 【UKAI】


日本の鵜飼は中国よりも古い。



鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部のことが見え、
『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。また中国の史書
『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった
漁法として紹介されている。

隋書の書かれた時代には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、
その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。

確実な記録として最古の物は、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』
(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえる
のに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているのが最初である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

369:出土地不明
11/05/19 12:45:22.48 5W4YcyHC
しかも鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。



満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
URLリンク(www.kc-wk.com)

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
URLリンク(www.han.org)

370:出土地不明
11/05/19 21:39:34.04 IPLCIptA
鵜飼なら、
URLリンク(home.att.ne.jp)
良く読んでね。




371:LUNAMASK
11/05/20 11:13:26.81 CP8VIGRO
>>362
辰國と衛滿朝鮮が長期共存していること、また、衛満朝鮮の妨げを排して漢朝に特使
を派遣せんとする意図からして、辰国は穏健な国家政権とみられ、武帝は、衛満朝鮮
が辰国並びに近隣小国の漢への朝貢を阻止しているという理由で前109年
(元封二年)朝鮮遠征の兵を送った。
URLリンク(kodai.sakura.ne.jp)
URLリンク(kodai.sakura.ne.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)

372:LUNAMASK
11/05/20 13:19:29.02 sYoW8IBo
>>362
>而與日本國起源有關的一種假説騎馬民族征服王朝説認爲辰國的王是屬于扶余族
>的系統、辰國滅亡後、末裔成爲日本的皇室祖先。
>また、日本国起源仮説として騎馬民族征服王朝説というのがあるが、それによると
>辰国王は夫与族系統であり、辰国滅亡後末裔が日本皇室の祖先となったとしている。
------------------------------------------------------------------------
URLリンク(kodai.sakura.ne.jp)
実際は上記漢鏡3期、九州は辰国をしのいで4郡設置の利益を享受している。
また、在詩經中辰也是指殷,辰國就是商族國家ということは商族に特徴的な
銅戈をもち、神武の前に河内に入っていた勢力、おそらくは河内物部が辰、
即ち、箕子朝鮮系であることを物語る。つまり、箕準の末裔は後漢末に伊都国に
入り、その後河内に移住していたと考えられえる。他方、ホケノヤマ・鳴門萩原
等には楽浪系画文帯神獣鏡が出土し、これらは衛氏朝鮮系と考えられる。
単なる交易なのか、それとも王族の移住なのかはさておき、箕子朝鮮系が
日本皇室の祖と言うのはおかしい。

373:LUNAMASK
11/05/20 13:26:05.68 sYoW8IBo
その後の日本は山戎、アルタイ・スキタイ神話一色に変わり、蚩尤・神農神話は
限定されてくる。この趨勢からしても、商族文化の影響が限定的であったことは
明白である。

374:出土地不明
11/05/20 22:22:26.13 lA+UNVbi
わぉ~わぉ~わぉ~
>>373

神功皇后が信奉する蚩尤・神農神話は殷(箕子)由来の商族文化ということですね!!



375:出土地不明
11/05/20 22:25:02.76 lA+UNVbi
わぉ~わぉ~わぉ~
>>372
辰國が就是商族國家なのに、夫与族系統というのはおかしな話ですね!!

>春日 鹿島・香取 出雲・氷川 祇園 金毘羅/三輪 ・・・細形銅剣・夫与系
>高良 宗像 宇佐 厳島 住吉 愛宕 秋葉 恵比寿・戎 ・・・神功系
>稲荷 白山 天神 山王・日吉・御岳権現・・・犬戎・匈奴・チュルク系

376:出土地不明
11/05/20 22:28:16.07 lA+UNVbi
わぉ~わぉ~わぉ~
>>374
>>373
神功系が王統を掌握するのであれば、殷(箕子)由来の商族文化が
日本の皇室の基礎を創ったということではないでしょうか!?

377:出土地不明
11/05/20 23:35:29.38 lA+UNVbi
わぉ~わぉ~わぉ~
>>354
>>353 神功系は箕子朝鮮→馬韓→辰韓の琵琶型のアメノヒボコ系だが、
>アカルヒメ・田道間守はO3の徐福系で、蘇州夜曲等が似合いそうなのでは。

378:LUNAMASK
11/05/21 09:49:33.85 gqmywej8
>>374 >>373 >神功皇后が信奉する蚩尤・神農神話は殷(箕子)由来の商族文化
>ということですね!!
No 神功ではなく卑弥呼(箸墓)
>>375 >>372 >辰國が就是商族國家なのに、夫与族系統というのはおかしな話ですね!!
>春日 鹿島・香取 出雲・氷川 祇園 金毘羅/三輪 ・・・細形銅剣・夫与系
>高良 宗像 宇佐 厳島 住吉 愛宕 秋葉 恵比寿・戎 ・・・神功系
>稲荷 白山 天神 山王・日吉・御岳権現・・・犬戎・匈奴・チュルク系
中国側にこうした情報がないからでしょう。
>>376 >>374 >>373
>神功系が王統を掌握するのであれば、殷(箕子)由来の商族文化が
>日本の皇室の基礎を創ったということではないでしょうか!?
No 上記参照
>>377 >>354
>>353 神功系は箕子朝鮮→馬韓→辰韓の琵琶型のアメノヒボコ系だが、
>アカルヒメ・田道間守はO3の徐福系で、蘇州夜曲等が似合いそうなのでは。
上記参照。アカルヒメ・田道間守はO3の徐福系で、蘇州夜曲等が似合いそう・・・
これこそ箕子朝鮮・商族でしょう。ただし、馬韓で徐福勢力を傘下に収めていたと
見られます。

379:LUNAMASK
11/05/21 10:02:19.86 gqmywej8
>>366 >>372
岡村秀典氏の漢鏡出土グラフのある著述には第7期に播磨、淡路、阿波、讃岐、
山城、大和に漢鏡が集中し、それが纒向に移行するさまが地図で明示されて
いるが、垂仁朝のタジマモリ伝説は徐福集団が帰国し始皇帝陵に参拝した
状況を描いたものとしか考えらられない。保育園でバイアグラの話が似合わない
のと同じこと。これはこの地区を孝霊・卑弥呼が支配していたことを物語るが、
かといって彼らは神武乃至は崇神と何らかの血縁関係があるとは言えない。

380:LUNAMASK
11/05/21 10:26:00.96 gqmywej8
URLリンク(kodai.sakura.ne.jp)
3期後半の楽浪・韓・九州関係を見る時、仲哀が筑紫に入った時に伊都県主
の五十迹手がその出自を新羅の蔚山としたということは、箕子朝鮮勢力が
伊都国王になったという可能性が極めて高いことを物語るが、逆に、日本
皇室等とは無縁であったことも物語るようだ。

381:LUNAMASK
11/05/21 10:28:15.36 gqmywej8
さらに、奴国は、どうのこうの取りざたされるものの出雲として中央に進出しており、
皇室になった可能性は伊都国よりは高いと言えよう。

382:LUNAMASK
11/05/21 11:17:26.95 gqmywej8
>>379
白石太一郎 倭国誕生
岡村秀典  考古学から見た漢と倭
漢鏡7期各段階の分布
第1段階 Jimmu Period [LUNAMASK DATING]
第2段階 Himiko Period [LUNAMASK DATING]
第3段階 Sujin Period [LUNAMASK DATING]

383:出土地不明
11/05/21 11:51:09.28 bd5O+okx
◆鳥居(とりい) 【TORII】


鳥居の登場は8C。それ以前の飛鳥時代の遺物にも古墳時代の埴輪にも
弥生時代の弥生土器にもそれを象ったものは一切ない。



鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から誘い出すために
鳴かせた「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」(鶏)に因み、
神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説、インド仏教に
みられるトラナや中国の華表や鳥竿、牌楼(ぱいろう)、朝鮮半島の
紅箭門(こうぜんもん)、イスラエルの移動型神殿、雲南省とビルマ
との国境地帯に住むアカ族(英: Akha)の「村の門(ロコーン)」など
海外に起源を求める説などがある[4][5][6][7]。文献に徴すれば
古くは「於不葦御門(うへふかずのみかど)」(皇太神宮儀式帳[8])
と称して、奈良時代から神社建築の門の一種としている[9]。
いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

384:LUNAMASK
11/05/21 12:39:24.26 gqmywej8
後期古墳
宋書(南朝宋) 卷97列傳57 夷蠻 東夷 百濟國 ,本與高麗倶在遼東之東千余裏,
其後高麗略有遼東,百濟略有遼西。 百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。・・・晋書慕容
皇伝は高句麗、百済、鮮卑民族が連合軍を結成し軍事行動に出たとし、三国史記は
この戦役を 高句麗美川王(309-331)の頃とする。・・・梁書によれば晋朝(265-420)
高句麗は遼東、百済は遼西と晉平を占拠し百済諸県を設置したとする。
この百済の遼西占領こそ日本の横穴式石室時代の幕を開いた。
肥後型石室の成立
URLリンク(kobunken.web.infoseek.co.jp)
横穴式石室
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(homepage2.nifty.com)

