12/05/08 20:48:44.88 JzSceYgq0
前田敦子がマスを通じてその存在を輝かせることができる場所は原理的に「AKB48」(的なもの)でしかなかったのでは、という印象を彼女にわたしは感じる。
つまりは、だ。彼女ってどこまでいっても恐ろしいほどに「フツー」なのよ。どの部分においても10人並の才能しかない本当の意味での「普通の人」。
さして美人でもなく、芸能人として秀でた部分はなにひとつなく、ただひたすらに愛想と親しみやすさのある、
クラスに必ずいるくらいの可愛い少女―それが前田敦子ってアイドルだったと。
必ずクラスに4、5人はいるくらいのルックスで、明るさと気さくさが前面に出ていて、表情に暗さやわだかまりといったものがないからちょっと付き合ったりするには一番手ごろな感じ。
でもって、テレビ内で披露される歌や演技の凡庸さ(というか学芸会的なだらしなさ)とそれを恥とも思わないような素人臭さに野郎どもは妙に安心するわけですよ。「あ、これなら、俺にも手に届く」と。
と考えると、前田のAKB48後の迷走も当然の帰結というよりほかない。
いかに非芸能的な佇まいで売れたからといっても、彼女がいる場所はまさしく芸能界。確かに庶民的、親しみやすいというキャラで芸能界を渡るタレントもたくさんいるが、
それはあくまで演技としての庶民であって、本当に「普通の素人」なわけではない。きちんとテレビ番組内での役割や視聴者が今、自分をどう見るかという演者としての視点を彼らは決して失ってはいない。翻って前田は、本当の普通の素人なのだ。
100%非芸能。なぁーーんも、できない。ただ人よりちょっとテレビ慣れしているだけ。歌も演技もバラエティーの立ち回りも満足にこなせず、
努力らしい努力もせず、しかもそれでいてしれっとしている。これでは使うものも使えない。
というか、その素人性ゆえに本来の芸能界では輝くことすらできないアイドル予備軍達が「AKB48」という逆説的な場を与えられることでその場のみで輝いていたのが「AKB48」であったわけなのだから、
こうした前田的な悲劇と壁というのはAKB48出身のタレントはその実、ほとんどのものが大なり小なり体験し、そこを乗り越えたのが今現役のAKB48出身タレントなのだろうと私は思っている。
彼女ももちろん元AKB48がぶつかったその壁にぶつかったのだろう。しかし、彼女はその壁を乗り越えなかった。彼女はクラッシュして、しかし芸能界を退いた元メンバーのようにそこから踵を返すこともせず、
なりもしない女優になるといって、モラトリアムに入ったのだ。 ――そして、そのAKBを見ていた野郎がテレビ局で仕事するようになって、今の前田のテレビ出演へ至るわけだ。
確かに彼女は今でもどこにでもいる「普通の人」なのだろうが、ただ、問題なのは彼女がAKB48時代の記憶を不必要なほどに引きずっているのでは、と思える点が散見されるところなのだ。アイドル時代に
肥大した自我をそのままに抱えてもてあましているのでは、とそう見えて仕方ない。
「昔はあんなに輝いていたのに」
「でも今テレビがこの人使うなんてこれくらいしかありえないし」
「よく考えれば昔も歌は上手くないし、顔もアレだし今考えればなんで人気あったのか不思議だったなぁ」
「でもなんでいまさらしかもこんなテレビに出ているわけ?」
「さぁ、こんな仕事しかやることないんじゃない?」
それにしても――と思わずため息をつきつつ思うのだが、そんなにメディアに出るってことは快感なのだろうか。
メディアは手段ではあるけど、目的ではないと思う人間としては、メディアに出れればオールオッケーというこうした
前田敦子など多くの芸のない芸能人の態度は不思議で仕方ない。何が彼らを駆り立てているのだろうか。
人目につくことというのはそんなに気持ちのいいものなのだろうか。私には永遠にわからない領域である。