385:LUNAMASK
11/05/21 13:01:44.17 gqmywej8
>>384
宋朝資治通鑒によれば百済近肖古王(346-375)の346年、百済は鹿山の夫与に侵
入、夫与人民は西方の燕に離散逃亡資治通鑒とほぼ同時期の斉書によれば10万の
北魏(386-534)騎兵が百済を攻めたが、488年に敗北したとされる。これは三国史記で
は東城王(488)の治世とされる。三国史記によればこれを東城王3年のこととするが、
当時高句麗には百済に敵対的で強力な長寿王があり、これは高句麗を挟んでその
南北に分かれて百済が存在していたことを意味する。

386:LUNAMASK
11/05/21 13:20:26.17 gqmywej8
>>385
斉書は495年百済東城王は魏を撃破した将軍の栄誉称号を要求したとする。南斉か
ら下賜された称号には遼西地域を意味すると取れるGuangling, Qinghe, Chengyang等
の国名がある。南北百済の統合は梁武帝 (464-549)の頃。

387:LUNAMASK
11/05/21 13:36:58.27 gqmywej8
>>384
①↓谷口古墳被葬者は神功皇后に七支刀を贈呈した百済王族
URLリンク(www.pref.saga.lg.jp)
URLリンク(www.museum.kagoshima-u.ac.jp)
随伴した百済人が↑■箱式石棺墓、▲板石積石棺墓、★横穴式石室を作る。当時
神功・仲哀は熊襲/●地下式横穴墓を制圧する勢力としてこの渡来勢力に期待したの
かもしれない。
②■▲★セットは前2世紀南シベリア匈奴・東胡ウルグ・ヘム文化で、
大鼠蔵古墳群/尾張山古墳
URLリンク(www.city.yatsushiro.kumamoto.jp)
とか、小鼠蔵一号墳
URLリンク(kobunken.web.infoseek.co.jp)
のようなものが征服者匈奴の墳墓でその他は東胡とか堅昆・雑胡のものであった
様子。
③ウルグ・ヘム文化は北方支石墓・Slab Tomb文化が燕王盧綰の匈奴亡命と共に
遼西から南シベリアに入る。その後4世紀の百済遼西制圧、6世紀の南北百済統合
と共に肥後に浸透、日本全土に普及する。筑紫の磐井が毛野に投げる捨て台詞
「同じ釜の飯を食った」と言うのは鮮卑・高句麗・百済同盟への言及か。

388:LUNAMASK
11/05/21 13:58:34.49 gqmywej8
>>380
蔚山ということは鹿山ということなので「百済近肖古王(346-375)の346年、百済は
鹿山の夫与に侵入、夫与人民は西方の燕に離散逃亡」の時に反百済の新羅経由
日本に流れ込んだ夫与人、これが五十迹手の正体とも考えられる。

389:LUNAMASK
11/05/21 15:38:22.52 hzIncNzO
>>387
肥後式石室の頃、匈奴は突厥に変貌していた。従い継体朝に肥後に入るのは突厥
であるとするのが適切。
突厥汗國 有人認爲突厥最先是生活在鹹海邊的塞種,後東走至葉尼塞河南方,受
鐵勒同化,6世紀初年突厥部落遊牧於金山(今阿爾泰山),初歸附於柔然,爲其煉
鐵奴。柔然由于長期與高車的戰爭而勢力削弱,546年,突厥断絶與柔然的關系。
550年,首領土門撃敗鐵勒,552年破柔然,自稱伊利可汗,建立政權。553年木杆可
汗在都斤山(又作“郁都軍山”、“烏德建山”,今蒙古國杭愛山)建庭。

390:LUNAMASK
11/05/21 15:45:52.95 hzIncNzO
>>389
突厥的源流並未有定論,大致可以確定的是,他們應該帶有匈奴的血統。北史記載
‘突厥者,其先居西海之右,獨為部落,蓋匈奴之別種也。又曰突厥之先,出於索國,
在匈奴之北。’在南北朝由葉尼塞河遷居至阿爾泰山。由阿爾泰山遷居至蒙古。
由蒙古前往中亞。現代土耳其人,認為自己是突厥的直系後裔,他們認為突厥的
歴史可以追溯到西元48年立國的北匈奴。別一説法是來自鹹海一帶的戴尖帽的
塞人。別一説出自平涼雜胡。
URLリンク(zh.wikipedia.org)

391:出土地不明
11/05/21 16:21:38.08 4H/XT1fb
◆鳥居(とりい) 【TORII】


鳥居の登場は8C。それ以前の飛鳥時代の遺物にも古墳時代の埴輪にも
弥生時代の弥生土器にもそれを象ったものは一切ない。



鳥居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から誘い出すために
鳴かせた「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」(鶏)に因み、
神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説、インド仏教に
みられるトラナや中国の華表や鳥竿、牌楼(ぱいろう)、朝鮮半島の
紅箭門(こうぜんもん)、イスラエルの移動型神殿、雲南省とビルマ
との国境地帯に住むアカ族(英: Akha)の「村の門(ロコーン)」など
海外に起源を求める説などがある[4][5][6][7]。文献に徴すれば
古くは「於不葦御門(うへふかずのみかど)」(皇太神宮儀式帳[8])
と称して、奈良時代から神社建築の門の一種としている[9]。
いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立している。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

392:出土地不明
11/05/21 20:15:20.59 6db9ixNL
わぉ~わぉ~わぉ~
>>388>>380
五十迹手の夫与人が商族文化をもたらした殷由来の箕子朝鮮勢力だとすると
>>334の「見る銅鐸」と「聞く銅鐸」の文化的対立からしても多いに矛盾することになりますね!!

393:出土地不明
11/05/21 21:41:12.93 6db9ixNL
わぉ~わぉ~わぉ~
>>284
>A群琵琶型=山幸=天孫族は①↓でしょうね。
① BC450年-BC300年 遼寧式銅剣
② BC300年-BC200年 細形銅剣 多鈕粗文鏡 異形銅器 小銅鐸
③ BC200年-BC100年
  前期 細形銅剣 細形無文銅矛銅戈 多鈕細文鏡 有肩斧 鈴類
  後期 有文銅矛銅戈 長鋒銅戈 前漢前期鏡
④ BC100年-0年 前漢後半鏡 末期細形銅剣 変形細形銅戈 車馬具 鉄器
⑤ 0年-AD100年 細形銅剣 変形細形銅剣 変形銅矛 後漢鏡 細形銅剣文化
⑥ AD100年-AD200年
URLリンク(www.okunomasao.com)

394:LUNAMASK
11/05/22 10:37:46.07 zj3hzMTL
>>392 五十迹手の夫与人は鮮卑、北百済、高句麗同盟軍が出動、北百済が遼西を
制圧した際、燕に逃げるものとは別に、反百済の新羅経由伊都国に入ったものでない
でしょうか。銅鐸とは時代的に全く無縁でなかったのでは。
>>393 A群琵琶型=山幸=天孫族は①BC450年-BC300年 遼寧式銅剣
URLリンク(www.okunomasao.com)
でしょう。これ以前の南韓は九州同様の南方式支石墓文化ですが、これを古辰国とし
ますか。

395: 忍法帖【Lv=17,xxxPT】 【東電 69.9 %】
11/05/22 11:11:01.04 uRqt9oAd
test

396:出土地不明
11/05/22 16:07:17.62 jytDIFJu
>>393
>A群琵琶型=山幸=天孫族は①↓でしょうね。
① BC450年-BC300年 遼寧式銅剣
URLリンク(www.okunomasao.com)

①山幸=天孫族は衛満南下~衛氏朝鮮建国・滅亡の以前に
朝鮮半島南部に到来(再上陸!?)しているんですよ

これが九州同様の①山幸=南方式甕支石墓文化人の正体ですね!!


397:出土地不明
11/05/22 16:14:13.03 jytDIFJu
わぉ~わぉ~わぉ~
>>396
>>323
出土地不明:2011/03/06(日) 14:02:56.56 ID:Pf6blP5M
南方系支石墓

1)江南の支石墓(中国名「石棚墓」)は「属于商周」時代(紀元前1700-紀元前256年)の墓葬であり
浙江省瑞安市の「浙南石棚墓」が有名。 (石棚墓の下にはすでに甕棺もある)
URLリンク(blog.sina.com.cn)

2)紀元前1600年頃になると、ほとんど同じ南方系支石墓(もちろん甕棺ももつ)が
「遼東半島(遼寧省)から吉林省南部の地域」にも出現した。

3)さらに紀元前500年頃、半島南岸(特に西部)に支石墓が大量に出現した。
URLリンク(tokyo.cool.ne.jp)

4)日本では唐津市東宇木にある「葉山尻支石墓群」が最古とされ、縄文時代晩期末から弥生時代中期の支石墓・甕棺墓がある。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
弥生初期すなわち弥生人が渡来したのはいつの事なのかが問題だが、
現在では紀元前1000年頃と考えられている。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

398:出土地不明
11/05/22 16:15:37.20 jytDIFJu
わぉ~わぉ~わぉ~

>>325
●琵琶型銅剣→「英彦山倭面土国」
□細形銅剣▲支石墓 英文wiki古朝鮮
URLリンク(upload.wikimedia.org)

これをみると支石墓の分布と琵琶型銅剣の分布は多く重なりますね!!
-------------------------------------------------------------------
而使用琵琶型銅劍時期前之年代可上追溯至 B.C1300-1000年,由平安北道龍川新
岩裡地區第三支點第二文化層出土大量青銅製衣扣、青銅製手刀,平壤金炭裡地區
第三文化層出土青銅齒子,羅津市初島地區出土大量青銅製衣扣、青銅製鈴鐺而被
證實。普遍使用琵琶型銅劍時期為BC600-500年,韓國的青銅器文化學術界一般見
解認為受西伯利亞加拉蘇文化所影響。
BC1300-1000 朝鮮北部青銅器(琵琶型銅剣を含まず)
BC1000-600 新石器に逆行 箕子朝鮮か このことと*
BC600-500 琵琶型銅剣
* >>323 南方支石墓 ↓このことが関連しているのかも。
BC1700 浙南南方支石墓出現
BC1600 南方支石墓遼寧・吉林に出現
BC1000 唐津に南方支石墓出現>
BC500 忠清・全羅道に南方支石墓

399:LUNAMASK
11/05/22 16:39:24.46 zj3hzMTL
>>396 琵琶型銅剣・遼寧式銅剣は箕子朝鮮内で起こった。南方式甕支石墓文化は
それに併行して存在したが、出自が大陸の青銅器文化である可能性はあるがそれ
自体青銅器生産能力はなかった。こういうことでは。

>>397 URLリンク(www.ncbi.nlm.nih.gov)
M122パターンが南北支石墓、M134パターンが箕子朝鮮

>>398 それは時系列を無視した重ね合わせです。

400:出土地不明
11/05/22 17:08:24.84 jytDIFJu
わぉ~わぉ~わぉ~
>>398
URLリンク(inoues.net)
>西南部地方では、遼寧式銅剣文化・松菊里型文化・南方式支石墓文化が結合した姿が見られる。
>西南部地方では、遼寧式銅剣文化・松菊里型文化・南方式支石墓文化が結合した姿が見られる。
>西南部地方では、遼寧式銅剣文化・松菊里型文化・南方式支石墓文化が結合した姿が見られる。


401:出土地不明
11/05/22 17:15:18.56 jytDIFJu
わぉ~わぉ~わぉ~
>>399
>琵琶型銅剣・遼寧式銅剣は箕子朝鮮内で起こった。

よって①A群琵琶型=山幸=天孫族は殷(箕子朝鮮)由来であり
>>69
仰韶文化人として大陸進出→セム人のシュメール文明にカラスク人(オクネフ密教)を媒介として接触
→殷(西周)→オルドス→箕子朝鮮→伽耶→九州(倭面国土)→大和・紀伊→吉野・熊野

のルートで日本に降臨したのではないでしょうか?

402:出土地不明
11/05/22 17:22:14.17 jytDIFJu
わぉ~わぉ~わぉ~
>>401
もう少し加えると
殷→箕子朝鮮→馬韓→古辰国→吉野ヶ里→九州(倭面土国)→倭・三韓統一

これが①A群琵琶型=山幸=天孫族すなわち日本人はどこから来たの正体ですね!!


403:出土地不明
11/05/22 17:30:13.67 jytDIFJu
わぉ~わぉ~わぉ~
>>354
>神功系は箕子朝鮮→馬韓→辰韓の琵琶型のアメノヒボコ系だが、
>アカルヒメ・田道間守はO3の徐福系で、蘇州夜曲等が似合いそうなのでは。
上記参照。アカルヒメ・田道間守はO3の徐福系で、蘇州夜曲等が似合いそう・・・
これこそ箕子朝鮮・商族でしょう。ただし、馬韓で徐福勢力を傘下に収めていたと見られます。

降臨ルートの馬韓で 徐福勢力を傘下に収め、ともに九州邪馬台国(吉野ヶ里)に到来した
ということですね
つまり山幸(南方系支石墓文化人)+徐福(石寨山文化人)が南方系天孫族の正体ですね!!

404:出土地不明
11/05/23 00:27:13.26 5o9Tcy2s
◆入れ墨・入墨・刺青(いれずみ) 【IREZUMI】


日本には世界最古である7000年前の入れ墨の証拠遺物がある。



紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として記録
されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
URLリンク(www.ta2.com)
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの
紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて
入れ墨として記録されている世界最古のもの

405:出土地不明
11/05/23 00:33:57.47 5o9Tcy2s





世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!

紀元前5,000年の縄文時代の土器から、入れ墨をほどこした人面器が
発見されているんだ。
URLリンク(www.tnc.ne.jp)
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!
世界的に「入れ墨」として認められる最も古い記録はなんと日本!!






406:LUNAMASK
11/05/23 09:55:33.14 cRg6u2Bs
>>400 重ね合わさるわけですね。
>>401 台湾系情報ですが、
「而使用琵琶型銅劍時期前之年代可上追溯至 B.C1300-1000年,由平安北道龍川
新岩裡地區第三支點第二文化層出土大量青銅製衣扣、青銅製手刀,平壤金炭裡
地區第三文化層出土青銅鑿子,羅津市初島地區出土大量青銅製衣扣、青銅製鈴鐺
而被證實。普遍使用琵琶型銅劍時期為BC600-500年,韓國的青銅器文化學術界
一般見解認為受シベリア・カラスク文化所影響。」
カラスク併行期北韓に青銅ボタン、手刀、鑿、ベルを製作する文化があるとされます。
この時期沿海州にも小物青銅器マルガリートフカ文化が出現します。時期的に
ザバイカル、松嫩、吉長には三足土器、吉林、青森に石包丁が出現する頃です。
箕子朝鮮領域で琵琶型が興るのはそれから400年後のことで、そこには無金属時代
があります。
>>402 >①A群琵琶型=山幸=天孫族
>>403 >つまり山幸(南方系支石墓文化人)+徐福(石寨山文化人)が南方系天孫族の正 >体ですね!!
英彦山周辺山岳地帯にいたグループというか。

407:LUNAMASK
11/05/23 10:13:15.03 cRg6u2Bs
天孫地祇
中国では天と地のまつり(郊祀(こうし))と祖先のまつり(宗廟(そうびよう))の祭りがある
が、天と地を祀るのが本来の意義で、天と地を差別する考えはない。西モンゴルで
トゥーヴァ山地と平地部を区別してトゥーヴァを高いウリャンハイと呼ぶのにそれほど
差別的な意味はない。高句麗、高夷の高いと言うのもこうした地理的区別であり、
低地にすむ夫与に対しての高句麗と言う意味と考えられる。

408:LUNAMASK
11/05/23 10:34:16.04 cRg6u2Bs
>>406 参照
「1954年、山形県飽海郡遊座(ゆざ)町吹浦(ふくうら)の三崎山遺跡から刀身も柄の
部分も一体鋳造である26cmの青銅刀子(とうす)が発掘された。2001年にこの青銅
刀子の鉛の成分が古代中国の殷文明の遺跡から発掘された青銅刀子と同じである
ことが科学的に証明された。三崎山遺跡からは縄文時代中期から後期のの土器や
石槍などが伴出している。中国の殷王朝は紀元前17世紀から11世紀にかけて
栄えた太古の王朝である。」
URLリンク(blog.goo.ne.jp)

409:LUNAMASK
11/05/23 10:59:14.02 cRg6u2Bs
>>384-390
北百済が制圧した遼西と言うのは烏桓の故地と一致する。
つまり、百済に従って九州に移民した騎馬民族の主体は旧烏桓族であったのだはなか
ろうか。琵琶湖の烏丸半島、和邇川等の地名は邪馬台国時代のものではなく、応神朝
以降のものである可能性がある。烏桓と和邇、丸は音が通じる。

410:LUNAMASK
11/05/23 11:03:07.68 cRg6u2Bs
承前
賀茂川、桂川、上賀茂/下賀茂神社など京都の地名は南シベリア地名に合わせて
いる。河川合流点に神社を祀るのもモンゴリア北部由来と見られる。つまり、平安京
は旧烏桓族の文化に基づいて造られている可能性がある。

411:出土地不明
11/05/23 11:54:44.05 Kh03thfm
◆歌垣(うたがき) 【UTAGAKI】


歌垣は百済の帰化人から伝わっている。



翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

412:LUNAMASK
11/05/23 15:27:29.76 cRg6u2Bs
>>401 >セム人のシュメール文明にカラスク人(オクネフ密教)を媒介として接触
私は↓オークネフ文化がカラスク→タガール→ウルグヘム→烏桓→吉野と流れたと
考えています。
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
しかし、これはシュメールに源があるとは思いません。オークネフ文化はアファナシエ
ヴォ文化の影響の基に生まれ、後に南下してシュメールの後継BMAC文化、インダス
文化に影響を与えることは考えられるが、その逆はないと思いますが。

413:出土地不明
11/05/23 16:23:22.61 xxSK6iGU
なあ、同時期の
チョンの鉄器史跡がないんだけど。買った鉄器しかないんだけど

そして、シナの鉄器の始まりがいつごろなのかきになるんだけど。2世紀くらい?


ぶっちゃけ鉄器の普及は、日本が百済の鉄おさえて普及させたのが
日本、シナでの鉄器の始まりなんだよな。

414: 忍法帖【Lv=18,xxxPT】 【東電 78.5 %】
11/05/23 19:41:18.98 XOdh1uC5
test

415:出土地不明
11/05/25 01:03:38.21 Yljhc5GV
鉄器は沿海州などの北方では鉄器時代の前に古鉄器時代という時代があり、
早くから取り入れられていたらしい。

日本の鉄器は朝鮮よりもむしろ沿海州から入って来たのではないか?

416:LUNAMASK
11/05/25 08:10:50.80 GIskarYS
URLリンク(www.staff.hum.ku.dk)
パジリクの鋳鉄は中国からの輸入だろう。朝鮮・沿海州のスキタイと言うのは
ポリツェ鍛鉄の可能性があり、日本の最早期のものもこうした鍛鉄の可能性はある。
しかし、燕の鋳鉄の輸入が始まり、考古学的に分けることは技術的に困難では。

417:出土地不明
11/05/25 10:07:44.73 D+9mFwUK
製鉄で言えば「たたら」は砂鉄を使って野焼きで作る
これは日本独自で
どこからか伝播した技術では無いと言える

ヤマタノオロチ伝説も有る
これは大国主の国譲りの前の時代の神話だ
日本の製鉄は世界最古の可能性が有る
ヤマトの敵だった出雲の調査は遅れてる

418:出土地不明
11/05/25 11:51:14.47 aWim71bh
◆貫頭衣(かんとうい) 【KANTOUI】


貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。



【貫頭衣 (かんとうい)】一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、
そこから頭を貫いて(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる
原始的な衣服の形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
URLリンク(www.frontstyle.com)

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
URLリンク(homepage1.nifty.com)

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
URLリンク(www.h6.dion.ne.jp)

419:出土地不明
11/05/25 11:58:49.73 aWim71bh





古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
URLリンク(home.att.ne.jp)

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
URLリンク(www.psats.or.jp)






420:LUNAMASK
11/05/27 08:54:22.17 Hn9MF473
>>416
中国前8世紀錬鉄生産
晋静公墓(没前537年) 鉄製掘削具
URLリンク(www.staff.hum.ku.dk)
5世紀/戦国呉における高炉/鋳鉄の発明
[中国ではすでに紀元前から溶けた鉄が鋳鉄として製造されていたのである。
中国でそれが可能となった理由として,
青銅のるつぼ法および
火炎技術の製鉄への適用,
融点の低い含リン鉱石の存在,
石炭の早くからの使用,
水車および
複動ピストンふいごの使用など
が挙げられている。
要は中国人の高い技術能力の所産ということであろう。]
URLリンク(en.wikipedia.org)
刀工 アマクニ(天国)日本刀発明
URLリンク(ja.wikipedia.org)
弥生・たたら炉→平安・たたら吹きTatara steel making method
URLリンク(ja.wikipedia.org)

421:LUNAMASK
11/05/27 09:04:46.51 Hn9MF473
●それ以前は銅鐸や銅剣などの銅器を倭鍛冶(ヤマトカヌチ)が製造しており、なかでも
鉱石の識別をする鐸石別(ヌテシワケ)は、先進技術者とされ、崇神天皇の孫に鐸石別命
の名があるように人々に崇敬されたが、鍛冶は部民(べみん)とされた。[細形銅剣
か・ 鐸石別(ヌテシワケ)→難升米(生部)では]
●『日本書紀』天地開闢神話には、国常立尊(クニトコタチ)、国狭槌尊(クニサツチ)、豊斟渟尊
(トヨクムヌ)が登場するが、豊斟渟尊の実際の発音は「ボシントイ」であり、パイカル湖
一帯のブリヤート族伝承の「鉄鍛冶神」の名だとされる。つまり、北廻りに東北へ渡来
して陸奥に独自の製鉄王国を立てたオホーツク文化圏の人々の神と同一神格だとい
うのである。
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
  その後、人皇の御代にはいると綏靖天皇記に倭鍛冶部の刀匠、天津真浦に、また
崇神天皇記には天目一箇命の後裔に剣を造らせたと記してあります。これらはいずれ
も大和民族特有の刀剣です。また崇神天皇は大和鍛冶部に命じて造らせた剣十柄、
弓二張などを常陸国の鹿島神宮に献納されました。これは我が国で刀剣類を神社
仏閣に奉献した最初のものです。

  垂仁天皇の三十九年天皇は、太刀佩部(当時の軍閥であった物部、大久米部の
内から精鋭の一部隊)を創設し、皇子五十瓊敷命(イソタマシキノミコト)を将軍に任じ、
さらに大和鍛冶部に属する川上伴に、一千振にも及ぶ大量の剣を造らせて、非常
事態に備え、宮中の警備に当らせました。これが後世に授刀舎人(ジュトウノトネリ・
宮中護衛職)となりました。これらは伝統の大和鍛冶部を重んじたものであり、まだ
外国から鍛冶の移住がほとんどなかったことを意味しています。
URLリンク(www.n-p-s.net)

422:LUNAMASK
11/05/28 11:29:57.31 Z3Fk3Azg
下記経済別民族分布図参照
〇[北海道樺太沿海州]     寒帯森林狩猟漁労者 40.1% C1/D2 原住民
①[北韓遼寧華北・BMAC]    乾燥地農民  17%  O3  華北系   支石墓甕棺
②[満州]           温帯草原森林ステップ農民 23.6% O2b1 満州系   墳丘墓
③[本州沖縄]         多湿熱帯亜熱帯農民 5%   O3  江南系   前方後円墳
④[モンゴリア<->ウクライナ] 草原半砂漠遊牧民 14.3%  O2b  アルタイ系 横穴
石室墓
左端第一欄
熱帯森林狩猟民・採集民
熱帯沿岸収集民・漁民
ステップ半砂漠狩猟民・漁労民
温帯採集民・漁民
温帯大河流域沿海部漁民
寒帯森林狩猟漁労民○
タイガ-ツンドラ及びツンドラ狩猟民
第二欄
極地海獣狩猟民
熱帯マニュアル(くわ)農民
山地マニュアル農民・牧畜民
乾燥ステップ山麓マニュアル農民
温帯森林マニュアル農民
第三欄
温帯寒帯牧畜民・農民
草原半砂漠遊牧民④
高地遊牧民
寒帯林狩猟民・トナカイ牧畜民
ツンドラ・トナカイ牧畜民
第四欄
乾燥地農民①
多湿熱帯亜熱帯農民③
温帯草原森林草原農民②
URLリンク(www.rejmers.ru)

423:LUNAMASK
11/05/28 15:35:50.15 i1+SIPrl
>>416
パジリク 訂正↓
「新疆とモンゴルの国境に近い南シベリアパジリクで発掘された5座のシベリア凍結墓
として知られる墳墓は全て鉄製出土品を含む。鉄製の轡、短剣、ヘアピンである。
そのすべては錬鉄で、鋳鉄は皆無である。浮動年輪年代測定によってこれら墳墓は
48年間にかけて建設されたことが分かっている。一般的年代測定によると絶対年代
は前5世紀後期であり、放射性炭素測定とも整合する。これら墳墓は全て明確に
スキタイの影響を示しており、出土品のほとんどは中国から搬入されたものであった。」
つまり、前5世紀のパジリクは燕との接触はあったであろうが、呉乃至は中原と接触し
ていない。この頃鋳鉄はまだ燕に及んでいなかったことになる。

424:出土地不明
11/06/01 23:03:03.44 Uvqapl+B
◆歌垣(うたがき) 【UTAGAKI】


歌垣は百済の帰化人から伝わっている。



翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣(うたがき)
には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕した
との記録が残されています。(続日本紀)
URLリンク(www18.ocn.ne.jp)

弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が
歌垣をして慰めたという
URLリンク(www.shiga-miidera.or.jp)

歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており
URLリンク(www.furutasigaku.jp)

425:LUNAMASK
11/06/02 12:54:50.16 Af8mYRVv
ウルムチ南西75km Kangjiashemenji 浅浮き彫り岩絵は前17-8世紀の約千年間
継続した歌唱・子作り祭典を描いている。
URLリンク(www.csen.org)
URLリンク(www.csen.org)
URLリンク(www.csen.org)
URLリンク(www.csen.org)
ルーマニア・ククテニ-トリポリエからタクラマカンに入り中原・北韓農耕社会に
多大な文化的影響を与えたものと考えられる。

426:LUNAMASK
11/06/02 13:34:45.90 Af8mYRVv
司母(女性戦士・祭司)のステータスは銅鏡、(儀典の器)銅フク、貝殻装身具の専有に
より公知される。司母は家族、氏族、部族の葬礼、神を祀り、女神を具現、集落、部族
の安寧をもたらす予知、神がかりを行った。
婦好の司母辛銅鼎はスキタイ銅フクと同じ効力を持っていた。銅鏡と貝殻は異界の霊
を見、その声を聞く託宣に使用された。
URLリンク(www.peoplechina.com.cn)
「商代の獣面紋は主に「司母」が使う重要な器を飾っている。甲骨文には「女己御獣」と
いう表現があり、これは「司母己」が「天獣」に乗り、天に昇ることを意味し、「司母」と
天獣の関係を示している。」とくにスキタイではネコ科猛獣が御獣の獣であった。
URLリンク(www.peoplechina.com.cn)
卑弥呼に神獣鏡が必要なのはこの理由による。

427:LUNAMASK
11/06/03 14:37:20.29 zudqHPqY
新疆におけるコーカソイドの動き
Qawrighul Tocharians R1b BC2000-1500
Scythians R1a1 BC900-400
Sogdians R1b BC100-AD100
URLリンク(i39.photobucket.com)

428:LUNAMASK
11/06/03 14:51:32.20 zudqHPqY
>>427
Proto-European=トカラ人 NHKシルクロード小河墓遺跡のミイラ ルーマニアより
Mediterranian=スキタイ人 ヒッタイト崩壊後四散した犬戎→騎馬民族
Pamir-Fergana=ソグド人 ガンダーラ文化

429:LUNAMASK
11/06/03 15:03:45.67 zudqHPqY
右上 スキタイ 左中 トカラ 右下 ソグド人
URLリンク(i39.photobucket.com)

430:LUNAMASK
11/06/03 15:10:00.35 zudqHPqY
新疆西部国境:北から順に、トカラ人、ソグド人、スキタイ人、東から匈奴
URLリンク(i39.photobucket.com)

431:LUNAMASK
11/06/03 15:39:06.89 zudqHPqY
殷は賓客としてコーカソイド王族を含み、これを倒した周政権もアンドローノヴォ文化
の影響下にあった。アンドローノヴォ文化はヤムナ文化の後継者であったが、他方
コーカサスのマイコープ・ドルメン/箱式石棺墓文化は既にヤムナ文化に取りこまれて
いた。
「召方は、商代に西史召と呼ばれ、西方の祭祀権を商王朝から委譲されるほどの
有力な与国でした。 召は特に古くから諸族として力を掌握しており、河南西部の
古族でした。召は商王朝の文化圏に属していましたが、宗教的に特殊な伝統を持つ
氏族だったようです。」
URLリンク(www006.upp.so-net.ne.jp)
召公が統治した燕は遼東に広がっていたが、ドルメン・箱式石棺墓文化はここから
朝鮮半島、満州、南シベリア、日本へと拡散した。

432:LUNAMASK
11/06/03 15:56:51.49 zudqHPqY
地下式横穴墓・地下式板石積石室墓・土坑墓
URLリンク(www.jomon-no-mori.jp)
URLリンク(kobunken.web.infoseek.co.jp)
これらは黒海北岸ヤムナ文化→アファナシエヴォ文化→新疆トカラ・スキタイ
文化→燕へと移動し、最終的に南九州に定着した。つまり、南九州は
スキタイ文化の終着駅であり、同時に日本後期古墳文化の始発駅となったのだ。

433:LUNAMASK
11/06/03 16:28:02.96 zudqHPqY
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)

434:出土地不明
11/06/04 08:59:31.07 xJ9ulYd+
◆熟寿司、馴れ寿司、馴鮓、熟鮨(なれずし) 【NAREZUSHI】


なれずしの登場は8C。文献時代に入って100年以上もなれずしを
表す「鮓」「鮨」といった漢字自体がないところから見て、
遣唐使がこれらの漢字とともに中国から輸入してきたものと思われる。



日本における文献初見は『養老令』(718年)の「賦役令」で、鰒(アワビ)鮓、
貽貝(イガイ)鮓のほかに雑鮨が見える[40]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

魚肉の貯蔵形態としてのなれずし(鮓)は東南アジアに点々と見られ、
中国では鮓(サ)、台湾の高砂族ではトマメ、トワメ、カンボジアでは
ファーク(phaak)、タイではプラ・ハー、プラ・ラー、ボルネオの
イバン族ではカサム(kassam)、陸ダヤク族ではトバ(tobah)と呼ばれる[4]。
この他にもラオスやフィリピンルソン島の一部、中国南部の苗族などのものが
知られている。中国では河南の非漢人文化に発し、徐々に華北地方にも広がり
南宋時代に大流行した
URLリンク(ja.wikipedia.org)

435:LUNAMASK
11/06/04 10:41:06.93 zhlaU6g2
>>432
土坑墓(古ウクライナ/ヤムナ・薩摩)
地下式横穴墓(コーカサス北麓平原/カタコーム・大隅)
地下式板石積石室墓(外バイカル・ホロンバイル/肥後)[板石封頂壘砌土壙墓]
---------------------------------------------------------
遼寧型二段式大石蓋石板石立砌墓(二段式箱式石棺墓)
[箱式石棺墓はユーラシア全域]
穹窿石障横穴石室墓(南シベリアUlug-Hem・八代)
[冒頓単于堅昆制圧時の南シベリア]

436:LUNAMASK
11/06/04 10:59:53.42 zhlaU6g2
どこからか持ってきた、リロケートしたとしているが、↓ちと、乱暴な感あり。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(en.wikipedia.org)
そもそも地下式であり、板石を横積(壘砌)して玄室壁を作っていたはずなんだが。

437:LUNAMASK
11/06/04 11:14:26.21 zhlaU6g2
遼東半島支石墓綜述 許先生より
歸結起來,遼東半島的積石墓、石棚、大石蓋墓、石棺墓等,它們之間應有一定
聯系,其年代順序是:
積石墓出現較早,其上限到新石器時代晩期;BC1200年以前
其次是石棚和大石蓋墓,它們主要是青銅時代;BC1200年前後
石墓棺的時代晩,主要是春秋戰國時代的墓葬。BC1200年-BC200年頃
URLリンク(blog.sina.com.cn)

438:LUNAMASK
11/06/04 11:37:07.16 zhlaU6g2
上記ソースでは支石墓を築いたのは中原東部沿海部の東夷ではないかとしている。
所謂東夷是先秦時期居住在我國東部沿海的一個族群,他們的祖先可以上推至
傳説中的少昊、太昊兩個氏族。東夷本身也並非成分單一,它包括淮夷、徐夷、
来夷、東北夷等,典籍中有所謂“九夷”之説,證明其族群之多,勢力之大。
傅朗雲先生在《東北民族史略》一書中甚至把遼東半島石棚文化的主人精確爲
“陽夷”一支。嚴文明先生推測石棚文化主人可能爲夏代的“島夷”。
要するに、コーカサスドルメン文化を持っていた商・周の為政者は蛮族東夷
(日本での弥生渡来人人骨と分布領域が一致している)を治めるために支石墓
建設を利用したのであろう。

439:LUNAMASK
11/06/04 12:41:21.93 VlluK6ng
>>438 遼東・南韓・九州と年代的/墓制・土器的に一致する南インド
「南インド<巨石文化>は、現在の南インドの範囲のみならず、北はデカン高原北部
のマハーラーシュトラ州ナーグプル周辺から、南は半島先端近くまで、さらには、
スリランカ北部・中部にまで広がっています。年代的には、紀元前1000年頃に始まり、
紀元後1世紀まで続いたと考えられています。」
「馬具の出土などから騎馬遊牧民族によってもたらされたという説もありますが、土器
に記された人名の特徴や、続く初期歴史時代との連続性を考えると、この文化の主な
担い手は、ドラヴィダ人でだとするのが、もっとも妥当だと考えられています。
ドラヴィダ人が南下を始め、デカン高原に入ったのが紀元前1300年ころ、そこで分か
れたグループがカルナータカ、インド半島最南端に到着したのが紀元前800~500年
ころだと考えられるので、<巨石文化>の時代と重なります。
また、黒縁赤色土器をもつインド中西部の金石併用諸文化がアーリヤ系集団にかか
わるものである可能性があることから、アーリヤ系集団をも含めた、多様な民族集団
がかかわった複合的な社会のなかで形成されてきた可能性も考えられています。」
URLリンク(bbs.jinruisi.net)

440:LUNAMASK
11/06/04 15:00:57.24 VlluK6ng
ヒンズー教マヌ法典による支石墓・メンヒル等巨石建立慣習の解釈は葬儀執行者、
長子による死者・祖先崇拝の通過儀礼であるとしている。インドでは現在も石は死者と
この世を分けるものと死、火葬後10日間遺族の家に石を置く慣習があると。
URLリンク(sites.google.com)

441:出土地不明
11/06/04 16:43:34.48 kye/DlVl
◆熟寿司、馴れ寿司、馴鮓、熟鮨(なれずし) 【NAREZUSHI】


なれずしの登場は8C。文献時代に入って100年以上もなれずしを
表す「鮓」「鮨」といった漢字自体がないところから見て、
遣唐使がこれらの漢字とともに中国から輸入してきたものと思われる。



日本における文献初見は『養老令』(718年)の「賦役令」で、鰒(アワビ)鮓、
貽貝(イガイ)鮓のほかに雑鮨が見える[40]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

魚肉の貯蔵形態としてのなれずし(鮓)は東南アジアに点々と見られ、
中国では鮓(サ)、台湾の高砂族ではトマメ、トワメ、カンボジアでは
ファーク(phaak)、タイではプラ・ハー、プラ・ラー、ボルネオの
イバン族ではカサム(kassam)、陸ダヤク族ではトバ(tobah)と呼ばれる[4]。
この他にもラオスやフィリピンルソン島の一部、中国南部の苗族などのものが
知られている。中国では河南の非漢人文化に発し、徐々に華北地方にも広がり
南宋時代に大流行した
URLリンク(ja.wikipedia.org)

442:出土地不明
11/06/04 16:44:37.31 kye/DlVl
◆熟寿司、馴れ寿司、馴鮓、熟鮨(なれずし) 【NAREZUSHI】


なれずしの登場は8C。文献時代に入って100年以上もなれずしを
表す「鮓」「鮨」といった漢字自体がないところから見て、
遣唐使がこれらの漢字とともに中国から輸入してきたものと思われる。



日本における文献初見は『養老令』(718年)の「賦役令」で、鰒(アワビ)鮓、
貽貝(イガイ)鮓のほかに雑鮨が見える[40]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

魚肉の貯蔵形態としてのなれずし(鮓)は東南アジアに点々と見られ、
中国では鮓(サ)、台湾の高砂族ではトマメ、トワメ、カンボジアでは
ファーク(phaak)、タイではプラ・ハー、プラ・ラー、ボルネオの
イバン族ではカサム(kassam)、陸ダヤク族ではトバ(tobah)と呼ばれる[4]。
この他にもラオスやフィリピンルソン島の一部、中国南部の苗族などのものが
知られている。中国では河南の非漢人文化に発し、徐々に華北地方にも広がり
南宋時代に大流行した
URLリンク(ja.wikipedia.org)

443:出土地不明
11/06/04 16:45:39.18 kye/DlVl
◆熟寿司、馴れ寿司、馴鮓、熟鮨(なれずし) 【NAREZUSHI】


なれずしの登場は8C。文献時代に入って100年以上もなれずしを
表す「鮓」「鮨」といった漢字自体がないところから見て、
遣唐使がこれらの漢字とともに中国から輸入してきたものと思われる。



日本における文献初見は『養老令』(718年)の「賦役令」で、鰒(アワビ)鮓、
貽貝(イガイ)鮓のほかに雑鮨が見える[40]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

魚肉の貯蔵形態としてのなれずし(鮓)は東南アジアに点々と見られ、
中国では鮓(サ)、台湾の高砂族ではトマメ、トワメ、カンボジアでは
ファーク(phaak)、タイではプラ・ハー、プラ・ラー、ボルネオの
イバン族ではカサム(kassam)、陸ダヤク族ではトバ(tobah)と呼ばれる[4]。
この他にもラオスやフィリピンルソン島の一部、中国南部の苗族などのものが
知られている。中国では河南の非漢人文化に発し、徐々に華北地方にも広がり
南宋時代に大流行した
URLリンク(ja.wikipedia.org)

444:LUNAMASK
11/06/04 17:03:29.50 VlluK6ng
>>440
コーカサスドルメンの研究により多くのドルメン儀式、機能が判明してきたが、そのひと
つに亀甲墓と同様の機能がある。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
背振周辺、南韓、浙江省、遼寧省の支石墓等と合わせ一つの文化圏が存在していた
可能性がある。

445:LUNAMASK
11/06/05 12:59:31.20 Rrr5/vgR
>>444
仮説
隋煬帝元年605年隋琉球征討時琉球人を捕獲、大陸に連行した。この頃の琉球人は
突厥系コーカソイドと百済系モンゴロイドの混淆であったが、17世紀末福建省から
その子孫が台湾、沖縄に帰還移住するに従い、隋時代の突厥系遊牧民が持っていた
亀甲墓が復活した。しかし、コーカソイドDNAはその後の中国・モンゴリアの歴史的
拡大、混乱の過程でほとんど西方に帰還した。
URLリンク(big5.am765.com)
北史卷九十四 列傳第八十二 流求國
URLリンク(www.geocities.jp)

446:LUNAMASK
11/06/05 15:46:48.60 Rrr5/vgR
亀甲墓
印欧語原郷は球形アンフォラ土器文化(Globular Amphora culture)。
URLリンク(en.wikipedia.org)
メソポタミア文化は漢が朝鮮半島に楽浪郡等4郡を設置するようにコーカサス北麓に
マイコープ文化(ドルメン文化)を設置する。↓
URLリンク(ja.wikipedia.org)
Maykopマイコープ東南50kmには弁韓に集合する東夷諸族のようにノヴォ
スヴォボドナヤNovosvobodnayaドルメン文化が生まれる。
沖縄を中心とする亀甲墓は原始印欧語族の慣習を強くとどめている。

447: 忍法帖【Lv=4,xxxP】 【東電 70.8 %】
11/06/05 17:27:50.65 kHv/HM9v
test

448:LUNAMASK
11/06/06 08:48:33.13 0a6Pe1hn
亀甲墓の祖型、ロシア・クラスノダール黒海沿岸ドルメン
URLリンク(www.relaxlazarevskoe.com)
亀甲墓
URLリンク(ja.wikipedia.org)
この地方からヒッタイト、ミケーネ、守礼門の城門、グスク、獅子頭、シーサ等が
生まれた。騎馬民族である突厥クマン族は久米島に名を残し、馬頭の踊りは
現在ポーランドに残る。

449:LUNAMASK
11/06/06 08:58:50.48 0a6Pe1hn
マドリードのシベーレス広場にある、ライオンに牽かれたキュベレーの像。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
これがシーサの祖型。その源は印欧語発生源チャタル・フユクにある。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
印欧語はその後ドナウ河中遊に移動、その後東西方言に分裂。ヒッタイト語、トカラ語は
西部方言群がアナトリアに帰還したもの。亀甲墓はキュべレの子宮なのだ。

450:LUNAMASK
11/06/06 09:05:51.90 0a6Pe1hn
ヒッタイト獅子門
URLリンク(ja.wikipedia.org)
ミケーネ獅子門
URLリンク(upload.wikimedia.org)
首里城歓会門
URLリンク(www.okinawainfo.net)
これはまさに世界遺産だ。

451:LUNAMASK
11/06/06 09:23:38.16 0a6Pe1hn
「ヒッタイト帝国が崩壊したことで、キリキア、シリア北部で行っていたと考えられて
いる鉄の浸炭は海の民の動乱により各地へ広がった。」700年後、それは呉で始ま
る。が、中国にはそれまで塊鉄炉・錬鉄知識すらなかった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)前1200年のカタストロフ
新疆における鉄の出土頻度
URLリンク(www.staff.hum.ku.dk)
URLリンク(www.staff.hum.ku.dk)
明らかに、ヒッタイトは西周期に西方から侵入している。犬戎だ。

452:LUNAMASK
11/06/06 09:30:07.76 0a6Pe1hn
馬、犬戎を制する秦氏は九州において隼人を制圧している。秦氏はアブラハム教
(ユダヤ・イスラム・キリスト)以外に拝火教、ミトラス・魔多羅教等ありとあらゆる
宗教を網羅している。秦氏の渡来以降日本は仏教に傾斜して行く。

453:LUNAMASK
11/06/06 09:35:08.52 0a6Pe1hn
秦氏は夏・商王朝に馬・二輪車を納入した。エジプトで馬・二輪車を納入してファラオに
なったヒクソスはモンゴロイド。当時、そんなにモンゴロイドがごろごろしていたとは
考えられない。私はヒクソスから帰還した渡来人として秦氏に的を絞って考察を重ねて
きた。今となってもやはりあれは秦氏ではないかと考えている。

454:LUNAMASK
11/06/06 09:49:36.91 0a6Pe1hn
>>451
「シェッフェルによれば後者の説には裏づけがあり、ウガリット、ハットゥシャで発見され
た文書によればヒッタイト最後の王、シュッピルリウマ2世は「国中の船を大至急、全て
回す」よう命令しており、オロンテス川流域の小麦をキリキアへ運ぶのと同時に、王、
その家族、軍隊を移動させようとしていた。これはシュッピルリウマ2世が首都を捨てよ
うとしていたことが考えられ、これについてシェッフェルは旱魃と地震により、ヒッタイト
に繰り返し飢餓が発生していたと分析している。
さらにシェッフェルによればトルコのアナトリア地方は地震群発地帯であり、地震に
より火災が発生したことで各都市が火災の跡が残っているとしており、ウガリット時代
の地層は稀に見るぐらいの激震で揺さぶられていたとしている。」
「ウガリット時代の地層は稀に見るぐらいの激震で揺さぶられていた」←これが原因だ
ろう。

455:LUNAMASK
11/06/06 10:12:05.72 0a6Pe1hn
>>435
亀甲墓文化人が前五世紀の呉における爆風炉発明等を含む製鉄技術革新に関与した
ものであるとすれば、南西諸島・琉球への亀甲墓文化人渡来は、4世紀に渡来する
秦氏とは別なもので、その重心は台湾・福建方面にあったという可能性もある。
更に、雲南・四川方面にはスキタイ文化の痕跡があるのでそちらからの福建・浙江省
方面への移動と言う線もある。また、更には、首露王伝説にある通りインド・スキタイの
移動の線もある。>>445 はこうした点においてあくまでも仮説である。

456:出土地不明
11/06/06 12:01:25.88 AzFpqN1C
◆高床式建物(たかゆかしきたてもの) 【TAKAYUKASHIKI-TATEMONO】


長江江南の高床式建物は、5000年前には既に「木骨泥墻」(もっこつでいのう)に
取って代わられていた。



>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある
>石家河遺跡がやはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、
>はるかに巨大です。壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより
>都市だとされています。時代は石家河文化時代(前2600~2000年)です。
>右の情報を横並べにしてみると、次のようになります。

>  ①河姆渡第3~第4期(前5000~前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  ②屈家岺期(前3000~前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  ③石家河期(前2600~前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
URLリンク(www.kyoto-up.or.jp)

457:LUNAMASK
11/06/06 14:00:16.89 0a6Pe1hn
ポートホールスラブ「巨石考古学で言うポートホールスラブとは石室墓の入り口を
形成する穴のあいた立石を指す。この穴は通常円形だが、四角とか、ノッチカットをさ
れた二枚の組み合わせ石板というのもある。それらは[フランス・ベルギー]Seine-
Oise-Marne文化の長屋墳でよく見られる。」
URLリンク(en.wikipedia.org)
亀甲墓はこの分類によるとフランスベルギー型で、
URLリンク(www.google.co.jp)
ノヴォスヴォボドナヤ型は、
URLリンク(www.dmitralex.ru)
南インド→【シスト(箱式石棺状墓)】板石を組み合わせて、地下、または半地下式に
石室構造を構築する。舷窓(ポートホール)と呼ばれる開口部が、側石の一枚に開け
られたものがあることが特徴的である。舷窓は、ヨーロッパや、コーカサス地方、
中近東の巨石文化にも見られる特徴であり、注目される。
URLリンク(bbs.jinruisi.net)
南インドから日本にとなると「大野晋」タミール語説を補強することになる。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

458:LUNAMASK
11/06/06 14:05:02.15 0a6Pe1hn
『続日本紀』光仁天皇宝亀九年(778)に、「去る天平神護年中に、大隅国の海中に神
が島を造った。その名を大穴持神という。『神社仏閣帳』には、奥州津軽山から西国の
守護神として当地に来たとある。
URLリンク(kamnavi.jp) 御立派すぎる「石灯籠」
URLリンク(kamnavi.jp)
時代的にぴったりする。奥州津軽山ではなく、トカラ列島からではなかろうか。

459:LUNAMASK
11/06/06 14:29:41.85 0a6Pe1hn
>>453-454
秦(はた)とはずばりヒッタイトのことではなかろうか。

460:LUNAMASK
11/06/06 14:46:41.39 0a6Pe1hn
が、ヒッタイトの故土を球形アンフォラ土器文化(Globular Amphora culture)
URLリンク(en.wikipedia.org)
と見た場合、日本に球形アンフォラ土器を持ち込んだのが新沢千塚で、その土器は
ここにある提瓶↓
URLリンク(inoues.net)
URLリンク(inoues.net)
ところが新沢千塚は秦氏とは別の東漢氏だとされている。この辺がちと気がかりな
ところ。

461:出土地不明
11/06/06 15:27:11.02 AzFpqN1C
◆高床式建物(たかゆかしきたてもの) 【TAKAYUKASHIKI-TATEMONO】


長江江南の高床式建物は、5000年前には既に「木骨泥墻」(もっこつでいのう)に
取って代わられていた。



>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある
>石家河遺跡がやはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、
>はるかに巨大です。壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより
>都市だとされています。時代は石家河文化時代(前2600~2000年)です。
>右の情報を横並べにしてみると、次のようになります。

>  ①河姆渡第3~第4期(前5000~前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  ②屈家岺期(前3000~前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  ③石家河期(前2600~前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
URLリンク(www.kyoto-up.or.jp)

462:出土地不明
11/06/06 15:28:02.51 AzFpqN1C
◆高床式建物(たかゆかしきたてもの) 【TAKAYUKASHIKI-TATEMONO】


長江江南の高床式建物は、5000年前には既に「木骨泥墻」(もっこつでいのう)に
取って代わられていた。



>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある
>石家河遺跡がやはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、
>はるかに巨大です。壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより
>都市だとされています。時代は石家河文化時代(前2600~2000年)です。
>右の情報を横並べにしてみると、次のようになります。

>  ①河姆渡第3~第4期(前5000~前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  ②屈家岺期(前3000~前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  ③石家河期(前2600~前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
URLリンク(www.kyoto-up.or.jp)

463:出土地不明
11/06/06 15:29:02.95 AzFpqN1C
◆高床式建物(たかゆかしきたてもの) 【TAKAYUKASHIKI-TATEMONO】


長江江南の高床式建物は、5000年前には既に「木骨泥墻」(もっこつでいのう)に
取って代わられていた。



>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある
>石家河遺跡がやはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、
>はるかに巨大です。壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより
>都市だとされています。時代は石家河文化時代(前2600~2000年)です。
>右の情報を横並べにしてみると、次のようになります。

>  ①河姆渡第3~第4期(前5000~前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  ②屈家岺期(前3000~前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  ③石家河期(前2600~前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
URLリンク(www.kyoto-up.or.jp)

464: 忍法帖【Lv=6,xxxP】 【東電 80.5 %】
11/06/06 18:23:23.17 De7WKhoE
test

465:LUNAMASK
11/06/08 15:27:36.23 ygvGxRmU
馬、二輪車、円形集合住宅発祥の地シンタシュタを画像で見る
URLリンク(www.google.com)
中国には夏商期に赤狄/アファナシエヴォ、西周期に白狄/アンドローノヴォ・スキタイ
として黄河上流より入る。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
この中から客家が生まれ、長江沿いに南下、東進、南下、
URLリンク(ja.wikipedia.org)客家
掃墓敬祖 薄棺下葬 検骨還郷
URLリンク(hakka.shihkang.gov.tw)
遂には福建に至り囲楼を残す。
URLリンク(chinasaloon.net)

466:LUNAMASK
11/06/08 15:34:25.44 ygvGxRmU
>>445
客家の動きと軌を一にするごとく、沖縄においても、中国大陸で元が駆逐され、
江南系の明が建国するのに同期して沖縄三山時代
URLリンク(ja.wikipedia.org)
沖縄中山王国
URLリンク(ja.wikipedia.org)
が成立するが、歴史的に >>445 で見た突厥系がぶり返したと考えてよかろう。

467:LUNAMASK
11/06/08 15:43:06.18 ygvGxRmU
秦氏がヒッタイトと似た歴史的運命にあることは間違いないが、秦氏の関係する
稲荷信仰はどこから来たのだろうか。これに対する私の仮説は
晋 狐偃だ。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
この狐偃こそ秦氏の盟友、犬戎、スキタイ・サカ族であったと考えたい。

468:LUNAMASK
11/06/08 15:55:30.83 ygvGxRmU
犬戎が政権側に重用されるケースは日本にもあり、坂上田村麻呂がまさに
コーカソイド犬戎(サカエとはイラン語で犬戎)、タムラとはイスラム界では犬戎の
祖とされる人物、田村麻呂の祖父は犬養(ずばり、犬戎、サカエ族)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
秦氏とは別に日本には犬戎も入っていたということだ。

469: 忍法帖【Lv=7,xxxP】 【東電 79.8 %】
11/06/08 18:09:37.62 UP7n55h9
test

470:LUNAMASK
11/06/09 10:55:58.16 hGxyBn47
秦氏は始皇帝の末裔と言うよりも戦国・中山国→五胡・前秦→百済・近肖古→応神朝
という形で日本に入ってきたサカ族を含むスキタイ族であり、前2000年紀にはエジプト
・小アジア・中近東に跋扈していた騎馬民族と見るべきかもしれない。
百済遼西経略説 近肖古 346-375
URLリンク(en.wikipedia.org)
「五胡十六国時代にDi族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮
半島経由で日本にたどり着いた」
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(en.wikipedia.org)(state)
URLリンク(en.wikipedia.org)(ethnic_group)

471:LUNAMASK
11/06/09 15:51:17.84 7mR7uwNo
応神朝に渡来した秦氏・功満王、融通王(弓月君)の王名は当時の康居、
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(s155239215.onlinehome.us)
後のキプチャク、
URLリンク(ja.wikipedia.org)キプチャク
URLリンク(s155239215.onlinehome.us)
の族名と通じるところが多く、この点からすると秦氏はもはやスキタイではなく
チュルクであったとすべきかもしれない。
この族名は弁辰韓・伽耶の国名とも非常に似ている。

472:LUNAMASK
11/06/09 16:58:10.58 7mR7uwNo
夕月君と言うのはエフタル王のことを指す↓
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(en.wikipedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)

473:LUNAMASK
11/06/09 17:04:22.67 7mR7uwNo
URLリンク(upload.wikimedia.org)
月型を持つエフタル王

474:LUNAMASK
11/06/09 17:11:49.13 7mR7uwNo
エフタル(Ephthal)は、5世紀~6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家。
民族系統はイラン系とする説が有力である。名称は史料によって異なり、インドでは
フーナ(H?na)、シュヴェータ・フーナ (白いフン)、サーサーン朝ではスペード・フヨーン
(白いフン)、ヘテル(Hetel)、ヘプタル(Heptal)、東ローマ帝国ではエフタリテス
(Ephtalites)、アラブではヘイタル(Heital)、アルメニアではヘプタル(Hephtal)、
イダル(Idal)、テダル(Thedal)と呼ばれ[1]、中国史書では??[2](ようたつ)、?
?(さつたつ)[3]、?怛(ゆうたつ)[4]、??(ようてん)[5]などと表記される。また、
「白いフン」に対応する白匈奴の名でも表記される。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

475:LUNAMASK
11/06/10 11:32:29.29 /5nrUOMd
隼人=エフタル(Hayatle)
「エフタルというのは、クシャン帝国を創建した民族の族名は不詳であるが、それとは
異なるトカラ族同様の現地の民族であると言う現地人伝承も存在する。[1959年当時]
私はAlifbek Hiyshalovという44才の現地人Shugnan族で、イスマイリト導師の教育を
受けた人から聞いたことだが、彼は青年時代に読んだ手書き文書にあったとして話し
てくれた。私は幸いにしてその手書き文書の一部で活字になったものを入手したが、
これはTa'rikh Nama-i-Haratという本であった。そこにはヘラト建国伝説があり、
その昔、Hushangの子、Tahmurasiなるものがカンダハル近辺に居住していた自民族
を追い立てたとある。その後、自民族の内5千人はカーブル方向に出発し、そこに住み
ついたが、気候が合わずGur国に移住、その後Aubyeと言うところに移住し、そこで
内紛がおこり戦争にまで進み、一部は高地クシャン(Kushan Olviyan)の地に向かっ
た。残った自民族の統率者はHayatleといった。出国組と残留組の闘争に付いての
記述は省略する。重要なのはこのHayatleが"Haytal"及び"Heptal"であることを認め
ざるを得ないことだ。"Kushan"という地名がこれら事件の発生年代を紀元後2-3世紀
のことであることを示唆するが、この手書き原稿の著者は自らの都市の創建年代を
非常に古い昔のこととしようとしており、これはMusy時代のことでFeridunの子、
Iryedzhの子、Minuchihrをこれら事件の同時代として言及している。」
1959 L.N.Gumilyov 「4世紀エフタル族と近隣」より

476:出土地不明
11/06/10 11:57:29.71 z/CZbzdq
◆断髪(だんぱつ) 【DANPATSU】


倭人が断髪をしていたとは魏志倭人伝には書かれていない。
「倭人の男子は皆、露カイし、木綿を頭に巻いていた」と書かれている。

露カイには多説あり、冠をかぶらない頭、髪を露わに結った頭、みずら、
などと訳されている。



男子皆露? 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
URLリンク(yamatonokuni.seesaa.net)

477:LUNAMASK
11/06/10 12:00:20.45 /5nrUOMd
エフタル族が地下式横穴墓であったという確証は得られていないが、隼人と地下式
横穴墳の
分布が重なり、また、薩摩の土壙墳もヤムナ墳としてカタコーム墳に先行することか
ら、隼人と地下式横穴墓は重なると見てよいと考える。
地下式横穴墓(カタコーム墳)
磨製戦闘石斧埋納文化 デスマスク インドイラン
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(en.wikipedia.org)

478:LUNAMASK
11/06/10 13:05:02.89 /5nrUOMd
春秋時代地域別地図 秦・晋・燕
URLリンク(shibakyumei.web.fc2.com)
河水と汾水の間、狐氏が欽明、河水の西、白狄が坂上氏、周の東方、滑がエフタル、
隼人、發として朝鮮半島を南下(エフタル・月氏は同族か)

479:LUNAMASK
11/06/10 13:14:35.41 /5nrUOMd
欽明の祖は応神朝に山西省より百済経由渡来した白狄出自の晋王族ではないかと
いうこと。

480:LUNAMASK
11/06/10 13:29:40.69 /5nrUOMd
節刀、ふつの御霊、神武まで持たされるが、このフツ、狐突という狐族の先祖
の御霊と解釈できる。日本神話が形成されるのが騎馬民族渡来後なので神武は
遡及して持たされると考えられる。
忠臣は二君(にくん)に事(つか)えず
Hutu 狐突<ことつ>【晋】晋の大夫。前637年没。
伯氏。伯行。狄の狐氏出身。申生派の大夫だが、息子二人は公子重耳に仕えてい
た。懐公に息子達を呼び戻すように命じられたが、従わなかったので殺された。
URLリンク(blog.sina.com.cn)
中国では忠臣の鑑とし、狐神のお宮まである。

481:LUNAMASK
11/06/10 13:35:24.50 /5nrUOMd
狐突廟
URLリンク(blog.sina.com.cn)

482:LUNAMASK
11/06/10 13:44:55.91 /5nrUOMd
伏見稲荷大社・伊奈利社創祀前史
URLリンク(inari.jp)
欽明が中国における狐突廟の慣習を日本に持ち込み、重ねて天皇家の
いやさかを祈ったものと解釈できる。

483:LUNAMASK
11/06/10 15:09:18.59 /5nrUOMd
日本の神社はどこから来たか
Inari shrines 32 000 Fushimi Inari Taisha (Kyoto) 犬戎(狐氏)
--------------------------------------------------------------------
Hachiman shrines 25 000 Usa Hachiman-gu (Oita prefecture, Kyushu),
Iwashimizu Hachiman-gu (Kyoto)  マニ教 ホルムスタ/アフラマズダ
--------------------------------------------------------------------
Shinmei shrines 18 000 Ise Jingu (Mie prefecture) スキタイ 太陽/水の女神
-------------------------------------------------------------------
Tenjin shrines 10500 Dazaifu Tenman-gu (Fukuoka prefecture, Kyushu),
Kitano Tenman-gu (Kyoto) チュルク 天神
-------------------------------------------------------------------
Munakata shrines 8 500 Munakata Taisha (Fukuoka Prefecture, Kyushu),
Itsukushima Shrine (Hiroshima) スキタイ 三女神
-------------------------------------------------------------------
Suwa shrines 5 000 Suwa Taisha (Nagano prefecture) アルタイ クマンディン族
御柱
--------------------------------------------------------------------
Hiyoshi shrines 4 000 Hiyoshi Taisha (Shiga prefecture) 冒頓単于(松尾山王)
大山咋
-------------------------------------------------------------------
Kumano shrines 3 000 Kumano Nachi Taisha (Wakayama prefecture) 素盞嗚命
閻魔
---------------------------------------------------------------------
Tsushima shrines 3 000 Tsushima Shrine (Aichi prefecture) 牛頭天王 閻魔
--------------------------------------------------------------------
Yasaka shrines 3 000 Yasaka Shrine (Kyoto) 牛頭天王 閻魔
URLリンク(en.wikipedia.org)
こうして見ると犬戎天皇がスキタイ、チュルク、アルタイ(閻魔を含む)の神々
を携え渡来してきたのだと言うことがはっきりする。純国産としては塩竃神社
くらいか。

484:LUNAMASK
11/06/10 15:15:53.87 /5nrUOMd
島津の家紋、丸に十文字はマニ教の印で、これは秦氏といいうのがマニ教で
あったことを物語るようだ。おそらく神功皇后にマニ教の洗礼をしたのは百済に
到着していた秦氏達ではなかろうか。

485: 忍法帖【Lv=6,xxxP】 【東電 81.5 %】
11/06/10 16:29:44.89 MVI8Plfv
test

486:出土地不明
11/06/10 23:29:17.05 Ec8YUlLT
◆断髪(だんぱつ) 【DANPATSU】


倭人が断髪をしていたとは魏志倭人伝には書かれていない。
「倭人の男子は皆、露カイし、木綿を頭に巻いていた」と書かれている。

露カイには多説あり、冠をかぶらない頭、髪を露わに結った頭、みずら、
などと訳されている。



男子皆露? 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
URLリンク(yamatonokuni.seesaa.net)

487:出土地不明
11/06/10 23:49:27.50 Ec8YUlLT
◆断髪(だんぱつ) 【DANPATSU】


倭人が断髪をしていたとは魏志倭人伝には書かれていない。
「倭人の男子は皆、露カイし、木綿を頭に巻いていた」と書かれている。

露カイには多説あり、冠をかぶらない頭、髪を露わに結った頭、みずら、
などと訳されている。



男子皆露? 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
URLリンク(yamatonokuni.seesaa.net)

488:出土地不明
11/06/10 23:50:04.32 Ec8YUlLT
◆断髪(だんぱつ) 【DANPATSU】


倭人が断髪をしていたとは魏志倭人伝には書かれていない。
「倭人の男子は皆、露カイし、木綿を頭に巻いていた」と書かれている。

露カイには多説あり、冠をかぶらない頭、髪を露わに結った頭、みずら、
などと訳されている。



男子皆露? 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
URLリンク(yamatonokuni.seesaa.net)

489:出土地不明
11/06/10 23:50:53.29 Ec8YUlLT
◆断髪(だんぱつ) 【DANPATSU】


倭人が断髪をしていたとは魏志倭人伝には書かれていない。
「倭人の男子は皆、露カイし、木綿を頭に巻いていた」と書かれている。

露カイには多説あり、冠をかぶらない頭、髪を露わに結った頭、みずら、
などと訳されている。



男子皆露? 以木緜招頭

URLリンク(www.g-hopper.ne.jp)
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
URLリンク(yamatonokuni.seesaa.net)

490:LUNAMASK
11/06/11 11:28:45.68 7/X/xlmG
説文解字では東穢を古朝鮮の属国、穢邪頭で、穢邪頭はその後高句麗に属したとさ
れるが、この穢邪頭は隼人に通じる。おそらく隼人は穢を経由して九州に入るのであ
ろう。
URLリンク(en.wikipedia.org)
虎をトーテムとすると言うが、ユーラシア全域においてはスキタイ同様、ネコ科猛獣を
トーテムとしていたのだろう。他方、アルタイ・ケト族は熊をキビと呼び、トーテムとする
という。この熊・キビ族は貊族と見られる。


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